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2023年7月

2023年7月28日 (金)

喫茶店いろいろ 1 ー純喫茶ー

 かつて、若い人達の間では喫茶店のことを略して、また気取って「さてん(茶店)」という言い方がありました。昔の「ちゃみせ」「ちゃや」に相当するのでしょう。
 その喫茶店、現在はチェーンの珈琲店が幅を利かせていますが、1970年代頃までは純喫茶をはじめとして、ジャズ喫茶・名曲喫茶・タンゴ喫茶・歌声喫茶・美人喫茶・同伴喫茶・和風喫茶などなど、いろんな喫茶店がありました。そして、今ではインターネットカフェ・メード喫茶・漫画喫茶などと言うのもあるようです。
 そこで気の向くまま、また気ままにいくつかの喫茶店を取り上げてみたいと思います。
 まず、今回は純喫茶です。

Photo_20230727163701


純喫茶

 純喫茶は純粋に喫茶だけの店であって、メニューはコーヒーと紅茶・ジュースといったものが基本で、店によっては軽食・甘い物やフルーツを供しますがアルコール飲料は供しません。
 純喫茶に限りませんがコーヒー豆やその淹れ方(抽出方法)へのこだわりには一家言あるオーナーが少なくありません。

ネルハンドドリップ・・・湯を落とす時間と温度を調節できる
ペーパーフィルター・・・ネルドリップの簡易なもの
サイフォン・・・抽出の過程が見ていて楽しく、あっさりした味わいの旨みが出る
ボイリング・・・挽きたての豆を鍋で炊き出して晒しで濾すスタイルのため、短時間で旨味を引き出すので味が安定する(ホテルやレストランが大人数にサーブするのに適している)
コーヒーアーン・・・これは営業用のドリップ式抽出器具で保温もできる

 また、一般的ではないものにダッチコーヒー(水で抽出する)、ウインナーコーヒー(ホイップした生クリームを浮かせる)、アイリッシュコーヒー(ウイスキーを入れる)、ルシアンコーヒー(ココアを入れる)、ベネディクティンコーヒー(強いリキュールと交互に飲む)などもあります。

 ・・・、「コーヒー? 紅茶? ハーン!! そんな子供騙しみたいなモンを飲むくらいなら、まだビールの方がマシじゃ〜!!!」などと言う奴輩に純喫茶は向きません。そんな輩は不純な喫茶店?にでも行きなはれ。




2023年7月14日 (金)

町(まち)から町(ちょう)へ ー地域構造の変化ー

 現在、京都の旧市内(旧市街地)にある「町(ちょう)」には、道路の片側の家並みだけを単位とする「片側町(かたがわちょう)」の数は極めて少なく、圧倒的に多くの町は1つの道路を挟んだ両側の家並みで構成する「両側町(りょうがわちょう)」です。
 この「両側町」は、室町時代の末期に道路を隔てて向かい合う二つの片側町が合併することで成立したのです。

西側町の仁丹町名表示板
 この「西側町」は数少ない片側町の1つで、元は「西洞院一丁目西側町」と称したが、のちに略して西側町となった。西洞院通を挟んで東側には「東側町」があるが、この両町が合併して両側町とならなかったのは、どのような事情があったのか。ちなみに、寛永期には「西洞院一丁目」とあり、のちに東西二町に分離している。
 この両町の北側には金屋町・八百屋町など、また南側には西洞院町・鍛冶屋町などは、いずれも西洞院通を挟む両側町なのです。
Photo_20230713135801

室町後期の史料に見られる「両側町」の例:
 『上杉本 洛中洛外図屏風』は数ある洛中洛外図の中でも最も優れているとされるもので、京の洛中(市内)と洛外(郊外)の四季、そこに生活する人々の風俗を豪華にそして細かく描いています。
 この洛中洛外図について、国宝上杉家文書『歴代年譜 謙信公』に、「天正二年春三月下旬 織田信長ヨリ使節到来ス 濃彩ノ屏風二雙贈ラル(以下略)」とあり、天正2年(1574)に織田信長から上杉謙信にこの屏風が贈られたことを記録している。この洛中洛外図は、壺型印や画風から描いたのは狩野永徳とされる。
 これは初期洛中洛外図屏風と呼ばれるタイプのもので、上杉家文書の記録にあるように描かれているのは室町時代末期の光景ということになります。

第三扇と第四扇の一部分
 注目すべきは描かれている町並みが両側町であることです。例えば、右隻の第三・四扇には、手前から「油小路とをり・西洞院とをり・町とをり(現・新町通)・室町とをり・烏丸とをり」が描かれていて、その家並みの様子からこの頃には既に両側町が形成されていたことが判ります。ただし、各通りともに家並みの西側はほとんどが金雲で隠されて描写を省略しています。(図が小さくて見辛いですが、PCであれば画像をクリックすると拡大します)
 なお、今では暗渠や埋め立てで消滅していますが、西洞院川と室町川も描かれています。

Img_20230712_0001

 個人のトラブルによる町同士の紛争や、武家と町民の武力紛争による治安の乱れの頻発は、町人の身体・資産の安全を脅かすことになります。そのため、自衛や自治についての関心が高まり、道を隔て向かい合う片側町同士が共同して対応するとともに、さらには町屋の生業保障や資金融資など経済活動を共同して進めるうえでも、両側町の形成は当然の成り行きだったのです。
 そして、いくつかの両側町が集まって結成された自治組織は町組(ちょうぐみ)といわれ、それらの町組が結合して上京・下京の惣町(そうちょう)を形成したのですが、その頃の上京と下京の境界は二条通でした。

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 以上、道路を隔てた片側町同士が合併することで両側町へと変化したのは、室町時代の末期の頃だそうです。
 それでは最後に、それ以前の町(まち)から町(ちょう)への変遷を簡単に見ておきたいと思います。

 古代平安京の条坊制の都市区画は、碁盤目状の街路(大路)の4本によって東西南北の四方を区画された正方形の街区が「坊」で、1つの坊は東西・南北それぞれ3本ずつの街路(小路)により16の「町(まち)」に細分されていました。そして、1つの町は一辺が40丈(約120m)の正方形でした。
 大内裏(宮城)周辺の三条大路の北部には官衙(官庁)や諸司厨町(宿舎)などの町々が集中して存在し、ここは官営による手工業生産や平安京造営に携わる人々の居住区でした。そこから南部にかけては、貴族から庶民まで各層の邸宅や宅地となっていましたが、身分によってその敷地面積は多様でした。
 貴族の邸宅の広さは1町〜数町でしたが、一般庶民の場合は1町の32分の1(15m×30m)の区画、面積約135坪(約450㎡)が与えられました。これは、40丈(約120m)四方の「町(まち)」を縦(南北)4列に区分し、その各列をさらに8分割した区画の1つが一庶民の居住地で、「四行八門制(しぎょうはちもんせい)」と呼ばれる敷地割になっていました。このような区割りであったため、各区画は東西二面のいずれか一方だけに開口部がある「二面町(にめんまち)」でした。

 平安時代も末期の12世紀後半になると「町(まち)」の構造に変化が生じ、町を取り巻く4本の道路それぞれに向かって町屋の口が向く「四面町(しめんまち)」となります。

 13世紀末の鎌倉時代末期になると、四面町は道路に面したそれぞれの一面が一丁として独立して、4つの丁から成る「四丁町(しちょうまち)」、つまり4つの「片側町(かたがわちょう)」が成立します。そしてこれが両側町となる前の形で、都市の基本単位である「町(ちょう)」となったのです。




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