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2023年10月

2023年10月20日 (金)

淀・淀城そして淀川

 京都の北郊から嵐山を経て流れる桂川、三重と奈良を主な水源とする木津川、そして琵琶湖を水源とする宇治川、これら三つの川の合流点であり、またかつて存在した山城盆地中央の南部を占めた広大な巨椋池の下流である「淀」が淀川の起点でした。(現在では三川の合流する京都府と大阪府の境界付近が淀川の起点となっています)
 もっとも、この巨椋池は太平洋戦争の前に食糧増産のため干拓されて水田地帯に変わってしまいましたが、それまでは周囲が約16㎞で面積は8平方㎞もある京都府下の淡水湖では最大の面積でした。

与杼神社の石標
 元の鎮座地は桂川右岸(西岸)の西淀ともいわれた水垂でしたが、明治の淀川改修のため現在地の淀城址に移されました。
 「淀」は古い文献では「與杼」「與等」「與渡」とも記されましたが、平安期以降になって「淀」の文字が使われるようになったようです。

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 平安時代から中世までの巨椋池は、淀川の水量調節機能をも果たす遊水池でした。そして、その西端には淀津が、東岸には宇治津や岡屋津などが設けられていて、近江・大和・丹波・摂津・河内の諸国に通じる水上交通の要所となっていました。
 淀津は諸国からの貢納物がこの「淀」に陸揚げされて、陸路を京の都へ運搬される外港だったのです。陸揚げされた貨物を納めておく倉庫のあったところが「納所(のうそ)」で、これが地名の由来となっています。

 このように、「淀」の地は水運の要所でしたが、一方、山城盆地および摂津・河内平野を抑えるうえで軍事的な要衝地でもあったのです。京都の護りを固めるためにも、また京都を目指して攻め上るうえでもこの地は重要な根拠地とされたのです。

 ところが、近世初めの文禄3年(1598)に豊臣秀吉が伏見山(木幡山)に伏見城を築造したとき、宇治川の流路を巨椋池の東側から北側へと迂回させて、巨椋池西端にあたる納所の西方で桂川と合流するように改修しました。つまり、納所は宇治川と桂川が合流する三角州に位置することになり、そのやや下流で木津川が合流していたのです。
 往時は桂川・宇治川・木津川が合流する一帯の低湿地(現在の桂川右岸で水垂・大下津の一帯は西淀ともいわれた)を「淀」と呼んでいたのです。
 ちなみに、この「淀」の地名由来には二説あるようです。一つは3本の川が寄り合う土地で「よりと(寄処・寄門)」からきているとする説、もう一つがそこを流れる川水が淀んでいる土地とする説です。


淀城本丸付近の石垣

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二つの淀城

 いま、伏見区淀本町に残る城址、これは近世に築城された淀城(新淀城)の跡なのです。しかし、それ以前に中世以来の淀城(旧淀城)が宇治川の北側の納所にあったのです。
 この納所の淀城は天正15年(1587)豊臣秀吉が修築して、側室(幼名は茶々)を住まわせ「淀の者」「淀の女房」と呼ばれ、のちに「淀君」とも呼ばれたことで地名の「淀」は有名になりました。
 この淀城で淀君が鶴松を産んで間もなく共に大阪城に移り、文禄3年(1594)には伏見城が建設されたため、淀城の機能は伏見城に移されました。
 こうして、納所の旧淀城は廃されて、伏見城も関ヶ原の戦いのあと徳川家康によって破却されてしまいます。
 今では旧淀城の城址は全く残っていないため、城の規模・構造・位置いずれも明らかではないのですが、「納所」にあったのは確実だとみられます。
 なぜなら、納所に残る地名の「北城堀」と「南城堀」は旧淀城の堀跡であることを示すと考えられ、「薬師堂」は淀城鎮護のため創建された堂宇の跡と伝承されています。

 それではいま、淀本町に城址の残る新淀城はいつ誰によって築城されたのか。
 豊臣が滅亡して徳川幕府が伏見城を廃城したあと、二代将軍秀忠は京都守護のために松平定綱に入部と新淀城の築城を命じました。こうして、松平定綱は納所の南側を流れる宇治川対岸の淀島に新淀城を築造しましたが、天守など多くの建物は伏見城や二条城から移築して新淀城を完成させたのです。



2023年10月 6日 (金)

梟(フクロウ)

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 この置物、頭に冠羽(羽角)があるのでフクロウではなくミミズクのようです

 運動目的でやっている軽いウォーキング、この数年来は暑さの厳しい夏季の3ヶ月程だけ明け方に歩くことにしていました。
 今年、早朝ウォーキングを始めたのは6月30日で、日の出時刻は4時46分でした。
 そして、10月に入った今頃の日の出はかなり遅くなり6時前で、さすがに早朝は少し肌寒さを感じる程の心地よい季節となってきました。
 日の出の少し前にスタートするのですが、この時間はまだ夜が明け切る前なので東の空は朝焼けで見惚れるほど綺麗です。

 ウォーキングコースとしているのは、それほど高くはない天王山の山裾を通る道です。
 コースそばの深い木立でフクロウの鳴き声を聞くことがあります。フクロウは夜行性の猛禽類ですから、夜間とその前後の薄明の頃に捕食活動をしています。もちろん、姿を見ることは無いのですが、人家にかなり近いところまで降りてきているのです。
 鳴き声は、「ホー、ホー」「ホッホッ」と聞こえます。姿が見えないため「フクロウ」か「ミミズク」なのかは分かりませんが、鳴き声は種類や個体によって異なるのでしょう。
 普通、鳴き声は「ゴロスケ、ホーホー」と表現されることが多いようですが、人によってその聞こえ方も表現も異なると思います。
 鳴き声を日本語に置き換えた表現としては「五郎助奉公」や「ボロ着て奉公」「糊付け干せ」などがあって、「糊付け干せ」については「フクロウの染め物屋」という昔話があるようです。

 ところで、「漂泊の俳人」と称され一所不住・漂泊流転で知られる、種田山頭火(1882〜1940)という自由律の俳人がいます。かつては毀誉褒貶の相半ばする人でしたが、現在では小・中・高校の国語教科書にもその句が載っているほどで、名前を知らないという人は居ないと思われます。
 この山頭火には、フクロウやフクロウの鳴き声を詠み込んだ句が四十数句もあるのです。そして、面白いことにフクロウの鳴き声を「ふるつくふうふう」と表現しています。適当に三句ばかり上げておきます。

 ふるつくふうふう酔ひざめのからだよろめく
 ふるつくふうふうあてなくあるく
 ふるつくふうふういつまでうたう

 突然また話は変わりますが、次は「ミネルバの梟」です。
 哲学者ヘーゲルは著書『法の哲学』の序文で、『ミネルバの梟(フクロウ)は迫りくる黄昏に飛び立つ』という言葉を記しています。
 ローマ神話の女神ミネルバは技術・職人の守護女神で学校と教育をも司り、ギリシャ神話では学問・技芸・知恵・戦争を司るアテナと同じ権能を持つとされます。そして、ミネルバの肩には、従者であるフクロウが止まっていて、そのフクロウは知性や叡智の象徴とされています。
 謎めいた『ミネルバの梟は   云々 』という言葉の意味は、次のように解釈されてきたのではないかと思います。(知らんけど)
 「梟は日が暮れてのち夜になってから活動を始めるように、知性や叡智の象徴であるミネルヴァの梟は、一つの時代が終わって混迷の暗闇となろうとするその時になって、ようやく終わろうとしている時代と世界がどういうものだったのかを人間に教えるために飛び立つのである」



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