新大宮(和泉町通)について
「大成京細見絵図:洛中洛外町々小名」
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かなり以前のことですが、このブログに『消えた大宮通』という記事を3回(2016.10.21〜11.4)にわたってアップしました。
通りの名称に僅かな違いがあるだけの、「元大宮通(旧大宮通とも)」および「大宮通(新大宮とも)という、2本の「大宮通」が近くを平行して存在するのは何故なのか、以前の記事とダブル部分もありますが新しくわかったこともあるので再び取り上げてみました。
現在の大宮通は、北区西賀茂鎧ノ木町(はりのきちょう)から伏見区竹田青池町で油小路通と合流する地点まで通っています。
しかし、平安京の「大宮通」は都が造営された延暦13年(794)に開通したもので、その幅員は 12 丈(約24m)もある大路で、一條大路から九條大路まで通る道路でした。ところが、中世には戦乱のために荒廃してしまいました。
さて時代は下り、関白豊臣秀吉は天平14年(1586)に、平安京大内裏の跡地である内野の北西隅に聚楽第を築造しました。その規模は、南北は出水通から一条通までの約700m、東西が大宮通から浄福寺通までの約400mに及ぶもので、その周囲には諸国の大名の屋敷が立ち並ぶというものでした。現在も多くの町名に秀吉麾下の武将の名前を止めています。
しかし、秀吉はその聚楽第をわずか9年後の文禄4年(1595)に破却してしまいました。そのあと慶長年中にはその跡地は宅地化されてしまったため、現在で「梅雨の井」「堀跡」など僅かの遺構が残るだけです。
平成27年(2015)10月から翌年の1月にかけて京都府教委文化財保護課と京大防災研究所が行なった、地震波の性質を利用した地下の遺構調査によると、聚楽第本丸と内堀の外側には大規模で複雑に折れ曲がった形をした外堀を備えていたらしい、ということが判明したのです。
聚楽第を破却したあとその折れ曲がった外堀のうち、最も東側に突き出した部分を埋め立てて町地としました。元和元年そこに造られた道路で、中立売通から下長者町通の間(和水町と東堀町の一帯)を「和泉町通」と称しました。「和泉町通」の名前の由来は、聚楽第が破却されるまではその園池の清流がそこを経て外堀へ流れていたことによる。
《以下は、冒頭の図版写真と合わせて見てください》
和泉町通の北部にある糸屋町には、幕末まで一條殿屋敷(地図によっては池田滿次郎屋敷=岡山池田藩の私邸とする)があったために、北の一条通手前で行き止まりとなる袋小路であったことから「袋町(フクロ丁)」という別名がありました。
『京都坊目誌』によれば、この袋小路となっていた糸屋町を、明治32年末に北へ開いて一条通に通じる4間幅の道路としました。
このため、それまで一条通と南方の下長者町通との間(糸屋町・和水町・東堀町の一帯)を通して、和泉町通は大宮通の一部となったことで俗に「新大宮通」とも称したのです。
現代の地図を見ると、「大宮通」の一条と下長者との間(糸屋町・和水町・東堀町がある)の東方には、黒門通の西側に「元大宮通」という通りがあります。これは聚楽第の外堀ができたために、その間の「大宮通」が少し東方に移されていたのですが、「新大宮通」ができたことで「元大宮通(旧大宮通とも)と呼称が変わったのです。
*** 追記 ***
《大宮通》や《大宮》については、その名前の起源について惹かれることもあるので、別の機会に改めて記事にしてみようかと思っています。