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2024年2月

2024年2月23日 (金)

新大宮(和泉町通)について

2024024
     「大成京細見絵図:洛中洛外町々小名」
        図絵をクリック(タップ)すると拡大します

 かなり以前のことですが、このブログに『消えた大宮通』という記事を3回(2016.10.21〜11.4)にわたってアップしました。
 通りの名称に僅かな違いがあるだけの、「元大宮通(旧大宮通とも)」および「大宮通(新大宮とも)という、2本の「大宮通」が近くを平行して存在するのは何故なのか、以前の記事とダブル部分もありますが新しくわかったこともあるので再び取り上げてみました。

 現在の大宮通は、北区西賀茂鎧ノ木町(はりのきちょう)から伏見区竹田青池町で油小路通と合流する地点まで通っています。
 しかし、平安京の「大宮通」は都が造営された延暦13年(794)に開通したもので、その幅員は 12 丈(約24m)もある大路で、一條大路から九條大路まで通る道路でした。ところが、中世には戦乱のために荒廃してしまいました。

 さて時代は下り、関白豊臣秀吉は天平14年(1586)に、平安京大内裏の跡地である内野の北西隅に聚楽第を築造しました。その規模は、南北は出水通から一条通までの約700m、東西が大宮通から浄福寺通までの約400mに及ぶもので、その周囲には諸国の大名の屋敷が立ち並ぶというものでした。現在も多くの町名に秀吉麾下の武将の名前を止めています。
 しかし、秀吉はその聚楽第をわずか9年後の文禄4年(1595)に破却してしまいました。そのあと慶長年中にはその跡地は宅地化されてしまったため、現在で「梅雨の井」「堀跡」など僅かの遺構が残るだけです。
 平成27年(2015)10月から翌年の1月にかけて京都府教委文化財保護課と京大防災研究所が行なった、地震波の性質を利用した地下の遺構調査によると、聚楽第本丸と内堀の外側には大規模で複雑に折れ曲がった形をした外堀を備えていたらしい、ということが判明したのです。

 聚楽第を破却したあとその折れ曲がった外堀のうち、最も東側に突き出した部分を埋め立てて町地としました。元和元年そこに造られた道路で、中立売通から下長者町通の間(和水町と東堀町の一帯)を「和泉町通」と称しました。「和泉町通」の名前の由来は、聚楽第が破却されるまではその園池の清流がそこを経て外堀へ流れていたことによる。

《以下は、冒頭の図版写真と合わせて見てください》
 和泉町通の北部にある糸屋町には、幕末まで一條殿屋敷(地図によっては池田滿次郎屋敷=岡山池田藩の私邸とする)があったために、北の一条通手前で行き止まりとなる袋小路であったことから「袋町(フクロ丁)」という別名がありました。
 『京都坊目誌』によれば、この袋小路となっていた糸屋町を、明治32年末に北へ開いて一条通に通じる4間幅の道路としました。
 このため、それまで一条通と南方の下長者町通との間(糸屋町・和水町・東堀町の一帯)を通して、和泉町通は大宮通の一部となったことで俗に「新大宮通」とも称したのです。

 現代の地図を見ると、「大宮通」の一条と下長者との間(糸屋町・和水町・東堀町がある)の東方には、黒門通の西側に「元大宮通」という通りがあります。これは聚楽第の外堀ができたために、その間の「大宮通」が少し東方に移されていたのですが、「新大宮通」ができたことで「元大宮通(旧大宮通とも)と呼称が変わったのです。

*** 追記 ***
 《大宮通》や《大宮》については、その名前の起源について惹かれることもあるので、別の機会に改めて記事にしてみようかと思っています。




2024年2月 9日 (金)

疫神社(蘇民将来社)

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 疫神社は祇園祭で有名な八坂神社の境内摂社の一つで、西楼門の東(本殿の西側)にあります。蘇民将来を祀っていて、疫病を祓う神として崇められています。
 素戔嗚尊(スサノオノミコト)が南海に旅行をされたとき、日が暮れたので道のほとりで一夜の宿を求められた。そうすると蘇民将来(ソミンショウライ)と巨旦将来(コタンショウライ)という兄弟がいて、裕福であった弟の巨旦将来はこの願いを拒絶したが、貧しい兄の蘇民将来は快く尊を迎え入れ粟飯を供してもてなした。
 その後8年を過ぎて素戔嗚尊が8人の御子とともにまた蘇民の家に行き着いたとき、前に一夜の宿を借りた恩に報いようと蘇民に茅の輪を作るように仰られた。そして、近いうちに悪疫が流行るだろうが、その時は蘇民将来の子孫也と言って茅の輪を掛けるとこの災難を逃れることができるだろうと仰った。
 果たして悪疫が流行したとき、尊から忘れられない恨みに思われていた巨旦将来の一家は全滅したが、片や尊を喜ばせた蘇民将来の一家はその恩義を受けて無事であったという。

 疫神社の例祭は1月19日で、7月31日には夏越祭が行われるが社前の鳥居に茅の輪が掛けられ、これを潜るものは悪疫から免れるといい、参詣者には粟餅が授与される。
 疫神社の本社である八坂神社は近代以前は祇園感神院また祇園社と称しましたが、明治維新の神仏分離で今の社名となりました。祭神は素戔嗚尊で、分離令以前の祭神牛頭天王とは同体とされているようです。




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