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仁丹町名表示板

2020年5月29日 (金)

町名の「何で?」 (その2)

 先頃の記事『町名の「何で?」(その1)』では、「*丁目(町目)」という町名は、その町がいくつ目(何番目)の町であるかを意味していると書きました。

 今回は、それならこれは何でなの?と思わせる町名について考えてみました。

 下京区にある「下魚棚通」、この通りは七条通の一筋南にあって、西洞院通と大宮通の間を通っています。通り名称の由来を『京都坊目誌』には、「慶長以来此街に魚鳥市場あり。後ち魚棚に移す。街名のみ之に存す」と記す。「魚棚」と言うのは今の六条通りのことです。

東魚屋町
 この六条通(旧称・魚棚通)に、下魚棚通から魚鳥菜果を賣買する市場が移転してきたという。

Photo_20200521165901
 その下魚棚通の、西堀川通と猪熊通間の北側に「下魚棚四丁目」という町があります。
 ところが、この「下魚棚四丁目」だけがポツンといった感じで存在していて、その周辺に「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」は存在していません。
 『京都坊目誌』を見ると、「下魚棚四丁目 西洞院より四町目に當る。故に名とす。」、つまり西洞院から四つめの町にあたることが町名の由来だとしています。したがって、西洞院通から4丁(約436メートル)の距離に位置する町と云うわけではないのです。

 ちなみに、西洞院通りから西へ順に「大黒町」「土橋町」「八百屋町」と続き、まさに四つめの町が「下魚棚四丁目」でした。
 再びそれらの町名を『京都坊目誌』で見ると、以下のように記していました❗

「大黒町」は、「本町の裏に下魚棚一丁目あり。明治二年三月此に合併す」
「土橋町」は、「本町南裏北側は下魚棚二町目と呼びしが。明治二年三月此に合併す」
「八百屋町」は、「南裏北側は下魚棚三町目と称す。明治二年三月本町に合併す」
 ですから、かつては「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」も実在したのですが、合併によって消滅したのです。そして、それらの町も、やはり西洞院通りから数えて何番目の町というのが、町名の由来だったのです❗❗

 つぎです。
 上京区元誓願寺通千本東入にもポツンと孤立したように、「元四丁目」という町があります。

Photo_20200521171701
 『京町鑑』には「▲元誓願寺四町目」とあり、『京都坊目誌』も「元誓願寺通四丁目也、今略稱を用ゆ。」としています。ということで現在の町名は「元誓願寺(通)」が省略されたのです。
 このケースも、東方にある智恵光院通から四つ目の町であることが、町名の由来となっているのでしょうか?
 そう考えた理由は、元誓願寺通の一筋南の笹屋町通には、智恵光院通に始まり西へ順に「笹屋町一町目」から「笹屋町五町目」までの町があることから、同様のネーミングではと類推したのです。
 ところがうまく行きません💦 『京都坊目誌』には元中之町・今出川町・革堂町の各町は、それぞれ元誓願寺一丁目・元誓願寺二丁目・元誓願寺三丁目から町名を改めたものとの記述は見当たりません。
 また、「元四丁目」は智恵光院通からの距離が250m余りですから、4丁(約436m)の距離に位置しているからということでもありません。
 ということで、「元四丁目」だけが智恵光院通から4番目の町であることをもって町名由来としたのでしょうか。どんなものでしょう❗


2020年5月22日 (金)

町名の「何で?」 (その1)

「町(ちょう)」は「丁」とも書きますが、次の3種類の意味があります。
 ① 距離の単位の「ちょう」 1町(丁)は、60間で約109メートル
 ② 面積の単位の「ちょう」 1町(丁)は、三千坪で約9,917.4平方メートル
 ③ 区画(ブロック)の「ちょう」 行政上の単位区画であり生活共同体

 京都市内の地名「**町(ちょう)」は上記③の「ちょう」ですが、この区画(ブロック)としての「ちょう」について考えてみました。
 京都市の行政の基礎単位である「**町」は、「**ちょう」と呼ばせるものが多く、「**まち」とするのは稀です。
 ちなみに、「**まち」と云う呼称は、新町通や室町通など、通り(街路)の名称に見られます。

 なお、近世以前の地図では町名を記すのに、「**町」ではなく「**丁」とするのが通例だったようです。
 例えば、「鉾の辻」と言われる四条室町界隈の鉾町の町名は、函谷鉾丁・菊水鉾丁・月鉾丁・鶏鉾丁といったように、「町」ではなくて「丁」と表記しています。

 さて、冒頭に書いたように「町」を「丁」とも書くことから、町名には区画(ブロック)の丁なのか、それとも距離の丁を意味するのか、判りにくいため戸惑うものがあります。
 いったい、いずれなのかを町名の由来から考えてみました。

 東山区本町通沿いの町名には、本町通五条下ルの「一丁目」から始まり、南は伏見区との境界の「二十二町目」まであります。
 そして、写真の「十九町目」は、『京都坊目誌』に「五條より十九町目に當る、故に名づく」とあります。したがって、町名は五条通から数えて「19番目の町(ブロック)」を意味していて、「19丁の距離にある町」ではないのです。
 しかし、「19番目の町」だけではその位置がよく判りません。なので、判りやすいように「東福寺南門前下ル」と位置を併記しています。

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 ということで、町名に見られる「*丁目」あるいは「*町目」は、その町がいくつめの区画(ブロック)かを意味しているのです。
 他にもいくつかを例示しておきます。(なお、現在の公称町名の表記は全て「*町目」ではなく「*丁目」としている。)

東山区宮川町通の、宮川筋一丁目~八丁目
 「*町目は四條から起算す。」(『京都坊目誌』)としていて、四条通から南へ順に何番目の町なのかを意味する。

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下京区東中筋通の、天使突抜一丁目~四丁目
 「一町目は松原より一町目なり、二町目以下皆同し。」(『京都坊目誌』)で、天使突抜通(東中筋通)北端の松原通から南へ順に一町目・二町目と続く。

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伏見区の新町通の、新町一丁目〜十四丁目
 宇治川の派流北岸にある柿ノ木浜町の北側が「新町一丁目」で、北へ順に二丁目以下が続く。(『京都市の地名』)

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2020年4月10日 (金)

高瀬川

 高瀬川は鴨川西岸、二条橋すぐ下手で鴨川から別れて流れる幅6〜7mの浅い川です。南流して伏見に至り、宇治川そして淀川を経て大阪湾に流入しています。
 この川は、角倉了以・素庵の父子によって開かれた運河で、慶長16年(1611)に着工して同19年に開通しました。

「高瀬川開鑿者 角倉氏邸址」碑

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 大正9年(1920)までの約310年間、大坂から淀川を経て、また宇治や琵琶湖から宇治川を経由して伏見京橋に着いた物資を、京都まで輸送するのに重要な役割を果たしたのが高瀬川でした。往時の川幅は今よりも約1m程度広かったそうで、伏見との間を物や人を載せた高瀬舟が上下していた。

一之船入

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 ここから下流の四条通までの西岸に櫛のように7ヶ所の船入があったのですが、現存するのはこの一之船入だけです。

高瀬川『拾遺都名所圖会』から)
 *この絵図「高瀬川」と次の「池洲」は、図をクリックすれば拡大します。

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生 洲『都名所圖会』から)

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 一之船入の北に支流を作り魚を放流して販売し、また川魚料理を食べさせる料亭が軒を連ねていました。
 この一帯の町名「西生洲町」「東生洲町」は、これに由来しているのです。

「西生洲町」の仁丹町名表示板

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 ところで話は変わりますが、かつて、高瀬川沿いの木屋町通には市電が走っていました。
 明治28年(1985)4月から7月まで、第四回内国博覧会が岡崎公園で開かれることになりました。この時、会場への足として七条停車場(現・京都駅)」から木屋町二条の間に京都市電「木屋町線」が開通したのです。東京以外の地で初めて開催された内国博覧会で、入場者数は114万人を数えたという。
 平安神宮が造営され、時代祭が始まったのもこの時でした。

 木屋町通、本名・樵木町通(こりきちょうどおり)はそれまで狭い道路だったのですが、電気軌道を敷設するために拡張したのです。
 そして、明治43年にはその軌道敷を拡張するため、高瀬川の幅3尺(約1m)を埋め立てられて、植えられていた柳の街路樹が伐採されたことで、それまでの風趣が失われたと言う。
 昭和元年(1926)以降「河原町線」が開通することで、その市電「木屋町線」も路線区間が順次廃止されて、翌年には木屋町線全線が廃止となりました。
 ちなみに、当時の路線経路は、京都駅前ー七条東洞院ー七条河原町ー木屋町五条ー四条小橋ー木屋町二条というものでした。


2020年3月20日 (金)

町名に六波羅政権を偲ぶ

 「 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」 (『平家物語』第一巻「祇園精舎」より)

 古代以来、政治の実権を握る主体は、平安時代前期までの天皇親政、中期以後の藤原氏による摂関政治(貴族政治)、上皇・法皇による院政を経て、保元・平治の乱以降は平氏の武家政権へと遷り変わっていきました。
 後白河天皇は引退した後も法皇として院政を敷いたのですが、保元・平治の乱以降権勢を延ばした平氏と対立して、平清盛により洛南の鳥羽殿に幽閉され政権は武家へと移っていきました。
 その辺りのことを、慈円(関白藤原忠通の子で青蓮院第三代門主)は『愚管抄』に「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、ムサ(武者)ノ世二ナリニケルナリ」と書いています。

 流刑地の隠岐島から出雲に渡って国府を襲った源義親を、桓武平氏の本流とされる伊勢平氏の平正盛(清盛の祖父)が討ち果たして武名を上げました。これを機に平氏が武士の棟梁として進出してきます。
 そして、白河院の信頼が厚い正盛は、六道珍皇寺寺領の土地を借りて阿弥陀堂(正盛堂とも)を建てます。六波羅堂とも六波羅蜜堂とも称されました。

平氏六波羅第・六波羅探題跡碑

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 正盛の死後、忠盛(清盛の父)に家督は移って、白川院・鳥羽院の信任を得ます。次いで、その子の清盛の代に至って、保元・平治の内乱に勝ち抜き平氏繁栄の全盛期を迎えます。その本拠地が「六波羅」であったことから、平氏政権は六波羅政権とも言われました。

 しかしやがて、平氏は以仁王の令旨に応じて挙兵した木曾義仲(源義仲)をはじめ、諸国の源氏の蜂起によりに敗れ、義仲が京都に入る前に自ら邸宅群を焼き払って都落ちします。
 そして都落ちして後は衰亡の一途を辿って、「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」に敗れ、源平最後の決戦となった「壇ノ浦の合戦」にも敗れて滅亡しました。

 こうして、最初の武家政権である平氏の六波羅政権は滅んで、源氏の武家政権である鎌倉幕府が取って代わりました。六波羅の地には鎌倉幕府の六波羅探題が置かれて、朝廷の監視・市中の警備をおこない、西国の政務や裁判権をも行使することになります。
 ところが、その源氏も元弘3年(1333)多摩川畔の「分倍河原の合戦」で新田義貞の反幕府の軍勢に敗れて滅んでしまいます。

六波羅蜜寺

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 「六波羅」の名称由来は、天暦5年(951)に空也聖人(醍醐天皇の子とも伝わる)によって創建された西光寺、後に六波羅蜜寺と改称された寺名が由来と考えるのが妥当であるように思われるのですが、諸説があるようです。

 また、「六波羅」の範囲についても、諸説があって必ずしも明確では無いのです。
 碓井小三郎『京都坊目誌』は、「六波羅」の範囲について、『山州名跡志』をはじめ諸本の記述を概観したうえで、次のように記しています。
 「(略)諸説大同小異にして、四至判然せず。今以上の諸説と六波羅蜜寺諸傳の舊記とを經とし。實地調査の地形、及字地の名稱等を緯とし、これを製織すれば、其梗概を推知するを得べし。」
 そして、「其審按の結果を記さんに、四至東は北にて六波羅蜜寺を限り 主典ノ辻子に至るとの説あるも同寺と辻子との間は古く寺有地なるを以て除外す。故に採らず。  西は大和大路 古昔大宮大路なり に至り、西一町にして賀茂川に臨む。 今の新古宮川筋は後世川床を埋めたるもの也 南は六條の末にして 今の正面通に當る。閑院内裏時代京師圖に七條までを區域として見取を示せり。之は後世の想像なり依て採らず。北は五條大路 今の松原通 の末に及べり。然して境域の南より東に續き苦集滅道 今の澁谷街道馬町なり に沿ふて松谷若松 小松谷を云ふ に至る。是は附属の第地にして、四至の以外なり。」と記しています。

 また、高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』岩波新書は、六波羅の範囲を次のように記しているので引いておきましょう。ちなみに、著者は平氏政権を最初の「武家政権」であるとし、「六波羅幕府」と呼んだ現代の史家です。
「平家の六波羅は、北は六波羅蜜寺のある五条末、つまり平安京五条大路(現松原通)を京外東方に延長したライン、南は同じく六条末で、南北約500メートルにおよび、東西は現鴨川東岸約100メートルの地点から東に約600メートル以上、積算して「廿余町」の面積がある。
 この空間には一族親類や従者、上京した地方武士の家々が密集して立ちならび、細かく数えれば「家数三千二百余宇」(延慶本『平家物語』)におよぶ。」としています。

 ともあれ、北は松原通から南は六条通東末にかけての一帯には、平氏一門の武将邸宅が建ち並んだが、平氏滅亡の後はそこに源氏の六波羅探題が設けられたようです。
 しかし今では、伝承に基づいて江戸期になってから付けられた町名や通り名にその名残をとどめているだけです。
 例えば、池殿町(清盛の異母弟で池大納言・池殿と呼ばれた頼盛の邸宅跡とされる)、三盛町(清盛・教盛・頼盛の三兄弟の邸宅跡とされる)、門脇町(清盛の異母弟門脇中納言教盛の邸宅跡とされる)、多門町(六波羅邸の総門の跡といわれる)です。

門脇町と多門町の仁丹町名表示板

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 北御門町(六波羅探題は南北の二庁が置かれ、北庁の北門のあったところと言われる)」、北庁の遺址が町地となり北御門・南御門・西御門の三町となったと言い、南御門町は明治元年北御門町と合併した。

 西御門町の仁丹町名表示

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 そして六波羅裏門通、この通りは三盛町・多門町から、東方にかけて興善町・竹村町・小島町の境界となっている主典ノ辻子まで通じています。


2020年2月28日 (金)

下鴨そして下鴨半木町と半木神社

 下鴨は、賀茂川と高野川の合流点から、北方の松ヶ崎・上賀茂にかけての一帯で、両川の扇状地の間に形成された三角地帯に位置します。
 ちなみに、下鴨の西側部分、つまり下鴨本通の西側の地域に仁丹町名表示板が僅かながらが残存しています。

 この下鴨は、大正7年(1918)に京都の第一次町村合併で、朱雀野村など16町村とともに京都市に編入されました。
 元来、賀茂川左岸(東岸)の東側一帯は賀茂川の旧河道でした。普段は水が少ないものの、激しい雨が降ったときには堤防が決壊して水が溢れることの多い土地だったようです。
 この賀茂川東側の地は、大正10年(1921)に制定された「住宅組合法」に基づいて開発されました。
 1910年代以降の人口増加により、下鴨にも「新中間層」の居住地として京都市内から多くの人々が移住しました。住人の特徴としては学者と画家が多かったようで、「下鴨文化村」の通称が広く知られたそうです。

 下鴨本通の東側が賀茂川・高野川の両扇状地の境界にあたり、かつては低湿地であったようでその東側を流れる泉川は、下鴨神社や河合社の境内地である糾森(ただすのもり)を経て高野川に合流しています。

下鴨宮崎町の仁丹
 この下鴨宮崎町には、大正12年(1923)から昭和27年(1952)まで、松竹京都撮影所がありました。しかし、失火によって焼失したため、太秦南堀ヶ内町に移転しました。

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下鴨松ノ木町の仁丹
 高野川は、大正8年(1919)に私人の寄附により河川改修が行なわれ、河川敷だった右岸(西岸)沿いの土地が、住宅地として分譲されたということです。

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 ところで賀茂川の左岸、北大路通の北に京都府立植物園があります。ここは、大正13(1924)年に日本で最初の公立植物園として開園しています。
 この一帯には下鴨半木町・下鴨東半木町・下鴨西半木町という町があります。そして、「半木町」の行政上の読みは「はんぎちょう」です。
 ところが、賀茂川左岸の堤防の上、春には枝垂れ桜の並木となる遊歩道は「半木の道(なからぎの道)」と称されています。
 一体「半木」はどう読むのか悩ましいところです。植物園の中にある上賀茂神社の境外摂社「半木神社」があります。神社の駒札には、「なからぎじんじゃ」と振り仮名をして、流木神社「ながれきじんじゃ」とも云うとしています。

半木神社

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 『山城名跡巡行志』に、「流木ノ神祠 上賀茂の巽七八町 下鴨より上賀茂に到る中間也 中賀茂と稱す 叉半木ノ社奈良ノ社と云ふ 今上鴨に属す」とあって、流木は「ナガレギ」・半木は「ナカラギ」と仮名を振っています。
 『山州名跡志』には、「流木社 鴨に属す 本殿の巽の方七八町許りに在り」として、振り仮名は「ナガレギ」となっています。
 今では植物園内の「半木神社」と「なからぎの森」がその名残りをとどめています。
 ちなみに、『菟芸泥赴』では、「中賀茂 上賀茂にも八町 下賀茂にも八町へだてゝ其中に有 古より半木(ナカラギ)と云ふ大己貴命を祭る社あり 一説流木(ナガシギ)といふ 非なり」としていて、昔からの言い伝えでは、この地に神木が流れ着いたことから「流木ノ社」と言ったとするが、それは間違いだとしています。

 と言うことで、古くは半木神社=なからぎ神社だったようです。
 したがって、この一帯の町名である下鴨半木町・下鴨東半木町・下鴨西半木町の「半木町(はんぎちょう)」、町名は半木神社=なからぎ神社に由来しているため、その読みは「なからぎちょう」であるべきなのでしょうが・・・。(ウーン  難しいなー❗)


2020年2月 7日 (金)

変化する「ことば」と「地名」

 「ことば」は、しばしばその本来の〈音〉や〈字〉が変化してきました。そして「地名」もまた伝承の過程で語音の転訛や、用字の改変を繰り返してきました。

 まず、地名が変化している具体例を『京都坊目誌』から引いてみます。

「小結棚町(こむすびだなちょう)
   新町通の錦小路から四条の間に位置します。

N  
 町名の由来は、小結(こゆい)つまり小結烏帽子を製造する人が製品を棚(店)に陳列販売したことによるとしています。元々の読みは「こゆいだなちょう」だったのです。
 また伝承では、いろんなオモチャを作って店舗でこれを販売し、おんな子どもが店の前に集まってこれを買った、このため俗に呼んで「児居店(こいのたな)」とした。これを「恋の棚(こいのたな)」とも言ったが、これは誤りだとしています。

「西海子町(さいかいしちょう)
   三条通の古川町から東山通西入にかけて位置します。
  (仁丹町名表示板は劣化していますが、なんとか読めます)

Photo_20200125113601  
 西海子は皀莢(さいかち)の仮字であり、本町の南に長田塚がありその塚の上に大きな皀莢の木があったことを町名の由来とする。
 西海子町の南隣には南西海子町がある。また、堀川通上長者町上ルにはズバリ皀莢町があり、由来は同じく皀莢の木。


 ところで、国語学の知識には疎い私には音韻変化などよくは判らないのですが、「ことばの変化の仕方」には、驚くほどに様々なパターンがあるようです。 
 変化の類型を例示してみます。

転 音
 二つの語が複合するとき、元の音が別の音に変化する。
 例:あめ(雨)→あまがさ(雨傘)、さけ(酒)→さかだる(酒樽)
転 訛
 語の本来の音がなまって変化する。あるいは発音し易い音に変化する。
 例:やめておく→やめとく、している→してる
転字・当て字
 同じ音である別の字に変化する。
誤写・誤記  
 写し間違いや書き誤りによって変化する。
音読・訓読に変化
 音読から訓読に、あるいは訓読から音読に変化する。
音便変化
 単語の一部の音が、発音しやすいように元の音とは違う音に変わる現象。
 ex. 撥音便(飛びて→飛んで)、促音便(待ちて→待って)、ウ音便(思ひて→思うて)、イ音便(咲きて→咲いて)
二重母音(母音連続)の回避
 語と語が連続して複合語となるときに、母音が連続することを避けた。
 ex. 「あらいそ(荒磯)」→「荒」の「ラ」から母音[a]を消し去って「ありそ」、同様に「春雨(はるあめ)」→「あめ」の前に[s]を挿入して「はるさめ」とすることで母音が連続するのを避けた。
ハ行転呼音
 語中語尾のハ行音が音韻変化する。
 ex. 近江(あふみ→おーみ)、埴生(はにふ→はにゅー)粟生(あわふ→あおー)
佳好二字化
 和銅6年5月、元明天皇の詔に「畿内七道諸国の郡郷の名は好字を用いよ」とあり、『延喜式』民部式には「凡そ諸国の郷里の名は二字とし、必ず嘉名を取れ」とある。お上の命令で地名を嘉名(めでたい名)・好字(よい字)を選んで、二字で表記とするように強制された。
 これは、単に用字の問題にとどまらず、その地名の元々の意味が失われてしまうことになった。

 ちなみに、地名の変化の例としてよく引かれるものに、「白馬」と「六甲」があります。

 日本アルプスの長野・富山両県境に「白馬岳」という山があります。長野県側の山の雪が溶けて、雪の消えた跡が黒い馬の形になる頃が苗代掻きをおこなう目安とされてきた。(農事暦)
 これは、「代掻き馬」→「代馬(しろうま)」→「白馬(しろうま)」→「はくば」と変化したのです。つまり、短縮・転字・訓読・音読と変化して定着したものです。今では村名も「はくばむら」となってしまいました。

 「六甲(ろっこう)」は、古くは「むこ」と呼ばれて、武庫・務古・牟古・六児・無古などの字が当てられていたという。
 「六甲(むこ)」の字で表記されるようになったのは近世になってからのようで、これが、さらに「ろっこう」と音読するようになった。
 このように、言葉だけではなく地名もまたそうした事情・原因で変化するのです。


 ところで、昭和37年に始まった新住居表示制度や、平成の大合併により大掛かりな町村名の変更が行われたため、全国的に伝統や由緒ある地名の多くが消滅してしまいました。幸い京都市の場合は諸般の事情から変更を免れました。
 地名というのは、単にその土地の場所・位置を表す記号にとどまるものではありません。その土地の歴史・地理・環境を表すいわば文化財なのです。ですから、◯町目◯◯番地などという味わいも面白味も無い単なる記号に変えてしまうような愚を犯してはなりません。



2019年9月 6日 (金)

悪王子と悪王子社

エーっ! 悪王子?
 八坂神社の境内、本殿の東側に悪王子社(摂社)があります。

 悪王子社
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 「悪王子」という名前からは、何となく荒々しく粗暴で不吉な神といったイメージを持ちます。
 実はこの悪王子社、祀られているのは素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒御魂(あらみたま)なのです。
 神の霊魂には、荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)の二つの働きがあるとされていて、荒御魂は荒々しく活動的な作用をすると考えられました。
 古事記や日本書紀によると、素戔嗚尊は出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したことから、「悪王子」の称号を贈られた尊敬される神様だったのです。

 ところで、この悪王子社は、最初に鎮座した地から八坂神社に遷座するまでには、以下のように幾度かの遷座を繰り返しています。


元悪王子町
 悪王子社ははじめ、素戔嗚尊の御魂を祀る八坂神社の摂社として、東洞院通四條下ル(現・元悪王子町)に建立されました。鎮座の年月については詳らかではありません。

 悪王子社小祀
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 『京町鑑』には、「東洞院通」の項に「◯四条下ル  ▲元惡王子町 天正年中まで此町に惡王子社ありしを慶長年中に太閤秀吉公今の寺町四條祇園御旅所に移し給ひし也」と記しています。 
 しかし実際には、四條祇園御旅所に遷る前に、烏丸通五条上ル(現・悪王子町)の地に遷座しています。
 そのため、この東洞院通四條下ルの元鎮座地は「元悪王子町」と呼ばれることとなります。

 元悪王子町の仁丹町名表示板

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 なお、平成10年(1998)この元悪王子町に小祀を設けて分霊が祀られましたが、駒札には悪王子社は「天延2年(974)建立」としています。
 また、この小祀の少し北方の西側には「悪王寺社之址」の石碑が建ち、鎮座の地であったことを示しています。


 悪王子社之址碑
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悪王子町
 次に悪王子社は、天正18年(1590)太閤秀吉の命により、東洞院通四條下ル(元悪王子町)から烏丸通五条上ル(悪王子町)に遷座します。町名は旧称を踏襲しました。
 『京町鑑』には、「烏丸通」の項で「◯萬壽寺下ル  ▲惡王子町 此町いにしへ惡王子社ありし舊地也」と記しています。
 ちなみに、『京都坊目誌』は、この悪王子町について「此地は稲荷神社の氏子なるも、本町のみ八坂神社の神事に加はる、今猶然り、蓋し古例に據るなり。」と記しています。
 つまり、松原通が祇園祭と稲荷祭の境界だったのですが、悪王子社が所在したことから祇園祭の前祭で神輿臨幸の際には、この悪王子町から神供を備える神事に参加していたという。
 かつて昭和30年(1955)までは、祇園祭前祭(下祭)の山鉾は松原通も巡行していました。


祇園御旅所

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 次いで、慶長元年(1596)に四条寺町の祇園御旅所へ遷座します。
 『京都坊目誌』に、「御旅宮本町にあり。今詳ならす。慶長の初め豊臣氏の命に依り。四条旅所内に移る。」とあります。
 『京町鑑』「◯寺町東入 ▲御旅町」の記述によれば、当時の祇園御旅所は四条通を挟んで北側と南側の両方にあったようです。
 そして、『都名所圖会』には、「惡王子社 御旅所北側にあり 祇園會神輿臨幸の時 烏丸通五條の北 惡王子町より古例によって神供を備ふ」としています。


祇園町南側の大和大路東南角
 次に遷座したのは、『京都坊目誌』によると「其後 祇園町大和大路東南角に遷る 年月詳らかならす天明火災後乎」としています。
 いま、お茶屋「一力」のある場所です。一力は、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』にも登場して、祇園でもっとも格式高く由緒あるお茶屋だということです。

八坂神社
 そして最後に、明治10年(1877)、現在のように第二摂社として八坂神社境内に遷座します。(八坂神社本殿の東側にあり西面する)
 『京都坊目誌』には、「明治十年四月。京都府令して。八坂神社境内に遷座し。第二攝社とす。」と記しています。

2019年6月 7日 (金)

突抜 ー社突抜町ー

 竪社通(大宮通の西裏)の、竪社北半町と同南半町との間を西に入って行く道をいう。
 社突抜町を東西に通貫しています。

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社突抜町の仁丹町名表示板

 この表示板、劣化褪色して文字の判読が厳しいですが、近づいてジックリ見ると次のような表記になっています。
 「上京區 大宮通西裏廬山寺上ル二丁目西入 社突抜町」

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 『京町鑑』の「大宮通」では、「▲竪社町 北半町南半町二町にわかる(略)此北半町西入所を㋵社突抜町 叉一名○山椒屋町とも云」としていおり、山椒屋町という別称があったようです。

 社突抜町の町名由来については、『京都坊目誌』は次のように記しています。
「此の近傍  竪社、社、社突抜、社横、仲社、東社等の名稱は皆 七社(ナゝノヤシロ)に對する謂ひなり。突抜とは行當りを意味するなり。」とあって、 それら町名の名称は、七社(ナゝノヤシロ)、つまり櫟谷七野神社に因むのです。

櫟谷七野神社

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 ところで、櫟谷七野神社の社名は、はじめは春日明神を勧請して社地の近傍にある七野の総社として祀ったことによるとされる。
 さて、その七野とは『京羽二重』など多くの地誌で、内野・北野・紫野・上野・萩野(栗栖野)・平野・蓮台野としている。しかし、『京都坊目誌』では一部が異なっており、上野・萩野にかえて柏野・浅野としており諸説があったようです。
 また、「七社(ナゝノヤシロ)」については、『京内まいり』によれば、初めに春日明神が勧請され、後になって勧請された伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の六神とを合わせることで七社としたように記しています。

賀茂斎院跡

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 この櫟谷七野神社から東および南にかけての一帯には、かつて賀茂神社の祭祀に奉仕した未婚の内親王(斎院)の居所である賀茂斎院のあった所で、紫野斎院とも称されたと云う。


2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年5月10日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その5

松ヶ崎

 松ヶ崎は下鴨の北東、高野川の西側に位置します。深泥池の東南、宝ケ池の南になる。
 昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

 松ヶ崎は南に向かって開けた景勝地で、昔からよく和歌に詠まれていた地です。
 平安時代には、朝廷のための氷を製造して貯蔵した松ヶ崎氷室が、宝ケ池の東側にあったとされます。

松ヶ崎東町の仁丹町名表示板

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 平安時代の女流歌人、小馬命婦(こまのみょうぶ、命婦=女官のこと)の家集『小馬命婦集』に、「すさきに松いと(非常に)いたう(甚だしく)たてり、見に行けばちどりみなたちぬ」と前置きを付した一首、「ひとりねを みにこそきつれ 我ならで まつがさきにも 千鳥住みけり」があるそうです。
 この歌により、西から東にかけて起伏する丘陵が岬のように高野川へ突き出た洲崎の一帯に、松林があったことが判る。そして、これが松ヶ崎という地名の由来となったことを窺わせます。

松ヶ崎中町の仁丹町名表示板

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松ヶ崎大黒天

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 正式には松崎山妙円寺と号する日蓮宗立本寺に属するお寺で、江戸初期に建立された。大黒堂に安置されている大黒天は古来福運を授ける神と信じられ、京都七福神巡りの第一番札所とされる。
 ちなみに、七福神信仰は京都が発祥の地で、室町期に始まるそうです。日本最古の七福神めぐりは「都七福神めぐり」ですが、ゑびす神(恵美須神社)・大黒天(松ヶ崎大黒天)・毘沙門天(東寺)・弁財天(六波羅蜜寺)・福禄寿神(赤山禅院)・寿老神(革堂)・布袋尊(萬福寺)の七神を巡ってお参りします。

 松ヶ崎は比叡山の西山麓にあり、宗教的には天台宗の強い土地柄でしたが、永仁2年(1924)日蓮の法孫日像がこの地で布教活動してのち、松ヶ崎一村を挙げて日蓮宗に改宗しました。
 毎年8月16日の夜には、盂蘭盆の精霊送り火が背後の山で焚かれます。
 西山(133m)の「妙」と東山(186m)の「法」、あわせて「妙法」の送り火が点火されるのですが、これは法華信仰と精霊送り火が結びついたもので、江戸時代の初期には行なわれていた行事のようです。

送り火「妙法」の「法」の火床
 「法」の火床の数は75ある。「妙」の方は画数が多いので103床だそうです。
 送り火が近づくと下草を刈って整備されるのですが、今はまだ火床がポツポツと見えるだけです。
 それでも、かすかに「法」の字の形に火床を見ることができます。

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 盂蘭盆会の送り火はこの松ヶ崎の他にも、如意ヶ嶽の「大文字」、西賀茂の「舟」、衣笠大北山の「左大文字」、奥嵯峨の「鳥居」があり、合わせて五山の送り火と言われる。


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