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仁丹町名表示板

2019年3月22日 (金)

突抜 ー御寺内突抜一町目・同二町目ー

  御寺内突抜は、下松屋町通にあって現・突抜一町目(丹波口通から花屋町までの間)と、その南隣の現・突抜二町目(花屋町通から正面通までの間)を通貫していました。

御寺内突抜一町目

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御寺内突抜二町目

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 現・突抜一町目がかつての御寺内突抜一町目(丹波海道一町目)であり、現・突抜二町目はかつての御寺内突抜二町目(丹波海道二町目)でした。

丹波海道町の仁丹町名表示板

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突抜二町目の仁丹町名表示板

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 ちなみに、下松屋町通は「一貫町通」とも称していました。
 しかし、この別称は松原通から丹波口通(旧・丹波海道)までの区間に限っての呼称であって、丹波海道町以南については西本願寺寺内町であったため一貫町通とは呼ばなかったようです。

 その点について『京町鑑』の記述を見ると、
 「◯一貫町通」の項には、「△此通一貫町と名付たる事詳ならず ●此通は松原より南は丹波口下ル所迄の通にて大宮の西の通也  凡北にて松屋町通にあたるゆへこゝに附す」とする。
 また、一貫町通の「◯同五丁目 ▲丹波海道町  此町南の辻丹波海道也  則丹波口と云  但此丹波海道より南は一貫町とは呼ず  其故は是より南は西六條御寺内にて御支配の境有」としている。
 そして、一貫町五町目にあたる丹波街道町の南側を、「◯御寺内突抜一丁目 ▲丹波海道一町目 ◯同南町 ▲二町目」と記しています。

 なお、上記引用文中の「丹波口」は、いわゆる「京七口」の一つで、山陰街道の出入口となっていました。

 また、下松屋町通(通称・一貫町通)の呼称は、その北部が松屋町通にあたることから、南部を下松屋町通と称したとのことです。

2019年2月 1日 (金)

何でなんかなぁ? (2の2)

 承前
 それでは、南北が丸太町通と三条通、東西は寺町通と堀川通、これらの通りをを四囲とする範囲で、飛地のように分かれて存在する町と、それがいくつに分散しているかを挙げておきます。

竹屋町通・・・相生町(2ヶ所)、塀之内町(2ヶ所)、和久屋町(2ヶ所)、魚屋町(2ヶ所)
夷川通・・・・泉町(4ヶ所)、山中町(2ヶ所)、百足屋町(2ヶ所)、木屋町(2ヶ所)
二条通・・・・丁子屋町(2ヶ所)
姉小路通・・・姉大東町(3ヶ所)、木之下町(2ヶ所)
 といったところです。ところが、何故かこの一帯には顕著なかたちで存在するのですが、他の地域では殆ど見かけません。

 見落としがあるかも知れませんが、他の地域でこうした例が目についたのは次の町でした。
高辻通・・・・雁金町(2ヶ所)
万寿寺通
・・・堅田町(4ヶ所)

堅田町の仁丹町名表示板

Photo
 縦町は分断されることなく、横町は分断分散される思わしい理由が思い浮かびません。
 そこで思い切り、というよりも恐ろしく飛躍して考えてみることにしました。

 古代日本では、新しく都を構える場所を選定するにあたっては、地形、風や水の流れ、陰陽五行説など古代中国が起源の世界観を重視していました。
 平安京は北に船岡山(玄武)、東は鴨川(蒼竜)、西が木嶋大路(白虎)、南は巨椋池(朱雀)という風水の四神信仰にかない、都を設けるのに絶好の場所として選定されたのです。

 そして、中国では「天子、南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治を行うとされたことから、平安京では都の北部に大内裏(御所)が置かれました。

【註】「天子、南面す」の出典
『新訂中国古典選1』(朝日新聞社)第1巻『易』本田 済著を参照しました。
その中の『説卦傳』に、次のようにあります。
「聖人南面而聽天下。嚮明而治。」
これを読み下し文にすると、「聖人南面して天下に聴き、明に嚮(むか)いて治む。」
専門家が易しく読み解くと、「聖人が君位に就けば、南に向かって座り天下の政治を聴く。すなわち明るい方向に向かって治める。」となるそうです。


 平安京では大内裏の正門である朱雀門から南に向かって、メインストリートの朱雀大路(現・千本通)が通じていました。
 この朱雀大路は道路幅がなんと28丈(約85メートル)もあったそうです。これに次いで広いのが、朱雀門の前を東西に通っている二條大路などの17丈(約50メートル)ですから、朱雀大路はダントツの規模の道路だったようです。
 そして、朱雀大路の南端(九條大路)には、北端の朱雀門に相対して、平安京の入口・正門である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

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 このように南に向かって開いた平安京でしたから、南北の街路が東西の街路に比べて優位な立場にあり、東西の道路は位負けしたのかも知れません。
 なので、横町は縦町に分断されてしまうこととなった⤵︎。そうだ、そういうことにしておこう(これ、JR東海のCMコピー「そうだ 京都、行こう!」みたいやなー)

2019年1月25日 (金)

何でなんかなぁ? (2の1)

 どうしてそういう奇妙なことになっているのか、気になっていたのです。
 市内の中心部をうろついているとき、時々それを思い出します。けれども、納得のできる説明が思い浮かばなくて、何とももどかしかったのです。

 そんな疑問を感じたわけを簡単に記してみます。

 京都の町(ちょう)は、通り(道路)を挟んで向かい合う家々により、人々の生活単位となる町が成り立っていることが多く、両側町と呼ばれます。もちろん、通りの片側の家々だけで成り立つ町もあって、これは片側町と呼ばれます。
 中・近世を通じ、こうして京の町は形成されてきたようです。

 ところで、地図を眺めていると、南北に通る道路沿いの町(縱町)と東西に通る道路沿いの町(横町)には、奇妙で面白い違いのあることに気がつきます。

 それを、南北に通じる縦通りの新町通を例に引き、これと交差して東西に走る横通りの丸太町通と御池通の間にある町を見てみましょう。
 新町通の、丸太町通と竹屋町通の間に大炊町、竹屋町通と夷川通の間に弁財天町、夷川通と二条通の間に二条新町、二条通と押小路通の間に頭町、押小路通と御池通の間に仲之町があります。そして、それぞれの町が新町通を挟む両側町です。

大炊町の仁丹町名表示板

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 そして、これらの町はことごとく、すっきりと東西に通る道路と道路の間に位置しており、町は通りと通りの間で途切れることはありません。つまり、東西に走る各通りが町と町の境界ともなっているのです。

 これに対して、縱通りの新町通と交差して東西に走る横通りの夷川通を例にとって見てみます。
 そうすると、南北に通る新町通沿いの町のように通りが町の境界となっておらず、町の境界が極めて不規則に見えるのです。
 つまり、南北の縱通りに属する両側町は、それと交差する東西の横通りが町と町の境界となっているのに対して、横通りに属する町はそれに接する縱通りに属する町によって分断された形になっているのです。
 例えば、夷川通には泉町という町は4ヶ所に分かれて存在しています。西洞院と釜座の中程、釜座と新町の中程、新町と衣棚の中程、衣棚と室町の中程に分散して位置しています。

泉町の仁丹町名表示板

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 それでは、このように縱通り沿いにある町は一ヶ所にまとまっていて分断されることが無いにもかかわらず、なぜ、横通り沿いの町の場合はばらばらに分散させられた形となっているのでしょうか。
 これが、始めに書いたように、今に至るも答が判らずにいる疑問なのです。
 縱通りとその通り沿いの町々が、分断されずに済むという優位な位置にいられるのは、何らかの理由があってのことでしょうか。
 一方の横通り沿いの町々は、縱通りの町々とは異なり分断されることに甘んじなければならない劣位な位置にあったのでしょうか。
 縱と横の町の間にそうした優劣があったとすれば、それぞれの町の間は折り合いが悪かったでしょうね。

2019年1月11日 (金)

突抜 ー稲荷町突抜ー

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 「いなり町突抜」は、間之町通の高辻と松原間を云う。
 稲荷町と本燈籠町を南北に通貫しています。

「本燈籠町」の仁丹町名表示板
  
本燈籠町の町名由来については、『京都坊目誌』に「東洞院松原上る燈籠町より本町北側に亘り。之を燈籠堂浄教寺の舊地とす。故に稱す。」とあります。

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 「稲荷町」について『京都市の地名』には、「寛永14年洛中絵図に“いなり町つきぬけ”と記しており寛文後期洛中洛外之絵図に“いなり町”とある。しかし寛文12年(1672)洛中洛外大図には“稲荷町突抜町”とみえ、江戸中期までは両者を併用していたらしい。宝永2年(1705)洛中洛外絵図以後の絵図は、“稲荷町”となるから、17世紀の半ばには現町名に固定したと推察できる。」としています。

 ちなみに、寛文5年(1665)刊の『京雀』には「たかつじさがる  ◯つゞらや町」とあります。

 稲荷町あるいは稲荷町突抜の名称由来は、江戸初期の俳人・歌人・歌学者である松永貞徳が、自身の宅地に勧請した稲荷社(花咲稲荷社)が当町にあることによる。
 なお、稲荷社が花咲稲荷と称されるのは貞徳が花咲亭逍遥軒と号したことによる。

花咲稲荷社

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松永貞徳の花咲亭址

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2018年12月21日 (金)

突抜 ー衣棚突抜町ー

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 衣棚突抜町とは、衣棚通の姉小路通と三條通の間を言う。
 突抜町と衣棚町を南北に通貫しています。

 町名「突抜町」は、いうまでもなく「衣棚突抜町」を略称したものです。

「突抜町」の仁丹町名表示板

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 『京町鑑』はこの突抜の位置を、「◯衣棚通」の「◯姉小路下ル  ▲衣棚突抜町」と記しています。
 なお、衣棚通については「北は下長者町より南三條にて行當 叉松原より下へ五條橋通迄」とあります。

 そして、衣棚通の名称由来は、「此通 古 三條上ル町に袈裟衣商ふ店多く有によって衣店といふ 然るにいつの頃よりか 店を棚に書かへたり 今も三條邊に衣屋あり」と記し、袈裟・法衣を売る店が多かったからとています。

 『京雀』の「◯衣棚突抜通」には、「◯長はま町 南は三條衣のたな也  此南行に突抜  只一町連忍の辻子と云  其南に出れば六角通玉蔵町にて行當也」とする。

*上記引用文中の「連忍の辻子」というのは「了頓の辻子」の別称です。
当ブログで「辻子 ー了頓辻子ー」(2016.2.5)として記事にしています。

2018年12月 7日 (金)

突抜 ー仁王門突抜町ー

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 仁王門突抜は、車屋町通の二条通と押小路通の間をいう。
 仁王門町・仁王門突抜町・西押小路町を南北に通貫しています。

 『京町鑑』はこの突抜の位置を、「◯車屋町通」の「◯二條下ル ▲仁王門突抜町」としています。
 なお、仁王門町・仁王門突抜町の町名由来について、『京都坊目誌』では念仏寺の二王門があったとも、また、今では鴨川東にある頂妙寺がこの地にあった当時、仁王像があったとも云われるが、由来としては信じ難いとしています。

「仁王門町」の仁丹町名表示板

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 なお、車屋町通の通り名由来については、
 『京雀』は、「◯車屋町通 これはつきぬけ也 下 あねがこうじに車借(*ルビは「くるまかし」とある)おほくあるゆへに その町筋の名とす」とあって、車屋町通姉小路にある車屋町を「此町はみな車借の住ける家也」と記しています。
 『京都坊目誌』では、「天正以来。車輛製造の者此街の南に住居せしより名とす」としています。そして「一に車屋町突抜と稱せしと。」記して、「車屋町突抜」という別称があったとしています。

2018年10月19日 (金)

突抜 ー因幡堂突抜通ー

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 『京町鑑』には、「◯不明門通 ◯叉 因幡堂突抜通」とあって、因幡堂突抜通というのは不明門通の別称なのです。
 不明門通(因幡堂突抜通)は車屋町通の南部にあたり、烏丸通から一筋東の通りなのですが、烏丸通の丸太町通と塩小路通の間が明治45年に東側へ拡築されたとき、東本願寺前の部分だけ両方の道が一体となってしまい、不明門通は烏丸通の東側歩道部分と化したのです。

 『京羽二重』は、「松原ゟ南へ七條通まで因幡堂つきぬけとをりとも あかずのもん通共云」とする。
 つまり、因幡堂突抜通の元々は不明門通松原通の因幡堂町から南下して、七条通の真苧屋町まで通貫していました。

「大堀町」の仁丹町名表示板

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 しかし、この不明門通は明治10年に七条通を南へ越え、塩小路通(東塩小路町)まで延長されました。

「東塩小路町」の仁丹町名表示板

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 以上は、稲葉堂突抜通(不明門通)と云う「通り名」について見てきました。

 次に、「因幡堂突抜」という「町名」があったのを『京雀』の記述から見てみます。「五條松原さがる ◯いなば堂のつきぬけ ◯同二町目 五條はし通さがる ◯平野町 (略)」とあります。
 つまり寛文期には、現在の松原通から万寿寺通までを「因幡堂突抜」と云い、万寿寺通から五条通までを「因幡堂突抜二町目」と称していたのです。

 最後に、通りの名称(車屋町通・因幡堂突抜通・不明門通)の由来を地誌書から拾ってみました。
 『京町鑑』は、「◯車屋町通 ◯不明門通(あけずのもんどおり)◯因幡堂突抜通」の項で、通り名の由来を「△此通 いにしへ姉小路邊に牛車屋住居せしゆへ號く  △但 松原より下は不明門通といふ 叉因幡堂突抜通とも云」とする。

 『京都坊目誌』では、車屋町通の名称由来を「車輛製造の者 此街の南に住居せしより名とす。一に車屋町と稱せし」と記しています。
 そして、不明門(あけずのもん)の名称由来については、「松原の北に因幡堂平等寺あり。往昔 正門此街に面す。常に鎖して開かず。街を開くに當り名とす。一に藥師突抜町とも稱す。」と記しています。

2018年9月28日 (金)

辻子 ー菅大臣辻子ー

 仏光寺通西洞院の東方、菅大臣町の北側にある北菅大臣社に通じる小路が菅大臣辻子です。

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 仏光寺通を挟んで北側には北菅大臣神社があり、南側には菅大臣神社があります。
 この2社、元々は菅原道真の屋敷跡で、南北2町東西1町を占める広さだったそうです。それが、鎌倉期になって現在のように南北に分かれたということです。

 ところで『京町鑑』には、綾小路通新町西入「矢田町」の記述の中で「此所北ヘ行所は膏藥辻子也叉南へ行所は㋟管大臣辻子」としています。
ということは、往時の「菅大臣辻子」は、北は綾小路通から南は仏光寺通まで通じていたようにも取れるのですが・・・。

北菅大臣社(紅梅殿の址)

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 北菅大臣神社は紅梅殿また菅原御所と称されました。
 道真が太宰府へ左遷される際に次のような有名な和歌を詠んだのは、この紅梅殿であったと云う。
   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
      あるじなしとて春な忘れそ

 ところで、
 仏光寺通の北側にある北菅大臣神社の祭神は、菅相公と称された菅原是善で、道真の父とされます。
 ところが、『都名所圖會』では「菅大臣の北門前にあり、祭所菅神の御子なり」と記しています。つまり、祭神は道真の父である是善ではなく、道真の子だとしているのです。

 また、『京都坊目誌』では「祭神菅原是善とす、或は云ふ、道眞の子也と。」とあって、祭神は是善とされるが、道真の子だとも云うと記しているのです。

 はてさて、北菅大臣神社の祭神は、道真の父である是善なのか、それとも道真の子なのか。ハッキリしません。これはどう云うわけなのかと首をかしげてしまいます。


菅大臣神社(白梅殿の址)

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 一方、仏光寺通を挟んで南側にある菅大臣神社は、菅原道真を祭神としている。
 ここも、菅原道真の居館跡であって、白梅殿と称された。ここに社殿を造営したのが起り。

 なお、「菅大臣町」の町名由来は、言うまでもなく菅大臣神社があることによる。

「菅大臣町」の仁丹町名表示板

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2018年9月 7日 (金)

辻子 ーかんじょ辻子ー

 「かんじょ辻子」は、上ノ下立売通(現・妙心寺道)の北裏通で、御前通と天神通の間。
 北町、川瀬町、西上之町と仲之町の境界を通貫しています。

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 『京都坊目誌』は、「河瀬町(川瀬町)」について次のように記しています。
 「古昔此町を筑紫町と呼べり。相傳ふ菅神を北野に祀るとき、安樂寺を此邊に移せしより、筑紫の稱ありと云ふ」とあります。

安楽寺天満宮

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 安楽寺は旧北野天満宮別当曼殊院宮の支配であり、太宰府に左遷された菅原道真の死後、道真に付き従っていた人々が帰京して、この地に道真の霊を迎え祀った。 安楽寺天満宮(俗に子規=ホトトギスの天神)とも称された。
 いま、川瀬町の西方、天神通から西へ入った北町に安楽寺天満宮があるが、これは後世の明治に入ってから私的に旧跡保存のため設けられたとのことです。

一ノ保社の址

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 その後、北野神社の神事に奉仕する北野神人といわれる人々は、七ヶ所の御供所(七保)を設けて住んだ。これを北野天満宮御供所七保と云ったようで、安楽寺天満宮はその第一の保でした。
 因に、御供所というのは北野天満宮の供え物を調える所だったということです。

 さて最後に、これは私見であり定かではないのですが。
 「かんじょ辻子」の名前の由来は、菅原道真の霊を太宰府からまずこの地に移し祀ったと伝わることから、「勧請の辻子」が「かんじょ辻子」へと転訛したのではなかろうかと思います。さて、如何なものでしょう。故事つけ(こじつけ)かな?

 次の写真、安楽寺天満宮のある北町の仁丹町名表示板です。

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2018年7月27日 (金)

辻子 ー道正辻子ー

道正辻子

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 道正辻子は新町通寺之内上ル 一筋目を東行して木下町通(衣棚通)までを云う。
 道正町を東西に通貫している。

 辻子の名称について、『京都坊目誌』には「道正庵此町あり故に名とす。維新前は竪道正町上組下組及び道正辻子。叉道正權町と呼ぶ三町たり。明治元年十二月合併して一町となる」とあります。
 ということで、道正庵のあったことが辻子名の由来となっています。

仁丹町名表示板「道正町」

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 この道正庵は道正という人の屋敷ですが、『拾遺都名所圖会』の記述からかいつまんで記してみます。
 「道正伝」によれば、道正の俗姓は片山隆盈(たかみつ)、越前国永平寺の開祖道元和尚に随行して中華(宋)に渡り、和尚とともにあちこちと巡っているとき、隆盈が山中で俄に発病します。そして、今まさに息が絶えようとした時、一人の老翁が忽然として現れ、霊薬を授けたところ忽ちにして病気は癒えた。
 その翁が隆盈に言いました。お前が山野も辞さずに師のお供をするのには感心するので、今用いた薬の製法を授けよう。帰国したら子孫に伝へて人々の病苦を救うべきである、我れは日本三ツの峯稲荷明神なりと云うやいなや姿が見えなくなった。
 帰国して後、道元禅師は深草の里に禅寺を営まれ、隆盈は髮を剃って道正と名乗った。そして道正は三ツの峯稲荷明神を祀って参詣すると、神感があって解毒円の製法を授けられた。
 それ以後、道正の家は三十余代にわたって家名を相続し、家を曹洞宗の寄宿所とし、また解毒円を諸国に広めたと云う。

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