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仁丹町名表示板

2021年8月20日 (金)

京の市場事情 2 ー近 世ー

 時代は変わり、江戸時代になると農耕で牛馬の利用が増え、また二毛作が広まるなど農業生産力が急激に向上します。そして、京の人口増加による青物蔬菜の需要増大とが相俟って、青物の立売市場が大いに発展します。
 それらの青物市場は隣接する魚市場と一体となって、京の人々の食生活を支える大規模な市場となっていきました。

 ちなみに、京の魚市場としては、次のような上・中・下の著名な3カ所の魚棚(うおのたな)がありました。

椹木町通(上の魚棚)

『京町鑑』に、椹木町通を「俗に上魚棚通 此通中頃椹木をあきなふ材木屋多くありし故名とす 又釜座邉魚商ふ家多し故魚棚と云」としている。
『京羽二重』も、「東にてさはら木町通と云 西にて魚の棚通と云」として、所在の諸商人として「新町にし 生肴  八百や」と記す。

東魚屋町(椹木町通)の町名表示板

Photo_20210818170701


 往時は、椹木町通の西洞院通から堀川通までの間に魚市場があり、現在も東魚屋町・西山崎町(かつては西魚屋町が通称か)の町名が残っている。


錦小路通(中の魚棚)

『京町鑑』に、「いつの頃よりにや 魚商ふ店おほく今におゐて住居す仍而 世に中の魚棚とよぶ」として、「麸屋町西入 東魚棚町、柳馬場西入 中魚棚町、高倉西入 西魚屋町」と町名を記している。
 ここも慶長期以来の魚市場があり、魚鳥・菜果をも商った。
 現在も、富小路通と柳馬場通の間に東魚屋町、堺町通と高倉通の間に中魚屋町、その西の東洞院通までに西魚屋町があり、近辺には八百屋町・貝屋町という町名も残っています。


六条通(下の魚棚)

 寛永年間に、下魚棚通にあった魚市場が六条通に移されて盛んに売買されるようになった。
 『京町鑑』は、「此通魚屋多し 故に是を下魚棚といふ」とし、「室町東入 東魚屋町、新町西入 西魚屋町、西洞院西入 北魚屋町」の町名を挙げている。
 こうして、六条通に魚棚通という通称が生じて一般化した。しかし、明治になってからは振るわなくなり、名はあっても実は無くなってしまいました。

東魚屋町(六条通)の町名表示板

Photo_20210818171101
 現在も、室町通東入に東魚屋町、室町通西入に西魚屋町の町名が、また西魚屋町の南側には八百屋町という町名も残っている。

ちなみに、六条通(下の魚棚)に関わることを。
 七条通の一筋南に下魚棚通があって、東は西洞院通から西は大宮通まで通っています。
 ここには、寛永年間に六条通へ移転するまで慶長期以来の魚市場がありました。
 しかし、下魚棚一町目から下魚棚四丁目まであった町名も、現在では「下魚棚四町目」を除いて隣接する町に合併されたために消滅しています。
 なお、この下魚棚通の魚市場に近接して青物市場もあったのですが、その名残りが今も八百屋町・西八百屋町・南八百屋町の町名として残っています。



 

2021年8月13日 (金)

京の市場事情 1 ー古代から中世ー

 平安京には、左京に東市(ひがしのいち)、右京には西市(にしのいち)の2ヶ所の官営の市が設けられていました。
 どちらも四町四方の広さで、その周囲には外町が設けられていたということです。そして、市(いち)の開催日は、1ヶ月のうち前半は東市が、そして後半は西市が開かれて、開催時間は正午に始まって日没前に解散したようです。

 下京区河原町通六条西入本塩竈町にある市比売神社、いまでは縁結び・子授け・女人厄除けなど女性の願い事にご利益があるとされるパワースポットですが、元は延暦14年(795)東西の市に市杵島比売命を勧請したもので市(いち)の守護神でした。

市比賣神社(市姫神社)

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 ところが、平安京の右京域は湿潤な土地柄から、10世紀頃には衰退してしまいます。したがって、右京に設けられていた西市もまたすっかり寂れてしまうのですが、左京の東市の方は繁栄したようです。
 しかし、東・西両市ともに平安京の南端近くに位置したため、また官営の市ということから、やがて平安京社会の実情に合わなくなって衰退してしまいました。

 その頃、官衙(平安宮の役所)に所属して手工業生産に携わていた厨町(くりやまち)の職人・工人は、律令制が衰退して朝廷の権力が弱体化するとともに、その束縛から解放されて独立した手工業者として町尻小路(新町通)の三条・六角・錦小路・四条などに居を構え、東西市に代わって新たな商業経済の中心となっていきました。

 下って、鎌倉・室町の頃になると、市中の商工業者や近在の農民たちが売り物を持ってきて、道端や軒下などで露天商いをしたようです。
 このように店棚を持たないで商いをするのが「立売(たちうり)」で、そうした商い人の集中する通りの名称として、上立売通・中立売通・下立売通の名称が生じ、今に至るまで名をとどめています。『京雀』『京町鑑』などの地誌によれば、初期は絹布巻物類の立ち売り(裁ち売り?)に始まったようで、次第に棚売り(店売り)へと発展していきます。
 これらの通りには立売に因む町名も残っていて、上立売通には上立売町・上立売東町、下立売通には東立売町がある。

 現在では通りの名称としては残っていないのですが、四条通にも麸屋町通から東洞院通の間に、立売東町・立売中之町・立売西町という町名が現存しています。四条立売と総称して、室町時代には百貨売買の重要な市場として繁盛したようですが、『都名所図會』には、「むかし大内裏の時、此所諸品を商ふ市場なり。今毎朝高倉四條の北に野草の市あり、往古の余風歟」とある。

「四條立賣」

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 また、伏見にも桃山町立売という町名が大手筋通の南、第一期の伏見城があった桃山町泰長老の北側に残っています。




2021年5月28日 (金)

えーッ! この町名はなに?

 町名には、その多くにそれぞれ来歴・謂れといったものがあるのが普通です。
 例えば、故事や伝承に由来するもの、職種や職業に由来するもの、寺社(神仏信仰)に因むもの、交通や交易(関所・市)に因むものなどなど。類型あるいは様式があまりにも多岐に渡るため、簡単には仕分け切れないほどの種類の町名があります。もちろん、今となっては来由が不明となってしまったものもありますが。
 そして町名やその由来から受ける、味わいや情趣といったものがあります。

 ところが、中にはそうしたものが全く感じられない、素っ気なく無愛想な町名もあります。
 もっとも、町名というものが、単にある地点・ある地域を表す記号に過ぎないものだとするなら、そうした素っ気ない命名の町名ほど簡単明瞭なものはないだろうと思われます。

 例えば、南北の「通り名」と東西の「通り名」を組み合わせただけの町名が、いわゆる旧市内のそれも中心部の地域に集中して存在します。
 そのような町名は、東は室町通りと西は大宮通の間、北は二条通と南が高辻通の間に多く見られます。

「五坊大宮町」の町名表示板
 「五坊」は「五条坊門小路」の省略形で、現在の仏光寺通に相当します。
 平安時代の街路名の名残ですね。

Photo_20210513152401
 例えば、大宮通にそうした町名を見てみると、御池通から松原通までの間は軒並みことごとく、こうした町名が続いています。
 三坊大宮町・姉大宮町東側・姉大宮町西側・三条大宮町・六角大宮町・四坊大宮町・錦大宮町・四条大宮町・綾大宮町・五坊大宮町・高辻大宮町といった具合です。
 いずれも、それらの町名は「南北の通り」と「東西の通り」が交差する地点の呼称を、町名としているのです。
 もっとも、そんな安直な命名ともいえるような町名であっても、それがどこにある町なのか、位置がは極めて容易に判明するという便利さ・良さはあります。

 ところがそんな、通り名と通り名を組み合わせた町名も、そのままでは長くなってしまう場合には、一部を省略することで短くしています。
 省略の仕方は、先にあげた例で言えば大宮通りと交差している東西の通りの名称を省略しています。例えば、三条坊門大宮町が三坊大宮町に、姉小路大宮町が姉大宮町に、錦小路大宮町が錦大宮町に、綾小路大宮町が綾大宮町に、といったようにです。
 なお、これらの町名で三坊・四坊・五坊というのは、平安期の通り名である三条坊門小路・四条坊門小路・五条坊門小路が略称されたもので、現在の通り名で言えば御池通・蛸薬師通・仏光寺通に相当します。




2021年4月16日 (金)

別の名もあった通り 2 ー大黒町通ー

 大黒町通は、大和大路通の一筋西側を南北に通っている道で、北は松原通から南は七条通に至る道です。
 『京都坊目誌』には、大黒町通の名称由来を「此街壽延寺に大黒天の像を安置す。故に名く。」として、大黒町通松原下ル北御門町にある寿延寺に祀られた大黒天像に因むとしています。

寿延寺

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 『京町鑑』などの地誌によると、その大黒町通には次のように区間によって別の呼称があったようなのです。

大黒町通

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 『京町鑑』では「骨屋町通」についての記述の中で、「但此通五條通より北は大黒町なり」とあるように、五条通から北の松原通までの間を大黒町通と称していたようです。

骨屋町通
 上掲『京町鑑』に、「◯骨屋町通 △此通の南に扇子の骨を製作するもの多く住す故に號す」とし、「⚫︎但此通五條通より北は大黒町なり扨五條下ルより南は大佛正面まで」と記しています。
 つまり、五条通から南の正面通までを骨屋町通と称したのです。この一帯に扇子の骨を製作する者が集住したことが名称の由来だとする。

袋町通
 「袋町」の仁丹町名表示板(写真提供は京都仁丹樂會)

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 『京都坊目誌』には、「大黒町通 (中略)、五條以南にて、袋町通又耳塚通とも称す。正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」とあります。
 なお、この「袋町通」は、大黒町通五条下ルに「袋町」が所在することが名称の由来。なお、往時の袋町へは南から北に向かって入るが、その先で音羽川の流れに阻まれて五条通まで通じていなかったため、袋小路となっていたことから生じた呼称だとする。

浄雲寺
 寺門の正面奥に見える本堂の裏手で音羽川は流路を変えていた。

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音羽川跡の一部(前方の人家の間の細い道)

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本町公園から流路跡の音羽川北通を望む

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【註】音羽川は、現在では流路のほとんどが暗渠になっているため地図に現れていません。近世末の地図や『京都坊目誌』によると、清水寺奥の院にある「音羽の滝」に発して南西に流れ、五条橋東六町目を経て馬町通(現・渋谷通)の北裏沿いを西に流れ、常磐町・鐘鋳町・芳野町・石垣町・袋町の町々の北側を流れて、本町一丁目の東側にある浄雲寺に行き当たると、ここから南に流れを変え本町三丁目と四丁目の境界の辺り(今の本町公園)から通称音羽川北通りを西に向かい鴨川に流入していたようです。

耳塚通
 『京町鑑』は、「此通北は大佛正面通より南は七條通迄」としている。
 耳塚通は大黒町通の正面から南をいうが、通り名の由来は正面通に耳塚が所在するため。

耳 塚

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【註】耳塚は、豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した時(文禄・慶長の役)、討ち取った朝鮮人の耳や鼻を集めて、持ち帰りここに埋めたという。

塗師屋町通
 耳塚通は塗師屋町通ともいう

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 『京都坊目誌』には、耳塚以南については耳塚通りの呼称のほかに、「正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」として、正面通から南つまり耳塚以南を塗師屋町通とも称したとしている。
 髹(きゅう)塗り、つまり漆塗りを業とする者が住んだことからこのように呼んだという。




2020年5月29日 (金)

町名の「何で?」 (その2)

 先頃の記事『町名の「何で?」(その1)』では、「*丁目(町目)」という町名は、その町がいくつ目(何番目)の町であるかを意味していると書きました。

 今回は、それならこれは何でなの?と思わせる町名について考えてみました。

 下京区にある「下魚棚通」、この通りは七条通の一筋南にあって、西洞院通と大宮通の間を通っています。通り名称の由来を『京都坊目誌』には、「慶長以来此街に魚鳥市場あり。後ち魚棚に移す。街名のみ之に存す」と記す。「魚棚」と言うのは今の六条通りのことです。

東魚屋町
 この六条通(旧称・魚棚通)に、下魚棚通から魚鳥菜果を賣買する市場が移転してきたという。

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 その下魚棚通の、西堀川通と猪熊通間の北側に「下魚棚四丁目」という町があります。
 ところが、この「下魚棚四丁目」だけがポツンといった感じで存在していて、その周辺に「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」は存在していません。
 『京都坊目誌』を見ると、「下魚棚四丁目 西洞院より四町目に當る。故に名とす。」、つまり西洞院から四つめの町にあたることが町名の由来だとしています。したがって、西洞院通から4丁(約436メートル)の距離に位置する町と云うわけではないのです。

 ちなみに、西洞院通りから西へ順に「大黒町」「土橋町」「八百屋町」と続き、まさに四つめの町が「下魚棚四丁目」でした。
 再びそれらの町名を『京都坊目誌』で見ると、以下のように記していました❗

「大黒町」は、「本町の裏に下魚棚一丁目あり。明治二年三月此に合併す」
「土橋町」は、「本町南裏北側は下魚棚二町目と呼びしが。明治二年三月此に合併す」
「八百屋町」は、「南裏北側は下魚棚三町目と称す。明治二年三月本町に合併す」
 ですから、かつては「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」も実在したのですが、合併によって消滅したのです。そして、それらの町も、やはり西洞院通りから数えて何番目の町というのが、町名の由来だったのです❗❗

 つぎです。
 上京区元誓願寺通千本東入にもポツンと孤立したように、「元四丁目」という町があります。

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 『京町鑑』には「▲元誓願寺四町目」とあり、『京都坊目誌』も「元誓願寺通四丁目也、今略稱を用ゆ。」としています。ということで現在の町名は「元誓願寺(通)」が省略されたのです。
 このケースも、東方にある智恵光院通から四つ目の町であることが、町名の由来となっているのでしょうか?
 そう考えた理由は、元誓願寺通の一筋南の笹屋町通には、智恵光院通に始まり西へ順に「笹屋町一町目」から「笹屋町五町目」までの町があることから、同様のネーミングではと類推したのです。
 ところがうまく行きません💦 『京都坊目誌』には元中之町・今出川町・革堂町の各町は、それぞれ元誓願寺一丁目・元誓願寺二丁目・元誓願寺三丁目から町名を改めたものとの記述は見当たりません。
 また、「元四丁目」は智恵光院通からの距離が250m余りですから、4丁(約436m)の距離に位置しているからということでもありません。
 ということで、「元四丁目」だけが智恵光院通から4番目の町であることをもって町名由来としたのでしょうか。どんなものでしょう❗


2020年5月22日 (金)

町名の「何で?」 (その1)

「町(ちょう)」は「丁」とも書きますが、次の3種類の意味があります。
 ① 距離の単位の「ちょう」 1町(丁)は、60間で約109メートル
 ② 面積の単位の「ちょう」 1町(丁)は、三千坪で約9,917.4平方メートル
 ③ 区画(ブロック)の「ちょう」 行政上の単位区画であり生活共同体

 京都市内の地名「**町(ちょう)」は上記③の「ちょう」ですが、この区画(ブロック)としての「ちょう」について考えてみました。
 京都市の行政の基礎単位である「**町」は、「**ちょう」と呼ばせるものが多く、「**まち」とするのは稀です。
 ちなみに、「**まち」と云う呼称は、新町通や室町通など、通り(街路)の名称に見られます。

 なお、近世以前の地図では町名を記すのに、「**町」ではなく「**丁」とするのが通例だったようです。
 例えば、「鉾の辻」と言われる四条室町界隈の鉾町の町名は、函谷鉾丁・菊水鉾丁・月鉾丁・鶏鉾丁といったように、「町」ではなくて「丁」と表記しています。

 さて、冒頭に書いたように「町」を「丁」とも書くことから、町名には区画(ブロック)の丁なのか、それとも距離の丁を意味するのか、判りにくいため戸惑うものがあります。
 いったい、いずれなのかを町名の由来から考えてみました。

 東山区本町通沿いの町名には、本町通五条下ルの「一丁目」から始まり、南は伏見区との境界の「二十二町目」まであります。
 そして、写真の「十九町目」は、『京都坊目誌』に「五條より十九町目に當る、故に名づく」とあります。したがって、町名は五条通から数えて「19番目の町(ブロック)」を意味していて、「19丁の距離にある町」ではないのです。
 しかし、「19番目の町」だけではその位置がよく判りません。なので、判りやすいように「東福寺南門前下ル」と位置を併記しています。

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 ということで、町名に見られる「*丁目」あるいは「*町目」は、その町がいくつめの区画(ブロック)かを意味しているのです。
 他にもいくつかを例示しておきます。(なお、現在の公称町名の表記は全て「*町目」ではなく「*丁目」としている。)

東山区宮川町通の、宮川筋一丁目~八丁目
 「*町目は四條から起算す。」(『京都坊目誌』)としていて、四条通から南へ順に何番目の町なのかを意味する。

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下京区東中筋通の、天使突抜一丁目~四丁目
 「一町目は松原より一町目なり、二町目以下皆同し。」(『京都坊目誌』)で、天使突抜通(東中筋通)北端の松原通から南へ順に一町目・二町目と続く。

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伏見区の新町通の、新町一丁目〜十四丁目
 宇治川の派流北岸にある柿ノ木浜町の北側が「新町一丁目」で、北へ順に二丁目以下が続く。(『京都市の地名』)

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2020年4月10日 (金)

高瀬川

 高瀬川は鴨川西岸、二条橋すぐ下手で鴨川から別れて流れる幅6〜7mの浅い川です。南流して伏見に至り、宇治川そして淀川を経て大阪湾に流入しています。
 この川は、角倉了以・素庵の父子によって開かれた運河で、慶長16年(1611)に着工して同19年に開通しました。

「高瀬川開鑿者 角倉氏邸址」碑

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 大正9年(1920)までの約310年間、大坂から淀川を経て、また宇治や琵琶湖から宇治川を経由して伏見京橋に着いた物資を、京都まで輸送するのに重要な役割を果たしたのが高瀬川でした。往時の川幅は今よりも約1m程度広かったそうで、伏見との間を物や人を載せた高瀬舟が上下していた。

一之船入

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 ここから下流の四条通までの西岸に櫛のように7ヶ所の船入があったのですが、現存するのはこの一之船入だけです。

高瀬川『拾遺都名所圖会』から)
 *この絵図「高瀬川」と次の「池洲」は、図をクリックすれば拡大します。

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生 洲『都名所圖会』から)

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 一之船入の北に支流を作り魚を放流して販売し、また川魚料理を食べさせる料亭が軒を連ねていました。
 この一帯の町名「西生洲町」「東生洲町」は、これに由来しているのです。

「西生洲町」の仁丹町名表示板

Photo_20200410082201

 ところで話は変わりますが、かつて、高瀬川沿いの木屋町通には市電が走っていました。
 明治28年(1985)4月から7月まで、第四回内国博覧会が岡崎公園で開かれることになりました。この時、会場への足として七条停車場(現・京都駅)」から木屋町二条の間に京都市電「木屋町線」が開通したのです。東京以外の地で初めて開催された内国博覧会で、入場者数は114万人を数えたという。
 平安神宮が造営され、時代祭が始まったのもこの時でした。

 木屋町通、本名・樵木町通(こりきちょうどおり)はそれまで狭い道路だったのですが、電気軌道を敷設するために拡張したのです。
 そして、明治43年にはその軌道敷を拡張するため、高瀬川の幅3尺(約1m)を埋め立てられて、植えられていた柳の街路樹が伐採されたことで、それまでの風趣が失われたと言う。
 昭和元年(1926)以降「河原町線」が開通することで、その市電「木屋町線」も路線区間が順次廃止されて、翌年には木屋町線全線が廃止となりました。
 ちなみに、当時の路線経路は、京都駅前ー七条東洞院ー七条河原町ー木屋町五条ー四条小橋ー木屋町二条というものでした。


2020年3月20日 (金)

町名に六波羅政権を偲ぶ

 「 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」 (『平家物語』第一巻「祇園精舎」より)

 古代以来、政治の実権を握る主体は、平安時代前期までの天皇親政、中期以後の藤原氏による摂関政治(貴族政治)、上皇・法皇による院政を経て、保元・平治の乱以降は平氏の武家政権へと遷り変わっていきました。
 後白河天皇は引退した後も法皇として院政を敷いたのですが、保元・平治の乱以降権勢を延ばした平氏と対立して、平清盛により洛南の鳥羽殿に幽閉され政権は武家へと移っていきました。
 その辺りのことを、慈円(関白藤原忠通の子で青蓮院第三代門主)は『愚管抄』に「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、ムサ(武者)ノ世二ナリニケルナリ」と書いています。

 流刑地の隠岐島から出雲に渡って国府を襲った源義親を、桓武平氏の本流とされる伊勢平氏の平正盛(清盛の祖父)が討ち果たして武名を上げました。これを機に平氏が武士の棟梁として進出してきます。
 そして、白河院の信頼が厚い正盛は、六道珍皇寺寺領の土地を借りて阿弥陀堂(正盛堂とも)を建てます。六波羅堂とも六波羅蜜堂とも称されました。

平氏六波羅第・六波羅探題跡碑

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 正盛の死後、忠盛(清盛の父)に家督は移って、白川院・鳥羽院の信任を得ます。次いで、その子の清盛の代に至って、保元・平治の内乱に勝ち抜き平氏繁栄の全盛期を迎えます。その本拠地が「六波羅」であったことから、平氏政権は六波羅政権とも言われました。

 しかしやがて、平氏は以仁王の令旨に応じて挙兵した木曾義仲(源義仲)をはじめ、諸国の源氏の蜂起によりに敗れ、義仲が京都に入る前に自ら邸宅群を焼き払って都落ちします。
 そして都落ちして後は衰亡の一途を辿って、「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」に敗れ、源平最後の決戦となった「壇ノ浦の合戦」にも敗れて滅亡しました。

 こうして、最初の武家政権である平氏の六波羅政権は滅んで、源氏の武家政権である鎌倉幕府が取って代わりました。六波羅の地には鎌倉幕府の六波羅探題が置かれて、朝廷の監視・市中の警備をおこない、西国の政務や裁判権をも行使することになります。
 ところが、その源氏も元弘3年(1333)多摩川畔の「分倍河原の合戦」で新田義貞の反幕府の軍勢に敗れて滅んでしまいます。

六波羅蜜寺

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 「六波羅」の名称由来は、天暦5年(951)に空也聖人(醍醐天皇の子とも伝わる)によって創建された西光寺、後に六波羅蜜寺と改称された寺名が由来と考えるのが妥当であるように思われるのですが、諸説があるようです。

 また、「六波羅」の範囲についても、諸説があって必ずしも明確では無いのです。
 碓井小三郎『京都坊目誌』は、「六波羅」の範囲について、『山州名跡志』をはじめ諸本の記述を概観したうえで、次のように記しています。
 「(略)諸説大同小異にして、四至判然せず。今以上の諸説と六波羅蜜寺諸傳の舊記とを經とし。實地調査の地形、及字地の名稱等を緯とし、これを製織すれば、其梗概を推知するを得べし。」
 そして、「其審按の結果を記さんに、四至東は北にて六波羅蜜寺を限り 主典ノ辻子に至るとの説あるも同寺と辻子との間は古く寺有地なるを以て除外す。故に採らず。  西は大和大路 古昔大宮大路なり に至り、西一町にして賀茂川に臨む。 今の新古宮川筋は後世川床を埋めたるもの也 南は六條の末にして 今の正面通に當る。閑院内裏時代京師圖に七條までを區域として見取を示せり。之は後世の想像なり依て採らず。北は五條大路 今の松原通 の末に及べり。然して境域の南より東に續き苦集滅道 今の澁谷街道馬町なり に沿ふて松谷若松 小松谷を云ふ に至る。是は附属の第地にして、四至の以外なり。」と記しています。

 また、高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』岩波新書は、六波羅の範囲を次のように記しているので引いておきましょう。ちなみに、著者は平氏政権を最初の「武家政権」であるとし、「六波羅幕府」と呼んだ現代の史家です。
「平家の六波羅は、北は六波羅蜜寺のある五条末、つまり平安京五条大路(現松原通)を京外東方に延長したライン、南は同じく六条末で、南北約500メートルにおよび、東西は現鴨川東岸約100メートルの地点から東に約600メートル以上、積算して「廿余町」の面積がある。
 この空間には一族親類や従者、上京した地方武士の家々が密集して立ちならび、細かく数えれば「家数三千二百余宇」(延慶本『平家物語』)におよぶ。」としています。

 ともあれ、北は松原通から南は六条通東末にかけての一帯には、平氏一門の武将邸宅が建ち並んだが、平氏滅亡の後はそこに源氏の六波羅探題が設けられたようです。
 しかし今では、伝承に基づいて江戸期になってから付けられた町名や通り名にその名残をとどめているだけです。
 例えば、池殿町(清盛の異母弟で池大納言・池殿と呼ばれた頼盛の邸宅跡とされる)、三盛町(清盛・教盛・頼盛の三兄弟の邸宅跡とされる)、門脇町(清盛の異母弟門脇中納言教盛の邸宅跡とされる)、多門町(六波羅邸の総門の跡といわれる)です。

門脇町と多門町の仁丹町名表示板

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 北御門町(六波羅探題は南北の二庁が置かれ、北庁の北門のあったところと言われる)」、北庁の遺址が町地となり北御門・南御門・西御門の三町となったと言い、南御門町は明治元年北御門町と合併した。

 西御門町の仁丹町名表示

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 そして六波羅裏門通、この通りは三盛町・多門町から、東方にかけて興善町・竹村町・小島町の境界となっている主典ノ辻子まで通じています。


2020年2月28日 (金)

下鴨そして下鴨半木町と半木神社

 下鴨は、賀茂川と高野川の合流点から、北方の松ヶ崎・上賀茂にかけての一帯で、両川の扇状地の間に形成された三角地帯に位置します。
 ちなみに、下鴨の西側部分、つまり下鴨本通の西側の地域に仁丹町名表示板が僅かながらが残存しています。

 この下鴨は、大正7年(1918)に京都の第一次町村合併で、朱雀野村など16町村とともに京都市に編入されました。
 元来、賀茂川左岸(東岸)の東側一帯は賀茂川の旧河道でした。普段は水が少ないものの、激しい雨が降ったときには堤防が決壊して水が溢れることの多い土地だったようです。
 この賀茂川東側の地は、大正10年(1921)に制定された「住宅組合法」に基づいて開発されました。
 1910年代以降の人口増加により、下鴨にも「新中間層」の居住地として京都市内から多くの人々が移住しました。住人の特徴としては学者と画家が多かったようで、「下鴨文化村」の通称が広く知られたそうです。

 下鴨本通の東側が賀茂川・高野川の両扇状地の境界にあたり、かつては低湿地であったようでその東側を流れる泉川は、下鴨神社や河合社の境内地である糾森(ただすのもり)を経て高野川に合流しています。

下鴨宮崎町の仁丹
 この下鴨宮崎町には、大正12年(1923)から昭和27年(1952)まで、松竹京都撮影所がありました。しかし、失火によって焼失したため、太秦南堀ヶ内町に移転しました。

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下鴨松ノ木町の仁丹
 高野川は、大正8年(1919)に私人の寄附により河川改修が行なわれ、河川敷だった右岸(西岸)沿いの土地が、住宅地として分譲されたということです。

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 ところで賀茂川の左岸、北大路通の北に京都府立植物園があります。ここは、大正13(1924)年に日本で最初の公立植物園として開園しています。
 この一帯には下鴨半木町・下鴨東半木町・下鴨西半木町という町があります。そして、「半木町」の行政上の読みは「はんぎちょう」です。
 ところが、賀茂川左岸の堤防の上、春には枝垂れ桜の並木となる遊歩道は「半木の道(なからぎの道)」と称されています。
 一体「半木」はどう読むのか悩ましいところです。植物園の中にある上賀茂神社の境外摂社「半木神社」があります。神社の駒札には、「なからぎじんじゃ」と振り仮名をして、流木神社「ながれきじんじゃ」とも云うとしています。

半木神社

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 『山城名跡巡行志』に、「流木ノ神祠 上賀茂の巽七八町 下鴨より上賀茂に到る中間也 中賀茂と稱す 叉半木ノ社奈良ノ社と云ふ 今上鴨に属す」とあって、流木は「ナガレギ」・半木は「ナカラギ」と仮名を振っています。
 『山州名跡志』には、「流木社 鴨に属す 本殿の巽の方七八町許りに在り」として、振り仮名は「ナガレギ」となっています。
 今では植物園内の「半木神社」と「なからぎの森」がその名残りをとどめています。
 ちなみに、『菟芸泥赴』では、「中賀茂 上賀茂にも八町 下賀茂にも八町へだてゝ其中に有 古より半木(ナカラギ)と云ふ大己貴命を祭る社あり 一説流木(ナガシギ)といふ 非なり」としていて、昔からの言い伝えでは、この地に神木が流れ着いたことから「流木ノ社」と言ったとするが、それは間違いだとしています。

 と言うことで、古くは半木神社=なからぎ神社だったようです。
 したがって、この一帯の町名である下鴨半木町・下鴨東半木町・下鴨西半木町の「半木町(はんぎちょう)」、町名は半木神社=なからぎ神社に由来しているため、その読みは「なからぎちょう」であるべきなのでしょうが・・・。(ウーン  難しいなー❗)


2020年2月 7日 (金)

変化する「ことば」と「地名」

 「ことば」は、しばしばその本来の〈音〉や〈字〉が変化してきました。そして「地名」もまた伝承の過程で語音の転訛や、用字の改変を繰り返してきました。

 まず、地名が変化している具体例を『京都坊目誌』から引いてみます。

「小結棚町(こむすびだなちょう)
   新町通の錦小路から四条の間に位置します。

N  
 町名の由来は、小結(こゆい)つまり小結烏帽子を製造する人が製品を棚(店)に陳列販売したことによるとしています。元々の読みは「こゆいだなちょう」だったのです。
 また伝承では、いろんなオモチャを作って店舗でこれを販売し、おんな子どもが店の前に集まってこれを買った、このため俗に呼んで「児居店(こいのたな)」とした。これを「恋の棚(こいのたな)」とも言ったが、これは誤りだとしています。

「西海子町(さいかいしちょう)
   三条通の古川町から東山通西入にかけて位置します。
  (仁丹町名表示板は劣化していますが、なんとか読めます)

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 西海子は皀莢(さいかち)の仮字であり、本町の南に長田塚がありその塚の上に大きな皀莢の木があったことを町名の由来とする。
 西海子町の南隣には南西海子町がある。また、堀川通上長者町上ルにはズバリ皀莢町があり、由来は同じく皀莢の木。


 ところで、国語学の知識には疎い私には音韻変化などよくは判らないのですが、「ことばの変化の仕方」には、驚くほどに様々なパターンがあるようです。 
 変化の類型を例示してみます。

転 音
 二つの語が複合するとき、元の音が別の音に変化する。
 例:あめ(雨)→あまがさ(雨傘)、さけ(酒)→さかだる(酒樽)
転 訛
 語の本来の音がなまって変化する。あるいは発音し易い音に変化する。
 例:やめておく→やめとく、している→してる
転字・当て字
 同じ音である別の字に変化する。
誤写・誤記  
 写し間違いや書き誤りによって変化する。
音読・訓読に変化
 音読から訓読に、あるいは訓読から音読に変化する。
音便変化
 単語の一部の音が、発音しやすいように元の音とは違う音に変わる現象。
 ex. 撥音便(飛びて→飛んで)、促音便(待ちて→待って)、ウ音便(思ひて→思うて)、イ音便(咲きて→咲いて)
二重母音(母音連続)の回避
 語と語が連続して複合語となるときに、母音が連続することを避けた。
 ex. 「あらいそ(荒磯)」→「荒」の「ラ」から母音[a]を消し去って「ありそ」、同様に「春雨(はるあめ)」→「あめ」の前に[s]を挿入して「はるさめ」とすることで母音が連続するのを避けた。
ハ行転呼音
 語中語尾のハ行音が音韻変化する。
 ex. 近江(あふみ→おーみ)、埴生(はにふ→はにゅー)粟生(あわふ→あおー)
佳好二字化
 和銅6年5月、元明天皇の詔に「畿内七道諸国の郡郷の名は好字を用いよ」とあり、『延喜式』民部式には「凡そ諸国の郷里の名は二字とし、必ず嘉名を取れ」とある。お上の命令で地名を嘉名(めでたい名)・好字(よい字)を選んで、二字で表記とするように強制された。
 これは、単に用字の問題にとどまらず、その地名の元々の意味が失われてしまうことになった。

 ちなみに、地名の変化の例としてよく引かれるものに、「白馬」と「六甲」があります。

 日本アルプスの長野・富山両県境に「白馬岳」という山があります。長野県側の山の雪が溶けて、雪の消えた跡が黒い馬の形になる頃が苗代掻きをおこなう目安とされてきた。(農事暦)
 これは、「代掻き馬」→「代馬(しろうま)」→「白馬(しろうま)」→「はくば」と変化したのです。つまり、短縮・転字・訓読・音読と変化して定着したものです。今では村名も「はくばむら」となってしまいました。

 「六甲(ろっこう)」は、古くは「むこ」と呼ばれて、武庫・務古・牟古・六児・無古などの字が当てられていたという。
 「六甲(むこ)」の字で表記されるようになったのは近世になってからのようで、これが、さらに「ろっこう」と音読するようになった。
 このように、言葉だけではなく地名もまたそうした事情・原因で変化するのです。


 ところで、昭和37年に始まった新住居表示制度や、平成の大合併により大掛かりな町村名の変更が行われたため、全国的に伝統や由緒ある地名の多くが消滅してしまいました。幸い京都市の場合は諸般の事情から変更を免れました。
 地名というのは、単にその土地の場所・位置を表す記号にとどまるものではありません。その土地の歴史・地理・環境を表すいわば文化財なのです。ですから、◯町目◯◯番地などという味わいも面白味も無い単なる記号に変えてしまうような愚を犯してはなりません。



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