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仁丹町名表示板

2018年10月19日 (金)

突抜 ー因幡堂突抜通ー

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 『京町鑑』には、「◯不明門通 ◯叉 因幡堂突抜通」とあって、因幡堂突抜通というのは不明門通の別称なのです。
 不明門通(因幡堂突抜通)は車屋町通の南部にあたり、烏丸通から一筋東の通りなのですが、烏丸通の丸太町通と塩小路通の間が明治45年に東側へ拡築されたとき、東本願寺前の部分だけ両方の道が一体となってしまい、不明門通は烏丸通の東側歩道部分と化したのです。

 『京羽二重』は、「松原ゟ南へ七條通まで因幡堂つきぬけとをりとも あかずのもん通共云」とする。
 つまり、因幡堂突抜通の元々は不明門通松原通の因幡堂町から南下して、七条通の真苧屋町まで通貫していました。

「大堀町」の仁丹町名表示板

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 しかし、この不明門通は明治10年に七条通を南へ越え、塩小路通(東塩小路町)まで延長されました。

「東塩小路町」の仁丹町名表示板

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 以上は、稲葉堂突抜通(不明門通)と云う「通り名」について見てきました。

 次に、「因幡堂突抜」という「町名」があったのを『京雀』の記述から見てみます。「五條松原さがる ◯いなば堂のつきぬけ ◯同二町目 五條はし通さがる ◯平野町 (略)」とあります。
 つまり寛文期には、現在の松原通から万寿寺通までを「因幡堂突抜」と云い、万寿寺通から五条通までを「因幡堂突抜二町目」と称していたのです。

 最後に、通りの名称(車屋町通・因幡堂突抜通・不明門通)の由来を地誌書から拾ってみました。
 『京町鑑』は、「◯車屋町通 ◯不明門通(あけずのもんどおり)◯因幡堂突抜通」の項で、通り名の由来を「△此通 いにしへ姉小路邊に牛車屋住居せしゆへ號く  △但 松原より下は不明門通といふ 叉因幡堂突抜通とも云」とする。

 『京都坊目誌』では、車屋町通の名称由来を「車輛製造の者 此街の南に住居せしより名とす。一に車屋町と稱せし」と記しています。
 そして、不明門(あけずのもん)の名称由来については、「松原の北に因幡堂平等寺あり。往昔 正門此街に面す。常に鎖して開かず。街を開くに當り名とす。一に藥師突抜町とも稱す。」と記しています。

2018年9月28日 (金)

辻子 ー菅大臣辻子ー

 仏光寺通西洞院の東方、菅大臣町の北側にある北菅大臣社に通じる小路が菅大臣辻子です。

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 仏光寺通を挟んで北側には北菅大臣神社があり、南側には菅大臣神社があります。
 この2社、元々は菅原道真の屋敷跡で、南北2町東西1町を占める広さだったそうです。それが、鎌倉期になって現在のように南北に分かれたということです。

 ところで『京町鑑』には、綾小路通新町西入「矢田町」の記述の中で「此所北ヘ行所は膏藥辻子也叉南へ行所は㋟管大臣辻子」としています。
ということは、往時の「菅大臣辻子」は、北は綾小路通から南は仏光寺通まで通じていたようにも取れるのですが・・・。sign02

北菅大臣社(紅梅殿の址)

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 北菅大臣神社は紅梅殿また菅原御所と称されました。
 道真が太宰府へ左遷される際に次のような有名な和歌を詠んだのは、この紅梅殿であったと云う。
   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
      あるじなしとて春な忘れそ

 ところで、
 仏光寺通の北側にある北菅大臣神社の祭神は、菅相公と称された菅原是善で、道真の父とされます。
 ところが、『都名所圖會』では「菅大臣の北門前にあり、祭所菅神の御子なり」と記しています。つまり、祭神は道真の父である是善ではなく、道真の子だとしているのです。

 また、『京都坊目誌』では「祭神菅原是善とす、或は云ふ、道眞の子也と。」とあって、祭神は是善とされるが、道真の子だとも云うと記しているのです。

 はてさて、北菅大臣神社の祭神は、道真の父である是善なのか、それとも道真の子なのか。ハッキリしません。これはどう云うわけなのかと首をかしげてしまいます。


菅大臣神社(白梅殿の址)

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 一方、仏光寺通を挟んで南側にある菅大臣神社は、菅原道真を祭神としている。
 ここも、菅原道真の居館跡であって、白梅殿と称された。ここに社殿を造営したのが起り。

 なお、「菅大臣町」の町名由来は、言うまでもなく菅大臣神社があることによる。

「菅大臣町」の仁丹町名表示板

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2018年9月 7日 (金)

辻子 ーかんじょ辻子ー

 「かんじょ辻子」は、上ノ下立売通(現・妙心寺道)の北裏通で、御前通と天神通の間。
 北町、川瀬町、西上之町と仲之町の境界を通貫しています。

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 『京都坊目誌』は、「河瀬町(川瀬町)」について次のように記しています。
 「古昔此町を筑紫町と呼べり。相傳ふ菅神を北野に祀るとき、安樂寺を此邊に移せしより、筑紫の稱ありと云ふ」とあります。

安楽寺天満宮

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 安楽寺は旧北野天満宮別当曼殊院宮の支配であり、太宰府に左遷された菅原道真の死後、道真に付き従っていた人々が帰京して、この地に道真の霊を迎え祀った。 安楽寺天満宮(俗に子規=ホトトギスの天神)とも称された。
 いま、川瀬町の西方、天神通から西へ入った北町に安楽寺天満宮があるが、これは後世の明治に入ってから私的に旧跡保存のため設けられたとのことです。

一ノ保社の址

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 その後、北野神社の神事に奉仕する北野神人といわれる人々は、七ヶ所の御供所(七保)を設けて住んだ。これを北野天満宮御供所七保と云ったようで、安楽寺天満宮はその第一の保でした。
 因に、御供所というのは北野天満宮の供え物を調える所だったということです。

 さて最後に、これは私見であり定かではないのですが。
 「かんじょ辻子」の名前の由来は、菅原道真の霊を太宰府からまずこの地に移し祀ったと伝わることから、「勧請の辻子」が「かんじょ辻子」へと転訛したのではなかろうかと思います。さて、如何なものでしょう。故事つけ(こじつけ)かな?

 次の写真、安楽寺天満宮のある北町の仁丹町名表示板です。

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2018年7月27日 (金)

辻子 ー道正辻子ー

道正辻子

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 道正辻子は新町通寺之内上ル 一筋目を東行して木下町通(衣棚通)までを云う。
 道正町を東西に通貫している。

 辻子の名称について、『京都坊目誌』には「道正庵此町あり故に名とす。維新前は竪道正町上組下組及び道正辻子。叉道正權町と呼ぶ三町たり。明治元年十二月合併して一町となる」とあります。
 ということで、道正庵のあったことが辻子名の由来となっています。

仁丹町名表示板「道正町」

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 この道正庵は道正という人の屋敷ですが、『拾遺都名所圖会』の記述からかいつまんで記してみます。
 「道正伝」によれば、道正の俗姓は片山隆盈(たかみつ)、越前国永平寺の開祖道元和尚に随行して中華(宋)に渡り、和尚とともにあちこちと巡っているとき、隆盈が山中で俄に発病します。そして、今まさに息が絶えようとした時、一人の老翁が忽然として現れ、霊薬を授けたところ忽ちにして病気は癒えた。
 その翁が隆盈に言いました。お前が山野も辞さずに師のお供をするのには感心するので、今用いた薬の製法を授けよう。帰国したら子孫に伝へて人々の病苦を救うべきである、我れは日本三ツの峯稲荷明神なりと云うやいなや姿が見えなくなった。
 帰国して後、道元禅師は深草の里に禅寺を営まれ、隆盈は髮を剃って道正と名乗った。そして道正は三ツの峯稲荷明神を祀って参詣すると、神感があって解毒円の製法を授けられた。
 それ以後、道正の家は三十余代にわたって家名を相続し、家を曹洞宗の寄宿所とし、また解毒円を諸国に広めたと云う。

2018年6月29日 (金)

辻子 ー寿量辻子ー

 大報恩寺(千本釈迦堂)の東門から東行して、六軒町通を越え千本通に至る東西の小路。
 溝前町、末広町、牡丹鉾町を通貫しています。

寿量辻子

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 上の辻子写真、突き当たりが千本釈迦堂の東門なのですが、現在では防災車両の出入口となっており、普段は鉄扉が閉ざされており行き止まりとなっています。  辻子の名称由来は、この道(寿量辻子)の北側(右側)に寿量寺(廃寺となっている)という寺があったことによります。

 『名所手引京圖鑑綱目』宝暦4年(1754)
日文研データベースから 
 寿量辻子は、釈迦堂本堂の東門から、六軒丁通・寿量寺を経て千本通の大下丁にかけて。(写真をクリックすると少し拡大します)

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 ちなみに、『京都坊目誌』は、「壽量寺 末廣町の内上立賣と五辻との間千本西入北側四十九番戸にあり。日蓮宗妙満寺に屬す。享保15年類焼し。其後再建す。」とあるも、大正年間に廃寺となったようです。

 『京町鑑』の「上立賣通」の項に、「千本西へ入 左官町 此町南側に壽量寺と云日蓮宗の寺有  此西は北野右近馬塲へ出る也」とあります。

 ところで、この引用文中の「上立売通千本西え入」にあるのは「左官町(さくわんちょう)」ではなく、「作あん町(さくあんちょう)ではないかと思いますが、如何なものでしょうか。上記引用図はもちろん、元禄・貞享の頃の『京大絵図』でも花車丁・作庵丁は記されていますが、左官町というのは見当たりません。

 作庵町の仁丹町名表示板


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2017年11月17日 (金)

辻子 −猿屋辻子ー

 辻子に面する、北側の上堀詰町・本町新五町目、南側の下堀詰町・本町五町目との境界となっている小路です。

猿屋辻子

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 『京都坊目誌』の「上堀詰町」項に、「因云 當町より本町通に通ずる小街あり。之を猿屋辻子と字す。」と記しており、この辻子は鞘町通と本町通の間を通っている。

上堀詰町の仁丹町名表示板

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 やはり『京都坊目誌』によれば、この一帯の元は磧地(河原)を開拓して耕地とした所。延宝の頃になってから人家を建て連ね、上・下堀詰町の名が付されたようで、この西側の地は河原田町と云ったが明治2年に堀詰町に合併したと云う。

 また、「鞘町通」は、天正慶長の頃に開けたようで、当時は刀剣の鞘師と柄巻き等の織工が居住したことが通り名の起りとする。

 「本町通」は、五条通の本町一町目を起点として二十二町目を経て、その南は伏見となり橦木町に至る。橦木町のすぐ南は京町通に接続していて、かつての伏見城下の中心に通じていた。このため、伏見街道とも称された。

 

2017年9月29日 (金)

辻子 ー五葉辻子ー

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 五葉辻子は、本町通(伏見街道)の本町十一丁目から、東側にある滝尾神社社頭を東行して、東大路通までの間。
 本町十一丁目・五葉ノ辻町・雀ヶ森町を通貫しています。

滝尾神社本殿

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 五葉辻子はかつての「泉涌寺道」でしたが、現在の泉涌寺道は本町通を少しばかり北に行った所、一橋小学校と本町郵便局の間を東へ向かう道です。
 ちなみに、「本町十一丁目」の町名由来は、本町通の起点である五条通から十一町目に当たるからです。

本町十一丁目の仁丹町名表示板

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 本町通、本町十一町目の北端で本町十丁目との境にある宝樹寺の北側、かつてはここを東から西に今熊野川が流れ、鴨川に流入していたようです。その流路は現在では埋め立てられて細い道となっています。
 明治元年まではここに架かっていた石造の一之橋が、愛宕郡と紀伊郡の郡界となっていました。一之橋は古来有名な橋だったようで、元禄期の俳人宝井其角は「ほととぎす一二の橋の夜明けかな」と吟じています。
 伏見街道(本町通)の十一町目から十八町目までは、かつての法性寺の寺域を通っていたようで、この間に架けられた橋が一之橋・二ノ橋・三之橋と称された。しかし、廃寺となってからは東福寺領となりました。(法性寺は浄土宗西山派に属する寺院だったそうです)

2017年9月 8日 (金)

辻子 ー長光寺辻子ー

 高倉通万寿寺上ル 福田寺町を西行して突き当たりを南行する鉤型の小路が長香寺辻子です。

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 「長光寺辻子」の名称は、現町名の「福田寺町」へ変わる前の呼称で、すぐ北隣の樋之下町にある長香寺に由来します。
 ちなみに、『京町鑑』には万寿寺中之町の「北側に高辻へ出る辻子を  新堀上之町 叉俗に長光寺辻子と云」、樋之下町の「南の方西入所  ㋵福田寺新地上之町  長光寺新地とも云則此町に長光寺と云浄土宗の寺あり」と記しています。

 また、「福田寺町」の由来は、慶長3年の豊国社造営に際して、東山汁谷(現東山区渋谷)からこの地に移転してきた福田寺が町名の由来です。その後さらに移転して、現在では六条通河原町西入に所在します。

福田寺町の仁丹町名表示板
 木製で希少なものです

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2017年8月25日 (金)

儚くも消えた聚楽城 2の2

2. 聚楽第の築かれた場所と規模は?

 聚楽第の四囲・規模と構造については、記録が残っておらず確かなことは判らないため、諸説があるようです。 
 それらは、いずれも北限を一条通とする点ではほぼ共通していますが、その他はばらついています。
  「南北は一條より二條迄 東は堀川 西は内野をかぎりて城地として聚楽と號し給ふ」(『京羽二重織留』)、『雍州府志』も同じ範囲を記す。
  「東は大宮より西は千本迄 北は一條に限り南は春日今いふ丸太町に至る」(『京町鑑』)、『菟芸泥赴』『京都坊目誌』も同じ範囲を記している。
  「一條の南、二條の北にして、東は大宮を限り、西は朱雀通今の千本通なり を堺とす」(『都名所図会』)としています。
  多く残る洛中洛外図屏風からは、外堀を含めると東は大宮通、西は千本通、北は元誓願寺通、南は下立売通を範囲とする見方もあるようです。

松林寺(新出水通智恵光院西入南側)
 松林寺の境内は周辺より低い凹地なっていて、新出水通に面した寺門を入ると、かなり低いところに本堂や墓地がある。これは、聚楽第南外堀である天秤堀の跡だとされています。

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 このように、聚楽第の規模について記述に違いが見られるのは、本丸と内堀以外のどこまでを含めて考えるかで大きな違いが出るようです。つまり、外堀までとするのか、あるいは周囲に設けられた諸大名の屋敷までを含めるのかによって、その範囲は変わってきます。
 聚楽第の周囲、特に東側には諸大名や武家の屋敷が建ち並びました。『京都坊目誌』には、それらの人々の名前に由来するとして伝承される多くの町名が記されており、そうした町名は約25にも上っており、現代の地図でも目にすることができます。

如水町の仁丹町名表示板
 黒田如水(名は官兵衛孝高)の屋敷跡であることが町名の由来とされる。

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 さらに、聚楽第の園池、通用門などの城郭構造、あるいは配下の武士達の組屋敷に由来するとされる町名も約30に上ります。

亀木町の仁丹町名表示板
 聚楽第庭園の池に、木製の噴水用巨亀が設けられていたことが町名の由来とされる。

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 先に見たように、聚楽第の確かな位置と範囲は不明ですが、従来の発掘調査結果では、一条大宮の民家敷地から花崗岩の礎石、智恵光院中立売では金箔を貼った鬼瓦と軒丸瓦そして耳付き茶壺・天目茶碗、丸太町智恵光院付近で金箔軒瓦が発掘されているようです。
 しかし、聚楽第跡と見られる一帯は現在では住宅密集地となっているため、従来から大規模な発掘調査おこなうことは極めて困難だったのです。

梅雨の井
 『京町鑑』には「梅雨の井」の名称由来を、「清水町 此町東側中程人家の裏に井有 梅雨の井とよぶ 昔聚楽御城有し時太閤秀吉公御茶の水にし給ふ 井の深さ一丈餘梅雨の入より水井筒の上ヘ越して外へ流れわたる 因て清水町と云」と、井と町名の由来を記している。
 今では井桁も無くなり、打ち込まれていた手押しの汲み上げポンプは破損しています。

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 ところで、2015年10月〜翌16年1月にかけて、京都府教育委会文化財保護課と京都大学防災研究所が共同して実施した調査では、地面を叩いて発生させた地震波を検知する「表面波探査」と云う手法を、考古学調査に適用しました。
 これは、堀などの地盤の弱い所では、地震波の伝わり方が遅くなる性質を利用することにより、地下の遺構を探るというものだそうです。そして、この方法で道路沿いに44地点約5,400mにわたって探査しました。
 その結果、本丸などの外側、東・西・北の三方に5つの外堀があったとみられ、南側からは検出されなかったというのです。
 この探査結果から、聚楽第の範囲は東西が約760m・南北が約800m以上となって、従来考えられていたよりも約1.6倍に広がる見込みであることから、やはり単なる公邸にとどまるものではなく、天守や外堀を備えた城郭であったとみられるそうです。
 こうしたことから、単なる政庁を兼ねた邸宅といったものではなく、秀次が聚楽第を譲り受けたあとで、軍事拠点としての城郭構築を企図していた可能性が見て取れる結果が出たようなのです。

2017年5月12日 (金)

辻子 ー伊勢殿構ノ辻子ー

 田丸町、東西俵屋町、伊勢殿構町を通貫していたものと考えられる。
 現在の土屋町通中立売から北行して一条通までを云ったものでしょうか。

 ところで、現在の土屋町通、北は一条通から南は竹屋町通まで通じていますすが、昔は非常に短い通りだったようです。
 『京都坊目誌』によれば、土屋町通は元和元年(1615)に開通した通りで、はじめ北は上長者町通から南が下立売通までの短い通りでした。
 宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では「此通上長者町より出水迄二町の間也」と記しているので、この頃には下長者町通から南の出水通まで延長されていたことが判る。
 したがって、伊勢殿構ノ辻子は北に延伸された土屋町通の北端部にあたるようです。

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 『京都坊目誌』「田丸町」の項に、「相伝ふ聚楽城廃城の後、此辺田圃と化し、中に僅少の人煙ありしと。当時田丸町より接続地に伊勢殿構ノ辻子あり、今其字名を称せず。僅かに北側に其址を存せり」としています。

伊勢殿構町の仁丹町名表示板

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 天正期、豊臣秀吉の築いた聚楽城が興隆した頃、伊勢兵部少輔の屋敷に通じていたことから、伊勢殿構ノ辻子と称したようで、伊勢殿構町の町名もこれに由来しています。
 なお、伊勢兵部少輔(伊勢貞昌)は大名ではなく、島津藩の筆頭家老だったと云うことです。

 

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