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仁丹町名表示板

2019年6月 7日 (金)

突抜 ー社突抜町ー

 竪社通(大宮通の西裏)の、竪社北半町と同南半町との間を西に入って行く道をいう。
 社突抜町を東西に通貫しています。

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社突抜町の仁丹町名表示板

 この表示板、劣化褪色して文字の判読が厳しいですが、近づいてジックリ見ると次のような表記になっています。
 「上京區 大宮通西裏廬山寺上ル二丁目西入 社突抜町」

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 『京町鑑』の「大宮通」では、「▲竪社町 北半町南半町二町にわかる(略)此北半町西入所を㋵社突抜町 叉一名○山椒屋町とも云」としていおり、山椒屋町という別称があったようです。

 社突抜町の町名由来については、『京都坊目誌』は次のように記しています。
「此の近傍  竪社、社、社突抜、社横、仲社、東社等の名稱は皆 七社(ナゝノヤシロ)に對する謂ひなり。突抜とは行當りを意味するなり。」とあって、 それら町名の名称は、七社(ナゝノヤシロ)、つまり櫟谷七野神社に因むのです。

櫟谷七野神社

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 ところで、櫟谷七野神社の社名は、はじめは春日明神を勧請して社地の近傍にある七野の総社として祀ったことによるとされる。
 さて、その七野とは『京羽二重』など多くの地誌で、内野・北野・紫野・上野・萩野(栗栖野)・平野・蓮台野としている。しかし、『京都坊目誌』では一部が異なっており、上野・萩野にかえて柏野・浅野としており諸説があったようです。
 また、「七社(ナゝノヤシロ)」については、『京内まいり』によれば、初めに春日明神が勧請され、後になって勧請された伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の六神とを合わせることで七社としたように記しています。

賀茂斎院跡

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 この櫟谷七野神社から東および南にかけての一帯には、かつて賀茂神社の祭祀に奉仕した未婚の内親王(斎院)の居所である賀茂斎院のあった所で、紫野斎院とも称されたと云う。

2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年5月10日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その5

松ヶ崎

 松ヶ崎は下鴨の北東、高野川の西側に位置します。深泥池の東南、宝ケ池の南になる。
 昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

 松ヶ崎は南に向かって開けた景勝地で、昔からよく和歌に詠まれていた地です。
 平安時代には、朝廷のための氷を製造して貯蔵した松ヶ崎氷室が、宝ケ池の東側にあったとされます。

松ヶ崎東町の仁丹町名表示板

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 平安時代の女流歌人、小馬命婦(こまのみょうぶ、命婦=女官のこと)の家集『小馬命婦集』に、「すさきに松いと(非常に)いたう(甚だしく)たてり、見に行けばちどりみなたちぬ」と前置きを付した一首、「ひとりねを みにこそきつれ 我ならで まつがさきにも 千鳥住みけり」があるそうです。
 この歌により、西から東にかけて起伏する丘陵が岬のように高野川へ突き出た洲崎の一帯に、松林があったことが判る。そして、これが松ヶ崎という地名の由来となったことを窺わせます。

松ヶ崎中町の仁丹町名表示板

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松ヶ崎大黒天

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 正式には松崎山妙円寺と号する日蓮宗立本寺に属するお寺で、江戸初期に建立された。大黒堂に安置されている大黒天は古来福運を授ける神と信じられ、京都七福神巡りの第一番札所とされる。
 ちなみに、七福神信仰は京都が発祥の地で、室町期に始まるそうです。日本最古の七福神めぐりは「都七福神めぐり」ですが、ゑびす神(恵美須神社)・大黒天(松ヶ崎大黒天)・毘沙門天(東寺)・弁財天(六波羅蜜寺)・福禄寿神(赤山禅院)・寿老神(革堂)・布袋尊(萬福寺)の七神を巡ってお参りします。

 松ヶ崎は比叡山の西山麓にあり、宗教的には天台宗の強い土地柄でしたが、永仁2年(1924)日蓮の法孫日像がこの地で布教活動してのち、松ヶ崎一村を挙げて日蓮宗に改宗しました。
 毎年8月16日の夜には、盂蘭盆の精霊送り火が背後の山で焚かれます。
 西山(133m)の「妙」と東山(186m)の「法」、あわせて「妙法」の送り火が点火されるのですが、これは法華信仰と精霊送り火が結びついたもので、江戸時代の初期には行なわれていた行事のようです。

送り火「妙法」の「法」の火床
 「法」の火床の数は75ある。「妙」の方は画数が多いので103床だそうです。
 送り火が近づくと下草を刈って整備されるのですが、今はまだ火床がポツポツと見えるだけです。
 それでも、かすかに「法」の字の形に火床を見ることができます。

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 盂蘭盆会の送り火はこの松ヶ崎の他にも、如意ヶ嶽の「大文字」、西賀茂の「舟」、衣笠大北山の「左大文字」、奥嵯峨の「鳥居」があり、合わせて五山の送り火と言われる。



2019年5月 3日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その4

山 端

 高野川の東側にあって高野の北東隣り、上高野の南西隣りに位置する。
 八瀬・大原などの喉元にあたり、昔から若狭街道の要衝の一つでしたが、昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

「山端森本町」「山端川岸町」の仁丹町名表示板

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 『山城名跡巡行志』には、山端について「(略)高野河ノ東ノ端ヲ北ヘ上リ 新田山端 茶店多シ ヲ經テ此所ニ來」とあります。
 また、「山端 村名 松崎ノ東 高野河ノ東ニ在 松崎村出戸 大原街道也 茶店數家」と記しています。

 上記の引用文にあるように、山端は高野川挟んで東側にあるのですが、元は松ヶ崎の出戸(飛地)だったようです。
 そして山端には、大原街道(若狭街道)を往来する旅人のための茶店が多かったようです。

山 端(『拾遺都名所圖会』から)
 絵図右上の説明書きは、「山端  光武帝は麦飯を以て飢を凌ぎ、後漢の社稷を剏め給ひけり。ここも麦飯を名物とす。是もかの目出度ためしによる物ならんか。」とあります。
 (図にカーソルを置いてクリックすると画像が拡大できます)

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平八茶屋
 麦飯とろろ膳が名物です

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 そうしたかつての茶店の一つで現存するのが、天正年間の創業という平八茶屋なのでしょう。
 また、廃業してしまったのですが、鯰料理で知られた十一屋も江戸時代寛永年間の創業ということで、そうした茶店の一軒だったようです。

 「山端」の名称由来は、松ヶ崎の東山が東に向けて高野川に突き出た所、山の端に位置するところから来ているようで、「山鼻」「山嘴」とも記したようです。
 『山州名跡志』には次のようにあります。「山端 松崎ノ東北ニ在リ 民家有リ 此所松崎山ノ東ノ崎ナリ」




2019年4月26日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その3

高 野

 西は高野川、北部から東部にかけて一乗寺・北白川、南部は田中に接している。
 明治22年(1889)田中村に属していたが、大正7年(1918)高野として京都市左京区に編入されました。

 元々、この地は暴雨のときには高野川が溢れる荒れ野でした。近世になってから、高野川に堤と道路を設け、荒地が開拓されて「高野河原新田」(新田村)が開かれたのです。
 しかし、始めの頃は高野川の水害常習地で田が荒廃するために石高を付けることができず、年ごとに収穫量を検査する検見取(けみとり)と言う方法で年貢額が決められたということです。

「高野玉岡町」の仁丹町名表示版

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 近代の明治41年(1908)になって、高野東開町に鐘淵紡績(のちのカネボウ)の京都工場が開設・操業開始されたことで、ここは急速に都市化が進んだという。
 工場は昭和50年(1975)に閉鎖されて、跡地一帯は日本住宅公団の東大路高野第三住宅となったのですが、今に残る当時の施設(ボイラー室)が現在は集会所兼管理事務所として使われています。

元・鐘ケ淵紡績京都工場の残存施設
 集会所・管理事務所(元鐘紡のボイラー室)

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 次の2点は外壁が残されている

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2019年4月19日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その2

田 中

 田中は高野川の最下流、賀茂川との合流点東岸に位置していて、北は高野・一乗寺、東は北白川、南は吉田に接しています。
 大正7年(1918)、田中村は京都市左京区に編入されました。

「田中関田町」の仁丹町名表示板

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 田中関田町の北東部(今出川通鞠小路西入)には、かつて住友家が所有し、現在ではそれを譲り受けた京都大学が所有する広大な「清風荘庭園」があります。
 ところがこの庭園、残念なことに一般への公開はされていません。

清風荘庭園

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 觀音開き門扉の透かし彫り部分から覗いてみました。

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 重要文化財に指定された建造物と日本庭園、江戸時代には公家の徳大寺家別荘「清風館」でした。 
 明治になって住友家に譲渡されたのですが、この徳大寺家に生まれのちに西園寺家を継いだのが、明治・大正・昭和の政治家で「最後の元老」といわれた西園寺公望です。
 清風館は邸内を拡張整備して名を「清風荘」と改めて、西園寺公望の京都における別荘としたものです。
 ちなみに、明治24年(1891)5月の大津事件で、襲撃に遭って負傷したロシアの皇太子(のちのニコライ二世)が静養したのがこの清風荘だったそうです。


田中神社(田中西樋ノ口町)

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 室町時代、応仁・文明の乱の頃、田中村産土神の田中神社とその周辺は、田中郷の自衛のために「田中構(たなかがまえ)」という環濠集落が築かれた。その遺構は明治の頃まで残っていたそうです。

田中神社の孔雀神籤
 お神籤とともに折り紙で折られた孔雀が卵形ケースに入っています。

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 本物の孔雀も飼育されていました。

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2019年3月22日 (金)

突抜 ー御寺内突抜一町目・同二町目ー

  御寺内突抜は、下松屋町通にあって現・突抜一町目(丹波口通から花屋町までの間)と、その南隣の現・突抜二町目(花屋町通から正面通までの間)を通貫していました。

御寺内突抜一町目

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御寺内突抜二町目

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 現・突抜一町目がかつての御寺内突抜一町目(丹波海道一町目)であり、現・突抜二町目はかつての御寺内突抜二町目(丹波海道二町目)でした。

丹波海道町の仁丹町名表示板

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突抜二町目の仁丹町名表示板

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 ちなみに、下松屋町通は「一貫町通」とも称していました。
 しかし、この別称は松原通から丹波口通(旧・丹波海道)までの区間に限っての呼称であって、丹波海道町以南については西本願寺寺内町であったため一貫町通とは呼ばなかったようです。

 その点について『京町鑑』の記述を見ると、
 「◯一貫町通」の項には、「△此通一貫町と名付たる事詳ならず ●此通は松原より南は丹波口下ル所迄の通にて大宮の西の通也  凡北にて松屋町通にあたるゆへこゝに附す」とする。
 また、一貫町通の「◯同五丁目 ▲丹波海道町  此町南の辻丹波海道也  則丹波口と云  但此丹波海道より南は一貫町とは呼ず  其故は是より南は西六條御寺内にて御支配の境有」としている。
 そして、一貫町五町目にあたる丹波街道町の南側を、「◯御寺内突抜一丁目 ▲丹波海道一町目 ◯同南町 ▲二町目」と記しています。

 なお、上記引用文中の「丹波口」は、いわゆる「京七口」の一つで、山陰街道の出入口となっていました。

 また、下松屋町通(通称・一貫町通)の呼称は、その北部が松屋町通にあたることから、南部を下松屋町通と称したとのことです。

2019年2月 1日 (金)

何でなんかなぁ? (2の2)

 承前
 それでは、南北が丸太町通と三条通、東西は寺町通と堀川通、これらの通りをを四囲とする範囲で、飛地のように分かれて存在する町と、それがいくつに分散しているかを挙げておきます。

竹屋町通・・・相生町(2ヶ所)、塀之内町(2ヶ所)、和久屋町(2ヶ所)、魚屋町(2ヶ所)
夷川通・・・・泉町(4ヶ所)、山中町(2ヶ所)、百足屋町(2ヶ所)、木屋町(2ヶ所)
二条通・・・・丁子屋町(2ヶ所)
姉小路通・・・姉大東町(3ヶ所)、木之下町(2ヶ所)
 といったところです。ところが、何故かこの一帯には顕著なかたちで存在するのですが、他の地域では殆ど見かけません。

 見落としがあるかも知れませんが、他の地域でこうした例が目についたのは次の町でした。
高辻通・・・・雁金町(2ヶ所)
万寿寺通
・・・堅田町(4ヶ所)


堅田町の仁丹町名表示板


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 縦町は分断されることなく、横町は分断分散される思わしい理由が思い浮かびません。
 そこで思い切り、というよりも恐ろしく飛躍して考えてみることにしました。

 古代日本では、新しく都を構える場所を選定するにあたっては、地形、風や水の流れ、陰陽五行説など古代中国が起源の世界観を重視していました。
 平安京は北に船岡山(玄武)、東は鴨川(蒼竜)、西が木嶋大路(白虎)、南は巨椋池(朱雀)という風水の四神信仰にかない、都を設けるのに絶好の場所として選定されたのです。

 そして、中国では「天子、南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治を行うとされたことから、平安京では都の北部に大内裏(御所)が置かれました。

【註】「天子、南面す」の出典
『新訂中国古典選1』(朝日新聞社)第1巻『易』本田 済著を参照しました。
その中の『説卦傳』に、次のようにあります。
「聖人南面而聽天下。嚮明而治。」
これを読み下し文にすると、「聖人南面して天下に聴き、明に嚮(むか)いて治む。」
専門家が易しく読み解くと、「聖人が君位に就けば、南に向かって座り天下の政治を聴く。すなわち明るい方向に向かって治める。」となるそうです。


 平安京では大内裏の正門である朱雀門から南に向かって、メインストリートの朱雀大路(現・千本通)が通じていました。
 この朱雀大路は道路幅がなんと28丈(約85メートル)もあったそうです。これに次いで広いのが、朱雀門の前を東西に通っている二條大路などの17丈(約50メートル)ですから、朱雀大路はダントツの規模の道路だったようです。
 そして、朱雀大路の南端(九條大路)には、北端の朱雀門に相対して、平安京の入口・正門である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

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 このように南に向かって開いた平安京でしたから、南北の街路が東西の街路に比べて優位な立場にあり、東西の道路は位負けしたのかも知れません。

 なので、横町は縦町に分断されてしまうこととなった⤵︎。そうだ、そういうことにしておこう(これ、JR東海のCMコピー「そうだ 京都、行こう!」みたいやなー)

2019年1月25日 (金)

何でなんかなぁ? (2の1)

 どうしてそういう奇妙なことになっているのか、気になっていたのです。
 市内の中心部をうろついているとき、時々それを思い出します。けれども、納得のできる説明が思い浮かばなくて、何とももどかしかったのです。

 そんな疑問を感じたわけを簡単に記してみます。

 京都の町(ちょう)は、通り(道路)を挟んで向かい合う家々により、人々の生活単位となる町が成り立っていることが多く、両側町と呼ばれます。もちろん、通りの片側の家々だけで成り立つ町もあって、これは片側町と呼ばれます。
 中・近世を通じ、こうして京の町は形成されてきたようです。

 ところで、地図を眺めていると、南北に通る道路沿いの町(縱町)と東西に通る道路沿いの町(横町)には、奇妙で面白い違いのあることに気がつきます。

 それを、南北に通じる縦通りの新町通を例に引き、これと交差して東西に走る横通りの丸太町通と御池通の間にある町を見てみましょう。
 新町通の、丸太町通と竹屋町通の間に大炊町、竹屋町通と夷川通の間に弁財天町、夷川通と二条通の間に二条新町、二条通と押小路通の間に頭町、押小路通と御池通の間に仲之町があります。そして、それぞれの町が新町通を挟む両側町です。

大炊町の仁丹町名表示板

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 そして、これらの町はことごとく、すっきりと東西に通る道路と道路の間に位置しており、町は通りと通りの間で途切れることはありません。つまり、東西に走る各通りが町と町の境界ともなっているのです。

 これに対して、縱通りの新町通と交差して東西に走る横通りの夷川通を例にとって見てみます。
 そうすると、南北に通る新町通沿いの町のように通りが町の境界となっておらず、町の境界が極めて不規則に見えるのです。
 つまり、南北の縱通りに属する両側町は、それと交差する東西の横通りが町と町の境界となっているのに対して、横通りに属する町はそれに接する縱通りに属する町によって分断された形になっているのです。
 例えば、夷川通には泉町という町は4ヶ所に分かれて存在しています。西洞院と釜座の中程、釜座と新町の中程、新町と衣棚の中程、衣棚と室町の中程に分散して位置しています。

泉町の仁丹町名表示板

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 それでは、このように縱通り沿いにある町は一ヶ所にまとまっていて分断されることが無いにもかかわらず、なぜ、横通り沿いの町の場合はばらばらに分散させられた形となっているのでしょうか。
 これが、始めに書いたように、今に至るも答が判らずにいる疑問なのです。
 縱通りとその通り沿いの町々が、分断されずに済むという優位な位置にいられるのは、何らかの理由があってのことでしょうか。
 一方の横通り沿いの町々は、縱通りの町々とは異なり分断されることに甘んじなければならない劣位な位置にあったのでしょうか。
 縱と横の町の間にそうした優劣があったとすれば、それぞれの町の間は折り合いが悪かったでしょうね。

2019年1月11日 (金)

突抜 ー稲荷町突抜ー

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 「いなり町突抜」は、間之町通の高辻と松原間を云う。
 稲荷町と本燈籠町を南北に通貫しています。

「本燈籠町」の仁丹町名表示板
  
本燈籠町の町名由来については、『京都坊目誌』に「東洞院松原上る燈籠町より本町北側に亘り。之を燈籠堂浄教寺の舊地とす。故に稱す。」とあります。

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 「稲荷町」について『京都市の地名』には、「寛永14年洛中絵図に“いなり町つきぬけ”と記しており寛文後期洛中洛外之絵図に“いなり町”とある。しかし寛文12年(1672)洛中洛外大図には“稲荷町突抜町”とみえ、江戸中期までは両者を併用していたらしい。宝永2年(1705)洛中洛外絵図以後の絵図は、“稲荷町”となるから、17世紀の半ばには現町名に固定したと推察できる。」としています。

 ちなみに、寛文5年(1665)刊の『京雀』には「たかつじさがる  ◯つゞらや町」とあります。

 稲荷町あるいは稲荷町突抜の名称由来は、江戸初期の俳人・歌人・歌学者である松永貞徳が、自身の宅地に勧請した稲荷社(花咲稲荷社)が当町にあることによる。
 なお、稲荷社が花咲稲荷と称されるのは貞徳が花咲亭逍遥軒と号したことによる。

花咲稲荷社

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松永貞徳の花咲亭址

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