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仁丹町名表示板

2023年7月14日 (金)

町(まち)から町(ちょう)へ ー地域構造の変化ー

 現在、京都の旧市内(旧市街地)にある「町(ちょう)」には、道路の片側の家並みだけを単位とする「片側町(かたがわちょう)」の数は極めて少なく、圧倒的に多くの町は1つの道路を挟んだ両側の家並みで構成する「両側町(りょうがわちょう)」です。
 この「両側町」は、室町時代の末期に道路を隔てて向かい合う二つの片側町が合併することで成立したのです。

西側町の仁丹町名表示板
 この「西側町」は数少ない片側町の1つで、元は「西洞院一丁目西側町」と称したが、のちに略して西側町となった。西洞院通を挟んで東側には「東側町」があるが、この両町が合併して両側町とならなかったのは、どのような事情があったのか。ちなみに、寛永期には「西洞院一丁目」とあり、のちに東西二町に分離している。
 この両町の北側には金屋町・八百屋町など、また南側には西洞院町・鍛冶屋町などは、いずれも西洞院通を挟む両側町なのです。
Photo_20230713135801

室町後期の史料に見られる「両側町」の例:
 『上杉本 洛中洛外図屏風』は数ある洛中洛外図の中でも最も優れているとされるもので、京の洛中(市内)と洛外(郊外)の四季、そこに生活する人々の風俗を豪華にそして細かく描いています。
 この洛中洛外図について、国宝上杉家文書『歴代年譜 謙信公』に、「天正二年春三月下旬 織田信長ヨリ使節到来ス 濃彩ノ屏風二雙贈ラル(以下略)」とあり、天正2年(1574)に織田信長から上杉謙信にこの屏風が贈られたことを記録している。この洛中洛外図は、壺型印や画風から描いたのは狩野永徳とされる。
 これは初期洛中洛外図屏風と呼ばれるタイプのもので、上杉家文書の記録にあるように描かれているのは室町時代末期の光景ということになります。

第三扇と第四扇の一部分
 注目すべきは描かれている町並みが両側町であることです。例えば、右隻の第三・四扇には、手前から「油小路とをり・西洞院とをり・町とをり(現・新町通)・室町とをり・烏丸とをり」が描かれていて、その家並みの様子からこの頃には既に両側町が形成されていたことが判ります。ただし、各通りともに家並みの西側はほとんどが金雲で隠されて描写を省略しています。(図が小さくて見辛いですが、PCであれば画像をクリックすると拡大します)
 なお、今では暗渠や埋め立てで消滅していますが、西洞院川と室町川も描かれています。

Img_20230712_0001

 個人のトラブルによる町同士の紛争や、武家と町民の武力紛争による治安の乱れの頻発は、町人の身体・資産の安全を脅かすことになります。そのため、自衛や自治についての関心が高まり、道を隔て向かい合う片側町同士が共同して対応するとともに、さらには町屋の生業保障や資金融資など経済活動を共同して進めるうえでも、両側町の形成は当然の成り行きだったのです。
 そして、いくつかの両側町が集まって結成された自治組織は町組(ちょうぐみ)といわれ、それらの町組が結合して上京・下京の惣町(そうちょう)を形成したのですが、その頃の上京と下京の境界は二条通でした。

   ********************

 以上、道路を隔てた片側町同士が合併することで両側町へと変化したのは、室町時代の末期の頃だそうです。
 それでは最後に、それ以前の町(まち)から町(ちょう)への変遷を簡単に見ておきたいと思います。

 古代平安京の条坊制の都市区画は、碁盤目状の街路(大路)の4本によって東西南北の四方を区画された正方形の街区が「坊」で、1つの坊は東西・南北それぞれ3本ずつの街路(小路)により16の「町(まち)」に細分されていました。そして、1つの町は一辺が40丈(約120m)の正方形でした。
 大内裏(宮城)周辺の三条大路の北部には官衙(官庁)や諸司厨町(宿舎)などの町々が集中して存在し、ここは官営による手工業生産や平安京造営に携わる人々の居住区でした。そこから南部にかけては、貴族から庶民まで各層の邸宅や宅地となっていましたが、身分によってその敷地面積は多様でした。
 貴族の邸宅の広さは1町〜数町でしたが、一般庶民の場合は1町の32分の1(15m×30m)の区画、面積約135坪(約450㎡)が与えられました。これは、40丈(約120m)四方の「町(まち)」を縦(南北)4列に区分し、その各列をさらに8分割した区画の1つが一庶民の居住地で、「四行八門制(しぎょうはちもんせい)」と呼ばれる敷地割になっていました。このような区割りであったため、各区画は東西二面のいずれか一方だけに開口部がある「二面町(にめんまち)」でした。

 平安時代も末期の12世紀後半になると「町(まち)」の構造に変化が生じ、町を取り巻く4本の道路それぞれに向かって町屋の口が向く「四面町(しめんまち)」となります。

 13世紀末の鎌倉時代末期になると、四面町は道路に面したそれぞれの一面が一丁として独立して、4つの丁から成る「四丁町(しちょうまち)」、つまり4つの「片側町(かたがわちょう)」が成立します。そしてこれが両側町となる前の形で、都市の基本単位である「町(ちょう)」となったのです。




2023年5月19日 (金)

白雲の練貫座 ー京都機業の盛衰ー

 西陣織は高級絹織物で有名ですが、西陣織工業組合のサイトには次のようにあります。
 『西陣織とは、「多品種少量生産が特徴の京都(西陣)で生産される先染(さきぞめ)の紋織物」の総称です。昭和51年2月26日付で国の伝統的工芸品に指定されました。 西陣の織屋は、平安朝以降連綿と積み重ねられてきた高い技術の錬磨に加えて、優れたデザイン創作のための創造力や表現力への努力を重ねています。』
 
 平安京が造営される前、5〜6世紀の頃の山城盆地には賀茂氏など土着の豪族と、渡来系の氏族である秦氏が住みついていて、秦氏は農耕・養蚕・絹織物の技術や土木技術をもっていました。
 飛鳥時代の大宝元年(701)に大宝律令が制定・施行されて、律令制のもと朝廷の役人や貴族のための綾,錦など高級織物は、「織部司」が独占的に生産していました。
 下って平安京に都が移ってのちも織部司が置かれ、織部町に織り手を集住させて、官営の工房で織物作りと衣服の生産・調製を行なっていました。
 有職故実書『拾芥抄』によると、織部町は大宮と猪隈(猪熊)の間に、土御門大路(現・上長者町通)を挟んで北側と南側の二町に位置していた。そして、北側の織部町の東隣にも猪隈(猪熊)と堀川の間にもう1つの織部町が描かれています。
 しかし、平安時代も中期になると律令制が崩壊して、織部司の官営織物工房はその維持が困難になります。
 鎌倉時代になると織り手たちは織部町の東隣の大舎人(猪熊の上長者・下長者間)に集住し、大舎人座を組織して織物作りは役所から独立した民営の機業へと変わっていきました。

 ところが、室町時代の応仁元年(1467)、守護大名の山名宗全と細川勝元がそれぞれ諸大名を引き入れ西軍と東軍に分かれて、京都を主な戦場とした応仁の乱が始まります。
 この時、山名氏の邸を中心として西軍が陣を張った一帯がのちに「西陣」の地名起源となったのです。
 織り手たちは戦乱を避けて京都近郊や堺などに疎開しますが、11年間にも及んだ戦乱が収まると京都に戻って機業を再開します。

かつての白雲村(元新在家町の仁丹町名表示板)
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 西軍本陣跡の大宮一帯(西陣)に集住して組織された大舎人座に対して、東軍本陣跡の白雲村(新町通今出川上ル)に集住して組織されたのが練貫座でした。この練貫座の織った羽二重が純白であったことから白雲の名称が生まれ、その白雲の地は新しくできた集落であるために「新在家」と称したのです。白雲村は現在の元新在家町(新町通今出川上ル)を中心に、おおよそ南北二町東西一町ほどの一帯にあたるようです。
 そして、この練貫座と大舎人座が京都における主要な機業組織として、技術や市場の主導権をめぐって対立しながら発展してゆきました。

 ところが、やがて古くからの伝統を持つ西陣の大舎人座が足利幕府から特権と保護を得る一方、練貫座の白雲村は人家が込み合い水質も絹織物生産に適さなくなって多くが西陣へと移動・吸収されていきました。そして、別の一団は天正16年(1588)に今の京都御苑の南西部に共同して移り住み、そこを新たに「新在家」と称したことで元々の新在家(新町通今出川上ル)の方は「元新在家」と称されるようになりました。
 しかし・・・、やがて練貫座は衰えて行き文献史料からも姿を消していくこととなったのです。
 なお、「宝永の大火」と呼ばれる宝永5年(1708)の大火災の後に、御所と公家町の拡張整備を理由として、御所の南西部および椹木町通から南側のすべての町屋の住民とともに、新在家の人々も住み慣れた地を追われて、二条河東・内野・公家町東側の鴨河原・鴨川の西河原へと移住させられました。

 ちなみに、御所南西部にあった新在家の位置は、概ね今の新在家御門(蛤御門)の南東一帯にあたり、西は烏丸通、北は今の中長者町通を東方に延長した線、東は間之町通を北方に延長した線、南は元・新在家南町通(護王神社の南側の通り)を東方に延長した線、これらの通りを四囲とする範囲だったようです。
 その場所を分かりやすく言うと、現在の烏丸通の東側で北は新在家御門(蛤御門)から南は護王神社の東向かい側の間、東西は皇宮警察本部とその東側の桃林・梅林から白雲神社の前あたりの一帯に相当するようです。




2023年3月24日 (金)

白川(白河)⇒ 岡崎

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 琵琶湖疏水が流れる岡崎公園の一帯は約14万平方メートルの広さがあり、そこには多くの文化施設が集中していて京都の文化ゾーンとなっています。
 この「岡崎」という地名は、神楽岡(吉田山)や粟原岡(黒谷山)が、南の平地に向かって岬のように突き出した地形となっていることからきた名称です。
 鴨川の東側で三条通の北となる「岡崎」は白川の下流に位置しています。滋賀県との境界にあたる比叡山と如意ヶ嶽の間を水源とする白川は花崗岩地帯を流れて北白川に至り、浄土寺・鹿ヶ谷・南禅寺・岡崎を経て鴨川に合流します。
 「岡崎」の旧称である「白河(白川)」は白川流域にあることに由来しているが、この白河の地は平安京洛外の景勝地で、平安時代前期の頃から貴族が別業(別荘)を構えたり、遊山に出かけたりしました。
 中世になると、応仁の乱などで寂れ荒廃して岡崎村の耕地となっていたのですが、江戸時代になると風光を愛でる文人墨客が多く移り住んで居を構えました。

 白河に設けられた別業の中でも、古くから藤原家代々の別業であった「白河院」は有名でした。
 承保2年(1075)に左大臣藤原師実がこの白河院を白河天皇に献上して、天皇はここにかつてなかったような壮大な寺院の法勝寺を建立しました。金堂をはじめ多くの堂塔が建立されましたが、なかでも高さが約82メートルの途轍もなく壮大な八角九重塔が聳えるさまは、さぞ人々を驚かせたことでしょう。
 その後、代々の天皇が「勝」の字がつく五つの御願寺、尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺を建立して、法勝寺と合わせて「六勝寺」と称されました。
 琵琶湖疏水沿いの散策路は「六勝寺のこみち」と名付けられていて、桜や柳の緑陰をそぞろ歩きが楽しめます。
 六勝寺の寺院名は、岡崎法勝寺町・岡崎最勝寺町・岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町といった町名となって今に伝わっていますが、尊勝寺と延勝寺については残っていません。

 六勝寺が造営されたことで、大寺院の堂宇が聳えて並び立つ白河の地は一変しました。
 さらに白河天皇は皇位を堀河天皇に譲り、自身は上皇となって院政(政治)を開始し、院政を行う白河御所が造営されます。この白河上皇の白河御所(白河南殿)や白河北殿が、御願寺の法勝寺の西側の造営されます。そこで始まった院政が長かったゆえに院政時代とも言われる時代となりました。
 さて、ここからがこの記事の本題(のつもり)なのです。冒頭の仁丹町名表示板「岡崎南御所町」と共にご覧ください。
 法勝寺跡にあたる京都市立動物園の西側に位置している、岡崎南御所町とその北隣の岡崎北御所町という町名は、白河南殿と白河北殿の名残を留めているものと考えても、あながち見当はずれとは言えないと思うのですがどんなものでしょう。

 こうして、「京=ミヤコ」(平安京)の東の境界である鴨川を越えて、洛外であった「白河」の地が政治の中心地になると、「京」と「白河」の両方を含めた地名(固有名詞)として「京都」という言葉が使われるようになりました。
 ちなみに、その後も院御所は、後鳥羽上皇の時代に押小路殿と岡崎殿が造営されています。
 【注】押小路殿は、鴨川東の押小路末南で、左京区頭町・正往寺町・福本町の一帯にあった。岡崎殿は、法勝寺の北東にあったとされるので、冷泉通の北になるようです。




2022年11月25日 (金)

東京の木製仁丹町名表示板 その3

東京市の木製仁丹は他でも見つかるか?

 東京市は太平洋戦争の際、昭和17年(1942)4月18日の空襲を初めとして、敗戦までに100回を越える空襲で罹災しています。
 特に昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲の折には、主にいわゆる下町の深川区(現・江東区)本所区(現・墨田区)浅草区(現・台東区)の広範囲にわたって罹災しました。

 ところが、観光ガイドブックに「谷・根・千(やねせん)」とある一帯(台東区西端にあたる谷中、文京区の根津から千駄木にかけて)と、本郷(現文京区の東部)は大空襲による戦災を免れていました。そのため、現在でもその一帯の裏通りには東京の下町情緒・雰囲気が残っているのです。

「夕やけだんだん」から谷中銀座を望む

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 かつて、私は鶯谷をスタートして、谷中・根津・本郷にかけての一帯を歩いて回ったことがあるのですが、表通りからちょっと裏手に入ると多くの古い民家が残っていました。

 しかし、東京も他の都市と同様に『住居表示に関する法律』などの影響により、見境いなく従来の町名地番を大町名に変え、さらには◯丁目◯番地といった形に整理してしまったことから、元の町名は根こそぎ抹殺されてしまいました。このため、元々の地名の由来や意味などが全く分からなくなるという愚を犯していたのです。

 この根津も昭和40年(1965)4月1日に、根津須賀町、根津清水町、根津藍染町、根津片町、根津八重垣町、根津宮永町、根津西須賀町など根津全町と、向ヶ丘弥生町の一部を併せた町域が現在の「根津」となりました。そして「不忍通り」を境界として、西側が根津一丁目、東側が根津二丁目となっています。ちなみに、この一帯の行政区名は元々は「本郷区」だったのですが、現在では文京区に属しています。

 このように町名変更があったため、元々設置されていた町名表示板は用をなさなくなって、そのほとんどが姿を消すことになったのでしょう。今回発見された木製仁丹町名表示板の「本郷区 根津須賀町四番地」は、たまたま生き長らえていた貴重な一枚なのです。
 戦災を免れた一帯について悉皆調査をすれば、このように幸運にも関東大震災と東京大空襲による被災から免れて、今なお残存している町名表示板が見つかったとして不思議ではないと思われます。

本郷の路地のような細道

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 上の写真、本郷四丁目にある樋口一葉旧居跡の近辺なのですがこのイー雰囲気たまりませんネ!
 菊坂下通りの一帯を歩くと、なんとも言えないいい感じの路地のような細い道があり、多くの古い建物やまだ現役の手押しポンプなどもあり、古い仁丹町名表示板が残っていそうな感じです。
 そして、周辺をぶらぶら歩きしていると、樋口一葉・宮沢賢治・金田一京助・石川啄木・坪内逍遥など、文人の旧居跡に行き当たるのも楽しいものです。



 

2022年11月11日 (金)

東京の木製仁丹町名表示板 その2

東京市の木製町名表示板のレプリカ

 前回に見た東京の『町名札製作仕様書』と、実際に発見された木製の仁丹町名表示板をもとに、レプリカが作製されました。

東京市の木製町名表示板レプリカ
 この写真は、レプリカ製作者でもあるテント虫さんに使用の許諾を得ています。

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 このレプリカの配色は、下地が白、文字と商標が黒、外枠が赤という3色配合となっています。
商標の色…オリジナルの商標の色は褪色していて定かではないが、レプリカでは基調を黒色としている。
ちなみに、京都の木製仁丹の場合は「仁丹」の文字は黒色で、その周りを囲む枠と人物は赤色。
商標の位置…発見された町名表示板と古写真に倣って、商標は下部に入れている。
外枠とその色…『町名札製作仕様書』に記述はないが、京都の木製仁丹に倣い赤色としている。ただし、京都の木製仁丹にある額縁状の木枠は付けていない。

 しかしながら、前回の記事に書いたように東京の『町名札製作仕様書』には、商標の色と位置、および外枠については全く記されていません。
 その辺りに関わることですが、『町名札製作仕様書』には「検査ヲ受ケ合格ノ後ニアラサレバ町名ヲ記入スル事ヲ得サルモノトス」とありますから、町名札に余計なものを書き入れることは不可能のように思えます。にもかかわらず、商標を入れることが許容された経緯について知りたいものです。

 そんな外枠と商標ですが、自由に勝手な想像を巡らせてみました。
① 外枠の有無は?
 外枠が無く周囲が空白のままでは、どうにも間が抜けたようで締まりませんから、やはり外枠が有ったと考えたいです。
 ところで、その外枠はただ色を塗っただけだったのか、それとも京都の木製仁丹のように色付けした額縁状の木枠が取り付けられていたのか。その点、発見された東京の町名表示板では、木枠が装着されていた痕跡が認められません。
② 外枠の色とその色調(色合い)は?
 レプリカでは外枠は赤色としています。その色調(色具合)は、茜色(やや沈んだ赤色)または緋色(濃く明るい赤色)で、赤は赤でもパーッとした目立つ色合いにしています。
 さて、東京市の町名表示板に外枠があったとすれば、それはどんな色調の赤だったのでしょう?
 私の好みでイメージしたのは、「小豆色(くすんだ赤)」もしくは、「マルーン(赤みの茶色)」といった渋い赤色です。この色、実はあの木製仁丹表示板が見つかった場所のごく近くにある、根津神社の華表(鳥居)の色で渋く深みのある赤色なのです。どの神社でも鳥居の色は通常は朱色ですが、この根津神社のそれは朱色ではありません。

根津神社の鳥居

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 ところで、古代中国では朱色は権威の象徴でした。日本でも宮城の正門(朱雀門)は朱色でしたし、神社の鳥居や本殿などの神社建築も朱色です。そして、根津神社の場合も楼門・唐門・拝殿、そして境内にある乙女稲荷神社の千本鳥居も朱色なのですが、なぜか鳥居だけが全く違う色合いの赤(小豆色)なのです。
 ちなみに、中国南西部から日本にかけての照葉樹林文化帯では、赤色というのは特別な色で、小豆の赤(小豆色)には災いや疫病を避ける呪力があるとされていました。現在の私たちも、小正月(1月15日)には邪気を払うため小豆粥を食する風習があります。




2022年10月28日 (金)

東京の木製仁丹町名表示板 その1

発見された木製仁丹町名表示板

 先ごろ、東京都文京区根津一丁目の一劃で発見された木製仁丹町名表示板が、京都仁丹樂會のブログ記事『東京の木製仁丹 保存へ』で公開されました。

東京の木製町名表示板 
 この記事中の写真2枚は、京都仁丹樂會会員grv1182さんに使用の許諾を得ました。

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 その町名表示板は経年劣化で少し読み辛いのですが、往時の住所表記で「本郷區 根津須賀町四番地」となっています。
 大正7年(1918)12月から同9年4月にかけての間に、東京市の15区と周辺の9地域に総計90,440枚の仁丹町名表示板が設置されました。このたび発見された町名表示板は、本郷区(現・文京区)に設置された5,588枚のうちの1枚です。

 写真に見るように、住所表記の文字は黒色、下地は白色であることが見て取れます。

町名表示板の仁丹商標部分

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 そして、炭化の著しい住所表記の文字部分の下の方には、辛うじて仁丹商標の痕跡(凹凸)が認められます。このことから、商標の色は文字の部分のように黒色ではなかったために、炭化が進まないまま褪色したのではないかとも考えられます。
 また、京都市の木製仁丹町名表示板に見られる外枠は、東京市の町名表示板ではその痕跡も認め難いように思われました。

 それはそれとして、この町名表示板の発見に先だって京都仁丹樂會会員idecchiさんにより、東京都公文書館の収蔵資料から『大正十年 町名札ニ関スル書類』が見付け出されていました。
 この一件資料の簿冊から、東京市における町名表示板の製作枚数、製作費その他の経費、掲示作業に要した日数と人員、設置場所と時期などの詳細が判明しました。
 また、その簿冊中には次のような『町名札製作仕様書』も含まれていました。

一、材料 杉板極小節ニシテ充分乾燥セシメタルモノ
一、寸法 長壱尺七寸、横五寸六分、厚サ四分ノモノニシテ表面及側面上下ハ仕上ケ鉋ヲ用フル事
一、塗  白ペンキ三遍塗ニシテ充分乾燥セシメタル後、黒色ペンキニテ町名ヲ楷書體ニテ記入スル事
一、検査 町名ノ文字記入前、材料、寸法、塗等ノ検査ヲ受ケ合格ノ後ニアラサレハ町名ヲ記入スル事ヲ得サルモノトス、但シ検査場所ハ請負人指定ノ場所ニ検査吏員出張ス 
一、納入場所 町名記載ノ各区役所
此他詳細ナル事項ハ庶務課商工掛ニ照会スルコト

 この『製作仕様書』から、木製町名表示板の下地の色、住所表記の文字の色と定めていたことが明らかとなりました。
 一方、その町名表示板の現物には、下部にウッスラと仁丹の商標が見えているようです。ところが、『製作仕様書』では仁丹の商標についての記載がありません。
 また、京都の木製町名表示板には赤色に塗られた額縁状の外枠が付いていますが、これも東京の『製作仕様書』には何らの記載もありませんでした。




2022年5月27日 (金)

京都の住所表示 ーその明快さー

 去る5月2日、京都市内の繁華街でブランド腕時計買取り販売店に強盗が入り、ハンマーでショウケースを叩き割り時計が盗まれるという事件がありました。この荒っぽい犯行で盗まれたのは高級腕時計約50点、被害額は数千万円ということでした。
 強盗に押し入られて被害に遭った店の所在地は、朝日新聞京都版の記事では「中京区手洗水町」とありました。最近ではどの新聞もこのような表記方法を採っているようです。
 ところが、京都に生まれ育った私達でもこのように町名表記だけに省略されてしまうと、そこがどの辺りなのかもう一つよく判りません。
 何かと忙しない現代社会にあって、まどろっこしい表記方法はやめて簡略化しているのでしょうか? 根っからの京都人であれば、このように不親切な表現はしません。

 手洗水町の町域は烏丸通に面する両側、蛸薬師通と錦小路通の間を占める町です。
 そして強盗に入られた店舗は、烏丸蛸薬師の交差点南東角のビル1階にあり、店が公称する所在地は「京都市中京区手洗水町646−2 烏丸第三スタービル」となっています。
 元々の京都人であれば、このような位置関係にある場所は次のように表記します。これを京都方式とでもしておきましょう。
 「京都市中京区烏丸通蛸薬師下ル手洗水町642-2 烏丸第三スタービル」となります。
 このように表記することで、手洗水町は烏丸通蛸薬師の交差点の南にあることが分かります。
 いわゆる旧市内(現在の京都市内中心部)では、◯◯通◯◯上ル、◯◯通◯◯下ル、◯◯通◯◯東入、◯◯通◯◯西入とした後に町名を表記することで、通りと通りの交わる所(交差点)を基点として、どちらの方向なのかが判るのです。このような形式の表記は室町時代の末期に始まるようです。
 なお、「上ル」は北方へ行く、「下ル」は南方に行くことを意味しています。「東入」と「西入」は言うまでも無いでしょう。

下京区鍵屋町の仁丹町名表示板
 この「鍵屋町」のケースでそれを見ると、若宮通と正面通との交差点より南側に位置していることが判ります。

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 ちなみに、京都では同一の行政区内に同じ名称の町名が複数あることが珍しくありません。
 例えば、上京区の亀屋町、下京区の鍵屋町などは、同じ町名が四つもあります。このため、下京区鍵屋町だけではどこの鍵屋町なのか判らないのです。
 極端なケースでは、下京区の万寿寺通には堅田町というのが四つ、中京区では夷川通に泉町が四つ、いずれも僅か200メートル余りの間にひしめくように存在しています。

 なので、京都の場合は周辺部の地域は別として、旧市内と称されることもある中心部では住所地や所在地を表すとき、「行政区名+町名」だけで要をなさないことがあるのです。
 したがって、京都方式の住所表記は長くて面倒といえば面倒です。しかし、目指す地点がどこにあるのかを明瞭に認識できるという点では、親切で丁寧な良さがあるのです。





2022年4月 1日 (金)

安元の大火と出火原因

 下京区には、万寿寺通御幸町の西方に「堅田町」という町があります。
 この堅田町、初めは魚屋町と称したと云う。近江国(滋賀県)から日々湖魚を運んでこれを販売したが、錦小路に市場が立ってそこに合併したとされる。
 堅田町と改称した時期は不詳とするが、町の名称はもしかすると、都に湖魚を送っていた現在の滋賀県大津市堅田に縁由があるのかも知れません。

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 上部が特に劣化していて見づらい仁丹町名表示板です。
 表記は「下京區 萬壽寺通御幸町西入 堅田町」とある。

 さて、平安時代も末期の安元3年(1177)4月28日、樋口富小路の東にある、この堅田町から出火した。樋口は樋口小路のことで現在の万寿寺通、富小路は現在の麸屋町通にあたる。
 この火災は、世に安元の大火(太郎焼亡とも)と称された。風に煽られて北西に延焼、左京の三分の一を焼き尽くす大火災で、都が平安京に遷ってから最も大きな被害となった。
 『平家物語』には、朱雀門・応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・諸司・八省・調所など宮城の諸施設までもが一時のうちに炎上したと記述している。
 このような大事態となったために、元号を「安元」から「治承」に変えたほどなのです。元号には呪術的な要素があるため、これを改めること(改元)で災いを除いて、世を一新すると考えられていた。

 『源平盛衰記』にも、安元の大火についての記述があるので見てみます。もっとも、これは軍記物語(文学)であるため、どこまでが真実なのかは不明です。
 さて、安元の大火は武士の狼藉が出火原因なのですが、そのえげつなさと乱暴さには空いた口が塞がらないといった感じなのです。その記述を大雑把に見てみましょう。
 平重盛(平清盛の長男で小松殿と称された)の乳母の子である成田兵衛為成など7人の者が、十禅師の神輿に矢をいかけるという狼藉を働いたのです。その責を問われて磔の刑や簀巻きにして水に投げ込む刑に処されるところを、重盛に免じられ伊賀国へ流罪と決まった。
 そこで、成田為成は同僚などとの別れを惜しんで酒盛りをした。ところが、皆んなが酒に酔っぱらい正気を失った状態になってきた。その時、伊賀の田舎に流される成田へ進めるべき酒の肴が無いぞ。そこで、肴にしようと髷を切って差し出す者、ヤー面白い負けてなるものかと耳を斬って出す者、命に勝る宝は無いぞその命を肴にしようと腹を掻き切って倒れ伏す者、とエスカレートしていく。
 ついには成田兵衛本人も、俺は再び都に戻って酒を飲むこともないだろうから、俺も肴を出すぞと云い自害して死んだ。
 そして、家主の男は自分が生き残っても、六波羅に召し出されて無事には済まないだろうと言って、家に火をつけて飛び込み焼け死んだ。

 ちなみに、安元の大火について記述のあるものに、公卿九条兼実の日記『玉葉(玉海)』、公卿三条実房の日記『愚昧記』など、史書『百錬抄』。また文学にも、鴨長明『方丈記』、作者未詳『平家物語』などがあるようです。





2021年8月20日 (金)

京の市場事情 2 ー近 世ー

 時代は変わり、江戸時代になると農耕で牛馬の利用が増え、また二毛作が広まるなど農業生産力が急激に向上します。そして、京の人口増加による青物蔬菜の需要増大とが相俟って、青物の立売市場が大いに発展します。
 それらの青物市場は隣接する魚市場と一体となって、京の人々の食生活を支える大規模な市場となっていきました。

 ちなみに、京の魚市場としては、次のような上・中・下の著名な3カ所の魚棚(うおのたな)がありました。

椹木町通(上の魚棚)

『京町鑑』に、椹木町通を「俗に上魚棚通 此通中頃椹木をあきなふ材木屋多くありし故名とす 又釜座邉魚商ふ家多し故魚棚と云」としている。
『京羽二重』も、「東にてさはら木町通と云 西にて魚の棚通と云」として、所在の諸商人として「新町にし 生肴  八百や」と記す。

東魚屋町(椹木町通)の町名表示板

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 往時は、椹木町通の西洞院通から堀川通までの間に魚市場があり、現在も東魚屋町・西山崎町(かつては西魚屋町が通称か)の町名が残っている。


錦小路通(中の魚棚)

『京町鑑』に、「いつの頃よりにや 魚商ふ店おほく今におゐて住居す仍而 世に中の魚棚とよぶ」として、「麸屋町西入 東魚棚町、柳馬場西入 中魚棚町、高倉西入 西魚屋町」と町名を記している。
 ここも慶長期以来の魚市場があり、魚鳥・菜果をも商った。
 現在も、富小路通と柳馬場通の間に東魚屋町、堺町通と高倉通の間に中魚屋町、その西の東洞院通までに西魚屋町があり、近辺には八百屋町・貝屋町という町名も残っています。


六条通(下の魚棚)

 寛永年間に、下魚棚通にあった魚市場が六条通に移されて盛んに売買されるようになった。
 『京町鑑』は、「此通魚屋多し 故に是を下魚棚といふ」とし、「室町東入 東魚屋町、新町西入 西魚屋町、西洞院西入 北魚屋町」の町名を挙げている。
 こうして、六条通に魚棚通という通称が生じて一般化した。しかし、明治になってからは振るわなくなり、名はあっても実は無くなってしまいました。

東魚屋町(六条通)の町名表示板

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 現在も、室町通東入に東魚屋町、室町通西入に西魚屋町の町名が、また西魚屋町の南側には八百屋町という町名も残っている。

ちなみに、六条通(下の魚棚)に関わることを。
 七条通の一筋南に下魚棚通があって、東は西洞院通から西は大宮通まで通っています。
 ここには、寛永年間に六条通へ移転するまで慶長期以来の魚市場がありました。
 しかし、下魚棚一町目から下魚棚四丁目まであった町名も、現在では「下魚棚四町目」を除いて隣接する町に合併されたために消滅しています。
 なお、この下魚棚通の魚市場に近接して青物市場もあったのですが、その名残りが今も八百屋町・西八百屋町・南八百屋町の町名として残っています。



 

2021年8月13日 (金)

京の市場事情 1 ー古代から中世ー

 平安京には、左京に東市(ひがしのいち)、右京には西市(にしのいち)の2ヶ所の官営の市が設けられていました。
 どちらも四町四方の広さで、その周囲には外町が設けられていたということです。そして、市(いち)の開催日は、1ヶ月のうち前半は東市が、そして後半は西市が開かれて、開催時間は正午に始まって日没前に解散したようです。

 下京区河原町通六条西入本塩竈町にある市比売神社、いまでは縁結び・子授け・女人厄除けなど女性の願い事にご利益があるとされるパワースポットですが、元は延暦14年(795)東西の市に市杵島比売命を勧請したもので市(いち)の守護神でした。

市比賣神社(市姫神社)

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 ところが、平安京の右京域は湿潤な土地柄から、10世紀頃には衰退してしまいます。したがって、右京に設けられていた西市もまたすっかり寂れてしまうのですが、左京の東市の方は繁栄したようです。
 しかし、東・西両市ともに平安京の南端近くに位置したため、また官営の市ということから、やがて平安京社会の実情に合わなくなって衰退してしまいました。

 その頃、官衙(平安宮の役所)に所属して手工業生産に携わていた厨町(くりやまち)の職人・工人は、律令制が衰退して朝廷の権力が弱体化するとともに、その束縛から解放されて独立した手工業者として町尻小路(新町通)の三条・六角・錦小路・四条などに居を構え、東西市に代わって新たな商業経済の中心となっていきました。

 下って、鎌倉・室町の頃になると、市中の商工業者や近在の農民たちが売り物を持ってきて、道端や軒下などで露天商いをしたようです。
 このように店棚を持たないで商いをするのが「立売(たちうり)」で、そうした商い人の集中する通りの名称として、上立売通・中立売通・下立売通の名称が生じ、今に至るまで名をとどめています。『京雀』『京町鑑』などの地誌によれば、初期は絹布巻物類の立ち売り(裁ち売り?)に始まったようで、次第に棚売り(店売り)へと発展していきます。
 これらの通りには立売に因む町名も残っていて、上立売通には上立売町・上立売東町、下立売通には東立売町がある。

 現在では通りの名称としては残っていないのですが、四条通にも麸屋町通から東洞院通の間に、立売東町・立売中之町・立売西町という町名が現存しています。四条立売と総称して、室町時代には百貨売買の重要な市場として繁盛したようですが、『都名所図會』には、「むかし大内裏の時、此所諸品を商ふ市場なり。今毎朝高倉四條の北に野草の市あり、往古の余風歟」とある。

「四條立賣」

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 また、伏見にも桃山町立売という町名が大手筋通の南、第一期の伏見城があった桃山町泰長老の北側に残っています。




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