2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

リンク集

無料ブログはココログ

仁丹町名表示板

2022年11月25日 (金)

東京の木製仁丹町名表示板 その3

東京市の木製仁丹は他でも見つかるか?

 東京市は太平洋戦争の際、昭和17年(1942)4月18日の空襲を初めとして、敗戦までに100回を越える空襲で罹災しています。
 特に昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲の折には、主にいわゆる下町の深川区(現・江東区)本所区(現・墨田区)浅草区(現・台東区)の広範囲にわたって罹災しました。

 ところが、観光ガイドブックに「谷・根・千(やねせん)」とある一帯(台東区西端にあたる谷中、文京区の根津から千駄木にかけて)と、本郷(現文京区の東部)は大空襲による戦災を免れていました。そのため、現在でもその一帯の裏通りには東京の下町情緒・雰囲気が残っているのです。

「夕やけだんだん」から谷中銀座を望む

Photo_20221028155301
 かつて、私は鶯谷をスタートして、谷中・根津・本郷にかけての一帯を歩いて回ったことがあるのですが、表通りからちょっと裏手に入ると多くの古い民家が残っていました。

 しかし、東京も他の都市と同様に『住居表示に関する法律』などの影響により、見境いなく従来の町名地番を大町名に変え、さらには◯丁目◯番地といった形に整理してしまったことから、元の町名は根こそぎ抹殺されてしまいました。このため、元々の地名の由来や意味などが全く分からなくなるという愚を犯していたのです。

 この根津も昭和40年(1965)4月1日に、根津須賀町、根津清水町、根津藍染町、根津片町、根津八重垣町、根津宮永町、根津西須賀町など根津全町と、向ヶ丘弥生町の一部を併せた町域が現在の「根津」となりました。そして「不忍通り」を境界として、西側が根津一丁目、東側が根津二丁目となっています。ちなみに、この一帯の行政区名は元々は「本郷区」だったのですが、現在では文京区に属しています。

 このように町名変更があったため、元々設置されていた町名表示板は用をなさなくなって、そのほとんどが姿を消すことになったのでしょう。今回発見された木製仁丹町名表示板の「本郷区 根津須賀町四番地」は、たまたま生き長らえていた貴重な一枚なのです。
 戦災を免れた一帯について悉皆調査をすれば、このように幸運にも関東大震災と東京大空襲による被災から免れて、今なお残存している町名表示板が見つかったとして不思議ではないと思われます。

本郷の路地のような細道

Photo_20221028155801
 上の写真、本郷四丁目にある樋口一葉旧居跡の近辺なのですがこのイー雰囲気たまりませんネ!
 菊坂下通りの一帯を歩くと、なんとも言えないいい感じの路地のような細い道があり、多くの古い建物やまだ現役の手押しポンプなどもあり、古い仁丹町名表示板が残っていそうな感じです。
 そして、周辺をぶらぶら歩きしていると、樋口一葉・宮沢賢治・金田一京助・石川啄木・坪内逍遥など、文人の旧居跡に行き当たるのも楽しいものです。



 

2022年11月11日 (金)

東京の木製仁丹町名表示板 その2

東京市の木製町名表示板のレプリカ

 前回に見た東京の『町名札製作仕様書』と、実際に発見された木製の仁丹町名表示板をもとに、レプリカが作製されました。

東京市の木製町名表示板レプリカ
 この写真は、レプリカ製作者でもあるテント虫さんに使用の許諾を得ています。

Photo_20221028113201
 このレプリカの配色は、下地が白、文字と商標が黒、外枠が赤という3色配合となっています。
商標の色…オリジナルの商標の色は褪色していて定かではないが、レプリカでは基調を黒色としている。
ちなみに、京都の木製仁丹の場合は「仁丹」の文字は黒色で、その周りを囲む枠と人物は赤色。
商標の位置…発見された町名表示板と古写真に倣って、商標は下部に入れている。
外枠とその色…『町名札製作仕様書』に記述はないが、京都の木製仁丹に倣い赤色としている。ただし、京都の木製仁丹にある額縁状の木枠は付けていない。

 しかしながら、前回の記事に書いたように東京の『町名札製作仕様書』には、商標の色と位置、および外枠については全く記されていません。
 その辺りに関わることですが、『町名札製作仕様書』には「検査ヲ受ケ合格ノ後ニアラサレバ町名ヲ記入スル事ヲ得サルモノトス」とありますから、町名札に余計なものを書き入れることは不可能のように思えます。にもかかわらず、商標を入れることが許容された経緯について知りたいものです。

 そんな外枠と商標ですが、自由に勝手な想像を巡らせてみました。
① 外枠の有無は?
 外枠が無く周囲が空白のままでは、どうにも間が抜けたようで締まりませんから、やはり外枠が有ったと考えたいです。
 ところで、その外枠はただ色を塗っただけだったのか、それとも京都の木製仁丹のように色付けした額縁状の木枠が取り付けられていたのか。その点、発見された東京の町名表示板では、木枠が装着されていた痕跡が認められません。
② 外枠の色とその色調(色合い)は?
 レプリカでは外枠は赤色としています。その色調(色具合)は、茜色(やや沈んだ赤色)または緋色(濃く明るい赤色)で、赤は赤でもパーッとした目立つ色合いにしています。
 さて、東京市の町名表示板に外枠があったとすれば、それはどんな色調の赤だったのでしょう?
 私の好みでイメージしたのは、「小豆色(くすんだ赤)」もしくは、「マルーン(赤みの茶色)」といった渋い赤色です。この色、実はあの木製仁丹表示板が見つかった場所のごく近くにある、根津神社の華表(鳥居)の色で渋く深みのある赤色なのです。どの神社でも鳥居の色は通常は朱色ですが、この根津神社のそれは朱色ではありません。

根津神社の鳥居

Photo_20221027135202

 ところで、古代中国では朱色は権威の象徴でした。日本でも宮城の正門(朱雀門)は朱色でしたし、神社の鳥居や本殿などの神社建築も朱色です。そして、根津神社の場合も楼門・唐門・拝殿、そして境内にある乙女稲荷神社の千本鳥居も朱色なのですが、なぜか鳥居だけが全く違う色合いの赤(小豆色)なのです。
 ちなみに、中国南西部から日本にかけての照葉樹林文化帯では、赤色というのは特別な色で、小豆の赤(小豆色)には災いや疫病を避ける呪力があるとされていました。現在の私たちも、小正月(1月15日)には邪気を払うため小豆粥を食する風習があります。




2022年10月28日 (金)

東京の木製仁丹町名表示板 その1

発見された木製仁丹町名表示板

 先ごろ、東京都文京区根津一丁目の一劃で発見された木製仁丹町名表示板が、京都仁丹樂會のブログ記事『東京の木製仁丹 保存へ』で公開されました。

東京の木製町名表示板 
 この記事中の写真2枚は、京都仁丹樂會会員grv1182さんに使用の許諾を得ました。

Photo_20221027132701

 その町名表示板は経年劣化で少し読み辛いのですが、往時の住所表記で「本郷區 根津須賀町四番地」となっています。
 大正7年(1918)12月から同9年4月にかけての間に、東京市の15区と周辺の9地域に総計90,440枚の仁丹町名表示板が設置されました。このたび発見された町名表示板は、本郷区(現・文京区)に設置された5,588枚のうちの1枚です。

 写真に見るように、住所表記の文字は黒色、下地は白色であることが見て取れます。

町名表示板の仁丹商標部分

Photo_20221027132801

 そして、炭化の著しい住所表記の文字部分の下の方には、辛うじて仁丹商標の痕跡(凹凸)が認められます。このことから、商標の色は文字の部分のように黒色ではなかったために、炭化が進まないまま褪色したのではないかとも考えられます。
 また、京都市の木製仁丹町名表示板に見られる外枠は、東京市の町名表示板ではその痕跡も認め難いように思われました。

 それはそれとして、この町名表示板の発見に先だって京都仁丹樂會会員idecchiさんにより、東京都公文書館の収蔵資料から『大正十年 町名札ニ関スル書類』が見付け出されていました。
 この一件資料の簿冊から、東京市における町名表示板の製作枚数、製作費その他の経費、掲示作業に要した日数と人員、設置場所と時期などの詳細が判明しました。
 また、その簿冊中には次のような『町名札製作仕様書』も含まれていました。

一、材料 杉板極小節ニシテ充分乾燥セシメタルモノ
一、寸法 長壱尺七寸、横五寸六分、厚サ四分ノモノニシテ表面及側面上下ハ仕上ケ鉋ヲ用フル事
一、塗  白ペンキ三遍塗ニシテ充分乾燥セシメタル後、黒色ペンキニテ町名ヲ楷書體ニテ記入スル事
一、検査 町名ノ文字記入前、材料、寸法、塗等ノ検査ヲ受ケ合格ノ後ニアラサレハ町名ヲ記入スル事ヲ得サルモノトス、但シ検査場所ハ請負人指定ノ場所ニ検査吏員出張ス 
一、納入場所 町名記載ノ各区役所
此他詳細ナル事項ハ庶務課商工掛ニ照会スルコト

 この『製作仕様書』から、木製町名表示板の下地の色、住所表記の文字の色と定めていたことが明らかとなりました。
 一方、その町名表示板の現物には、下部にウッスラと仁丹の商標が見えているようです。ところが、『製作仕様書』では仁丹の商標についての記載がありません。
 また、京都の木製町名表示板には赤色に塗られた額縁状の外枠が付いていますが、これも東京の『製作仕様書』には何らの記載もありませんでした。




2022年5月27日 (金)

京都の住所表示 ーその明快さー

 去る5月2日、京都市内の繁華街でブランド腕時計買取り販売店に強盗が入り、ハンマーでショウケースを叩き割り時計が盗まれるという事件がありました。この荒っぽい犯行で盗まれたのは高級腕時計約50点、被害額は数千万円ということでした。
 強盗に押し入られて被害に遭った店の所在地は、朝日新聞京都版の記事では「中京区手洗水町」とありました。最近ではどの新聞もこのような表記方法を採っているようです。
 ところが、京都に生まれ育った私達でもこのように町名表記だけに省略されてしまうと、そこがどの辺りなのかもう一つよく判りません。
 何かと忙しない現代社会にあって、まどろっこしい表記方法はやめて簡略化しているのでしょうか? 根っからの京都人であれば、このように不親切な表現はしません。

 手洗水町の町域は烏丸通に面する両側、蛸薬師通と錦小路通の間を占める町です。
 そして強盗に入られた店舗は、烏丸蛸薬師の交差点南東角のビル1階にあり、店が公称する所在地は「京都市中京区手洗水町646−2 烏丸第三スタービル」となっています。
 元々の京都人であれば、このような位置関係にある場所は次のように表記します。これを京都方式とでもしておきましょう。
 「京都市中京区烏丸通蛸薬師下ル手洗水町642-2 烏丸第三スタービル」となります。
 このように表記することで、手洗水町は烏丸通蛸薬師の交差点の南にあることが分かります。
 いわゆる旧市内(現在の京都市内中心部)では、◯◯通◯◯上ル、◯◯通◯◯下ル、◯◯通◯◯東入、◯◯通◯◯西入とした後に町名を表記することで、通りと通りの交わる所(交差点)を基点として、どちらの方向なのかが判るのです。このような形式の表記は室町時代の末期に始まるようです。
 なお、「上ル」は北方へ行く、「下ル」は南方に行くことを意味しています。「東入」と「西入」は言うまでも無いでしょう。

下京区鍵屋町の仁丹町名表示板
 この「鍵屋町」のケースでそれを見ると、若宮通と正面通との交差点より南側に位置していることが判ります。

Photo_20220505135501
 ちなみに、京都では同一の行政区内に同じ名称の町名が複数あることが珍しくありません。
 例えば、上京区の亀屋町、下京区の鍵屋町などは、同じ町名が四つもあります。このため、下京区鍵屋町だけではどこの鍵屋町なのか判らないのです。
 極端なケースでは、下京区の万寿寺通には堅田町というのが四つ、中京区では夷川通に泉町が四つ、いずれも僅か200メートル余りの間にひしめくように存在しています。

 なので、京都の場合は周辺部の地域は別として、旧市内と称されることもある中心部では住所地や所在地を表すとき、「行政区名+町名」だけで要をなさないことがあるのです。
 したがって、京都方式の住所表記は長くて面倒といえば面倒です。しかし、目指す地点がどこにあるのかを明瞭に認識できるという点では、親切で丁寧な良さがあるのです。





2022年4月 1日 (金)

安元の大火と出火原因

 下京区には、万寿寺通御幸町の西方に「堅田町」という町があります。
 この堅田町、初めは魚屋町と称したと云う。近江国(滋賀県)から日々湖魚を運んでこれを販売したが、錦小路に市場が立ってそこに合併したとされる。
 堅田町と改称した時期は不詳とするが、町の名称はもしかすると、都に湖魚を送っていた現在の滋賀県大津市堅田に縁由があるのかも知れません。

Photo_20220331133201
 上部が特に劣化していて見づらい仁丹町名表示板です。
 表記は「下京區 萬壽寺通御幸町西入 堅田町」とある。

 さて、平安時代も末期の安元3年(1177)4月28日、樋口富小路の東にある、この堅田町から出火した。樋口は樋口小路のことで現在の万寿寺通、富小路は現在の麸屋町通にあたる。
 この火災は、世に安元の大火(太郎焼亡とも)と称された。風に煽られて北西に延焼、左京の三分の一を焼き尽くす大火災で、都が平安京に遷ってから最も大きな被害となった。
 『平家物語』には、朱雀門・応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・諸司・八省・調所など宮城の諸施設までもが一時のうちに炎上したと記述している。
 このような大事態となったために、元号を「安元」から「治承」に変えたほどなのです。元号には呪術的な要素があるため、これを改めること(改元)で災いを除いて、世を一新すると考えられていた。

 『源平盛衰記』にも、安元の大火についての記述があるので見てみます。もっとも、これは軍記物語(文学)であるため、どこまでが真実なのかは不明です。
 さて、安元の大火は武士の狼藉が出火原因なのですが、そのえげつなさと乱暴さには空いた口が塞がらないといった感じなのです。その記述を大雑把に見てみましょう。
 平重盛(平清盛の長男で小松殿と称された)の乳母の子である成田兵衛為成など7人の者が、十禅師の神輿に矢をいかけるという狼藉を働いたのです。その責を問われて磔の刑や簀巻きにして水に投げ込む刑に処されるところを、重盛に免じられ伊賀国へ流罪と決まった。
 そこで、成田為成は同僚などとの別れを惜しんで酒盛りをした。ところが、皆んなが酒に酔っぱらい正気を失った状態になってきた。その時、伊賀の田舎に流される成田へ進めるべき酒の肴が無いぞ。そこで、肴にしようと髷を切って差し出す者、ヤー面白い負けてなるものかと耳を斬って出す者、命に勝る宝は無いぞその命を肴にしようと腹を掻き切って倒れ伏す者、とエスカレートしていく。
 ついには成田兵衛本人も、俺は再び都に戻って酒を飲むこともないだろうから、俺も肴を出すぞと云い自害して死んだ。
 そして、家主の男は自分が生き残っても、六波羅に召し出されて無事には済まないだろうと言って、家に火をつけて飛び込み焼け死んだ。

 ちなみに、安元の大火について記述のあるものに、公卿九条兼実の日記『玉葉(玉海)』、公卿三条実房の日記『愚昧記』など、史書『百錬抄』。また文学にも、鴨長明『方丈記』、作者未詳『平家物語』などがあるようです。





2021年8月20日 (金)

京の市場事情 2 ー近 世ー

 時代は変わり、江戸時代になると農耕で牛馬の利用が増え、また二毛作が広まるなど農業生産力が急激に向上します。そして、京の人口増加による青物蔬菜の需要増大とが相俟って、青物の立売市場が大いに発展します。
 それらの青物市場は隣接する魚市場と一体となって、京の人々の食生活を支える大規模な市場となっていきました。

 ちなみに、京の魚市場としては、次のような上・中・下の著名な3カ所の魚棚(うおのたな)がありました。

椹木町通(上の魚棚)

『京町鑑』に、椹木町通を「俗に上魚棚通 此通中頃椹木をあきなふ材木屋多くありし故名とす 又釜座邉魚商ふ家多し故魚棚と云」としている。
『京羽二重』も、「東にてさはら木町通と云 西にて魚の棚通と云」として、所在の諸商人として「新町にし 生肴  八百や」と記す。

東魚屋町(椹木町通)の町名表示板

Photo_20210818170701


 往時は、椹木町通の西洞院通から堀川通までの間に魚市場があり、現在も東魚屋町・西山崎町(かつては西魚屋町が通称か)の町名が残っている。


錦小路通(中の魚棚)

『京町鑑』に、「いつの頃よりにや 魚商ふ店おほく今におゐて住居す仍而 世に中の魚棚とよぶ」として、「麸屋町西入 東魚棚町、柳馬場西入 中魚棚町、高倉西入 西魚屋町」と町名を記している。
 ここも慶長期以来の魚市場があり、魚鳥・菜果をも商った。
 現在も、富小路通と柳馬場通の間に東魚屋町、堺町通と高倉通の間に中魚屋町、その西の東洞院通までに西魚屋町があり、近辺には八百屋町・貝屋町という町名も残っています。


六条通(下の魚棚)

 寛永年間に、下魚棚通にあった魚市場が六条通に移されて盛んに売買されるようになった。
 『京町鑑』は、「此通魚屋多し 故に是を下魚棚といふ」とし、「室町東入 東魚屋町、新町西入 西魚屋町、西洞院西入 北魚屋町」の町名を挙げている。
 こうして、六条通に魚棚通という通称が生じて一般化した。しかし、明治になってからは振るわなくなり、名はあっても実は無くなってしまいました。

東魚屋町(六条通)の町名表示板

Photo_20210818171101
 現在も、室町通東入に東魚屋町、室町通西入に西魚屋町の町名が、また西魚屋町の南側には八百屋町という町名も残っている。

ちなみに、六条通(下の魚棚)に関わることを。
 七条通の一筋南に下魚棚通があって、東は西洞院通から西は大宮通まで通っています。
 ここには、寛永年間に六条通へ移転するまで慶長期以来の魚市場がありました。
 しかし、下魚棚一町目から下魚棚四丁目まであった町名も、現在では「下魚棚四町目」を除いて隣接する町に合併されたために消滅しています。
 なお、この下魚棚通の魚市場に近接して青物市場もあったのですが、その名残りが今も八百屋町・西八百屋町・南八百屋町の町名として残っています。



 

2021年8月13日 (金)

京の市場事情 1 ー古代から中世ー

 平安京には、左京に東市(ひがしのいち)、右京には西市(にしのいち)の2ヶ所の官営の市が設けられていました。
 どちらも四町四方の広さで、その周囲には外町が設けられていたということです。そして、市(いち)の開催日は、1ヶ月のうち前半は東市が、そして後半は西市が開かれて、開催時間は正午に始まって日没前に解散したようです。

 下京区河原町通六条西入本塩竈町にある市比売神社、いまでは縁結び・子授け・女人厄除けなど女性の願い事にご利益があるとされるパワースポットですが、元は延暦14年(795)東西の市に市杵島比売命を勧請したもので市(いち)の守護神でした。

市比賣神社(市姫神社)

Photo_20210812165501

 ところが、平安京の右京域は湿潤な土地柄から、10世紀頃には衰退してしまいます。したがって、右京に設けられていた西市もまたすっかり寂れてしまうのですが、左京の東市の方は繁栄したようです。
 しかし、東・西両市ともに平安京の南端近くに位置したため、また官営の市ということから、やがて平安京社会の実情に合わなくなって衰退してしまいました。

 その頃、官衙(平安宮の役所)に所属して手工業生産に携わていた厨町(くりやまち)の職人・工人は、律令制が衰退して朝廷の権力が弱体化するとともに、その束縛から解放されて独立した手工業者として町尻小路(新町通)の三条・六角・錦小路・四条などに居を構え、東西市に代わって新たな商業経済の中心となっていきました。

 下って、鎌倉・室町の頃になると、市中の商工業者や近在の農民たちが売り物を持ってきて、道端や軒下などで露天商いをしたようです。
 このように店棚を持たないで商いをするのが「立売(たちうり)」で、そうした商い人の集中する通りの名称として、上立売通・中立売通・下立売通の名称が生じ、今に至るまで名をとどめています。『京雀』『京町鑑』などの地誌によれば、初期は絹布巻物類の立ち売り(裁ち売り?)に始まったようで、次第に棚売り(店売り)へと発展していきます。
 これらの通りには立売に因む町名も残っていて、上立売通には上立売町・上立売東町、下立売通には東立売町がある。

 現在では通りの名称としては残っていないのですが、四条通にも麸屋町通から東洞院通の間に、立売東町・立売中之町・立売西町という町名が現存しています。四条立売と総称して、室町時代には百貨売買の重要な市場として繁盛したようですが、『都名所図會』には、「むかし大内裏の時、此所諸品を商ふ市場なり。今毎朝高倉四條の北に野草の市あり、往古の余風歟」とある。

「四條立賣」

Photo_20210814172201
 また、伏見にも桃山町立売という町名が大手筋通の南、第一期の伏見城があった桃山町泰長老の北側に残っています。




2021年5月28日 (金)

えーッ! この町名はなに?

 町名には、その多くにそれぞれ来歴・謂れといったものがあるのが普通です。
 例えば、故事や伝承に由来するもの、職種や職業に由来するもの、寺社(神仏信仰)に因むもの、交通や交易(関所・市)に因むものなどなど。類型あるいは様式があまりにも多岐に渡るため、簡単には仕分け切れないほどの種類の町名があります。もちろん、今となっては来由が不明となってしまったものもありますが。
 そして町名やその由来から受ける、味わいや情趣といったものがあります。

 ところが、中にはそうしたものが全く感じられない、素っ気なく無愛想な町名もあります。
 もっとも、町名というものが、単にある地点・ある地域を表す記号に過ぎないものだとするなら、そうした素っ気ない命名の町名ほど簡単明瞭なものはないだろうと思われます。

 例えば、南北の「通り名」と東西の「通り名」を組み合わせただけの町名が、いわゆる旧市内のそれも中心部の地域に集中して存在します。
 そのような町名は、東は室町通りと西は大宮通の間、北は二条通と南が高辻通の間に多く見られます。

「五坊大宮町」の町名表示板
 「五坊」は「五条坊門小路」の省略形で、現在の仏光寺通に相当します。
 平安時代の街路名の名残ですね。

Photo_20210513152401
 例えば、大宮通にそうした町名を見てみると、御池通から松原通までの間は軒並みことごとく、こうした町名が続いています。
 三坊大宮町・姉大宮町東側・姉大宮町西側・三条大宮町・六角大宮町・四坊大宮町・錦大宮町・四条大宮町・綾大宮町・五坊大宮町・高辻大宮町といった具合です。
 いずれも、それらの町名は「南北の通り」と「東西の通り」が交差する地点の呼称を、町名としているのです。
 もっとも、そんな安直な命名ともいえるような町名であっても、それがどこにある町なのか、位置がは極めて容易に判明するという便利さ・良さはあります。

 ところがそんな、通り名と通り名を組み合わせた町名も、そのままでは長くなってしまう場合には、一部を省略することで短くしています。
 省略の仕方は、先にあげた例で言えば大宮通りと交差している東西の通りの名称を省略しています。例えば、三条坊門大宮町が三坊大宮町に、姉小路大宮町が姉大宮町に、錦小路大宮町が錦大宮町に、綾小路大宮町が綾大宮町に、といったようにです。
 なお、これらの町名で三坊・四坊・五坊というのは、平安期の通り名である三条坊門小路・四条坊門小路・五条坊門小路が略称されたもので、現在の通り名で言えば御池通・蛸薬師通・仏光寺通に相当します。




2021年4月16日 (金)

別の名もあった通り 2 ー大黒町通ー

 大黒町通は、大和大路通の一筋西側を南北に通っている道で、北は松原通から南は七条通に至る道です。
 『京都坊目誌』には、大黒町通の名称由来を「此街壽延寺に大黒天の像を安置す。故に名く。」として、大黒町通松原下ル北御門町にある寿延寺に祀られた大黒天像に因むとしています。

寿延寺

Photo_20210225172601
 『京町鑑』などの地誌によると、その大黒町通には次のように区間によって別の呼称があったようなのです。

大黒町通

Photo_20210225173001
 『京町鑑』では「骨屋町通」についての記述の中で、「但此通五條通より北は大黒町なり」とあるように、五条通から北の松原通までの間を大黒町通と称していたようです。

骨屋町通
 上掲『京町鑑』に、「◯骨屋町通 △此通の南に扇子の骨を製作するもの多く住す故に號す」とし、「⚫︎但此通五條通より北は大黒町なり扨五條下ルより南は大佛正面まで」と記しています。
 つまり、五条通から南の正面通までを骨屋町通と称したのです。この一帯に扇子の骨を製作する者が集住したことが名称の由来だとする。

袋町通
 「袋町」の仁丹町名表示板(写真提供は京都仁丹樂會)

Photo_20210225173901
 『京都坊目誌』には、「大黒町通 (中略)、五條以南にて、袋町通又耳塚通とも称す。正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」とあります。
 なお、この「袋町通」は、大黒町通五条下ルに「袋町」が所在することが名称の由来。なお、往時の袋町へは南から北に向かって入るが、その先で音羽川の流れに阻まれて五条通まで通じていなかったため、袋小路となっていたことから生じた呼称だとする。

浄雲寺
 寺門の正面奥に見える本堂の裏手で音羽川は流路を変えていた。

Photo_20210225174501
音羽川跡の一部(前方の人家の間の細い道)

Photo_20210225175101
本町公園から流路跡の音羽川北通を望む

Photo_20210225175401
【註】音羽川は、現在では流路のほとんどが暗渠になっているため地図に現れていません。近世末の地図や『京都坊目誌』によると、清水寺奥の院にある「音羽の滝」に発して南西に流れ、五条橋東六町目を経て馬町通(現・渋谷通)の北裏沿いを西に流れ、常磐町・鐘鋳町・芳野町・石垣町・袋町の町々の北側を流れて、本町一丁目の東側にある浄雲寺に行き当たると、ここから南に流れを変え本町三丁目と四丁目の境界の辺り(今の本町公園)から通称音羽川北通りを西に向かい鴨川に流入していたようです。

耳塚通
 『京町鑑』は、「此通北は大佛正面通より南は七條通迄」としている。
 耳塚通は大黒町通の正面から南をいうが、通り名の由来は正面通に耳塚が所在するため。

耳 塚

Photo_20210225175801
【註】耳塚は、豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した時(文禄・慶長の役)、討ち取った朝鮮人の耳や鼻を集めて、持ち帰りここに埋めたという。

塗師屋町通
 耳塚通は塗師屋町通ともいう

Photo_20210225180201
 『京都坊目誌』には、耳塚以南については耳塚通りの呼称のほかに、「正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」として、正面通から南つまり耳塚以南を塗師屋町通とも称したとしている。
 髹(きゅう)塗り、つまり漆塗りを業とする者が住んだことからこのように呼んだという。




2020年5月29日 (金)

町名の「何で?」 (その2)

 先頃の記事『町名の「何で?」(その1)』では、「*丁目(町目)」という町名は、その町がいくつ目(何番目)の町であるかを意味していると書きました。

 今回は、それならこれは何でなの?と思わせる町名について考えてみました。

 下京区にある「下魚棚通」、この通りは七条通の一筋南にあって、西洞院通と大宮通の間を通っています。通り名称の由来を『京都坊目誌』には、「慶長以来此街に魚鳥市場あり。後ち魚棚に移す。街名のみ之に存す」と記す。「魚棚」と言うのは今の六条通りのことです。

東魚屋町
 この六条通(旧称・魚棚通)に、下魚棚通から魚鳥菜果を賣買する市場が移転してきたという。

Photo_20200521165901
 その下魚棚通の、西堀川通と猪熊通間の北側に「下魚棚四丁目」という町があります。
 ところが、この「下魚棚四丁目」だけがポツンといった感じで存在していて、その周辺に「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」は存在していません。
 『京都坊目誌』を見ると、「下魚棚四丁目 西洞院より四町目に當る。故に名とす。」、つまり西洞院から四つめの町にあたることが町名の由来だとしています。したがって、西洞院通から4丁(約436メートル)の距離に位置する町と云うわけではないのです。

 ちなみに、西洞院通りから西へ順に「大黒町」「土橋町」「八百屋町」と続き、まさに四つめの町が「下魚棚四丁目」でした。
 再びそれらの町名を『京都坊目誌』で見ると、以下のように記していました❗

「大黒町」は、「本町の裏に下魚棚一丁目あり。明治二年三月此に合併す」
「土橋町」は、「本町南裏北側は下魚棚二町目と呼びしが。明治二年三月此に合併す」
「八百屋町」は、「南裏北側は下魚棚三町目と称す。明治二年三月本町に合併す」
 ですから、かつては「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」も実在したのですが、合併によって消滅したのです。そして、それらの町も、やはり西洞院通りから数えて何番目の町というのが、町名の由来だったのです❗❗

 つぎです。
 上京区元誓願寺通千本東入にもポツンと孤立したように、「元四丁目」という町があります。

Photo_20200521171701
 『京町鑑』には「▲元誓願寺四町目」とあり、『京都坊目誌』も「元誓願寺通四丁目也、今略稱を用ゆ。」としています。ということで現在の町名は「元誓願寺(通)」が省略されたのです。
 このケースも、東方にある智恵光院通から四つ目の町であることが、町名の由来となっているのでしょうか?
 そう考えた理由は、元誓願寺通の一筋南の笹屋町通には、智恵光院通に始まり西へ順に「笹屋町一町目」から「笹屋町五町目」までの町があることから、同様のネーミングではと類推したのです。
 ところがうまく行きません💦 『京都坊目誌』には元中之町・今出川町・革堂町の各町は、それぞれ元誓願寺一丁目・元誓願寺二丁目・元誓願寺三丁目から町名を改めたものとの記述は見当たりません。
 また、「元四丁目」は智恵光院通からの距離が250m余りですから、4丁(約436m)の距離に位置しているからということでもありません。
 ということで、「元四丁目」だけが智恵光院通から4番目の町であることをもって町名由来としたのでしょうか。どんなものでしょう❗


より以前の記事一覧