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仁丹町名表示板

2017年11月17日 (金)

辻子 −猿屋辻子ー

 辻子に面する、北側の上堀詰町・本町新五町目、南側の下堀詰町・本町五町目との境界となっている小路です。

猿屋辻子

Photo

 『京都坊目誌』の「上堀詰町」項に、「因云 當町より本町通に通ずる小街あり。之を猿屋辻子と字す。」と記しており、この辻子は鞘町通と本町通の間を通っている。


上堀詰町の仁丹町名表示板

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 やはり『京都坊目誌』によれば、この一帯の元は磧地(河原)を開拓して耕地とした所。延宝の頃になってから人家を建て連ね、上・下堀詰町の名が付されたようで、この西側の地は河原田町と云ったが明治2年に堀詰町に合併したと云う。

 また、「鞘町通」は、天正慶長の頃に開けたようで、当時は刀剣の鞘師と柄巻き等の織工が居住したことが通り名の起りとする。

 「本町通」は、五条通の本町一町目を起点として二十二町目を経て、その南は伏見となり橦木町に至る。橦木町のすぐ南は京町通に接続していて、かつての伏見城下の中心に通じていた。このため、伏見街道とも称された。


2017年9月29日 (金)

辻子 ー五葉辻子ー

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 五葉辻子は、本町通(伏見街道)の本町十一丁目から、東側にある滝尾神社社頭を東行して、東大路通までの間。
 本町十一丁目・五葉ノ辻町・雀ヶ森町を通貫しています。


滝尾神社本殿

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 五葉辻子はかつての「泉涌寺道」でしたが、現在の泉涌寺道は本町通を少しばかり北に行った所、一橋小学校と本町郵便局の間を東へ向かう道です。
 ちなみに、「本町十一丁目」の町名由来は、本町通の起点である五条通から十一町目に当たるからです。


本町十一丁目の仁丹町名表示板

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 本町通、本町十一町目の北端で本町十丁目との境にある宝樹寺の北側、かつてはここを東から西に今熊野川が流れ、鴨川に流入していたようです。その流路は現在では埋め立てられて細い道となっています。
 明治元年まではここに架かっていた石造の一之橋が、愛宕郡と紀伊郡の郡界となっていました。一之橋は古来有名な橋だったようで、元禄期の俳人宝井其角は「ほととぎす一二の橋の夜明けかな」と吟じています。
 伏見街道(本町通)の十一町目から十八町目までは、かつての法性寺の寺域を通っていたようで、この間に架けられた橋が一之橋・二ノ橋・三之橋と称された。しかし、廃寺となってからは東福寺領となりました。(法性寺は浄土宗西山派に属する寺院だったそうです)

2017年9月 8日 (金)

辻子 ー長光寺辻子ー

 高倉通万寿寺上ル 福田寺町を西行して突き当たりを南行する鉤型の小路が長香寺辻子です。

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 「長光寺辻子」の名称は、現町名の「福田寺町」へ変わる前の呼称で、すぐ北隣の樋之下町にある長香寺に由来します。
 ちなみに、『京町鑑』には万寿寺中之町の「北側に高辻へ出る辻子を 新堀上之町 叉俗に長光寺辻子と云」、樋之下町の「南の方西入所 ㋵福田寺新地上之町 長光寺新地とも云則此町に長光寺と云浄土宗の寺あり」と記しています。

 また、「福田寺町」の由来は、慶長3年の豊国社造営に際して、東山汁谷(現東山区渋谷)からこの地に移転してきた福田寺が町名の由来です。その後さらに移転して、現在では六条通河原町西入に所在します。


福田寺町の仁丹町名表示板
 木製で希少なものです

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2017年5月12日 (金)

辻子 ー伊勢殿構ノ辻子ー

 田丸町、東西俵屋町、伊勢殿構町を通貫していたものと考えられる。
 現在の土屋町通中立売から北行して一条通までを云ったものでしょうか。

 ところで、現在の土屋町通、北は一条通から南は竹屋町通まで通じていますすが、昔は非常に短い通りだったようです。
 『京都坊目誌』によれば、土屋町通は元和元年(1615)に開通した通りで、はじめ北は上長者町通から南が下立売通までの短い通りでした。
 宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では「此通上長者町より出水迄二町の間也」と記しているので、この頃には下長者町通から南の出水通まで延長されていたことが判る。
 したがって、伊勢殿構ノ辻子は北に延伸された土屋町通の北端部にあたるようです。

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 『京都坊目誌』「田丸町」の項に、「相伝ふ聚楽城廃城の後、此辺田圃と化し、中に僅少の人煙ありしと。当時田丸町より接続地に伊勢殿構ノ辻子あり、今其字名を称せず。僅かに北側に其址を存せり」としています。


伊勢殿構町の仁丹町名表示板

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 天正期、豊臣秀吉の築いた聚楽城が興隆した頃、伊勢兵部少輔の屋敷に通じていたことから、伊勢殿構ノ辻子と称したようで、伊勢殿構町の町名もこれに由来しています。
 なお、伊勢兵部少輔(伊勢貞昌)は大名ではなく、島津藩の筆頭家老だったと云うことです。


2017年3月24日 (金)

上高野鐘突町 ーカネツキ地名の由来ー

 叡山電鉄本線「三宅八幡」駅のすぐ近くに、「左京区上高野鐘突町」という町があります。

《上高野鐘突町の仁丹町名表示板》

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 「上高野」は比叡山の山麓に位置していて、この一帯の中央を流れる高野川の谷口扇状地となっています。
 高野川沿いを遡る若狭街道は、古くから八瀬・大原を経て途中越えで、若狭(福井県)と近江(滋賀県)へ通じる街道でした。

 ところで地名には、そのように呼ばれるに至った理由・由緒があります。この「鐘突町」という地名は何に由来しているのでしょうか。

 京都府下の「カネツキ」地名を調べたところ、次の6ヶ所が見つかりました。実際にはもっとあるのでしょうが探しきれませんでした。
  左京区上高野鐘突
  綴喜郡井手町多賀鐘付
  亀岡市曽我部町穴太鐘ツキ
  山科区小野鐘付田
  京田辺市松井鐘付田
  相楽郡精華町下狛鐘付田


 土地には、皇室の所有地(御料地)・幕府の直轄領(天領)、大小名の封地(私領)などがありました。そして、それぞれの所領には、領地経営に関する事務や雑務を執り行うための組織・機関が設けられていました。

 また、規模の大きい神社・寺院には、所有権・知行権を承認(安堵)された領地(寺社領)を持つところもありました。
 これらの所領を持つ規模の大きな社寺でも、年貢収納など寺領を支配管理するための組織を備えていました。

 寺院の場合、寺役所でその実務を行ない、そのために寺領内の百姓から取り立てた代官・寺侍・寺役人を置いていたのです。
 鐘を撞き(突き)鳴らすことで時刻を知らせる、灌漑用水の水門を開け閉めする、洪水などの非常事態を知らせるなどの役割は寺役人が担っていました。その鐘撞き役人に支給する手当を賄うための田地、これが「カネツキデン」と呼ばれ、それが地名として残ったのでしょうか。


 「カネツキ」ではないのですが、少し気になる地名に「カネウチ」というのが目につきました。
  船井郡京丹波町安栖里鐘打
 この「鐘打」には金刀比羅神社があり、『京都府の地名」(平凡社)によれば、神社の社伝にその昔は七堂があったと記しているようです。「鐘打」は、鐘楼のあった所だったのかも知れません。

 ところで、神社に鐘撞き堂(鐘楼)があると云えば奇異な感じがします。
 しかし、昔は奇異なことでもなく、江戸時代までは神仏習合(神仏混淆)で神社とお寺が同一の境内にあったのです。ところが、明治元年(1868)に神仏習合を禁じる神仏分離令が出されて、廃仏毀釈運動が起りました。神社の鐘楼は、こうした混乱期を乗り越えて今に残っているのでしょう。
 京都でもこうした鐘楼の残る神社が無いものかと探しましたが、残念ながら今のところ見当たりません。

《篠山市川原・住吉神社の鐘楼》
  この写真は篠山市のホームページから借用。

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 寛文2年(1662)に、篠山藩第4代藩主松平康信が 寄進したという鐘楼。篠山市内にある鐘楼建築の中でも特に優れたものとされ、四脚単層、本瓦葺、総ケヤキ造で篠山市指定文化財となっている。

2017年3月10日 (金)

辻子 ー聖天辻子ー

 智恵光院通寺之内の一筋南を西行する小路(通称・聖天町通)で、観世辻子(上立売通)の北の小路。
 聖天町・伊佐町を通貫している。

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 雨宝院に安置される通称西陣聖天と呼ばれる本尊の聖天が、辻子名・町名の由来です。
 この雨宝院の本尊は大聖歓喜天であり、元は千本五辻いあって大聖歓喜寺と称したようです。しかし、応仁の乱で荒廃し、一宇のみ残存して雨宝院と称していたが、天正年間にこの地に移ったということです。

 『京都坊目誌』に、「町内中央より東。伊佐町に通する小街を世俗 聖天ノ辻子と呼べり」と辻子の位置を記しています。
 『京羽二重』には、「大宮どをり紋やの辻子のにし上る所」とある。


聖天町の仁丹町名表示板

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2017年1月13日 (金)

辻子 ー花山辻子ー

 姥ヶ東西町・姥ヶ榎木町・西五辻東町を南北に通っている小路です。
 上立売通浄福寺の二筋西の通り、姥ヶ東西町中程から南行して五辻通までの間を云います。

 この南北の通りの名称について、『京都坊目誌』では「姥ヶ北町通」としており「北は寺之内に起り、南は五辻に至る」、さらに、「街名起源 元姥ヶ懐と称する字なり、開坊の時(慶長の頃)取て稱とす」と記しています。

 また、「姥ヶ榎木町」の説明の中で、「叉此町を花山ノ辻子に云ふ 近世圖に見ゆ」としています。


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 なお上掲書には、この辺り一帯から千本通にかけて、町として開ける前には原野あるいは畑地であったこと、この一帯を「姥ヶ懐(うばがふところ)」という字名だったとも記しています。
 そして、町となるにあたって町名にその字名を冠したのだとしています。 
 その字名「姥ヶ懐」については、特に説明はありません。「姥のふところ」?「老婆のふところ」?、はてさて何のことでしよう。
 ということで、この周辺の町名の多くが「姥ヶ◯◯◯町」といった名称となっているのです。
 かつて、毎年5月の今宮神社祭礼の時には、各町で掲出する神灯には◯の中に姥、懐の字を紋章として付けていたのは、こうした昔の名残りだと云っています。


「姥ケ西町」の仁丹町名表示板
 これは現存数の極めて少ない木製の一つです

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2016年12月30日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の2

2. 三本木町は何処へ?

 前回に見た東洞院通丸太町上ルに存在していた上三本木各町の移転について、『京都坊目誌』には次のように記しています。

 「寶永五年の大火に内裏炎上す。尋(つい)で築地の取擴けあり。東洞院より烏丸まで。北は下長者町より南は丸太町迄の町地を買収し。皇宮地に編入せらる。此時一町目より三町目の転地を命せらる。仍(かさね)て其替地たる丸太町の北。鴨川の西に移住す。今尚三本木の稱あり」と。


 東三本木通

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 西三本木通

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 そして、東洞院通についての記述では、「當時上長者町まで通ぜしが。寳永五年皇宮地に入るを以て。丸太町まで閉塞す。其間にありし町家を。河東二條に移転せしむ。今尚ほ新東洞院と云ふ。」
 さらに、「新東洞院町 新東洞院通二條下るより二王門までを云ふ。寶永五年の開発にして元東洞院丸太町以北、三本木一・二・三町目の町民を此に移す」と、鴨川の東側の二条通と仁王門通間の新東洞院通に移転させられたことを記しています。


 新東洞院通

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 このように、上三本木一町目から三町目の住民は、鴨川の西と東の2カ所に分かれて移転させられたのでした。


3. 移転して新たに開かれた町々

 ところが、移転させられたのは東洞院通から烏丸通沿いの住民だけではありませんでした。丸太町通から北側については、西は烏丸通から東は寺町通までの間の全ての民家が移転させられたのです。
 このように大規模な移転でしたから、移住先となった主な代替地だけでも次の4カ所に及びました。
 そして、人々が移住した先の町名や通り名には、旧地を偲んで次のような名称がつけられました。

① 鴨川西岸と河原町通の間で、丸太町の北側の一帯
 ここには先に書いた東洞院通丸太町以北の民家が移転しました。そして、旧地の通り名を採って、「東三本木通」「西三本木通」と名付けました。
② 鴨川東部(いわゆる河東)で、二条通と孫橋通の間
 ここには西は烏丸通、東は寺町通の間の丸太町通以北の民家が引き移りました。この鴨川東部の移転地では、通り名の全てが「新車屋町通」「新東洞院通」「新間之町通」などというように、旧地の通り名に「新」を付して「新◯◯◯通」という呼称にしました。
③ 寺町通と河原町通の間で、北は荒神口通から南は二条通に至る間
 ここへは丸太町以北の烏丸通東側にあった民家が移ります。そして、通り名は「新烏丸通」と命名されました。なお、天正期の秀吉による京都改造以来この一帯に輻輳して存在した多くの寺院は、賀茂川東部の仁王門通付近に移転させられています。
④ やはり寺町通と河原町通の間で、北は丸太町通から南は二条通までの間
 椹木町通烏丸から東の民家をここに移して、「新椹木町通」と称しました。


 それらの町の仁丹町名表示板

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   (追補 '17.1.11)
 『山州名跡志』中に、「三本木」の名称由来などの記述を見つけました。
 原文は仮名交じり文で読むのが煩わしいため、主要な点のみを現代文の体裁で要旨を記しておきます。

① 東洞院通の出水から南を上三本木町、下立売通の南を下三本木町と云った。
② 古老が云うには、平安時代にはこの辺りに監獄があり、その門外に三本の木(樗とも榎とも云われる)が植えられていた。これが地名「三本木」の名称由来となった。
③ 古くは、斬首された罪人の首は獄舎の木に懸けられた。このことから獄門と云った。

2016年12月23日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の1

1. 消滅した「上三本木町」

 現在の「三本木町」は、東洞院通の丸太町通と竹屋町通の間に位置する両側町です。

 三本木町の町並み

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 ところが、その南隣の町名は「三本木五町目」(竹屋町通と夷川通の間)となっていています。

 三本木五町目の町並み

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 「三本木五町目」が存在しているにもかかわらず、その北にあるはずの三本木一町目から四町目、そして南側の六町目以降が存在していません。
 これはどうしたことなのでしょうか? どのような事情があってのことなのか、大いに興味をひかれます。

 その辺りの事情を『京都坊目誌』の記述から見ていきます。
 同書の「三本木五町目」について説明した個所に、その答がありました。
 「東洞院通出水下る所を上三本木町と云ひ、一町目と呼ぶ。下立賣下るを二町目と呼び。椹木町下るを三町目と唱へ。丸太町下るを四町目と云ひ。當町に至り五町目となる。」としているのです。

 今では京都御所苑地となっていますが、かつての東洞院通には出水通と丸太町通の間に一町目から三町目までが存在したのです。
 そして、現在では丸太町下ルの町名は「三本木町」となっていますが、元々ここは「四町目」と称していたことが判ります。
 また、その南側(竹屋町通と夷川通の間)の現「三本木五町目」は、慶安の頃には「井筒屋町」「西井筒屋町」と称していましたが、明治2年2月に両町が合併して「五町目」という旧町名に戻したのだとしています。

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 そして、「三本木五町目」の南隣、つまり、夷川通から二条通までの現町名は「壷屋町」となっています。しかし、ここも始めは「三本木六町目」と称していたのですが、慶安期から現町名に改めたと記しています。(右の仁丹町名表示板、劣化が激しく見辛いのですが「壷屋町」のものです)

 以上に見てきたように、かつての東洞院通には北は出水通から南の二条通までの間に、「三本木一町目」から「三本木六町目」までの6町が連なって存在していたのです。
 ところが、丸太町通から北にあった一町目から三町目までの地は、宝永5年(1708)の大火のあと、京都御所が拡張されることになり、苑地に取り込まれてしまい消滅したのです。
 そして、その一帯に居住していた住民は立ち退きを余儀なくされ、代替地に移住させられました。


【註】「宝永五年の大火」とは
 宝永5年(1708)3月8日の午の刻(現在の正午12時頃)に油小路通姉小路下ル、西側二軒目の両替商伊勢屋市兵衛方から出火。強風のために東北方向また東南方向へと燃え広がり、多くの公家・武家屋敷や社寺が灰燼に帰し、御所までもが炎上した。その被害区域は東は鴨川、西は油小路通の西、南は四条、北は下鴨の河合神社辺りにまで及んだという。
 民家13,051戸、神社7、寺院74が焼失し、出火の翌9日未の刻(現在の午後2時)になって漸く鎮火したと云う大火事でした。

      《次回に続く》

2016年11月18日 (金)

辻子 ー萬年寺辻子ー 《補訂》

 以前(2014.5.2)に書いた記事「辻子 ーマンネンジノヅシー」、実はその辻子の位置がはたして正しかったのかどうか、ずっと気になっていたのです。
 しかしその後、新たに知り得たことが幾つかあって、誤りの訂正とあわせて足りない点を補い、全面的に書き直したものが本記事なのです。(当時の記事は、それはそれとして削除せずに残しています)

 ここで、まず「萬年寺辻子」とその界隈について簡単に説明しておきましょう。
 五条通河原町の一筋西にある道(現在の地図では「富小路通」となっている)は、本塩竈町を西寄りに斜行して六条通まで南下しています。そして、六条から南は真っ直ぐに上珠数屋町通(上枳殻馬場通とも云う)に至ります。
 この通は、かつて下寺町通と称していました。寺町通の南端は五条通まででしたが、明治になって五条通以南が通じたのです。このように、寺町通の下(しも)に当たることから、下寺町通と呼称されました。

 そして、この富小路通(元・下寺町通)を六条通まで南下すると、下寺町通はそこから真っ直ぐ南へ萬年寺の門前を通って上珠数屋町通に至りますが、ここが萬年寺辻子なのです。

 辻子の突き当たりは上珠数屋町通、築地塀の中は枳殻邸(東本願寺別邸)です。

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 その萬年寺辻子の途中、本塩釜町の南端と唐物町の境界にあたる地点から西方に延びる道があります。この道、かつては萬年寺通と称していたのですが、現在では花屋町通となっています。

仁丹町名表示板
 かつての萬年寺通=花屋町通沿いの家屋に設置されていました。

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 ここから本題の「萬年寺辻子」に戻ります。
 『京都坊目誌』中の「本鹽竃町」の記述から引用してみましょう。
 「元街名にして下寺町と称す。左右皆寺院なり。・・・(略)・・・此町南に於て萬年寺辻子と字す。萬年寺あるを以てなり。叉下寺町中央より東に通ずる小巷あり。市姫ノ辻子と稱す。市比賣神社あるを以てなり」とあります。
  つまり、下寺町通(本塩竈町)の南には、萬年寺があることから萬年寺辻子と云い、また、下寺町通の中程から東に入ると市姫神社があるので市姫辻子と称したのです。市姫辻子」については、以前(2014.4.11)に記事にしました。
 なお、萬年寺については、「萬年寺通烏丸の邊にありと。天正十九年豊臣氏の命に依り。現在の地に移轉す」と記していて、秀吉の京都大改造の折に花屋町通烏丸から今の場所へ移転させられたようです。

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 ということで、萬年寺辻子の所在する場所は、改めて次のように訂正します。
 「富小路通(元・下寺町通)六条の南、萬年寺の門前を南行して上珠数屋町通へと抜ける小路。栄町と本塩竈町の境界、唐物町、唐物町と八軒町の境界を南北に通貫しています。」
 したがって、当初は「本塩竈町を南北に通貫しています。(富小路通の五条〜六条の間)」としていたのは取り消します。実際には、この部分の南側だったのです。


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