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町名・地名の由来

2019年10月18日 (金)

消えた小椋池

 以前、といっても戦前のことなのですが巨椋池(おぐらいけ)という池が存在しました。
 東西4km、南北3km、周囲が16km、面積は8㎢(800ha)もある広大な池でした。現在の京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町の3市町にかけて広がっていたのですが、当時としては京都府下の淡水湖では最大の面積をもつ池でした。

往時の巨椋池
 淡交社『写真集成・京都百年パノラマ館』所載

Oguraike
 巨椋池一帯は宇治・木津・桂の三川が合流する低湿地であることから、沿岸は水禍の絶えない土地だった。そのため、水運・漁獲といった利益が損なわれることも多かった。
 昭和6年(1931)の満州事変以降、中国での侵略戦争を拡大していった日本は、昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入します。
 そうした折、食料不足から米増産のため、昭和8年(1933)に国営事業として巨椋池の干拓工事に着工します。そして、昭和16年に完工を見て約635haの水田地帯に変貌したのです。

巨椋池干拓之碑

 昭和17年11月の建立で、篆額は農林大臣井野碩哉。
 巨椋池が干拓農地となるに至った経緯が記されている。

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 今や干拓で姿を消した巨椋池は、古歌と地名にその名残りをとどめるだけです。
 『万葉集』に(原文)「巨椋乃  入江響奈理  射目人乃  伏見何田井爾  雁渡良之」という柿本人麻呂の歌があります。
 訓読すると、「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」となります。
  註:「とよむ」=響き渡る、「射目人」=伏見の枕詞、「田井」=田んぼ、「らし」=違いない。

巨椋神社

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 巨椋の語源は、古代の有力氏族であった巨椋連に因む、あるいは巨椋連の祖神を祀る巨椋神社に由来するなどといった説があります。
 しかし、一方では巨椋池一帯は、京都盆地では最も低湿な土地で、宇治川・木津川・桂川が流れ込む遊水池の役割を果たす湖沼であり、池の西端近くから淀川に流出していました。このような大きく刳られて、周囲よりも低い地形であることから来ていると見る向きもあるようです。

淀 大橋 孫橋
 挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から

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 京師より南の方三里にあり。顕住密勘に云く、淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとゞこほり、ぬるくとまれるなり。それをば淀といふ、河淀ともよめり。此淀川といふも、桂川、鴨川、宇治川、木津川等のをちあひて深ければ、よどみぬるくながるゝなり。云々」とあり、三川が寄り集まり川の水が澱んで滞留したことが、淀の地名由来だとしています。
 註:「顕住密勘」というのは、藤原定家等撰集になる『古今和歌集』の注釈書


 かつての巨椋池一帯の地名で、槙島・向島・上島・下島など「島」のつく地名は、巨椋池に流れ込む3川の運んだ土砂が作り出した島々の名残りなのです。

 ところで、ここまで「巨椋池」という呼称で説明してきましたが、この名称は明治以降になってからのものであって、江戸時代までは「大池」と呼ばれていたようです。
 文禄3年(1594)、豊臣秀吉は伏見城を築城するにあたって、大土木工事を実施します。
 それまでの宇治川は、宇治橋の少し下流にある彼方(現・乙方)で、大池に直接流れ落ちていましたが、大池と宇治川を分離する槙島堤を築いて、宇治川を大きく北ヘ迂回させて指月城(伏見城)の築かれた「指月の丘」の南側まで北上する新流路に付け替えました。
 註:謂わゆる伏見城というのは大きく分けて4つ(4期)ありました。1期は秀吉が聚楽第から引き移った隠居屋敷、2期が隠居屋敷を本格的な城郭として修築した「指月城」、3期は慶長の大地震で指月城が崩壊したためそこから東北の木幡山に新たに再建した木幡山城、4期が関ヶ原の戦いの前哨戦としての伏見城の戦いで焼失した木幡山城を徳川家康が再建した城。

 このとき、大池に槙島堤・小椋堤・大池堤・中内池堤など、太閤堤と総称される大規模な堤防が築かれたことで、大池・中内池・大内池・二の丸池の四つに区切られました。

指 月
 挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から

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 「江戸町より西の地名なり。此所伏見の勝地にして、前には宇治川の流れを帯て舟のゆきゝあり、西南は巨椋池の江渺々として方一里の水面なり、月を愛するには無双の景色にて、いにしへより高貴の楼閣をいとなみ、清質の悠々たるを升、澄暉の藹々たるを降すの地なり。」と記されていて、名だたる景勝の地であったようです。
 そして、現在の伏見区桃山町泰長老を中心とする「指月の丘」の麓と向島の間を流れる宇治川に、豊後橋を架けます。
 それまで京都と奈良を結ぶ大和街道は、宇治川の東側を木幡・宇治の彼方(乙方)・宇治橋を経ていたものを、宇治川の付け替えで伏見城下・豊後橋・向島から巨椋池池中の小椋堤を経て小倉・伊勢田・広野という経路に変えました。
 また、大池の西方では大池北岸に淀堤を築いて、宇治川を向島の西から淀川につないで、伏見と大坂の間に水運を開きました。

 以下は関連記事の予告です。
 往時の巨椋池の西南の端、淀の近くに「一口」と書いて「いもあらい」と読む集落があります。これは難読地名の最たるものでしょう。
 近いうちに、この「一口」の地名由来を記事にしてみたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

2019年9月27日 (金)

八 坂

 京都盆地東部の東山連峰、その北端にある比叡山(848m)から南端の稲荷山(233m)まで、約12Kmにわたって連なる峰々は「東山三十六峰」と称されてきた。
 この東山連峰は概ね北高南低となっていて、ほぼ中央にある清水山(242m)から南には、南端の稲荷山を除いて200mを越える峰は見られない。

東山連峰稜線の一部(阿弥陀が峰から稲荷山にかけて)

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 なだらかな起伏を見せる稜線は、服部嵐雪が「蒲団着て寝たるすがたやひがし山」と詠んだように、その優美な眺めは京都の景観美をなす要素の一つです。
[註:服部嵐雪は江戸時代前期の俳人で松尾芭蕉に俳句を学び、宝井其角・向井去来・森川許六などとともに蕉門十哲の一人とされる。]
 
 「八坂」は、古には京都盆地の東北部にあたる山城国愛宕郡(おたぎぐん)を構成した13郷の一つ八坂郷(也佐賀)で、平安京造都以前からあった地名と見られる。
 ちなみに13郷とは、蓼倉・栗野(栗栖野)・粟田(上・下)・大野・小野・錦織・八坂・鳥戸・愛宕・賀茂・出雲の各郷を言う。

八坂神社
 祇園社・祇園感神院などと呼ばれていたが、明治になって神仏分離に伴い現社名となった。

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 古代のこの一帯には高句麗系の渡来氏族とみられる八坂氏が居住したが、氏族名は地名を名乗ったもののようで、奈良時代の正倉院文書『山背國愛宕郡計帳』に「八坂馬養造」、平安時代初期の『新撰姓氏録』には「八坂造」と、その名が見られると云う。

 「八坂」の地名由来は、東山三十六峰が西方に向かって緩やかに傾斜する、坂の多い地形であることに因むようです。
 「ヤは数多いことをいう接頭語、サカは傾斜地である」(『地名が語る京都の歴史』)として、「ヤ」は数や量の「八」ではなく、「多い」「おびただしい」と云った意味であり、多くの坂のある土地を意味したとする説がある。
 また、「八坂はヤ+サカ(坂)で、ヤは弥栄(いやさか)などという場合のヤにあたり、坂にかかるいわばほめ言葉で、坂が立派なのでただ坂といわないで、ヤサカと称したものであろう。」(『京都の地名検証』)とする説もみられる。

 ところで、《八坂》地域の範囲は、参照した地誌によってその表現には違いがあるものの、いずれの書も同一の地域を指しています。
『山州名跡志』は、「其ノ方領凡ソ祇園ヨリ三年坂ニ至ル歟」
『山城名跡巡行志』は、「清水ヨリ祇園ノ邊二至ル郷名也 今法觀寺境内ヲ八坂町ト云フ」
『都名所圖会』は、「北は眞葛原南は清水坂までの惣名なり」
『京都坊目誌』は、「祇園以南清水坂以北の汎稱なり本町元法觀寺の境内なり。」

長楽寺坂

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法観寺坂から見る五重塔

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三年坂(産寧坂とも)

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 そして、《八坂》名称の由来については、上記の地誌のうち『京都坊目誌』を除いては、挙げている坂の名称は一致しています。それは、祇園坂・長楽寺坂・下河原坂・法観寺坂・霊山坂・三年坂・山井坂・清水坂の八つの坂としています。
 しかし、目を引くのは『京都坊目誌』で、「後世此地に八坂 所謂祇園坂。長樂寺坂。法觀寺坂。靈山坂。産寧坂。清水坂。山井坂。下河原坂。是ナリ あるを以て地名と爲れりと傳ふるは淺薄の甚だしきものなり。」と書いているのです。つまり、祇園坂など八つの坂のあることが八坂の地名由来だなどと言うのは、浅く薄っぺらな知識・考えであって従えないとしているのです。











2019年9月13日 (金)

京都の「上ル・下ル・東入・西入」

 京都のいわゆる旧市街地では、特定の場所の位置を表現するとき、あるいは進む方向を示すときには、南北道路(縱の通り)と東西道路(横の通り)の交差する地点を基準として表現します。
 北ヘ行く(移動する)のを「上ル(あがる)」、南に行くのを「下ル(さがる)」と表現します。また、東西への移動は「東入(ひがしいる)」「西入(にしいる)」と表現します。
 そして、これに町名・番地を付け加えることが、形式として慣習・慣例として定着しています。

仁丹町名表示板

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 ここで気を付けたいのは、「東入」「西入」の場合には慣習として送り仮名の「ル」は省略して付けません。
 しかし、「上ル」「下ル」の場合は「上(かみ)」「下(しも)」との混同を避ける必要があり、送り仮名「ル」を入れます。ただし、「ル」であり「ガル」とはしません。

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 ちなみに、江戸時代前期の儒学者(朱子学)である貝原益軒は、『京城勝覧』[宝永3年(1706)刊]で次のように、極めて簡潔に言い表しています。
 「京都の町南北を縱とし。東西を横とす。縦町なれば北にゆくをあがるといふ。南にゆくをさがるといふ。横町なれば。何の町を東へ入。西へ入と云。すべて此四言をもつて町を尋れば。まぎれなく尋やすし。」と、大変判りやすく表現しています。
 このような慣例がスタンダードとなったのはいつの頃なのか、確かなことは判っていません。
 しかし、近世に著された地誌類を見ると、すでに江戸時代初期の寛文期のものにはそのような表現を見ることができます。(例:寛文5年刊『京雀』など)

 ところで、「東入」と「西入」については特に説明がなくても判ります。しかし、北へ行くのを「上ル」、南に向かうのを「下ル」と表現するのは何故なのでしょうか。
 そうなった理由(らしいもの)として、二つばかり思い浮かびます。
 一つには、古代中国では「天子南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治をおこない、宮殿も南に向けて造営される習わしが影響しているようなのです。
 こうしたことから、お上(天皇)のおわす北は上(かみ)に上ル(あがる)、それに対して南は下(しも)へ下ル(さがる)と観念されることになったのでしょうか。
 もう一つは、京都盆地の地形は北から南西に向かって傾斜しており、鴨川や桂川などの主要河川は概ね北から南へと流れています。そのため、北が上流・上(かみ)・上手(かみて)で、南は下流・下(しも)・下手(しもて)と認識されることも影響しているのではないかと思われます。

 さて、『京町鑑』などの地誌書でも、南北の通りでは「上ル」と「下ル」、東西の通りでほ「東入」と「西入」という表現が普通に広く使われています。
 それでは、その使い方には法則性や基準といったものがあるのでしょうか。

 広がりのある地所、例えば町(ちょう)や広い境内地を持つ寺社などの所在位置を示す場合であれば、大雑把でおよその表現であっても、特に差し支えはありません。
 ところが、特定の狭い地点を表示する場合には、もっと的確でピンポイント的な表現をしなければ、正確さに欠けて用を足すのには不十分です。

 例えば、ある目標地が東西に通っている2つの通りの間にある場合、北側の通りに近いのか、それとも南側の通りに近いのか。その目的地が距離的には南側の通りに近いときには「下ル」ではなく、「上ル」と表記したほうが正確ということになります。

 これを具体的に例を挙げて説明しましょう。

京都市学校歴史博物館

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 写真の、京都市学校歴史博物館(元・開智小学校跡)の所在地は、京都市下京区御幸町通仏光寺下ル橘町437番地です。
 この表記の意味するところは、京都市学校歴史博物館は御幸町通の「仏光寺を下がったところ」にあるのであって、御幸町通の「高辻を上がったところ」ではないのです。判りやすくいえば、京都市学校歴史博物館は高辻通よりも、仏光寺通のほうに近いところに所在することを示しているのです。
 註:ちなみに、橘町は「たちばなチョウ」と読み、「たちばなマチ」ではありません。旧市内に限って言えば、町名の場合は「◯◯チョウ」であって、「◯◯マチ」と読むのは極めてまれです。

 そういう点では、江戸前期の地誌『京羽二重』や『京羽二重織留』などでも、例えば、目的の商家や諸職がその通りのどこに位置しているのか、北側の町筋に近ければ「下ル」と記し、南側の町筋に近い場合には「上ル」というように、現実に即して的確に位置を記述・説明しています。
 これは、東西の通り沿いにある目的地の場合においても同様となります。

 以上、京都に独特な方角・方向の表現について考えてみました。













2019年9月 6日 (金)

悪王子と悪王子社

エーっ! 悪王子?
 八坂神社の境内、本殿の東側に悪王子社(摂社)があります。

 悪王子社
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 「悪王子」という名前からは、何となく荒々しく粗暴で不吉な神といったイメージを持ちます。
 実はこの悪王子社、祀られているのは素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒御魂(あらみたま)なのです。
 神の霊魂には、荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)の二つの働きがあるとされていて、荒御魂は荒々しく活動的な作用をすると考えられました。
 古事記や日本書紀によると、素戔嗚尊は出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したことから、「悪王子」の称号を贈られた尊敬される神様だったのです。

 ところで、この悪王子社は、最初に鎮座した地から八坂神社に遷座するまでには、以下のように幾度かの遷座を繰り返しています。


元悪王子町
 悪王子社ははじめ、素戔嗚尊の御魂を祀る八坂神社の摂社として、東洞院通四條下ル(現・元悪王子町)に建立されました。鎮座の年月については詳らかではありません。

 悪王子社小祀
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 『京町鑑』には、「東洞院通」の項に「◯四条下ル  ▲元惡王子町 天正年中まで此町に惡王子社ありしを慶長年中に太閤秀吉公今の寺町四條祇園御旅所に移し給ひし也」と記しています。 
 しかし実際には、四條祇園御旅所に遷る前に、烏丸通五条上ル(現・悪王子町)の地に遷座しています。
 そのため、この東洞院通四條下ルの元鎮座地は「元悪王子町」と呼ばれることとなります。

 元悪王子町の仁丹町名表示板

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 なお、平成10年(1998)この元悪王子町に小祀を設けて分霊が祀られましたが、駒札には悪王子社は「天延2年(974)建立」としています。
 また、この小祀の少し北方の西側には「悪王寺社之址」の石碑が建ち、鎮座の地であったことを示しています。


 悪王子社之址碑
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悪王子町
 次に悪王子社は、天正18年(1590)太閤秀吉の命により、東洞院通四條下ル(元悪王子町)から烏丸通五条上ル(悪王子町)に遷座します。町名は旧称を踏襲しました。
 『京町鑑』には、「烏丸通」の項で「◯萬壽寺下ル  ▲惡王子町 此町いにしへ惡王子社ありし舊地也」と記しています。
 ちなみに、『京都坊目誌』は、この悪王子町について「此地は稲荷神社の氏子なるも、本町のみ八坂神社の神事に加はる、今猶然り、蓋し古例に據るなり。」と記しています。
 つまり、松原通が祇園祭と稲荷祭の境界だったのですが、悪王子社が所在したことから祇園祭の前祭で神輿臨幸の際には、この悪王子町から神供を備える神事に参加していたという。
 かつて昭和30年(1955)までは、祇園祭前祭(下祭)の山鉾は松原通も巡行していました。


祇園御旅所

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 次いで、慶長元年(1596)に四条寺町の祇園御旅所へ遷座します。
 『京都坊目誌』に、「御旅宮本町にあり。今詳ならす。慶長の初め豊臣氏の命に依り。四条旅所内に移る。」とあります。
 『京町鑑』「◯寺町東入 ▲御旅町」の記述によれば、当時の祇園御旅所は四条通を挟んで北側と南側の両方にあったようです。
 そして、『都名所圖会』には、「惡王子社 御旅所北側にあり 祇園會神輿臨幸の時 烏丸通五條の北 惡王子町より古例によって神供を備ふ」としています。


祇園町南側の大和大路東南角
 次に遷座したのは、『京都坊目誌』によると「其後 祇園町大和大路東南角に遷る 年月詳らかならす天明火災後乎」としています。
 いま、お茶屋「一力」のある場所です。一力は、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』にも登場して、祇園でもっとも格式高く由緒あるお茶屋だということです。

八坂神社
 そして最後に、明治10年(1877)、現在のように第二摂社として八坂神社境内に遷座します。(八坂神社本殿の東側にあり西面する)
 『京都坊目誌』には、「明治十年四月。京都府令して。八坂神社境内に遷座し。第二攝社とす。」と記しています。













2019年7月 5日 (金)

鏡 石

鏡 石

 金閣寺から鷹峯千束に通じる通称鏡石道の途中、北区衣笠鏡石町の道際にある岩です。かつて、傍に立つと鏡のように映ったことから鏡石と呼ばれ、これが町名の由来と云う。
 すぐ近くには、一條・五條天皇火葬塚がある。

 『都名所圖會』は、鏡石について次のように記しています。
 「鏡石は金閣寺の北、紙屋川のうへにあり、石面水晶のごとく影を映すをもって名とせり。
  古今物名 うば玉の我黒髪やかはるらん鏡と影にふれる白雪 貫之」

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 上記挿絵中の説明文は次のようになっています。(図にカーソルを置いてクリックすると拡大します)
 「鏡石は物の影よくうつりてあきらかなる怪石なり。むかし唐土に仙人鏡といふ石あり。形廣大にして石面皎々たり。よく人の五臓をうつす。疾あるときは則其形をあらわすとぞ。これらのたぐひとやいふべき。」とあって、鏡石に婦人が自分の姿を映している様子を描いている。

 この鏡石、永年にわたり風雨に晒されたことで、現在では次の写真のように全く鏡のようではなくなっています。

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 また、『菟芸泥赴』は次のように書いています。
 「鏡岩 平野より十町ばかり北の邊の左の山際に有  石の横二間ばかり  高さ山につヾきたる所にて九尺計  裾は五尺計也  石の色くもれる鏡の面の如く平にしてむかへば影をうつす  其故の名也」


 ちなみに、鏡石はこの他にもあって、筆者は以前にこのブログで記事にした西京区の大原野にもありました。
 花の寺として知られる勝持寺の境内、「瀬和井の泉」の畔にありました。
 特にどうと言うこともない岩でしたが、写真はその説明書きです。

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2019年6月21日 (金)

饅頭屋町(まんじゅうやちょう)

 烏丸通の三条と六角の間に饅頭屋町という町があります。
 『京雀』には、「◯まんぢうやの町 此町の饅頭屋は日本第一番饅頭の初なるよし家名の書付にあり」とあって、饅頭屋発祥の地だとしています。

饅頭屋町の町並み

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 『京都坊目誌』でも、この饅頭屋町の町名起源について、次のように説明しています。
 「天正以前阿彌陀堂前ノ町と云ふ。頂法寺の阿彌陀堂西門のありし所とす。當時鹽瀬九郎右衛門と云ふ者此町に棲して。饅頭舗を開きしより稱となる」

頂法寺の山門

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 ここ饅頭屋町は、天正以前には頂法寺(通称・六角堂)阿弥陀堂の西門があった所で、天正期以前の町名は阿弥陀堂前ノ町と云ったが、この町に住む塩瀬九郎右衛門という人が饅頭屋を始めたことから饅頭屋町と云う町名になったと言うのです。

頂法寺の本堂
 頂法寺の正式名称は紫雲山頂法寺、通称の「六角堂」は本堂が六角宝形造(ろっかくほうぎょうづくり)であることによる。

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 ところで、この塩瀬家について伝わっているところを記します。

 建仁寺の僧である龍山徳見禅師が、嘉元元年(1305)元に留学、元には45年のあいだ留まり修行、貞和5年(1349)に帰国したと云います。そして後に建仁寺35世・南禅寺24世・天龍寺6世の住職に就任、その曾孫が建仁寺塔頭の多くの文化財両足院を創建しています。
 龍山徳見が帰朝したときに随行して来日したのが、林浄因(りんじょういん)という人でした。
 この林浄因が日本(京都)に帰化して塩瀬を名乗り饅頭の製法を伝えたといい、塩瀬総本家の始祖にあたるそうです。

 浄因の子孫から禅僧や商人を輩出して饅頭屋も継承されますが、その後、京都の林家と奈良の林家に別れたようです。
 京都の林家は姓を「塩瀬」と改め、烏丸通三条下ルで塩瀬饅頭を販いだといわれる。このとき、室町幕府八代将軍の足利義政から授かった「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を掲げて営業したと云う。

 しかし、応仁の乱で荒廃した京都を逃れた林家は奈良へ移住します。
 奈良で饅頭を製造し、奈良饅頭として販売したのは林宗二という人でした。
 ちなみに、この林宗二という人は文学や歌学に精通していて、室町時代に刊行された『節用集』(国語辞書)を改訂しましたが、これは「饅頭屋本節用集」とも呼ばれるそうです。

2019年6月 7日 (金)

突抜 ー社突抜町ー

 竪社通(大宮通の西裏)の、竪社北半町と同南半町との間を西に入って行く道をいう。
 社突抜町を東西に通貫しています。

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社突抜町の仁丹町名表示板

 この表示板、劣化褪色して文字の判読が厳しいですが、近づいてジックリ見ると次のような表記になっています。
 「上京區 大宮通西裏廬山寺上ル二丁目西入 社突抜町」

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 『京町鑑』の「大宮通」では、「▲竪社町 北半町南半町二町にわかる(略)此北半町西入所を㋵社突抜町 叉一名○山椒屋町とも云」としていおり、山椒屋町という別称があったようです。

 社突抜町の町名由来については、『京都坊目誌』は次のように記しています。
「此の近傍  竪社、社、社突抜、社横、仲社、東社等の名稱は皆 七社(ナゝノヤシロ)に對する謂ひなり。突抜とは行當りを意味するなり。」とあって、 それら町名の名称は、七社(ナゝノヤシロ)、つまり櫟谷七野神社に因むのです。

櫟谷七野神社

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 ところで、櫟谷七野神社の社名は、はじめは春日明神を勧請して社地の近傍にある七野の総社として祀ったことによるとされる。
 さて、その七野とは『京羽二重』など多くの地誌で、内野・北野・紫野・上野・萩野(栗栖野)・平野・蓮台野としている。しかし、『京都坊目誌』では一部が異なっており、上野・萩野にかえて柏野・浅野としており諸説があったようです。
 また、「七社(ナゝノヤシロ)」については、『京内まいり』によれば、初めに春日明神が勧請され、後になって勧請された伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の六神とを合わせることで七社としたように記しています。

賀茂斎院跡

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 この櫟谷七野神社から東および南にかけての一帯には、かつて賀茂神社の祭祀に奉仕した未婚の内親王(斎院)の居所である賀茂斎院のあった所で、紫野斎院とも称されたと云う。

2019年5月24日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その7

八瀬と大原

 八瀬は上高野の北に、大原は更にその北部に位置しています。

 八 瀬

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   (以下の図もいずれも『都名所圖会』から)

 八瀬の名称由来は、高野川はこの辺りで急な流れの瀬が多くなることによる。
 「矢背」とも表記したようで、これは大海人皇子(のちの天武天皇)は兄の天智天皇の子である大友皇子と位を争っていたとき、大友皇子の軍勢が射掛けた矢を背に受けて負傷しました。その時、矢で傷ついた背中の手当を里人がすすめた「竃風呂」でされたことによると云われる。
 
竃風呂


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 竃風呂は土饅頭のような形をしていて、狭い入口が一ヶ所ある。この中で青松葉を焚いて竃の土が熱したところで火を引き、塩水を浸したムシロを敷いた上に寝転び暖まるもの。謂わば一種の蒸し風呂です。


 大 原
 大原は小原とも書き、平安の昔から貴人の隠棲地となっていて、山里の自然の美しい眺めは多くの歌人に詠われてきました。
 「朧の清水」「世和井」「大原山」「音無の瀧」など、和歌に詠まれる名所は歌枕となっている。
 また、「炭竃の里」として和歌に多く詠われ、昔は里人の多くが薪柴を製して、それを京のまちに出て売り歩いたのが「大原女」です。

 大原川(高野川)の上流を望む
 高野川の源流は、大原の最北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の山中です。

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 寂光院
 平清盛の娘で安徳天皇の母である徳子が出家し、建礼門院として隠棲した旧跡。

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 ところで、このシリーズで見てきたように、高野川沿いの地域にも下流から上高野までは、琺瑯製の仁丹町名表示板を見ることができます。
 しかし、八瀬と大原では全く見かけることがありません。

 市内各所に設置されている仁丹町名表示板は、その設置状況が京都市域の拡大に見合うことから、昭和6年(1931)からそう遅くない時期、具体的には昭和7〜8年頃までには、既にその設置が終わっていたと考えられるのです。

 ところが、八瀬と大原が京都市左京区に編入されたのは、戦後の昭和24年(1949)のことでした。
 なので、時期的に八瀬・大原には仁丹町名表示板が設置されることは無かったのです。

 お断り:
 高野川右岸(西岸)と鴨川左岸(東岸)に挟まれた形の下鴨の西側部分、つまり下鴨本通の西側にも僅かながら仁丹町名表示板が残存しています。
 しかし、それらはいずれもが鴨川旧河道跡とその東側にあたる地域に存在しています。したがって、その一帯は高野川沿いとは言えず賀茂川沿いといった場所であるため、本シリーズからは除外しました。

2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年5月10日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その5

松ヶ崎

 松ヶ崎は下鴨の北東、高野川の西側に位置します。深泥池の東南、宝ケ池の南になる。
 昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

 松ヶ崎は南に向かって開けた景勝地で、昔からよく和歌に詠まれていた地です。
 平安時代には、朝廷のための氷を製造して貯蔵した松ヶ崎氷室が、宝ケ池の東側にあったとされます。

松ヶ崎東町の仁丹町名表示板

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 平安時代の女流歌人、小馬命婦(こまのみょうぶ、命婦=女官のこと)の家集『小馬命婦集』に、「すさきに松いと(非常に)いたう(甚だしく)たてり、見に行けばちどりみなたちぬ」と前置きを付した一首、「ひとりねを みにこそきつれ 我ならで まつがさきにも 千鳥住みけり」があるそうです。
 この歌により、西から東にかけて起伏する丘陵が岬のように高野川へ突き出た洲崎の一帯に、松林があったことが判る。そして、これが松ヶ崎という地名の由来となったことを窺わせます。

松ヶ崎中町の仁丹町名表示板

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松ヶ崎大黒天

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 正式には松崎山妙円寺と号する日蓮宗立本寺に属するお寺で、江戸初期に建立された。大黒堂に安置されている大黒天は古来福運を授ける神と信じられ、京都七福神巡りの第一番札所とされる。
 ちなみに、七福神信仰は京都が発祥の地で、室町期に始まるそうです。日本最古の七福神めぐりは「都七福神めぐり」ですが、ゑびす神(恵美須神社)・大黒天(松ヶ崎大黒天)・毘沙門天(東寺)・弁財天(六波羅蜜寺)・福禄寿神(赤山禅院)・寿老神(革堂)・布袋尊(萬福寺)の七神を巡ってお参りします。

 松ヶ崎は比叡山の西山麓にあり、宗教的には天台宗の強い土地柄でしたが、永仁2年(1924)日蓮の法孫日像がこの地で布教活動してのち、松ヶ崎一村を挙げて日蓮宗に改宗しました。
 毎年8月16日の夜には、盂蘭盆の精霊送り火が背後の山で焚かれます。
 西山(133m)の「妙」と東山(186m)の「法」、あわせて「妙法」の送り火が点火されるのですが、これは法華信仰と精霊送り火が結びついたもので、江戸時代の初期には行なわれていた行事のようです。

送り火「妙法」の「法」の火床
 「法」の火床の数は75ある。「妙」の方は画数が多いので103床だそうです。
 送り火が近づくと下草を刈って整備されるのですが、今はまだ火床がポツポツと見えるだけです。
 それでも、かすかに「法」の字の形に火床を見ることができます。

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 盂蘭盆会の送り火はこの松ヶ崎の他にも、如意ヶ嶽の「大文字」、西賀茂の「舟」、衣笠大北山の「左大文字」、奥嵯峨の「鳥居」があり、合わせて五山の送り火と言われる。



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