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町名・地名の由来

2024年2月23日 (金)

新大宮(和泉町通)について

2024024
     「大成京細見絵図:洛中洛外町々小名」
        図絵をクリック(タップ)すると拡大します

 かなり以前のことですが、このブログに『消えた大宮通』という記事を3回(2016.10.21〜11.4)にわたってアップしました。
 通りの名称に僅かな違いがあるだけの、「元大宮通(旧大宮通とも)」および「大宮通(新大宮とも)という、2本の「大宮通」が近くを平行して存在するのは何故なのか、以前の記事とダブル部分もありますが新しくわかったこともあるので再び取り上げてみました。

 現在の大宮通は、北区西賀茂鎧ノ木町(はりのきちょう)から伏見区竹田青池町で油小路通と合流する地点まで通っています。
 しかし、平安京の「大宮通」は都が造営された延暦13年(794)に開通したもので、その幅員は 12 丈(約24m)もある大路で、一條大路から九條大路まで通る道路でした。ところが、中世には戦乱のために荒廃してしまいました。

 さて時代は下り、関白豊臣秀吉は天平14年(1586)に、平安京大内裏の跡地である内野の北西隅に聚楽第を築造しました。その規模は、南北は出水通から一条通までの約700m、東西が大宮通から浄福寺通までの約400mに及ぶもので、その周囲には諸国の大名の屋敷が立ち並ぶというものでした。現在も多くの町名に秀吉麾下の武将の名前を止めています。
 しかし、秀吉はその聚楽第をわずか9年後の文禄4年(1595)に破却してしまいました。そのあと慶長年中にはその跡地は宅地化されてしまったため、現在で「梅雨の井」「堀跡」など僅かの遺構が残るだけです。
 平成27年(2015)10月から翌年の1月にかけて京都府教委文化財保護課と京大防災研究所が行なった、地震波の性質を利用した地下の遺構調査によると、聚楽第本丸と内堀の外側には大規模で複雑に折れ曲がった形をした外堀を備えていたらしい、ということが判明したのです。

 聚楽第を破却したあとその折れ曲がった外堀のうち、最も東側に突き出した部分を埋め立てて町地としました。元和元年そこに造られた道路で、中立売通から下長者町通の間(和水町と東堀町の一帯)を「和泉町通」と称しました。「和泉町通」の名前の由来は、聚楽第が破却されるまではその園池の清流がそこを経て外堀へ流れていたことによる。

《以下は、冒頭の図版写真と合わせて見てください》
 和泉町通の北部にある糸屋町には、幕末まで一條殿屋敷(地図によっては池田滿次郎屋敷=岡山池田藩の私邸とする)があったために、北の一条通手前で行き止まりとなる袋小路であったことから「袋町(フクロ丁)」という別名がありました。
 『京都坊目誌』によれば、この袋小路となっていた糸屋町を、明治32年末に北へ開いて一条通に通じる4間幅の道路としました。
 このため、それまで一条通と南方の下長者町通との間(糸屋町・和水町・東堀町の一帯)を通して、和泉町通は大宮通の一部となったことで俗に「新大宮通」とも称したのです。

 現代の地図を見ると、「大宮通」の一条と下長者との間(糸屋町・和水町・東堀町がある)の東方には、黒門通の西側に「元大宮通」という通りがあります。これは聚楽第の外堀ができたために、その間の「大宮通」が少し東方に移されていたのですが、「新大宮通」ができたことで「元大宮通(旧大宮通とも)と呼称が変わったのです。

*** 追記 ***
 《大宮通》や《大宮》については、その名前の起源について惹かれることもあるので、別の機会に改めて記事にしてみようかと思っています。




2024年1月26日 (金)

北野廃寺と古代の嵯峨野

北野廃寺跡の碑

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 『日本書紀』などの文献史料によると、5世紀後半の頃から葛野(現在の嵯峨野一帯)で生活していた人々として、朝鮮半島南部から渡来した氏族の一つである葛野秦氏が挙げられます。
 嵯峨野には嵯峨野古墳群と総称される多くの古墳群があり、嵯峨野独特の景観を形作っています。その中で、6世紀の初めから末までに築かれたと見られている太秦支群といわれる古墳群で、前方後円墳の5基(段ノ山・天塚・清水山・片平大塚・蛇塚)、これらはその所在地からいって秦氏の墳墓とみられています。
 秦氏は豊かな経済力と、土木(治水灌漑や田畑造成)・農耕・養蚕・機織などで優れた技術を持っていました。秦氏は、大堰川に「葛野大堰」と呼ばれる堰をつくり、平安京以前には未開拓地であった嵯峨野の地域で灌漑施設を造り農業をひろめました。

 ちなみに、秦氏の氏の名は「ハダ」(今では「ハタ」)といい、秦氏の族長の称号が「ウツマサ」(今では「ウズマサ」)で、「太秦」という字をあてています。この「太秦(うずまさ)」が地名の由来となっています。

 そして、秦氏は7世紀前半の飛鳥時代になると、人々の信仰の場である神社や寺も多く建立しています。全盛期の秦氏を代表する族長は秦河勝という人でした。その秦氏が関わった著名な寺の一つに、京都市右京区太秦蜂岡町に所在する広隆寺があります。
 『日本書紀』の推古11年(603)のくだりに、秦河勝は仕えていた聖徳太子から尊い仏像一体を授けられて、これを安置するために「蜂岡寺」を造ったとあります。
 この蜂岡寺が現在の広隆寺の前身となる寺院だとするのが有力な考え方のようです。
 ちなみに、国宝第一号に指定された広隆寺の木造弥勒半跏思惟像は飛鳥時代のもので特に有名です。この仏像の写真は教科書をはじめよく目にします。

 ところが、承和3年(836)の『広隆寺縁起』によると、この蜂岡寺が建てられたのは今の広隆寺がある太秦蜂岡町(当時の「五條荒蒔里」)ではなく、平野神社から北野白梅町にかけての辺り(当時の「九條河原里」と「九條荒見社里」)だったとしていて、この九條の寺領が狭かったために現在の広隆寺所在地に移転したと記録しているようです。

 昭和11年(1936 年)、この平野神社から北野白梅町にかけての一帯で行われた電車の敷設工事にともなって大量に出土した古瓦などの遺物が、飛鳥時代の寺院のものであったことから、ここに京都市内では最古となる寺院群が存在したことが明らかとなりました。
 そして、この発掘調査で「鵤室」「秦立」と墨書された土器が出土していることや文献史料の記述から、ここに存在した寺院は聖徳太子と繋がりのある秦氏が創建に関わったと考えられるそうです。
 この寺院跡遺跡では寺院の名称が明らかとならなかったため、発見された場所の地名から「北野廃寺」と命名されました。

 この北野廃寺は、『日本書紀』に書かれた「葛野秦寺(かどのはたでら)」に相当するのではないかとも考えられています。
 さらに、「野寺」と墨書された平安時代の土師器が出土していることから、『日本後紀』に記載のある「野寺」ではないかとも考えられています。「野寺」は『諸寺略記』によれば「常住寺」とも呼ばれていることから、南都の七大寺に並ぶ寺格を有していたことが分かるそうです。



2023年10月20日 (金)

淀・淀城そして淀川

 京都の北郊から嵐山を経て流れる桂川、三重と奈良を主な水源とする木津川、そして琵琶湖を水源とする宇治川、これら三つの川の合流点であり、またかつて存在した山城盆地中央の南部を占めた広大な巨椋池の下流である「淀」が淀川の起点でした。(現在では三川の合流する京都府と大阪府の境界付近が淀川の起点となっています)
 もっとも、この巨椋池は太平洋戦争の前に食糧増産のため干拓されて水田地帯に変わってしまいましたが、それまでは周囲が約16㎞で面積は8平方㎞もある京都府下の淡水湖では最大の面積でした。

与杼神社の石標
 元の鎮座地は桂川右岸(西岸)の西淀ともいわれた水垂でしたが、明治の淀川改修のため現在地の淀城址に移されました。
 「淀」は古い文献では「與杼」「與等」「與渡」とも記されましたが、平安期以降になって「淀」の文字が使われるようになったようです。

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 平安時代から中世までの巨椋池は、淀川の水量調節機能をも果たす遊水池でした。そして、その西端には淀津が、東岸には宇治津や岡屋津などが設けられていて、近江・大和・丹波・摂津・河内の諸国に通じる水上交通の要所となっていました。
 淀津は諸国からの貢納物がこの「淀」に陸揚げされて、陸路を京の都へ運搬される外港だったのです。陸揚げされた貨物を納めておく倉庫のあったところが「納所(のうそ)」で、これが地名の由来となっています。

 このように、「淀」の地は水運の要所でしたが、一方、山城盆地および摂津・河内平野を抑えるうえで軍事的な要衝地でもあったのです。京都の護りを固めるためにも、また京都を目指して攻め上るうえでもこの地は重要な根拠地とされたのです。

 ところが、近世初めの文禄3年(1598)に豊臣秀吉が伏見山(木幡山)に伏見城を築造したとき、宇治川の流路を巨椋池の東側から北側へと迂回させて、巨椋池西端にあたる納所の西方で桂川と合流するように改修しました。つまり、納所は宇治川と桂川が合流する三角州に位置することになり、そのやや下流で木津川が合流していたのです。
 往時は桂川・宇治川・木津川が合流する一帯の低湿地(現在の桂川右岸で水垂・大下津の一帯は西淀ともいわれた)を「淀」と呼んでいたのです。
 ちなみに、この「淀」の地名由来には二説あるようです。一つは3本の川が寄り合う土地で「よりと(寄処・寄門)」からきているとする説、もう一つがそこを流れる川水が淀んでいる土地とする説です。


淀城本丸付近の石垣

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二つの淀城

 いま、伏見区淀本町に残る城址、これは近世に築城された淀城(新淀城)の跡なのです。しかし、それ以前に中世以来の淀城(旧淀城)が宇治川の北側の納所にあったのです。
 この納所の淀城は天正15年(1587)豊臣秀吉が修築して、側室(幼名は茶々)を住まわせ「淀の者」「淀の女房」と呼ばれ、のちに「淀君」とも呼ばれたことで地名の「淀」は有名になりました。
 この淀城で淀君が鶴松を産んで間もなく共に大阪城に移り、文禄3年(1594)には伏見城が建設されたため、淀城の機能は伏見城に移されました。
 こうして、納所の旧淀城は廃されて、伏見城も関ヶ原の戦いのあと徳川家康によって破却されてしまいます。
 今では旧淀城の城址は全く残っていないため、城の規模・構造・位置いずれも明らかではないのですが、「納所」にあったのは確実だとみられます。
 なぜなら、納所に残る地名の「北城堀」と「南城堀」は旧淀城の堀跡であることを示すと考えられ、「薬師堂」は淀城鎮護のため創建された堂宇の跡と伝承されています。

 それではいま、淀本町に城址の残る新淀城はいつ誰によって築城されたのか。
 豊臣が滅亡して徳川幕府が伏見城を廃城したあと、二代将軍秀忠は京都守護のために松平定綱に入部と新淀城の築城を命じました。こうして、松平定綱は納所の南側を流れる宇治川対岸の淀島に新淀城を築造しましたが、天守など多くの建物は伏見城や二条城から移築して新淀城を完成させたのです。



2023年9月22日 (金)

岩 神 ー禿童石(かむろいわ)ー

岩神 別の名を禿童石(かむろいわ)という。
浄福寺通上立売上ル大黒町の東側にあり、高さは人の背丈ほどもある赤っぽい大きな岩で、明治維新前までこの地にあった岩上神社の御神体です。

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 堀川通の一筋西にある通りの名前は、二条城より北を葭屋町通、御池通から南は岩上通といいます。
 葭屋町通の名称由来は不明ですが、岩上通については面白い由緒があります。
 『京町鑑』によれば、岩上通というのは、かつて六角通下ルにあった「岩神神社」が通り名の由来となっています。ちなみに、その地は今も岩上町として町名にその名が残しています。

 この岩神神社とその霊石(御神体)は、元々は二条猪熊にあったのだが岩神町(現・岩上町)に移されたという。
 二条猪熊といえば、現在は二条城のあるところです。徳川家康が二条城を造営するにあたって、慶長7年に岩神神社は旧地を立ち退かされて岩上町へ移転させられたのです。

 さらに、霊石は中和門院(後水尾天皇の母)の屋敷にある池の畔に移されると、吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたりといった怪異現象が起きたという。子供に化けたということから禿童石(かむろいし)とも呼ばれました。
 持て余された禿童石は、寛永7年に現在地の浄福寺通上立売上ル大黒町の東側に、かつてあった蓮乗院というお寺に引き取られてきました。
 『京町鑑』には、浄福寺通寺之内下ル大黒町(別名鶴屋町とも)の東側に蓮乗院という寺があって、その寺内に「石神の社」があると記しています。
 この蓮乗院という寺は享保の大火(西陣焼け)で類焼して再建されますが、天明の大火で再び罹災して小堂を一宇残すだけとなっていたが、明治維新には廃寺となり霊石の「石神(禿童石)」と称する大石を残すのみとなったのです。

 この禿童石のいわれについて、『菟芸泥赴』の「石神」には凡そ次のように記されています。
 「禿童石といわれる岩は、元は後水尾院(後水尾天皇)のお庭にあった。ところが、この大岩が奇怪な現象を起こすという噂があったので、今出川の南の八条殿の築地の辺りに移されたがなお異様な現象は止まず、禿童(かむろ)に化けて夜に出歩くなどして人々を恐れさせたため、寛永の初めの頃にこの地へ移された。そして、世間の人々はこれを神と崇めて尊び敬うようになってからは奇怪な現象はピタリと止んで、むしろ逆に乳の出が少ない婦人が祈願すると霊験があらたかで乳が良く出るようになった。」




2023年5月19日 (金)

白雲の練貫座 ー京都機業の盛衰ー

 西陣織は高級絹織物で有名ですが、西陣織工業組合のサイトには次のようにあります。
 『西陣織とは、「多品種少量生産が特徴の京都(西陣)で生産される先染(さきぞめ)の紋織物」の総称です。昭和51年2月26日付で国の伝統的工芸品に指定されました。 西陣の織屋は、平安朝以降連綿と積み重ねられてきた高い技術の錬磨に加えて、優れたデザイン創作のための創造力や表現力への努力を重ねています。』
 
 平安京が造営される前、5〜6世紀の頃の山城盆地には賀茂氏など土着の豪族と、渡来系の氏族である秦氏が住みついていて、秦氏は農耕・養蚕・絹織物の技術や土木技術をもっていました。
 飛鳥時代の大宝元年(701)に大宝律令が制定・施行されて、律令制のもと朝廷の役人や貴族のための綾,錦など高級織物は、「織部司」が独占的に生産していました。
 下って平安京に都が移ってのちも織部司が置かれ、織部町に織り手を集住させて、官営の工房で織物作りと衣服の生産・調製を行なっていました。
 有職故実書『拾芥抄』によると、織部町は大宮と猪隈(猪熊)の間に、土御門大路(現・上長者町通)を挟んで北側と南側の二町に位置していた。そして、北側の織部町の東隣にも猪隈(猪熊)と堀川の間にもう1つの織部町が描かれています。
 しかし、平安時代も中期になると律令制が崩壊して、織部司の官営織物工房はその維持が困難になります。
 鎌倉時代になると織り手たちは織部町の東隣の大舎人(猪熊の上長者・下長者間)に集住し、大舎人座を組織して織物作りは役所から独立した民営の機業へと変わっていきました。

 ところが、室町時代の応仁元年(1467)、守護大名の山名宗全と細川勝元がそれぞれ諸大名を引き入れ西軍と東軍に分かれて、京都を主な戦場とした応仁の乱が始まります。
 この時、山名氏の邸を中心として西軍が陣を張った一帯がのちに「西陣」の地名起源となったのです。
 織り手たちは戦乱を避けて京都近郊や堺などに疎開しますが、11年間にも及んだ戦乱が収まると京都に戻って機業を再開します。

かつての白雲村(元新在家町の仁丹町名表示板)
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 西軍本陣跡の大宮一帯(西陣)に集住して組織された大舎人座に対して、東軍本陣跡の白雲村(新町通今出川上ル)に集住して組織されたのが練貫座でした。この練貫座の織った羽二重が純白であったことから白雲の名称が生まれ、その白雲の地は新しくできた集落であるために「新在家」と称したのです。白雲村は現在の元新在家町(新町通今出川上ル)を中心に、おおよそ南北二町東西一町ほどの一帯にあたるようです。
 そして、この練貫座と大舎人座が京都における主要な機業組織として、技術や市場の主導権をめぐって対立しながら発展してゆきました。

 ところが、やがて古くからの伝統を持つ西陣の大舎人座が足利幕府から特権と保護を得る一方、練貫座の白雲村は人家が込み合い水質も絹織物生産に適さなくなって多くが西陣へと移動・吸収されていきました。そして、別の一団は天正16年(1588)に今の京都御苑の南西部に共同して移り住み、そこを新たに「新在家」と称したことで元々の新在家(新町通今出川上ル)の方は「元新在家」と称されるようになりました。
 しかし・・・、やがて練貫座は衰えて行き文献史料からも姿を消していくこととなったのです。
 なお、「宝永の大火」と呼ばれる宝永5年(1708)の大火災の後に、御所と公家町の拡張整備を理由として、御所の南西部および椹木町通から南側のすべての町屋の住民とともに、新在家の人々も住み慣れた地を追われて、二条河東・内野・公家町東側の鴨河原・鴨川の西河原へと移住させられました。

 ちなみに、御所南西部にあった新在家の位置は、概ね今の新在家御門(蛤御門)の南東一帯にあたり、西は烏丸通、北は今の中長者町通を東方に延長した線、東は間之町通を北方に延長した線、南は元・新在家南町通(護王神社の南側の通り)を東方に延長した線、これらの通りを四囲とする範囲だったようです。
 その場所を分かりやすく言うと、現在の烏丸通の東側で北は新在家御門(蛤御門)から南は護王神社の東向かい側の間、東西は皇宮警察本部とその東側の桃林・梅林から白雲神社の前あたりの一帯に相当するようです。




2023年4月 7日 (金)

宝永大火と京都の整備改造

 江戸時代の京都では、三大大火といわれた大火災が、ほぼ80年ごとに発生していました。
宝永の大火 宝永5年 (1708)3月 8日
天明の大火 天明8年 (1788)1月30日
元治の大火 元治元年(1864)7月19日
 このうち、「天明の大火」についてはかつて(2021.10.22『天明の大火(団栗焼け)』)で
記事にしたことがありました。今回は「宝永の大火」についてです。
 これら京都三大大火の他にも大小多くの火災が発生しています。これは、近世までの住環境は家屋が密集しているうえ、板葺きや茅葺など容易に燃える構造の家屋が多かったことにもよります。

 宝永5年3月8日、京都中心部の広範囲を焼失して、翌9日にようやく治まるという大火災が発生しました。
 『京都坊目誌』にはこの宝永の大火について、「午の刻今の正午十二時也油小路姉小路下る、西側二軒目、両替商伊勢屋市兵衛方より出火し、悪風忽ち吹て或は東北に、或は東南に焚け広がり、延て宮城を炎上し、公卿の第宅、武家の邸舎、神祠仏宇灰燼に帰し、火飛て下賀茂河合社を焚き延て村民の家八十七戸焼く。」とあります。
 消失した区域は、「京町数三百六十四町、一万三千五十一戸、神社七、寺院七十四、其他被害挙て数ふへからず。」
 被害区域は、「東は賀茂川、西は油小路西入、南は四條上る。北は油小路椹木町より東北に進む、寺町頭に至り九日未刻今の午後二時に止む。」という大規模な火災でした。

 現在の京都御苑は、東は寺町通・西は烏丸通・北は今出川通・南は丸太町通に囲まれていて、整然とした長方形の形になっています。
 宝永の大火の前、御所と公家屋敷の集中する公家町の範囲は狭いものでした。現在の京都御苑の南の部分、丸太町通から北の椹木町通までの間と、烏丸通から東の東洞院通までの間は町地だったのです。
 大火の後、復興にあたっては公家町の拡張のためにこれら町屋地域は立ち退きを命じられて、人々が住み慣れた町は破壊されてしまいます。

頂妙寺
「仁王門通」の名称由来は、山門の奥に見える仁王門に安置されている二天に因むというのだが・・・?

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 移転を命じられた町屋の多くは鴨川東部の、仁王門通を挟んだ二条通と三条通の間、頂妙寺周辺に移転させられました。その時、もと住んでいた土地に思いを馳せて、移転先の居住地で通り名や町名を名付けるにあたって、旧地の名称に「新」を付けて新車屋町通・新東洞院通・新間之町通・新丸太町通・新麩屋町通・新富小路通・新柳馬場通・新堺町通・新高倉通などと命名しています。
 また、西寺町通りは寺町通の荒神口から二条の間にあった多くの寺院が、移転してきたのです。

 二条河東へ移転を命じられた町屋とともに、高倉通椹木町の北にあった頂妙寺も仁王門通川端東入大菊町に移転させられています。
 ところで、世間では「仁王門通」という名称は頂妙寺の持国天・多聞天の二像を安置する仁王門にちなむとしていますが、これ実は誤りなのだそうです。頂妙寺の公式HPにもそのようには記されていません。
 『京都坊目誌』によると、元来、仁王門通という名称は頂妙寺がこの地に移転してくる前からあった通り名であり、むかし平安時代に現・岡崎法勝寺町(市立動物園のあたり)に造営された六勝寺の一つ、法勝寺(白河天皇の御願寺)の仁王門に由来していて、「法勝寺仁王門通」を意味するのだそうです。

 なお、公家町の拡張と新しい町屋建設のため、御所南部の町屋が移転を命じられて移住して行った先は鴨東の二条河東以外にも、内野(西陣や聚楽第跡)の一番町から七番町の一帯、御所・公家町東方の鴨河原の西三本木・東三本木などがありました。



2023年3月24日 (金)

白川(白河)⇒ 岡崎

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 琵琶湖疏水が流れる岡崎公園の一帯は約14万平方メートルの広さがあり、そこには多くの文化施設が集中していて京都の文化ゾーンとなっています。
 この「岡崎」という地名は、神楽岡(吉田山)や粟原岡(黒谷山)が、南の平地に向かって岬のように突き出した地形となっていることからきた名称です。
 鴨川の東側で三条通の北となる「岡崎」は白川の下流に位置しています。滋賀県との境界にあたる比叡山と如意ヶ嶽の間を水源とする白川は花崗岩地帯を流れて北白川に至り、浄土寺・鹿ヶ谷・南禅寺・岡崎を経て鴨川に合流します。
 「岡崎」の旧称である「白河(白川)」は白川流域にあることに由来しているが、この白河の地は平安京洛外の景勝地で、平安時代前期の頃から貴族が別業(別荘)を構えたり、遊山に出かけたりしました。
 中世になると、応仁の乱などで寂れ荒廃して岡崎村の耕地となっていたのですが、江戸時代になると風光を愛でる文人墨客が多く移り住んで居を構えました。

 白河に設けられた別業の中でも、古くから藤原家代々の別業であった「白河院」は有名でした。
 承保2年(1075)に左大臣藤原師実がこの白河院を白河天皇に献上して、天皇はここにかつてなかったような壮大な寺院の法勝寺を建立しました。金堂をはじめ多くの堂塔が建立されましたが、なかでも高さが約82メートルの途轍もなく壮大な八角九重塔が聳えるさまは、さぞ人々を驚かせたことでしょう。
 その後、代々の天皇が「勝」の字がつく五つの御願寺、尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺を建立して、法勝寺と合わせて「六勝寺」と称されました。
 琵琶湖疏水沿いの散策路は「六勝寺のこみち」と名付けられていて、桜や柳の緑陰をそぞろ歩きが楽しめます。
 六勝寺の寺院名は、岡崎法勝寺町・岡崎最勝寺町・岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町といった町名となって今に伝わっていますが、尊勝寺と延勝寺については残っていません。

 六勝寺が造営されたことで、大寺院の堂宇が聳えて並び立つ白河の地は一変しました。
 さらに白河天皇は皇位を堀河天皇に譲り、自身は上皇となって院政(政治)を開始し、院政を行う白河御所が造営されます。この白河上皇の白河御所(白河南殿)や白河北殿が、御願寺の法勝寺の西側の造営されます。そこで始まった院政が長かったゆえに院政時代とも言われる時代となりました。
 さて、ここからがこの記事の本題(のつもり)なのです。冒頭の仁丹町名表示板「岡崎南御所町」と共にご覧ください。
 法勝寺跡にあたる京都市立動物園の西側に位置している、岡崎南御所町とその北隣の岡崎北御所町という町名は、白河南殿と白河北殿の名残を留めているものと考えても、あながち見当はずれとは言えないと思うのですがどんなものでしょう。

 こうして、「京=ミヤコ」(平安京)の東の境界である鴨川を越えて、洛外であった「白河」の地が政治の中心地になると、「京」と「白河」の両方を含めた地名(固有名詞)として「京都」という言葉が使われるようになりました。
 ちなみに、その後も院御所は、後鳥羽上皇の時代に押小路殿と岡崎殿が造営されています。
 【注】押小路殿は、鴨川東の押小路末南で、左京区頭町・正往寺町・福本町の一帯にあった。岡崎殿は、法勝寺の北東にあったとされるので、冷泉通の北になるようです。




2022年8月19日 (金)

七福神信仰と町名

革堂(行願寺)の七福神石像

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 七福神というのは写真の七福神像に見るように、(左から順に)恵比寿天・大黒天・毘沙門天・弁才天・寿老人・福禄寿・布袋尊の七柱で、福徳長寿をもたらす神をいう。(写真をクリックすると七福神の顔がはっきりと見えます) 
 初めは今のような七柱の神様で定まっていたわけではなく、寿老人のかわりに吉祥天や猩猩が入っていたこともあるそうな。

 七福神信仰は室町時代から江戸時代にかけて成立したもののようで、その発祥地は京都だということです。江戸時代中期に、聖数(縁起のよい数)とされる七の数に合わせて今のような七柱となったようです。現在でも新年には福徳を祈って七福神の社寺を巡拝する「七福神詣で」として人気がある。
 これら七柱の神様はその出自が国際色豊かで、恵比寿天だけが日本、大黒天・毘沙門天・弁財天はインド、福禄寿・寿老人・布袋尊は中国の神様だということです。

 ところで、京都には七福神の名前の絡んだ町名が数多く存在します。
 七福神の中でもとりわけ、蛭子町(恵比寿・夷・恵比須などと表記する場合もある)及び大黒町の二つの町が圧倒的に多い。
 そしてなぜなのか、蛭子・大黒の二つの町が隣接しているか、隣接していなくてもそれほど離れていない場所にセットのようにして存在していることが多い。これは案外単純に、縁起の良い恵比寿・大黒にあやかって対になるよう命名したのかもしれません。
 蛭子(恵比寿・夷・戎と表記することもある)は商売繁盛・福の神として広く信仰を集めていて、大黒は福徳の神として民間の信仰を集めている神様です。

 七福神は不老長寿・商売繁盛・五穀豊穣・家内安全・所願成就にご利益があるとして信仰された。七神の中でも大黒天・弁財天・毘沙門天・蛭子などが次第に神格化する中で、蛭子・大黒天は他の五神から抜きん出た存在となり、併祀されるようになったようです。
 七福神にまつわる町名は、他にも毘沙門・弁天(弁財天)・布袋があります。ところが、福禄寿と寿老人が絡んだ町名というのは全く見当たりません。

・・・と、ここまで書き上げてからふと気づいたのですが、七福神は以前にも書いたような・・・。
調べてみるとやはり書いていました。(ウーン!被ったなー。マーいっか)




2022年7月 8日 (金)

行願寺(革堂)

 行願寺は、中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町にあります。もともとは、平安時代の寛弘元年(1004)に一条小川の北、一条北辺堂跡に僧行円によって創建されたことから一条北辺堂とも称されたとか。
 幾たびもの戦乱や火災によって焼けるが、豊臣秀吉の京都改造により今の寺町通荒神口のあたりに移り、宝永の大火(宝永5年)で類焼したことで現在地に移転しています。

 行円の生没年は不詳ですが、一説に鎮西(九州)の人と言い、また比叡山の横川(よかわ)出身の聖とも言われる。
 ある時、山中で身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿から子鹿が生まれ出るのを見て、殺生の非を悟って仏門に入ったといわれる。
 藤原道長(御堂関白)の三男の藤原顕信は、寛弘9年(1012年)に行円の教えに感銘を受けて剃髪出家したとされる。

 行円上人は夢の中で神のお告げにより、賀茂神社にある槻(けやき)の木を得て八尺の千手観世音菩薩を彫り、これを一条の小川辺に本尊として安置して行願寺と名付けた。この旧地には、革堂町・革堂仲之町・革堂西町などの町名として残っています。

 行円は頭に仏像を戴き、身には鹿皮の衣を着けていたため、人々は皮聖(かわのひじり)とも皮上人とも呼び、寺は革堂(こうどう)と呼ばれた。

加茂明神石塔
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五輪塔水輪の中に祀られた不動明王石仏

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 境内の西北隅に五輪塔の「加茂明神石塔」が立つ。高さ約3メートルで花崗岩製。
 行円が加茂明神の夢告により、加茂社の槻の木で本尊の千手観音像を刻んだとき、報恩のために加茂神を勧請し、この塔を造立して祀ったという。しかし、塔の造刻年代は平安時代ではなく鎌倉時代のものとされる。
 塔の水輪に方形の穴を穿って、不動明王石仏が安置されているが、これは当初からのものではない。
 笠石(火輪)の軒裏に一重の垂木型作り出しがあるのは珍しいものといわれる。高さ3m、花崗岩製。




2022年2月18日 (金)

鴻臚館のこと

東鴻臚館址の碑
 下京区西新屋敷揚屋町(「角屋もてなしの文化美術館」横)

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 東鴻臚館はこの碑からおよそ100mほど南に位置した。
 ちなみに、旧遊郭島原の大門から花屋町通東方の櫛笥通までを薬園町という。この町名は渤海国の使節がもたらした薬草を栽培した薬草園に由来するとも言われる。

 「鴻臚館」は、音読して「こうろかん」と読みます。
 古代に日本へ来た外国使節を接待した施設で、言ってみれば迎賓館にあたるもの。奈良朝のころ太宰府・難波に置かれ、平安期になって平安京に置かれたようです。

 平安京の鴻臚館は、はじめは朱雀大路の羅城門を入ったところに、左右の2カ所設にけられた。
 しかし、延暦15年(796)に国家鎮護・王城鎮守のため官の寺、東寺と西寺を造営するにあたって七條大路の北に移転された。
 新たに造営されたのは現在の七条通と正面通の間で、朱雀大路(現・千本通)を挟む形で、東西対称に東鴻臚館と西鴻臚館が設けられ、二町四方の土地を占めていたようです。
 東鴻臚館は、西新屋敷(島原)の南、七条通から北で現在の朱雀正会町・夷馬場町にあたる。
 西鴻臚館は、七条通から北で中央卸市場と七本松通の間。現在の朱雀堂ノ口町・朱雀宝蔵町・朱雀北ノ口町にあたる。

 この鴻臚館で接待したのは渤海国の使者で、日本との通交は神亀4年(727)に渤海使が来日したのに始まり、延喜8年(908)までの間に34回にわたって日本に来ている。その後に鴻臚館は衰微したようです。
 渤海というのは、現在の中国東北地方東部・ロシア沿海地方・北朝鮮北部にあった国で、698年に建国し、926年に契丹の侵攻を受けて滅亡しました。



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