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町名・地名の由来

2018年9月 7日 (金)

辻子 ーかんじょ辻子ー

 「かんじょ辻子」は、上ノ下立売通(現・妙心寺道)の北裏通で、御前通と天神通の間。
 北町、川瀬町、西上之町と仲之町の境界を通貫しています。

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 『京都坊目誌』は、「河瀬町(川瀬町)」について次のように記しています。
 「古昔此町を筑紫町と呼べり。相傳ふ菅神を北野に祀るとき、安樂寺を此邊に移せしより、筑紫の稱ありと云ふ」とあります。

安楽寺天満宮

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 安楽寺は旧北野天満宮別当曼殊院宮の支配であり、太宰府に左遷された菅原道真の死後、道真に付き従っていた人々が帰京して、この地に道真の霊を迎え祀った。 安楽寺天満宮(俗に子規=ホトトギスの天神)とも称された。
 いま、川瀬町の西方、天神通から西へ入った北町に安楽寺天満宮があるが、これは後世の明治に入ってから私的に旧跡保存のため設けられたとのことです。

一ノ保社の址

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 その後、北野神社の神事に奉仕する北野神人といわれる人々は、七ヶ所の御供所(七保)を設けて住んだ。これを北野天満宮御供所七保と云ったようで、安楽寺天満宮はその第一の保でした。
 因に、御供所というのは北野天満宮の供え物を調える所だったということです。

 さて最後に、これは私見であり定かではないのですが。
 「かんじょ辻子」の名前の由来は、菅原道真の霊を太宰府からまずこの地に移し祀ったと伝わることから、「勧請の辻子」が「かんじょ辻子」へと転訛したのではなかろうかと思います。さて、如何なものでしょう。故事つけ(こじつけ)かな?

 次の写真、安楽寺天満宮のある北町の仁丹町名表示板です。

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2018年8月24日 (金)

百鬼夜行と「あはゝの辻」

1. 妖怪スポット「あはゝの辻」
 江戸時代後期に成立したとされる、歴史物語『大鏡』から少し引用します。(いきなり何だ!と言われそうですが、固いことは言わないでください。)
 「この九條殿は、百鬼夜行にあはせたまへるは。いづれの月といふことは、えうけたまはらず、いみじう夜ふけて、内より出でたまふに、大宮より南ざまへおはしますに、あはゝのつしのほどにて・・・(以下省略)」

 そのおおよその意味は、次のような感じになるのでしょうか。

 「この九條殿が百鬼夜行に遭遇されたのです。何月のことであったかは伺っていませんが、大層夜も更てから内裏を退出されて、大宮大路から南へいらっしゃる時、あはゝの辻の辺りで、・・・」
 【註】「九條殿」は九條右大臣藤原師輔のこと、「百鬼夜行」は深夜に様々の妖怪や鬼など魑魅魍魎が、群れて練り歩くことです。

杖を持つ鬼の図
 白髭の赤鬼が白髪をなびかせて歩む(「百鬼ノ図」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

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 平安時代に、百鬼夜行を取り上げた説話集は『大鏡』の他にも、いろいろあるようです。
 『今昔物語』では、藤原常行が夜も更けから愛人のもとへ行く途中、二條大路に面した大内裏の美福門の辺りで百鬼夜行に遭遇する。
 『江談抄』では、二條大路に面した大内裏の正門である朱雀門の前で、小野篁が藤原高藤に百鬼夜行を見せた。
 『康頼宝物集』『古本説話集』などは、『大鏡』から引いているそうです。
 そのほか『百鬼夜行圖』など、妖怪や鬼を描いた百鬼夜行絵巻が多数ある。


2. 「あはゝの辻」はどこに

 「あはゝの辻」の一帯は深夜になると、たくさんの妖怪など魑魅魍魎が出没群行する異界となったようです。

琵琶と琴の妖怪図
 琵琶の化物が琴の化物を引いている(「百鬼夜行絵巻」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

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 この「あはゝの辻」は、大内裏(北側)と神泉苑(南側)が向かい合う二條大路と、そのすぐ東の大宮大路が交差する地点だったようです。
 したがって、その場所は後年の慶長8年(1603)、徳川家康が造営した二條城の城内に取り込まれてしまったため、今では消滅してしまいありません。
 位置的には、二條城の二の丸庭園西端から、本丸御殿へ渡る東橋の東詰めにかけての一帯が、当時の二條大宮にあたります。

「あはゝの辻」(『中古京師内外地図全』から)
 この図では、二條大路と大宮大路が交差する地点に「アハノ辻」と記されている。
 この図は、応仁の乱以前の様子を復元すべく寛延3年(1950)に作成された。提供は国際日本文化センター。


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 ところで、『大鏡』は平安時代末期に成立したとされます。その平安時代後期には、歴史的仮名遣いで語中や語尾のハ行音は、ワ行音に発音されるように変化します。ハ行転呼現象といわれるもので、例えば、「かは(川)」は「かわ」に、「おもはず(思はず)」は「おもわず」に転音します。
 なので、「あはゝの辻」は「あわゝの辻」と発音します。
 妖怪スポットで運悪く魑魅魍魎に遭遇した人は、当然「アワワッ!」と悲鳴をあるでしょう。「アハハッ!」では明るい笑い声になって、異界での禍々しい出来事に相応しくありませんから。sign02(笑)


3. 妖怪のたたりを避ける方法

 百鬼夜行に出くわした人は死んでしまうと言われていたため、当時の人々は夜に出歩くことは控えたと云う。

骸骨の図
 耳のある骸骨が赤い褌姿で幣帛を持ち踊り歩いている(「百鬼ノ図」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

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 妖怪や鬼に遭遇しても、着ているものに「尊勝陀羅尼」の経文を縫い付けたり、その経文を一心に誦経することで妖怪達は退散したと云う。
 また、百鬼夜行のたたりなど害を避けるための呪文があったそうです。
 それは「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」と唱えるのだそうです。
 『袋草紙』(歌論書)や『口遊(くちずさみ)』(子供向けの教養書)などにも、同様の歌が記されていて、その意味は「難(かた)しはや、行か瀬に庫裏に、貯める酒、手酔い、足酔い、我し来にけり」とされているようです。

2018年7月27日 (金)

辻子 ー道正辻子ー

道正辻子

Photo
 道正辻子は新町通寺之内上ル 一筋目を東行して木下町通(衣棚通)までを云う。
 道正町を東西に通貫している。

 辻子の名称について、『京都坊目誌』には「道正庵此町あり故に名とす。維新前は竪道正町上組下組及び道正辻子。叉道正權町と呼ぶ三町たり。明治元年十二月合併して一町となる」とあります。
 ということで、道正庵のあったことが辻子名の由来となっています。

仁丹町名表示板「道正町」

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 この道正庵は道正という人の屋敷ですが、『拾遺都名所圖会』の記述からかいつまんで記してみます。
 「道正伝」によれば、道正の俗姓は片山隆盈(たかみつ)、越前国永平寺の開祖道元和尚に随行して中華(宋)に渡り、和尚とともにあちこちと巡っているとき、隆盈が山中で俄に発病します。そして、今まさに息が絶えようとした時、一人の老翁が忽然として現れ、霊薬を授けたところ忽ちにして病気は癒えた。
 その翁が隆盈に言いました。お前が山野も辞さずに師のお供をするのには感心するので、今用いた薬の製法を授けよう。帰国したら子孫に伝へて人々の病苦を救うべきである、我れは日本三ツの峯稲荷明神なりと云うやいなや姿が見えなくなった。
 帰国して後、道元禅師は深草の里に禅寺を営まれ、隆盈は髮を剃って道正と名乗った。そして道正は三ツの峯稲荷明神を祀って参詣すると、神感があって解毒円の製法を授けられた。
 それ以後、道正の家は三十余代にわたって家名を相続し、家を曹洞宗の寄宿所とし、また解毒円を諸国に広めたと云う。

2018年6月29日 (金)

辻子 ー寿量辻子ー

 大報恩寺(千本釈迦堂)の東門から東行して、六軒町通を越え千本通に至る東西の小路。
 溝前町、末広町、牡丹鉾町を通貫しています。

寿量辻子

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 上の辻子写真、突き当たりが千本釈迦堂の東門なのですが、現在では防災車両の出入口となっており、普段は鉄扉が閉ざされており行き止まりとなっています。  辻子の名称由来は、この道(寿量辻子)の北側(右側)に寿量寺(廃寺となっている)という寺があったことによります。

 『名所手引京圖鑑綱目』宝暦4年(1754)
日文研データベースから 
 寿量辻子は、釈迦堂本堂の東門から、六軒丁通・寿量寺を経て千本通の大下丁にかけて。(写真をクリックすると少し拡大します)

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 ちなみに、『京都坊目誌』は、「壽量寺 末廣町の内上立賣と五辻との間千本西入北側四十九番戸にあり。日蓮宗妙満寺に屬す。享保15年類焼し。其後再建す。」とあるも、大正年間に廃寺となったようです。

 『京町鑑』の「上立賣通」の項に、「千本西へ入 左官町 此町南側に壽量寺と云日蓮宗の寺有  此西は北野右近馬塲へ出る也」とあります。

 ところで、この引用文中の「上立売通千本西え入」にあるのは「左官町(さくわんちょう)」ではなく、「作あん町(さくあんちょう)ではないかと思いますが、如何なものでしょうか。上記引用図はもちろん、元禄・貞享の頃の『京大絵図』でも花車丁・作庵丁は記されていますが、左官町というのは見当たりません。

 作庵町の仁丹町名表示板


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2018年6月15日 (金)

辻子 ー出雲寺辻子ー 《補訂》

 以前、「出雲寺辻子」(2015年7月17日記事)では、辻子の位置を明確に特定仕切れないため、「はっきりせず何とも悩ましいことです。」と腰砕けのかたちで終わっていました。
 その後も、ときどき思い出したように近世の地誌の記述や、古絵図と現代の地図を見比べて、乏しい想像力を巡らせながら考えていました。

 そこで改めて、考えついた「出雲寺辻子(出雲辻子とも)」の位置は、次のようなものです。
烏丸通上御霊前から約50mばかり南に、烏丸通から西へと入る道があります。
 この道は、現在ではごく短いものとなっていますが、この部分が「出雲の辻子」の残存部分だと見ます。

出雲辻子(址)
 後掲『京都坊目誌』に、「出雲の辻子」の「道址存す」と記す場所か。

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 そう考えるに至った理由は、次のようなものです。
 『京町鑑』には、「内構町」(上御霊前通烏丸西入の両側町)についての記述のあと、次のように記しています。
「◯此町南側 
 ▲和泉神町  叉本名◯出雲寺辻子 古出雲寺とて大伽藍ありし舊地也  故にしかいふ中頃出雲寺町といひしがいつの頃よりか文字も書誤りし也」としています。
 なので、現在の「内構町」の南側に、和泉神町=本名は出雲寺辻子があったことに間違いないのです。

 また、『京都坊目誌』では、「上御霊前町」の記述中に「(略)因に云ふ  本町西部より相國寺境内に通ずる小徑あり。出雲町叉出雲の辻子と呼ぶ。維新後自然廢道と爲る。道址存す 明治四十四年此所より南に新道を開けり。
 この記述から、以前の記事では何の疑いも無く、出雲の辻子は上御霊前町の西方、つまり内構町を東西方向に通っていたものと理解したのが、誤りだったようなのです。
 出雲辻子は相国寺に通じる小道であって、上御霊神社へ通じる小道ではなかったのです。

 ところで、その昔の相国寺の境内地は、烏丸通の西側までをも占めていたようです。そして、そこは応仁の乱以前までは下出雲寺の跡だったのです。
 それでは、どの範囲までが境内地だったのか?

 『京大絵図』貞享3年(1686)に描かれた相国寺境内地の西端は、室町通の「上柳原町」から「むろ丁かしら丁(現・室町頭町)」にかけて、そして、南北の範囲は「内構町」の南側から、「柳のつじ(現・柳図子町)」の北側にかけてが境内地として描かれています。
 したがって、現在の「下柳原北半町」と「下柳原南半町」は、かつては相国寺境内地だったようです。

古絵図に見る相国寺境内地の西部
 貞享3年(1686)『京大絵図』(日文研データベースから)
 地図をクリックすると不鮮明ながら拡大されて、内構町の南側まで相国寺境内地であったことが判ります。
 
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 さて、そこで改めて『京町鑑』『京都坊目誌』の記述と、『京大絵図』の描くところを併せ考えて、出雲寺辻子の位置特定を試みた結果は次の通りです。

 「内構町」の南側にあったかつての「出雲寺辻子(別称・和泉神町)」は、現在の「上柳原町」に相当し、そこから東方の相国寺境内へと東西に通じていた。
 先に書いたように、烏丸通上御霊前の少し南から西へと入るごく短い道、これが『京都坊目誌』の云う、「出雲の辻子」の「道址存す」としている個所なのでしょう。
 元々の出雲の辻子のうち、ここと西方室町通の間(約70m)が廃道となって失われた部分だろうと見ます。

 そして、この出雲辻子の「道址」西端から、南へやや西寄りに寺之内通まで延びるのが、「明治四十四年此所より南に新道を開けり」に相当する道だと考えました。

出雲辻子址から開かれた新道
 左端に見えるのは烏丸通
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なお、言うまでもなく『京都坊目誌』の云う「出雲の辻子」「出雲町」と、『京町鑑』に云う「出雲寺辻子」とは同一です。

以上です。さてどんなものでしょうか。
  

2018年5月25日 (金)

辻子 ー百々辻子ー

 百々辻子(どどのずし)は、寺之内通の小川通と堀川通間で、
 百々町を東西に通っている。

百々の辻子

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 『京都坊目誌』に、百々町の町名起源を「百々は元地名なり寶鏡寺あり百々の御所と云ふ。古老の傳説に昔時百々某と云ふ武士の第宅。今の寶鏡寺の地にありしと。今按百々某は何人たるを知らず」と記す。
 地名の由来となった武士の百々氏については詳しい事は判らないと云う。
 また、百々の名が伝わる最も古い例としては、『今昔物語』に地名「どとの辻」として出ている由。このことから、少なくとも平安時代中期には開通していたことが判ります。

宝鏡寺(百々御所)
 
宝鏡寺は代々歴代の皇女が住持となる門跡尼院で百々御所と呼ばれた。光格天皇遺愛の人形や市松人形などを蔵することから、人形寺としても知られる。

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「小川」跡
 
今は小川通と町並みになっています。
 通りの右手には表千家不審庵と裏千家今日庵が並びます。

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百々橋の礎石

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 「百々橋 小川の流れに架す。乃ち當町より寶鏡寺東町に通す。石橋なり。長四間一分幅二間二分。都下の名橋なり」とありますから、長さは7m余りで幅は4m弱の橋だったらしい。
 このように百々橋は、百々町と宝鏡寺東町の境界を流れる小川(賀茂川の分流)に架けられた石橋で、都下の名橋とされたようです。
 応仁元年5月に始まった応仁の乱では、山名宗全の西軍と細川勝元の東軍が、この百々橋を挟んで数度にわたって交戦したと云う。

2018年3月16日 (金)

辻子 ー無覺ノ辻子ー

 寺之内通室町から北行して二筋目(下柳原北半町の北端)までを言ったか。
 下柳原南半町と下柳原北半町を通貫している。

無覺ノ辻子

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 辻子の名称は室町通の西側にある無覚寺(現・無学寺)にちなむ。

無学寺境内の様子と石標

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 宋から渡来した無覺(無学とも)祖元が弘安2年に創建して、弘安山無覺寺と号したと云う。

  『京都坊目誌』は、寺説によれば夢で本尊の地蔵尊の霊を感じたことから「夢覺寺」と号したとするが、これは「無覺寺」の誤りであろうとしている。
 また、『雍州府志』では、古にはこの辺にあった無覺祖元を開山とする景愛寺の境内であったことから、この町を「無覺ノ辻子」と云うとしている。

2018年2月23日 (金)

辻子 ー宮の辻子ー

 松原通の轆轤町と新シ町の境界となっているT字形路、ここから東大路に至る間が「宮の辻子」で、「宮が辻」とも云ったようです。
 松原通の新シ町と清水五丁目を通貫している。

宮の辻子
 T字路(六道の辻)左手の石畳奥は六道珍皇寺。

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六道の辻
 六道珍皇寺門前のT字路を古くから「六道の辻」と云った。そして、ここから南の興善町にかけてを六道大路と云ったようです。
 しかし、確かな場所ははっきりしないようで、『山城名跡巡行志』は「八坂ノ西愛宕寺ノ東ニアリ其所不詳」としています。
 ちなみに、『都名所圖会』は「本堂の前にあり」としており、図も正にそのように描かれている。(左端の中程の建物が本堂)

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 「六道の辻」は、「この世」と「あの世」の境界、つまり「冥界(冥途)」への入口とされた。
 「六道」というのは、仏教で地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界を云うようです。 

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 『京都坊目誌』はこの辻子について、「宮か辻 叉宮の辻子に作る、新し町、清水五町目に跨る。松原古昔五條通を云ふ。山城名勝誌に或云宮ノ辻子は六波羅の東六道の辻の邊とあり。今此名を逸す」と記しています。

 また、「明治二年まで其南一町の所に宮辻町あり。同年竹林町に合す」とあります。
 因に、南一丁にあった宮辻町は、明治2年に竹林町に合併されたため今ではこの名は失われたとしているが、これは竹村町に合併されたの誤りかと思われます。

 「新シ町」については、松原通は早くから開けていたが中世には通の南北ともに建仁寺領であり、南側は菜畑で北側は竹林であったとしている。
 また、宝暦10年8月に許可を得てこの一帯を開拓、民家が新しく建ったことから「新(あたら)し町」と名付けたとしています。
 「清水五町目」は云うまでもなく、清水寺から五町目に当たることが町名の由来です。

 

2018年2月 9日 (金)

夕顔ノ塚

 堺町通の高辻から松原の間に、「夕顔町」という町があります。
 この町にある古跡「夕顔之墳」と夕顔伝説が町名の由来となっていますが、これは『源氏物語』第四帖「夕顔」に起因しています。

「夕顔之墳」碑(夕顔ノ塚碑)
 この写真、碑文は少し見辛いのですが、次のように彫られています。

    源語伝説 
         夕 顔 之 墳
    五 條 辺

 この「五條」というのは現在の「松原通」にあたります。

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 「夕顔」は『源氏物語』の登場人物です。もとは頭中将(とうのちゅうじょう)の愛人で、「常夏(ナデシコの古名)の女」と呼ばれていた。
 光源氏が乳母(随臣藤原惟光の母でもあった)の「五条なる家」へ見舞いに訪れたとき、その隣家の荒れ果てた家に頭中将の愛人という境遇から身を引いた夕顔が住んでいた。
 その隣家の垣根に咲くユウガオの花に惹かれた光源氏は、侍臣の惟光に花を貰いに行かせた。
 そうすると、隣家の女あるじ(夕顔)は花に添えて歌を贈った。ユウガオの花が光源氏と夕顔を引き合わせるような筋書きとなっています。

 『京都坊目誌』に「夕顔家ノ址 夕顔墳と稱し。石塔高三尺許り。寳筐印塔式の苔に蒸されて。古雅なるものあり。今言ふ松原は。古昔の五條なり。源氏物語夕顔ノ巻二。光君五條渉りを過ぎ給へるに。荒たる家に夕顔の花あり。随臣惟光をして彼の花を求めしむるに夕顔の宿の主の女。之を折りて奉り。併せて和歌を詠す。
  心あてにそれかと見るしらつゆの
      ひかりをそへたる夕顔のはな
 後人右の由縁により。墳を築きしなり。或は云ふ。夕顔と稱する女ありて此地に住す。紫式部彼の物語の趣向に附會して。夕顔ノ巻を作意せしものなりとも云へり。」

 この謂れは、『京羽二重』『山州名跡志』『山城名跡巡行志』などにも記されている。

夕顔ノ塚 (『都名所圖会』より)
   
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 図中の文を次のように読みました。しかし、くずし字についての知識が無いため、正しく読み解いていないかも知れません。

  夕顔塚は五条あたり 
  今の堺町松原の北にあり
  源氏物語に出る夕
  がほの前此所に住
  みたるよしいひ伝へり

 新古今
 夕がほをよめる  
   白露のなさけをきけることのはや
     ほのぼの見へし夕顔の花   
          前太政大臣(藤原頼実)

2017年11月17日 (金)

辻子 −猿屋辻子ー

 辻子に面する、北側の上堀詰町・本町新五町目、南側の下堀詰町・本町五町目との境界となっている小路です。

猿屋辻子

Photo

 『京都坊目誌』の「上堀詰町」項に、「因云 當町より本町通に通ずる小街あり。之を猿屋辻子と字す。」と記しており、この辻子は鞘町通と本町通の間を通っている。

上堀詰町の仁丹町名表示板

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 やはり『京都坊目誌』によれば、この一帯の元は磧地(河原)を開拓して耕地とした所。延宝の頃になってから人家を建て連ね、上・下堀詰町の名が付されたようで、この西側の地は河原田町と云ったが明治2年に堀詰町に合併したと云う。

 また、「鞘町通」は、天正慶長の頃に開けたようで、当時は刀剣の鞘師と柄巻き等の織工が居住したことが通り名の起りとする。

 「本町通」は、五条通の本町一町目を起点として二十二町目を経て、その南は伏見となり橦木町に至る。橦木町のすぐ南は京町通に接続していて、かつての伏見城下の中心に通じていた。このため、伏見街道とも称された。

 

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