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町名・地名の由来

2020年8月21日 (金)

大将軍について

 今回も平安京絡みの記事です。
 京都市北区の南端に「大将軍(たいしょうぐん)」と言う広域地名があって、そこには島津アリーナ(府立体育館)が所在する大将軍西鷹司町など、「大将軍」を冠称する7つの町があります。
 南北に流れる天神川が北区と上京区を分ける境界線となっているのですが、境界の東の上京区側に一条通に面して大将軍八神社があり、地名の「大将軍」はこの神社の名称に由来しています。

 桓武天皇が都を長岡京から山城国に遷して平安京を造営した際、大内裏を鎮護するために京域の四方に大将軍社を祭祀しました。
 ちなみに、「大将軍」というのは、陰陽道で吉凶の方位を司る「八将神(はっしょうじん)」の一つで、その他の7神は大歳神・大陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄旙神・豹尾神というそうです。(・・・が、どういう神様なのか難しくてよく判りません)

 それでは、平安京の四方に祀られたという大将軍社を見ていきます。

大将軍神社(東山区長光町)

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 平安京大内裏の東方に祀られた大将軍社。
 平安京の東にあるこの地は、京の出入口の一つである三条口の要地にあたり、邪霊の侵入を防ぐ意味で重要視されてきました。
 境内には樹齢300年と伝わる銀杏の大樹があり、かつては鵺(ぬえ)の森とも呼ばれて、源頼政の鵺退治の伝説を偲ばせる。
 『京都坊目誌』には、「大將軍ノ社 相傳ふ延暦遷都の時、皇城四方に大將軍を祀る、本社その一なりと、故に社號と為すと云ふ。」と記しています。


大将軍八神社(上京区西町)

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 平安京大内裏の西方にあたる地に祀られた大将軍社。
 社伝によると、平安遷都の際に桓武天皇の勅願で大和国春日山から八将神の1柱である大将軍を勧請したとする。
 この大将軍神は、方除けや疫病避けの神として天皇や貴族、一般庶民に至るまで崇敬を集めた。
 八将神というのは先に記したように、吉凶の方位を司る八柱の神のことで、この大将軍八神社では素戔嗚命の五男三女を指すそうな。


大将軍神社(北区西賀茂角社町)
 平安京大内裏の北方に鎮座する大将軍社。他と区別して「西賀茂大将軍神社」とも称した。
 また、角社(すみしゃ)・須美社(すみしゃ)とも言うが、京域北西隅に鎮座することによるらしい。

大将軍社(伏見区深草鳥居崎町)
 平安遷都のときに王城鎮護のため、京域の四方に祀られた諸社のうちの一社で南方に鎮座する。
 古来方除けの神として信仰を集めている。今は藤森神社の摂社となっている。

 ところが❗ そのほかにも大将軍社は、今宮神社・岡崎神社の境内にも祀られているのです。
 そんなことで、平安京の四方に祀った大将軍社というのは、どれなのかよく判らんなーと言う感想を持ちました。
 例えば、『拾芥抄』には、「大将軍堂 上ハ一條ノ北 西大宮ノ西、中ハ高辻ノ北 萬里小路ノ東、下ハ七條ノ北 東洞院ノ西、已上有三箇所」と3カ所の大将軍堂を記しているようです。
 王城鎮護のために京域の四方、つまり4カ所に大将軍堂(大将軍社)を祀ったといわれるのにもかかわらず、『拾芥抄』には3カ所しか記していないのです。これはどうしたことなのでしょう?
 また、「上の大将軍堂」と言うのは大将軍八神社と見ることができます。しかし、「中の大将軍堂」と「下の大将軍堂」は、いったいどこの大将軍社を指しているのでしょうか?
 とにかく、京都市内には複数箇所に「大将軍神社」「大将軍社」を称する所が存在していて、そもそも桓武天皇が京域鎮護のために四方に祀った大将軍社はどれなのか、サッパリ判りませんでした。



2020年7月10日 (金)

平安京(1) ー山背国から山城国にー

 新しい都が設けられた「やましろの国」を、政治の中心である大和国の平城京から見たとき、現在の奈良県と京都府境界の丘陵にある奈良山(平城山とも)の背後、つまり北側にあります。
 このため「背」の字を採って「山背(やましろ)国」としたとされますが、「山代(やましろ)」国」の字を当てたこともあります。

 延暦13(794)年10月22日、桓武天皇は「遷都の詔」を出して長岡京から平安京へ都を遷します。そして、11月に国名を山城国(やましろのくに)、都の名を平安京と改めました

国境に残る石標
 この石標は山城国と摂津国との境界に立つ石碑で、「これより東 山城国」とある。(大和国との境界ではありません)

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 遷都の詔
「此國山河襟帯 自然作城 因斯形勝 可制新號 宜改山背國 為山城國 叉子来之民 謳歌之輩 異口同辞 號平安京」
(此の国は山河襟帯し、自然に城を為す。斯の形勝により、新号を制すべし。宜しく山背国を改めて、山城国と為すべし。子来の民、謳歌の輩、異口同辞に、平安京と号す。)

 「詔」を判りやすい文に直すと、次のようになるのでしょうか。

 「この国は山河に取り囲まれて、自然の城の作りになっている。このような地に因んで、新しい国名を制定しよう。《山背国》の名を《山城国》と改めるのがよい。子が親のもとに集まって来るように徳の高い君主のもとに喜んで集まって来る民衆や、声をそろえて喜び歌う人々が、異口同音に大声で平安の京(みやこ)と叫んでいる」
 そして、翌年正月16日の宮中の祝宴のときには、踏歌で新しい平安京を誉め讃え、褒め歌が読み上げられる間、多くの臣下が「新京楽、平安楽土、万年春」「新年楽、平安楽土、万年春」と、囃し立てたという。
 註:踏歌=足で地を踏み鳴らし、調子をとって祝い歌を歌うこと。

 京都盆地は西山・東山・北山に囲まれ、北山から流れる賀茂川と高野川が合流した鴨川は南方で西に流れ、桂川に合流してさらに宇治川・木津川に合流しています。
 このように、市街地を取り囲んんだ三方の山と、南方では川に画された地形は、まさに桓武天皇の詔にある「山河襟帯」の土地となっているのです。近世の地図では、こうした地形状況を俯瞰的な視点で絵画的に描いています。

元禄九年京都大絵図(国際日本文化研究センター蔵)

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 壬申の乱(672)以来、天智の皇統と天武の皇統との間で権力抗争が繰り返され、桓武天皇(天智天皇の曽孫)は天武系の奈良の都(平城京)に替えて天智系の都を造ろうとしました。しかし、長岡京への遷都の途中で桓武の腹心藤原種継が暗殺されるという事件が起こりました。
 そして、この事件に連座したとの疑いをかけられた桓武の弟の早良親王は、配流される途中に飲食を絶って自ら命を絶ちます。この無惨な死により、桓武天皇の周辺には早良親王の怨霊の影が色濃くまとわりつくことになる。
 このような暗い影を払拭することを願って、平安の京(みやこ)への遷都にあたっては、中国古代の思想「四神相応」や、風水説・陰陽五行説にかなう最高の場所と見定めて、選んだのが京都盆地だったようです。

 

2020年5月29日 (金)

町名の「何で?」 (その2)

 先頃の記事『町名の「何で?」(その1)』では、「*丁目(町目)」という町名は、その町がいくつ目(何番目)の町であるかを意味していると書きました。

 今回は、それならこれは何でなの?と思わせる町名について考えてみました。

 下京区にある「下魚棚通」、この通りは七条通の一筋南にあって、西洞院通と大宮通の間を通っています。通り名称の由来を『京都坊目誌』には、「慶長以来此街に魚鳥市場あり。後ち魚棚に移す。街名のみ之に存す」と記す。「魚棚」と言うのは今の六条通りのことです。

東魚屋町
 この六条通(旧称・魚棚通)に、下魚棚通から魚鳥菜果を賣買する市場が移転してきたという。

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 その下魚棚通の、西堀川通と猪熊通間の北側に「下魚棚四丁目」という町があります。
 ところが、この「下魚棚四丁目」だけがポツンといった感じで存在していて、その周辺に「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」は存在していません。
 『京都坊目誌』を見ると、「下魚棚四丁目 西洞院より四町目に當る。故に名とす。」、つまり西洞院から四つめの町にあたることが町名の由来だとしています。したがって、西洞院通から4丁(約436メートル)の距離に位置する町と云うわけではないのです。

 ちなみに、西洞院通りから西へ順に「大黒町」「土橋町」「八百屋町」と続き、まさに四つめの町が「下魚棚四丁目」でした。
 再びそれらの町名を『京都坊目誌』で見ると、以下のように記していました❗

「大黒町」は、「本町の裏に下魚棚一丁目あり。明治二年三月此に合併す」
「土橋町」は、「本町南裏北側は下魚棚二町目と呼びしが。明治二年三月此に合併す」
「八百屋町」は、「南裏北側は下魚棚三町目と称す。明治二年三月本町に合併す」
 ですから、かつては「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」も実在したのですが、合併によって消滅したのです。そして、それらの町も、やはり西洞院通りから数えて何番目の町というのが、町名の由来だったのです❗❗

 つぎです。
 上京区元誓願寺通千本東入にもポツンと孤立したように、「元四丁目」という町があります。

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 『京町鑑』には「▲元誓願寺四町目」とあり、『京都坊目誌』も「元誓願寺通四丁目也、今略稱を用ゆ。」としています。ということで現在の町名は「元誓願寺(通)」が省略されたのです。
 このケースも、東方にある智恵光院通から四つ目の町であることが、町名の由来となっているのでしょうか?
 そう考えた理由は、元誓願寺通の一筋南の笹屋町通には、智恵光院通に始まり西へ順に「笹屋町一町目」から「笹屋町五町目」までの町があることから、同様のネーミングではと類推したのです。
 ところがうまく行きません💦 『京都坊目誌』には元中之町・今出川町・革堂町の各町は、それぞれ元誓願寺一丁目・元誓願寺二丁目・元誓願寺三丁目から町名を改めたものとの記述は見当たりません。
 また、「元四丁目」は智恵光院通からの距離が250m余りですから、4丁(約436m)の距離に位置しているからということでもありません。
 ということで、「元四丁目」だけが智恵光院通から4番目の町であることをもって町名由来としたのでしょうか。どんなものでしょう❗


2020年5月22日 (金)

町名の「何で?」 (その1)

「町(ちょう)」は「丁」とも書きますが、次の3種類の意味があります。
 ① 距離の単位の「ちょう」 1町(丁)は、60間で約109メートル
 ② 面積の単位の「ちょう」 1町(丁)は、三千坪で約9,917.4平方メートル
 ③ 区画(ブロック)の「ちょう」 行政上の単位区画であり生活共同体

 京都市内の地名「**町(ちょう)」は上記③の「ちょう」ですが、この区画(ブロック)としての「ちょう」について考えてみました。
 京都市の行政の基礎単位である「**町」は、「**ちょう」と呼ばせるものが多く、「**まち」とするのは稀です。
 ちなみに、「**まち」と云う呼称は、新町通や室町通など、通り(街路)の名称に見られます。

 なお、近世以前の地図では町名を記すのに、「**町」ではなく「**丁」とするのが通例だったようです。
 例えば、「鉾の辻」と言われる四条室町界隈の鉾町の町名は、函谷鉾丁・菊水鉾丁・月鉾丁・鶏鉾丁といったように、「町」ではなくて「丁」と表記しています。

 さて、冒頭に書いたように「町」を「丁」とも書くことから、町名には区画(ブロック)の丁なのか、それとも距離の丁を意味するのか、判りにくいため戸惑うものがあります。
 いったい、いずれなのかを町名の由来から考えてみました。

 東山区本町通沿いの町名には、本町通五条下ルの「一丁目」から始まり、南は伏見区との境界の「二十二町目」まであります。
 そして、写真の「十九町目」は、『京都坊目誌』に「五條より十九町目に當る、故に名づく」とあります。したがって、町名は五条通から数えて「19番目の町(ブロック)」を意味していて、「19丁の距離にある町」ではないのです。
 しかし、「19番目の町」だけではその位置がよく判りません。なので、判りやすいように「東福寺南門前下ル」と位置を併記しています。

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 ということで、町名に見られる「*丁目」あるいは「*町目」は、その町がいくつめの区画(ブロック)かを意味しているのです。
 他にもいくつかを例示しておきます。(なお、現在の公称町名の表記は全て「*町目」ではなく「*丁目」としている。)

東山区宮川町通の、宮川筋一丁目~八丁目
 「*町目は四條から起算す。」(『京都坊目誌』)としていて、四条通から南へ順に何番目の町なのかを意味する。

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下京区東中筋通の、天使突抜一丁目~四丁目
 「一町目は松原より一町目なり、二町目以下皆同し。」(『京都坊目誌』)で、天使突抜通(東中筋通)北端の松原通から南へ順に一町目・二町目と続く。

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伏見区の新町通の、新町一丁目〜十四丁目
 宇治川の派流北岸にある柿ノ木浜町の北側が「新町一丁目」で、北へ順に二丁目以下が続く。(『京都市の地名』)

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2020年4月10日 (金)

高瀬川

 高瀬川は鴨川西岸、二条橋すぐ下手で鴨川から別れて流れる幅6〜7mの浅い川です。南流して伏見に至り、宇治川そして淀川を経て大阪湾に流入しています。
 この川は、角倉了以・素庵の父子によって開かれた運河で、慶長16年(1611)に着工して同19年に開通しました。

「高瀬川開鑿者 角倉氏邸址」碑

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 大正9年(1920)までの約310年間、大坂から淀川を経て、また宇治や琵琶湖から宇治川を経由して伏見京橋に着いた物資を、京都まで輸送するのに重要な役割を果たしたのが高瀬川でした。往時の川幅は今よりも約1m程度広かったそうで、伏見との間を物や人を載せた高瀬舟が上下していた。

一之船入

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 ここから下流の四条通までの西岸に櫛のように7ヶ所の船入があったのですが、現存するのはこの一之船入だけです。

高瀬川『拾遺都名所圖会』から)
 *この絵図「高瀬川」と次の「池洲」は、図をクリックすれば拡大します。

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生 洲『都名所圖会』から)

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 一之船入の北に支流を作り魚を放流して販売し、また川魚料理を食べさせる料亭が軒を連ねていました。
 この一帯の町名「西生洲町」「東生洲町」は、これに由来しているのです。

「西生洲町」の仁丹町名表示板

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 ところで話は変わりますが、かつて、高瀬川沿いの木屋町通には市電が走っていました。
 明治28年(1985)4月から7月まで、第四回内国博覧会が岡崎公園で開かれることになりました。この時、会場への足として七条停車場(現・京都駅)」から木屋町二条の間に京都市電「木屋町線」が開通したのです。東京以外の地で初めて開催された内国博覧会で、入場者数は114万人を数えたという。
 平安神宮が造営され、時代祭が始まったのもこの時でした。

 木屋町通、本名・樵木町通(こりきちょうどおり)はそれまで狭い道路だったのですが、電気軌道を敷設するために拡張したのです。
 そして、明治43年にはその軌道敷を拡張するため、高瀬川の幅3尺(約1m)を埋め立てられて、植えられていた柳の街路樹が伐採されたことで、それまでの風趣が失われたと言う。
 昭和元年(1926)以降「河原町線」が開通することで、その市電「木屋町線」も路線区間が順次廃止されて、翌年には木屋町線全線が廃止となりました。
 ちなみに、当時の路線経路は、京都駅前ー七条東洞院ー七条河原町ー木屋町五条ー四条小橋ー木屋町二条というものでした。


2020年3月20日 (金)

町名に六波羅政権を偲ぶ

 「 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」 (『平家物語』第一巻「祇園精舎」より)

 古代以来、政治の実権を握る主体は、平安時代前期までの天皇親政、中期以後の藤原氏による摂関政治(貴族政治)、上皇・法皇による院政を経て、保元・平治の乱以降は平氏の武家政権へと遷り変わっていきました。
 後白河天皇は引退した後も法皇として院政を敷いたのですが、保元・平治の乱以降権勢を延ばした平氏と対立して、平清盛により洛南の鳥羽殿に幽閉され政権は武家へと移っていきました。
 その辺りのことを、慈円(関白藤原忠通の子で青蓮院第三代門主)は『愚管抄』に「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、ムサ(武者)ノ世二ナリニケルナリ」と書いています。

 流刑地の隠岐島から出雲に渡って国府を襲った源義親を、桓武平氏の本流とされる伊勢平氏の平正盛(清盛の祖父)が討ち果たして武名を上げました。これを機に平氏が武士の棟梁として進出してきます。
 そして、白河院の信頼が厚い正盛は、六道珍皇寺寺領の土地を借りて阿弥陀堂(正盛堂とも)を建てます。六波羅堂とも六波羅蜜堂とも称されました。

平氏六波羅第・六波羅探題跡碑

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 正盛の死後、忠盛(清盛の父)に家督は移って、白川院・鳥羽院の信任を得ます。次いで、その子の清盛の代に至って、保元・平治の内乱に勝ち抜き平氏繁栄の全盛期を迎えます。その本拠地が「六波羅」であったことから、平氏政権は六波羅政権とも言われました。

 しかしやがて、平氏は以仁王の令旨に応じて挙兵した木曾義仲(源義仲)をはじめ、諸国の源氏の蜂起によりに敗れ、義仲が京都に入る前に自ら邸宅群を焼き払って都落ちします。
 そして都落ちして後は衰亡の一途を辿って、「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」に敗れ、源平最後の決戦となった「壇ノ浦の合戦」にも敗れて滅亡しました。

 こうして、最初の武家政権である平氏の六波羅政権は滅んで、源氏の武家政権である鎌倉幕府が取って代わりました。六波羅の地には鎌倉幕府の六波羅探題が置かれて、朝廷の監視・市中の警備をおこない、西国の政務や裁判権をも行使することになります。
 ところが、その源氏も元弘3年(1333)多摩川畔の「分倍河原の合戦」で新田義貞の反幕府の軍勢に敗れて滅んでしまいます。

六波羅蜜寺

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 「六波羅」の名称由来は、天暦5年(951)に空也聖人(醍醐天皇の子とも伝わる)によって創建された西光寺、後に六波羅蜜寺と改称された寺名が由来と考えるのが妥当であるように思われるのですが、諸説があるようです。

 また、「六波羅」の範囲についても、諸説があって必ずしも明確では無いのです。
 碓井小三郎『京都坊目誌』は、「六波羅」の範囲について、『山州名跡志』をはじめ諸本の記述を概観したうえで、次のように記しています。
 「(略)諸説大同小異にして、四至判然せず。今以上の諸説と六波羅蜜寺諸傳の舊記とを經とし。實地調査の地形、及字地の名稱等を緯とし、これを製織すれば、其梗概を推知するを得べし。」
 そして、「其審按の結果を記さんに、四至東は北にて六波羅蜜寺を限り 主典ノ辻子に至るとの説あるも同寺と辻子との間は古く寺有地なるを以て除外す。故に採らず。  西は大和大路 古昔大宮大路なり に至り、西一町にして賀茂川に臨む。 今の新古宮川筋は後世川床を埋めたるもの也 南は六條の末にして 今の正面通に當る。閑院内裏時代京師圖に七條までを區域として見取を示せり。之は後世の想像なり依て採らず。北は五條大路 今の松原通 の末に及べり。然して境域の南より東に續き苦集滅道 今の澁谷街道馬町なり に沿ふて松谷若松 小松谷を云ふ に至る。是は附属の第地にして、四至の以外なり。」と記しています。

 また、高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』岩波新書は、六波羅の範囲を次のように記しているので引いておきましょう。ちなみに、著者は平氏政権を最初の「武家政権」であるとし、「六波羅幕府」と呼んだ現代の史家です。
「平家の六波羅は、北は六波羅蜜寺のある五条末、つまり平安京五条大路(現松原通)を京外東方に延長したライン、南は同じく六条末で、南北約500メートルにおよび、東西は現鴨川東岸約100メートルの地点から東に約600メートル以上、積算して「廿余町」の面積がある。
 この空間には一族親類や従者、上京した地方武士の家々が密集して立ちならび、細かく数えれば「家数三千二百余宇」(延慶本『平家物語』)におよぶ。」としています。

 ともあれ、北は松原通から南は六条通東末にかけての一帯には、平氏一門の武将邸宅が建ち並んだが、平氏滅亡の後はそこに源氏の六波羅探題が設けられたようです。
 しかし今では、伝承に基づいて江戸期になってから付けられた町名や通り名にその名残をとどめているだけです。
 例えば、池殿町(清盛の異母弟で池大納言・池殿と呼ばれた頼盛の邸宅跡とされる)、三盛町(清盛・教盛・頼盛の三兄弟の邸宅跡とされる)、門脇町(清盛の異母弟門脇中納言教盛の邸宅跡とされる)、多門町(六波羅邸の総門の跡といわれる)です。

門脇町と多門町の仁丹町名表示板

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 北御門町(六波羅探題は南北の二庁が置かれ、北庁の北門のあったところと言われる)」、北庁の遺址が町地となり北御門・南御門・西御門の三町となったと言い、南御門町は明治元年北御門町と合併した。

 西御門町の仁丹町名表示

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 そして六波羅裏門通、この通りは三盛町・多門町から、東方にかけて興善町・竹村町・小島町の境界となっている主典ノ辻子まで通じています。


2020年2月28日 (金)

下鴨そして下鴨半木町と半木神社

 下鴨は、賀茂川と高野川の合流点から、北方の松ヶ崎・上賀茂にかけての一帯で、両川の扇状地の間に形成された三角地帯に位置します。
 ちなみに、下鴨の西側部分、つまり下鴨本通の西側の地域に仁丹町名表示板が僅かながらが残存しています。

 この下鴨は、大正7年(1918)に京都の第一次町村合併で、朱雀野村など16町村とともに京都市に編入されました。
 元来、賀茂川左岸(東岸)の東側一帯は賀茂川の旧河道でした。普段は水が少ないものの、激しい雨が降ったときには堤防が決壊して水が溢れることの多い土地だったようです。
 この賀茂川東側の地は、大正10年(1921)に制定された「住宅組合法」に基づいて開発されました。
 1910年代以降の人口増加により、下鴨にも「新中間層」の居住地として京都市内から多くの人々が移住しました。住人の特徴としては学者と画家が多かったようで、「下鴨文化村」の通称が広く知られたそうです。

 下鴨本通の東側が賀茂川・高野川の両扇状地の境界にあたり、かつては低湿地であったようでその東側を流れる泉川は、下鴨神社や河合社の境内地である糾森(ただすのもり)を経て高野川に合流しています。

下鴨宮崎町の仁丹
 この下鴨宮崎町には、大正12年(1923)から昭和27年(1952)まで、松竹京都撮影所がありました。しかし、失火によって焼失したため、太秦南堀ヶ内町に移転しました。

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下鴨松ノ木町の仁丹
 高野川は、大正8年(1919)に私人の寄附により河川改修が行なわれ、河川敷だった右岸(西岸)沿いの土地が、住宅地として分譲されたということです。

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 ところで賀茂川の左岸、北大路通の北に京都府立植物園があります。ここは、大正13(1924)年に日本で最初の公立植物園として開園しています。
 この一帯には下鴨半木町・下鴨東半木町・下鴨西半木町という町があります。そして、「半木町」の行政上の読みは「はんぎちょう」です。
 ところが、賀茂川左岸の堤防の上、春には枝垂れ桜の並木となる遊歩道は「半木の道(なからぎの道)」と称されています。
 一体「半木」はどう読むのか悩ましいところです。植物園の中にある上賀茂神社の境外摂社「半木神社」があります。神社の駒札には、「なからぎじんじゃ」と振り仮名をして、流木神社「ながれきじんじゃ」とも云うとしています。

半木神社

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 『山城名跡巡行志』に、「流木ノ神祠 上賀茂の巽七八町 下鴨より上賀茂に到る中間也 中賀茂と稱す 叉半木ノ社奈良ノ社と云ふ 今上鴨に属す」とあって、流木は「ナガレギ」・半木は「ナカラギ」と仮名を振っています。
 『山州名跡志』には、「流木社 鴨に属す 本殿の巽の方七八町許りに在り」として、振り仮名は「ナガレギ」となっています。
 今では植物園内の「半木神社」と「なからぎの森」がその名残りをとどめています。
 ちなみに、『菟芸泥赴』では、「中賀茂 上賀茂にも八町 下賀茂にも八町へだてゝ其中に有 古より半木(ナカラギ)と云ふ大己貴命を祭る社あり 一説流木(ナガシギ)といふ 非なり」としていて、昔からの言い伝えでは、この地に神木が流れ着いたことから「流木ノ社」と言ったとするが、それは間違いだとしています。

 と言うことで、古くは半木神社=なからぎ神社だったようです。
 したがって、この一帯の町名である下鴨半木町・下鴨東半木町・下鴨西半木町の「半木町(はんぎちょう)」、町名は半木神社=なからぎ神社に由来しているため、その読みは「なからぎちょう」であるべきなのでしょうが・・・。(ウーン  難しいなー❗)


2020年2月 7日 (金)

変化する「ことば」と「地名」

 「ことば」は、しばしばその本来の〈音〉や〈字〉が変化してきました。そして「地名」もまた伝承の過程で語音の転訛や、用字の改変を繰り返してきました。

 まず、地名が変化している具体例を『京都坊目誌』から引いてみます。

「小結棚町(こむすびだなちょう)
   新町通の錦小路から四条の間に位置します。

N  
 町名の由来は、小結(こゆい)つまり小結烏帽子を製造する人が製品を棚(店)に陳列販売したことによるとしています。元々の読みは「こゆいだなちょう」だったのです。
 また伝承では、いろんなオモチャを作って店舗でこれを販売し、おんな子どもが店の前に集まってこれを買った、このため俗に呼んで「児居店(こいのたな)」とした。これを「恋の棚(こいのたな)」とも言ったが、これは誤りだとしています。

「西海子町(さいかいしちょう)
   三条通の古川町から東山通西入にかけて位置します。
  (仁丹町名表示板は劣化していますが、なんとか読めます)

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 西海子は皀莢(さいかち)の仮字であり、本町の南に長田塚がありその塚の上に大きな皀莢の木があったことを町名の由来とする。
 西海子町の南隣には南西海子町がある。また、堀川通上長者町上ルにはズバリ皀莢町があり、由来は同じく皀莢の木。


 ところで、国語学の知識には疎い私には音韻変化などよくは判らないのですが、「ことばの変化の仕方」には、驚くほどに様々なパターンがあるようです。 
 変化の類型を例示してみます。

転 音
 二つの語が複合するとき、元の音が別の音に変化する。
 例:あめ(雨)→あまがさ(雨傘)、さけ(酒)→さかだる(酒樽)
転 訛
 語の本来の音がなまって変化する。あるいは発音し易い音に変化する。
 例:やめておく→やめとく、している→してる
転字・当て字
 同じ音である別の字に変化する。
誤写・誤記  
 写し間違いや書き誤りによって変化する。
音読・訓読に変化
 音読から訓読に、あるいは訓読から音読に変化する。
音便変化
 単語の一部の音が、発音しやすいように元の音とは違う音に変わる現象。
 ex. 撥音便(飛びて→飛んで)、促音便(待ちて→待って)、ウ音便(思ひて→思うて)、イ音便(咲きて→咲いて)
二重母音(母音連続)の回避
 語と語が連続して複合語となるときに、母音が連続することを避けた。
 ex. 「あらいそ(荒磯)」→「荒」の「ラ」から母音[a]を消し去って「ありそ」、同様に「春雨(はるあめ)」→「あめ」の前に[s]を挿入して「はるさめ」とすることで母音が連続するのを避けた。
ハ行転呼音
 語中語尾のハ行音が音韻変化する。
 ex. 近江(あふみ→おーみ)、埴生(はにふ→はにゅー)粟生(あわふ→あおー)
佳好二字化
 和銅6年5月、元明天皇の詔に「畿内七道諸国の郡郷の名は好字を用いよ」とあり、『延喜式』民部式には「凡そ諸国の郷里の名は二字とし、必ず嘉名を取れ」とある。お上の命令で地名を嘉名(めでたい名)・好字(よい字)を選んで、二字で表記とするように強制された。
 これは、単に用字の問題にとどまらず、その地名の元々の意味が失われてしまうことになった。

 ちなみに、地名の変化の例としてよく引かれるものに、「白馬」と「六甲」があります。

 日本アルプスの長野・富山両県境に「白馬岳」という山があります。長野県側の山の雪が溶けて、雪の消えた跡が黒い馬の形になる頃が苗代掻きをおこなう目安とされてきた。(農事暦)
 これは、「代掻き馬」→「代馬(しろうま)」→「白馬(しろうま)」→「はくば」と変化したのです。つまり、短縮・転字・訓読・音読と変化して定着したものです。今では村名も「はくばむら」となってしまいました。

 「六甲(ろっこう)」は、古くは「むこ」と呼ばれて、武庫・務古・牟古・六児・無古などの字が当てられていたという。
 「六甲(むこ)」の字で表記されるようになったのは近世になってからのようで、これが、さらに「ろっこう」と音読するようになった。
 このように、言葉だけではなく地名もまたそうした事情・原因で変化するのです。


 ところで、昭和37年に始まった新住居表示制度や、平成の大合併により大掛かりな町村名の変更が行われたため、全国的に伝統や由緒ある地名の多くが消滅してしまいました。幸い京都市の場合は諸般の事情から変更を免れました。
 地名というのは、単にその土地の場所・位置を表す記号にとどまるものではありません。その土地の歴史・地理・環境を表すいわば文化財なのです。ですから、◯町目◯◯番地などという味わいも面白味も無い単なる記号に変えてしまうような愚を犯してはなりません。



2019年11月22日 (金)

地名の発生を考える

 ことさら言うまでもなく、「地名」というのは文字通り土地につけられた名前(固有名詞)です。
 そして「地名」が発生したのは、「ことば(言語)」の発生とほぼ同時だっただろうと思われます。

 それでは、地名はどのようにして生じたのでしょうか。
 「あそこ」と言うだけではどこを指しているのかは判りません。その場所にふさわしい《記号》を付けておかなければ用を足すことができません。

 そうしたことを、柳田国男は『地名の研究』で次のように言っています。
 「地名とはそもそも何であるかというと、要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である。」

 したがって、生活上なんらかの必要があって、その土地に付けられた《記号》が「地名」なのです。 言い方を変えると、仲間同士でコミュニケーションを図り、情報を共有するために付けられた《記号》が「地名」なのです。その意味では、地名というのは人々の生活に根ざした、きわめて実用的な《記号》だと言えます。

 「人間社会がある所には地名がある」あるいは「地名は社会生活と同時に発生した」といわれる所以なのでしょう。

 話を戻しますが冒頭に書いたように、「地名」は「ことば(言語)」の発生とほぼ同時だっただろうと思われます。
 元来、日本は固有の文字を持たない無字社会でしたから、中国から文字(漢字)が移入されるまでの長い間、日本語は言葉を口づてで伝える原始的な口承伝承でした。

 古代史を研究するうえで貴重とされる歴史書の一つに、大同2年(807)に成った斎部弘成の『古語拾遺』というのがあります。
 その序では「上代之世  未有文字 貴賤老少 口口相傳」(上代の世は  未だ文字を有せず 貴賤老少ともに 口頭で受け継ぎ伝えた)としています。

 日本に漢字が伝わったのは、確かなことは判りませんが『論語』の伝来した3世紀の終りの頃のことではないかとされています。
 また、3世紀末に編纂された中国の史書『魏志倭人伝』に見られるように、倭国(日本)と魏国(中国)の間には外交使節の往来がありました。そこではやはり、漢字による外交文書を遣り取りしていました。

 中国から日本に漢字がもたらされた最初の頃は、漢字を訓読みしたり、漢字の音を借りることで日本語を記したようです。
 使用方法は、その漢字が持つ意味(表意性)を無視して、音(表音性)を利用することにより一字で一音を表わしました。つまり、「万葉仮名」的な用字法で、記録したり伝達することが可能となったのです。 
 こうして、日本語を音で伝える口承伝承から、漢字を使って伝える書承伝承が可能になったことは画期的な進歩だったといえます。

 ところで、柳田國男は前掲書で次のようにも記しています。
 「元来字(あざ)や小字の名は久しい間人の口から耳に伝えられていたもので、適当な文字はなかったのである。しかるに地図ができて文字を書き入れなければならぬようになって村の和尚などと相談してこれをきめた。その文字は十中の八九までは当字である。しかも大小種々な知恵分別をもって地名に漢字を当てたのは近世の事業であって、久しい間まずは平仮名で通っていたものである。」


 さて、どのようにしてその土地を特徴付ける地名が名付けられたのか、諸本を参考にしながら気軽に考えてみました。
 地名研究の世界では、地名を大きくは「自然地名」と「人文地名(文化地名とも)」に大別しているようです。
 地名はというのは、まずその立地の自然を描き出すことで名付けられることが多かったようです。(自然地名)
 これに対しやがて、人間の営為によって形成された歴史的・社会的・文化的な地域要因を地名として命名します。(人文地名)
 人文地名はさらに、行政地名・交通地名・経済地名・歴史地名・宗教地名・人名地名などに区分され、それがさらに細分化されるようです。
 なお、京都では歴史地名・宗教地名・人名地名が圧倒的に多く見られ、自然地名はほとんど見られません。


 最後に、命名された地名の来由の幾つかを例示してみます。
 人々にとって危険な場所は仲間同士で注意を喚起するために、その土地の地形や特徴を地名にしたでしょう。
 例えば、大雨が降ったり地滑りを起こすと、崖(ホキ・ホケ)が崩壊する土地はボケ谷・大歩危・小歩危などと名付ける。

JR大歩危
 JR四国、土讃線「大歩危駅」のホーム表示

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 また、洪水になれば川水が氾濫して水の引きにくい低地には泓・沮沢・湛など付ける。
片 泓
 長岡京市の「片泓」交差点表示

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 農耕地名(産業地名)で多いのが、水田や畑地につけられた「○○田」「○○畑・畠」など。また、ある植物が多く生える場所にはその植物を地名にする、例えば芹生・芦生・栃生などと言ったようにです。

 交通地名の例として、二本の道が出会いそして分かれるところには「追分」「別れ(分れ・岐れ)」、また、二つの川が合流するところには「落合」、峠への登り口や下り口では旅の履物を供えて旅の安全を祈願するところとして「沓掛」というように名付けました。

追 分
 「みぎハ京ミチ ひだりハふしミミち」、側面には「柳緑花紅」と刻まれている。
 東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点に立っている道標。 

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五条別れ
 「左ハ五条橋  ひがしにし六条 大佛  今くまのきよみず道」「右ハ三条通」と刻まれている。
 東海道と伏見街道の分岐点に立つ。

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沓 掛
 国道9号線の沓掛交差点に。

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2019年10月31日 (木)

一口(いもあらい)について

 先頃の記事「消えた巨椋池」では、かつて、京都府下では最大の淡水湖であった巨椋池が、昭和8年から干拓工事に着手され昭和16年に完工を見て、約635haの水田地帯へと変貌したことについて記事にしました。

現在の巨椋池干拓田
 区画されて広々と広がる田圃やビニールハウスが整然と並んでいます。
 遥か彼方には京滋バイパスが田圃の中を突っ切っている。

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 干拓によって消える前の巨椋池の西南の端、淀の近くに秀吉が築いた大池堤の堤防上に「一口」と書いて「いもあらい」と読む集落がありました。

東一口の民家裏側
 かつて堤防であった所にある家々の様子が見て取れます。高みの手前(石段の下)が巨椋池だったのです。

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東一口の家並み

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 そもそも、「一口」と書いて何で「いもあらい」と読むの? 難読も極まる地名の最たるものでしょうね。
 その「一口」、現在では東一口と西一口に分れていますが、「東一口」の東部には広大な巨椋池干拓田が広がっています。

一口の道標
 現在の西一口、宇治川の左岸(南岸)堤防下の道路脇に残されている。
 道標の東面は「是東 一口村安養寺」、西面は「南 御牧村役所」、南面には「淀川渡船場」と刻まれている。

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 ところで、往時の巨椋池の東一口は漁業集落でした。
 伝わるところでは後鳥羽上皇から賜った漁業権は、東一口村・小倉村・三栖村・弾正町の四ヵ郷の漁師には、東が津軽外の海、西は艪櫂の及ぶ限りの範囲での漁を許されたという。
 その漁業権の総帥であった山田家の屋敷は、当時の三分の一の規模に縮小されているというが、残っている長屋門は東西15間・奥行き2間半、入り口門は総欅の扉というからその勢威・格式が偲ばれる。

山田家の長屋門

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 さて、「一口」の地名由来に話を戻します。

 中世には「いもあらひ」あるいは「芋洗」と表記されていたようで、現在の「一口」表記が見られるようになったのは近世の江戸時代になってからだとされます。

 この「一口」を「いもあらい」と称する由来、つまり地名の由来については、いろいろの説があるようです。
 ちょっと面白いのでそれらを紹介しておきましょう。

 『山城名勝志』では、「一口」の名称由来を「古老云昔三方ハ沼ニシテ一方ヨリ入口有之故ニ一口ト書ト云リ」としています。これは、村は北・東・西の三方を巨椋池に囲まれていて、入り口が西の1ヶ所のみであるという立地条件から来ているもののように思われます。
 「いもあらひ」は、低湿池であるが故の水難や疫病の流行といった災厄を追い払う「いみはらい(斎払・忌祓)」が「いもあらい(芋洗)」に音韻転訛したとする説を有力とする向きもあるようです。

 そのほかに、伝承として伝わっている「由来」の数々をランダムに挙げてみます。

 用明天皇が今の宇治田原町に行幸された時、お詠みになった歌を短冊に書いて一口川(ひとくちがわ)に流された。この短冊が淀の漁師の網に懸かったので禁裏に届けたところ、詠まれた川の名「一口」を在所の名として賜ったと云う。
 豊臣秀吉が伏見城で開いた宴で詠んだ歌を、短冊に書いて宇治川に流した。この地に流れ着いた短冊を、現れた大鯉が一口に飲み込んだことが地名の由来となったと云う。
 弘法大師が大池(巨椋池)にさしかかった時、農夫が洗い物をしていた。大師が「何を洗っているのか」と聞いたところ、農夫は慌てて「芋です」と答えて「ひとくち」で芋を食べてしまったからだと云う。[註:ジャガイモやさつまいもが入ってくるまで、芋と言えば里芋のことだった。]
 かつては、巨椋池で取れた鯉を石清水八幡宮に献上していた。そのとき「一咫鯉一疋」と書いた目録が添えられた。それを「一口から鯉一尾を献上」と読み違えたからだと云う。
⑦ 巨椋池には大小無数の島洲があって、芋を洗うような景観だったことから「芋洗」と呼ばれるようになったと云う。
 百姓が初めて農地を耕すときに、神から土地を貰う神事「地貰い(じもらい)」を行なった。この「地貰い」が「いもあらい」に転訛したのだと云う。
 「いもはらい(疱瘡払い)」が転じたとする説。東一口に豊吉稲荷大明神があり、かつては疱瘡稲荷神として全国的に知られた稲荷社だったと云う。江戸城を築いた太田道灌は愛娘が疱瘡に罹ったとき、一口の疱瘡稲荷に祈願すると治ったことから江戸に稲荷神を勧請したという。

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