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町名・地名の由来

2022年8月19日 (金)

七福神信仰と町名

革堂(行願寺)の七福神石像

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 七福神というのは写真の七福神像に見るように、(左から順に)恵比寿天・大黒天・毘沙門天・弁才天・寿老人・福禄寿・布袋尊の七柱で、福徳長寿をもたらす神をいう。(写真をクリックすると七福神の顔がはっきりと見えます) 
 初めは今のような七柱の神様で定まっていたわけではなく、寿老人のかわりに吉祥天や猩猩が入っていたこともあるそうな。

 七福神信仰は室町時代から江戸時代にかけて成立したもののようで、その発祥地は京都だということです。江戸時代中期に、聖数(縁起のよい数)とされる七の数に合わせて今のような七柱となったようです。現在でも新年には福徳を祈って七福神の社寺を巡拝する「七福神詣で」として人気がある。
 これら七柱の神様はその出自が国際色豊かで、恵比寿天だけが日本、大黒天・毘沙門天・弁財天はインド、福禄寿・寿老人・布袋尊は中国の神様だということです。

 ところで、京都には七福神の名前の絡んだ町名が数多く存在します。
 七福神の中でもとりわけ、蛭子町(恵比寿・夷・恵比須などと表記する場合もある)及び大黒町の二つの町が圧倒的に多い。
 そしてなぜなのか、蛭子・大黒の二つの町が隣接しているか、隣接していなくてもそれほど離れていない場所にセットのようにして存在していることが多い。これは案外単純に、縁起の良い恵比寿・大黒にあやかって対になるよう命名したのかもしれません。
 蛭子(恵比寿・夷・戎と表記することもある)は商売繁盛・福の神として広く信仰を集めていて、大黒は福徳の神として民間の信仰を集めている神様です。

 七福神は不老長寿・商売繁盛・五穀豊穣・家内安全・所願成就にご利益があるとして信仰された。七神の中でも大黒天・弁財天・毘沙門天・蛭子などが次第に神格化する中で、蛭子・大黒天は他の五神から抜きん出た存在となり、併祀されるようになったようです。
 七福神にまつわる町名は、他にも毘沙門・弁天(弁財天)・布袋があります。ところが、福禄寿と寿老人が絡んだ町名というのは全く見当たりません。

・・・と、ここまで書き上げてからふと気づいたのですが、七福神は以前にも書いたような・・・。
調べてみるとやはり書いていました。(ウーン!被ったなー。マーいっか)




2022年7月 8日 (金)

行願寺(革堂)

 行願寺は、中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町にあります。もともとは、平安時代の寛弘元年(1004)に一条小川の北、一条北辺堂跡に僧行円によって創建されたことから一条北辺堂とも称されたとか。
 幾たびもの戦乱や火災によって焼けるが、豊臣秀吉の京都改造により今の寺町通荒神口のあたりに移り、宝永の大火(宝永5年)で類焼したことで現在地に移転しています。

 行円の生没年は不詳ですが、一説に鎮西(九州)の人と言い、また比叡山の横川(よかわ)出身の聖とも言われる。
 ある時、山中で身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿から子鹿が生まれ出るのを見て、殺生の非を悟って仏門に入ったといわれる。
 藤原道長(御堂関白)の三男の藤原顕信は、寛弘9年(1012年)に行円の教えに感銘を受けて剃髪出家したとされる。

 行円上人は夢の中で神のお告げにより、賀茂神社にある槻(けやき)の木を得て八尺の千手観世音菩薩を彫り、これを一条の小川辺に本尊として安置して行願寺と名付けた。この旧地には、革堂町・革堂仲之町・革堂西町などの町名として残っています。

 行円は頭に仏像を戴き、身には鹿皮の衣を着けていたため、人々は皮聖(かわのひじり)とも皮上人とも呼び、寺は革堂(こうどう)と呼ばれた。

加茂明神石塔
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五輪塔水輪の中に祀られた不動明王石仏

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 境内の西北隅に五輪塔の「加茂明神石塔」が立つ。高さ約3メートルで花崗岩製。
 行円が加茂明神の夢告により、加茂社の槻の木で本尊の千手観音像を刻んだとき、報恩のために加茂神を勧請し、この塔を造立して祀ったという。しかし、塔の造刻年代は平安時代ではなく鎌倉時代のものとされる。
 塔の水輪に方形の穴を穿って、不動明王石仏が安置されているが、これは当初からのものではない。
 笠石(火輪)の軒裏に一重の垂木型作り出しがあるのは珍しいものといわれる。高さ3m、花崗岩製。




2022年2月18日 (金)

鴻臚館のこと

東鴻臚館址の碑
 下京区西新屋敷揚屋町(「角屋もてなしの文化美術館」横)

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 東鴻臚館はこの碑からおよそ100mほど南に位置した。
 ちなみに、旧遊郭島原の大門から花屋町通東方の櫛笥通までを薬園町という。この町名は渤海国の使節がもたらした薬草を栽培した薬草園に由来するとも言われる。

 「鴻臚館」は、音読して「こうろかん」と読みます。
 古代に日本へ来た外国使節を接待した施設で、言ってみれば迎賓館にあたるもの。奈良朝のころ太宰府・難波に置かれ、平安期になって平安京に置かれたようです。

 平安京の鴻臚館は、はじめは朱雀大路の羅城門を入ったところに、左右の2カ所設にけられた。
 しかし、延暦15年(796)に国家鎮護・王城鎮守のため官の寺、東寺と西寺を造営するにあたって七條大路の北に移転された。
 新たに造営されたのは現在の七条通と正面通の間で、朱雀大路(現・千本通)を挟む形で、東西対称に東鴻臚館と西鴻臚館が設けられ、二町四方の土地を占めていたようです。
 東鴻臚館は、西新屋敷(島原)の南、七条通から北で現在の朱雀正会町・夷馬場町にあたる。
 西鴻臚館は、七条通から北で中央卸市場と七本松通の間。現在の朱雀堂ノ口町・朱雀宝蔵町・朱雀北ノ口町にあたる。

 この鴻臚館で接待したのは渤海国の使者で、日本との通交は神亀4年(727)に渤海使が来日したのに始まり、延喜8年(908)までの間に34回にわたって日本に来ている。その後に鴻臚館は衰微したようです。
 渤海というのは、現在の中国東北地方東部・ロシア沿海地方・北朝鮮北部にあった国で、698年に建国し、926年に契丹の侵攻を受けて滅亡しました。



2021年12月18日 (土)

岬神社 ーこの名は鴨河原だった名残りー

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 蛸薬師通河原町東入の備前島町にあるこの岬神社、別名を土佐稲荷ともいいます。五穀を司る倉稲魂(くらいねのみたま)、つまり稲荷神を祀るそうです。
 この岬神社は名前から判るとおり、一帯がその昔には鴨川の河原であったことを物語っているものとして注目されます。
 広く知られるように、河原町通というのは鴨川の河原であったところに開かれた通りなのです。
 元は鴨川の氾濫から守るために、鴨川畔の岬に祀られたのがこの神社の名称由来といわれ、社伝では南北朝時代の貞和4年9月28日の鎮座と伝えるのだが定かなことではない。
 くだって江戸時代の慶長期になり、この地に土佐藩の京屋敷が設けられて、明治維新の廃藩まで岬神社は同藩の鎮守社とされ、土佐稲荷とも称されたていた。

 神社の所在する備前島町は、慶長16年に高瀬川が開削された時、備前の国から船頭を招いて居所としたことから町名となった。
 高瀬川は慶長年間に、角倉了以が方広寺大仏の再建のための資材を運搬するために伏見から五条までを開削しました。その後、慶長16年に二条まで延長したもので、明治に至るまでの約300年にわたって京都・伏見間の物資輸送のための運河として、京都の産業経済に大きな影響を及ぼしたのです。


 ちょっとばかり息切れしているため、年末年始は記事の更新を休ませていただく積もりです。



2021年8月20日 (金)

京の市場事情 2 ー近 世ー

 時代は変わり、江戸時代になると農耕で牛馬の利用が増え、また二毛作が広まるなど農業生産力が急激に向上します。そして、京の人口増加による青物蔬菜の需要増大とが相俟って、青物の立売市場が大いに発展します。
 それらの青物市場は隣接する魚市場と一体となって、京の人々の食生活を支える大規模な市場となっていきました。

 ちなみに、京の魚市場としては、次のような上・中・下の著名な3カ所の魚棚(うおのたな)がありました。

椹木町通(上の魚棚)

『京町鑑』に、椹木町通を「俗に上魚棚通 此通中頃椹木をあきなふ材木屋多くありし故名とす 又釜座邉魚商ふ家多し故魚棚と云」としている。
『京羽二重』も、「東にてさはら木町通と云 西にて魚の棚通と云」として、所在の諸商人として「新町にし 生肴  八百や」と記す。

東魚屋町(椹木町通)の町名表示板

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 往時は、椹木町通の西洞院通から堀川通までの間に魚市場があり、現在も東魚屋町・西山崎町(かつては西魚屋町が通称か)の町名が残っている。


錦小路通(中の魚棚)

『京町鑑』に、「いつの頃よりにや 魚商ふ店おほく今におゐて住居す仍而 世に中の魚棚とよぶ」として、「麸屋町西入 東魚棚町、柳馬場西入 中魚棚町、高倉西入 西魚屋町」と町名を記している。
 ここも慶長期以来の魚市場があり、魚鳥・菜果をも商った。
 現在も、富小路通と柳馬場通の間に東魚屋町、堺町通と高倉通の間に中魚屋町、その西の東洞院通までに西魚屋町があり、近辺には八百屋町・貝屋町という町名も残っています。


六条通(下の魚棚)

 寛永年間に、下魚棚通にあった魚市場が六条通に移されて盛んに売買されるようになった。
 『京町鑑』は、「此通魚屋多し 故に是を下魚棚といふ」とし、「室町東入 東魚屋町、新町西入 西魚屋町、西洞院西入 北魚屋町」の町名を挙げている。
 こうして、六条通に魚棚通という通称が生じて一般化した。しかし、明治になってからは振るわなくなり、名はあっても実は無くなってしまいました。

東魚屋町(六条通)の町名表示板

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 現在も、室町通東入に東魚屋町、室町通西入に西魚屋町の町名が、また西魚屋町の南側には八百屋町という町名も残っている。

ちなみに、六条通(下の魚棚)に関わることを。
 七条通の一筋南に下魚棚通があって、東は西洞院通から西は大宮通まで通っています。
 ここには、寛永年間に六条通へ移転するまで慶長期以来の魚市場がありました。
 しかし、下魚棚一町目から下魚棚四丁目まであった町名も、現在では「下魚棚四町目」を除いて隣接する町に合併されたために消滅しています。
 なお、この下魚棚通の魚市場に近接して青物市場もあったのですが、その名残りが今も八百屋町・西八百屋町・南八百屋町の町名として残っています。



 

2021年8月13日 (金)

京の市場事情 1 ー古代から中世ー

 平安京には、左京に東市(ひがしのいち)、右京には西市(にしのいち)の2ヶ所の官営の市が設けられていました。
 どちらも四町四方の広さで、その周囲には外町が設けられていたということです。そして、市(いち)の開催日は、1ヶ月のうち前半は東市が、そして後半は西市が開かれて、開催時間は正午に始まって日没前に解散したようです。

 下京区河原町通六条西入本塩竈町にある市比売神社、いまでは縁結び・子授け・女人厄除けなど女性の願い事にご利益があるとされるパワースポットですが、元は延暦14年(795)東西の市に市杵島比売命を勧請したもので市(いち)の守護神でした。

市比賣神社(市姫神社)

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 ところが、平安京の右京域は湿潤な土地柄から、10世紀頃には衰退してしまいます。したがって、右京に設けられていた西市もまたすっかり寂れてしまうのですが、左京の東市の方は繁栄したようです。
 しかし、東・西両市ともに平安京の南端近くに位置したため、また官営の市ということから、やがて平安京社会の実情に合わなくなって衰退してしまいました。

 その頃、官衙(平安宮の役所)に所属して手工業生産に携わていた厨町(くりやまち)の職人・工人は、律令制が衰退して朝廷の権力が弱体化するとともに、その束縛から解放されて独立した手工業者として町尻小路(新町通)の三条・六角・錦小路・四条などに居を構え、東西市に代わって新たな商業経済の中心となっていきました。

 下って、鎌倉・室町の頃になると、市中の商工業者や近在の農民たちが売り物を持ってきて、道端や軒下などで露天商いをしたようです。
 このように店棚を持たないで商いをするのが「立売(たちうり)」で、そうした商い人の集中する通りの名称として、上立売通・中立売通・下立売通の名称が生じ、今に至るまで名をとどめています。『京雀』『京町鑑』などの地誌によれば、初期は絹布巻物類の立ち売り(裁ち売り?)に始まったようで、次第に棚売り(店売り)へと発展していきます。
 これらの通りには立売に因む町名も残っていて、上立売通には上立売町・上立売東町、下立売通には東立売町がある。

 現在では通りの名称としては残っていないのですが、四条通にも麸屋町通から東洞院通の間に、立売東町・立売中之町・立売西町という町名が現存しています。四条立売と総称して、室町時代には百貨売買の重要な市場として繁盛したようですが、『都名所図會』には、「むかし大内裏の時、此所諸品を商ふ市場なり。今毎朝高倉四條の北に野草の市あり、往古の余風歟」とある。

「四條立賣」

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 また、伏見にも桃山町立売という町名が大手筋通の南、第一期の伏見城があった桃山町泰長老の北側に残っています。




2021年6月25日 (金)

別の名もあった通り 4 ー新町通ー

 新町通について、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では、「△ 此通 古上京にて町口と云 下京にて町尻といひし也」。そして、通り名の由来を「此通あらたに建つヾきしゆへ俗に新町とよぶ」と記し、「⚫️ 此通北はくらま口より一町上より下は七條迄」通っている道だとしています。
 もっとも、現在の新町通は途中で途切れながらも、北山通の北の玄以通から南は久世橋通の辺りまで通じているようです。

 先の『京町鑑』にある新町通の起りについて、いくつかの資料に当たって当時の様子を探ってみました。

 平安時代の市場というのは官営でした。また、物の生産についても「諸司(多くの役所)」に属していた諸職人や商人によって行われていたようです。
 これら職人たちの職場であり住居でもある多くの「厨町(町)」は、織部町・大舎人町・縫殿町・内膳町・木工町などその多くが、大内裏(宮城)の周囲ことに東側に存在していました。
 そうした厨町の中でも「修理職町(しゅりしきまち)」は、内裏(皇居)の造営と修理事業の一切に当たる役人と諸職人が集住する、規模の大きい代表的な「町」でした。
 この修理職町は、南北が近衛大路(現・出水通)と中御門大路(現・椹木町通)の間、東西が室町小路(現・室町通)と西洞院大路(現・西洞院通)というもので四町四方の広さがあり、平安京の都市区画である条坊制でいうと、左京一条三坊二保のうちでも、三町〜六町までの4町分を占める大きな「町」でした。(その西半分に当たるところは、現在では京都府庁・京都第二赤十字病院となっています。)

 そして、この修理職町の中央を南北に貫いて通っていたのが、「町通(まちどおり」と言われた通りで、のちの「新町通」でした。
 この「町通」という呼称は、修理職町を貫いて通っていることから来ているようなのです。
 ちなみに、『京町鑑』にあるように、修理職町の町域北側を「町口」、修理職町の町域南側を「町尻」と呼び習わしていたようです。したがって、「町通」は「町口」の北の「町口小路」と、「町尻」の南の「町尻小路」という二つの名称を持っていたようです。

 ところで、平安前期も末の9世紀くらいになると、朝廷の権力が弱まってきて官衙が縮小されていき、そこに属していた諸職人・工人・商人などの手工業生産に携わっていた人々は、役所の束縛から解放されるようになります。
 こうした職人たちの多くは、その技術を生かして市中の特に「町通(新町通)」沿いに居所兼仕事場・店舗を構えて、独自に商業活動を行なっていくようになります。そしてこの町通は、11世紀の頃からは官営の東市・西市にとって代わり、平安京の経済の中心地となって活況を呈したようです。
 それは、とりわけ町通と東西にとおる通りが交差する地域の、三条町・六角町・錦小路町・四条町などを中心に商業が発展し、現在もそれらは町名となって残っています。
 こうして、新町通の前身である「町通」が、平安京の経済活動の中心となる主要な通りとなっていったのです。

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上の写真は現代の「六角町」界隈です。
 右手は、近世の松坂屋(後の三井呉服店京都店)の店鋪跡で、今は三井ガーデンホテル京都別邸となっている。

以下は、思い立っての追記です。
 この記事は午前中にアップしたばかりなのですが、地誌書を眺めていてちょっと素通りするわけにもいかないな〜と思ったので、簡単に記しておきます。
 それは、新町通の名前の由来についてなのです。
 『京羽二重』には、「町尻通 新町通と云  いにしえ町尻殿と云し公家二條の北に住給ひし故  町尻通と云しとぞ」とある。
 『京都坊目誌』では、「詳ならず  古へ町尻殿あり、町尻町口の稱あり」と記していて、『京町鑑』と『京羽二重』を中途半端に折衷したかのようなことが書かれていました。





2021年5月28日 (金)

えーッ! この町名はなに?

 町名には、その多くにそれぞれ来歴・謂れといったものがあるのが普通です。
 例えば、故事や伝承に由来するもの、職種や職業に由来するもの、寺社(神仏信仰)に因むもの、交通や交易(関所・市)に因むものなどなど。類型あるいは様式があまりにも多岐に渡るため、簡単には仕分け切れないほどの種類の町名があります。もちろん、今となっては来由が不明となってしまったものもありますが。
 そして町名やその由来から受ける、味わいや情趣といったものがあります。

 ところが、中にはそうしたものが全く感じられない、素っ気なく無愛想な町名もあります。
 もっとも、町名というものが、単にある地点・ある地域を表す記号に過ぎないものだとするなら、そうした素っ気ない命名の町名ほど簡単明瞭なものはないだろうと思われます。

 例えば、南北の「通り名」と東西の「通り名」を組み合わせただけの町名が、いわゆる旧市内のそれも中心部の地域に集中して存在します。
 そのような町名は、東は室町通りと西は大宮通の間、北は二条通と南が高辻通の間に多く見られます。

「五坊大宮町」の町名表示板
 「五坊」は「五条坊門小路」の省略形で、現在の仏光寺通に相当します。
 平安時代の街路名の名残ですね。

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 例えば、大宮通にそうした町名を見てみると、御池通から松原通までの間は軒並みことごとく、こうした町名が続いています。
 三坊大宮町・姉大宮町東側・姉大宮町西側・三条大宮町・六角大宮町・四坊大宮町・錦大宮町・四条大宮町・綾大宮町・五坊大宮町・高辻大宮町といった具合です。
 いずれも、それらの町名は「南北の通り」と「東西の通り」が交差する地点の呼称を、町名としているのです。
 もっとも、そんな安直な命名ともいえるような町名であっても、それがどこにある町なのか、位置がは極めて容易に判明するという便利さ・良さはあります。

 ところがそんな、通り名と通り名を組み合わせた町名も、そのままでは長くなってしまう場合には、一部を省略することで短くしています。
 省略の仕方は、先にあげた例で言えば大宮通りと交差している東西の通りの名称を省略しています。例えば、三条坊門大宮町が三坊大宮町に、姉小路大宮町が姉大宮町に、錦小路大宮町が錦大宮町に、綾小路大宮町が綾大宮町に、といったようにです。
 なお、これらの町名で三坊・四坊・五坊というのは、平安期の通り名である三条坊門小路・四条坊門小路・五条坊門小路が略称されたもので、現在の通り名で言えば御池通・蛸薬師通・仏光寺通に相当します。




2021年4月30日 (金)

別の名もあった通り 3 ー黒門通ー

 黒門通は大宮通の一筋東側を南北に通っている道で、北は元誓願寺通から南は松原通までの道でしたが、現在は南が梅小路通にまで至っています。
 その途中、丸太町通と押小路通の間は二条城、松原通下ルには妙恵会総墓所(本圀寺塔頭寺院の共同墓地)、花屋町通と七条通の間には西本願寺などがあるため黒門通は中断している。
 じつは、当ブログの過去記事(「通り名のいわれ ー黒門通ー」 2014年9月26日)と内容的には被るところもあるのですが、敢えてもう一度取り上げました。

 黒門通の名称由来について、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』は、「黒門通といふは太閤秀吉公聚樂城の鐵門の有し通ゆへ號す」として、この通りに豊臣秀吉の聚楽第の鉄門があったことによると云う。
 また同書には、「御池通下ル町より新シ町と云四條邊にて御太刀松通とも云佛光寺邊にて竹屋町といふ」とあり、黒門通の別称として「新シ町(あたらしまち)通」「御太刀松通」「竹屋町通」を挙げています。

新シ町通

 次の仁丹町名表示板の「新シ町」は黒門通のことで、現在であれば「下京区  錦小路通黒門西入  七軒町」としなければ、ここがどの辺りなのか判らないでしょうね。
 この別称「新シ町通」の名称由来については不明で、大正4年(1915)刊の『京都坊目誌』でも 「稱號詳ならず」としています。

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御太刀松通

 四条通下ルにある「下り松町(さがりまつちょう)」は、かつては「御太刀の松町」と称したようです。
寛文5年(1665)刊の『京雀』は、「此町に大木の松一本あり 世にいふ九郎判官よし經太刀をかけられし 今もこの松を太刀かけの松と名づくとにや」と、源義経が太刀を掛けた松があったことを町名の由来と記す。
 宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では、義経が松に太刀を掛けたことを由来とする点は 『京雀』と同じなのですが、「叉一説に堀川の御所といへりしも此邊なりとぞ御館の松といへるを書誤りて御太刀の松といひつたへ來れり」として、義経の堀川館がこの辺りにあって、その御館の松を書き間違えたとする説を併せて記しています。
 これらの伝承が、「下り松町(さがりまつちょう)」の旧称「御太刀の松町」と、通り名の旧称「御太刀松通」の名称由来となったようです。
 なお、『京都坊目誌』には、「始め助太刀の松町と呼ぶ。後ち。松枝の垂下せるにより今名に改む。」と異説を記しています。




竹屋町通

「竹屋町通」も由来は不詳で、『京都坊目誌』は黒門通仏光寺下ルの「今大黒町」について、「始め竹屋町と稱す。後ち大黒町北組南組の二に分つ。近古合併して今大黒町と稱す。杉蛭子に對し。此稱號を附せしと云ふ。」と記述しますが、竹屋町の由来には触れていません。


 次にこの通沿いのいくつかの町について、町名の由来となった伝承を挙げておきましょう。

 下長者町通上ルの「小大門町」について、『京都坊目誌』は「天正年中聚樂城外廓の通用門當町の南通下長者町にあり。故に小大門の町と呼ぶ。元祿以後南北二町に分る」とあり、豊臣秀吉の築いた聚楽第の通用門があったことが「小大門町」の由来であり、「南小大門町」と「北小大門町」の二町に分かれたのは、元禄期以降のことだとしています。

南小大門町の仁丹町名表示板
 劣化して見づらいのですが、町名は南小大門町となっています。

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 下立売通上ルの「蟹屋町」について、『京雀』は「ある人の家に蟹を飼けるに大かた馴て人の家にもゆかざりしかば奇特かりてその家名を蟹やと云けりとぞ」とあります。飼っている蟹が大変によく馴れていて他の家には行かなかった、それでその家を蟹屋と云ったというのです。
 ちなみに、この蟹屋町、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』には「蟹屋町 北組南組二町に分る」 とあるので、この頃に現在のように北蟹屋町と南蟹屋町に別れたことが判ります。

南蟹屋町の仁丹町名表示板

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 錦小路通下ルの「藤岡町」について、『京町鑑』は「古此町に藤岡といひしもの染物の上手にて其頃藤岡染とて大にはやりしと也終に小名と成たり」としている。




2021年4月16日 (金)

別の名もあった通り 2 ー大黒町通ー

 大黒町通は、大和大路通の一筋西側を南北に通っている道で、北は松原通から南は七条通に至る道です。
 『京都坊目誌』には、大黒町通の名称由来を「此街壽延寺に大黒天の像を安置す。故に名く。」として、大黒町通松原下ル北御門町にある寿延寺に祀られた大黒天像に因むとしています。

寿延寺

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 『京町鑑』などの地誌によると、その大黒町通には次のように区間によって別の呼称があったようなのです。

大黒町通

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 『京町鑑』では「骨屋町通」についての記述の中で、「但此通五條通より北は大黒町なり」とあるように、五条通から北の松原通までの間を大黒町通と称していたようです。

骨屋町通
 上掲『京町鑑』に、「◯骨屋町通 △此通の南に扇子の骨を製作するもの多く住す故に號す」とし、「⚫︎但此通五條通より北は大黒町なり扨五條下ルより南は大佛正面まで」と記しています。
 つまり、五条通から南の正面通までを骨屋町通と称したのです。この一帯に扇子の骨を製作する者が集住したことが名称の由来だとする。

袋町通
 「袋町」の仁丹町名表示板(写真提供は京都仁丹樂會)

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 『京都坊目誌』には、「大黒町通 (中略)、五條以南にて、袋町通又耳塚通とも称す。正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」とあります。
 なお、この「袋町通」は、大黒町通五条下ルに「袋町」が所在することが名称の由来。なお、往時の袋町へは南から北に向かって入るが、その先で音羽川の流れに阻まれて五条通まで通じていなかったため、袋小路となっていたことから生じた呼称だとする。

浄雲寺
 寺門の正面奥に見える本堂の裏手で音羽川は流路を変えていた。

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音羽川跡の一部(前方の人家の間の細い道)

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本町公園から流路跡の音羽川北通を望む

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【註】音羽川は、現在では流路のほとんどが暗渠になっているため地図に現れていません。近世末の地図や『京都坊目誌』によると、清水寺奥の院にある「音羽の滝」に発して南西に流れ、五条橋東六町目を経て馬町通(現・渋谷通)の北裏沿いを西に流れ、常磐町・鐘鋳町・芳野町・石垣町・袋町の町々の北側を流れて、本町一丁目の東側にある浄雲寺に行き当たると、ここから南に流れを変え本町三丁目と四丁目の境界の辺り(今の本町公園)から通称音羽川北通りを西に向かい鴨川に流入していたようです。

耳塚通
 『京町鑑』は、「此通北は大佛正面通より南は七條通迄」としている。
 耳塚通は大黒町通の正面から南をいうが、通り名の由来は正面通に耳塚が所在するため。

耳 塚

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【註】耳塚は、豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した時(文禄・慶長の役)、討ち取った朝鮮人の耳や鼻を集めて、持ち帰りここに埋めたという。

塗師屋町通
 耳塚通は塗師屋町通ともいう

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 『京都坊目誌』には、耳塚以南については耳塚通りの呼称のほかに、「正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」として、正面通から南つまり耳塚以南を塗師屋町通とも称したとしている。
 髹(きゅう)塗り、つまり漆塗りを業とする者が住んだことからこのように呼んだという。




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