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町名・地名の由来

2019年6月21日 (金)

饅頭屋町(まんじゅうやちょう)

 烏丸通の三条と六角の間に饅頭屋町という町があります。
 『京雀』には、「◯まんぢうやの町 此町の饅頭屋は日本第一番饅頭の初なるよし家名の書付にあり」とあって、饅頭屋発祥の地だとしています。

饅頭屋町の町並み

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 『京都坊目誌』でも、この饅頭屋町の町名起源について、次のように説明しています。
 「天正以前阿彌陀堂前ノ町と云ふ。頂法寺の阿彌陀堂西門のありし所とす。當時鹽瀬九郎右衛門と云ふ者此町に棲して。饅頭舗を開きしより稱となる」

頂法寺の山門

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 ここ饅頭屋町は、天正以前には頂法寺(通称・六角堂)阿弥陀堂の西門があった所で、天正期以前の町名は阿弥陀堂前ノ町と云ったが、この町に住む塩瀬九郎右衛門という人が饅頭屋を始めたことから饅頭屋町と云う町名になったと言うのです。

頂法寺の本堂
 頂法寺の正式名称は紫雲山頂法寺、通称の「六角堂」は本堂が六角宝形造(ろっかくほうぎょうづくり)であることによる。

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 ところで、この塩瀬家について伝わっているところを記します。

 建仁寺の僧である龍山徳見禅師が、嘉元元年(1305)元に留学、元には45年のあいだ留まり修行、貞和5年(1349)に帰国したと云います。そして後に建仁寺35世・南禅寺24世・天龍寺6世の住職に就任、その曾孫が建仁寺塔頭の多くの文化財両足院を創建しています。
 龍山徳見が帰朝したときに随行して来日したのが、林浄因(りんじょういん)という人でした。
 この林浄因が日本(京都)に帰化して塩瀬を名乗り饅頭の製法を伝えたといい、塩瀬総本家の始祖にあたるそうです。

 浄因の子孫から禅僧や商人を輩出して饅頭屋も継承されますが、その後、京都の林家と奈良の林家に別れたようです。
 京都の林家は姓を「塩瀬」と改め、烏丸通三条下ルで塩瀬饅頭を販いだといわれる。このとき、室町幕府八代将軍の足利義政から授かった「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を掲げて営業したと云う。

 しかし、応仁の乱で荒廃した京都を逃れた林家は奈良へ移住します。
 奈良で饅頭を製造し、奈良饅頭として販売したのは林宗二という人でした。
 ちなみに、この林宗二という人は文学や歌学に精通していて、室町時代に刊行された『節用集』(国語辞書)を改訂しましたが、これは「饅頭屋本節用集」とも呼ばれるそうです。

2019年6月 7日 (金)

突抜 ー社突抜町ー

 竪社通(大宮通の西裏)の、竪社北半町と同南半町との間を西に入って行く道をいう。
 社突抜町を東西に通貫しています。

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社突抜町の仁丹町名表示板

 この表示板、劣化褪色して文字の判読が厳しいですが、近づいてジックリ見ると次のような表記になっています。
 「上京區 大宮通西裏廬山寺上ル二丁目西入 社突抜町」

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 『京町鑑』の「大宮通」では、「▲竪社町 北半町南半町二町にわかる(略)此北半町西入所を㋵社突抜町 叉一名○山椒屋町とも云」としていおり、山椒屋町という別称があったようです。

 社突抜町の町名由来については、『京都坊目誌』は次のように記しています。
「此の近傍  竪社、社、社突抜、社横、仲社、東社等の名稱は皆 七社(ナゝノヤシロ)に對する謂ひなり。突抜とは行當りを意味するなり。」とあって、 それら町名の名称は、七社(ナゝノヤシロ)、つまり櫟谷七野神社に因むのです。

櫟谷七野神社

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 ところで、櫟谷七野神社の社名は、はじめは春日明神を勧請して社地の近傍にある七野の総社として祀ったことによるとされる。
 さて、その七野とは『京羽二重』など多くの地誌で、内野・北野・紫野・上野・萩野(栗栖野)・平野・蓮台野としている。しかし、『京都坊目誌』では一部が異なっており、上野・萩野にかえて柏野・浅野としており諸説があったようです。
 また、「七社(ナゝノヤシロ)」については、『京内まいり』によれば、初めに春日明神が勧請され、後になって勧請された伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の六神とを合わせることで七社としたように記しています。

賀茂斎院跡

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 この櫟谷七野神社から東および南にかけての一帯には、かつて賀茂神社の祭祀に奉仕した未婚の内親王(斎院)の居所である賀茂斎院のあった所で、紫野斎院とも称されたと云う。

2019年5月24日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その7

八瀬と大原

 八瀬は上高野の北に、大原は更にその北部に位置しています。

 八 瀬

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   (以下の図もいずれも『都名所圖会』から)

 八瀬の名称由来は、高野川はこの辺りで急な流れの瀬が多くなることによる。
 「矢背」とも表記したようで、これは大海人皇子(のちの天武天皇)は兄の天智天皇の子である大友皇子と位を争っていたとき、大友皇子の軍勢が射掛けた矢を背に受けて負傷しました。その時、矢で傷ついた背中の手当を里人がすすめた「竃風呂」でされたことによると云われる。
 
竃風呂


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 竃風呂は土饅頭のような形をしていて、狭い入口が一ヶ所ある。この中で青松葉を焚いて竃の土が熱したところで火を引き、塩水を浸したムシロを敷いた上に寝転び暖まるもの。謂わば一種の蒸し風呂です。


 大 原
 大原は小原とも書き、平安の昔から貴人の隠棲地となっていて、山里の自然の美しい眺めは多くの歌人に詠われてきました。
 「朧の清水」「世和井」「大原山」「音無の瀧」など、和歌に詠まれる名所は歌枕となっている。
 また、「炭竃の里」として和歌に多く詠われ、昔は里人の多くが薪柴を製して、それを京のまちに出て売り歩いたのが「大原女」です。

 大原川(高野川)の上流を望む
 高野川の源流は、大原の最北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の山中です。

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 寂光院
 平清盛の娘で安徳天皇の母である徳子が出家し、建礼門院として隠棲した旧跡。

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 ところで、このシリーズで見てきたように、高野川沿いの地域にも下流から上高野までは、琺瑯製の仁丹町名表示板を見ることができます。
 しかし、八瀬と大原では全く見かけることがありません。

 市内各所に設置されている仁丹町名表示板は、その設置状況が京都市域の拡大に見合うことから、昭和6年(1931)からそう遅くない時期、具体的には昭和7〜8年頃までには、既にその設置が終わっていたと考えられるのです。

 ところが、八瀬と大原が京都市左京区に編入されたのは、戦後の昭和24年(1949)のことでした。
 なので、時期的に八瀬・大原には仁丹町名表示板が設置されることは無かったのです。

 お断り:
 高野川右岸(西岸)と鴨川左岸(東岸)に挟まれた形の下鴨の西側部分、つまり下鴨本通の西側にも僅かながら仁丹町名表示板が残存しています。
 しかし、それらはいずれもが鴨川旧河道跡とその東側にあたる地域に存在しています。したがって、その一帯は高野川沿いとは言えず賀茂川沿いといった場所であるため、本シリーズからは除外しました。

2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年5月10日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その5

松ヶ崎

 松ヶ崎は下鴨の北東、高野川の西側に位置します。深泥池の東南、宝ケ池の南になる。
 昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

 松ヶ崎は南に向かって開けた景勝地で、昔からよく和歌に詠まれていた地です。
 平安時代には、朝廷のための氷を製造して貯蔵した松ヶ崎氷室が、宝ケ池の東側にあったとされます。

松ヶ崎東町の仁丹町名表示板

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 平安時代の女流歌人、小馬命婦(こまのみょうぶ、命婦=女官のこと)の家集『小馬命婦集』に、「すさきに松いと(非常に)いたう(甚だしく)たてり、見に行けばちどりみなたちぬ」と前置きを付した一首、「ひとりねを みにこそきつれ 我ならで まつがさきにも 千鳥住みけり」があるそうです。
 この歌により、西から東にかけて起伏する丘陵が岬のように高野川へ突き出た洲崎の一帯に、松林があったことが判る。そして、これが松ヶ崎という地名の由来となったことを窺わせます。

松ヶ崎中町の仁丹町名表示板

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松ヶ崎大黒天

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 正式には松崎山妙円寺と号する日蓮宗立本寺に属するお寺で、江戸初期に建立された。大黒堂に安置されている大黒天は古来福運を授ける神と信じられ、京都七福神巡りの第一番札所とされる。
 ちなみに、七福神信仰は京都が発祥の地で、室町期に始まるそうです。日本最古の七福神めぐりは「都七福神めぐり」ですが、ゑびす神(恵美須神社)・大黒天(松ヶ崎大黒天)・毘沙門天(東寺)・弁財天(六波羅蜜寺)・福禄寿神(赤山禅院)・寿老神(革堂)・布袋尊(萬福寺)の七神を巡ってお参りします。

 松ヶ崎は比叡山の西山麓にあり、宗教的には天台宗の強い土地柄でしたが、永仁2年(1924)日蓮の法孫日像がこの地で布教活動してのち、松ヶ崎一村を挙げて日蓮宗に改宗しました。
 毎年8月16日の夜には、盂蘭盆の精霊送り火が背後の山で焚かれます。
 西山(133m)の「妙」と東山(186m)の「法」、あわせて「妙法」の送り火が点火されるのですが、これは法華信仰と精霊送り火が結びついたもので、江戸時代の初期には行なわれていた行事のようです。

送り火「妙法」の「法」の火床
 「法」の火床の数は75ある。「妙」の方は画数が多いので103床だそうです。
 送り火が近づくと下草を刈って整備されるのですが、今はまだ火床がポツポツと見えるだけです。
 それでも、かすかに「法」の字の形に火床を見ることができます。

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 盂蘭盆会の送り火はこの松ヶ崎の他にも、如意ヶ嶽の「大文字」、西賀茂の「舟」、衣笠大北山の「左大文字」、奥嵯峨の「鳥居」があり、合わせて五山の送り火と言われる。



2019年5月 3日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その4

山 端

 高野川の東側にあって高野の北東隣り、上高野の南西隣りに位置する。
 八瀬・大原などの喉元にあたり、昔から若狭街道の要衝の一つでしたが、昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

「山端森本町」「山端川岸町」の仁丹町名表示板

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 『山城名跡巡行志』には、山端について「(略)高野河ノ東ノ端ヲ北ヘ上リ 新田山端 茶店多シ ヲ經テ此所ニ來」とあります。
 また、「山端 村名 松崎ノ東 高野河ノ東ニ在 松崎村出戸 大原街道也 茶店數家」と記しています。

 上記の引用文にあるように、山端は高野川挟んで東側にあるのですが、元は松ヶ崎の出戸(飛地)だったようです。
 そして山端には、大原街道(若狭街道)を往来する旅人のための茶店が多かったようです。

山 端(『拾遺都名所圖会』から)
 絵図右上の説明書きは、「山端  光武帝は麦飯を以て飢を凌ぎ、後漢の社稷を剏め給ひけり。ここも麦飯を名物とす。是もかの目出度ためしによる物ならんか。」とあります。
 (図にカーソルを置いてクリックすると画像が拡大できます)

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平八茶屋
 麦飯とろろ膳が名物です

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 そうしたかつての茶店の一つで現存するのが、天正年間の創業という平八茶屋なのでしょう。
 また、廃業してしまったのですが、鯰料理で知られた十一屋も江戸時代寛永年間の創業ということで、そうした茶店の一軒だったようです。

 「山端」の名称由来は、松ヶ崎の東山が東に向けて高野川に突き出た所、山の端に位置するところから来ているようで、「山鼻」「山嘴」とも記したようです。
 『山州名跡志』には次のようにあります。「山端 松崎ノ東北ニ在リ 民家有リ 此所松崎山ノ東ノ崎ナリ」




2019年4月26日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その3

高 野

 西は高野川、北部から東部にかけて一乗寺・北白川、南部は田中に接している。
 明治22年(1889)田中村に属していたが、大正7年(1918)高野として京都市左京区に編入されました。

 元々、この地は暴雨のときには高野川が溢れる荒れ野でした。近世になってから、高野川に堤と道路を設け、荒地が開拓されて「高野河原新田」(新田村)が開かれたのです。
 しかし、始めの頃は高野川の水害常習地で田が荒廃するために石高を付けることができず、年ごとに収穫量を検査する検見取(けみとり)と言う方法で年貢額が決められたということです。

「高野玉岡町」の仁丹町名表示版

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 近代の明治41年(1908)になって、高野東開町に鐘淵紡績(のちのカネボウ)の京都工場が開設・操業開始されたことで、ここは急速に都市化が進んだという。
 工場は昭和50年(1975)に閉鎖されて、跡地一帯は日本住宅公団の東大路高野第三住宅となったのですが、今に残る当時の施設(ボイラー室)が現在は集会所兼管理事務所として使われています。

元・鐘ケ淵紡績京都工場の残存施設
 集会所・管理事務所(元鐘紡のボイラー室)

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 次の2点は外壁が残されている

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2019年4月19日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その2

田 中

 田中は高野川の最下流、賀茂川との合流点東岸に位置していて、北は高野・一乗寺、東は北白川、南は吉田に接しています。
 大正7年(1918)、田中村は京都市左京区に編入されました。

「田中関田町」の仁丹町名表示板

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 田中関田町の北東部(今出川通鞠小路西入)には、かつて住友家が所有し、現在ではそれを譲り受けた京都大学が所有する広大な「清風荘庭園」があります。
 ところがこの庭園、残念なことに一般への公開はされていません。

清風荘庭園

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 觀音開き門扉の透かし彫り部分から覗いてみました。

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 重要文化財に指定された建造物と日本庭園、江戸時代には公家の徳大寺家別荘「清風館」でした。 
 明治になって住友家に譲渡されたのですが、この徳大寺家に生まれのちに西園寺家を継いだのが、明治・大正・昭和の政治家で「最後の元老」といわれた西園寺公望です。
 清風館は邸内を拡張整備して名を「清風荘」と改めて、西園寺公望の京都における別荘としたものです。
 ちなみに、明治24年(1891)5月の大津事件で、襲撃に遭って負傷したロシアの皇太子(のちのニコライ二世)が静養したのがこの清風荘だったそうです。


田中神社(田中西樋ノ口町)

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 室町時代、応仁・文明の乱の頃、田中村産土神の田中神社とその周辺は、田中郷の自衛のために「田中構(たなかがまえ)」という環濠集落が築かれた。その遺構は明治の頃まで残っていたそうです。

田中神社の孔雀神籤
 お神籤とともに折り紙で折られた孔雀が卵形ケースに入っています。

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 本物の孔雀も飼育されていました。

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2019年4月12日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その1

はじめに

 このシリーズでは、高野川流域を巡り歩いて、少しばかり往時の名残りを偲んでみることにしました。そして、市内中心部ほどには多くないのですが、残っている「仁丹町名表示板」のいくつかをお見せします。

 高野川流域の一帯が京都市左京区に編入される前は、「愛宕郡(おたぎぐん)」に属する村々でした。それらの一帯を高野川と賀茂川の合流点から、高野川の左岸(東岸)に沿って上流へと順に見ていきます。
 高野川左岸には、北ヘ順に田中・高野・山端と続きます。また、山端の対岸つまり高野川の右岸(西岸)には松ヶ崎が位置しており、その上流は川を挟むかたちで、上高野・八瀬・大原の順に北東へと続きます。


 京都市街地の北西から流れてくる賀茂川と、北東から流れてくる高野川の合流する所、そこは三角州になっていてその南端は鴨川公園となっています。
 地元ではここを《鴨川デルタ》と称していて、時候の良い頃の休日には多くの親子連れや若者グループで賑わう憩いの場となっています。
 それにしても、なぜ《高野川デルタ》ではないのだろう? やはり、昔から鴨川の方が世間によく知られた河川だったからなのでしょうか?

鴨川デルタ

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 ちなみに、賀茂川の源流は、京都市北区の北端と南丹市の境界近くにある桟敷ヶ岳付近です。そして、北山の山中から上賀茂を経て市街地へと入ってきます。
 また、《鴨川デルタ》から南では、川の名前の表記が「賀茂川」から「鴨川」に変わります。
 そして、鴨川デルタの西方一帯は《出町》と云う通称で呼ばれています。

高野川御蔭橋から北方を望む

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 一方、高野川の源流は、有名な観光地である大原の北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の北部山中です。そして高野川は、大原では「大原川」、八瀬では「八瀬川」の呼称があり、どちらも歌枕になっている。
 この高野川の東側にほぼ沿うように北上するのが、滋賀県(近江)・福井県(若狭)へと通じる若狭街道(大原街道)で、「鯖街道」という通称もあります。
 この辺りは、京都の出入口「京七口」の一つであった「大原口」でした。

「鯖街道」の道標

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【次回へ続く】





2019年3月22日 (金)

突抜 ー御寺内突抜一町目・同二町目ー

  御寺内突抜は、下松屋町通にあって現・突抜一町目(丹波口通から花屋町までの間)と、その南隣の現・突抜二町目(花屋町通から正面通までの間)を通貫していました。

御寺内突抜一町目

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御寺内突抜二町目

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 現・突抜一町目がかつての御寺内突抜一町目(丹波海道一町目)であり、現・突抜二町目はかつての御寺内突抜二町目(丹波海道二町目)でした。

丹波海道町の仁丹町名表示板

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突抜二町目の仁丹町名表示板

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 ちなみに、下松屋町通は「一貫町通」とも称していました。
 しかし、この別称は松原通から丹波口通(旧・丹波海道)までの区間に限っての呼称であって、丹波海道町以南については西本願寺寺内町であったため一貫町通とは呼ばなかったようです。

 その点について『京町鑑』の記述を見ると、
 「◯一貫町通」の項には、「△此通一貫町と名付たる事詳ならず ●此通は松原より南は丹波口下ル所迄の通にて大宮の西の通也  凡北にて松屋町通にあたるゆへこゝに附す」とする。
 また、一貫町通の「◯同五丁目 ▲丹波海道町  此町南の辻丹波海道也  則丹波口と云  但此丹波海道より南は一貫町とは呼ず  其故は是より南は西六條御寺内にて御支配の境有」としている。
 そして、一貫町五町目にあたる丹波街道町の南側を、「◯御寺内突抜一丁目 ▲丹波海道一町目 ◯同南町 ▲二町目」と記しています。

 なお、上記引用文中の「丹波口」は、いわゆる「京七口」の一つで、山陰街道の出入口となっていました。

 また、下松屋町通(通称・一貫町通)の呼称は、その北部が松屋町通にあたることから、南部を下松屋町通と称したとのことです。

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