2021年12月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

町名・地名の由来

2021年8月20日 (金)

京の市場事情 2 ー近 世ー

 時代は変わり、江戸時代になると農耕で牛馬の利用が増え、また二毛作が広まるなど農業生産力が急激に向上します。そして、京の人口増加による青物蔬菜の需要増大とが相俟って、青物の立売市場が大いに発展します。
 それらの青物市場は隣接する魚市場と一体となって、京の人々の食生活を支える大規模な市場となっていきました。

 ちなみに、京の魚市場としては、次のような上・中・下の著名な3カ所の魚棚(うおのたな)がありました。

椹木町通(上の魚棚)

『京町鑑』に、椹木町通を「俗に上魚棚通 此通中頃椹木をあきなふ材木屋多くありし故名とす 又釜座邉魚商ふ家多し故魚棚と云」としている。
『京羽二重』も、「東にてさはら木町通と云 西にて魚の棚通と云」として、所在の諸商人として「新町にし 生肴  八百や」と記す。

東魚屋町(椹木町通)の町名表示板

Photo_20210818170701


 往時は、椹木町通の西洞院通から堀川通までの間に魚市場があり、現在も東魚屋町・西山崎町(かつては西魚屋町が通称か)の町名が残っている。


錦小路通(中の魚棚)

『京町鑑』に、「いつの頃よりにや 魚商ふ店おほく今におゐて住居す仍而 世に中の魚棚とよぶ」として、「麸屋町西入 東魚棚町、柳馬場西入 中魚棚町、高倉西入 西魚屋町」と町名を記している。
 ここも慶長期以来の魚市場があり、魚鳥・菜果をも商った。
 現在も、富小路通と柳馬場通の間に東魚屋町、堺町通と高倉通の間に中魚屋町、その西の東洞院通までに西魚屋町があり、近辺には八百屋町・貝屋町という町名も残っています。


六条通(下の魚棚)

 寛永年間に、下魚棚通にあった魚市場が六条通に移されて盛んに売買されるようになった。
 『京町鑑』は、「此通魚屋多し 故に是を下魚棚といふ」とし、「室町東入 東魚屋町、新町西入 西魚屋町、西洞院西入 北魚屋町」の町名を挙げている。
 こうして、六条通に魚棚通という通称が生じて一般化した。しかし、明治になってからは振るわなくなり、名はあっても実は無くなってしまいました。

東魚屋町(六条通)の町名表示板

Photo_20210818171101
 現在も、室町通東入に東魚屋町、室町通西入に西魚屋町の町名が、また西魚屋町の南側には八百屋町という町名も残っている。

ちなみに、六条通(下の魚棚)に関わることを。
 七条通の一筋南に下魚棚通があって、東は西洞院通から西は大宮通まで通っています。
 ここには、寛永年間に六条通へ移転するまで慶長期以来の魚市場がありました。
 しかし、下魚棚一町目から下魚棚四丁目まであった町名も、現在では「下魚棚四町目」を除いて隣接する町に合併されたために消滅しています。
 なお、この下魚棚通の魚市場に近接して青物市場もあったのですが、その名残りが今も八百屋町・西八百屋町・南八百屋町の町名として残っています。



 

2021年8月13日 (金)

京の市場事情 1 ー古代から中世ー

 平安京には、左京に東市(ひがしのいち)、右京には西市(にしのいち)の2ヶ所の官営の市が設けられていました。
 どちらも四町四方の広さで、その周囲には外町が設けられていたということです。そして、市(いち)の開催日は、1ヶ月のうち前半は東市が、そして後半は西市が開かれて、開催時間は正午に始まって日没前に解散したようです。

 下京区河原町通六条西入本塩竈町にある市比売神社、いまでは縁結び・子授け・女人厄除けなど女性の願い事にご利益があるとされるパワースポットですが、元は延暦14年(795)東西の市に市杵島比売命を勧請したもので市(いち)の守護神でした。

市比賣神社(市姫神社)

Photo_20210812165501

 ところが、平安京の右京域は湿潤な土地柄から、10世紀頃には衰退してしまいます。したがって、右京に設けられていた西市もまたすっかり寂れてしまうのですが、左京の東市の方は繁栄したようです。
 しかし、東・西両市ともに平安京の南端近くに位置したため、また官営の市ということから、やがて平安京社会の実情に合わなくなって衰退してしまいました。

 その頃、官衙(平安宮の役所)に所属して手工業生産に携わていた厨町(くりやまち)の職人・工人は、律令制が衰退して朝廷の権力が弱体化するとともに、その束縛から解放されて独立した手工業者として町尻小路(新町通)の三条・六角・錦小路・四条などに居を構え、東西市に代わって新たな商業経済の中心となっていきました。

 下って、鎌倉・室町の頃になると、市中の商工業者や近在の農民たちが売り物を持ってきて、道端や軒下などで露天商いをしたようです。
 このように店棚を持たないで商いをするのが「立売(たちうり)」で、そうした商い人の集中する通りの名称として、上立売通・中立売通・下立売通の名称が生じ、今に至るまで名をとどめています。『京雀』『京町鑑』などの地誌によれば、初期は絹布巻物類の立ち売り(裁ち売り?)に始まったようで、次第に棚売り(店売り)へと発展していきます。
 これらの通りには立売に因む町名も残っていて、上立売通には上立売町・上立売東町、下立売通には東立売町がある。

 現在では通りの名称としては残っていないのですが、四条通にも麸屋町通から東洞院通の間に、立売東町・立売中之町・立売西町という町名が現存しています。四条立売と総称して、室町時代には百貨売買の重要な市場として繁盛したようですが、『都名所図會』には、「むかし大内裏の時、此所諸品を商ふ市場なり。今毎朝高倉四條の北に野草の市あり、往古の余風歟」とある。

「四條立賣」

Photo_20210814172201
 また、伏見にも桃山町立売という町名が大手筋通の南、第一期の伏見城があった桃山町泰長老の北側に残っています。




2021年6月25日 (金)

別の名もあった通り 4 ー新町通ー

 新町通について、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では、「△ 此通 古上京にて町口と云 下京にて町尻といひし也」。そして、通り名の由来を「此通あらたに建つヾきしゆへ俗に新町とよぶ」と記し、「⚫️ 此通北はくらま口より一町上より下は七條迄」通っている道だとしています。
 もっとも、現在の新町通は途中で途切れながらも、北山通の北の玄以通から南は久世橋通の辺りまで通じているようです。

 先の『京町鑑』にある新町通の起りについて、いくつかの資料に当たって当時の様子を探ってみました。

 平安時代の市場というのは官営でした。また、物の生産についても「諸司(多くの役所)」に属していた諸職人や商人によって行われていたようです。
 これら職人たちの職場であり住居でもある多くの「厨町(町)」は、織部町・大舎人町・縫殿町・内膳町・木工町などその多くが、大内裏(宮城)の周囲ことに東側に存在していました。
 そうした厨町の中でも「修理職町(しゅりしきまち)」は、内裏(皇居)の造営と修理事業の一切に当たる役人と諸職人が集住する、規模の大きい代表的な「町」でした。
 この修理職町は、南北が近衛大路(現・出水通)と中御門大路(現・椹木町通)の間、東西が室町小路(現・室町通)と西洞院大路(現・西洞院通)というもので四町四方の広さがあり、平安京の都市区画である条坊制でいうと、左京一条三坊二保のうちでも、三町〜六町までの4町分を占める大きな「町」でした。(その西半分に当たるところは、現在では京都府庁・京都第二赤十字病院となっています。)

 そして、この修理職町の中央を南北に貫いて通っていたのが、「町通(まちどおり」と言われた通りで、のちの「新町通」でした。
 この「町通」という呼称は、修理職町を貫いて通っていることから来ているようなのです。
 ちなみに、『京町鑑』にあるように、修理職町の町域北側を「町口」、修理職町の町域南側を「町尻」と呼び習わしていたようです。したがって、「町通」は「町口」の北の「町口小路」と、「町尻」の南の「町尻小路」という二つの名称を持っていたようです。

 ところで、平安前期も末の9世紀くらいになると、朝廷の権力が弱まってきて官衙が縮小されていき、そこに属していた諸職人・工人・商人などの手工業生産に携わっていた人々は、役所の束縛から解放されるようになります。
 こうした職人たちの多くは、その技術を生かして市中の特に「町通(新町通)」沿いに居所兼仕事場・店舗を構えて、独自に商業活動を行なっていくようになります。そしてこの町通は、11世紀の頃からは官営の東市・西市にとって代わり、平安京の経済の中心地となって活況を呈したようです。
 それは、とりわけ町通と東西にとおる通りが交差する地域の、三条町・六角町・錦小路町・四条町などを中心に商業が発展し、現在もそれらは町名となって残っています。
 こうして、新町通の前身である「町通」が、平安京の経済活動の中心となる主要な通りとなっていったのです。

Photo_20210624175901

上の写真は現代の「六角町」界隈です。
 右手は、近世の松坂屋(後の三井呉服店京都店)の店鋪跡で、今は三井ガーデンホテル京都別邸となっている。

以下は、思い立っての追記です。
 この記事は午前中にアップしたばかりなのですが、地誌書を眺めていてちょっと素通りするわけにもいかないな〜と思ったので、簡単に記しておきます。
 それは、新町通の名前の由来についてなのです。
 『京羽二重』には、「町尻通 新町通と云  いにしえ町尻殿と云し公家二條の北に住給ひし故  町尻通と云しとぞ」とある。
 『京都坊目誌』では、「詳ならず  古へ町尻殿あり、町尻町口の稱あり」と記していて、『京町鑑』と『京羽二重』を中途半端に折衷したかのようなことが書かれていました。





2021年5月28日 (金)

えーッ! この町名はなに?

 町名には、その多くにそれぞれ来歴・謂れといったものがあるのが普通です。
 例えば、故事や伝承に由来するもの、職種や職業に由来するもの、寺社(神仏信仰)に因むもの、交通や交易(関所・市)に因むものなどなど。類型あるいは様式があまりにも多岐に渡るため、簡単には仕分け切れないほどの種類の町名があります。もちろん、今となっては来由が不明となってしまったものもありますが。
 そして町名やその由来から受ける、味わいや情趣といったものがあります。

 ところが、中にはそうしたものが全く感じられない、素っ気なく無愛想な町名もあります。
 もっとも、町名というものが、単にある地点・ある地域を表す記号に過ぎないものだとするなら、そうした素っ気ない命名の町名ほど簡単明瞭なものはないだろうと思われます。

 例えば、南北の「通り名」と東西の「通り名」を組み合わせただけの町名が、いわゆる旧市内のそれも中心部の地域に集中して存在します。
 そのような町名は、東は室町通りと西は大宮通の間、北は二条通と南が高辻通の間に多く見られます。

「五坊大宮町」の町名表示板
 「五坊」は「五条坊門小路」の省略形で、現在の仏光寺通に相当します。
 平安時代の街路名の名残ですね。

Photo_20210513152401
 例えば、大宮通にそうした町名を見てみると、御池通から松原通までの間は軒並みことごとく、こうした町名が続いています。
 三坊大宮町・姉大宮町東側・姉大宮町西側・三条大宮町・六角大宮町・四坊大宮町・錦大宮町・四条大宮町・綾大宮町・五坊大宮町・高辻大宮町といった具合です。
 いずれも、それらの町名は「南北の通り」と「東西の通り」が交差する地点の呼称を、町名としているのです。
 もっとも、そんな安直な命名ともいえるような町名であっても、それがどこにある町なのか、位置がは極めて容易に判明するという便利さ・良さはあります。

 ところがそんな、通り名と通り名を組み合わせた町名も、そのままでは長くなってしまう場合には、一部を省略することで短くしています。
 省略の仕方は、先にあげた例で言えば大宮通りと交差している東西の通りの名称を省略しています。例えば、三条坊門大宮町が三坊大宮町に、姉小路大宮町が姉大宮町に、錦小路大宮町が錦大宮町に、綾小路大宮町が綾大宮町に、といったようにです。
 なお、これらの町名で三坊・四坊・五坊というのは、平安期の通り名である三条坊門小路・四条坊門小路・五条坊門小路が略称されたもので、現在の通り名で言えば御池通・蛸薬師通・仏光寺通に相当します。




2021年4月30日 (金)

別の名もあった通り 3 ー黒門通ー

 黒門通は大宮通の一筋東側を南北に通っている道で、北は元誓願寺通から南は松原通までの道でしたが、現在は南が梅小路通にまで至っています。
 その途中、丸太町通と押小路通の間は二条城、松原通下ルには妙恵会総墓所(本圀寺塔頭寺院の共同墓地)、花屋町通と七条通の間には西本願寺などがあるため黒門通は中断している。
 じつは、当ブログの過去記事(「通り名のいわれ ー黒門通ー」 2014年9月26日)と内容的には被るところもあるのですが、敢えてもう一度取り上げました。

 黒門通の名称由来について、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』は、「黒門通といふは太閤秀吉公聚樂城の鐵門の有し通ゆへ號す」として、この通りに豊臣秀吉の聚楽第の鉄門があったことによると云う。
 また同書には、「御池通下ル町より新シ町と云四條邊にて御太刀松通とも云佛光寺邊にて竹屋町といふ」とあり、黒門通の別称として「新シ町(あたらしまち)通」「御太刀松通」「竹屋町通」を挙げています。

新シ町通

 次の仁丹町名表示板の「新シ町」は黒門通のことで、現在であれば「下京区  錦小路通黒門西入  七軒町」としなければ、ここがどの辺りなのか判らないでしょうね。
 この別称「新シ町通」の名称由来については不明で、大正4年(1915)刊の『京都坊目誌』でも 「稱號詳ならず」としています。

Photo_20210326112801

御太刀松通

 四条通下ルにある「下り松町(さがりまつちょう)」は、かつては「御太刀の松町」と称したようです。
寛文5年(1665)刊の『京雀』は、「此町に大木の松一本あり 世にいふ九郎判官よし經太刀をかけられし 今もこの松を太刀かけの松と名づくとにや」と、源義経が太刀を掛けた松があったことを町名の由来と記す。
 宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では、義経が松に太刀を掛けたことを由来とする点は 『京雀』と同じなのですが、「叉一説に堀川の御所といへりしも此邊なりとぞ御館の松といへるを書誤りて御太刀の松といひつたへ來れり」として、義経の堀川館がこの辺りにあって、その御館の松を書き間違えたとする説を併せて記しています。
 これらの伝承が、「下り松町(さがりまつちょう)」の旧称「御太刀の松町」と、通り名の旧称「御太刀松通」の名称由来となったようです。
 なお、『京都坊目誌』には、「始め助太刀の松町と呼ぶ。後ち。松枝の垂下せるにより今名に改む。」と異説を記しています。




竹屋町通

「竹屋町通」も由来は不詳で、『京都坊目誌』は黒門通仏光寺下ルの「今大黒町」について、「始め竹屋町と稱す。後ち大黒町北組南組の二に分つ。近古合併して今大黒町と稱す。杉蛭子に對し。此稱號を附せしと云ふ。」と記述しますが、竹屋町の由来には触れていません。


 次にこの通沿いのいくつかの町について、町名の由来となった伝承を挙げておきましょう。

 下長者町通上ルの「小大門町」について、『京都坊目誌』は「天正年中聚樂城外廓の通用門當町の南通下長者町にあり。故に小大門の町と呼ぶ。元祿以後南北二町に分る」とあり、豊臣秀吉の築いた聚楽第の通用門があったことが「小大門町」の由来であり、「南小大門町」と「北小大門町」の二町に分かれたのは、元禄期以降のことだとしています。

南小大門町の仁丹町名表示板
 劣化して見づらいのですが、町名は南小大門町となっています。

Photo_20210326114801

 下立売通上ルの「蟹屋町」について、『京雀』は「ある人の家に蟹を飼けるに大かた馴て人の家にもゆかざりしかば奇特かりてその家名を蟹やと云けりとぞ」とあります。飼っている蟹が大変によく馴れていて他の家には行かなかった、それでその家を蟹屋と云ったというのです。
 ちなみに、この蟹屋町、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』には「蟹屋町 北組南組二町に分る」 とあるので、この頃に現在のように北蟹屋町と南蟹屋町に別れたことが判ります。

南蟹屋町の仁丹町名表示板

Photo_20210326115201

 錦小路通下ルの「藤岡町」について、『京町鑑』は「古此町に藤岡といひしもの染物の上手にて其頃藤岡染とて大にはやりしと也終に小名と成たり」としている。




2021年4月16日 (金)

別の名もあった通り 2 ー大黒町通ー

 大黒町通は、大和大路通の一筋西側を南北に通っている道で、北は松原通から南は七条通に至る道です。
 『京都坊目誌』には、大黒町通の名称由来を「此街壽延寺に大黒天の像を安置す。故に名く。」として、大黒町通松原下ル北御門町にある寿延寺に祀られた大黒天像に因むとしています。

寿延寺

Photo_20210225172601
 『京町鑑』などの地誌によると、その大黒町通には次のように区間によって別の呼称があったようなのです。

大黒町通

Photo_20210225173001
 『京町鑑』では「骨屋町通」についての記述の中で、「但此通五條通より北は大黒町なり」とあるように、五条通から北の松原通までの間を大黒町通と称していたようです。

骨屋町通
 上掲『京町鑑』に、「◯骨屋町通 △此通の南に扇子の骨を製作するもの多く住す故に號す」とし、「⚫︎但此通五條通より北は大黒町なり扨五條下ルより南は大佛正面まで」と記しています。
 つまり、五条通から南の正面通までを骨屋町通と称したのです。この一帯に扇子の骨を製作する者が集住したことが名称の由来だとする。

袋町通
 「袋町」の仁丹町名表示板(写真提供は京都仁丹樂會)

Photo_20210225173901
 『京都坊目誌』には、「大黒町通 (中略)、五條以南にて、袋町通又耳塚通とも称す。正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」とあります。
 なお、この「袋町通」は、大黒町通五条下ルに「袋町」が所在することが名称の由来。なお、往時の袋町へは南から北に向かって入るが、その先で音羽川の流れに阻まれて五条通まで通じていなかったため、袋小路となっていたことから生じた呼称だとする。

浄雲寺
 寺門の正面奥に見える本堂の裏手で音羽川は流路を変えていた。

Photo_20210225174501
音羽川跡の一部(前方の人家の間の細い道)

Photo_20210225175101
本町公園から流路跡の音羽川北通を望む

Photo_20210225175401
【註】音羽川は、現在では流路のほとんどが暗渠になっているため地図に現れていません。近世末の地図や『京都坊目誌』によると、清水寺奥の院にある「音羽の滝」に発して南西に流れ、五条橋東六町目を経て馬町通(現・渋谷通)の北裏沿いを西に流れ、常磐町・鐘鋳町・芳野町・石垣町・袋町の町々の北側を流れて、本町一丁目の東側にある浄雲寺に行き当たると、ここから南に流れを変え本町三丁目と四丁目の境界の辺り(今の本町公園)から通称音羽川北通りを西に向かい鴨川に流入していたようです。

耳塚通
 『京町鑑』は、「此通北は大佛正面通より南は七條通迄」としている。
 耳塚通は大黒町通の正面から南をいうが、通り名の由来は正面通に耳塚が所在するため。

耳 塚

Photo_20210225175801
【註】耳塚は、豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した時(文禄・慶長の役)、討ち取った朝鮮人の耳や鼻を集めて、持ち帰りここに埋めたという。

塗師屋町通
 耳塚通は塗師屋町通ともいう

Photo_20210225180201
 『京都坊目誌』には、耳塚以南については耳塚通りの呼称のほかに、「正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」として、正面通から南つまり耳塚以南を塗師屋町通とも称したとしている。
 髹(きゅう)塗り、つまり漆塗りを業とする者が住んだことからこのように呼んだという。




2021年3月19日 (金)

別の名もあった通り 1 ー正面通ー

 正面通は豊臣秀吉が天正14年(1586)、荒廃していた古の七条坊門小路の東に方広寺大仏殿を建立して、その正面を起点とする道として再開成立しました。これは天正中期の末以降のことです。
 現在の正面通は、東は大和大路通から西は千本通に至っています。しかし、大正5年(1916)刊の『京都坊目誌』によると、当時の正面通はその西端は大宮通の辺りまでだったようです。その西方の裏方町辺りからは、明治26年(1983)に幅3間(約5.5m)の道路に拡張されるまでは野道で、その左右は田畑だったということです。

方広寺大仏殿跡に建立された豊国神社から正面通を望む

Photo_20210306113901
 正面通には「御前通」「中珠数屋町通」という別名があったのですが、それがいつ、どうしてできたのかを順に見てゆきます。

 「御前通」といえば、普通は北野天満宮の東側を通っている南北の道を言い、その昔は「右近馬場通」と言われました。当時は寺之内通から北野天満宮の門前を経て下立売通辺りまでの道だったようです。
 ところが、『京都坊目誌』では「北野神社御前通と云ふ意なり。(中略)。西本願寺前に叉御前通あり」として、御前通りは2つあったと云うのです。
 ここで取り上げるのは、西本願寺の前を東西に通っている御前通です。


 天正19年(1591)正月、大坂天満にあった本願寺(現・西本願寺)は豊臣秀吉から京都への移転を命じられ、七条坊門堀川(現在の正面通堀川)に移ってきました。本願寺御影堂の前の道ということで、正面通には御前通という別名が生じ、西本願寺寺内町もできました。これは天正末期から文禄期にかけてのことと考えられます。もっとも、現在では御前通という通称が使われることはほとんどありません。

西本願寺 御影堂門

Photo_20210306114301

 慶長7年(1602)3月、徳川幕府初代将軍の徳川家康から寄進を受けた土地、東六条の地に西本願寺から分かれて東本願寺が創立されました。

東本願寺 御影堂門

Photo_20210306114601

 寛永18年(1641)6月、徳川幕府三代将軍の徳川家光から東本願寺東方の田畑や野原だった所に屋敷地を与えられ、ここに造立されたのが百間屋敷といわれた東本願寺別邸の渉成園です。
【註】「百間屋敷」は、屋敷地(南北は六条と七条の間、東西は東洞院と御土居の間)の中央に造立された100間四方の屋敷で、屋敷の周囲は枳穀(カラタチの木)で囲ったことから枳殻邸とも称された。

 そして、御前通りの東本願寺と渉成園の間には中珠数屋町通という別名がつけられ、ここに東本願寺寺内町が形成されました。これは慶長から元和・寛永にかけてのことだろうと考えられます。

枳殻邸(百間屋敷)

Photo_20210306114901

 このように、西本願寺・東本願寺・渉成園(枳殻邸)が造立されたため、御前通は分断されることとなりました。

 ということで、「中珠数屋町通」は御前通の一部の別名であり、その「御前通」は正面通の一部の別名ということになるのです。そして、御前通という呼称は西本願寺寺内町(古寺内)と東本願寺寺内町(新寺内)の両寺内の範囲での通称であったことが判ります。
 そうしたことを、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』は次のように記しています。
 「◯中珠數屋町通  一名御前通 △此通東は東本願寺百間屋敷にて行あたり 西は西本願寺前にて行當也」
 つまり、中珠数屋町通は御前通の別名であり、御前通は百間屋敷(渉成園)と西本願寺の間を言うとしているのです。そしてこの記述のすぐ後には、御前通に面した町々の名前を、東は廿人講町から西は珠数屋町まで列挙しています。


 ちなみに、『京都坊目誌』も同様に、「正面通 東は大佛方廣寺前に起り。西は東枳殻馬塲に至る。西にて凡中珠數屋町其西にて御前通に當る。大佛正面通と云ふ意なり。」と記しています。ただ、中珠数屋町通が御前通の別名であることに、直接には言及していません。
【註】引用文中の「東枳穀馬場」は、渉成園(枳殻邸)の東側で、現在では河原町通になっている。





2021年3月 5日 (金)

新選組と伊東甲子太郎

 先日、所用でリーガロイヤルホテルまで出かけた時、ホテル敷地の端で新選組の不動堂村屯所跡碑を見かけました。
 この近くには、他にも新選組にゆかりのある所があるのを思い出したので、見てまわることにしました。

 壬生浪士組(のちの新選組)は、文久2年の結成当初は壬生郷士の八木家・前川家などを屯所として分宿、京都守護松平容保から不逞浪士の取り締まりと手中警備を任されます。
 すぐそばの壬生寺境内で大砲や剣術・馬術の訓練をしていたのですが、世帯が大きくななってきたので、慶応元年に屯所を西本願寺の北集会所と太鼓楼に移しました。

本願寺西の太鼓楼

Photo_20210305135201

 しかし、ここでも武芸・砲術訓練をするなどひどい狼藉を働いたため、西本願寺は不動堂村の油小路通木津屋橋下ルに広大な地所を購い、そこに屯所を建てて体よく追い払われます。
 この新しい屯所はちょっとした大名屋敷のよな立派なものだったと云う。

明王院不動堂
 本尊は不動明王で、不動堂村の名前の由来とされる。
 のち不動堂町となり、昭和41年(1966)塩小路通りを境に北不動堂町・南不動堂町に分離。

Photo_20210305140201

新選組不動堂村屯所跡碑

Photo_20210305135501


 新選組は慶応3年幕臣に取り立てられるが、戊辰戦争で幕府軍は敗退し、その後各地を転戦するがやがて解体に至る。

 伊東甲子太郎(北辰一刀流の達人)は元治元年、藤堂平助の仲立ちで弟や門人など七名とともに新選組に入隊して参謀兼文学師範に遇されるが、勤王思想(倒幕派)の伊東と尊王攘夷(佐幕派)の新選組は思想の違いから折り合わなかった。
 このため伊東は慶応3年3月20日、御陵警備任務の拝命と薩摩藩の動向探索を名目にして、同志15名とともに新撰組を離脱。御陵衛士を結成して東山高台寺の月真院に本拠を置いて高台寺党と称され、薩摩藩の支援を受けて倒幕を説いた。
 しかし、新選組の局中法度書には「局ヲ脱スルヲ不許」の一条もあり、新選組と御陵衛士双方の間で何事もなく済むはずもなく、新選組最後の抗争事件となったのです。

 果たせるかな、御陵衛士の伊東甲子太郎は、幕臣に取り立てられた新選組により襲撃暗殺されます。
 近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された3日後、慶応3年11月18日(1867年12月13日)、口実をもうけ近藤勇の休息所(妾宅)に招かれた伊東甲太郎は接待を受けます。そして、酔わされた伊東は月真院への帰途、油小路通木津屋橋上ルの本光寺門前付近で新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺されたのです。(油小路事件)


伊東甲子太郎殉難之跡

Photo_20210305141501
 伊東を酒に酔わせて暗殺に及んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警めだろうと思われます。
 伊東暗殺のあと遺体は油小路七条の路上に放置されて、御陵衛士を誘い出す囮として使われます。後に遺体の収容に来た御陵衛士たちは、待ち伏せていた新選組と戦闘となり、やはり新撰組を脱して御陵衛士に加わっていた藤堂平助ら三名が戦死しています。





2021年2月12日 (金)

我が国初の有料橋?「一文橋」

 かつて、京都の東寺口(南区)から乙訓郡の山崎を経て、摂津国(いまの大阪府北部と兵庫県の一部に当たる)の西宮へと抜ける街道(西国街道)がありました。
 その道筋には現在も往時の名残りを残すところがあり、以前にこの街道を辿って記事にしたことがありました。

Photo_20210105153501
 この旧街道で、向日市と長岡京市の境界を流れる小畑川に架けられた橋を「一門橋」という。
 この小畑川は、現在の国道9号に平行する旧「山陰街道」老ノ坂旧峠の首塚付近を源流とする川で、大山崎下植野に至って桂川に合流している。

 ところが、かつての小畑川はしばしば氾濫を起こしていたようで、平安期の歴史書『日本紀略』にも記録されているそうです。
 この小畑川氾濫が、長岡京をその造営後わずか11年で放棄して、平安京に遷された理由の一つとする見解もあるようです。

 さて、「一文橋」に話しは戻ります。
「一文橋の由来」を記した石碑」

Photo_20210105153301
 大雨になるとかつての小畑川は堤防が壊れ、橋が流されるほどのいわゆる「暴れ川」だったということです。
 京と西国とを結ぶ主要街道に架かる橋であるため、大雨が降るたびに橋の架け替え費用を賄うのは大変なことでした。
 そのため、橋のたもとに料金徴収所をもうけて、橋を渡る通行人から通行料として1文ずつ徴収することにしました。これが「一文橋」の名前の由来で、日本で初めての有料橋だったかも知れないというのです。

 なお、現在では町名で「一文橋一丁目・二丁目」もあります。




2021年1月29日 (金)

弁慶石のこと

Photo_20201227121901

 武蔵坊弁慶は幼少の頃、鬼若と命名されて三条京極界隈で過ごしたといわれる。そして、弁慶石は子供の頃の弁慶が心の底から愛でたと伝えられる石です。
 長じて比叡山の僧時代には修行をせず乱暴が過ぎたため追い出される。
 武術を好んだ弁慶は、京の都で千本の刀を奪うという大願を立て999本を得ます。残りの一本となったとき五条大橋で源義経に出会いますが、身軽で欄干を飛び交う義経の身軽さに勝てず、降参して義経の家来となるという話は有名です。
 これは、次のような童謡・文部省唱歌『牛若丸』の歌詞で私たちのよく知るところです。

🎵   京の五条の橋の上
  大の男の弁慶は
  長い薙刀振り上げて
  牛若めがけて斬りかかる

  牛若丸は飛びのいて
  持った扇を投げつけて
  来い来い来いと欄干の
  上へあがって手を叩く

  前や後ろや右左
  ここと思えばまたあちら
  燕のような早技に
  鬼の弁慶謝った

 義経・弁慶の主従は曲折を経てのち、奥州平泉の衣川の戦いでともに最期を遂げますが、弁慶の死後に弁慶石は京の都から高舘へ移されました。
 しかし、石が「三条京極に戻りたい」と大きな声を出し揺れ動いて、そのあと高舘で熱病が蔓延したので人々はこれは弁慶の祟りだと恐れて、享徳3年に三条京極に送り返しました。それ以来、この地を弁慶石町と称するようになったと云います。
 その後、弁慶石は誓願寺方丈の庭に移されたが、明治26年(1893)には弁慶石町の民家に引き取られ、昭和4年7月12日に三条通り沿いのこの場所(三条通麩屋町東入)に移されました。

 「この石をなでると、弁慶のように男の子は力持ちになる」と言い伝えられています。
 なお、弁慶石の生い立ちについては他にも、「弁慶が比叡山から投げた石」「衣川の合戦で立ち往生した弁慶がこの石になった」「鞍馬口にあった石が洪水で流れ着いた」などなど様々な説があるようです。



より以前の記事一覧