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町名・地名の由来

2018年6月29日 (金)

辻子 ー寿量辻子ー

 大報恩寺(千本釈迦堂)の東門から東行して、六軒町通を越え千本通に至る東西の小路。
 溝前町、末広町、牡丹鉾町を通貫しています。

寿量辻子

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 上の辻子写真、突き当たりが千本釈迦堂の東門なのですが、現在では防災車両の出入口となっており、普段は鉄扉が閉ざされており行き止まりとなっています。  辻子の名称由来は、この道(寿量辻子)の北側(右側)に寿量寺(廃寺となっている)という寺があったことによります。

 『名所手引京圖鑑綱目』宝暦4年(1754)
日文研データベースから 
 寿量辻子は、釈迦堂本堂の東門から、六軒丁通・寿量寺を経て千本通の大下丁にかけて。(写真をクリックすると少し拡大します)

Jpeg__01
 ちなみに、『京都坊目誌』は、「壽量寺 末廣町の内上立賣と五辻との間千本西入北側四十九番戸にあり。日蓮宗妙満寺に屬す。享保15年類焼し。其後再建す。」とあるも、大正年間に廃寺となったようです。

 『京町鑑』の「上立賣通」の項に、「千本西へ入 左官町 此町南側に壽量寺と云日蓮宗の寺有  此西は北野右近馬塲へ出る也」とあります。

 ところで、この引用文中の「上立売通千本西え入」にあるのは「左官町(さくわんちょう)」ではなく、「作あん町(さくあんちょう)ではないかと思いますが、如何なものでしょうか。上記引用図はもちろん、元禄・貞享の頃の『京大絵図』でも花車丁・作庵丁は記されていますが、左官町というのは見当たりません。

 作庵町の仁丹町名表示板


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2018年6月15日 (金)

辻子 ー出雲寺辻子ー 《補訂》

 以前、「出雲寺辻子」(2015年7月17日記事)では、辻子の位置を明確に特定仕切れないため、「はっきりせず何とも悩ましいことです。」と腰砕けのかたちで終わっていました。
 その後も、ときどき思い出したように近世の地誌の記述や、古絵図と現代の地図を見比べて、乏しい想像力を巡らせながら考えていました。

 そこで改めて、考えついた「出雲寺辻子(出雲辻子とも)」の位置は、次のようなものです。
烏丸通上御霊前から約50mばかり南に、烏丸通から西へと入る道があります。
 この道は、現在ではごく短いものとなっていますが、この部分が「出雲の辻子」の残存部分だと見ます。

出雲辻子(址)
 後掲『京都坊目誌』に、「出雲の辻子」の「道址存す」と記す場所か。

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 そう考えるに至った理由は、次のようなものです。
 『京町鑑』には、「内構町」(上御霊前通烏丸西入の両側町)についての記述のあと、次のように記しています。
「◯此町南側 
 ▲和泉神町  叉本名◯出雲寺辻子 古出雲寺とて大伽藍ありし舊地也  故にしかいふ中頃出雲寺町といひしがいつの頃よりか文字も書誤りし也」としています。
 なので、現在の「内構町」の南側に、和泉神町=本名は出雲寺辻子があったことに間違いないのです。

 また、『京都坊目誌』では、「上御霊前町」の記述中に「(略)因に云ふ  本町西部より相國寺境内に通ずる小徑あり。出雲町叉出雲の辻子と呼ぶ。維新後自然廢道と爲る。道址存す 明治四十四年此所より南に新道を開けり。
 この記述から、以前の記事では何の疑いも無く、出雲の辻子は上御霊前町の西方、つまり内構町を東西方向に通っていたものと理解したのが、誤りだったようなのです。
 出雲辻子は相国寺に通じる小道であって、上御霊神社へ通じる小道ではなかったのです。

 ところで、その昔の相国寺の境内地は、烏丸通の西側までをも占めていたようです。そして、そこは応仁の乱以前までは下出雲寺の跡だったのです。
 それでは、どの範囲までが境内地だったのか?

 『京大絵図』貞享3年(1686)に描かれた相国寺境内地の西端は、室町通の「上柳原町」から「むろ丁かしら丁(現・室町頭町)」にかけて、そして、南北の範囲は「内構町」の南側から、「柳のつじ(現・柳図子町)」の北側にかけてが境内地として描かれています。
 したがって、現在の「下柳原北半町」と「下柳原南半町」は、かつては相国寺境内地だったようです。

古絵図に見る相国寺境内地の西部
 貞享3年(1686)『京大絵図』(日文研データベースから)
 地図をクリックすると不鮮明ながら拡大されて、内構町の南側まで相国寺境内地であったことが判ります。
 
Photo
 さて、そこで改めて『京町鑑』『京都坊目誌』の記述と、『京大絵図』の描くところを併せ考えて、出雲寺辻子の位置特定を試みた結果は次の通りです。

 「内構町」の南側にあったかつての「出雲寺辻子(別称・和泉神町)」は、現在の「上柳原町」に相当し、そこから東方の相国寺境内へと東西に通じていた。
 先に書いたように、烏丸通上御霊前の少し南から西へと入るごく短い道、これが『京都坊目誌』の云う、「出雲の辻子」の「道址存す」としている個所なのでしょう。
 元々の出雲の辻子のうち、ここと西方室町通の間(約70m)が廃道となって失われた部分だろうと見ます。

 そして、この出雲辻子の「道址」西端から、南へやや西寄りに寺之内通まで延びるのが、「明治四十四年此所より南に新道を開けり」に相当する道だと考えました。

出雲辻子址から開かれた新道
 左端に見えるのは烏丸通
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なお、言うまでもなく『京都坊目誌』の云う「出雲の辻子」「出雲町」と、『京町鑑』に云う「出雲寺辻子」とは同一です。

以上です。さてどんなものでしょうか。
  

2018年5月25日 (金)

辻子 ー百々辻子ー

 百々辻子(どどのずし)は、寺之内通の小川通と堀川通間で、
 百々町を東西に通っている。

百々の辻子

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 『京都坊目誌』に、百々町の町名起源を「百々は元地名なり寶鏡寺あり百々の御所と云ふ。古老の傳説に昔時百々某と云ふ武士の第宅。今の寶鏡寺の地にありしと。今按百々某は何人たるを知らず」と記す。
 地名の由来となった武士の百々氏については詳しい事は判らないと云う。
 また、百々の名が伝わる最も古い例としては、『今昔物語』に地名「どとの辻」として出ている由。このことから、少なくとも平安時代中期には開通していたことが判ります。

宝鏡寺(百々御所)
 
宝鏡寺は代々歴代の皇女が住持となる門跡尼院で百々御所と呼ばれた。光格天皇遺愛の人形や市松人形などを蔵することから、人形寺としても知られる。

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「小川」跡
 
今は小川通と町並みになっています。
 通りの右手には表千家不審庵と裏千家今日庵が並びます。

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百々橋の礎石

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 「百々橋 小川の流れに架す。乃ち當町より寶鏡寺東町に通す。石橋なり。長四間一分幅二間二分。都下の名橋なり」とありますから、長さは7m余りで幅は4m弱の橋だったらしい。
 このように百々橋は、百々町と宝鏡寺東町の境界を流れる小川(賀茂川の分流)に架けられた石橋で、都下の名橋とされたようです。
 応仁元年5月に始まった応仁の乱では、山名宗全の西軍と細川勝元の東軍が、この百々橋を挟んで数度にわたって交戦したと云う。

2018年3月16日 (金)

辻子 ー無覺ノ辻子ー

 寺之内通室町から北行して二筋目(下柳原北半町の北端)までを言ったか。
 下柳原南半町と下柳原北半町を通貫している。

無覺ノ辻子

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 辻子の名称は室町通の西側にある無覚寺(現・無学寺)にちなむ。

無学寺境内の様子と石標

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 宋から渡来した無覺(無学とも)祖元が弘安2年に創建して、弘安山無覺寺と号したと云う。

  『京都坊目誌』は、寺説によれば夢で本尊の地蔵尊の霊を感じたことから「夢覺寺」と号したとするが、これは「無覺寺」の誤りであろうとしている。
 また、『雍州府志』では、古にはこの辺にあった無覺祖元を開山とする景愛寺の境内であったことから、この町を「無覺ノ辻子」と云うとしている。

2018年2月23日 (金)

辻子 ー宮の辻子ー

 松原通の轆轤町と新シ町の境界となっているT字形路、ここから東大路に至る間が「宮の辻子」で、「宮が辻」とも云ったようです。
 松原通の新シ町と清水五丁目を通貫している。

宮の辻子
 T字路(六道の辻)左手の石畳奥は六道珍皇寺。

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六道の辻
 六道珍皇寺門前のT字路を古くから「六道の辻」と云った。そして、ここから南の興善町にかけてを六道大路と云ったようです。
 しかし、確かな場所ははっきりしないようで、『山城名跡巡行志』は「八坂ノ西愛宕寺ノ東ニアリ其所不詳」としています。
 ちなみに、『都名所圖会』は「本堂の前にあり」としており、図も正にそのように描かれている。(左端の中程の建物が本堂)

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 「六道の辻」は、「この世」と「あの世」の境界、つまり「冥界(冥途)」への入口とされた。
 「六道」というのは、仏教で地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界を云うようです。 

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 『京都坊目誌』はこの辻子について、「宮か辻 叉宮の辻子に作る、新し町、清水五町目に跨る。松原古昔五條通を云ふ。山城名勝誌に或云宮ノ辻子は六波羅の東六道の辻の邊とあり。今此名を逸す」と記しています。

 また、「明治二年まで其南一町の所に宮辻町あり。同年竹林町に合す」とあります。
 因に、南一丁にあった宮辻町は、明治2年に竹林町に合併されたため今ではこの名は失われたとしているが、これは竹村町に合併されたの誤りかと思われます。

 「新シ町」については、松原通は早くから開けていたが中世には通の南北ともに建仁寺領であり、南側は菜畑で北側は竹林であったとしている。
 また、宝暦10年8月に許可を得てこの一帯を開拓、民家が新しく建ったことから「新(あたら)し町」と名付けたとしています。
 「清水五町目」は云うまでもなく、清水寺から五町目に当たることが町名の由来です。

 

2018年2月 9日 (金)

夕顔ノ塚

 堺町通の高辻から松原の間に、「夕顔町」という町があります。
 この町にある古跡「夕顔之墳」と夕顔伝説が町名の由来となっていますが、これは『源氏物語』第四帖「夕顔」に起因しています。

「夕顔之墳」碑(夕顔ノ塚碑)
 この写真、碑文は少し見辛いのですが、次のように彫られています。

    源語伝説 
         夕 顔 之 墳
    五 條 辺

 この「五條」というのは現在の「松原通」にあたります。

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 「夕顔」は『源氏物語』の登場人物です。もとは頭中将(とうのちゅうじょう)の愛人で、「常夏(ナデシコの古名)の女」と呼ばれていた。
 光源氏が乳母(随臣藤原惟光の母でもあった)の「五条なる家」へ見舞いに訪れたとき、その隣家の荒れ果てた家に頭中将の愛人という境遇から身を引いた夕顔が住んでいた。
 その隣家の垣根に咲くユウガオの花に惹かれた光源氏は、侍臣の惟光に花を貰いに行かせた。
 そうすると、隣家の女あるじ(夕顔)は花に添えて歌を贈った。ユウガオの花が光源氏と夕顔を引き合わせるような筋書きとなっています。

 『京都坊目誌』に「夕顔家ノ址 夕顔墳と稱し。石塔高三尺許り。寳筐印塔式の苔に蒸されて。古雅なるものあり。今言ふ松原は。古昔の五條なり。源氏物語夕顔ノ巻二。光君五條渉りを過ぎ給へるに。荒たる家に夕顔の花あり。随臣惟光をして彼の花を求めしむるに夕顔の宿の主の女。之を折りて奉り。併せて和歌を詠す。
  心あてにそれかと見るしらつゆの
      ひかりをそへたる夕顔のはな
 後人右の由縁により。墳を築きしなり。或は云ふ。夕顔と稱する女ありて此地に住す。紫式部彼の物語の趣向に附會して。夕顔ノ巻を作意せしものなりとも云へり。」

 この謂れは、『京羽二重』『山州名跡志』『山城名跡巡行志』などにも記されている。

夕顔ノ塚 (『都名所圖会』より)
   
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 図中の文を次のように読みました。しかし、くずし字についての知識が無いため、正しく読み解いていないかも知れません。

  夕顔塚は五条あたり 
  今の堺町松原の北にあり
  源氏物語に出る夕
  がほの前此所に住
  みたるよしいひ伝へり

 新古今
 夕がほをよめる  
   白露のなさけをきけることのはや
     ほのぼの見へし夕顔の花   
          前太政大臣(藤原頼実)

2017年11月17日 (金)

辻子 −猿屋辻子ー

 辻子に面する、北側の上堀詰町・本町新五町目、南側の下堀詰町・本町五町目との境界となっている小路です。

猿屋辻子

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 『京都坊目誌』の「上堀詰町」項に、「因云 當町より本町通に通ずる小街あり。之を猿屋辻子と字す。」と記しており、この辻子は鞘町通と本町通の間を通っている。

上堀詰町の仁丹町名表示板

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 やはり『京都坊目誌』によれば、この一帯の元は磧地(河原)を開拓して耕地とした所。延宝の頃になってから人家を建て連ね、上・下堀詰町の名が付されたようで、この西側の地は河原田町と云ったが明治2年に堀詰町に合併したと云う。

 また、「鞘町通」は、天正慶長の頃に開けたようで、当時は刀剣の鞘師と柄巻き等の織工が居住したことが通り名の起りとする。

 「本町通」は、五条通の本町一町目を起点として二十二町目を経て、その南は伏見となり橦木町に至る。橦木町のすぐ南は京町通に接続していて、かつての伏見城下の中心に通じていた。このため、伏見街道とも称された。

 

2017年10月27日 (金)

辻子 ー櫻の辻子ー

櫻の辻子

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 五辻通の、浄福寺通と智恵光院通の間を東西に通っている・・・と見ています。
 そして、位置としては一色町と五辻町を通貫していると考えます。

 その理由は次の通りです。
 『京羽二重』には、「櫻の辻子 しやうでんの辻子の南の町なり」と記します。
 そして、「しやうでん辻子」の位置は、「大宮どをり紋やの辻子のにし上る所」としています。
 さらに、「觀世辻子 大みやどをりあぐいんにしへ入所」と記しています。

 これら三つの記述をそのままに理解して、「櫻の辻子」は「しゃうでん(聖天)の辻子 」=聖天辻子通のすぐ南の辻子だとしてみましょう。
そうすると、そこは上立売通ということになり「観世辻子」に該当しますから、「櫻の辻子」ではあり得ないことになります。
 したがって、櫻の辻子は、聖天辻子のすぐ南の辻子(つまり上立売通)ではなくて、二筋南の五辻通と云うことになるはずだと考えるに至りました。

 なお、『京童』の記述からも、「上立賣通」の項で「あぐゐ通西へ くはんぜの辻子」としていますから、「櫻の辻子」は上立売通ではあり得ないことが判ります。

 ちなみに、「五辻町」の名称は亀山天皇の皇子守良親王が住んで五辻宮と称したことに由来する。また、「一色町」は室町幕府の守護大名、四職家筆頭であった一色氏の邸宅があったことに由来する。

2017年9月29日 (金)

辻子 ー五葉辻子ー

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 五葉辻子は、本町通(伏見街道)の本町十一丁目から、東側にある滝尾神社社頭を東行して、東大路通までの間。
 本町十一丁目・五葉ノ辻町・雀ヶ森町を通貫しています。

滝尾神社本殿

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 五葉辻子はかつての「泉涌寺道」でしたが、現在の泉涌寺道は本町通を少しばかり北に行った所、一橋小学校と本町郵便局の間を東へ向かう道です。
 ちなみに、「本町十一丁目」の町名由来は、本町通の起点である五条通から十一町目に当たるからです。

本町十一丁目の仁丹町名表示板

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 本町通、本町十一町目の北端で本町十丁目との境にある宝樹寺の北側、かつてはここを東から西に今熊野川が流れ、鴨川に流入していたようです。その流路は現在では埋め立てられて細い道となっています。
 明治元年まではここに架かっていた石造の一之橋が、愛宕郡と紀伊郡の郡界となっていました。一之橋は古来有名な橋だったようで、元禄期の俳人宝井其角は「ほととぎす一二の橋の夜明けかな」と吟じています。
 伏見街道(本町通)の十一町目から十八町目までは、かつての法性寺の寺域を通っていたようで、この間に架けられた橋が一之橋・二ノ橋・三之橋と称された。しかし、廃寺となってからは東福寺領となりました。(法性寺は浄土宗西山派に属する寺院だったそうです)

2017年9月 8日 (金)

辻子 ー長光寺辻子ー

 高倉通万寿寺上ル 福田寺町を西行して突き当たりを南行する鉤型の小路が長香寺辻子です。

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 「長光寺辻子」の名称は、現町名の「福田寺町」へ変わる前の呼称で、すぐ北隣の樋之下町にある長香寺に由来します。
 ちなみに、『京町鑑』には万寿寺中之町の「北側に高辻へ出る辻子を 新堀上之町 叉俗に長光寺辻子と云」、樋之下町の「南の方西入所 ㋵福田寺新地上之町 長光寺新地とも云則此町に長光寺と云浄土宗の寺あり」と記しています。

 また、「福田寺町」の由来は、慶長3年の豊国社造営に際して、東山汁谷(現東山区渋谷)からこの地に移転してきた福田寺が町名の由来です。その後さらに移転して、現在では六条通河原町西入に所在します。


福田寺町の仁丹町名表示板
 木製で希少なものです

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