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辻子(図子)・突抜

2018年3月16日 (金)

辻子 ー無覺ノ辻子ー

 寺之内通室町から北行して二筋目(下柳原北半町の北端)までを言ったか。
 下柳原南半町と下柳原北半町を通貫している。

無覺ノ辻子

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 辻子の名称は室町通の西側にある無覚寺(現・無学寺)にちなむ。

無学寺境内の様子と石標

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 宋から渡来した無覺(無学とも)祖元が弘安2年に創建して、弘安山無覺寺と号したと云う。

  『京都坊目誌』は、寺説によれば夢で本尊の地蔵尊の霊を感じたことから「夢覺寺」と号したとするが、これは「無覺寺」の誤りであろうとしている。
 また、『雍州府志』では、古にはこの辺にあった無覺祖元を開山とする景愛寺の境内であったことから、この町を「無覺ノ辻子」と云うとしている。

2018年2月23日 (金)

辻子 ー宮の辻子ー

 松原通の轆轤町と新シ町の境界となっているT字形路、ここから東大路に至る間が「宮の辻子」で、「宮が辻」とも云ったようです。
 松原通の新シ町と清水五丁目を通貫している。

宮の辻子
 T字路(六道の辻)左手の石畳奥は六道珍皇寺。

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六道の辻
 六道珍皇寺門前のT字路を古くから「六道の辻」と云った。そして、ここから南の興善町にかけてを六道大路と云ったようです。
 しかし、確かな場所ははっきりしないようで、『山城名跡巡行志』は「八坂ノ西愛宕寺ノ東ニアリ其所不詳」としています。
 ちなみに、『都名所圖会』は「本堂の前にあり」としており、図も正にそのように描かれている。(左端の中程の建物が本堂)

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 「六道の辻」は、「この世」と「あの世」の境界、つまり「冥界(冥途)」への入口とされた。
 「六道」というのは、仏教で地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界を云うようです。 

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 『京都坊目誌』はこの辻子について、「宮か辻 叉宮の辻子に作る、新し町、清水五町目に跨る。松原古昔五條通を云ふ。山城名勝誌に或云宮ノ辻子は六波羅の東六道の辻の邊とあり。今此名を逸す」と記しています。

 また、「明治二年まで其南一町の所に宮辻町あり。同年竹林町に合す」とあります。
 因に、南一丁にあった宮辻町は、明治2年に竹林町に合併されたため今ではこの名は失われたとしているが、これは竹村町に合併されたの誤りかと思われます。

 「新シ町」については、松原通は早くから開けていたが中世には通の南北ともに建仁寺領であり、南側は菜畑で北側は竹林であったとしている。
 また、宝暦10年8月に許可を得てこの一帯を開拓、民家が新しく建ったことから「新(あたら)し町」と名付けたとしています。
 「清水五町目」は云うまでもなく、清水寺から五町目に当たることが町名の由来です。

 

2017年11月17日 (金)

辻子 −猿屋辻子ー

 辻子に面する、北側の上堀詰町・本町新五町目、南側の下堀詰町・本町五町目との境界となっている小路です。

猿屋辻子

Photo

 『京都坊目誌』の「上堀詰町」項に、「因云 當町より本町通に通ずる小街あり。之を猿屋辻子と字す。」と記しており、この辻子は鞘町通と本町通の間を通っている。


上堀詰町の仁丹町名表示板

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 やはり『京都坊目誌』によれば、この一帯の元は磧地(河原)を開拓して耕地とした所。延宝の頃になってから人家を建て連ね、上・下堀詰町の名が付されたようで、この西側の地は河原田町と云ったが明治2年に堀詰町に合併したと云う。

 また、「鞘町通」は、天正慶長の頃に開けたようで、当時は刀剣の鞘師と柄巻き等の織工が居住したことが通り名の起りとする。

 「本町通」は、五条通の本町一町目を起点として二十二町目を経て、その南は伏見となり橦木町に至る。橦木町のすぐ南は京町通に接続していて、かつての伏見城下の中心に通じていた。このため、伏見街道とも称された。


2017年10月27日 (金)

辻子 ー櫻の辻子ー

櫻の辻子

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 五辻通の、浄福寺通と智恵光院通の間を東西に通っている・・・と見ています。
 そして、位置としては一色町と五辻町を通貫していると考えます。

 その理由は次の通りです。
 『京羽二重』には、「櫻の辻子 しやうでんの辻子の南の町なり」と記します。
 そして、「しやうでん辻子」の位置は、「大宮どをり紋やの辻子のにし上る所」としています。
 さらに、「觀世辻子 大みやどをりあぐいんにしへ入所」と記しています。

 これら三つの記述をそのままに理解して、「櫻の辻子」は「しゃうでん(聖天)の辻子 」=聖天辻子通のすぐ南の辻子だとしてみましょう。
そうすると、そこは上立売通ということになり「観世辻子」に該当しますから、「櫻の辻子」ではあり得ないことになります。
 したがって、櫻の辻子は、聖天辻子のすぐ南の辻子(つまり上立売通)ではなくて、二筋南の五辻通と云うことになるはずだと考えるに至りました。

 なお、『京童』の記述からも、「上立賣通」の項で「あぐゐ通西へ くはんぜの辻子」としていますから、「櫻の辻子」は上立売通ではあり得ないことが判ります。

 ちなみに、「五辻町」の名称は亀山天皇の皇子守良親王が住んで五辻宮と称したことに由来する。また、「一色町」は室町幕府の守護大名、四職家筆頭であった一色氏の邸宅があったことに由来する。

2017年9月29日 (金)

辻子 ー五葉辻子ー

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 五葉辻子は、本町通(伏見街道)の本町十一丁目から、東側にある滝尾神社社頭を東行して、東大路通までの間。
 本町十一丁目・五葉ノ辻町・雀ヶ森町を通貫しています。


滝尾神社本殿

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 五葉辻子はかつての「泉涌寺道」でしたが、現在の泉涌寺道は本町通を少しばかり北に行った所、一橋小学校と本町郵便局の間を東へ向かう道です。
 ちなみに、「本町十一丁目」の町名由来は、本町通の起点である五条通から十一町目に当たるからです。


本町十一丁目の仁丹町名表示板

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 本町通、本町十一町目の北端で本町十丁目との境にある宝樹寺の北側、かつてはここを東から西に今熊野川が流れ、鴨川に流入していたようです。その流路は現在では埋め立てられて細い道となっています。
 明治元年まではここに架かっていた石造の一之橋が、愛宕郡と紀伊郡の郡界となっていました。一之橋は古来有名な橋だったようで、元禄期の俳人宝井其角は「ほととぎす一二の橋の夜明けかな」と吟じています。
 伏見街道(本町通)の十一町目から十八町目までは、かつての法性寺の寺域を通っていたようで、この間に架けられた橋が一之橋・二ノ橋・三之橋と称された。しかし、廃寺となってからは東福寺領となりました。(法性寺は浄土宗西山派に属する寺院だったそうです)

2017年9月 8日 (金)

辻子 ー長光寺辻子ー

 高倉通万寿寺上ル 福田寺町を西行して突き当たりを南行する鉤型の小路が長香寺辻子です。

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 「長光寺辻子」の名称は、現町名の「福田寺町」へ変わる前の呼称で、すぐ北隣の樋之下町にある長香寺に由来します。
 ちなみに、『京町鑑』には万寿寺中之町の「北側に高辻へ出る辻子を 新堀上之町 叉俗に長光寺辻子と云」、樋之下町の「南の方西入所 ㋵福田寺新地上之町 長光寺新地とも云則此町に長光寺と云浄土宗の寺あり」と記しています。

 また、「福田寺町」の由来は、慶長3年の豊国社造営に際して、東山汁谷(現東山区渋谷)からこの地に移転してきた福田寺が町名の由来です。その後さらに移転して、現在では六条通河原町西入に所在します。


福田寺町の仁丹町名表示板
 木製で希少なものです

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2017年7月28日 (金)

辻子 ー蛇辻子(じゃのずし)ー

 蛇辻子は、下松屋町通五条下ルの付近を東へと通じていたようです。

 下松屋町通は、かつて「一貫町通」と称していました。
 その由來は判りませんが、『京町鑑』には、「△此通一貫町と名付たる事詳ならず ●此通は松原より南は丹波口下ル所迄の通にて大宮の西の通也」としています。
 そして、蛇辻子の位置については「▲下長福寺町  此町中程東側下よりに辻子有㋵蛇辻子」としています。

 上の記述から蛇辻子の位置は、下長福寺町の町域(北は万寿寺通から南は五条下ルまで)のうち南の方、つまり、下松屋町通(一貫町通)の五条(辺り)を東行する小路であったものと思われます。

次の写真、この辺りが辻子跡と見立てた五条通南側歩道です。

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 ところで、この五条通ですが、ずっと後の太平洋戦争末期になってから大きく変貌しているのです。
 昭和18年(1943)に「防空法」を改正して大都市の建物の疎開強化要綱を策定します。
 空襲による延焼を防ぐため道路を拡幅して防火帯を設けるために、大きな道路沿いの建物を市や町が強制的に取り壊す建物の強制疎開の措置がとられたのです。
 京都でも昭和19年10月から三次にわたって強制的な建物疎開がおこなわれて道路が拡幅されています。同20年3月の第三次強制疎開で五条通・堀川通・御池通などで実施され、1万世帯以上の家屋が強制的に取り壊されました。
 五条通の場合は、その南側部分が強制疎開の対象となり、現在の北側歩道にあたる部分が元の五条通(約5m)だったのですが、家屋が取り壊されたことで現在のような約50mの広い道路になったのです。

 ちなみに、永井荷風『断腸亭日乗』で昭和19年10月29日のところに、強制疎開のため取り払われた東京の町を詠んだ俳句がありました。
 《 川端の町取り払はれて後の月 》です。

 蛇辻子は旧五条通の南側、つまり、強制疎開で家屋が消滅してしまった現在の五条通の車道部分から、その少し南の町境界までの間の下長福寺町を、下松屋町通(一貫町通)から東行していたものと考えられるのです。

 町名の由來は、『京町鑑』に「松原通大宮西入町に長福寺あり。町名之に起る。」とし、下松屋町通について「始め上長福寺町。下長福寺町。突抜一町目。突抜二町目。の四ヶ町を新町と稱す。蓋し新開を意味せしなり。」と記しています。
 そして、下長福寺町については、「開坊の初め二町目と呼べり。此町東側南方より東に通する小路あり。俚俗蛇辻子と字せり」としています。

2017年7月14日 (金)

辻子 ー鹿子屋辻子ー

 智恵光院通寺之内下ル 一筋目を東行して大宮通までの間。
 古美濃部町・新美濃部町・花開院町を東西に通貫しています。

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 『京町鑑』には、「新美濃部町 叉一名○鹿子屋辻子ともいふ」と記しています。
 『京都坊目誌』でも、「新美濃部町 亦世俗鹿ノ子屋ノ辻子と云ふ」と記しています。
 つまり、両書ともに鹿子屋辻子は新美濃部町のことであり、東西に通じる辻子だとしています。


 ところが、どうしたことなのか、『史料 京都の歴史』7巻「上京区」にある「図13 上京区域における辻子の分布」では、異なる個所を示しているのです。
 その図に示すところでは、智恵光院通の寺之内から南行して上立売までの間で、大猪熊町・古美濃部町・伊佐町を南北に通貫していることになっているのです。

 しかし、そうだとすると智恵光院通の寺之内通から聖天辻子東端までの間については、「伊佐との辻子」と重なってしまうと云う奇妙な恰好になってしまいます。ですから、これはちょっと採り難い考え方だという気がするのですが、どんなものでしょう。


2017年6月 2日 (金)

辻子 ー硯屋辻子ー

 上立売通の、大宮通と智恵光院通との間。
 樋之口町・硯屋町・伊佐町を通貫しています。

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「樋之口町」について、『京都坊目誌』では「始め下華開院と云ふ。寶暦年中今名に改む」としています。
  ちなみに、樋之口町の北隣は「華開院町」で、かつて町の西側には山号・寺号を付さない華開院と言う寺院があったそうで、これが町名の由来となっているという。


 それはそうと、どのように考えればよいのか戸惑ってしまうことが出てきました。
『京都坊目誌』には「硯屋町 町名起源不詳 始め觀世の辻子と云ふ。後東硯屋町、西硯屋町のニとなり。維新の際一町に合す。」と記しています。つまり、元・觀世辻子=現・硯屋辻子は、智恵光院通の東側にあることになります。
 一方、当ブログ '16年8月5日の記事「觀世辻子」では、智恵光院通の西側にあるとしていました。

 そうすると、『京都坊目誌』の云うところでは、かつては「現・硯屋辻子」部分をも含めて、つまり上立売通の浄福寺通と大宮通間を通して「觀世の辻子」と称したと云うように読めるのです。
 しかし、同じ上立売通とは云いながらも、智恵光院通を挟んで西側と東側では南北にズレています。1つの辻子が真っ直ぐに通っていないのは、私にとって容易には信じ難いことのように思えるのです。(智恵光院通の部分を含めて鍵形の辻子であったとするならば話は別です)

 また、『京童』は「あぐゐ通西へ ◯くはんぜの辻子 ◯聖天岩神門前町 ◯ゑびす町」としており、『京羽二重』も「觀世辻子 大みやどをりあぐいんにしへ入所」と記していますから、硯屋辻子もかつては觀世辻子と言ったというのは信じるべきことなのでしょうか。
 その辺りについて、新しく判明したことがあれば改めて記事にしたいと思っています。

2017年5月12日 (金)

辻子 ー伊勢殿構ノ辻子ー

 田丸町、東西俵屋町、伊勢殿構町を通貫していたものと考えられる。
 現在の土屋町通中立売から北行して一条通までを云ったものでしょうか。

 ところで、現在の土屋町通、北は一条通から南は竹屋町通まで通じていますすが、昔は非常に短い通りだったようです。
 『京都坊目誌』によれば、土屋町通は元和元年(1615)に開通した通りで、はじめ北は上長者町通から南が下立売通までの短い通りでした。
 宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では「此通上長者町より出水迄二町の間也」と記しているので、この頃には下長者町通から南の出水通まで延長されていたことが判る。
 したがって、伊勢殿構ノ辻子は北に延伸された土屋町通の北端部にあたるようです。

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 『京都坊目誌』「田丸町」の項に、「相伝ふ聚楽城廃城の後、此辺田圃と化し、中に僅少の人煙ありしと。当時田丸町より接続地に伊勢殿構ノ辻子あり、今其字名を称せず。僅かに北側に其址を存せり」としています。


伊勢殿構町の仁丹町名表示板

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 天正期、豊臣秀吉の築いた聚楽城が興隆した頃、伊勢兵部少輔の屋敷に通じていたことから、伊勢殿構ノ辻子と称したようで、伊勢殿構町の町名もこれに由来しています。
 なお、伊勢兵部少輔(伊勢貞昌)は大名ではなく、島津藩の筆頭家老だったと云うことです。


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