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辻子(図子)・突抜

2018年11月 9日 (金)

突抜 ー元真如堂突抜町ー

 元真如堂突抜町は、今出川通から一筋南の通りで、現・石薬師通の寺町通と「中筋通」の間を云いました。
 元真如堂突抜町は、真如堂前町と真如堂突抜町を東西に通貫していました。

 ところで、「中筋通」というのは、かつては寺町通から西へ三筋目、今の梨木通から二筋西にあった道です。したがって、今では京都御苑に取り込まれてしまったため無くなっています。

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 元真如堂突抜町は、この写真の背後(東)の寺町通から、正面に見える京都御苑石垣築地の向こう(西)にあった「中筋通」までを通る道でした。

 『京町鑑』は、「◯寺町より西へ中筋通まで ㋵元真如堂突抜町」と記しています。
 この「中筋通」というのは、北は石薬師通から南は清和院御門(当時は今より西にあって南面していました)のある広小路通までを南北に通じる道でした。
 石薬師御門を入ってすぐの所にある公衆トイレの辺り、そして、いまの京都迎賓館東側を南北に通る道だったようです。

 また、『京都坊目誌』には「▲眞如堂突抜町 寺町今出川一筋下る西入町を云う  開通年月詳ならず。或云元祿五年新開すと。此町東は眞如堂前町。西は道路を隔てゝ皇宮地。南は染殿町。北は大原口突抜町に境す 町名起原 眞如堂前町に突入する故なり」と、突抜周辺の位置関係を記しています。

 ちなみに、明治2年に実質的な東京遷都がなされ、多くの公家達も東京へ引き移りました。
 このため、公家町はすっかり荒廃したことから、明治10年から16年にかけて、公家屋敷の撤去・外周石垣土塁工事・道路工事・樹木植栽など「大内裏保存事業」がおこなわれました。
 こうして、現在のような京都御苑の体裁になりましたが、このときに公家屋敷とともに「中筋通」などの道も消滅したのです。

2018年10月19日 (金)

突抜 ー因幡堂突抜通ー

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 『京町鑑』には、「◯不明門通 ◯叉 因幡堂突抜通」とあって、因幡堂突抜通というのは不明門通の別称なのです。
 不明門通(因幡堂突抜通)は車屋町通の南部にあたり、烏丸通から一筋東の通りなのですが、烏丸通の丸太町通と塩小路通の間が明治45年に東側へ拡築されたとき、東本願寺前の部分だけ両方の道が一体となってしまい、不明門通は烏丸通の東側歩道部分と化したのです。

 『京羽二重』は、「松原ゟ南へ七條通まで因幡堂つきぬけとをりとも あかずのもん通共云」とする。
 つまり、因幡堂突抜通の元々は不明門通松原通の因幡堂町から南下して、七条通の真苧屋町まで通貫していました。

「大堀町」の仁丹町名表示板

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 しかし、この不明門通は明治10年に七条通を南へ越え、塩小路通(東塩小路町)まで延長されました。

「東塩小路町」の仁丹町名表示板

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 以上は、稲葉堂突抜通(不明門通)と云う「通り名」について見てきました。

 次に、「因幡堂突抜」という「町名」があったのを『京雀』の記述から見てみます。「五條松原さがる ◯いなば堂のつきぬけ ◯同二町目 五條はし通さがる ◯平野町 (略)」とあります。
 つまり寛文期には、現在の松原通から万寿寺通までを「因幡堂突抜」と云い、万寿寺通から五条通までを「因幡堂突抜二町目」と称していたのです。

 最後に、通りの名称(車屋町通・因幡堂突抜通・不明門通)の由来を地誌書から拾ってみました。
 『京町鑑』は、「◯車屋町通 ◯不明門通(あけずのもんどおり)◯因幡堂突抜通」の項で、通り名の由来を「△此通 いにしへ姉小路邊に牛車屋住居せしゆへ號く  △但 松原より下は不明門通といふ 叉因幡堂突抜通とも云」とする。

 『京都坊目誌』では、車屋町通の名称由来を「車輛製造の者 此街の南に住居せしより名とす。一に車屋町と稱せし」と記しています。
 そして、不明門(あけずのもん)の名称由来については、「松原の北に因幡堂平等寺あり。往昔 正門此街に面す。常に鎖して開かず。街を開くに當り名とす。一に藥師突抜町とも稱す。」と記しています。

2018年9月28日 (金)

辻子 ー菅大臣辻子ー

 仏光寺通西洞院の東方、菅大臣町の北側にある北菅大臣社に通じる小路が菅大臣辻子です。

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 仏光寺通を挟んで北側には北菅大臣神社があり、南側には菅大臣神社があります。
 この2社、元々は菅原道真の屋敷跡で、南北2町東西1町を占める広さだったそうです。それが、鎌倉期になって現在のように南北に分かれたということです。

 ところで『京町鑑』には、綾小路通新町西入「矢田町」の記述の中で「此所北ヘ行所は膏藥辻子也叉南へ行所は㋟管大臣辻子」としています。
ということは、往時の「菅大臣辻子」は、北は綾小路通から南は仏光寺通まで通じていたようにも取れるのですが・・・。sign02

北菅大臣社(紅梅殿の址)

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 北菅大臣神社は紅梅殿また菅原御所と称されました。
 道真が太宰府へ左遷される際に次のような有名な和歌を詠んだのは、この紅梅殿であったと云う。
   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
      あるじなしとて春な忘れそ

 ところで、
 仏光寺通の北側にある北菅大臣神社の祭神は、菅相公と称された菅原是善で、道真の父とされます。
 ところが、『都名所圖會』では「菅大臣の北門前にあり、祭所菅神の御子なり」と記しています。つまり、祭神は道真の父である是善ではなく、道真の子だとしているのです。

 また、『京都坊目誌』では「祭神菅原是善とす、或は云ふ、道眞の子也と。」とあって、祭神は是善とされるが、道真の子だとも云うと記しているのです。

 はてさて、北菅大臣神社の祭神は、道真の父である是善なのか、それとも道真の子なのか。ハッキリしません。これはどう云うわけなのかと首をかしげてしまいます。


菅大臣神社(白梅殿の址)

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 一方、仏光寺通を挟んで南側にある菅大臣神社は、菅原道真を祭神としている。
 ここも、菅原道真の居館跡であって、白梅殿と称された。ここに社殿を造営したのが起り。

 なお、「菅大臣町」の町名由来は、言うまでもなく菅大臣神社があることによる。

「菅大臣町」の仁丹町名表示板

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2018年9月 7日 (金)

辻子 ーかんじょ辻子ー

 「かんじょ辻子」は、上ノ下立売通(現・妙心寺道)の北裏通で、御前通と天神通の間。
 北町、川瀬町、西上之町と仲之町の境界を通貫しています。

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 『京都坊目誌』は、「河瀬町(川瀬町)」について次のように記しています。
 「古昔此町を筑紫町と呼べり。相傳ふ菅神を北野に祀るとき、安樂寺を此邊に移せしより、筑紫の稱ありと云ふ」とあります。

安楽寺天満宮

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 安楽寺は旧北野天満宮別当曼殊院宮の支配であり、太宰府に左遷された菅原道真の死後、道真に付き従っていた人々が帰京して、この地に道真の霊を迎え祀った。 安楽寺天満宮(俗に子規=ホトトギスの天神)とも称された。
 いま、川瀬町の西方、天神通から西へ入った北町に安楽寺天満宮があるが、これは後世の明治に入ってから私的に旧跡保存のため設けられたとのことです。

一ノ保社の址

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 その後、北野神社の神事に奉仕する北野神人といわれる人々は、七ヶ所の御供所(七保)を設けて住んだ。これを北野天満宮御供所七保と云ったようで、安楽寺天満宮はその第一の保でした。
 因に、御供所というのは北野天満宮の供え物を調える所だったということです。

 さて最後に、これは私見であり定かではないのですが。
 「かんじょ辻子」の名前の由来は、菅原道真の霊を太宰府からまずこの地に移し祀ったと伝わることから、「勧請の辻子」が「かんじょ辻子」へと転訛したのではなかろうかと思います。さて、如何なものでしょう。故事つけ(こじつけ)かな?

 次の写真、安楽寺天満宮のある北町の仁丹町名表示板です。

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2018年7月27日 (金)

辻子 ー道正辻子ー

道正辻子

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 道正辻子は新町通寺之内上ル 一筋目を東行して木下町通(衣棚通)までを云う。
 道正町を東西に通貫している。

 辻子の名称について、『京都坊目誌』には「道正庵此町あり故に名とす。維新前は竪道正町上組下組及び道正辻子。叉道正權町と呼ぶ三町たり。明治元年十二月合併して一町となる」とあります。
 ということで、道正庵のあったことが辻子名の由来となっています。

仁丹町名表示板「道正町」

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 この道正庵は道正という人の屋敷ですが、『拾遺都名所圖会』の記述からかいつまんで記してみます。
 「道正伝」によれば、道正の俗姓は片山隆盈(たかみつ)、越前国永平寺の開祖道元和尚に随行して中華(宋)に渡り、和尚とともにあちこちと巡っているとき、隆盈が山中で俄に発病します。そして、今まさに息が絶えようとした時、一人の老翁が忽然として現れ、霊薬を授けたところ忽ちにして病気は癒えた。
 その翁が隆盈に言いました。お前が山野も辞さずに師のお供をするのには感心するので、今用いた薬の製法を授けよう。帰国したら子孫に伝へて人々の病苦を救うべきである、我れは日本三ツの峯稲荷明神なりと云うやいなや姿が見えなくなった。
 帰国して後、道元禅師は深草の里に禅寺を営まれ、隆盈は髮を剃って道正と名乗った。そして道正は三ツの峯稲荷明神を祀って参詣すると、神感があって解毒円の製法を授けられた。
 それ以後、道正の家は三十余代にわたって家名を相続し、家を曹洞宗の寄宿所とし、また解毒円を諸国に広めたと云う。

2018年6月29日 (金)

辻子 ー寿量辻子ー

 大報恩寺(千本釈迦堂)の東門から東行して、六軒町通を越え千本通に至る東西の小路。
 溝前町、末広町、牡丹鉾町を通貫しています。

寿量辻子

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 上の辻子写真、突き当たりが千本釈迦堂の東門なのですが、現在では防災車両の出入口となっており、普段は鉄扉が閉ざされており行き止まりとなっています。  辻子の名称由来は、この道(寿量辻子)の北側(右側)に寿量寺(廃寺となっている)という寺があったことによります。

 『名所手引京圖鑑綱目』宝暦4年(1754)
日文研データベースから 
 寿量辻子は、釈迦堂本堂の東門から、六軒丁通・寿量寺を経て千本通の大下丁にかけて。(写真をクリックすると少し拡大します)

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 ちなみに、『京都坊目誌』は、「壽量寺 末廣町の内上立賣と五辻との間千本西入北側四十九番戸にあり。日蓮宗妙満寺に屬す。享保15年類焼し。其後再建す。」とあるも、大正年間に廃寺となったようです。

 『京町鑑』の「上立賣通」の項に、「千本西へ入 左官町 此町南側に壽量寺と云日蓮宗の寺有  此西は北野右近馬塲へ出る也」とあります。

 ところで、この引用文中の「上立売通千本西え入」にあるのは「左官町(さくわんちょう)」ではなく、「作あん町(さくあんちょう)ではないかと思いますが、如何なものでしょうか。上記引用図はもちろん、元禄・貞享の頃の『京大絵図』でも花車丁・作庵丁は記されていますが、左官町というのは見当たりません。

 作庵町の仁丹町名表示板


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2018年6月15日 (金)

辻子 ー出雲寺辻子ー 《補訂》

 以前、「出雲寺辻子」(2015年7月17日記事)では、辻子の位置を明確に特定仕切れないため、「はっきりせず何とも悩ましいことです。」と腰砕けのかたちで終わっていました。
 その後も、ときどき思い出したように近世の地誌の記述や、古絵図と現代の地図を見比べて、乏しい想像力を巡らせながら考えていました。

 そこで改めて、考えついた「出雲寺辻子(出雲辻子とも)」の位置は、次のようなものです。
烏丸通上御霊前から約50mばかり南に、烏丸通から西へと入る道があります。
 この道は、現在ではごく短いものとなっていますが、この部分が「出雲の辻子」の残存部分だと見ます。

出雲辻子(址)
 後掲『京都坊目誌』に、「出雲の辻子」の「道址存す」と記す場所か。

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 そう考えるに至った理由は、次のようなものです。
 『京町鑑』には、「内構町」(上御霊前通烏丸西入の両側町)についての記述のあと、次のように記しています。
「◯此町南側 
 ▲和泉神町  叉本名◯出雲寺辻子 古出雲寺とて大伽藍ありし舊地也  故にしかいふ中頃出雲寺町といひしがいつの頃よりか文字も書誤りし也」としています。
 なので、現在の「内構町」の南側に、和泉神町=本名は出雲寺辻子があったことに間違いないのです。

 また、『京都坊目誌』では、「上御霊前町」の記述中に「(略)因に云ふ  本町西部より相國寺境内に通ずる小徑あり。出雲町叉出雲の辻子と呼ぶ。維新後自然廢道と爲る。道址存す 明治四十四年此所より南に新道を開けり。
 この記述から、以前の記事では何の疑いも無く、出雲の辻子は上御霊前町の西方、つまり内構町を東西方向に通っていたものと理解したのが、誤りだったようなのです。
 出雲辻子は相国寺に通じる小道であって、上御霊神社へ通じる小道ではなかったのです。

 ところで、その昔の相国寺の境内地は、烏丸通の西側までをも占めていたようです。そして、そこは応仁の乱以前までは下出雲寺の跡だったのです。
 それでは、どの範囲までが境内地だったのか?

 『京大絵図』貞享3年(1686)に描かれた相国寺境内地の西端は、室町通の「上柳原町」から「むろ丁かしら丁(現・室町頭町)」にかけて、そして、南北の範囲は「内構町」の南側から、「柳のつじ(現・柳図子町)」の北側にかけてが境内地として描かれています。
 したがって、現在の「下柳原北半町」と「下柳原南半町」は、かつては相国寺境内地だったようです。

古絵図に見る相国寺境内地の西部
 貞享3年(1686)『京大絵図』(日文研データベースから)
 地図をクリックすると不鮮明ながら拡大されて、内構町の南側まで相国寺境内地であったことが判ります。
 
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 さて、そこで改めて『京町鑑』『京都坊目誌』の記述と、『京大絵図』の描くところを併せ考えて、出雲寺辻子の位置特定を試みた結果は次の通りです。

 「内構町」の南側にあったかつての「出雲寺辻子(別称・和泉神町)」は、現在の「上柳原町」に相当し、そこから東方の相国寺境内へと東西に通じていた。
 先に書いたように、烏丸通上御霊前の少し南から西へと入るごく短い道、これが『京都坊目誌』の云う、「出雲の辻子」の「道址存す」としている個所なのでしょう。
 元々の出雲の辻子のうち、ここと西方室町通の間(約70m)が廃道となって失われた部分だろうと見ます。

 そして、この出雲辻子の「道址」西端から、南へやや西寄りに寺之内通まで延びるのが、「明治四十四年此所より南に新道を開けり」に相当する道だと考えました。

出雲辻子址から開かれた新道
 左端に見えるのは烏丸通
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なお、言うまでもなく『京都坊目誌』の云う「出雲の辻子」「出雲町」と、『京町鑑』に云う「出雲寺辻子」とは同一です。

以上です。さてどんなものでしょうか。
  

2018年5月25日 (金)

辻子 ー百々辻子ー

 百々辻子(どどのずし)は、寺之内通の小川通と堀川通間で、
 百々町を東西に通っている。

百々の辻子

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 『京都坊目誌』に、百々町の町名起源を「百々は元地名なり寶鏡寺あり百々の御所と云ふ。古老の傳説に昔時百々某と云ふ武士の第宅。今の寶鏡寺の地にありしと。今按百々某は何人たるを知らず」と記す。
 地名の由来となった武士の百々氏については詳しい事は判らないと云う。
 また、百々の名が伝わる最も古い例としては、『今昔物語』に地名「どとの辻」として出ている由。このことから、少なくとも平安時代中期には開通していたことが判ります。

宝鏡寺(百々御所)
 
宝鏡寺は代々歴代の皇女が住持となる門跡尼院で百々御所と呼ばれた。光格天皇遺愛の人形や市松人形などを蔵することから、人形寺としても知られる。

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「小川」跡
 
今は小川通と町並みになっています。
 通りの右手には表千家不審庵と裏千家今日庵が並びます。

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百々橋の礎石

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 「百々橋 小川の流れに架す。乃ち當町より寶鏡寺東町に通す。石橋なり。長四間一分幅二間二分。都下の名橋なり」とありますから、長さは7m余りで幅は4m弱の橋だったらしい。
 このように百々橋は、百々町と宝鏡寺東町の境界を流れる小川(賀茂川の分流)に架けられた石橋で、都下の名橋とされたようです。
 応仁元年5月に始まった応仁の乱では、山名宗全の西軍と細川勝元の東軍が、この百々橋を挟んで数度にわたって交戦したと云う。

2018年3月16日 (金)

辻子 ー無覺ノ辻子ー

 寺之内通室町から北行して二筋目(下柳原北半町の北端)までを言ったか。
 下柳原南半町と下柳原北半町を通貫している。

無覺ノ辻子

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 辻子の名称は室町通の西側にある無覚寺(現・無学寺)にちなむ。

無学寺境内の様子と石標

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 宋から渡来した無覺(無学とも)祖元が弘安2年に創建して、弘安山無覺寺と号したと云う。

  『京都坊目誌』は、寺説によれば夢で本尊の地蔵尊の霊を感じたことから「夢覺寺」と号したとするが、これは「無覺寺」の誤りであろうとしている。
 また、『雍州府志』では、古にはこの辺にあった無覺祖元を開山とする景愛寺の境内であったことから、この町を「無覺ノ辻子」と云うとしている。

2018年2月23日 (金)

辻子 ー宮の辻子ー

 松原通の轆轤町と新シ町の境界となっているT字形路、ここから東大路に至る間が「宮の辻子」で、「宮が辻」とも云ったようです。
 松原通の新シ町と清水五丁目を通貫している。

宮の辻子
 T字路(六道の辻)左手の石畳奥は六道珍皇寺。

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六道の辻
 六道珍皇寺門前のT字路を古くから「六道の辻」と云った。そして、ここから南の興善町にかけてを六道大路と云ったようです。
 しかし、確かな場所ははっきりしないようで、『山城名跡巡行志』は「八坂ノ西愛宕寺ノ東ニアリ其所不詳」としています。
 ちなみに、『都名所圖会』は「本堂の前にあり」としており、図も正にそのように描かれている。(左端の中程の建物が本堂)

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 「六道の辻」は、「この世」と「あの世」の境界、つまり「冥界(冥途)」への入口とされた。
 「六道」というのは、仏教で地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界を云うようです。 

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 『京都坊目誌』はこの辻子について、「宮か辻 叉宮の辻子に作る、新し町、清水五町目に跨る。松原古昔五條通を云ふ。山城名勝誌に或云宮ノ辻子は六波羅の東六道の辻の邊とあり。今此名を逸す」と記しています。

 また、「明治二年まで其南一町の所に宮辻町あり。同年竹林町に合す」とあります。
 因に、南一丁にあった宮辻町は、明治2年に竹林町に合併されたため今ではこの名は失われたとしているが、これは竹村町に合併されたの誤りかと思われます。

 「新シ町」については、松原通は早くから開けていたが中世には通の南北ともに建仁寺領であり、南側は菜畑で北側は竹林であったとしている。
 また、宝暦10年8月に許可を得てこの一帯を開拓、民家が新しく建ったことから「新(あたら)し町」と名付けたとしています。
 「清水五町目」は云うまでもなく、清水寺から五町目に当たることが町名の由来です。

 

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