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辻子(図子)・突抜

2019年7月19日 (金)

辻 子 ー宇賀辻子ー (補訂)

宇賀神社

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 過去の記事『辻子 ー宇賀辻子とその周辺ー』(2013.6.28)は、辻子の位置をめぐって訂正と補足の必要が出てきました。

 以前の記事を作製するにあたって、手持ちの地誌から参考にした記述は次のようなものでした。
 『京羽二重』「◯宇賀辻子 ひがしのとういん通七條のみなみ」
 『都すヾめ案内者』「▲うかノ辻子 ひがしのとう院七でうのみなみ」
 『京町鑑』「▲烏丸 ▲御領町 ▲茶木町 ▲宇賀辻子 以上東九條の分也」
 『都名所圖会』「宇賀社は九條の東にあり、祭所宇賀神なり。此所の東西の徑を宇賀辻子といふ。」
 しかし、そのいずれも辻子が所在する位置を具体的に記していません。
 
 そこで、これらの記述を総合して考えてみると、宇賀辻子の位置は、「東洞院通七條の南方」(つまり竹田街道)の「東九條」辺りで、辻子は「東西の道」ということになります。
 辻子名称由来の通例からすると、宇賀辻子は宇賀神社に通じる道・傍を通る道ということになります。

 それでは、竹田街道から宇賀神社に至る「東西の道」とは、具体的にどこを指しているのでしょうか。
 ところが、この一帯では現・札辻通の他に「東西の道」は見当たりません。また、現在の札辻通の様子からは、「辻子」をイメージすることができませんでした。これが盲点となっていたのです。

はじめに宇賀辻子と考えていたところ

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 なので、当初の記事では宇賀辻子の位置を、「宇賀神社(東九条東札辻町)東側を北東に延びる小路で、東九条宇賀辺町・東九条南松ノ木町・東九条東札辻町を通貫している。」としたのです。
 つまり、東西に通る道が見当たらないことから、やむを得ず苦し紛れに「社頭から東北方向に斜行する道」を辻子としたのでした。
 とは言うものの、『都名所圖会』の「東西の徑を宇賀辻子といふ」なる記述には、無視しかねる思いが残りました。

 ところが最近、当時の記事に対して、先頃まで宇賀神社の氏子総代を努められた方からコメントをいただきました。 
 その方と何度か遣り取りする中で、かつての宇賀神社周辺の環境や状況について、いろいろご教示をいただくことができたのです。
 その結果、宇賀辻子の位置を次のように改めることにしました。
 「宇賀神社社頭から南に出たところ、現・札辻通を西へ竹田街道までの間をいう。辻子は、東九条東札辻町と東九条中札辻町を通貫している。」


新に宇賀辻子跡と考えたところ
 いまの札辻通北側歩道部分で、竹田街道(信号と横断歩道が見える)まで

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 ちなみに、宇賀神社元総代からいただいた情報は、凡そ次のようなものでした。
① この地の旧家(長谷川邸・「歴史・文化・交流の家」)の昔の当主が画家で、100年程前に描かれた風景画が残されている。
 その絵は今の札辻通から神社を望んだもので、畠の中にある鳥居・本殿・社の森などの神域と用水路などが描かれている。
② 往時の宇賀神社周辺一帯には畠が広がっていた。
 当初に、宇賀辻子としていた神社社頭から北東へと延びる道は、古老の話によれば、いわゆる農道(畦道)に近いような道で、傍らには農業用水路が流れていた。古地図によるとこの農道は北東へ高瀬川まで通じていたようで、後になってから現在の九条跨線橋すぐ際の東山橋まで通じる道となった。
③ その農道と用水路は、神社社頭を経て20m余り南(現・札辻通)に出たところから、西方の竹田街道へと続いていた。そして、この部分が昭和11年に拡張されて札辻通となった。
 当時の農道は現・札辻通の北側歩道部分に相当し、現・車道部分には農業用水路が東から西へ流れていて南側の家々専用の石橋が架かっていた。
④ 社頭の南の現・札辻通へ出た所から西方へ約130m、竹田街道までの農道が参道となっていたようで、竹田街道札辻交差点の北東角には今も石碑「宇賀神社参道」が建っている。

石碑「宇賀神社参道」(宇賀辻子跡とされる)

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 なお、石碑脇には宇賀神社敬神会により建てられた駒札があり、「ここから東へ約100mの宇賀神社までが山城名勝誌などに記された宇賀の辻子跡です」とあって、敬神会ではこれを宇賀辻子と比定している。



2019年6月 7日 (金)

突抜 ー社突抜町ー

 竪社通(大宮通の西裏)の、竪社北半町と同南半町との間を西に入って行く道をいう。
 社突抜町を東西に通貫しています。

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社突抜町の仁丹町名表示板

 この表示板、劣化褪色して文字の判読が厳しいですが、近づいてジックリ見ると次のような表記になっています。
 「上京區 大宮通西裏廬山寺上ル二丁目西入 社突抜町」

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 『京町鑑』の「大宮通」では、「▲竪社町 北半町南半町二町にわかる(略)此北半町西入所を㋵社突抜町 叉一名○山椒屋町とも云」としていおり、山椒屋町という別称があったようです。

 社突抜町の町名由来については、『京都坊目誌』は次のように記しています。
「此の近傍  竪社、社、社突抜、社横、仲社、東社等の名稱は皆 七社(ナゝノヤシロ)に對する謂ひなり。突抜とは行當りを意味するなり。」とあって、 それら町名の名称は、七社(ナゝノヤシロ)、つまり櫟谷七野神社に因むのです。

櫟谷七野神社

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 ところで、櫟谷七野神社の社名は、はじめは春日明神を勧請して社地の近傍にある七野の総社として祀ったことによるとされる。
 さて、その七野とは『京羽二重』など多くの地誌で、内野・北野・紫野・上野・萩野(栗栖野)・平野・蓮台野としている。しかし、『京都坊目誌』では一部が異なっており、上野・萩野にかえて柏野・浅野としており諸説があったようです。
 また、「七社(ナゝノヤシロ)」については、『京内まいり』によれば、初めに春日明神が勧請され、後になって勧請された伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の六神とを合わせることで七社としたように記しています。

賀茂斎院跡

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 この櫟谷七野神社から東および南にかけての一帯には、かつて賀茂神社の祭祀に奉仕した未婚の内親王(斎院)の居所である賀茂斎院のあった所で、紫野斎院とも称されたと云う。

2019年3月 8日 (金)

突抜 ー相国寺突抜ー

 室町通上立売下ル裏築地町の南端を、東方へ大聖寺門跡の南側を経て、東方の烏丸通に至る道を「聖護院辻子」と称しました。
 「相国寺突抜」はこの聖護院辻子の東にあったようなのです。
 つまり、烏丸通から東方の相国寺総門に至る相国寺の門前通を云ったようです。
 したがって、この相国寺突抜、現在では同志社大学のキャンパスに取り込まれてしまい、無くなってしまいました。

相国寺突抜
 築地塀の先に見えるのは相国寺の総門

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 『京町鑑』には、次のように記しています。
 「烏丸通」の記述で、突抜の位置を「上立賣下ル 御所八幡町」、「其南の辻西入町 聖護院辻子」と記したあと、「同辻東入町 ㋵相國寺突抜 西町東町二町也 ◯鹿苑院突抜とも云  則此東町の東の筋は相國寺の門前通也  叉此西町東町二町を二本松町とも云」としています。

 なお、上記の引用文にあるように、この相国寺突抜には「鹿苑院突抜」という別称もあって、東町と西町に分かれていて二本松町とも云ったようです。

聖護院辻子から相国寺突抜のあったと思しい所を望む
 烏丸通の向こう側(東側)は同志社大学キャンパス

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2019年2月22日 (金)

突抜 ー常盤井殿突抜町ー

 『京町鑑』には、常盤井殿突抜町の位置について「◯元真如堂突抜下ル町 ▲常盤井殿突抜町」とし、元真如堂突抜町(現・真如堂突抜町)の南だと記しています。


「常盤井殿突抜町」のあったと思われる所
 茂みから先(北)の今出川通までが常盤井殿突抜町だったようです。ここから南の広小路通までを中筋通と称する道が通じていました。 

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 先頃の記事『元真如堂突抜町』の中でも書いたのですが、かつては現・真如堂突抜町(今出川通の南の通りで、寺町通と中筋通の間)の西端を、石薬師門通から広小路通まで南北に通じる中筋通という道がありました。
 「常盤井殿突抜町」は、その中筋通の北端から少し南に下がった辺りまでを南北に通貫していたようです。

 もっとも、この中筋通は明治になって整備された京都御苑に取り込まれてしまったため無くなりました。その経緯については、先頃記事にした『突抜 ー元真如堂突抜町ー』(’18.11.9)に記しましたので、ここでは省略します。

ちなみに、当時(宝暦期)は御所東側の公家町の様子は次のようなものでした。
 寺町から西へ一筋目・・・梨木町通(北は石薬師通から南は広小路通まで)
 寺町から西へ二筋目・・・二階町通( 同上 )
 寺町から西へ三筋目・・・中筋通( 同上 )
 寺町から西へ四〜六筋目・・・これらの通りは御所築地塀の内側にあった

 ところで、ここで私の「思いつき」を少し・・・・
 先に記した中筋通・常盤井殿突抜の北方で、今出川通を越えた所にある細い道(現・下塔ノ段通)は常盤井殿町の東の端にあたります。

下塔ノ段通から「常盤井殿突抜町」の方向(京都御所)を望む
 
道路の右側(西側)が常盤井殿町で今は同志社女子大学のキャンパス、左側(東側)は下塔之段町です。先の方を横に走っているのは今出川通で、その向こう側(御所)が常盤井殿突抜町だったようです。

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  『京都坊目誌』によると、町名の起源を「本町南側 桂宮の殿舎あり。慶長の頃宮號を八條殿と云ふ。故に八條殿町の稱あり。元禄享保の頃宮號を常盤井殿と稱す。町名之に起る。」としています。
 と云うことで、その「常盤井殿町」へと突き抜ける道であったことが、「常盤井殿突抜町」の名称由来となったのだろうと思われます。

2019年1月11日 (金)

突抜 ー稲荷町突抜ー

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 「いなり町突抜」は、間之町通の高辻と松原間を云う。
 稲荷町と本燈籠町を南北に通貫しています。

「本燈籠町」の仁丹町名表示板
  
本燈籠町の町名由来については、『京都坊目誌』に「東洞院松原上る燈籠町より本町北側に亘り。之を燈籠堂浄教寺の舊地とす。故に稱す。」とあります。

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 「稲荷町」について『京都市の地名』には、「寛永14年洛中絵図に“いなり町つきぬけ”と記しており寛文後期洛中洛外之絵図に“いなり町”とある。しかし寛文12年(1672)洛中洛外大図には“稲荷町突抜町”とみえ、江戸中期までは両者を併用していたらしい。宝永2年(1705)洛中洛外絵図以後の絵図は、“稲荷町”となるから、17世紀の半ばには現町名に固定したと推察できる。」としています。

 ちなみに、寛文5年(1665)刊の『京雀』には「たかつじさがる  ◯つゞらや町」とあります。

 稲荷町あるいは稲荷町突抜の名称由来は、江戸初期の俳人・歌人・歌学者である松永貞徳が、自身の宅地に勧請した稲荷社(花咲稲荷社)が当町にあることによる。
 なお、稲荷社が花咲稲荷と称されるのは貞徳が花咲亭逍遥軒と号したことによる。

花咲稲荷社

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松永貞徳の花咲亭址

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2018年12月21日 (金)

突抜 ー衣棚突抜町ー

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 衣棚突抜町とは、衣棚通の姉小路通と三條通の間を言う。
 突抜町と衣棚町を南北に通貫しています。

 町名「突抜町」は、いうまでもなく「衣棚突抜町」を略称したものです。

「突抜町」の仁丹町名表示板

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 『京町鑑』はこの突抜の位置を、「◯衣棚通」の「◯姉小路下ル  ▲衣棚突抜町」と記しています。
 なお、衣棚通については「北は下長者町より南三條にて行當 叉松原より下へ五條橋通迄」とあります。

 そして、衣棚通の名称由来は、「此通 古 三條上ル町に袈裟衣商ふ店多く有によって衣店といふ 然るにいつの頃よりか 店を棚に書かへたり 今も三條邊に衣屋あり」と記し、袈裟・法衣を売る店が多かったからとています。

 『京雀』の「◯衣棚突抜通」には、「◯長はま町 南は三條衣のたな也  此南行に突抜  只一町連忍の辻子と云  其南に出れば六角通玉蔵町にて行當也」とする。

*上記引用文中の「連忍の辻子」というのは「了頓の辻子」の別称です。
当ブログで「辻子 ー了頓辻子ー」(2016.2.5)として記事にしています。

2018年12月 7日 (金)

突抜 ー仁王門突抜町ー

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 仁王門突抜は、車屋町通の二条通と押小路通の間をいう。
 仁王門町・仁王門突抜町・西押小路町を南北に通貫しています。

 『京町鑑』はこの突抜の位置を、「◯車屋町通」の「◯二條下ル ▲仁王門突抜町」としています。
 なお、仁王門町・仁王門突抜町の町名由来について、『京都坊目誌』では念仏寺の二王門があったとも、また、今では鴨川東にある頂妙寺がこの地にあった当時、仁王像があったとも云われるが、由来としては信じ難いとしています。

「仁王門町」の仁丹町名表示板

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 なお、車屋町通の通り名由来については、
 『京雀』は、「◯車屋町通 これはつきぬけ也 下 あねがこうじに車借(*ルビは「くるまかし」とある)おほくあるゆへに その町筋の名とす」とあって、車屋町通姉小路にある車屋町を「此町はみな車借の住ける家也」と記しています。
 『京都坊目誌』では、「天正以来。車輛製造の者此街の南に住居せしより名とす」としています。そして「一に車屋町突抜と稱せしと。」記して、「車屋町突抜」という別称があったとしています。

2018年11月 9日 (金)

突抜 ー元真如堂突抜町ー

 元真如堂突抜町は、今出川通から一筋南の通り(石薬師通)で、寺町通と「中筋通」の間を言う。
 真如堂前町と真如堂突抜町を東西に通貫していました。

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 元真如堂突抜町は、この写真の背後(東)の寺町通から、正面に見える京都御苑石垣築地の向こう(西)にあった「中筋通」までを通る道でした。

 『京町鑑』は、「◯寺町より西へ中筋通まで ㋵元真如堂突抜町」と記しています。
 ところで、「中筋通」というのは、かつては寺町通から西へ三筋目、今の梨木通から二筋西にあった道で、南北に通じていました。したがって、今では京都御苑に取り込まれてしまったため無くなっています。 
 そして「中筋通」は、北は石薬師通から南は清和院御門(当時は今より西にあって南面していました)のある広小路通まで通じていました。
 石薬師御門を入ってすぐの所にある公衆トイレの辺り、そして、いまの京都迎賓館東側を南北に通る道だったようです。

 また、『京都坊目誌』には「▲眞如堂突抜町 寺町今出川一筋下る西入町を云う  開通年月詳ならず。或云元祿五年新開すと。此町東は眞如堂前町。西は道路を隔てゝ皇宮地。南は染殿町。北は大原口突抜町に境す 町名起原 眞如堂前町に突入する故なり」として、突抜周辺の位置関係を記しています。

 ちなみに、明治2年に実質的な東京遷都がなされ、多くの公家達も東京へ引き移りました。
 このため、公家町はすっかり荒廃したことから、明治10年から16年にかけて、公家屋敷の撤去・外周石垣土塁工事・道路工事・樹木植栽など「大内裏保存事業」がおこなわれました。
 こうして、現在のような京都御苑の体裁になりましたが、このときに公家屋敷とともに「中筋通」などの道も消滅したのです。

2018年10月19日 (金)

突抜 ー因幡堂突抜通ー

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 『京町鑑』には、「◯不明門通 ◯叉 因幡堂突抜通」とあって、因幡堂突抜通というのは不明門通の別称なのです。
 不明門通(因幡堂突抜通)は車屋町通の南部にあたり、烏丸通から一筋東の通りなのですが、烏丸通の丸太町通と塩小路通の間が明治45年に東側へ拡築されたとき、東本願寺前の部分だけ両方の道が一体となってしまい、不明門通は烏丸通の東側歩道部分と化したのです。

 『京羽二重』は、「松原ゟ南へ七條通まで因幡堂つきぬけとをりとも あかずのもん通共云」とする。
 つまり、因幡堂突抜通の元々は不明門通松原通の因幡堂町から南下して、七条通の真苧屋町まで通貫していました。

「大堀町」の仁丹町名表示板

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 しかし、この不明門通は明治10年に七条通を南へ越え、塩小路通(東塩小路町)まで延長されました。

「東塩小路町」の仁丹町名表示板

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 以上は、稲葉堂突抜通(不明門通)と云う「通り名」について見てきました。

 次に、「因幡堂突抜」という「町名」があったのを『京雀』の記述から見てみます。「五條松原さがる ◯いなば堂のつきぬけ ◯同二町目 五條はし通さがる ◯平野町 (略)」とあります。
 つまり寛文期には、現在の松原通から万寿寺通までを「因幡堂突抜」と云い、万寿寺通から五条通までを「因幡堂突抜二町目」と称していたのです。

 最後に、通りの名称(車屋町通・因幡堂突抜通・不明門通)の由来を地誌書から拾ってみました。
 『京町鑑』は、「◯車屋町通 ◯不明門通(あけずのもんどおり)◯因幡堂突抜通」の項で、通り名の由来を「△此通 いにしへ姉小路邊に牛車屋住居せしゆへ號く  △但 松原より下は不明門通といふ 叉因幡堂突抜通とも云」とする。

 『京都坊目誌』では、車屋町通の名称由来を「車輛製造の者 此街の南に住居せしより名とす。一に車屋町と稱せし」と記しています。
 そして、不明門(あけずのもん)の名称由来については、「松原の北に因幡堂平等寺あり。往昔 正門此街に面す。常に鎖して開かず。街を開くに當り名とす。一に藥師突抜町とも稱す。」と記しています。

2018年9月28日 (金)

辻子 ー菅大臣辻子ー

 仏光寺通西洞院の東方、菅大臣町の北側にある北菅大臣社に通じる小路が菅大臣辻子です。

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 仏光寺通を挟んで北側には北菅大臣神社があり、南側には菅大臣神社があります。
 この2社、元々は菅原道真の屋敷跡で、南北2町東西1町を占める広さだったそうです。それが、鎌倉期になって現在のように南北に分かれたということです。

 ところで『京町鑑』には、綾小路通新町西入「矢田町」の記述の中で「此所北ヘ行所は膏藥辻子也叉南へ行所は㋟管大臣辻子」としています。
ということは、往時の「菅大臣辻子」は、北は綾小路通から南は仏光寺通まで通じていたようにも取れるのですが・・・。

北菅大臣社(紅梅殿の址)

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 北菅大臣神社は紅梅殿また菅原御所と称されました。
 道真が太宰府へ左遷される際に次のような有名な和歌を詠んだのは、この紅梅殿であったと云う。
   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
      あるじなしとて春な忘れそ

 ところで、
 仏光寺通の北側にある北菅大臣神社の祭神は、菅相公と称された菅原是善で、道真の父とされます。
 ところが、『都名所圖會』では「菅大臣の北門前にあり、祭所菅神の御子なり」と記しています。つまり、祭神は道真の父である是善ではなく、道真の子だとしているのです。

 また、『京都坊目誌』では「祭神菅原是善とす、或は云ふ、道眞の子也と。」とあって、祭神は是善とされるが、道真の子だとも云うと記しているのです。

 はてさて、北菅大臣神社の祭神は、道真の父である是善なのか、それとも道真の子なのか。ハッキリしません。これはどう云うわけなのかと首をかしげてしまいます。


菅大臣神社(白梅殿の址)

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 一方、仏光寺通を挟んで南側にある菅大臣神社は、菅原道真を祭神としている。
 ここも、菅原道真の居館跡であって、白梅殿と称された。ここに社殿を造営したのが起り。

 なお、「菅大臣町」の町名由来は、言うまでもなく菅大臣神社があることによる。

「菅大臣町」の仁丹町名表示板

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