2022年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

リンク集

無料ブログはココログ

道標・史跡などの石碑

2022年3月 4日 (金)

二条城撮影所

二条城撮影所跡の碑

Dscn1740
 京都の太秦(うずまさ)には、幾つもの映画撮影所があります。
 現在も東映京都撮影所(京都市右京区太秦西蜂岡町)と松竹撮影所(京都市右京区太秦堀ケ内町)があります。
 そしてこの地には他にも、昭和3年(1928)日活太秦撮影所が設立され、同17年(1942)には大映がこれを引き継いでいたのですが、同社は昭和46年(1971)に倒産して撮影所も閉鎖されました。

 ところで、初めて京都に撮影所が開設されたのは明治43年(1910)のことでした。
 その場所は、二条城の西南の地(西ノ京北聖町)で、今の京都市立中京中学校のグラウンド際にあります。江戸時代のこの地は、西町奉行所の一角ということになります。
 かつて、牧野省三と組んで横田永之助が興した横田商会が、京都で初めての撮影所をここに開設しています。
 美福通押小路の交差点北西角に「二条城撮影所跡」碑があって、それには次のように記されています。

 「この撮影所の規模はおよそ300坪の土地に2間×4間の低い板敷の舞台をしつらえ、それを開閉自由の天幕で覆うという簡単なもので、背景はすべて書き割りであったと言うが、大正から昭和初期の日本映画隆盛の一時代を築いた京都の映画産業の礎となった。
 ここで、日本映画の父と言われる牧野省三が、尾上松之助とコンビを組み、最初の作品「忠臣蔵」を撮影し」たとあります。

 しかし、この二条城撮影所は手狭となったために2年ほどで閉鎖されました。その後、幾多の変遷を経てやがて太秦の地に移って行き、日本のハリウッドと呼ばれたということです。

 ちなみに、現在の東映京都撮影所には、「東映太秦映画村」という映画のテーマパークを併設していて、人気の観光地となっています。
 ここでは、昭和50(1975)年にオープンセットの一部を開放して、実際の映画撮影が見られる「日本初のテーマパーク」として、活きた映画撮影所を体感できる施設となっています。



2022年2月18日 (金)

鴻臚館のこと

東鴻臚館址の碑
 下京区西新屋敷揚屋町(「角屋もてなしの文化美術館」横)

Photo_20220217153101
 東鴻臚館はこの碑からおよそ100mほど南に位置した。
 ちなみに、旧遊郭島原の大門から花屋町通東方の櫛笥通までを薬園町という。この町名は渤海国の使節がもたらした薬草を栽培した薬草園に由来するとも言われる。

 「鴻臚館」は、音読して「こうろかん」と読みます。
 古代に日本へ来た外国使節を接待した施設で、言ってみれば迎賓館にあたるもの。奈良朝のころ太宰府・難波に置かれ、平安期になって平安京に置かれたようです。

 平安京の鴻臚館は、はじめは朱雀大路の羅城門を入ったところに、左右の2カ所設にけられた。
 しかし、延暦15年(796)に国家鎮護・王城鎮守のため官の寺、東寺と西寺を造営するにあたって七條大路の北に移転された。
 新たに造営されたのは現在の七条通と正面通の間で、朱雀大路(現・千本通)を挟む形で、東西対称に東鴻臚館と西鴻臚館が設けられ、二町四方の土地を占めていたようです。
 東鴻臚館は、西新屋敷(島原)の南、七条通から北で現在の朱雀正会町・夷馬場町にあたる。
 西鴻臚館は、七条通から北で中央卸市場と七本松通の間。現在の朱雀堂ノ口町・朱雀宝蔵町・朱雀北ノ口町にあたる。

 この鴻臚館で接待したのは渤海国の使者で、日本との通交は神亀4年(727)に渤海使が来日したのに始まり、延喜8年(908)までの間に34回にわたって日本に来ている。その後に鴻臚館は衰微したようです。
 渤海というのは、現在の中国東北地方東部・ロシア沿海地方・北朝鮮北部にあった国で、698年に建国し、926年に契丹の侵攻を受けて滅亡しました。



2022年1月28日 (金)

ランプ小屋

Photo_20220125140901
 この「ランプ小屋」は、JR奈良線の「稲荷」駅に残されています。

 日本の鉄道は国が設置とともに運営をする方式で、明治5年(1872)に新橋〜横浜間が開通しました。
 明治7年(1874)に大阪〜神戸間が、明治10年(1877)に京都〜大阪間が開業しました。そして、東海道線新橋〜神戸間の全線が開通したのは明治12年(1889)でした。

 東京へ向けて延伸するため、明治13年(1880)に京都と膳所(旧大津駅)の間を開業しました。
 ところが、この東海道線の京都〜膳所間は現在とは違って、大正10年(1921)まで京都〜稲荷〜山科〜大谷〜馬場(膳所)というルートで結んでいたのです。

 なぜ、京都から真っ直ぐ東へと向かわないで、このように迂回するルートをとったのでしょうか。それは、東山山地が南端の一部を除くと大部分が急傾斜地であったためでした。
 このような、急曲線と連続急勾配となる立地条件であったため、いったん京都から稲荷まで南下したうえ、ここから北東へ大谷を経て膳所に至るという、東山と山科盆地を大きく南に迂回するルートをとったのです。

 しかし、技術の進歩により大正10年(1921)、東山トンネルと新逢坂山トンネルを掘削して、京都〜膳所(大津)の間を最短距離で結ぶこととなったのです。
 このため、旧ルート中の京都〜稲荷間は、現在ではJR奈良線の一部となっています。

 当時の列車前照灯や客車内照明、保線・駅員の持つ信号灯などは電球ではなくランプを使用していたのです。その油の貯蔵や灯具の保管・整備のために設けられたのがランプ小屋で、主な駅に設置されていたそうです。その一つが旧東海道線ルートの稲荷駅(現在のJR奈良線)に残されているものです。
 このランプ小屋、国鉄最古の建物として昭和45年(1970)に準鉄道記念物に指定され、現在では昔使用されていた鉄道標識等を収蔵しています。




2021年10月22日 (金)

天明の大火(団栗焼け)

 京都は平安京以来、一千年にわたって都であったため地震・風害・洪水などの気象災害や火災など、多くの災害の記録が残されているようです。
 近世(江戸時代)の京都では、ほぼ80年ごとに大火事が発生していて、宝永の大火・天明の大火(団栗焼け・申年の大火とも)・元治の大火(どんどん焼け・鉄砲焼けとも)の三つは「京都三大大火」と呼ばれます。また、この間には、西陣焼けとも呼ばれる享保の大火も発生しています。
 今回は、天明の大火を見てみます。ただ、その被害状況は当然のことながら史料により数字が異なっていますが、この記事では『京都坊目誌』の挙げているものを記しています。

 これらの火災のうち天明の大火は、京都で発生した大火災の中でも火災規模としては、空前絶後ともいえる最大のものでした。
 天明8年(1788)1月30日、団栗辻子新道の角の民家の失火が元で、火は強風に煽られて加茂川の西へも超えて、当時の京都の市街地のほぼ全域を焼き尽くしたのです。世間ではこの火事を天明大火と称し、また出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしの たいか)とも呼ばれた。

天明大火犠牲者の供養塔

Photo_20211022110301
  清浄華院(上京区寺町通広小路上ル)
 供養のための五輪塔そばの石碑には、「焼亡横死百五十人之墓」とあります。
 清浄華院のホームページによると、死者150人というのは幕府の公式見解で実際にはもっと多かったものと考えられ、清浄華院の記録『日鑑』には死者2600人という風聞が記録されているそうです。


Photo_20211022110901
 円通寺(上京区東三本木通丸太町上ル)
 「為焼亡横死」(しょうぼうおうしのため)と刻まれた犠牲者を供養する石碑が建てられています。

 被害状況は史料によって異同がありますが、『京都坊目誌』は次のように記しています。
 「天明八年正月晦日河東團栗辻子火あり、暴風頻に發り火焔京中に漲る、皇居、仙院、二條城本丸、所司廳以下を延焼す。此災や東は大和大路、西は七本松、南は七條、北は安居院に至り、公卿の邸宅百三十、武家の第六十、神社三十七、寺院二百一、市町千四百二十四、民家三萬六千七百九十七戸、死者二千六百餘人の多きに至る。應仁以來の災害にして、世に天明大火と稱す。」

 『京都坊目誌』また、次のようにも記しています。
 「天明大火 寳永大火に比し、更に激甚の被害にして、應仁以來の大火とす、(略)。  天明八年正月二十九日夜、亥ノ刻艮位より狂風起り丑ノ刻に至り、強〻強烈にして寅ノ刻下刻より寅卯の風位、猛威を極め偶〻行路の人馬を倒す程也。晦日寅刻賀茂川の東、宮川町團栗辻子新道の角、兩替商某方より失火し、忽ち東石垣町、宮川町を焼き、五條橋に至る。暴風更に加はり (略)。二日卯の刻にして熄む。」




2021年4月16日 (金)

別の名もあった通り 2 ー大黒町通ー

 大黒町通は、大和大路通の一筋西側を南北に通っている道で、北は松原通から南は七条通に至る道です。
 『京都坊目誌』には、大黒町通の名称由来を「此街壽延寺に大黒天の像を安置す。故に名く。」として、大黒町通松原下ル北御門町にある寿延寺に祀られた大黒天像に因むとしています。

寿延寺

Photo_20210225172601
 『京町鑑』などの地誌によると、その大黒町通には次のように区間によって別の呼称があったようなのです。

大黒町通

Photo_20210225173001
 『京町鑑』では「骨屋町通」についての記述の中で、「但此通五條通より北は大黒町なり」とあるように、五条通から北の松原通までの間を大黒町通と称していたようです。

骨屋町通
 上掲『京町鑑』に、「◯骨屋町通 △此通の南に扇子の骨を製作するもの多く住す故に號す」とし、「⚫︎但此通五條通より北は大黒町なり扨五條下ルより南は大佛正面まで」と記しています。
 つまり、五条通から南の正面通までを骨屋町通と称したのです。この一帯に扇子の骨を製作する者が集住したことが名称の由来だとする。

袋町通
 「袋町」の仁丹町名表示板(写真提供は京都仁丹樂會)

Photo_20210225173901
 『京都坊目誌』には、「大黒町通 (中略)、五條以南にて、袋町通又耳塚通とも称す。正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」とあります。
 なお、この「袋町通」は、大黒町通五条下ルに「袋町」が所在することが名称の由来。なお、往時の袋町へは南から北に向かって入るが、その先で音羽川の流れに阻まれて五条通まで通じていなかったため、袋小路となっていたことから生じた呼称だとする。

浄雲寺
 寺門の正面奥に見える本堂の裏手で音羽川は流路を変えていた。

Photo_20210225174501
音羽川跡の一部(前方の人家の間の細い道)

Photo_20210225175101
本町公園から流路跡の音羽川北通を望む

Photo_20210225175401
【註】音羽川は、現在では流路のほとんどが暗渠になっているため地図に現れていません。近世末の地図や『京都坊目誌』によると、清水寺奥の院にある「音羽の滝」に発して南西に流れ、五条橋東六町目を経て馬町通(現・渋谷通)の北裏沿いを西に流れ、常磐町・鐘鋳町・芳野町・石垣町・袋町の町々の北側を流れて、本町一丁目の東側にある浄雲寺に行き当たると、ここから南に流れを変え本町三丁目と四丁目の境界の辺り(今の本町公園)から通称音羽川北通りを西に向かい鴨川に流入していたようです。

耳塚通
 『京町鑑』は、「此通北は大佛正面通より南は七條通迄」としている。
 耳塚通は大黒町通の正面から南をいうが、通り名の由来は正面通に耳塚が所在するため。

耳 塚

Photo_20210225175801
【註】耳塚は、豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した時(文禄・慶長の役)、討ち取った朝鮮人の耳や鼻を集めて、持ち帰りここに埋めたという。

塗師屋町通
 耳塚通は塗師屋町通ともいう

Photo_20210225180201
 『京都坊目誌』には、耳塚以南については耳塚通りの呼称のほかに、「正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」として、正面通から南つまり耳塚以南を塗師屋町通とも称したとしている。
 髹(きゅう)塗り、つまり漆塗りを業とする者が住んだことからこのように呼んだという。




2021年2月12日 (金)

我が国初の有料橋?「一文橋」

 かつて、京都の東寺口(南区)から乙訓郡の山崎を経て、摂津国(いまの大阪府北部と兵庫県の一部に当たる)の西宮へと抜ける街道(西国街道)がありました。
 その道筋には現在も往時の名残りを残すところがあり、以前にこの街道を辿って記事にしたことがありました。

Photo_20210105153501
 この旧街道で、向日市と長岡京市の境界を流れる小畑川に架けられた橋を「一門橋」という。
 この小畑川は、現在の国道9号に平行する旧「山陰街道」老ノ坂旧峠の首塚付近を源流とする川で、大山崎下植野に至って桂川に合流している。

 ところが、かつての小畑川はしばしば氾濫を起こしていたようで、平安期の歴史書『日本紀略』にも記録されているそうです。
 この小畑川氾濫が、長岡京をその造営後わずか11年で放棄して、平安京に遷された理由の一つとする見解もあるようです。

 さて、「一文橋」に話しは戻ります。
「一文橋の由来」を記した石碑」

Photo_20210105153301
 大雨になるとかつての小畑川は堤防が壊れ、橋が流されるほどのいわゆる「暴れ川」だったということです。
 京と西国とを結ぶ主要街道に架かる橋であるため、大雨が降るたびに橋の架け替え費用を賄うのは大変なことでした。
 そのため、橋のたもとに料金徴収所をもうけて、橋を渡る通行人から通行料として1文ずつ徴収することにしました。これが「一文橋」の名前の由来で、日本で初めての有料橋だったかも知れないというのです。

 なお、現在では町名で「一文橋一丁目・二丁目」もあります。




2021年1月29日 (金)

弁慶石のこと

Photo_20201227121901

 武蔵坊弁慶は幼少の頃、鬼若と命名されて三条京極界隈で過ごしたといわれる。そして、弁慶石は子供の頃の弁慶が心の底から愛でたと伝えられる石です。
 長じて比叡山の僧時代には修行をせず乱暴が過ぎたため追い出される。
 武術を好んだ弁慶は、京の都で千本の刀を奪うという大願を立て999本を得ます。残りの一本となったとき五条大橋で源義経に出会いますが、身軽で欄干を飛び交う義経の身軽さに勝てず、降参して義経の家来となるという話は有名です。
 これは、次のような童謡・文部省唱歌『牛若丸』の歌詞で私たちのよく知るところです。

🎵   京の五条の橋の上
  大の男の弁慶は
  長い薙刀振り上げて
  牛若めがけて斬りかかる

  牛若丸は飛びのいて
  持った扇を投げつけて
  来い来い来いと欄干の
  上へあがって手を叩く

  前や後ろや右左
  ここと思えばまたあちら
  燕のような早技に
  鬼の弁慶謝った

 義経・弁慶の主従は曲折を経てのち、奥州平泉の衣川の戦いでともに最期を遂げますが、弁慶の死後に弁慶石は京の都から高舘へ移されました。
 しかし、石が「三条京極に戻りたい」と大きな声を出し揺れ動いて、そのあと高舘で熱病が蔓延したので人々はこれは弁慶の祟りだと恐れて、享徳3年に三条京極に送り返しました。それ以来、この地を弁慶石町と称するようになったと云います。
 その後、弁慶石は誓願寺方丈の庭に移されたが、明治26年(1893)には弁慶石町の民家に引き取られ、昭和4年7月12日に三条通り沿いのこの場所(三条通麩屋町東入)に移されました。

 「この石をなでると、弁慶のように男の子は力持ちになる」と言い伝えられています。
 なお、弁慶石の生い立ちについては他にも、「弁慶が比叡山から投げた石」「衣川の合戦で立ち往生した弁慶がこの石になった」「鞍馬口にあった石が洪水で流れ着いた」などなど様々な説があるようです。



2020年7月24日 (金)

平安京(2) ーその規模と街路ー

 延暦13年(794)、桓武天皇によって都は長岡京から平安京に遷された。昔、受験期に遷都の年号を「鳴くよ(794)ウグイス平安京」と、語呂合わせで覚えたのを思い出します。
 ところで、その平安京の規模はどれほどのものだったのでしょうか。それは今で言えば、おおよそ東が今の寺町通から西は妙心寺・天神川・阪急西市京極駅を繋いだ辺りまで、南北は一条通から九条通までの範囲でした。


平安京復元模型   1/1000(京都市 平安京創生館)
 中央の広い街路が朱雀大路でその手前(南端)に羅城門、奥(北端)に朱雀門が見える。そして、羅城門の東側(右手)は東寺で、西側(左手)が西寺です。
 (写真をクリックすると拡大して見ることができます)


Photo_20200606151701

 10世紀前半の法令集で『延喜式』という文献があります。これは、律令のいわば施行細則集、現在の六法全書のようなもので、日本古代史研究の上で不可欠の文献とされています。

 『延喜式』の写本に「九条家本」があり、現存する諸本の中では最も古いものとされ、国宝に指定されている。
 この『延喜式』には、平安京が縦長の長方形で、大路と小路で碁盤の目状に区画されていたこと、それぞれの道路の幅なども記されています。
 全体の広さは東西が1,508丈(約4.5Km)、南北は1,751丈(約5.2Km)としています。

大極殿磧趾碑

Photo_20200305103501
 平安京北部の中央には天皇の住居である内裏があり、その周囲は政治や儀式のための諸施設がある大内裏でした。
 その大内裏の南面中央部の朱雀門から南に向けて延びるのが朱雀大路で、都はこの大路により東側の「左京」と西側の「右京」とに区分されていました。
 そして、朱雀大路の南端には、平安京の玄関である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

Photo_20200305103701
 『延喜式』の「京程」の項には、平安京の街路について次のように記しています。(「注記」は省略)

京 程
南北一千七百五十三丈 今勘千七百五十一丈
北際并次四大路、広各十丈
宮城南大路十七丈
次六大路各八丈
南極大路十二丈
羅城外二丈
路巾十丈
小路廿六、広各四丈
町卅八、各四十丈

東西一千五百八丈
自朱雀大路中央、至東極外畔七百五十四丈
朱雀大路半広十四丈
次一大路十丈
次一大路十二丈 
次二大路各八丈 
東極大路十丈
小路十二、各四丈
町十六、各四十丈
右京准此


 つまり、『延喜式』の「京程」に記載された東西に通る大路の名称としては「北際・宮城南・南極」の三本だけ、そして南北の大路は「朱雀・東極」の二本だけのようです。(「注記」として、後になって書き加えられたと見られるものに大宮、東洞院と西洞院がある) そして小路については名称の記載はありません。


 九条家本『延喜式』は「京程」の末尾には、附図として「左京図・内裏図・八省院図・豊楽院図・右京図」が掲載されています。
 そして、この附図の「左京図」には、東西路・南北路ともに大路と小路の名称が記載されている。しかし、「右京図」には南北路は大路・小路ともに名称が入っているが、東西路には大路名の記載はあるが小路名の記載は無い。

 このように、『延喜式』の「京程」本文と、「九条家本」に加えられている附図の間では、街路名称の有無や異同がありますが、これは何故なのでしょうか。

 大方の史家に共通した見方としては、次のようなことのようです。
 『延喜式』には、元々上記の九条家写本にある左京・右京図など附図の記載はなかった。
 九条家本『延喜式』は、のちの院政時代(1086〜1185年頃)に延喜式本文を書写したものであり、その後に書写した時に作製した図を加えたもの。つまり、成立年代が異なる延喜式本文と附図を合わせて構成したもので、所謂「取り合わせ本」であるということのようです。
 いずれにしても、九条家本『延喜式』の「左京」「右京図」は、現存する平安京図の中では最も古い時期のものだと見られています。

 ちなみに、平安京成立の当初からすべての大路に定まった名称があったということではなく、諸書に記されている街路名には異称が見られます。また、一条から九条までの数詞のつく大路名以外の街路には固定した名称はなかったようで、平安京に暮らす人々の便宜上あるいは生活上の必要から、大路小路の名称が生じたものと思われます。そして、それらの名称は長い年月を経る中で固定・定着していったということのようです。




2020年7月10日 (金)

平安京(1) ー山背国から山城国にー

 新しい都が設けられた「やましろの国」を、政治の中心である大和国の平城京から見たとき、現在の奈良県と京都府境界の丘陵にある奈良山(平城山とも)の背後、つまり北側にあります。
 このため「背」の字を採って「山背(やましろ)国」としたとされますが、「山代(やましろ)」国」の字を当てたこともあります。

 延暦13(794)年10月22日、桓武天皇は「遷都の詔」を出して長岡京から平安京へ都を遷します。そして、11月に国名を山城国(やましろのくに)、都の名を平安京と改めました

国境に残る石標
 この石標は山城国と摂津国との境界に立つ石碑で、「これより東 山城国」とある。(大和国との境界ではありません)

Photo_20200702120801
 遷都の詔
「此國山河襟帯 自然作城 因斯形勝 可制新號 宜改山背國 為山城國 叉子来之民 謳歌之輩 異口同辞 號平安京」
(此の国は山河襟帯し、自然に城を為す。斯の形勝により、新号を制すべし。宜しく山背国を改めて、山城国と為すべし。子来の民、謳歌の輩、異口同辞に、平安京と号す。)

 「詔」を判りやすい文に直すと、次のようになるのでしょうか。

 「この国は山河に取り囲まれて、自然の城の作りになっている。このような地に因んで、新しい国名を制定しよう。《山背国》の名を《山城国》と改めるのがよい。子が親のもとに集まって来るように徳の高い君主のもとに喜んで集まって来る民衆や、声をそろえて喜び歌う人々が、異口同音に大声で平安の京(みやこ)と叫んでいる」
 そして、翌年正月16日の宮中の祝宴のときには、踏歌で新しい平安京を誉め讃え、褒め歌が読み上げられる間、多くの臣下が「新京楽、平安楽土、万年春」「新年楽、平安楽土、万年春」と、囃し立てたという。
 註:踏歌=足で地を踏み鳴らし、調子をとって祝い歌を歌うこと。

 京都盆地は西山・東山・北山に囲まれ、北山から流れる賀茂川と高野川が合流した鴨川は南方で西に流れ、桂川に合流してさらに宇治川・木津川に合流しています。
 このように、市街地を取り囲んんだ三方の山と、南方では川に画された地形は、まさに桓武天皇の詔にある「山河襟帯」の土地となっているのです。近世の地図では、こうした地形状況を俯瞰的な視点で絵画的に描いています。

元禄九年京都大絵図(国際日本文化研究センター蔵)

000224022_o
 壬申の乱(672)以来、天智の皇統と天武の皇統との間で権力抗争が繰り返され、桓武天皇(天智天皇の曽孫)は天武系の奈良の都(平城京)に替えて天智系の都を造ろうとしました。しかし、長岡京への遷都の途中で桓武の腹心藤原種継が暗殺されるという事件が起こりました。
 そして、この事件に連座したとの疑いをかけられた桓武の弟の早良親王は、配流される途中に飲食を絶って自ら命を絶ちます。この無惨な死により、桓武天皇の周辺には早良親王の怨霊の影が色濃くまとわりつくことになる。
 このような暗い影を払拭することを願って、平安の京(みやこ)への遷都にあたっては、中国古代の思想「四神相応」や、風水説・陰陽五行説にかなう最高の場所と見定めて、選んだのが京都盆地だったようです。

 

2020年4月24日 (金)

戊辰戦争と新選組

 戊辰戦争(戊辰の役とも)は、戊辰の年(慶応4年)に武家政権最後の江戸幕府の時代が、明治時代となった時期に1年半にわたって戦われた内戦です。
 慶応3年(1867)10月14日に大政奉還され、同12月9日には薩摩・長州と倒幕派公家が王政復古のクーデターをおこして新政府を樹立しました。
 将軍徳川慶喜は、京都守護職を解任された松平容保(会津藩主)、同じく京都所司代松平定敬とともに二条城から大坂城に退去しました。

 翌明治元年(1868)正月3日、京都南部の鳥羽で新政府軍と旧幕府軍の間で砲撃の戦端が開かれ、鳥羽の砲声を合図のようにして伏見でも市街戦が始まった。この鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の発端となったのです。
 はじめ、両軍は一進一退で拮抗していたが、翌4日、朝廷は薩長軍を官軍と認定したため、旧幕府軍は朝敵とされたことで動揺が広がり、諸藩は次々と幕府側から離れて薩長軍側につきました。

戊辰役東軍西軍激戦之址(伏見区納所下野)

Jpg_20200424114001

戊辰戦争戦死者慰霊碑
 碑文には次のようなくだりがある。「それぞれが正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により 或る者は官軍となり 或るは幕軍となって 士道に殉じたので有ります」

Photo_20200424114701

 こうなると、それまで京都守護職のもと「会津藩預かり」で幕府の非正規の警察組織として、幕府を転覆させようとする洛中の尊王攘夷派の志士を不逞浪士として厳しく弾圧していた新選組は厄介者扱いをされることになります。それでも幕府の武士として戦う道を選び、会津藩兵とともに旧伏見奉行所に立てこもりました。

伏見奉行所跡(伏見区西奉行町)

Photo_20200424115901

 しかし、御香宮に陣を敷いた薩摩・長州の新政府軍の猛砲撃を受けます。この時の戦闘では伏見の市街地南部のかなりが焼失しています。

料亭「魚三楼」に残る弾痕(伏見区京町三町目)

Photo_20200424120201

 旧幕府軍・新選組は、新政府軍との戦いで兵力で薩摩長州軍を圧倒するものの、銃火器で劣ったため惨敗します。

 そして正月6日には、徳川慶喜は自軍を見捨てて松平容保などとともに大坂を脱出、さっさと江戸に帰って江戸城に入り新政府に対して恭順の意を表ます。

 以後、旧幕府軍・新選組は甲州勝沼の戦いで負流(新撰組解体)、江戸城を無血開城し、宇都宮の戦いで負け、幕臣の結成した彰義隊による上野の戦いで負ける。奥羽越列藩同盟を結成するも長岡・会津・仙台・庄内の各藩が敗北して瓦解する。
 そして、旧幕府軍最後の砦となったのが函館の五稜郭で、抗戦派の旧幕臣や土方歳三など新選組を引き連れた榎本武揚の軍でした。しかし、明治2年(1869)4月には新政府軍の猛攻撃の前に敗れて、1年半にわたる戊辰戦争は終決しました。
 新撰組副長の土方歳三は戦死、幕府海軍指揮官の榎本武揚は降伏。新撰組局長の近藤勇はそれより以前の下総流山の戦いで敗北、投降して斬首されている。

 幕府に仕えていた官軍の旧幕府軍は戊辰戦争に敗れて朝敵・賊軍となり、新政府軍がとって代わり官軍となりました。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われる所以です。いつの時代でも、常に正義が勝利するのではなく、道理とは関係なく強いものが勝つのであって、勝者が正義となるのです。



より以前の記事一覧