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道標・史跡などの石碑

2024年1月26日 (金)

北野廃寺と古代の嵯峨野

北野廃寺跡の碑

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 『日本書紀』などの文献史料によると、5世紀後半の頃から葛野(現在の嵯峨野一帯)で生活していた人々として、朝鮮半島南部から渡来した氏族の一つである葛野秦氏が挙げられます。
 嵯峨野には嵯峨野古墳群と総称される多くの古墳群があり、嵯峨野独特の景観を形作っています。その中で、6世紀の初めから末までに築かれたと見られている太秦支群といわれる古墳群で、前方後円墳の5基(段ノ山・天塚・清水山・片平大塚・蛇塚)、これらはその所在地からいって秦氏の墳墓とみられています。
 秦氏は豊かな経済力と、土木(治水灌漑や田畑造成)・農耕・養蚕・機織などで優れた技術を持っていました。秦氏は、大堰川に「葛野大堰」と呼ばれる堰をつくり、平安京以前には未開拓地であった嵯峨野の地域で灌漑施設を造り農業をひろめました。

 ちなみに、秦氏の氏の名は「ハダ」(今では「ハタ」)といい、秦氏の族長の称号が「ウツマサ」(今では「ウズマサ」)で、「太秦」という字をあてています。この「太秦(うずまさ)」が地名の由来となっています。

 そして、秦氏は7世紀前半の飛鳥時代になると、人々の信仰の場である神社や寺も多く建立しています。全盛期の秦氏を代表する族長は秦河勝という人でした。その秦氏が関わった著名な寺の一つに、京都市右京区太秦蜂岡町に所在する広隆寺があります。
 『日本書紀』の推古11年(603)のくだりに、秦河勝は仕えていた聖徳太子から尊い仏像一体を授けられて、これを安置するために「蜂岡寺」を造ったとあります。
 この蜂岡寺が現在の広隆寺の前身となる寺院だとするのが有力な考え方のようです。
 ちなみに、国宝第一号に指定された広隆寺の木造弥勒半跏思惟像は飛鳥時代のもので特に有名です。この仏像の写真は教科書をはじめよく目にします。

 ところが、承和3年(836)の『広隆寺縁起』によると、この蜂岡寺が建てられたのは今の広隆寺がある太秦蜂岡町(当時の「五條荒蒔里」)ではなく、平野神社から北野白梅町にかけての辺り(当時の「九條河原里」と「九條荒見社里」)だったとしていて、この九條の寺領が狭かったために現在の広隆寺所在地に移転したと記録しているようです。

 昭和11年(1936 年)、この平野神社から北野白梅町にかけての一帯で行われた電車の敷設工事にともなって大量に出土した古瓦などの遺物が、飛鳥時代の寺院のものであったことから、ここに京都市内では最古となる寺院群が存在したことが明らかとなりました。
 そして、この発掘調査で「鵤室」「秦立」と墨書された土器が出土していることや文献史料の記述から、ここに存在した寺院は聖徳太子と繋がりのある秦氏が創建に関わったと考えられるそうです。
 この寺院跡遺跡では寺院の名称が明らかとならなかったため、発見された場所の地名から「北野廃寺」と命名されました。

 この北野廃寺は、『日本書紀』に書かれた「葛野秦寺(かどのはたでら)」に相当するのではないかとも考えられています。
 さらに、「野寺」と墨書された平安時代の土師器が出土していることから、『日本後紀』に記載のある「野寺」ではないかとも考えられています。「野寺」は『諸寺略記』によれば「常住寺」とも呼ばれていることから、南都の七大寺に並ぶ寺格を有していたことが分かるそうです。



2023年10月20日 (金)

淀・淀城そして淀川

 京都の北郊から嵐山を経て流れる桂川、三重と奈良を主な水源とする木津川、そして琵琶湖を水源とする宇治川、これら三つの川の合流点であり、またかつて存在した山城盆地中央の南部を占めた広大な巨椋池の下流である「淀」が淀川の起点でした。(現在では三川の合流する京都府と大阪府の境界付近が淀川の起点となっています)
 もっとも、この巨椋池は太平洋戦争の前に食糧増産のため干拓されて水田地帯に変わってしまいましたが、それまでは周囲が約16㎞で面積は8平方㎞もある京都府下の淡水湖では最大の面積でした。

与杼神社の石標
 元の鎮座地は桂川右岸(西岸)の西淀ともいわれた水垂でしたが、明治の淀川改修のため現在地の淀城址に移されました。
 「淀」は古い文献では「與杼」「與等」「與渡」とも記されましたが、平安期以降になって「淀」の文字が使われるようになったようです。

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 平安時代から中世までの巨椋池は、淀川の水量調節機能をも果たす遊水池でした。そして、その西端には淀津が、東岸には宇治津や岡屋津などが設けられていて、近江・大和・丹波・摂津・河内の諸国に通じる水上交通の要所となっていました。
 淀津は諸国からの貢納物がこの「淀」に陸揚げされて、陸路を京の都へ運搬される外港だったのです。陸揚げされた貨物を納めておく倉庫のあったところが「納所(のうそ)」で、これが地名の由来となっています。

 このように、「淀」の地は水運の要所でしたが、一方、山城盆地および摂津・河内平野を抑えるうえで軍事的な要衝地でもあったのです。京都の護りを固めるためにも、また京都を目指して攻め上るうえでもこの地は重要な根拠地とされたのです。

 ところが、近世初めの文禄3年(1598)に豊臣秀吉が伏見山(木幡山)に伏見城を築造したとき、宇治川の流路を巨椋池の東側から北側へと迂回させて、巨椋池西端にあたる納所の西方で桂川と合流するように改修しました。つまり、納所は宇治川と桂川が合流する三角州に位置することになり、そのやや下流で木津川が合流していたのです。
 往時は桂川・宇治川・木津川が合流する一帯の低湿地(現在の桂川右岸で水垂・大下津の一帯は西淀ともいわれた)を「淀」と呼んでいたのです。
 ちなみに、この「淀」の地名由来には二説あるようです。一つは3本の川が寄り合う土地で「よりと(寄処・寄門)」からきているとする説、もう一つがそこを流れる川水が淀んでいる土地とする説です。


淀城本丸付近の石垣

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二つの淀城

 いま、伏見区淀本町に残る城址、これは近世に築城された淀城(新淀城)の跡なのです。しかし、それ以前に中世以来の淀城(旧淀城)が宇治川の北側の納所にあったのです。
 この納所の淀城は天正15年(1587)豊臣秀吉が修築して、側室(幼名は茶々)を住まわせ「淀の者」「淀の女房」と呼ばれ、のちに「淀君」とも呼ばれたことで地名の「淀」は有名になりました。
 この淀城で淀君が鶴松を産んで間もなく共に大阪城に移り、文禄3年(1594)には伏見城が建設されたため、淀城の機能は伏見城に移されました。
 こうして、納所の旧淀城は廃されて、伏見城も関ヶ原の戦いのあと徳川家康によって破却されてしまいます。
 今では旧淀城の城址は全く残っていないため、城の規模・構造・位置いずれも明らかではないのですが、「納所」にあったのは確実だとみられます。
 なぜなら、納所に残る地名の「北城堀」と「南城堀」は旧淀城の堀跡であることを示すと考えられ、「薬師堂」は淀城鎮護のため創建された堂宇の跡と伝承されています。

 それではいま、淀本町に城址の残る新淀城はいつ誰によって築城されたのか。
 豊臣が滅亡して徳川幕府が伏見城を廃城したあと、二代将軍秀忠は京都守護のために松平定綱に入部と新淀城の築城を命じました。こうして、松平定綱は納所の南側を流れる宇治川対岸の淀島に新淀城を築造しましたが、天守など多くの建物は伏見城や二条城から移築して新淀城を完成させたのです。



2023年6月 2日 (金)

高 瀬 川

 高瀬川沿いの木屋町通では、三条から四条辺りにかけての一帯が京都でも主だった繁華街の一つになっている。透き通ったきれいな水が浅瀬を流れていて、京都らしい雰囲気をたたえた観光スポットになっています。
 『京都坊目誌』には、「文化文政以来鴨川に沿ひて酒楼旗亭を設け、遊宴娯楽の場と為る」とありますが、現在もなお京都で有数の飲食店街です。
 高瀬川は、鴨川の二条大橋西畔から水を取り入れて南流、南区東九条で鴨川を東岸に渡って再び南下、伏見の市街地西部を流れて宇治川に合流しています。
 そして、その宇治川は京都府と大阪府の境界辺りで桂川・木津川と合流し、淀川となって大阪湾に流入しています。

 高瀬川は方広寺大仏再建の資材を運搬するため、角倉了以・素庵親子が開鑿したものではじめは伏見から五条まで通じたが、のちに私費で二条まで延長したのです。慶長16年(1611)に竣工したともいわれますが、諸説があって明らかではないようです。
 支配者が豊臣から徳川に替わって政治の中心が伏見城から二条城に移ると、大坂から伏見に運ばれて陸上げされた物資を京の中心まで運ぶ手段は、竹田街道・鳥羽街道の陸路以外にはありませんでした。そこで、物資を舟運輸送するために開削された運河が高瀬川なのです。
 最盛時には248隻の舟が就航したといわれています。この舟運は大正9年(1920)まで使われていました。

物資を輸送する高瀬舟
 5・6隻を繋いで一組とした舟の列を、15〜16人の曳き子が「ホーイ、ホーイ」と掛け声をかけながら、柳の下の岸づたいに綱で引いてのぼったという。(画像が小さくて見づらいですが、絵をクリックすると拡大できます)

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 角倉家は高瀬川の支配と物資輸送を独占して、大坂・伏見の物資は高瀬川を経て京の中心地に輸送されました。使われた舟は舷側が高く、浅い水深に合わせて船底が平らな喫水の浅い高瀬舟で、高瀬川の名前の由来とされる。

史跡 高瀬川一之舟入碑
 背後に見える復元された高瀬舟の左手奥に、「一之舟入」があるが今では金属の柵で川と隔てられている。
 舟入は高瀬川の右岸から西に向けて、奥行き約85m・幅約10mの堀割になっていたが、今ではその周辺にまで人家が立ったため狭まっている。

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 かつて、高瀬川の川筋には物資の積み下ろしや、舟の方向転換のために9ヶ所の舟入が設けられていたようです。しかし、今では史跡に指定された「一之舟入」を除いては、全て埋め立てられてしまい無くなっています。

 おしまいに高瀬川沿いの道、木屋町通について
 高瀬舟で輸送された物資の主なものは、住民の日常生活に必要な材木・薪炭をはじめ米・塩などで、高瀬川沿岸にはそれらを商う商家や倉庫が軒を並べ、商人や職人たちが同業者町を作っていました。その名残として、樵木町・材木町などとともに船頭町・車屋町など多くの町名として残っています。
 このように川沿いの道には材木屋や薪炭・薪屋が多かったことから樵木町(こりきちょう)と称されたが、いまでは通称にしたがって木屋町通となっている。
 この木屋町通は高瀬川沿いに町並みができていったもので、初めは極めて狭い道のきわに店舗・倉庫があったが、後の明治28年ここに電気鉄道を通すことになり、これらが撤廃されて拡幅のうえ道路としました。さらに、明治43年には軌道敷き拡幅のため高瀬川畔にあった柳などの風致木を伐採して、1mほどを埋め立て今のような規模の道になったようです。





2023年2月10日 (金)

大変珍しい灯籠

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 前回、記事にしたと釈迦三尊石仏と同じく、善道寺にあります。
 善道寺型灯籠は中国風山門内の右手にあって、江戸時代の作とされる。
 火袋の周囲には、茶碗、炭斗(すみとり)、火鉢、火著、茶釜、柄杓、五徳が刻まれている珍しい灯籠で、善導寺型灯籠と称されています。茶人が珍重し、摸して愛玩する者が多かったという灯籠です。
「善導寺型燈籠」と称される灯籠の本科(原品)であり写しではありません。宝珠・笠・中台などは全体的に膨らみと厚みがある。
 ところが、残念なことには現在ではその浮き彫りの彫刻は甚だしく風化してしまっているため、はっきりとは見ることが出来ません。



2023年1月27日 (金)

善導寺の三尊石仏

 善道寺は木屋町通の北端にあたる東生洲町、二条通に南面してあります。
 宇治の黄檗山大本山萬福寺や、伏見の石峰寺(伊藤若冲ゆかりのお寺)・鞍馬口の閑臥庵、長崎の崇福寺など黄檗宗寺院の楼門は竜宮造(竜宮門)になっています。
 ところが、この善道寺は浄土宗知恩院派の寺院なのですが、その山門は珍しく中国風です。

善導寺の山門

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 本堂に向かって左手の前庭一隅に「三尊石仏」はあります。高さは1m足らずの自然石(砂岩)で、扁平にした前面に三尊を半肉彫にした立体感のある石仏です。
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 三尊のうち中央の大きい一尊は釈迦如来立像で、インドから中国に伝え、中国から日本に伝わってきた、いわゆる三国伝来の釈迦像として信仰されてきた嵯峨清凉寺本尊の釈迦如来立像(国宝)を模している。
 釈迦如来像は右手を上げ、左手を下げた与願印(施願印・施与印とも)で、衣文(えもん)は流れるように美しい襞の流水文衣文(りゅうすいぶんえもん)となっている。

 右の脇侍、普通は普賢菩薩像ですがこの石仏は弥勒菩薩像と思われ、中央の釈迦如来立像と同じような姿勢をとっている。このように脇侍として弥勒仏を配するのは珍しい例だという。
 左の脇侍は五髻(ごきつ)文殊菩薩像で、頭は五つの円いマゲを結び、右手に宝剣、左手には梵篋(経典の入った小箱)を持っている。

 石仏の右端部分には、鎌倉時代中期にあたる「弘安元年」(1278年)の刻銘があり、半肉彫に彫られた石仏は厚肉彫とはまた違った趣があって、全体に稚気のある可憐な像で、絵画的な華麗さを出すのに成功していると評される。




2022年12月30日 (金)

誓願寺の六地蔵石幢

 新京極通六角に、誓願寺という浄土宗西山深草派総本山の寺院があります。
 清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことから、女人往生の寺として名高い。
また、このお寺は芸道上達のお寺としても広く信仰を集めています。  
 
 今年の夏、この誓願寺へ山脇東洋(江戸時代中期の医学者)の墓を訪ねて行きました。
 この時、誓願寺墓地の入り口を入ってすぐ近く、覆屋の中に傷んで破損した石塔があるのに気がつきました。説明書きによると「六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)」と称されるものです。
 石幢というのは鎌倉時代の頃から造られていたようで、単制石幢と重制石幢の2種類があるそうで、誓願寺のものは重制石幢です。
 重制石幢は通常、宝珠・笠・塔身(龕部)・中台・竿・基礎の六つの部分からなっていて、一見したところは石灯籠風の石塔で、笠の下の龕部(がんぶ)に六地蔵を彫ったものが多いようです。

 この誓願寺の六地蔵石幢は、、誓願寺墓地では最古の石仏だそうで、高さが約136センチで、石材を六角形に加工した六面体の石塔です。
 その六角形の幢身の各面には、浅く光背が彫られ、蓮華(れんげ)座に立った、像高約36センチの地蔵菩薩立像が肉厚に浮き彫りされています。地蔵菩薩は六角形のそれぞれの面に刻まれてているのですが、そのうち1体は欠損しています。

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 ところが、惜しいことにはこの石幢は完全な形ではなく、幢身(どうしん)部分だけが残されていて、龕部の上部にあったとみられる笠や宝珠は失われてしまってありません。
 この幢身頂部には龕穴(がんけつ)が開いており、ここには経典が納められていたようで、その上に笠石を載せて閉じられていたと考えられます。

〈 幢身の左上部が欠損している 〉
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 錫杖(しゃくじょう)を持った地蔵菩薩の下部には、次のように願文が刻まれています。
「一結衆并無縁六親/右意趣者為/眷属乃至法界平等利益故也/永享11年11月24日敬白」とあることから、室町時代の初期にあたる永享11年(1439)に造られたことがわかります。




2022年9月 2日 (金)

人体解剖の先駆者 山脇東洋

 山脇東洋は江戸時代の医者です。
 宝暦4年に京都所司代(江戸幕府の一部署)の許可を得て、斬首刑に処された六角獄舎の囚人屈嘉の遺体で、日本で初めての人体解剖をおこない、人体内部の構造を直接観察した。
 そして、解剖記録『蔵志』(二巻)を著し、日本近代医学の芽生えとなり、杉田玄白、前野良沢なども山脇東洋の影響を受けている。
 六角獄舎跡の現在はマンション敷地の一部となっており、「山脇東洋観臓之地」「近代医学発祥之地」の碑などが建てられている。

「山脇東洋観臓之地」記念碑

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 六角獄舎跡の碑文は次のように刻まれています。

近代医学のあけぼの 観臓の記念に
1754年 宝暦4年閏2月7日に山脇東洋(名は尚徳 1705ー1762)は所司代の官許をえて この地で日本最初の人体解屍観臓をおこなった
江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった
この記録は5年後に『蔵志』としてまとめられた
これが実証的な科学精神を医学にとり入れた成果のはじめで 日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった東洋のこの偉業をたたえるとともに観臓された屈嘉の霊をなぐさめるためここに碑をたてて記念とする
1976年3月7日
日本医師会、日本医史学会、日本解剖学会、京都府医師会

 六角獄舎の前身は平安時代に左京に設けられた左獄(東獄)で、幾度かの移転を経て六角通神泉苑西入南側(因幡町)に移っていました。
 元治元年(1864)に起きた禁門の変(蛤御門の変)による火災の折、多くの尊皇攘夷派の志士たちが投獄されていた六角獄舎にも延焼の火が及びそうになった。
 その時、混乱に乗じて過激な志士たちが脱走するのを恐れて、まだ裁定が下っていなかった37人を斬罪に処した。明治になって円町で名前が朱書きされた瓦と共に白骨が見つかり、近くの竹林寺(下立売通西大路東入 行衛町455)に埋葬されて37人の墓がある。
 この時、池田屋事件で捕らえられていた古高俊太郎も処刑されている。


 かつて、当ブログで『六角獄舎そして山脇東洋と古高俊太郎』(2012.9.21)を書いたことがありましたが、最近、別の目的で誓願寺墓地に出かけた時、山脇家の墓を目にしました。

山脇東洋の墓

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 誓願寺の墓地は裏寺町通の北端にあり、墓地の入口には「山脇東洋解剖碑所在墓地」の石碑が建っている。墓地へ入るには、誓願寺の寺務所で許可書の交付を受けて、墓地管理人のもとに持参することが必要。
 また、誓願寺墓地には「山脇社中解剖供養碑」も建立され、山脇家代々が解剖を行った14名(うち女子4名)の戒名が刻まれている。




2022年8月 5日 (金)

道切り(ミチキリ)

 人々が生活の場としている領域に、悪霊、疫病神、災厄などが侵入してくるのを防ぐため、村の境界に設けられる「呪い(まじない)」を道切り(ミチキリ)と呼んでいる。
 道切りは村や部落で共同しておこなわれ、村境や村の入り口に注連縄(勧請吊り)を渡したり、お札を立てたりする。
 この注連に呪物として巨大な草鞋をぶらさげる風習があるが、この草鞋を履くほどの大きな荒神が居るから入ってくるなと云う脅しの意味だとされる。
 さらに、八手や南天の枝を下げたり、石を置いて人形を立てたりするところもある。つまり、道切りには悪霊・疫病や災厄の侵入を防ぎ止めるために諸々の呪いものを伴っている。

道祖神
南区の道祖神社社頭に鎮座
 悪霊を防いで道をゆく人々を守護する神に道祖神がある。これは、サヘノカミ(障の神・塞の神)とも道陸神とも呼ばれ、名前のとおり元々は防障・防塞の神で、外部から侵入してくる疫神や悪霊などを防ぐため、村境や峠・辻・橋のたもとなどの道端に祀られた。これはまた、旅の安全を守る神、生殖の神や縁結びの神ともされる。

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石敢當
 この石敢當は、かつて勧進橋の袂で竹田街道を通行する旅人を守護していたもので、常夜灯と石敢當が結合していて珍しい形。現在は元・陶化小学校の敷地にある。
 石敢當は中国伝来の災除けとして、道路の突き当たりに「石敢當」と刻んだ石柱を立てることが、沖縄諸島を中心に本土の鹿児島をはじめ九州南部・中国地方でも見られるが、これも道切りの一つと言える。

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 道祖神・石敢當の他にも各地で見られる呪いものには、地蔵尊・馬頭観音・庚申塔や二十三夜塔などの石塔・庚申塚などがある。

奈良県明日香村の稲渕と栢森に伝わる綱掛神事
 稲渕の男綱

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 この神事は、稲渕では飛鳥川に男綱と呼ばれる注連縄をかけて陽物(男根)を象ったものを下げ、その上流の柏森では女綱と呼ばれる注連縄に陰物(女陰)を象ったものを下げる。この注連縄は毎年1月11日に掛け替えられる。
 子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などがこの道と川を通って侵入してこないようにするために行われる。
 なお、この神事は稲渕では神式で、栢森では仏式で行われる。

 道切りは元々、災厄が降りかかったときに疫神送りをおこない、その後にすることが多かったようだが、現在では村の行事として定期的に行っているところが多い。




2022年7月22日 (金)

奔放な女流歌人 ー和泉式部ー

 和泉式部は平安時代中期の女流歌人で、勅撰和歌集に収録された歌は246首にもおよぶ。才色兼備の閨秀歌人で、その奔放にして情熱的な歌いっぷりは有名です。
 中古三十六歌仙の一人とされ、女流歌人では清少納言や紫式部なども入っている。
 
世の中に 戀てふ色は なけれども 深く身にしむ ものにぞありける
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな
 これらは『後拾遺和歌集』に収録され、百人一首にも選ばれている歌ですが、まさに艶歌(つやうた)ですね。

和泉式部塔(宝篋印塔)
 新京極通六角下ル東側に、和泉式部寺と俗称される誠心院(正式には華嶽山東北寺誠心院)という寺院がある。ここには古くから式部の墓といわれる宝篋印塔があって、塔身正面に阿弥陀三尊の梵字を刻している。
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 御堂関白藤原道長の娘で、一条天皇の母である上東門院彰子の勧めで建立された三昧堂東北院の内に和泉式部のために小堂を建立、式部の死後、法名の誠心院専意法尼に因んで誠心院としたのが起こりとされる。
 (*東北院=上東門院彰子の発願による三昧堂は、道長の建立した摂関政治期最大の寺院である法成寺の艮(東北)の角に位置したことで東北院と称された)
 東北院が廃絶したあと、誠心院は上京区一条小川の誓願寺のそばに再建されたが、天正年間には誓願寺の移転に伴って現在地に移っている。


 和泉式部は越前守大江雅致の娘で、はじめ和泉守橘道貞と結婚したことで和泉式部といわれた。しかし、生まれつき放蕩であったことから離婚する。ちなみに、道貞との間に生まれた娘の小式部も母譲りの和歌の才能があった。
 まだ道貞の妻であった時、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王と恋愛関係になり、世間にその仲を言いはやされる。しかし、親王が亡くなるとその弟である敦道親王と密通し、親王が式部を屋敷に迎え入れようとしたために敦道親王夫人は家出。式部もまた道貞との夫婦生活が破綻して離婚、父の雅致からも勘当される。
 『和泉式部日記』は、この敦道親王との2年間にわたる恋の記録で、わが国の女流文学を代表する一つとしてよく知られている。
 敦道親王の死後、式部は上東門院彰子に仕えるが、まもなく彰子の父の家臣である藤原保昌に再嫁する。そして、保昌が丹後守に任ぜられたため共に丹後にくだる。しかし、晩年の消息については明らかでない。

和泉式部の歌碑
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 「霞たつ 春きにけりと 此花を 見るにぞ鳥の 声も待たるる」
 本堂脇にある碑の傍に、式部が生前愛でた「軒端の梅」にちなんで梅が植えられいた。この歌にある「此花」は梅を指していて、『都名所圖會』には「泉式部塚」のかたわらに彼女が生前に愛した「軒端(のきば)の梅」が描かれている。




2022年7月 8日 (金)

行願寺(革堂)

 行願寺は、中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町にあります。もともとは、平安時代の寛弘元年(1004)に一条小川の北、一条北辺堂跡に僧行円によって創建されたことから一条北辺堂とも称されたとか。
 幾たびもの戦乱や火災によって焼けるが、豊臣秀吉の京都改造により今の寺町通荒神口のあたりに移り、宝永の大火(宝永5年)で類焼したことで現在地に移転しています。

 行円の生没年は不詳ですが、一説に鎮西(九州)の人と言い、また比叡山の横川(よかわ)出身の聖とも言われる。
 ある時、山中で身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿から子鹿が生まれ出るのを見て、殺生の非を悟って仏門に入ったといわれる。
 藤原道長(御堂関白)の三男の藤原顕信は、寛弘9年(1012年)に行円の教えに感銘を受けて剃髪出家したとされる。

 行円上人は夢の中で神のお告げにより、賀茂神社にある槻(けやき)の木を得て八尺の千手観世音菩薩を彫り、これを一条の小川辺に本尊として安置して行願寺と名付けた。この旧地には、革堂町・革堂仲之町・革堂西町などの町名として残っています。

 行円は頭に仏像を戴き、身には鹿皮の衣を着けていたため、人々は皮聖(かわのひじり)とも皮上人とも呼び、寺は革堂(こうどう)と呼ばれた。

加茂明神石塔
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五輪塔水輪の中に祀られた不動明王石仏

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 境内の西北隅に五輪塔の「加茂明神石塔」が立つ。高さ約3メートルで花崗岩製。
 行円が加茂明神の夢告により、加茂社の槻の木で本尊の千手観音像を刻んだとき、報恩のために加茂神を勧請し、この塔を造立して祀ったという。しかし、塔の造刻年代は平安時代ではなく鎌倉時代のものとされる。
 塔の水輪に方形の穴を穿って、不動明王石仏が安置されているが、これは当初からのものではない。
 笠石(火輪)の軒裏に一重の垂木型作り出しがあるのは珍しいものといわれる。高さ3m、花崗岩製。




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