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道標・史跡などの石碑

2018年1月12日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の2

Ⅱ. 「大原口」から「若狭街道」を行く

 「大原口」(「今出川口」「龍牙口」「出町口」とも)は、寺町通今出川の北「出町」、いま賀茂川(鴨川)に架かる出町橋の西詰め辺りにあったようです。
 賀茂川と高野川が合流する出町から高野川左岸を北上して、八瀬・大原を経て若狭・北国につながっているのが「若狭街道(朽木越え)」です。
 この道は、大原への経路であることから「大原路」とも称された。

《大原口道標》

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 ちなみに、この「大原口」は、若狭だけではなく諸方面との出入り口となっていました。そのことを、『山城名跡巡行志』は次のように記しています。

「此口 正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村ニ至 又河中ヨリ北ヘ折上リ下賀茂ニ至 亦賀茂河ヲ渡リ堤ヲ南へ行路三條通ノ橋へ出ヅ  亦北ヘ川端ヲ行路新田山端ヲ經テ高野ニ至ル若州街道也  亦河ヨリ一町餘ニ北へ上ル路アリ田中村ヲ經テ一乗寺村ニ至ル是比叡山雲母路也  亦百萬遍ノ東ニ吉田路アリ岡崎ニ至  白河村ニテ左右ニ小路アリ南ハ淨土寺又近衞坂ニ至リ北ハ一乗寺ニ至ル  叉出町ノ北端ヲ河原へ出ル假橋アリ下賀茂路也 亦同所堤ヲ上ヘ行大道上鴨道也」

 それでは、「大原口」が起点となっている「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 それらの《経路》はどれも、「大原口」から高野川東岸沿いに北上、新田(現・高野)、山端、上高野、八瀬、大原小出石、途中峠(山城と近江の国境)、その先の途中越え(龍華越え・橡生越えとも)に至るまでは同じですが、その先で分岐しています。

《大原路と道標》

 道標の左手を行く道は旧道で、寂光院の傍を経て古知谷で新道と合流し、途中越えへと続く。
 右手の新道を行けば、三千院前を経て途中へと続く。

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1. 琵琶湖から九里半越えを行くルート
 このルートは『稚狭考』に言う「湖畔の道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、伊香立龍華を経て琵琶湖の和邇へ下り、湖岸の「西近江路」を北上して今津へ、今津から九里半越え(九里半街道)で、保坂、水坂峠(近江と若狭の国境)、熊川宿、上中を経て小浜に至る。
 「龍華越え」は古い歴史を持つ道で、はるか昔には京での戦に敗れた人々が都から近江・北国へと落ち延びる退路ともなっていたようです。
 京から志賀越え(山中越え・今道越えとも)で琵琶湖に出て、坂本(のちには大津)から琵琶湖西岸を若狭や敦賀など北国とをつなぐ街道が「西近江路」でした。 なお、今津と京都間は陸路の「西近江路」だけではなく、琵琶湖水運で坂本を経由する方途もあった。

2. 朽木越えのルート
 このルートは『稚狭考』の「朽木道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、花折峠、安曇川沿いに朽木谷を北上、保坂から九里半越え(九里半街道)で水坂峠(近江・若狭の国境)を経て、熊川宿、上中、小浜に至る。
 このルートは、主に若狭の海産物を京都へ運んだ街道で、前記の「1.  琵琶湖から九里半越えを行くルート」の距離を短縮したコース。鯖輸送のために最もよく利用されたことから、狭義の「鯖街道」と言えるでしょう。
 ところが、往時は大見尾根を経る山道が若狭街道の本道だったようです。この道については、次回の記事の「1.鞍馬を経由するルート」の「①  久多の東部から針畑越えを行くコース」をご覧ください。

3. 上記「朽木越えのルート」の間道 
①葛川梅ノ木から針畑越えに入るコース
 途中越えから先の《経路》は、葛川梅ノ木、安曇川に流入している針畑川を上流へ、久多川合から針畑川沿いに朽木小川へ、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来を経て、小浜遠敷に至る。
②朽木市場から木地山峠を越えるコース
 途中越えから先の《経路》は、朽木市場から麻生川沿いに上流へ、麻生、木地山を経て木地山峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。

2018年1月 5日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の1

I. 京と若狭をつなぐ道

 かつて、若狭の小浜は敦賀とともに、日本海の水運では重要港の一つであり、米や海産物などを京都へ輸送する拠点として繁栄したところでした。
 小浜では、「京は遠ても十八里」と言われ、物流、ことに魚介類の京都への流通ルートとなっていたのがいわゆる「鯖街道」でした。一方でこの「鯖街道」は、古の京都から若狭への文化伝播ルートでもあったのです。

 ところで、京都の北部山間部を抜けて若狭小浜とを結ぶルートとして、主要な街道がいくつかあります。さらに、それらの街道から分岐する脇道・間道も多数あります。一説にその数は17とも言われたようで、それらの道を総称して「若狭路」あるいは「鯖街道」と呼ばれました。

《鯖街道口道標》

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 板屋一助が、明和4年(1767)に著した『稚狭考(わかさこう)』で、鯖街道の数々について次のように記しています。

 「丹羽八原通に周山を經て鷹峰に出る道あり。其次八原へ出ずして澁谷より弓削・山國へ出て行道あり。叉遠敷より根來・久田・鞍馬へ出るもあり。此三路の中にも色々とわかるゝ道あり。朽木道、湖畔の道、すべて五つの道あり」

【註1】:板屋一助(1716ー1782、本名・津田元紀)は江戸時代中期の民間研究者で、小浜の材木商「板屋」の主人だったが、家業は弟に任せて上掲書をはじめ随筆や歌集などを著した。
【註2】:上記引用文中の地名は、丹羽八原通=現在の府道369号に相当し美山町知見・ハ原に至る(南丹市)、澁谷=染ヶ谷(福井県おおい郡名田庄)、弓削・山國=京北(右京区)、久田=久多(左京区)のことです。

 京と小浜を往来する若狭路は、その主要なルートのいずれもが、次のように「京七口」と言われる出入り口が起点となっています。
 1. 「大原口」を起点とする「若狭街道(朽木越え)」
 2. 「鞍馬口」を起点とする「鞍馬街道(丹波路)」
 3. 「長坂口」を起点とする「長坂越え(北丹波路)」
 そして、それら街道には抜け道・枝道も多くあったことは先に書いたとおりです。 
【註】:京七口は、かつての京と地方をつなぐ街道の出入口でした。この「七口」というのは、出入口が7ヶ所あったということではなく、出入口の総称したものでした。
 また、時代によりその数や場所・名称もかなり変化しており、一定していません。
 例えば、江戸時代前期の比較的近い時期に刊行された地誌書でも、記されている「京七口」には次のように異同が見られます。
 貞享元年(1684)刊『菟芸泥赴』では、大津口・宇治口・八幡口・山崎口・丹波口・北丹波口・龍牙口。
 元禄2年(1689)刊『京羽二重織留』は、東三條口・伏見口・鳥羽口・七條丹波口・長坂口・鞍馬口・大原口。
 ちなみに、江戸時代中期の宝暦4年(1754)刊『山城名跡巡行志』では以下のように記す。五條口、三條口、今出川口  一名大原口、出雲寺口  一名鞍馬口、蓮臺寺口  一名長坂口、七條口  一名丹波口、東寺口。

 それでは次回から3回にわたり、「鯖街道」についてその主要ルートだけではなく、多くの間道・脇道のなかでも主立ったものを幾つか取り上げ、『稚狭考』の記述とも照らし合わせながら見て行きます。

2016年6月24日 (金)

阿弖流為(アテルイ)のこと

 古代の大和朝廷から見ると、蝦夷地(東北地方)は、戦に必要な資源である馬や鉄、そして金などを産する魅力的な地域でした。朝廷の権力者は蝦夷地とその住民(蝦夷)を支配下に置くため、大和朝廷の時代からたびたび蝦夷討伐を行なってきましたが、奈良時代になると激しさを増します。
 延暦8年(789)、巣伏村(現・水沢市辺り)で征東将軍の紀古佐美の率いる朝廷軍と、阿弖流為(蝦夷の指導者で阿弖利為とも)の率いる蝦夷軍が戦い、朝廷軍が大敗するという「巣伏村の戦い」が起こりました。この戦は、朝廷の権威が傷ついたばかりでなく、蝦夷地支配の計画を根底から揺るがす重大な事件として、蝦夷征伐の機運がさらに激しさを増していきます。(『続日本紀』)


阿弖流為と母禮の顕彰碑(清水寺境内)
 清水寺の創建は宝亀9年(778)で、平安京建都の延暦13年(794)よりも前ということになります。

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 ところが、蝦夷の人々は言語や風俗が和人とは異なり、朝廷による度重なる侵略にも容易に服属しようとはせず、強く抵抗をつづけました。
 強大な朝廷軍を相手とした10年余りに及ぶ抵抗で蝦夷は疲弊します。そこで、蝦夷住民の安泰を望んだ阿弖流為と盟友の母禮(モレ)は、延暦21年(802)投降を選択して、朝廷の統治下に入ります。
 征東副使の坂上田村麻呂に伴われて、阿弖流為と母禮は都へと向かいます。
 田村麻呂は、二人(阿弖流為と母禮)の武勇と人物を惜しむとともに、支配下に収めた蝦夷地の経営には両名の協力を得る必要があるとして、胆沢へ還すように朝廷へ助命を進言したのですが聞き入れられません。
 そして、朝廷に抵抗した反乱軍の首謀者として河内國椙山(現・大阪府枚方市)で斬殺されました。(『日本紀略』)

阿弖流為と母禮の説明文
 (写真をクリックすると拡大して見られます)

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 《史書》は権力者・覇者によって書かれますから、常に正義は勝者にあって敗者は悪とされてしまいます。
 朝廷の側が版図を拡げるために蝦夷征伐の軍を派遣して侵略したのですが、侵略された側の蝦夷は朝廷に服属することを忌避して抵抗したのです。
 したがって、蝦夷の人々は朝廷に対して反乱を起こした反逆者ではなく、ましてや、都まで攻め上って行って戦ったのではないのです。
 ですから阿弖流為は、討たれるいわれの無い蝦夷の人々とその土地を守るため、侵略に抵抗して戦った英雄だったのです。
 そういう阿弖流為ですから、今までに歌舞伎・映画・テレビドラマ・アニメで、「北の英雄」として演じられ描かれてきました。近くは、明6月25日から「シネマ歌舞伎」として、市川染五郎主演の「歌舞伎NEXT 阿弖流為」が各地で上映されます。

2016年2月19日 (金)

辻子 ー瑞龍寺辻子ー

瑞龍寺辻子

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 古地図(慶応4年刊「改正京町御絵図細見大成」)を見ると、堀川通の西、今出川通と元誓願寺通の間を南北に瑞龍寺門前丁があります。瑞龍寺の門前に位置していることから、瑞龍寺辻子と称したものと思われます。
 これは、位置的には西陣織会館(堀川通今出川下ル西側の竪門前町)の西側あたりで、西船橋町・竪門前町・南門前町を通貫するかたちで南北に通っていたようですが、今では消滅しています。
 上の写真は近辺の小路ですが、瑞龍寺辻子が現存すればこのような佇まい雰囲気でしょうか。

 『山城名跡巡行志』に、「瑞龍寺 堀川一條の北に在り村雲御所と號す 宗旨法華の尼寺也 今二條家領と傳也 関白秀次公の母公瑞龍院尼公の草創也」と記しています。日蓮宗では唯一の門跡寺院だったということです。

 豊臣秀次は、秀吉の養子となり関白に任ぜられました。しかし、秀吉に実子の秀頼が誕生すると、高野山に追放されたうえ、切腹まで命ぜられました。何と惨いことに、妻子までもが三條川原で処刑されました。


村雲御所(瑞龍寺)跡碑

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 秀次の母(秀吉の姉にあたる)が秀次追善のために建立したのが瑞龍寺で、のちに徳川家の支援を受けて増築されます。皇室や摂関家からの入寺もあって、付近一帯を村雲と称した地であったことから、瑞龍寺を村雲御所と称したという。
 なお、瑞龍寺は後に移転して、現在では滋賀県近江八幡市の八幡山山頂にあります。

 『京町鑑』に、堀川通今出川下ル「村雲町 古此邊は村雲といへる地名也 故に町の小名とす」としています。


村雲町の仁丹町名表示板

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2015年3月27日 (金)

辻子 ー元誓願寺辻子と狩野辻子ー

 この二つの辻子は、いずれも元誓願寺通の新町と小川間にあります。そして、徳大寺殿町・元図子町、針屋町と靭屋町の境界を通貫している小路です。

元誓願寺辻子

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狩野辻子

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 ところがどう云うわけか、同一文献なのに記述個所により、これらの辻子は同一の辻子とも、別の辻子だとも記しているのです。これには戸惑ってしまいます。以下をご覧ください。

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 『京町鑑』の「元誓願寺通」の項には、「小川東入 元誓願寺辻子 又一名 狩野辻子とも云 」とし、「又 狩野辻子といふは 畫師狩野正信 男[息子の意]元信此所に居住の舊地なり」と記しています。
 つまり、「狩野辻子」は「元誓願寺辻子」の別名で、これらは一つの辻子だとしているのです。

 ところが、同じく『京町鑑』の「新町通」の項では、「此徳大寺町西側に西入所を 狩野辻子 此町に繪師狩野氏の屋しきあり」として、その少し後に「此狩野辻子の西町 元誓願寺辻子」としています。
 つまり、これらは東西に隣り合った全く別の辻子だと読めるのです。

 それはそうと、『京羽二重織留』では、「狩野家宅地」を「新町通徳大寺の町の西にあり 畫師狩野越前守元信が宅此所にあり 此故に町の名を今 狩野の辻子と云」としているのです。
 この記述は、狩野辻子については記すものの、元誓願寺辻子には触れていません。したがって、同一辻子の別称なのか、それとも別個の辻子なのか、判然としません


 なので、私としては敢えて、狩野辻子は元誓願寺通新町の徳大寺殿町から西方の狩野邸辺りまで、その西側部分は元誓願寺辻子であって、別個の辻子だと独り決めすることにしました。
 
「いやいやそうではないよ!」と仰る向きもおありでしょう。しかしまぁ余り硬いことは言わずに、独断を許してください。happy01
 そして、二つの辻子の境界は元図子町の中程(まだ記事にしていないのですが「常磐井辻子」の北端と元誓願所通が交わる地点辺り)としておきますが、さてどんなものでしょう。

ここが両辻子の境界と(私が)目する地点です

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追記:『京都坊目誌』の記述
「元辻子町 始め狩野辻子と云ふ 寶曆町鑑に元誓願寺ノ辻子とあり 維新の際今の名とす 弘治永祿の頃狩野法眼元信此地に住す」


 ついでながら、町名等の由来を少しばかり。
 「元誓願寺通」は『京町鏡』に「此通小川に昔誓願寺ありしゆへ通の名に呼來れり」とし、「誓願寺は元大和国奈良の京にありしを此京へ都を移し給ひし時 誓願寺もともにうつされしと也 然るに太閤秀吉公の時 今の京極六角の東へ引しと也」と記しています。
 「徳大寺殿町」は公家の徳大寺家邸宅があったことによる。
 「元図子町」は「元誓願寺辻子町」の略称。
 「針屋町」は豪商灰屋紹益の別宅があったことから、灰屋が針屋に転訛したともいわれる。
 「靭屋町(うつぼやちょう)」は、靭(矢を携帯するための矢筒)を作る靭師や職人が住んだことによるそうです。

2015年2月20日 (金)

《 四ツ辻の四ツ当り 》

 伏見区大坂町(現・大阪町)に東本願寺伏見別院があります。

 徳川家康の寄進を受けた寺域には蓮池があり、両葉双開の蓮の花が生えていたことから、蓮池御坊・二葉御坊の別称が生じたと云う。
 土地の人々の間では「御堂さん」の通称で通っています。(別院の北側にある町名は「御堂前町」)

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 伏見別院は、慶応4年(1868)正月3日に戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦が勃発した時、幕府軍会津藩の先鋒隊200名はこの伏見御堂を宿所としたが、同年3月には新政府の伏見市中取締役所となった。
 平成2年(1990)に老朽化のため取り壊されて小さな本堂に立て替えられたため、往時を偲ばせるものは山門・鐘楼・大銀杏が残るだけ。なお、創建当初の山門は東面していたが、明治18年(1885)に現在のように南面・縮小したものに立て替えられたという。

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 ところで、伏見別院の門前界隈は、東西南北いずれの方向から来ても、道が突き当たりとなる複雑な形をしています。土地の古老の間では「四ツ辻の四ツ当り(よつつじのよつあたり)」と呼ばれていたと云うことです。

 下図のように、北の御堂前町から南行してくると大阪町で突き当たり(A地点)、東の魚屋町から油掛通を西行してくると大阪町と上油掛町の境界となる地点で突き当たり(B地点)、南の本材木町から上油掛町を北行してくると魚屋町からの西行路(油掛通)に突き当たり(C地点)、西方の濠川に架かる阿波橋から油掛通(古称・阿波橋通)を東行して中油掛町・上油掛町へと進んで来ると大阪町で突き当たり(D地点)となっています。(下図はクリックすると拡大します)

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 これは、軍事上防御的な理由からこうした町割りと道路が造られたもので、城下町の特徴を示しているのだと見る向きもあるようです。 
 しかし、それならば伏見城下町でなぜ大阪町の一帯だけにこのような町割りが見られるのか、その理由の説明がつかないことから、城下町の遺構だと断定するには無理があるようです。
 南西諸島や南九州では、このような丁字路・三叉路など道路の突き当たりには「石敢當(いしがんとう)」を立てて、魔物の侵入を防ぐ魔除けとしているのですが、伏見大阪町の場合はこうしたこととは全く無縁です。(「石敢當」については、以前に当ブログの記事中で取り上げたことがあります)


「中油掛町」の仁丹町名表示板

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 上・中・下の3油掛町と油掛通の名称は、下油掛町にある西岸寺の油掛地蔵に由来しています。
 昔、山崎の油商人がこの寺の門前を通りかかったとき、転んで油を流してしまった。あわてて桶を見ると油はいくらも残っていない。暫くは呆然として立ちすくんでいたが、これも運命なのだろうと思った。
 しかし、このまま帰ってしまうと災厄に遭うかもしれないと考えた油商人は、残っていた油を石仏に灌(そそ)ぐことにより、気がかりな思いを振り払って帰った。その後、この油商人は日々に栄えて大福長者になったと云う。
 それ以来、油を懸けて祈願すると叶う霊験あらたかな地蔵尊(高さ約5尺の石像)として人々に親しまれ、西岸寺の山号(油掛山)となった。

2014年11月14日 (金)

室町御所跡と周辺の辻子

 足利尊氏が室町幕府を興したのは、建武5年(1338)のことで、御池通高倉付近にあった邸宅をその政所とした。
 しかし、その政権が安定したのは三代将軍足利義満のときで、義満は永和3年(1377)新しく室町御所(花の御所・室町殿とも)と云われる邸宅を造営し、ここに室町幕府を置きました。

室町第址(室町御所址)碑

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 室町御所の規模は、北は毘沙門堂大路(現・上立売通)、南は北小路(現・今出川通)、東は烏丸小路(現・烏丸通)、西は室町小路(現・室町通)ということで、東西が一町・南北は二町(約200m四方)あったと云う。
 その跡地は現在の町名で云うと、今出川町・築山南半町・築山北半町・岡松町・御所八幡町・裏築地町・上立売東町に当たるとか。これらの町名のうち、今出川町をのぞく全ての町名が室町御所に因んだものです。

 文明8年(1476)、近接する土倉・酒屋が放火されたために、花の御所も造営後約100年で炎上焼失してしまいます。
 (註)「土倉(どそう)」:高利貸し業者のことで、富裕な酒屋が兼業することが多かった。室町時代の徳政一揆では襲撃対象となり、借金証文の破棄をおこない、幕府に徳政令を出させることとなった。


大聖寺

 光厳天皇妃が出家して大聖院無相定円禅尼となったのを、足利義満が室町御所内の岡松殿に迎え、没後に遺言で岡松殿を寺とし、寺名を法名に因んで大聖寺とした。(元は隣接する岡松町に所在したと考えられる)
 尼五山の一で皇室に由来する寺院であるため、五本の定規筋が入った筋塀が最高位の寺格を表している。

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 この辺りも花の御所跡にあたり、境内に石碑「花乃御所」が建てられている。

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 元禄2年(1689)刊『京羽二重織留』に、「足利家代々宅地」として次のように簡潔に記しています。
 「傳云 室町通今出川の北 築山の町の邊なり 足利公方家代々此所に住給ふ 此故に世に室町殿と號す 古へ其結構美をつくし侍るとぞ 應永四年〈1397〉鹿苑院義満公 此亭を義持公にゆづり 北山鹿苑寺に隠居し給ふと 又康正三年〈1457〉慈照院義政公 此所に新館を修造したまひ花の亭と號す 其頃世に花の御所といへるは是なり 永祿八年〈1565〉乙丑六月十九日光源院義輝公 三好がために害せられたまひしより 此所館舎破壊して終に民家となれり」と。


 ところで、この室町御所の跡には聖護院辻子・清法院辻子があり、その周辺一帯には他にも数多くの辻子が存在しています。
 今後は、折々にそれらの辻子を採り上げてみたいと思っています。


2014年10月17日 (金)

通り名のいわれ ー醒ヶ井通ー

 現在の醒ケ井通は北端が錦小路通、南端は五条通までの通りです。しかし、昔は北端は一条通、南端は西九条辺りまであったようです。

 通り名の由来について、『京町鏡』には「此通五條下ル二丁目西側人家の間に名水あるゆへに號す 又錦小路より魚棚(現・六条)下ル所迄和泉殿突抜通といふは 北の行あたり藤堂和泉守殿やしき有ゆへ也」とあり、通り名の別称である和泉殿突抜の由来をも記しています。
 醒ヶ井通の北端にある堀川高等学校の校地が、かつての藤堂和泉守屋敷跡にあたるようです。
 なお、堀川通六条上ルに位置する「佐女牛井町」の町名由来も同様に「名水」に因むものです。

「左女牛井之跡」碑

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 通り名・町名の由来となった「名水」とは、現「佐女牛井町」の西側部分にあった「左女牛井(醒ケ井)」のことで、室町時代の茶人村田珠光がこの辺りに住み、足利義政の来臨があった時にこの左女牛井の水で茶を献じたと云う。その後たびたびの兵乱などでこの水を愛でる者は絶えていたが、織田信長の弟織田有楽斎が再興して再び茶の湯に用いたと云う。(『京羽二重織留』、前掲『京町鏡』から)
 余談ながら、四条通と醒ケ井通の交差点北東角にある和菓子屋店頭脇の石碑「醒ケ井」は、本来の左女牛井跡ではなく、菓子屋さんが自家用に掘削した井戸に付けた名前なのです。


佐女牛井町(仁丹町名表示板)
 この表示にある「醒ヶ井(通)」、今は現存していません。

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 先の『京町鏡』の記述で判るように、元々の「佐女牛井町」は醒ヶ井通を挟んだ両側町だったのです。しかし、太平洋戦争中に空襲・火災に備えた建物疎開で、醒ヶ井通の西側にある堀川通が拡幅されました。このため、五条通以南の醒ヶ井通は、その西側部分の民家とともに堀川通に吸収されてしまい無くなったのです。
 そして、もともと醒ヶ井通の東側にあった佐女牛井町の民家は、現在では堀川通の東側歩道沿いの家々となって残っているのです。
 このように、醒ヶ井通の西側民家の間にあった「左女牛井(醒ケ井)」跡は、堀川通の地中に埋没してしまいました。このため、佐女牛井跡碑も建てるべき場所が無くなり、現在は堀川通西側歩道の植え込みにひっそり佇んでいます。


泉水町(仁丹町名表示板)
 先の「佐女牛井町」表示板の場合と同じで、表記の「醒ケ井(通)」は現存しません。

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 「佐女牛井町」の北隣りにある「泉水町」の町名由来は、前掲『京町鏡』に「此町往昔 源義經六條室町の御居館の御庭の泉水ありし舊地也 因て號す 又一説後白川法皇の御所の跡ともいへり」としています。
 と云うことで、源頼義をはじめ為義・義朝・義経など源氏累代の住居であった源氏堀川館の庭園の池の跡であって、名水「左女牛井」跡ではないのです。
 なお、頼義が六條判官と呼ばれたのは屋敷が六条堀川にあったことによります。

2014年9月26日 (金)

通り名のいわれ ー黒門通ー

 黒門通は北端が元誓願寺通、南端はJR東海道線で行き止まりとなっている。しかし、その途中は二条城・西本願寺などにより所々で途切れています。

「黒門通」の名前の由来

 通り名のいわれを『京町鑑』には、「黒門通といふは太閤秀吉公聚楽城の鐵門の在し通ゆへ號す 御池下ル町より新シ町と云 四條邊にて御太刀松通とも云 佛光寺邊にて竹屋町といふ」と記しています。
 つまり、聚楽第の鉄門があったことに由来していると云う。(古くは鉄のことを「くろがね」と称した)
 あわせて、「新シ町」「御太刀松通」「竹屋町」という別称があると記しています。
(なお、『山城名跡巡行志』では「新シ町」を「阿多羅志町』と当てている)

新シ町(仁丹町名表示板)
 表記中に黒門通の別称「新シ町」が見えます。

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 前掲書にはまた、御太刀松通について「四条下ル 下松町(現・下り松町)此町北東角人家のうらに一間半計の枯木一本有 傳云九郎判官義經 此松に太刀をかけ給ひたると也 又一説に堀川の御所といへりしも此邊なりとぞ 御館(みたち)の松といへるを書誤りて御太刀の松といひつたへ來れり」としている。
 そして、竹屋町については『京雀』『京雀跡追』で「此町には竹をあきなふ人多し」とする。


聚楽第について

 聚楽第は、天正15年(1587)に豊臣秀吉によって造営された。しかし、わずか8年後の文禄4年(1595)には破却してしまいました。
 平安京の大内裏のあった地は、中世になるとすっかり荒廃して「内野」と呼ばれる野になっていました。聚楽第は、この内野の東北部に築いた城郭でした。しかし、その規模は諸書で記述が異なっていて必ずしもはっきりしないようです。
 『山城名跡巡行志』では、「聚楽亭 東大宮 西朱雀(現・千本)南春日(現・丸太町)北一條 南北七町東西四町」とする。
 『京町鑑』も同じ範囲を記すとともに、「町數百二十町といふ此間を聚樂といひ地名に呼ぶ 今町の小名に舊名所々に殘れるのみ」としています。

聚楽廻中町(仁丹町名表示板)
 この一帯は聚楽第の南西部に当たり、聚楽廻(じゅらくまわり)とも称された。

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 少し長くなりますが、造営された聚楽第の様子を『京町鑑』から抜粋して引いてみます。
 「其構 四方三千歩の石の築垣山のごとく 楼門の固め鐵(くろがね)の柱 銅(あかがね)の扉 金銀をちりばめ 瑤閣星を錺り(かざり) 御庭には水石を畳 花木を植えさしめ造立し給ふ 結構譬うるに物なし 城外の四方に諸侯の第宅(やしき)をかまえ 樂を聚(たのしみをあつめ)觀樂(かんらく)を極め給ふによって 世人聚樂の城とも聚樂の御所とも称す」と記し、関白秀吉の威勢を誇示して大層豪華なものであったことが判ります。

聚楽第址碑

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 聚楽第の周辺一帯は秀吉に臣従する諸大名の屋敷町となっていました。その跡地は現在も町名としてその名残をとどめており、大名の名前が付く町名は20町程あるようです。
 以前、聚楽第絡みの記事で、諸大名の屋敷跡に因む町名を10町程あげたことがありました。今回はそれらを除いた3町の仁丹町名表示板の写真をあげておきます。

仁丹町名表示板
 甲斐守町は黒田甲斐守長政、左馬松町は加藤左馬助嘉明、飛騨殿町は蒲生飛騨守氏郷です。

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2014年9月12日 (金)

通り名のいわれ ー高倉通ー

「高倉通」と「新高倉通」

 「高倉通」は平安京が開かれた当時の「高倉小路」に相当すると云うことです。
 この通りも初めは麸屋町通と同じく、北は下立売通まで通っていたのですが、宝永5年(1708)の大火により、丸太町通以北が閉鎖されて皇宮(御所)の土地に入ります。
そ して、そこあった民家は二條川東(二条通鴨川東部)に移転させられ、旧地の通り名に因んで「新高倉通」と呼称されることになりました。「新麸屋町通」と同様に、やはり旧地を偲んでの命名だったのでしょう。
「 高倉通」の名称由来ですが、これについては詳らかではないようです。

 ところで、「高倉通」には「頂妙寺通(ちょうみょうじどおり)」という別称があり、このいわれは次のとおり。
 『京町鑑』には、「頂妙寺通といふ事は 天正年中迄 椹木町上ル 頂妙寺といへる日蓮宗の寺ありし故 號く」としている。
 『京雀』には、平安時代に初代関白となった藤原基経の別邸「高倉院」があったところへ、室町時代になってから頂妙寺が移されたと記しており。これが頂妙寺通の由来だとしている。


高倉院跡碑

 これは藤原氏別邸が高倉小路に所在したことから「高倉院」と呼ばれたもので、高倉院のあったことが高倉小路の名称由来ではないのです。

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頂妙寺

 ところで、この頂妙寺は文明5年の建立以来、高倉宮跡を含めて7・8回にわたって移転を迫られており、最後の移転は寛文年間に御所の大火があったため、御所の整備を機に現在地の二條川東(現・左京区大菊町)に移りました。

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頂妙寺の仁王門

 頂妙寺の山門は仁王門通に南面しており、その山門の少し奥手(北)にやはり仁王門通へ面して写真の仁王門が在る。このことが仁王門通の名前の由来となっているようです。

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 なお、大正4年(1915)刊の『京都坊目誌』では、仁王門通は頂妙寺移転の前からある通り名であって、岡崎の法勝寺の門がこの街に当たることから名付けられたとしているようです。しかし、法勝寺の西大門は二條大路に面していたと考えられているため、これが仁王門通のいわれとはならないだろうと見られています。


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