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道標・史跡などの石碑

2020年7月10日 (金)

平安京(1) ー山背国から山城国にー

 新しい都が設けられた「やましろの国」を、政治の中心である大和国の平城京から見たとき、現在の奈良県と京都府境界の丘陵にある奈良山(平城山とも)の背後、つまり北側にあります。
 このため「背」の字を採って「山背(やましろ)国」としたとされますが、「山代(やましろ)」国」の字を当てたこともあります。

 延暦13(794)年10月22日、桓武天皇は「遷都の詔」を出して長岡京から平安京へ都を遷します。そして、11月に国名を山城国(やましろのくに)、都の名を平安京と改めました

国境に残る石標
 この石標は山城国と摂津国との境界に立つ石碑で、「これより東 山城国」とある。(大和国との境界ではありません)

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 遷都の詔
「此國山河襟帯 自然作城 因斯形勝 可制新號 宜改山背國 為山城國 叉子来之民 謳歌之輩 異口同辞 號平安京」
(此の国は山河襟帯し、自然に城を為す。斯の形勝により、新号を制すべし。宜しく山背国を改めて、山城国と為すべし。子来の民、謳歌の輩、異口同辞に、平安京と号す。)

 「詔」を判りやすい文に直すと、次のようになるのでしょうか。

 「この国は山河に取り囲まれて、自然の城の作りになっている。このような地に因んで、新しい国名を制定しよう。《山背国》の名を《山城国》と改めるのがよい。子が親のもとに集まって来るように徳の高い君主のもとに喜んで集まって来る民衆や、声をそろえて喜び歌う人々が、異口同音に大声で平安の京(みやこ)と叫んでいる」
 そして、翌年正月16日の宮中の祝宴のときには、踏歌で新しい平安京を誉め讃え、褒め歌が読み上げられる間、多くの臣下が「新京楽、平安楽土、万年春」「新年楽、平安楽土、万年春」と、囃し立てたという。
 註:踏歌=足で地を踏み鳴らし、調子をとって祝い歌を歌うこと。

 京都盆地は西山・東山・北山に囲まれ、北山から流れる賀茂川と高野川が合流した鴨川は南方で西に流れ、桂川に合流してさらに宇治川・木津川に合流しています。
 このように、市街地を取り囲んんだ三方の山と、南方では川に画された地形は、まさに桓武天皇の詔にある「山河襟帯」の土地となっているのです。近世の地図では、こうした地形状況を俯瞰的な視点で絵画的に描いています。

元禄九年京都大絵図(国際日本文化研究センター蔵)

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 壬申の乱(672)以来、天智の皇統と天武の皇統との間で権力抗争が繰り返され、桓武天皇(天智天皇の曽孫)は天武系の奈良の都(平城京)に替えて天智系の都を造ろうとしました。しかし、長岡京への遷都の途中で桓武の腹心藤原種継が暗殺されるという事件が起こりました。
 そして、この事件に連座したとの疑いをかけられた桓武の弟の早良親王は、配流される途中に飲食を絶って自ら命を絶ちます。この無惨な死により、桓武天皇の周辺には早良親王の怨霊の影が色濃くまとわりつくことになる。
 このような暗い影を払拭することを願って、平安の京(みやこ)への遷都にあたっては、中国古代の思想「四神相応」や、風水説・陰陽五行説にかなう最高の場所と見定めて、選んだのが京都盆地だったようです。

 

2020年4月24日 (金)

戊辰戦争と新選組

 戊辰戦争(戊辰の役とも)は、戊辰の年(慶応4年)に武家政権最後の江戸幕府の時代が、明治時代となった時期に1年半にわたって戦われた内戦です。
 慶応3年(1867)10月14日に大政奉還され、同12月9日には薩摩・長州と倒幕派公家が王政復古のクーデターをおこして新政府を樹立しました。
 将軍徳川慶喜は、京都守護職を解任された松平容保(会津藩主)、同じく京都所司代松平定敬とともに二条城から大坂城に退去しました。

 翌明治元年(1868)正月3日、京都南部の鳥羽で新政府軍と旧幕府軍の間で砲撃の戦端が開かれ、鳥羽の砲声を合図のようにして伏見でも市街戦が始まった。この鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の発端となったのです。
 はじめ、両軍は一進一退で拮抗していたが、翌4日、朝廷は薩長軍を官軍と認定したため、旧幕府軍は朝敵とされたことで動揺が広がり、諸藩は次々と幕府側から離れて薩長軍側につきました。

戊辰役東軍西軍激戦之址(伏見区納所下野)

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戊辰戦争戦死者慰霊碑
 碑文には次のようなくだりがある。「それぞれが正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により 或る者は官軍となり 或るは幕軍となって 士道に殉じたので有ります」

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 こうなると、それまで京都守護職のもと「会津藩預かり」で幕府の非正規の警察組織として、幕府を転覆させようとする洛中の尊王攘夷派の志士を不逞浪士として厳しく弾圧していた新選組は厄介者扱いをされることになります。それでも幕府の武士として戦う道を選び、会津藩兵とともに旧伏見奉行所に立てこもりました。

伏見奉行所跡(伏見区西奉行町)

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 しかし、御香宮に陣を敷いた薩摩・長州の新政府軍の猛砲撃を受けます。この時の戦闘では伏見の市街地南部のかなりが焼失しています。

料亭「魚三楼」に残る弾痕(伏見区京町三町目)

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 旧幕府軍・新選組は、新政府軍との戦いで兵力で薩摩長州軍を圧倒するものの、銃火器で劣ったため惨敗します。

 そして正月6日には、徳川慶喜は自軍を見捨てて松平容保などとともに大坂を脱出、さっさと江戸に帰って江戸城に入り新政府に対して恭順の意を表ます。

 以後、旧幕府軍・新選組は甲州勝沼の戦いで負流(新撰組解体)、江戸城を無血開城し、宇都宮の戦いで負け、幕臣の結成した彰義隊による上野の戦いで負ける。奥羽越列藩同盟を結成するも長岡・会津・仙台・庄内の各藩が敗北して瓦解する。
 そして、旧幕府軍最後の砦となったのが函館の五稜郭で、抗戦派の旧幕臣や土方歳三など新選組を引き連れた榎本武揚の軍でした。しかし、明治2年(1869)4月には新政府軍の猛攻撃の前に敗れて、1年半にわたる戊辰戦争は終決しました。
 新撰組副長の土方歳三は戦死、幕府海軍指揮官の榎本武揚は降伏。新撰組局長の近藤勇はそれより以前の下総流山の戦いで敗北、投降して斬首されている。

 幕府に仕えていた官軍の旧幕府軍は戊辰戦争に敗れて朝敵・賊軍となり、新政府軍がとって代わり官軍となりました。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われる所以です。いつの時代でも、常に正義が勝利するのではなく、道理とは関係なく強いものが勝つのであって、勝者が正義となるのです。



2020年4月10日 (金)

高瀬川

 高瀬川は鴨川西岸、二条橋すぐ下手で鴨川から別れて流れる幅6〜7mの浅い川です。南流して伏見に至り、宇治川そして淀川を経て大阪湾に流入しています。
 この川は、角倉了以・素庵の父子によって開かれた運河で、慶長16年(1611)に着工して同19年に開通しました。

「高瀬川開鑿者 角倉氏邸址」碑

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 大正9年(1920)までの約310年間、大坂から淀川を経て、また宇治や琵琶湖から宇治川を経由して伏見京橋に着いた物資を、京都まで輸送するのに重要な役割を果たしたのが高瀬川でした。往時の川幅は今よりも約1m程度広かったそうで、伏見との間を物や人を載せた高瀬舟が上下していた。

一之船入

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 ここから下流の四条通までの西岸に櫛のように7ヶ所の船入があったのですが、現存するのはこの一之船入だけです。

高瀬川『拾遺都名所圖会』から)
 *この絵図「高瀬川」と次の「池洲」は、図をクリックすれば拡大します。

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生 洲『都名所圖会』から)

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 一之船入の北に支流を作り魚を放流して販売し、また川魚料理を食べさせる料亭が軒を連ねていました。
 この一帯の町名「西生洲町」「東生洲町」は、これに由来しているのです。

「西生洲町」の仁丹町名表示板

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 ところで話は変わりますが、かつて、高瀬川沿いの木屋町通には市電が走っていました。
 明治28年(1985)4月から7月まで、第四回内国博覧会が岡崎公園で開かれることになりました。この時、会場への足として七条停車場(現・京都駅)」から木屋町二条の間に京都市電「木屋町線」が開通したのです。東京以外の地で初めて開催された内国博覧会で、入場者数は114万人を数えたという。
 平安神宮が造営され、時代祭が始まったのもこの時でした。

 木屋町通、本名・樵木町通(こりきちょうどおり)はそれまで狭い道路だったのですが、電気軌道を敷設するために拡張したのです。
 そして、明治43年にはその軌道敷を拡張するため、高瀬川の幅3尺(約1m)を埋め立てられて、植えられていた柳の街路樹が伐採されたことで、それまでの風趣が失われたと言う。
 昭和元年(1926)以降「河原町線」が開通することで、その市電「木屋町線」も路線区間が順次廃止されて、翌年には木屋町線全線が廃止となりました。
 ちなみに、当時の路線経路は、京都駅前ー七条東洞院ー七条河原町ー木屋町五条ー四条小橋ー木屋町二条というものでした。


2020年3月20日 (金)

町名に六波羅政権を偲ぶ

 「 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」 (『平家物語』第一巻「祇園精舎」より)

 古代以来、政治の実権を握る主体は、平安時代前期までの天皇親政、中期以後の藤原氏による摂関政治(貴族政治)、上皇・法皇による院政を経て、保元・平治の乱以降は平氏の武家政権へと遷り変わっていきました。
 後白河天皇は引退した後も法皇として院政を敷いたのですが、保元・平治の乱以降権勢を延ばした平氏と対立して、平清盛により洛南の鳥羽殿に幽閉され政権は武家へと移っていきました。
 その辺りのことを、慈円(関白藤原忠通の子で青蓮院第三代門主)は『愚管抄』に「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、ムサ(武者)ノ世二ナリニケルナリ」と書いています。

 流刑地の隠岐島から出雲に渡って国府を襲った源義親を、桓武平氏の本流とされる伊勢平氏の平正盛(清盛の祖父)が討ち果たして武名を上げました。これを機に平氏が武士の棟梁として進出してきます。
 そして、白河院の信頼が厚い正盛は、六道珍皇寺寺領の土地を借りて阿弥陀堂(正盛堂とも)を建てます。六波羅堂とも六波羅蜜堂とも称されました。

平氏六波羅第・六波羅探題跡碑

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 正盛の死後、忠盛(清盛の父)に家督は移って、白川院・鳥羽院の信任を得ます。次いで、その子の清盛の代に至って、保元・平治の内乱に勝ち抜き平氏繁栄の全盛期を迎えます。その本拠地が「六波羅」であったことから、平氏政権は六波羅政権とも言われました。

 しかしやがて、平氏は以仁王の令旨に応じて挙兵した木曾義仲(源義仲)をはじめ、諸国の源氏の蜂起によりに敗れ、義仲が京都に入る前に自ら邸宅群を焼き払って都落ちします。
 そして都落ちして後は衰亡の一途を辿って、「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」に敗れ、源平最後の決戦となった「壇ノ浦の合戦」にも敗れて滅亡しました。

 こうして、最初の武家政権である平氏の六波羅政権は滅んで、源氏の武家政権である鎌倉幕府が取って代わりました。六波羅の地には鎌倉幕府の六波羅探題が置かれて、朝廷の監視・市中の警備をおこない、西国の政務や裁判権をも行使することになります。
 ところが、その源氏も元弘3年(1333)多摩川畔の「分倍河原の合戦」で新田義貞の反幕府の軍勢に敗れて滅んでしまいます。

六波羅蜜寺

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 「六波羅」の名称由来は、天暦5年(951)に空也聖人(醍醐天皇の子とも伝わる)によって創建された西光寺、後に六波羅蜜寺と改称された寺名が由来と考えるのが妥当であるように思われるのですが、諸説があるようです。

 また、「六波羅」の範囲についても、諸説があって必ずしも明確では無いのです。
 碓井小三郎『京都坊目誌』は、「六波羅」の範囲について、『山州名跡志』をはじめ諸本の記述を概観したうえで、次のように記しています。
 「(略)諸説大同小異にして、四至判然せず。今以上の諸説と六波羅蜜寺諸傳の舊記とを經とし。實地調査の地形、及字地の名稱等を緯とし、これを製織すれば、其梗概を推知するを得べし。」
 そして、「其審按の結果を記さんに、四至東は北にて六波羅蜜寺を限り 主典ノ辻子に至るとの説あるも同寺と辻子との間は古く寺有地なるを以て除外す。故に採らず。  西は大和大路 古昔大宮大路なり に至り、西一町にして賀茂川に臨む。 今の新古宮川筋は後世川床を埋めたるもの也 南は六條の末にして 今の正面通に當る。閑院内裏時代京師圖に七條までを區域として見取を示せり。之は後世の想像なり依て採らず。北は五條大路 今の松原通 の末に及べり。然して境域の南より東に續き苦集滅道 今の澁谷街道馬町なり に沿ふて松谷若松 小松谷を云ふ に至る。是は附属の第地にして、四至の以外なり。」と記しています。

 また、高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』岩波新書は、六波羅の範囲を次のように記しているので引いておきましょう。ちなみに、著者は平氏政権を最初の「武家政権」であるとし、「六波羅幕府」と呼んだ現代の史家です。
「平家の六波羅は、北は六波羅蜜寺のある五条末、つまり平安京五条大路(現松原通)を京外東方に延長したライン、南は同じく六条末で、南北約500メートルにおよび、東西は現鴨川東岸約100メートルの地点から東に約600メートル以上、積算して「廿余町」の面積がある。
 この空間には一族親類や従者、上京した地方武士の家々が密集して立ちならび、細かく数えれば「家数三千二百余宇」(延慶本『平家物語』)におよぶ。」としています。

 ともあれ、北は松原通から南は六条通東末にかけての一帯には、平氏一門の武将邸宅が建ち並んだが、平氏滅亡の後はそこに源氏の六波羅探題が設けられたようです。
 しかし今では、伝承に基づいて江戸期になってから付けられた町名や通り名にその名残をとどめているだけです。
 例えば、池殿町(清盛の異母弟で池大納言・池殿と呼ばれた頼盛の邸宅跡とされる)、三盛町(清盛・教盛・頼盛の三兄弟の邸宅跡とされる)、門脇町(清盛の異母弟門脇中納言教盛の邸宅跡とされる)、多門町(六波羅邸の総門の跡といわれる)です。

門脇町と多門町の仁丹町名表示板

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 北御門町(六波羅探題は南北の二庁が置かれ、北庁の北門のあったところと言われる)」、北庁の遺址が町地となり北御門・南御門・西御門の三町となったと言い、南御門町は明治元年北御門町と合併した。

 西御門町の仁丹町名表示

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 そして六波羅裏門通、この通りは三盛町・多門町から、東方にかけて興善町・竹村町・小島町の境界となっている主典ノ辻子まで通じています。


2019年10月18日 (金)

消えた小椋池

 以前、といっても戦前のことなのですが巨椋池(おぐらいけ)という池が存在しました。
 東西4km、南北3km、周囲が16km、面積は8㎢(800ha)もある広大な池でした。現在の京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町の3市町にかけて広がっていたのですが、当時としては京都府下の淡水湖では最大の面積をもつ池でした。

往時の巨椋池
 淡交社『写真集成・京都百年パノラマ館』所載

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 巨椋池一帯は宇治・木津・桂の三川が合流する低湿地であることから、沿岸は水禍の絶えない土地だった。そのため、水運・漁獲といった利益が損なわれることも多かった。
 昭和6年(1931)の満州事変以降、中国での侵略戦争を拡大していった日本は、昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入します。
 そうした折、食料不足から米増産のため、昭和8年(1933)に国営事業として巨椋池の干拓工事に着工します。そして、昭和16年に完工を見て約635haの水田地帯に変貌したのです。

巨椋池干拓之碑

 昭和17年11月の建立で、篆額は農林大臣井野碩哉。
 巨椋池が干拓農地となるに至った経緯が記されている。

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 今や干拓で姿を消した巨椋池は、古歌と地名にその名残りをとどめるだけです。
 『万葉集』に(原文)「巨椋乃  入江響奈理  射目人乃  伏見何田井爾  雁渡良之」という柿本人麻呂の歌があります。
 訓読すると、「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」となります。
  註:「とよむ」=響き渡る、「射目人」=伏見の枕詞、「田井」=田んぼ、「らし」=違いない。

巨椋神社

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 巨椋の語源は、古代の有力氏族であった巨椋連に因む、あるいは巨椋連の祖神を祀る巨椋神社に由来するなどといった説があります。
 しかし、一方では巨椋池一帯は、京都盆地では最も低湿な土地で、宇治川・木津川・桂川が流れ込む遊水池の役割を果たす湖沼であり、池の西端近くから淀川に流出していました。このような大きく刳られて、周囲よりも低い地形であることから来ていると見る向きもあるようです。

淀 大橋 孫橋
 挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から

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 京師より南の方三里にあり。顕住密勘に云く、淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとゞこほり、ぬるくとまれるなり。それをば淀といふ、河淀ともよめり。此淀川といふも、桂川、鴨川、宇治川、木津川等のをちあひて深ければ、よどみぬるくながるゝなり。云々」とあり、三川が寄り集まり川の水が澱んで滞留したことが、淀の地名由来だとしています。
 註:「顕住密勘」というのは、藤原定家等撰集になる『古今和歌集』の注釈書


 かつての巨椋池一帯の地名で、槙島・向島・上島・下島など「島」のつく地名は、巨椋池に流れ込む3川の運んだ土砂が作り出した島々の名残りなのです。

 ところで、ここまで「巨椋池」という呼称で説明してきましたが、この名称は明治以降になってからのものであって、江戸時代までは「大池」と呼ばれていたようです。
 文禄3年(1594)、豊臣秀吉は伏見城を築城するにあたって、大土木工事を実施します。
 それまでの宇治川は、宇治橋の少し下流にある彼方(現・乙方)で、大池に直接流れ落ちていましたが、大池と宇治川を分離する槙島堤を築いて、宇治川を大きく北ヘ迂回させて指月城(伏見城)の築かれた「指月の丘」の南側まで北上する新流路に付け替えました。
 註:謂わゆる伏見城というのは大きく分けて4つ(4期)ありました。1期は秀吉が聚楽第から引き移った隠居屋敷、2期が隠居屋敷を本格的な城郭として修築した「指月城」、3期は慶長の大地震で指月城が崩壊したためそこから東北の木幡山に新たに再建した木幡山城、4期が関ヶ原の戦いの前哨戦としての伏見城の戦いで焼失した木幡山城を徳川家康が再建した城。

 このとき、大池に槙島堤・小椋堤・大池堤・中内池堤など、太閤堤と総称される大規模な堤防が築かれたことで、大池・中内池・大内池・二の丸池の四つに区切られました。

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 挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から

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 「江戸町より西の地名なり。此所伏見の勝地にして、前には宇治川の流れを帯て舟のゆきゝあり、西南は巨椋池の江渺々として方一里の水面なり、月を愛するには無双の景色にて、いにしへより高貴の楼閣をいとなみ、清質の悠々たるを升、澄暉の藹々たるを降すの地なり。」と記されていて、名だたる景勝の地であったようです。
 そして、現在の伏見区桃山町泰長老を中心とする「指月の丘」の麓と向島の間を流れる宇治川に、豊後橋を架けます。
 それまで京都と奈良を結ぶ大和街道は、宇治川の東側を木幡・宇治の彼方(乙方)・宇治橋を経ていたものを、宇治川の付け替えで伏見城下・豊後橋・向島から巨椋池池中の小椋堤を経て小倉・伊勢田・広野という経路に変えました。
 また、大池の西方では大池北岸に淀堤を築いて、宇治川を向島の西から淀川につないで、伏見と大坂の間に水運を開きました。

 以下は関連記事の予告です。
 往時の巨椋池の西南の端、淀の近くに「一口」と書いて「いもあらい」と読む集落があります。これは難読地名の最たるものでしょう。
 近いうちに、この「一口」の地名由来を記事にしてみたいと考えています。

2019年8月23日 (金)

結界石

 結界石というのは、境を示す標(目印)であり、「聖の領域」と「俗の領域」を分ける標識なのです。
 寺域や修行の場など特別な地域(結界)では、宗教上の妨げとならないよう秩序を維持する必要から、結界(聖域)と俗界(俗世)とを分けるために建てられています。

 したがって、結界石に刻まれた銘文は、聖域の秩序を維持するうえで禁止されている行為等が刻字されています。

諸肉五辛不入山林(大山崎・山崎聖天)

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不許酒肉五辛入山内(上京区三軒町・安楽寺)

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 以下は結界石に刻まれた銘文のいろいろです。

1. 結界であることを示す
  大界外相
  摂僧大界

2. 結界への持ち込みを禁じるもの
  禁酒肉五辛入門内
  諸肉五辛不入山林
  不許酒肉五辛入門内   
  不許葷酒葷酒入山門
  不許葷辛酒肉入山門
  不許葷肉入門
  不許葷酒入山門
  禁葷酒   
  山門禁葷酒
   
3. 結界に立ち入りを禁じられた者や禁止行為
  従是女人結界   
  不許藝遊客
  禁藝術賣買之輩
  

禁じれれている事柄とその理由は次のようなものです。
① 五辛(五葷とも)
 葫(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・韮(らっきょう)・蘭葱(ひる)を云う。
 みんな辛味や臭気が強いこと、また食べると精力がついて性的な欲望を生じるそうな。
② 酒・肉
 酒池肉林、紂王やないんやから贅沢きわまりない酒宴はやったらアカン、ダメダメ!。
 酒食をすると気分晴朗・気宇壮大になって、仏道修行も大いに捗ると思うんやけどな。
③ 女人(にょにん)
 女の人の艶やかな容色は出家の心をも乱して、仏道に励むうえで妨げになるらしいわ。
 紅灯緑酒はアカンね。ンッ?紅灯の巷で坊主を見かけるけど、禁じられた遊びやんか!

 

2019年8月 9日 (金)

宴の松原

「宴の松原」址碑

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 「宴の松原」というのは、平安京大内裏の内裏西側、武徳殿の東側、豊楽院の北側にあった広大な空閑地で、南北が約430m、東西が約250mの広さの鬱蒼とした松原であったという。
 その場所は、大内裏(平安宮)の正門である朱雀門と北端の偉鑒門をつなぐ中心線の西側、つまり内裏(御所)のちょうど西側となります。現在の上京区出水通七本松付近が、当時の「宴の松原」の中心にあたるでしょうか。
 この「宴の松原」が何を目的とした用地であったのかは明らかではありませんが、天皇の代替わりに際して内裏建て替えのための用地という説、宴(うたげ)を催すための広場という説などがあるようです。

 「宴の松原」の話は、「今ハ昔(今となっては昔のことだが)」という書き出しの部分と、「トナム語リ傳へタルトヤ(・・・と語り伝えられている)」の締め括りで有名な、平安時代後期の説話集『今昔物語集』にも、鬼・妖怪の出る不気味な場所として描かれています。
 ちなみに、この話は『三代実録』では、仁和3年(887)8月17日夜の出来事としています。

 まずその原文を、そして酒瓮斎による下手糞な現代語訳をご覧ください。

『今昔物語集』巻第二十七
「於内裏松原鬼成人形噉女語」第八
 今昔、小松ノ天皇ノ御世ニ、武徳殿ノ松原ヲ、若キ女三人打群テ、内様へ行ケリ。八月十七日ノ夜ノ事ナレバ、月キ極テ明シ。
 而ル間、松ノ木ノ本ニ、男一人出来タリ。此ノ過ル女ノ中ニ、一人ヲ引ヘテ、松ノ木ノ景ニテ、女ノ手ヲモ捕ヘテ物語シケリ。今二人ノ女ハ、「今ヤ物云畢テ来ル」ト待立テケルニ、良久ク見エズ。物云フ音モ為ザリケレバ、「何ナル事ゾ」ト怪シく思テ、二人ノ女寄テ見ルニ、女モ男モ無シ。「此レハ何クヘ行ニケルゾ」ト思テ、吉ク見レバ、只、女ノ足手離レテ有リ。二人ノ女、此レヲ見テ、驚テ走リ逃テ、衛門ノ陣ニ寄テ、陣ノ人ニ此ノ由ヲ告ケレバ、陣ノ人共、驚テ其ノ所ニ行テ見ケレバ、凡ソ骸散タル事無クシテ、只足手ノミ残タリ。其ノ時ニ、人集リ来テ、見喤シル事限無シ。「此レハ、鬼ノ人ノ形ト成テ、此ノ女ヲ噉テケル也ケリ」トゾ、人云ケル。
 然レバ、女、然様ニ人離レタラム所ニテ、知ラザラム男ノ呼バハムヲバ、広量シテ、行クマジキ也ケリ。努怖ルべキ事也トナム語リ伝ヘタルトヤ。


『今昔物語集』巻第二十七
「内裏の松原で鬼、人の形となって女を喰うこと」 第八
 今となってはもう昔のことだが、小松天皇の御代に、武徳殿の松原を若い女が三人で連れ立ち内裏の方へ歩いていた。八月十七日の夜の事ということでもあり、月は大変明るかった。
 やがて、松の木の下に一人の男が出てきた。この通り過ぎる女達の一人を呼び止めて、松の木の陰で、女の手を取って話し始めた。もう二人の女は「すぐに話し終わって戻ってくるでしょう」と待っていたけれども、戻って来る気配が無い。
 話し声も聞こえないので、「どうしたのかしら?」と怪しく思って、二人の女が近寄って見ると、女も男もいない。「これはどこに行ってしまったのかしら?」と思ってよく見ると、ただ、女の足と手だけがバラバラに残っていた。
 二人の女はこれを見て、驚き走って逃げ、警護詰所に駆け込んで、衛士にこの事を告げると、衛士達も驚いてそこへ行って見たけれど、死骸は散らばっておらずに、ただ、手足だけが残っていた。
 その時、人々が集まって来て大騒ぎとなった。
 「これは、鬼が人の形に化けてこの女を喰ったのだ」と人々は言い合った。
 だから、女はそのような人気の無い所で、知らない男から呼びかけられても、気を許してついて行ってはならない。忘れないようにしなければならない事だと語り伝えられている。


「宴の松原」の位置
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 (『武徳殿』「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」から転載)
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2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年4月12日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その1

はじめに

 このシリーズでは、高野川流域を巡り歩いて、少しばかり往時の名残りを偲んでみることにしました。そして、市内中心部ほどには多くないのですが、残っている「仁丹町名表示板」のいくつかをお見せします。

 高野川流域の一帯が京都市左京区に編入される前は、「愛宕郡(おたぎぐん)」に属する村々でした。それらの一帯を高野川と賀茂川の合流点から、高野川の左岸(東岸)に沿って上流へと順に見ていきます。
 高野川左岸には、北ヘ順に田中・高野・山端と続きます。また、山端の対岸つまり高野川の右岸(西岸)には松ヶ崎が位置しており、その上流は川を挟むかたちで、上高野・八瀬・大原の順に北東へと続きます。


 京都市街地の北西から流れてくる賀茂川と、北東から流れてくる高野川の合流する所、そこは三角州になっていてその南端は鴨川公園となっています。
 地元ではここを《鴨川デルタ》と称していて、時候の良い頃の休日には多くの親子連れや若者グループで賑わう憩いの場となっています。
 それにしても、なぜ《高野川デルタ》ではないのだろう? やはり、昔から鴨川の方が世間によく知られた河川だったからなのでしょうか?

鴨川デルタ

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 ちなみに、賀茂川の源流は、京都市北区の北端と南丹市の境界近くにある桟敷ヶ岳付近です。そして、北山の山中から上賀茂を経て市街地へと入ってきます。
 また、《鴨川デルタ》から南では、川の名前の表記が「賀茂川」から「鴨川」に変わります。
 そして、鴨川デルタの西方一帯は《出町》と云う通称で呼ばれています。

高野川御蔭橋から北方を望む

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 一方、高野川の源流は、有名な観光地である大原の北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の北部山中です。そして高野川は、大原では「大原川」、八瀬では「八瀬川」の呼称があり、どちらも歌枕になっている。
 この高野川の東側にほぼ沿うように北上するのが、滋賀県(近江)・福井県(若狭)へと通じる若狭街道(大原街道)で、「鯖街道」という通称もあります。
 この辺りは、京都の出入口「京七口」の一つであった「大原口」でした。

「鯖街道」の道標

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【次回へ続く】


2018年5月11日 (金)

時雨亭(しぐれのちん)

 藤原定家は「百人一首」を嵯峨小倉山の山麓にある山荘で編んだと伝わることから、「小倉百人一首」とも云われます。しかし、実は撰者・成立年ともに確認できていると云うわけではないようです。
 定家のこの山荘は小倉山荘あるいは嵯峨山荘とも呼ばれたのですが、のちには「時雨亭(しぐれのちん)」と称されるようになりました。
 ところが、実はこの「時雨亭」跡として伝わるものがあちこちにあって、小倉山の近辺だけでも厭離庵・二尊院・常寂光寺の三ヶ所にあります。

 「百人一首」は鎌倉時代の初めの頃に、藤原定家が各時代の著名な歌人百人の歌を一首ずつ選んだものです。(定家は「新古今和歌集」の撰者であり、「新勅撰和歌集」をも撰集しています)
 定家は藤原俊成の息(次男)で、京極殿あるいは京極中納言と称されました。
 この百人一首は、鎌倉幕府御家人で歌人の宇都宮頼綱(出家して蓮生)から、山荘の襖の装飾のために色紙の作成を依頼された定家が、選んだ歌をしたためたものだそうです。

《定家山荘跡の歌碑(常寂光寺)》
  小倉山みねのもみじ葉心あらば
     今ひとたびの行幸待たなむ 貞心公(藤原忠平)

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 時雨亭の古跡とされる所が、何故このようにあちこちに存在するのか?

 『都名所圖会』中の「厭離庵」に、その理由を次のように記しています。

 「京極黄門定家卿の山荘あるひは時雨亭と號る舊跡、ところ〴にあり、かの卿の詠歌により、又は少しき因になづみて後人これを造ると見えたり。
 続拾遺 いつはりのなき世なりせば神無月
         誰まことより時雨そめけん 定家
此歌を種として謡曲を作したり、時雨亭も是より出たり、実あるにあらず。」

 

 つまり、「時雨亭」を称する旧跡はあちこちにあるけれども、これは定家の読んだ歌、あるいは何らかのつながりや縁故をもとに、後世の人達が造り出したと見られるとしています。
 
 また、宝生流謡曲の「定家」、そして「時雨亭」という名称も、定家の歌「いつはりのなき世なりせば・・・」を素材としているとされるが、事実ではないとする。 
 

 なお、『都名所圖會』以外の地誌においても、時雨亭は「舊跡所々ニアリ(『山州名跡志)」、「いづれか其所さだかならず(『京羽二重織留』)」などとしています。

 次下は、時雨亭跡の記述がある諸本をいくつか拾ってみました。 

1. 厭離庵 (右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2)
 「小倉の山荘といふは、清涼寺西の門より二尊院までの道、二町ばかりの民家ある所を中院町といふ。いにしへは愛宕山の末院あり、今絶て所の名とせり 此半を北ヘ入る細道あり、竹林の後のかたに門ありて東に向ふ、これを厭離庵といふ。門の内に柳の水といふ清泉あり、草庵の跡は西の高き所と見えたり。(後略)」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』『山州名跡志』などにも記述あり。

 《小倉山荘旧址碑》

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 《厭離庵》

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2. 二尊院 (右京区嵯峨二尊院門前長神町27)

 「黄門定家卿の山荘といふ舊地は、仏殿のうしろの山腹にあり。かの卿より以前諸堂魏々たり、後世小倉山に寄りて號る物か。」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡》

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 《二尊院境内》

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3. 常寂光寺 (右京区嵯峨小倉山小倉町3)

 「定家卿の社は南の山上にあり。此所も彼卿の山荘のよし。(後略)」『都名所圖會』
 『京羽二重織留』『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡碑》

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 《常寂光寺からの展望》

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 その他にも、次のようなものがありました。
4. 相国寺塔頭普光院 (上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701)
  『京童跡追』『山州名跡志』『京羽二重織留』

5. 般舟三昧院(元・歓喜寺跡) (上京区今出川通千本東入般舟院前町151)
  『都名所圖会』『山城名跡巡志』『山州名跡志』『京羽二重織留』

6. 白毫院  『京童跡追』  雲林院の末院だったらしく、南北朝期までは存続したが応仁の乱で荒廃したとみられ、伝わる所在地も一定しない。

7. 小倉山 『京童』

8. 衣笠山東麓 『山州名跡志』

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