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道標・史跡などの石碑

2022年9月 2日 (金)

人体解剖の先駆者 山脇東洋

 山脇東洋は江戸時代の医者です。
 宝暦4年に京都所司代(江戸幕府の一部署)の許可を得て、斬首刑に処された六角獄舎の囚人屈嘉の遺体で、日本で初めての人体解剖をおこない、人体内部の構造を直接観察した。
 そして、解剖記録『蔵志』(二巻)を著し、日本近代医学の芽生えとなり、杉田玄白、前野良沢なども山脇東洋の影響を受けている。
 六角獄舎跡の現在はマンション敷地の一部となっており、「山脇東洋観臓之地」「近代医学発祥之地」の碑などが建てられている。

「山脇東洋観臓之地」記念碑

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 六角獄舎跡の碑文は次のように刻まれています。

近代医学のあけぼの 観臓の記念に
1754年 宝暦4年閏2月7日に山脇東洋(名は尚徳 1705ー1762)は所司代の官許をえて この地で日本最初の人体解屍観臓をおこなった
江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった
この記録は5年後に『蔵志』としてまとめられた
これが実証的な科学精神を医学にとり入れた成果のはじめで 日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった東洋のこの偉業をたたえるとともに観臓された屈嘉の霊をなぐさめるためここに碑をたてて記念とする
1976年3月7日
日本医師会、日本医史学会、日本解剖学会、京都府医師会

 六角獄舎の前身は平安時代に左京に設けられた左獄(東獄)で、幾度かの移転を経て六角通神泉苑西入南側(因幡町)に移っていました。
 元治元年(1864)に起きた禁門の変(蛤御門の変)による火災の折、多くの尊皇攘夷派の志士たちが投獄されていた六角獄舎にも延焼の火が及びそうになった。
 その時、混乱に乗じて過激な志士たちが脱走するのを恐れて、まだ裁定が下っていなかった37人を斬罪に処した。明治になって円町で名前が朱書きされた瓦と共に白骨が見つかり、近くの竹林寺(下立売通西大路東入 行衛町455)に埋葬されて37人の墓がある。
 この時、池田屋事件で捕らえられていた古高俊太郎も処刑されている。


 かつて、当ブログで『六角獄舎そして山脇東洋と古高俊太郎』(2012.9.21)を書いたことがありましたが、最近、別の目的で誓願寺墓地に出かけた時、山脇家の墓を目にしました。

山脇東洋の墓

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 誓願寺の墓地は裏寺町通の北端にあり、墓地の入口には「山脇東洋解剖碑所在墓地」の石碑が建っている。墓地へ入るには、誓願寺の寺務所で許可書の交付を受けて、墓地管理人のもとに持参することが必要。
 また、誓願寺墓地には「山脇社中解剖供養碑」も建立され、山脇家代々が解剖を行った14名(うち女子4名)の戒名が刻まれている。




2022年8月 5日 (金)

道切り(ミチキリ)

 人々が生活の場としている領域に、悪霊、疫病神、災厄などが侵入してくるのを防ぐため、村の境界に設けられる「呪い(まじない)」を道切り(ミチキリ)と呼んでいる。
 道切りは村や部落で共同しておこなわれ、村境や村の入り口に注連縄(勧請吊り)を渡したり、お札を立てたりする。
 この注連に呪物として巨大な草鞋をぶらさげる風習があるが、この草鞋を履くほどの大きな荒神が居るから入ってくるなと云う脅しの意味だとされる。
 さらに、八手や南天の枝を下げたり、石を置いて人形を立てたりするところもある。つまり、道切りには悪霊・疫病や災厄の侵入を防ぎ止めるために諸々の呪いものを伴っている。

道祖神
南区の道祖神社社頭に鎮座
 悪霊を防いで道をゆく人々を守護する神に道祖神がある。これは、サヘノカミ(障の神・塞の神)とも道陸神とも呼ばれ、名前のとおり元々は防障・防塞の神で、外部から侵入してくる疫神や悪霊などを防ぐため、村境や峠・辻・橋のたもとなどの道端に祀られた。これはまた、旅の安全を守る神、生殖の神や縁結びの神ともされる。

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石敢當
 この石敢當は、かつて勧進橋の袂で竹田街道を通行する旅人を守護していたもので、常夜灯と石敢當が結合していて珍しい形。現在は元・陶化小学校の敷地にある。
 石敢當は中国伝来の災除けとして、道路の突き当たりに「石敢當」と刻んだ石柱を立てることが、沖縄諸島を中心に本土の鹿児島をはじめ九州南部・中国地方でも見られるが、これも道切りの一つと言える。

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 道祖神・石敢當の他にも各地で見られる呪いものには、地蔵尊・馬頭観音・庚申塔や二十三夜塔などの石塔・庚申塚などがある。

奈良県明日香村の稲渕と栢森に伝わる綱掛神事
 稲渕の男綱

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 この神事は、稲渕では飛鳥川に男綱と呼ばれる注連縄をかけて陽物(男根)を象ったものを下げ、その上流の柏森では女綱と呼ばれる注連縄に陰物(女陰)を象ったものを下げる。この注連縄は毎年1月11日に掛け替えられる。
 子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などがこの道と川を通って侵入してこないようにするために行われる。
 なお、この神事は稲渕では神式で、栢森では仏式で行われる。

 道切りは元々、災厄が降りかかったときに疫神送りをおこない、その後にすることが多かったようだが、現在では村の行事として定期的に行っているところが多い。




2022年7月22日 (金)

奔放な女流歌人 ー和泉式部ー

 和泉式部は平安時代中期の女流歌人で、勅撰和歌集に収録された歌は246首にもおよぶ。才色兼備の閨秀歌人で、その奔放にして情熱的な歌いっぷりは有名です。
 中古三十六歌仙の一人とされ、女流歌人では清少納言や紫式部なども入っている。
 
世の中に 戀てふ色は なけれども 深く身にしむ ものにぞありける
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな
 これらは『後拾遺和歌集』に収録され、百人一首にも選ばれている歌ですが、まさに艶歌(つやうた)ですね。

和泉式部塔(宝篋印塔)
 新京極通六角下ル東側に、和泉式部寺と俗称される誠心院(正式には華嶽山東北寺誠心院)という寺院がある。ここには古くから式部の墓といわれる宝篋印塔があって、塔身正面に阿弥陀三尊の梵字を刻している。
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 御堂関白藤原道長の娘で、一条天皇の母である上東門院彰子の勧めで建立された三昧堂東北院の内に和泉式部のために小堂を建立、式部の死後、法名の誠心院専意法尼に因んで誠心院としたのが起こりとされる。
 (*東北院=上東門院彰子の発願による三昧堂は、道長の建立した摂関政治期最大の寺院である法成寺の艮(東北)の角に位置したことで東北院と称された)
 東北院が廃絶したあと、誠心院は上京区一条小川の誓願寺のそばに再建されたが、天正年間には誓願寺の移転に伴って現在地に移っている。


 和泉式部は越前守大江雅致の娘で、はじめ和泉守橘道貞と結婚したことで和泉式部といわれた。しかし、生まれつき放蕩であったことから離婚する。ちなみに、道貞との間に生まれた娘の小式部も母譲りの和歌の才能があった。
 まだ道貞の妻であった時、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王と恋愛関係になり、世間にその仲を言いはやされる。しかし、親王が亡くなるとその弟である敦道親王と密通し、親王が式部を屋敷に迎え入れようとしたために敦道親王夫人は家出。式部もまた道貞との夫婦生活が破綻して離婚、父の雅致からも勘当される。
 『和泉式部日記』は、この敦道親王との2年間にわたる恋の記録で、わが国の女流文学を代表する一つとしてよく知られている。
 敦道親王の死後、式部は上東門院彰子に仕えるが、まもなく彰子の父の家臣である藤原保昌に再嫁する。そして、保昌が丹後守に任ぜられたため共に丹後にくだる。しかし、晩年の消息については明らかでない。

和泉式部の歌碑
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 「霞たつ 春きにけりと 此花を 見るにぞ鳥の 声も待たるる」
 本堂脇にある碑の傍に、式部が生前愛でた「軒端の梅」にちなんで梅が植えられいた。この歌にある「此花」は梅を指していて、『都名所圖會』には「泉式部塚」のかたわらに彼女が生前に愛した「軒端(のきば)の梅」が描かれている。




2022年7月 8日 (金)

行願寺(革堂)

 行願寺は、中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町にあります。もともとは、平安時代の寛弘元年(1004)に一条小川の北、一条北辺堂跡に僧行円によって創建されたことから一条北辺堂とも称されたとか。
 幾たびもの戦乱や火災によって焼けるが、豊臣秀吉の京都改造により今の寺町通荒神口のあたりに移り、宝永の大火(宝永5年)で類焼したことで現在地に移転しています。

 行円の生没年は不詳ですが、一説に鎮西(九州)の人と言い、また比叡山の横川(よかわ)出身の聖とも言われる。
 ある時、山中で身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿から子鹿が生まれ出るのを見て、殺生の非を悟って仏門に入ったといわれる。
 藤原道長(御堂関白)の三男の藤原顕信は、寛弘9年(1012年)に行円の教えに感銘を受けて剃髪出家したとされる。

 行円上人は夢の中で神のお告げにより、賀茂神社にある槻(けやき)の木を得て八尺の千手観世音菩薩を彫り、これを一条の小川辺に本尊として安置して行願寺と名付けた。この旧地には、革堂町・革堂仲之町・革堂西町などの町名として残っています。

 行円は頭に仏像を戴き、身には鹿皮の衣を着けていたため、人々は皮聖(かわのひじり)とも皮上人とも呼び、寺は革堂(こうどう)と呼ばれた。

加茂明神石塔
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五輪塔水輪の中に祀られた不動明王石仏

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 境内の西北隅に五輪塔の「加茂明神石塔」が立つ。高さ約3メートルで花崗岩製。
 行円が加茂明神の夢告により、加茂社の槻の木で本尊の千手観音像を刻んだとき、報恩のために加茂神を勧請し、この塔を造立して祀ったという。しかし、塔の造刻年代は平安時代ではなく鎌倉時代のものとされる。
 塔の水輪に方形の穴を穿って、不動明王石仏が安置されているが、これは当初からのものではない。
 笠石(火輪)の軒裏に一重の垂木型作り出しがあるのは珍しいものといわれる。高さ3m、花崗岩製。




2022年3月 4日 (金)

二条城撮影所

二条城撮影所跡の碑

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 京都の太秦(うずまさ)には、幾つもの映画撮影所があります。
 現在も東映京都撮影所(京都市右京区太秦西蜂岡町)と松竹撮影所(京都市右京区太秦堀ケ内町)があります。
 そしてこの地には他にも、昭和3年(1928)日活太秦撮影所が設立され、同17年(1942)には大映がこれを引き継いでいたのですが、同社は昭和46年(1971)に倒産して撮影所も閉鎖されました。

 ところで、初めて京都に撮影所が開設されたのは明治43年(1910)のことでした。
 その場所は、二条城の西南の地(西ノ京北聖町)で、今の京都市立中京中学校のグラウンド際にあります。江戸時代のこの地は、西町奉行所の一角ということになります。
 かつて、牧野省三と組んで横田永之助が興した横田商会が、京都で初めての撮影所をここに開設しています。
 美福通押小路の交差点北西角に「二条城撮影所跡」碑があって、それには次のように記されています。

 「この撮影所の規模はおよそ300坪の土地に2間×4間の低い板敷の舞台をしつらえ、それを開閉自由の天幕で覆うという簡単なもので、背景はすべて書き割りであったと言うが、大正から昭和初期の日本映画隆盛の一時代を築いた京都の映画産業の礎となった。
 ここで、日本映画の父と言われる牧野省三が、尾上松之助とコンビを組み、最初の作品「忠臣蔵」を撮影し」たとあります。

 しかし、この二条城撮影所は手狭となったために2年ほどで閉鎖されました。その後、幾多の変遷を経てやがて太秦の地に移って行き、日本のハリウッドと呼ばれたということです。

 ちなみに、現在の東映京都撮影所には、「東映太秦映画村」という映画のテーマパークを併設していて、人気の観光地となっています。
 ここでは、昭和50(1975)年にオープンセットの一部を開放して、実際の映画撮影が見られる「日本初のテーマパーク」として、活きた映画撮影所を体感できる施設となっています。



2022年2月18日 (金)

鴻臚館のこと

東鴻臚館址の碑
 下京区西新屋敷揚屋町(「角屋もてなしの文化美術館」横)

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 東鴻臚館はこの碑からおよそ100mほど南に位置した。
 ちなみに、旧遊郭島原の大門から花屋町通東方の櫛笥通までを薬園町という。この町名は渤海国の使節がもたらした薬草を栽培した薬草園に由来するとも言われる。

 「鴻臚館」は、音読して「こうろかん」と読みます。
 古代に日本へ来た外国使節を接待した施設で、言ってみれば迎賓館にあたるもの。奈良朝のころ太宰府・難波に置かれ、平安期になって平安京に置かれたようです。

 平安京の鴻臚館は、はじめは朱雀大路の羅城門を入ったところに、左右の2カ所設にけられた。
 しかし、延暦15年(796)に国家鎮護・王城鎮守のため官の寺、東寺と西寺を造営するにあたって七條大路の北に移転された。
 新たに造営されたのは現在の七条通と正面通の間で、朱雀大路(現・千本通)を挟む形で、東西対称に東鴻臚館と西鴻臚館が設けられ、二町四方の土地を占めていたようです。
 東鴻臚館は、西新屋敷(島原)の南、七条通から北で現在の朱雀正会町・夷馬場町にあたる。
 西鴻臚館は、七条通から北で中央卸市場と七本松通の間。現在の朱雀堂ノ口町・朱雀宝蔵町・朱雀北ノ口町にあたる。

 この鴻臚館で接待したのは渤海国の使者で、日本との通交は神亀4年(727)に渤海使が来日したのに始まり、延喜8年(908)までの間に34回にわたって日本に来ている。その後に鴻臚館は衰微したようです。
 渤海というのは、現在の中国東北地方東部・ロシア沿海地方・北朝鮮北部にあった国で、698年に建国し、926年に契丹の侵攻を受けて滅亡しました。



2022年1月28日 (金)

ランプ小屋

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 この「ランプ小屋」は、JR奈良線の「稲荷」駅に残されています。

 日本の鉄道は国が設置とともに運営をする方式で、明治5年(1872)に新橋〜横浜間が開通しました。
 明治7年(1874)に大阪〜神戸間が、明治10年(1877)に京都〜大阪間が開業しました。そして、東海道線新橋〜神戸間の全線が開通したのは明治12年(1889)でした。

 東京へ向けて延伸するため、明治13年(1880)に京都と膳所(旧大津駅)の間を開業しました。
 ところが、この東海道線の京都〜膳所間は現在とは違って、大正10年(1921)まで京都〜稲荷〜山科〜大谷〜馬場(膳所)というルートで結んでいたのです。

 なぜ、京都から真っ直ぐ東へと向かわないで、このように迂回するルートをとったのでしょうか。それは、東山山地が南端の一部を除くと大部分が急傾斜地であったためでした。
 このような、急曲線と連続急勾配となる立地条件であったため、いったん京都から稲荷まで南下したうえ、ここから北東へ大谷を経て膳所に至るという、東山と山科盆地を大きく南に迂回するルートをとったのです。

 しかし、技術の進歩により大正10年(1921)、東山トンネルと新逢坂山トンネルを掘削して、京都〜膳所(大津)の間を最短距離で結ぶこととなったのです。
 このため、旧ルート中の京都〜稲荷間は、現在ではJR奈良線の一部となっています。

 当時の列車前照灯や客車内照明、保線・駅員の持つ信号灯などは電球ではなくランプを使用していたのです。その油の貯蔵や灯具の保管・整備のために設けられたのがランプ小屋で、主な駅に設置されていたそうです。その一つが旧東海道線ルートの稲荷駅(現在のJR奈良線)に残されているものです。
 このランプ小屋、国鉄最古の建物として昭和45年(1970)に準鉄道記念物に指定され、現在では昔使用されていた鉄道標識等を収蔵しています。




2021年10月22日 (金)

天明の大火(団栗焼け)

 京都は平安京以来、一千年にわたって都であったため地震・風害・洪水などの気象災害や火災など、多くの災害の記録が残されているようです。
 近世(江戸時代)の京都では、ほぼ80年ごとに大火事が発生していて、宝永の大火・天明の大火(団栗焼け・申年の大火とも)・元治の大火(どんどん焼け・鉄砲焼けとも)の三つは「京都三大大火」と呼ばれます。また、この間には、西陣焼けとも呼ばれる享保の大火も発生しています。
 今回は、天明の大火を見てみます。ただ、その被害状況は当然のことながら史料により数字が異なっていますが、この記事では『京都坊目誌』の挙げているものを記しています。

 これらの火災のうち天明の大火は、京都で発生した大火災の中でも火災規模としては、空前絶後ともいえる最大のものでした。
 天明8年(1788)1月30日、団栗辻子新道の角の民家の失火が元で、火は強風に煽られて加茂川の西へも超えて、当時の京都の市街地のほぼ全域を焼き尽くしたのです。世間ではこの火事を天明大火と称し、また出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしの たいか)とも呼ばれた。

天明大火犠牲者の供養塔

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  清浄華院(上京区寺町通広小路上ル)
 供養のための五輪塔そばの石碑には、「焼亡横死百五十人之墓」とあります。
 清浄華院のホームページによると、死者150人というのは幕府の公式見解で実際にはもっと多かったものと考えられ、清浄華院の記録『日鑑』には死者2600人という風聞が記録されているそうです。


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 円通寺(上京区東三本木通丸太町上ル)
 「為焼亡横死」(しょうぼうおうしのため)と刻まれた犠牲者を供養する石碑が建てられています。

 被害状況は史料によって異同がありますが、『京都坊目誌』は次のように記しています。
 「天明八年正月晦日河東團栗辻子火あり、暴風頻に發り火焔京中に漲る、皇居、仙院、二條城本丸、所司廳以下を延焼す。此災や東は大和大路、西は七本松、南は七條、北は安居院に至り、公卿の邸宅百三十、武家の第六十、神社三十七、寺院二百一、市町千四百二十四、民家三萬六千七百九十七戸、死者二千六百餘人の多きに至る。應仁以來の災害にして、世に天明大火と稱す。」

 『京都坊目誌』また、次のようにも記しています。
 「天明大火 寳永大火に比し、更に激甚の被害にして、應仁以來の大火とす、(略)。  天明八年正月二十九日夜、亥ノ刻艮位より狂風起り丑ノ刻に至り、強〻強烈にして寅ノ刻下刻より寅卯の風位、猛威を極め偶〻行路の人馬を倒す程也。晦日寅刻賀茂川の東、宮川町團栗辻子新道の角、兩替商某方より失火し、忽ち東石垣町、宮川町を焼き、五條橋に至る。暴風更に加はり (略)。二日卯の刻にして熄む。」




2021年4月16日 (金)

別の名もあった通り 2 ー大黒町通ー

 大黒町通は、大和大路通の一筋西側を南北に通っている道で、北は松原通から南は七条通に至る道です。
 『京都坊目誌』には、大黒町通の名称由来を「此街壽延寺に大黒天の像を安置す。故に名く。」として、大黒町通松原下ル北御門町にある寿延寺に祀られた大黒天像に因むとしています。

寿延寺

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 『京町鑑』などの地誌によると、その大黒町通には次のように区間によって別の呼称があったようなのです。

大黒町通

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 『京町鑑』では「骨屋町通」についての記述の中で、「但此通五條通より北は大黒町なり」とあるように、五条通から北の松原通までの間を大黒町通と称していたようです。

骨屋町通
 上掲『京町鑑』に、「◯骨屋町通 △此通の南に扇子の骨を製作するもの多く住す故に號す」とし、「⚫︎但此通五條通より北は大黒町なり扨五條下ルより南は大佛正面まで」と記しています。
 つまり、五条通から南の正面通までを骨屋町通と称したのです。この一帯に扇子の骨を製作する者が集住したことが名称の由来だとする。

袋町通
 「袋町」の仁丹町名表示板(写真提供は京都仁丹樂會)

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 『京都坊目誌』には、「大黒町通 (中略)、五條以南にて、袋町通又耳塚通とも称す。正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」とあります。
 なお、この「袋町通」は、大黒町通五条下ルに「袋町」が所在することが名称の由来。なお、往時の袋町へは南から北に向かって入るが、その先で音羽川の流れに阻まれて五条通まで通じていなかったため、袋小路となっていたことから生じた呼称だとする。

浄雲寺
 寺門の正面奥に見える本堂の裏手で音羽川は流路を変えていた。

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音羽川跡の一部(前方の人家の間の細い道)

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本町公園から流路跡の音羽川北通を望む

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【註】音羽川は、現在では流路のほとんどが暗渠になっているため地図に現れていません。近世末の地図や『京都坊目誌』によると、清水寺奥の院にある「音羽の滝」に発して南西に流れ、五条橋東六町目を経て馬町通(現・渋谷通)の北裏沿いを西に流れ、常磐町・鐘鋳町・芳野町・石垣町・袋町の町々の北側を流れて、本町一丁目の東側にある浄雲寺に行き当たると、ここから南に流れを変え本町三丁目と四丁目の境界の辺り(今の本町公園)から通称音羽川北通りを西に向かい鴨川に流入していたようです。

耳塚通
 『京町鑑』は、「此通北は大佛正面通より南は七條通迄」としている。
 耳塚通は大黒町通の正面から南をいうが、通り名の由来は正面通に耳塚が所在するため。

耳 塚

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【註】耳塚は、豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した時(文禄・慶長の役)、討ち取った朝鮮人の耳や鼻を集めて、持ち帰りここに埋めたという。

塗師屋町通
 耳塚通は塗師屋町通ともいう

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 『京都坊目誌』には、耳塚以南については耳塚通りの呼称のほかに、「正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」として、正面通から南つまり耳塚以南を塗師屋町通とも称したとしている。
 髹(きゅう)塗り、つまり漆塗りを業とする者が住んだことからこのように呼んだという。




2021年2月12日 (金)

我が国初の有料橋?「一文橋」

 かつて、京都の東寺口(南区)から乙訓郡の山崎を経て、摂津国(いまの大阪府北部と兵庫県の一部に当たる)の西宮へと抜ける街道(西国街道)がありました。
 その道筋には現在も往時の名残りを残すところがあり、以前にこの街道を辿って記事にしたことがありました。

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 この旧街道で、向日市と長岡京市の境界を流れる小畑川に架けられた橋を「一門橋」という。
 この小畑川は、現在の国道9号に平行する旧「山陰街道」老ノ坂旧峠の首塚付近を源流とする川で、大山崎下植野に至って桂川に合流している。

 ところが、かつての小畑川はしばしば氾濫を起こしていたようで、平安期の歴史書『日本紀略』にも記録されているそうです。
 この小畑川氾濫が、長岡京をその造営後わずか11年で放棄して、平安京に遷された理由の一つとする見解もあるようです。

 さて、「一文橋」に話しは戻ります。
「一文橋の由来」を記した石碑」

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 大雨になるとかつての小畑川は堤防が壊れ、橋が流されるほどのいわゆる「暴れ川」だったということです。
 京と西国とを結ぶ主要街道に架かる橋であるため、大雨が降るたびに橋の架け替え費用を賄うのは大変なことでした。
 そのため、橋のたもとに料金徴収所をもうけて、橋を渡る通行人から通行料として1文ずつ徴収することにしました。これが「一文橋」の名前の由来で、日本で初めての有料橋だったかも知れないというのです。

 なお、現在では町名で「一文橋一丁目・二丁目」もあります。




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