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道標・史跡などの石碑

2019年10月18日 (金)

消えた小椋池

 以前、といっても戦前のことなのですが巨椋池(おぐらいけ)という池が存在しました。
 東西4km、南北3km、周囲が16km、面積は8㎢(800ha)もある広大な池でした。現在の京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町の3市町にかけて広がっていたのですが、当時としては京都府下の淡水湖では最大の面積をもつ池でした。

往時の巨椋池
 淡交社『写真集成・京都百年パノラマ館』所載

Oguraike
 巨椋池一帯は宇治・木津・桂の三川が合流する低湿地であることから、沿岸は水禍の絶えない土地だった。そのため、水運・漁獲といった利益が損なわれることも多かった。
 昭和6年(1931)の満州事変以降、中国での侵略戦争を拡大していった日本は、昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入します。
 そうした折、食料不足から米増産のため、昭和8年(1933)に国営事業として巨椋池の干拓工事に着工します。そして、昭和16年に完工を見て約635haの水田地帯に変貌したのです。

巨椋池干拓之碑

 昭和17年11月の建立で、篆額は農林大臣井野碩哉。
 巨椋池が干拓農地となるに至った経緯が記されている。

Photo_20191006163901
 今や干拓で姿を消した巨椋池は、古歌と地名にその名残りをとどめるだけです。
 『万葉集』に(原文)「巨椋乃  入江響奈理  射目人乃  伏見何田井爾  雁渡良之」という柿本人麻呂の歌があります。
 訓読すると、「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」となります。
  註:「とよむ」=響き渡る、「射目人」=伏見の枕詞、「田井」=田んぼ、「らし」=違いない。

巨椋神社

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 巨椋の語源は、古代の有力氏族であった巨椋連に因む、あるいは巨椋連の祖神を祀る巨椋神社に由来するなどといった説があります。
 しかし、一方では巨椋池一帯は、京都盆地では最も低湿な土地で、宇治川・木津川・桂川が流れ込む遊水池の役割を果たす湖沼であり、池の西端近くから淀川に流出していました。このような大きく刳られて、周囲よりも低い地形であることから来ていると見る向きもあるようです。

淀 大橋 孫橋
 挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から

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 京師より南の方三里にあり。顕住密勘に云く、淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとゞこほり、ぬるくとまれるなり。それをば淀といふ、河淀ともよめり。此淀川といふも、桂川、鴨川、宇治川、木津川等のをちあひて深ければ、よどみぬるくながるゝなり。云々」とあり、三川が寄り集まり川の水が澱んで滞留したことが、淀の地名由来だとしています。
 註:「顕住密勘」というのは、藤原定家等撰集になる『古今和歌集』の注釈書


 かつての巨椋池一帯の地名で、槙島・向島・上島・下島など「島」のつく地名は、巨椋池に流れ込む3川の運んだ土砂が作り出した島々の名残りなのです。

 ところで、ここまで「巨椋池」という呼称で説明してきましたが、この名称は明治以降になってからのものであって、江戸時代までは「大池」と呼ばれていたようです。
 文禄3年(1594)、豊臣秀吉は伏見城を築城するにあたって、大土木工事を実施します。
 それまでの宇治川は、宇治橋の少し下流にある彼方(現・乙方)で、大池に直接流れ落ちていましたが、大池と宇治川を分離する槙島堤を築いて、宇治川を大きく北ヘ迂回させて指月城(伏見城)の築かれた「指月の丘」の南側まで北上する新流路に付け替えました。
 註:謂わゆる伏見城というのは大きく分けて4つ(4期)ありました。1期は秀吉が聚楽第から引き移った隠居屋敷、2期が隠居屋敷を本格的な城郭として修築した「指月城」、3期は慶長の大地震で指月城が崩壊したためそこから東北の木幡山に新たに再建した木幡山城、4期が関ヶ原の戦いの前哨戦としての伏見城の戦いで焼失した木幡山城を徳川家康が再建した城。

 このとき、大池に槙島堤・小椋堤・大池堤・中内池堤など、太閤堤と総称される大規模な堤防が築かれたことで、大池・中内池・大内池・二の丸池の四つに区切られました。

指 月
 挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から

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 「江戸町より西の地名なり。此所伏見の勝地にして、前には宇治川の流れを帯て舟のゆきゝあり、西南は巨椋池の江渺々として方一里の水面なり、月を愛するには無双の景色にて、いにしへより高貴の楼閣をいとなみ、清質の悠々たるを升、澄暉の藹々たるを降すの地なり。」と記されていて、名だたる景勝の地であったようです。
 そして、現在の伏見区桃山町泰長老を中心とする「指月の丘」の麓と向島の間を流れる宇治川に、豊後橋を架けます。
 それまで京都と奈良を結ぶ大和街道は、宇治川の東側を木幡・宇治の彼方(乙方)・宇治橋を経ていたものを、宇治川の付け替えで伏見城下・豊後橋・向島から巨椋池池中の小椋堤を経て小倉・伊勢田・広野という経路に変えました。
 また、大池の西方では大池北岸に淀堤を築いて、宇治川を向島の西から淀川につないで、伏見と大坂の間に水運を開きました。

 以下は関連記事の予告です。
 往時の巨椋池の西南の端、淀の近くに「一口」と書いて「いもあらい」と読む集落があります。これは難読地名の最たるものでしょう。
 近いうちに、この「一口」の地名由来を記事にしてみたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

2019年8月23日 (金)

結界石

 結界石というのは、境を示す標(目印)であり、「聖の領域」と「俗の領域」を分ける標識なのです。
 寺域や修行の場など特別な地域(結界)では、宗教上の妨げとならないよう秩序を維持する必要から、結界(聖域)と俗界(俗世)とを分けるために建てられています。

 したがって、結界石に刻まれた銘文は、聖域の秩序を維持するうえで禁止されている行為等が刻字されています。

諸肉五辛不入山林(大山崎・山崎聖天)

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不許酒肉五辛入山内(上京区三軒町・安楽寺)

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 以下は結界石に刻まれた銘文のいろいろです。

1. 結界であることを示す
  大界外相
  摂僧大界

2. 結界への持ち込みを禁じるもの
  禁酒肉五辛入門内
  諸肉五辛不入山林
  不許酒肉五辛入門内   
  不許葷酒葷酒入山門
  不許葷辛酒肉入山門
  不許葷肉入門
  不許葷酒入山門
  禁葷酒   
  山門禁葷酒
   
3. 結界に立ち入りを禁じられた者や禁止行為
  従是女人結界   
  不許藝遊客
  禁藝術賣買之輩
  

禁じれれている事柄とその理由は次のようなものです。
① 五辛(五葷とも)
 葫(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・韮(らっきょう)・蘭葱(ひる)を云う。
 みんな辛味や臭気が強いこと、また食べると精力がついて性的な欲望を生じるそうな。
② 酒・肉
 酒池肉林、紂王やないんやから贅沢きわまりない酒宴はやったらアカン、ダメダメ!。
 酒食をすると気分晴朗・気宇壮大になって、仏道修行も大いに捗ると思うんやけどな。
③ 女人(にょにん)
 女の人の艶やかな容色は出家の心をも乱して、仏道に励むうえで妨げになるらしいわ。
 紅灯緑酒はアカンね。ンッ?紅灯の巷で坊主を見かけるけど、禁じられた遊びやんか!




2019年8月 9日 (金)

宴の松原

「宴の松原」址碑

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 「宴の松原」というのは、平安京大内裏の内裏西側、武徳殿の東側、豊楽院の北側にあった広大な空閑地で、南北が約430m、東西が約250mの広さの鬱蒼とした松原であったという。
 その場所は、大内裏(平安宮)の正門である朱雀門と北端の偉鑒門をつなぐ中心線の西側、つまり内裏(御所)のちょうど西側となります。現在の上京区出水通七本松付近が、当時の「宴の松原」の中心にあたるでしょうか。
 この「宴の松原」が何を目的とした用地であったのかは明らかではありませんが、天皇の代替わりに際して内裏建て替えのための用地という説、宴(うたげ)を催すための広場という説などがあるようです。

 「宴の松原」の話は、「今ハ昔(今となっては昔のことだが)」という書き出しの部分と、「トナム語リ傳へタルトヤ(・・・と語り伝えられている)」の締め括りで有名な、平安時代後期の説話集『今昔物語集』にも、鬼・妖怪の出る不気味な場所として描かれています。
 ちなみに、この話は『三代実録』では、仁和3年(887)8月17日夜の出来事としています。

 まずその原文を、そして酒瓮斎による下手糞な現代語訳をご覧ください。

『今昔物語集』巻第二十七
「於内裏松原鬼成人形噉女語」第八
 今昔、小松ノ天皇ノ御世ニ、武徳殿ノ松原ヲ、若キ女三人打群テ、内様へ行ケリ。八月十七日ノ夜ノ事ナレバ、月キ極テ明シ。
 而ル間、松ノ木ノ本ニ、男一人出来タリ。此ノ過ル女ノ中ニ、一人ヲ引ヘテ、松ノ木ノ景ニテ、女ノ手ヲモ捕ヘテ物語シケリ。今二人ノ女ハ、「今ヤ物云畢テ来ル」ト待立テケルニ、良久ク見エズ。物云フ音モ為ザリケレバ、「何ナル事ゾ」ト怪シく思テ、二人ノ女寄テ見ルニ、女モ男モ無シ。「此レハ何クヘ行ニケルゾ」ト思テ、吉ク見レバ、只、女ノ足手離レテ有リ。二人ノ女、此レヲ見テ、驚テ走リ逃テ、衛門ノ陣ニ寄テ、陣ノ人ニ此ノ由ヲ告ケレバ、陣ノ人共、驚テ其ノ所ニ行テ見ケレバ、凡ソ骸散タル事無クシテ、只足手ノミ残タリ。其ノ時ニ、人集リ来テ、見喤シル事限無シ。「此レハ、鬼ノ人ノ形ト成テ、此ノ女ヲ噉テケル也ケリ」トゾ、人云ケル。
 然レバ、女、然様ニ人離レタラム所ニテ、知ラザラム男ノ呼バハムヲバ、広量シテ、行クマジキ也ケリ。努怖ルべキ事也トナム語リ伝ヘタルトヤ。


『今昔物語集』巻第二十七
「内裏の松原で鬼、人の形となって女を喰うこと」 第八
 今となってはもう昔のことだが、小松天皇の御代に、武徳殿の松原を若い女が三人で連れ立ち内裏の方へ歩いていた。八月十七日の夜の事ということでもあり、月は大変明るかった。
 やがて、松の木の下に一人の男が出てきた。この通り過ぎる女達の一人を呼び止めて、松の木の陰で、女の手を取って話し始めた。もう二人の女は「すぐに話し終わって戻ってくるでしょう」と待っていたけれども、戻って来る気配が無い。
 話し声も聞こえないので、「どうしたのかしら?」と怪しく思って、二人の女が近寄って見ると、女も男もいない。「これはどこに行ってしまったのかしら?」と思ってよく見ると、ただ、女の足と手だけがバラバラに残っていた。
 二人の女はこれを見て、驚き走って逃げ、警護詰所に駆け込んで、衛士にこの事を告げると、衛士達も驚いてそこへ行って見たけれど、死骸は散らばっておらずに、ただ、手足だけが残っていた。
 その時、人々が集まって来て大騒ぎとなった。
 「これは、鬼が人の形に化けてこの女を喰ったのだ」と人々は言い合った。
 だから、女はそのような人気の無い所で、知らない男から呼びかけられても、気を許してついて行ってはならない。忘れないようにしなければならない事だと語り伝えられている。


「宴の松原」の位置
  図をクリックすると拡大して見やすくなります
 (『武徳殿』「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」から転載)
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2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年4月12日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その1

はじめに

 このシリーズでは、高野川流域を巡り歩いて、少しばかり往時の名残りを偲んでみることにしました。そして、市内中心部ほどには多くないのですが、残っている「仁丹町名表示板」のいくつかをお見せします。

 高野川流域の一帯が京都市左京区に編入される前は、「愛宕郡(おたぎぐん)」に属する村々でした。それらの一帯を高野川と賀茂川の合流点から、高野川の左岸(東岸)に沿って上流へと順に見ていきます。
 高野川左岸には、北ヘ順に田中・高野・山端と続きます。また、山端の対岸つまり高野川の右岸(西岸)には松ヶ崎が位置しており、その上流は川を挟むかたちで、上高野・八瀬・大原の順に北東へと続きます。


 京都市街地の北西から流れてくる賀茂川と、北東から流れてくる高野川の合流する所、そこは三角州になっていてその南端は鴨川公園となっています。
 地元ではここを《鴨川デルタ》と称していて、時候の良い頃の休日には多くの親子連れや若者グループで賑わう憩いの場となっています。
 それにしても、なぜ《高野川デルタ》ではないのだろう? やはり、昔から鴨川の方が世間によく知られた河川だったからなのでしょうか?

鴨川デルタ

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 ちなみに、賀茂川の源流は、京都市北区の北端と南丹市の境界近くにある桟敷ヶ岳付近です。そして、北山の山中から上賀茂を経て市街地へと入ってきます。
 また、《鴨川デルタ》から南では、川の名前の表記が「賀茂川」から「鴨川」に変わります。
 そして、鴨川デルタの西方一帯は《出町》と云う通称で呼ばれています。

高野川御蔭橋から北方を望む

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 一方、高野川の源流は、有名な観光地である大原の北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の北部山中です。そして高野川は、大原では「大原川」、八瀬では「八瀬川」の呼称があり、どちらも歌枕になっている。
 この高野川の東側にほぼ沿うように北上するのが、滋賀県(近江)・福井県(若狭)へと通じる若狭街道(大原街道)で、「鯖街道」という通称もあります。
 この辺りは、京都の出入口「京七口」の一つであった「大原口」でした。

「鯖街道」の道標

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【次回へ続く】





2018年5月11日 (金)

時雨亭(しぐれのちん)

 藤原定家は「百人一首」を嵯峨小倉山の山麓にある山荘で編んだと伝わることから、「小倉百人一首」とも云われます。しかし、実は撰者・成立年ともに確認できていると云うわけではないようです。
 定家のこの山荘は小倉山荘あるいは嵯峨山荘とも呼ばれたのですが、のちには「時雨亭(しぐれのちん)」と称されるようになりました。
 ところが、実はこの「時雨亭」跡として伝わるものがあちこちにあって、小倉山の近辺だけでも厭離庵・二尊院・常寂光寺の三ヶ所にあります。

 「百人一首」は鎌倉時代の初めの頃に、藤原定家が各時代の著名な歌人百人の歌を一首ずつ選んだものです。(定家は「新古今和歌集」の撰者であり、「新勅撰和歌集」をも撰集しています)
 定家は藤原俊成の息(次男)で、京極殿あるいは京極中納言と称されました。
 この百人一首は、鎌倉幕府御家人で歌人の宇都宮頼綱(出家して蓮生)から、山荘の襖の装飾のために色紙の作成を依頼された定家が、選んだ歌をしたためたものだそうです。

《定家山荘跡の歌碑(常寂光寺)》
  小倉山みねのもみじ葉心あらば
     今ひとたびの行幸待たなむ 貞心公(藤原忠平)

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 時雨亭の古跡とされる所が、何故このようにあちこちに存在するのか?

 『都名所圖会』中の「厭離庵」に、その理由を次のように記しています。

 「京極黄門定家卿の山荘あるひは時雨亭と號る舊跡、ところ〴にあり、かの卿の詠歌により、又は少しき因になづみて後人これを造ると見えたり。
 続拾遺 いつはりのなき世なりせば神無月
         誰まことより時雨そめけん 定家
此歌を種として謡曲を作したり、時雨亭も是より出たり、実あるにあらず。」

 

 つまり、「時雨亭」を称する旧跡はあちこちにあるけれども、これは定家の読んだ歌、あるいは何らかのつながりや縁故をもとに、後世の人達が造り出したと見られるとしています。
 
 また、宝生流謡曲の「定家」、そして「時雨亭」という名称も、定家の歌「いつはりのなき世なりせば・・・」を素材としているとされるが、事実ではないとする。 
 

 なお、『都名所圖會』以外の地誌においても、時雨亭は「舊跡所々ニアリ(『山州名跡志)」、「いづれか其所さだかならず(『京羽二重織留』)」などとしています。

 次下は、時雨亭跡の記述がある諸本をいくつか拾ってみました。 

1. 厭離庵 (右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2)
 「小倉の山荘といふは、清涼寺西の門より二尊院までの道、二町ばかりの民家ある所を中院町といふ。いにしへは愛宕山の末院あり、今絶て所の名とせり 此半を北ヘ入る細道あり、竹林の後のかたに門ありて東に向ふ、これを厭離庵といふ。門の内に柳の水といふ清泉あり、草庵の跡は西の高き所と見えたり。(後略)」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』『山州名跡志』などにも記述あり。

 《小倉山荘旧址碑》

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 《厭離庵》

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2. 二尊院 (右京区嵯峨二尊院門前長神町27)

 「黄門定家卿の山荘といふ舊地は、仏殿のうしろの山腹にあり。かの卿より以前諸堂魏々たり、後世小倉山に寄りて號る物か。」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡》

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 《二尊院境内》

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3. 常寂光寺 (右京区嵯峨小倉山小倉町3)

 「定家卿の社は南の山上にあり。此所も彼卿の山荘のよし。(後略)」『都名所圖會』
 『京羽二重織留』『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡碑》

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 《常寂光寺からの展望》

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 その他にも、次のようなものがありました。
4. 相国寺塔頭普光院 (上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701)
  『京童跡追』『山州名跡志』『京羽二重織留』

5. 般舟三昧院(元・歓喜寺跡) (上京区今出川通千本東入般舟院前町151)
  『都名所圖会』『山城名跡巡志』『山州名跡志』『京羽二重織留』

6. 白毫院  『京童跡追』  雲林院の末院だったらしく、南北朝期までは存続したが応仁の乱で荒廃したとみられ、伝わる所在地も一定しない。

7. 小倉山 『京童』

8. 衣笠山東麓 『山州名跡志』

2018年4月20日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 2

2:産業振興とインフラ整備

① 産業振興
 東京への遷都によって京都は政治面での再興は望むべくも無いことから、危機を乗り越えるためには産業振興を拠り所として経済的な復興を目指すことになります。
 こうして、京都の再生と復興を懸けて、「京都策」と呼ばれた近代的な殖産興業政策に取り組みます。

 欧米の最新技術を導入して勧業事業に取り組むため、明治3年(1870)10月に舎密局を、明治4年(1871)には産業振興を図って勧業場を設置します。
 舎密局では、ドイツの化学者ワグネルを招聘して新技術の導入を図るだけではなく、人材育成のため科学技術の教育・研究にも取り組みました。

《ワグネル》
 
岡崎公園 府立図書館の脇にある。島津製作所の創業者島津源蔵もワグネルに教えを受けた。

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《舎密局跡

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 産業振興のための中枢組織である勧業場は、欧米の先進的な技術を導入して諸々の製造施設を設置します。このために、産業基立金として国から15万円を借り入れました。

《勧業場址碑》

 元長州藩屋敷跡で払い下げをうけて常盤ホテルとなる。(その後、京都ホテルから京都ホテルオークラに)

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 殖産興業策の実施にあたって、とりわけ大きな影響をもたらしたのが琵琶湖疎水の開削でした。
 当初の目的は、水運・灌漑・上水道・水車による動力でした。しかし、水車を動力源とする計画については、疎水を利用した水力発電に計画変更されました。
 明治18年(1885)琵琶湖疎水工事を起工、明治23年(1890)には疎水工事が完成して、翌年には蹴上水力発電所が送電を開始します。

《蹴上発電所》

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 産業振興に関して主なものをランダムに挙げて見ると、京都電燈会社の設立と火力発電所設置、京都織物会社・京都陶器会社の設立営業、京都電気鉄道が開業、京都電話交換局の設置などが挙げられます。
 
 ところで、明治初期のそうした難儀の折も折、米価が非常に暴騰して府財政が困窮したため、救貧のための備米(つみまい)50万石の下付を太政官に出願し、東京へも出向いて行って陳情しました。
 その結果、請願が認められて産業基立金として5万両を下げ渡されました。(【註1】参照)
 さらに、翌3年7月には再び5万両の追加下付金があり、このときの政府の措置は京都にとっては空前の恩恵とも云えるもので、俗に「朝廷からのお土産金」とも「天皇から京都への手切れ金」とも称されたそうです。
 ちなみに、明治2年に「両」を「円」に改めているため、二度の下げ渡し金は合計で10万円の下付金となった。(【註2】参照)
 この10万円を明治3年から同13年までは京都府で管理運用していたが、同14年に上・下京の両区役所へ移し、両京連合区会の評決により公債証書を購入しました。そして、さらに利殖方法を工夫したところ、同22年には元利合せて39万6,970円50銭の多額を数えるに至ったそうです。
 京都市は、これを明治23年(1890)に完成した第一琵琶湖疎水の工事費として支払うこととしました。そして、翌年には蹴上に水力発電所が建設され、琵琶湖疎水は京都の再生と近代化に大きく貢献したのです。

【註1】明治3年3月付太政官示達「今般格別之御詮議を以て其府下人民産業基立金として五万両被渡下候間、取計方行届候様、御沙汰候事 太政官」
【註2】昔のお金と今のお金の価値を比べるのは簡単なことではありません。人々の生業や賃金、生活様式も違い、生活に必要な用品も異なるからです。物価も賃金水準も年々変化しているので、同じ明治時代でもその前半と後半では大きな違いがあったでしょう。
 明治5年の米価を基準にして比較すると、当時の1円は現在の1万円位に相当するようですから、下付金の10万円はざっくり言って今の10億円程度に相当するのでしょうか。



② 都市インフラ整備
 明治28年(1895)4月から7月まで開催された「第四回内国勧業博覧会」は、京都復興の成果を内外に広く喧伝するイベントとなりました。
 この内国博覧会は、それまで東京で開催されていたものを京都へ誘致することに成功したもので、「平安遷都1100年記念祭」の一環として岡崎で開かれ、その入場者は最多の114万人を越えたと云う。
 そして、平安神宮が建立され、時代祭の始められたのもこの時でした。
 なお、京都電気鉄道が日本で最初の路面電車を塩小路東洞院と伏見油掛の間を営業運転した電車が、この内国博覧会開催の時に岡崎まで路線が延伸されました。

《電気鉄道発祥地碑》

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 そして、インフラ整備という点では、明治末期の明治41年(1908)から4年間をかけて、「三大事業」と称した大規模にして近代的な都市基盤づくり事業を実施して完成しています。
 一つは、第二琵琶湖疎水の開削。
 二つは、第二琵琶湖疎水を利用した上水道の整備。
 三つは、道路の拡張・延長整備と市営電気軌道敷設。
 これらを集中的に実施したことで、京都市街地の都市基盤整備は飛躍的に進みました。

2018年2月 9日 (金)

夕顔ノ塚

 堺町通の高辻から松原の間に、「夕顔町」という町があります。
 この町にある古跡「夕顔之墳」と夕顔伝説が町名の由来となっていますが、これは『源氏物語』第四帖「夕顔」に起因しています。

「夕顔之墳」碑(夕顔ノ塚碑)
 この写真、碑文は少し見辛いのですが、次のように彫られています。

    源語伝説 
         夕 顔 之 墳
    五 條 辺

 この「五條」というのは現在の「松原通」にあたります。

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 「夕顔」は『源氏物語』の登場人物です。もとは頭中将(とうのちゅうじょう)の愛人で、「常夏(ナデシコの古名)の女」と呼ばれていた。
 光源氏が乳母(随臣藤原惟光の母でもあった)の「五条なる家」へ見舞いに訪れたとき、その隣家の荒れ果てた家に頭中将の愛人という境遇から身を引いた夕顔が住んでいた。
 その隣家の垣根に咲くユウガオの花に惹かれた光源氏は、侍臣の惟光に花を貰いに行かせた。
 そうすると、隣家の女あるじ(夕顔)は花に添えて歌を贈った。ユウガオの花が光源氏と夕顔を引き合わせるような筋書きとなっています。

 『京都坊目誌』に「夕顔家ノ址 夕顔墳と稱し。石塔高三尺許り。寳筐印塔式の苔に蒸されて。古雅なるものあり。今言ふ松原は。古昔の五條なり。源氏物語夕顔ノ巻二。光君五條渉りを過ぎ給へるに。荒たる家に夕顔の花あり。随臣惟光をして彼の花を求めしむるに夕顔の宿の主の女。之を折りて奉り。併せて和歌を詠す。
  心あてにそれかと見るしらつゆの
      ひかりをそへたる夕顔のはな
 後人右の由縁により。墳を築きしなり。或は云ふ。夕顔と稱する女ありて此地に住す。紫式部彼の物語の趣向に附會して。夕顔ノ巻を作意せしものなりとも云へり。」

 この謂れは、『京羽二重』『山州名跡志』『山城名跡巡行志』などにも記されている。

夕顔ノ塚 (『都名所圖会』より)
   
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 図中の文を次のように読みました。しかし、くずし字についての知識が無いため、正しく読み解いていないかも知れません。

  夕顔塚は五条あたり 
  今の堺町松原の北にあり
  源氏物語に出る夕
  がほの前此所に住
  みたるよしいひ伝へり

 新古今
 夕がほをよめる  
   白露のなさけをきけることのはや
     ほのぼの見へし夕顔の花   
          前太政大臣(藤原頼実)

2018年1月19日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の3

Ⅲ. 「鞍馬口」から「鞍馬街道」を行く

 「鞍馬口」は、賀茂川に架かる出雲路橋の西詰め辺りにあったようで、「出雲路口」とも呼ばれた。 「鞍馬街道(丹波路)」は鞍馬寺・貴船神社への参詣道で、丹波・若狭へとつながる道でした。

《出雲寺鞍馬口石碑》
 鞍馬口から賀茂川の左岸(東側)へ渡り、深泥池を経て鞍馬街道は延びる。

Photo

 

 『京羽二重』は鞍馬街道の道筋を、「寺町通の北の頭町野へ出る みぞろ池 はたえだ村 市わら くらまみち也」と記しています。
 引用文中の「みぞろ池」というのは「深泥池」のことで、時代により「御菩薩池」「泥濘池」「美度呂池」「美曾呂池」などといろいろに表記されたようです。 なお、その昔には深泥池の西側付近に「若狭口」というのがあったようです。

 それでは、「鞍馬口」を起点とする「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 その《経路》はいずれも、鞍馬口、深泥池、幡枝、市原、野中、二ノ瀬、貴船口(落合)までは同じですが、その先で分岐しています。
 鞍馬川と貴船川が合流する落合(貴船口)で鞍馬街道から別れて、貴船川に沿った貴船道を行くと、貴船・丹波へと至る丹波路となります。

《鞍馬街道》
 右手の川は鞍馬川です 

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1. 鞍馬を経由するルート 
①久多の東部から針畑越えを行くコース

 このルートは『稚狭考』の「遠敷より根来・久田・鞍馬へ出る」に該当します。 『山城名跡巡行志』には、このコースを「久多越え」「小川越え」と記している。
 貴船口から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、百井、大見、尾越、八丁平、オグロ坂峠、久多川合から針畑川を上流へ、朽木小川、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。
 これは、若狭小浜と京都を結ぶ数あるルートの中では、距離的に最も短いルートとなっています。
②広河原から美山を経るコース

 落合から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、花背、大布施、広河原、佐々里峠(山城・桑田郡界)、佐々里、芦生、田歌から北上して五波峠(丹波と若狭の国境)を越え、染ヶ谷、堂本、名田庄、小浜へ至る。

2. 貴船経由で丹波路を行くルート
 落合(貴船川と鞍馬川の合流点)から先の《経路》は、貴船、芹生、灰屋、(京北)上黒田へ。
 そして、上黒田から先は、次の2ルートがある。
①上黒田から西行して井戸を経由するコース
 井戸から北上する。
 井戸から先の《経路》は、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里へ。
 佐々里からは、上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。
②上黒田から東行して大布施を経由するコース

 大布施から先の《経路》は、これも上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

3. 久多の西部から美山を経由するルート
 《経路》 久多、能見峠(久多峠)、広河原下之へ。
 広河原から先は、やはり上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

4. 上賀茂から雲ヶ畑を経由するルート
 《経路》 上賀茂、柊野、車坂、雲ヶ畑へ。
 雲ヶ畑から先は、次のような《経路》となる。
 雲ヶ畑、岩屋、桟敷ヶ岳東麓、祖父谷峠、(京北)井戸、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里、田歌、五波峠、(名田庄)染ヶ谷・堂本を経て小浜へと至る。
(これは、次回の記事中「Ⅳ.長坂口から長坂越えを行く」の「1.雲ヶ畑を経由するルート」に同じ)

2018年1月12日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の2

Ⅱ. 「大原口」から「若狭街道」を行く

 「大原口」(「今出川口」「龍牙口」「出町口」とも)は、寺町通今出川の北「出町」、いま賀茂川(鴨川)に架かる出町橋の西詰め辺りにあったようです。
 賀茂川と高野川が合流する出町から高野川左岸を北上して、八瀬・大原を経て若狭・北国につながっているのが「若狭街道(朽木越え)」です。
 この道は、大原への経路であることから「大原路」とも称された。

《大原口道標》

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 ちなみに、この「大原口」は、若狭だけではなく諸方面との出入り口となっていました。そのことを、『山城名跡巡行志』は次のように記しています。

「此口 正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村ニ至 又河中ヨリ北ヘ折上リ下賀茂ニ至 亦賀茂河ヲ渡リ堤ヲ南へ行路三條通ノ橋へ出ヅ  亦北ヘ川端ヲ行路新田山端ヲ經テ高野ニ至ル若州街道也  亦河ヨリ一町餘ニ北へ上ル路アリ田中村ヲ經テ一乗寺村ニ至ル是比叡山雲母路也  亦百萬遍ノ東ニ吉田路アリ岡崎ニ至  白河村ニテ左右ニ小路アリ南ハ淨土寺又近衞坂ニ至リ北ハ一乗寺ニ至ル  叉出町ノ北端ヲ河原へ出ル假橋アリ下賀茂路也 亦同所堤ヲ上ヘ行大道上鴨道也」

 それでは、「大原口」が起点となっている「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 それらの《経路》はどれも、「大原口」から高野川東岸沿いに北上、新田(現・高野)、山端、上高野、八瀬、大原小出石、途中峠(山城と近江の国境)、その先の途中越え(龍華越え・橡生越えとも)に至るまでは同じですが、その先で分岐しています。

《大原路と道標》

 道標の左手を行く道は旧道で、寂光院の傍を経て古知谷で新道と合流し、途中越えへと続く。
 右手の新道を行けば、三千院前を経て途中へと続く。

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1. 琵琶湖から九里半越えを行くルート
 このルートは『稚狭考』に言う「湖畔の道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、伊香立龍華を経て琵琶湖の和邇へ下り、湖岸の「西近江路」を北上して今津へ、今津から九里半越え(九里半街道)で、保坂、水坂峠(近江と若狭の国境)、熊川宿、上中を経て小浜に至る。
 「龍華越え」は古い歴史を持つ道で、はるか昔には京での戦に敗れた人々が都から近江・北国へと落ち延びる退路ともなっていたようです。
 京から志賀越え(山中越え・今道越えとも)で琵琶湖に出て、坂本(のちには大津)から琵琶湖西岸を若狭や敦賀など北国とをつなぐ街道が「西近江路」でした。 なお、今津と京都間は陸路の「西近江路」だけではなく、琵琶湖水運で坂本を経由する方途もあった。

2. 朽木越えのルート
 このルートは『稚狭考』の「朽木道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、花折峠、安曇川沿いに朽木谷を北上、保坂から九里半越え(九里半街道)で水坂峠(近江・若狭の国境)を経て、熊川宿、上中、小浜に至る。
 このルートは、主に若狭の海産物を京都へ運んだ街道で、前記の「1.  琵琶湖から九里半越えを行くルート」の距離を短縮したコース。鯖輸送のために最もよく利用されたことから、狭義の「鯖街道」と言えるでしょう。
 ところが、往時は大見尾根を経る山道が若狭街道の本道だったようです。この道については、次回の記事の「1.鞍馬を経由するルート」の「①  久多の東部から針畑越えを行くコース」をご覧ください。

3. 上記「2.朽木越えのルート」の間道 
①葛川梅ノ木から針畑越えに入るコース
 途中越えから先の《経路》は、葛川梅ノ木、安曇川に流入している針畑川を上流へ、久多川合から針畑川沿いに朽木小川へ、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来を経て、小浜遠敷に至る。
②朽木市場から木地山峠を越えるコース
 途中越えから先の《経路》は、朽木市場から麻生川沿いに上流へ、麻生、木地山を経て木地山峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。

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