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道標・史跡などの石碑

2018年5月11日 (金)

時雨亭(しぐれのちん)

 藤原定家は「百人一首」を嵯峨小倉山の山麓にある山荘で編んだと伝わることから、「小倉百人一首」とも云われます。しかし、実は撰者・成立年ともに確認できていると云うわけではないようです。
 定家のこの山荘は小倉山荘あるいは嵯峨山荘とも呼ばれたのですが、のちには「時雨亭(しぐれのちん)」と称されるようになりました。
 ところが、実はこの「時雨亭」跡として伝わるものがあちこちにあって、小倉山の近辺だけでも厭離庵・二尊院・常寂光寺の三ヶ所にあります。

 「百人一首」は鎌倉時代の初めの頃に、藤原定家が各時代の著名な歌人百人の歌を一首ずつ選んだものです。(定家は「新古今和歌集」の撰者であり、「新勅撰和歌集」をも撰集しています)
 定家は藤原俊成の息(次男)で、京極殿あるいは京極中納言と称されました。
 この百人一首は、鎌倉幕府御家人で歌人の宇都宮頼綱(出家して蓮生)から、山荘の襖の装飾のために色紙の作成を依頼された定家が、選んだ歌をしたためたものだそうです。

《定家山荘跡の歌碑(常寂光寺)》
  小倉山みねのもみじ葉心あらば
     今ひとたびの行幸待たなむ 貞心公(藤原忠平)

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 時雨亭の古跡とされる所が、何故このようにあちこちに存在するのか?

 『都名所圖会』中の「厭離庵」に、その理由を次のように記しています。

 「京極黄門定家卿の山荘あるひは時雨亭と號る舊跡、ところ〴にあり、かの卿の詠歌により、又は少しき因になづみて後人これを造ると見えたり。
 続拾遺 いつはりのなき世なりせば神無月
         誰まことより時雨そめけん 定家
此歌を種として謡曲を作したり、時雨亭も是より出たり、実あるにあらず。」

 

 つまり、「時雨亭」を称する旧跡はあちこちにあるけれども、これは定家の読んだ歌、あるいは何らかのつながりや縁故をもとに、後世の人達が造り出したと見られるとしています。
 
 また、宝生流謡曲の「定家」、そして「時雨亭」という名称も、定家の歌「いつはりのなき世なりせば・・・」を素材としているとされるが、事実ではないとする。 
 

 なお、『都名所圖會』以外の地誌においても、時雨亭は「舊跡所々ニアリ(『山州名跡志)」、「いづれか其所さだかならず(『京羽二重織留』)」などとしています。

 次下は、時雨亭跡の記述がある諸本をいくつか拾ってみました。 

1. 厭離庵 (右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2)
 「小倉の山荘といふは、清涼寺西の門より二尊院までの道、二町ばかりの民家ある所を中院町といふ。いにしへは愛宕山の末院あり、今絶て所の名とせり 此半を北ヘ入る細道あり、竹林の後のかたに門ありて東に向ふ、これを厭離庵といふ。門の内に柳の水といふ清泉あり、草庵の跡は西の高き所と見えたり。(後略)」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』『山州名跡志』などにも記述あり。

 《小倉山荘旧址碑》

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 《厭離庵》

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2. 二尊院 (右京区嵯峨二尊院門前長神町27)

 「黄門定家卿の山荘といふ舊地は、仏殿のうしろの山腹にあり。かの卿より以前諸堂魏々たり、後世小倉山に寄りて號る物か。」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡》

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 《二尊院境内》

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3. 常寂光寺 (右京区嵯峨小倉山小倉町3)

 「定家卿の社は南の山上にあり。此所も彼卿の山荘のよし。(後略)」『都名所圖會』
 『京羽二重織留』『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡碑》

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 《常寂光寺からの展望》

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 その他にも、次のようなものがありました。
4. 相国寺塔頭普光院 (上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701)
  『京童跡追』『山州名跡志』『京羽二重織留』

5. 般舟三昧院(元・歓喜寺跡) (上京区今出川通千本東入般舟院前町151)
  『都名所圖会』『山城名跡巡志』『山州名跡志』『京羽二重織留』

6. 白毫院  『京童跡追』  雲林院の末院だったらしく、南北朝期までは存続したが応仁の乱で荒廃したとみられ、伝わる所在地も一定しない。

7. 小倉山 『京童』

8. 衣笠山東麓 『山州名跡志』

2018年4月20日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 2

2:産業振興とインフラ整備

① 産業振興
 東京への遷都によって京都は政治面での再興は望むべくも無いことから、危機を乗り越えるためには産業振興を拠り所として経済的な復興を目指すことになります。
 こうして、京都の再生と復興を懸けて、「京都策」と呼ばれた近代的な殖産興業政策に取り組みます。

 欧米の最新技術を導入して勧業事業に取り組むため、明治3年(1870)10月に舎密局を、明治4年(1871)には産業振興を図って勧業場を設置します。
 舎密局では、ドイツの化学者ワグネルを招聘して新技術の導入を図るだけではなく、人材育成のため科学技術の教育・研究にも取り組みました。

《ワグネル》
 
岡崎公園 府立図書館の脇にある。島津製作所の創業者島津源蔵もワグネルに教えを受けた。

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《舎密局跡

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 産業振興のための中枢組織である勧業場は、欧米の先進的な技術を導入して諸々の製造施設を設置します。このために、産業基立金として国から15万円を借り入れました。

《勧業場址碑》

 元長州藩屋敷跡で払い下げをうけて常盤ホテルとなる。(その後、京都ホテルから京都ホテルオークラに)

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 殖産興業策の実施にあたって、とりわけ大きな影響をもたらしたのが琵琶湖疎水の開削でした。
 当初の目的は、水運・灌漑・上水道・水車による動力でした。しかし、水車を動力源とする計画については、疎水を利用した水力発電に計画変更されました。
 明治18年(1885)琵琶湖疎水工事を起工、明治23年(1890)には疎水工事が完成して、翌年には蹴上水力発電所が送電を開始します。

《蹴上発電所》

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 産業振興に関して主なものをランダムに挙げて見ると、京都電燈会社の設立と火力発電所設置、京都織物会社・京都陶器会社の設立営業、京都電気鉄道が開業、京都電話交換局の設置などが挙げられます。
 
 ところで、明治初期のそうした難儀の折も折、米価が非常に暴騰して府財政が困窮したため、救貧のための備米(つみまい)50万石の下付を太政官に出願し、東京へも出向いて行って陳情しました。
 その結果、請願が認められて産業基立金として5万両を下げ渡されました。(【註1】参照)
 さらに、翌3年7月には再び5万両の追加下付金があり、このときの政府の措置は京都にとっては空前の恩恵とも云えるもので、俗に「朝廷からのお土産金」とも「天皇から京都への手切れ金」とも称されたそうです。
 ちなみに、明治2年に「両」を「円」に改めているため、二度の下げ渡し金は合計で10万円の下付金となった。(【註2】参照)
 この10万円を明治3年から同13年までは京都府で管理運用していたが、同14年に上・下京の両区役所へ移し、両京連合区会の評決により公債証書を購入しました。そして、さらに利殖方法を工夫したところ、同22年には元利合せて39万6,970円50銭の多額を数えるに至ったそうです。
 京都市は、これを明治23年(1890)に完成した第一琵琶湖疎水の工事費として支払うこととしました。そして、翌年には蹴上に水力発電所が建設され、琵琶湖疎水は京都の再生と近代化に大きく貢献したのです。

【註1】明治3年3月付太政官示達「今般格別之御詮議を以て其府下人民産業基立金として五万両被渡下候間、取計方行届候様、御沙汰候事 太政官」
【註2】昔のお金と今のお金の価値を比べるのは簡単なことではありません。人々の生業や賃金、生活様式も違い、生活に必要な用品も異なるからです。物価も賃金水準も年々変化しているので、同じ明治時代でもその前半と後半では大きな違いがあったでしょう。
 明治5年の米価を基準にして比較すると、当時の1円は現在の1万円位に相当するようですから、下付金の10万円はざっくり言って今の10億円程度に相当するのでしょうか。



② 都市インフラ整備
 明治28年(1895)4月から7月まで開催された「第四回内国勧業博覧会」は、京都復興の成果を内外に広く喧伝するイベントとなりました。
 この内国博覧会は、それまで東京で開催されていたものを京都へ誘致することに成功したもので、「平安遷都1100年記念祭」の一環として岡崎で開かれ、その入場者は最多の114万人を越えたと云う。
 そして、平安神宮が建立され、時代祭の始められたのもこの時でした。
 なお、京都電気鉄道が日本で最初の路面電車を塩小路東洞院と伏見油掛の間を営業運転した電車が、この内国博覧会開催の時に岡崎まで路線が延伸されました。

《電気鉄道発祥地碑》

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 そして、インフラ整備という点では、明治末期の明治41年(1908)から4年間をかけて、「三大事業」と称した大規模にして近代的な都市基盤づくり事業を実施して完成しています。
 一つは、第二琵琶湖疎水の開削。
 二つは、第二琵琶湖疎水を利用した上水道の整備。
 三つは、道路の拡張・延長整備と市営電気軌道敷設。
 これらを集中的に実施したことで、京都市街地の都市基盤整備は飛躍的に進みました。

2018年2月 9日 (金)

夕顔ノ塚

 堺町通の高辻から松原の間に、「夕顔町」という町があります。
 この町にある古跡「夕顔之墳」と夕顔伝説が町名の由来となっていますが、これは『源氏物語』第四帖「夕顔」に起因しています。

「夕顔之墳」碑(夕顔ノ塚碑)
 この写真、碑文は少し見辛いのですが、次のように彫られています。

    源語伝説 
         夕 顔 之 墳
    五 條 辺

 この「五條」というのは現在の「松原通」にあたります。

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 「夕顔」は『源氏物語』の登場人物です。もとは頭中将(とうのちゅうじょう)の愛人で、「常夏(ナデシコの古名)の女」と呼ばれていた。
 光源氏が乳母(随臣藤原惟光の母でもあった)の「五条なる家」へ見舞いに訪れたとき、その隣家の荒れ果てた家に頭中将の愛人という境遇から身を引いた夕顔が住んでいた。
 その隣家の垣根に咲くユウガオの花に惹かれた光源氏は、侍臣の惟光に花を貰いに行かせた。
 そうすると、隣家の女あるじ(夕顔)は花に添えて歌を贈った。ユウガオの花が光源氏と夕顔を引き合わせるような筋書きとなっています。

 『京都坊目誌』に「夕顔家ノ址 夕顔墳と稱し。石塔高三尺許り。寳筐印塔式の苔に蒸されて。古雅なるものあり。今言ふ松原は。古昔の五條なり。源氏物語夕顔ノ巻二。光君五條渉りを過ぎ給へるに。荒たる家に夕顔の花あり。随臣惟光をして彼の花を求めしむるに夕顔の宿の主の女。之を折りて奉り。併せて和歌を詠す。
  心あてにそれかと見るしらつゆの
      ひかりをそへたる夕顔のはな
 後人右の由縁により。墳を築きしなり。或は云ふ。夕顔と稱する女ありて此地に住す。紫式部彼の物語の趣向に附會して。夕顔ノ巻を作意せしものなりとも云へり。」

 この謂れは、『京羽二重』『山州名跡志』『山城名跡巡行志』などにも記されている。

夕顔ノ塚 (『都名所圖会』より)
   
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 図中の文を次のように読みました。しかし、くずし字についての知識が無いため、正しく読み解いていないかも知れません。

  夕顔塚は五条あたり 
  今の堺町松原の北にあり
  源氏物語に出る夕
  がほの前此所に住
  みたるよしいひ伝へり

 新古今
 夕がほをよめる  
   白露のなさけをきけることのはや
     ほのぼの見へし夕顔の花   
          前太政大臣(藤原頼実)

2018年1月19日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の3

Ⅲ. 「鞍馬口」から「鞍馬街道」を行く

 「鞍馬口」は、賀茂川に架かる出雲路橋の西詰め辺りにあったようで、「出雲路口」とも呼ばれた。 「鞍馬街道(丹波路)」は鞍馬寺・貴船神社への参詣道で、丹波・若狭へとつながる道でした。

《出雲寺鞍馬口石碑》
 鞍馬口から賀茂川の左岸(東側)へ渡り、深泥池を経て鞍馬街道は延びる。

Photo

 

 『京羽二重』は鞍馬街道の道筋を、「寺町通の北の頭町野へ出る みぞろ池 はたえだ村 市わら くらまみち也」と記しています。
 引用文中の「みぞろ池」というのは「深泥池」のことで、時代により「御菩薩池」「泥濘池」「美度呂池」「美曾呂池」などといろいろに表記されたようです。 なお、その昔には深泥池の西側付近に「若狭口」というのがあったようです。

 それでは、「鞍馬口」を起点とする「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 その《経路》はいずれも、鞍馬口、深泥池、幡枝、市原、野中、二ノ瀬、貴船口(落合)までは同じですが、その先で分岐しています。
 鞍馬川と貴船川が合流する落合(貴船口)で鞍馬街道から別れて、貴船川に沿った貴船道を行くと、貴船・丹波へと至る丹波路となります。

《鞍馬街道》
 右手の川は鞍馬川です 

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1. 鞍馬を経由するルート 
①久多の東部から針畑越えを行くコース

 このルートは『稚狭考』の「遠敷より根来・久田・鞍馬へ出る」に該当します。 『山城名跡巡行志』には、このコースを「久多越え」「小川越え」と記している。
 貴船口から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、百井、大見、尾越、八丁平、オグロ坂峠、久多川合から針畑川を上流へ、朽木小川、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。
 これは、若狭小浜と京都を結ぶ数あるルートの中では、距離的に最も短いルートとなっています。
②広河原から美山を経るコース

 落合から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、花背、大布施、広河原、佐々里峠(山城・桑田郡界)、佐々里、芦生、田歌から北上して五波峠(丹波と若狭の国境)を越え、染ヶ谷、堂本、名田庄、小浜へ至る。

2. 貴船経由で丹波路を行くルート
 落合(貴船川と鞍馬川の合流点)から先の《経路》は、貴船、芹生、灰屋、(京北)上黒田へ。
 そして、上黒田から先は、次の2ルートがある。
①上黒田から西行して井戸を経由するコース
 井戸から北上する。
 井戸から先の《経路》は、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里へ。
 佐々里からは、上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。
②上黒田から東行して大布施を経由するコース

 大布施から先の《経路》は、これも上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

3. 久多の西部から美山を経由するルート
 《経路》 久多、能見峠(久多峠)、広河原下之へ。
 広河原から先は、やはり上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

4. 上賀茂から雲ヶ畑を経由するルート
 《経路》 上賀茂、柊野、車坂、雲ヶ畑へ。
 雲ヶ畑から先は、次のような《経路》となる。
 雲ヶ畑、岩屋、桟敷ヶ岳東麓、祖父谷峠、(京北)井戸、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里、田歌、五波峠、(名田庄)染ヶ谷・堂本を経て小浜へと至る。
(これは、次回の記事中「Ⅳ.長坂口から長坂越えを行く」の「1.雲ヶ畑を経由するルート」に同じ)

2018年1月12日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の2

Ⅱ. 「大原口」から「若狭街道」を行く

 「大原口」(「今出川口」「龍牙口」「出町口」とも)は、寺町通今出川の北「出町」、いま賀茂川(鴨川)に架かる出町橋の西詰め辺りにあったようです。
 賀茂川と高野川が合流する出町から高野川左岸を北上して、八瀬・大原を経て若狭・北国につながっているのが「若狭街道(朽木越え)」です。
 この道は、大原への経路であることから「大原路」とも称された。

《大原口道標》

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 ちなみに、この「大原口」は、若狭だけではなく諸方面との出入り口となっていました。そのことを、『山城名跡巡行志』は次のように記しています。

「此口 正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村ニ至 又河中ヨリ北ヘ折上リ下賀茂ニ至 亦賀茂河ヲ渡リ堤ヲ南へ行路三條通ノ橋へ出ヅ  亦北ヘ川端ヲ行路新田山端ヲ經テ高野ニ至ル若州街道也  亦河ヨリ一町餘ニ北へ上ル路アリ田中村ヲ經テ一乗寺村ニ至ル是比叡山雲母路也  亦百萬遍ノ東ニ吉田路アリ岡崎ニ至  白河村ニテ左右ニ小路アリ南ハ淨土寺又近衞坂ニ至リ北ハ一乗寺ニ至ル  叉出町ノ北端ヲ河原へ出ル假橋アリ下賀茂路也 亦同所堤ヲ上ヘ行大道上鴨道也」

 それでは、「大原口」が起点となっている「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 それらの《経路》はどれも、「大原口」から高野川東岸沿いに北上、新田(現・高野)、山端、上高野、八瀬、大原小出石、途中峠(山城と近江の国境)、その先の途中越え(龍華越え・橡生越えとも)に至るまでは同じですが、その先で分岐しています。

《大原路と道標》

 道標の左手を行く道は旧道で、寂光院の傍を経て古知谷で新道と合流し、途中越えへと続く。
 右手の新道を行けば、三千院前を経て途中へと続く。

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1. 琵琶湖から九里半越えを行くルート
 このルートは『稚狭考』に言う「湖畔の道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、伊香立龍華を経て琵琶湖の和邇へ下り、湖岸の「西近江路」を北上して今津へ、今津から九里半越え(九里半街道)で、保坂、水坂峠(近江と若狭の国境)、熊川宿、上中を経て小浜に至る。
 「龍華越え」は古い歴史を持つ道で、はるか昔には京での戦に敗れた人々が都から近江・北国へと落ち延びる退路ともなっていたようです。
 京から志賀越え(山中越え・今道越えとも)で琵琶湖に出て、坂本(のちには大津)から琵琶湖西岸を若狭や敦賀など北国とをつなぐ街道が「西近江路」でした。 なお、今津と京都間は陸路の「西近江路」だけではなく、琵琶湖水運で坂本を経由する方途もあった。

2. 朽木越えのルート
 このルートは『稚狭考』の「朽木道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、花折峠、安曇川沿いに朽木谷を北上、保坂から九里半越え(九里半街道)で水坂峠(近江・若狭の国境)を経て、熊川宿、上中、小浜に至る。
 このルートは、主に若狭の海産物を京都へ運んだ街道で、前記の「1.  琵琶湖から九里半越えを行くルート」の距離を短縮したコース。鯖輸送のために最もよく利用されたことから、狭義の「鯖街道」と言えるでしょう。
 ところが、往時は大見尾根を経る山道が若狭街道の本道だったようです。この道については、次回の記事の「1.鞍馬を経由するルート」の「①  久多の東部から針畑越えを行くコース」をご覧ください。

3. 上記「2.朽木越えのルート」の間道 
①葛川梅ノ木から針畑越えに入るコース
 途中越えから先の《経路》は、葛川梅ノ木、安曇川に流入している針畑川を上流へ、久多川合から針畑川沿いに朽木小川へ、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来を経て、小浜遠敷に至る。
②朽木市場から木地山峠を越えるコース
 途中越えから先の《経路》は、朽木市場から麻生川沿いに上流へ、麻生、木地山を経て木地山峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。

2018年1月 5日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の1

I. 京と若狭をつなぐ道

 かつて、若狭の小浜は敦賀とともに、日本海の水運では重要港の一つであり、米や海産物などを京都へ輸送する拠点として繁栄したところでした。
 小浜では、「京は遠ても十八里」と言われ、物流、ことに魚介類の京都への流通ルートとなっていたのがいわゆる「鯖街道」でした。一方でこの「鯖街道」は、古の京都から若狭への文化伝播ルートでもあったのです。

 ところで、京都の北部山間部を抜けて若狭小浜とを結ぶルートとして、主要な街道がいくつかあります。さらに、それらの街道から分岐する脇道・間道も多数あります。一説にその数は17とも言われたようで、それらの道を総称して「若狭路」あるいは「鯖街道」と呼ばれました。

《鯖街道口道標》

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 板屋一助が、明和4年(1767)に著した『稚狭考(わかさこう)』で、鯖街道の数々について次のように記しています。

 「丹羽八原通に周山を經て鷹峰に出る道あり。其次八原へ出ずして澁谷より弓削・山國へ出て行道あり。叉遠敷より根來・久田・鞍馬へ出るもあり。此三路の中にも色々とわかるゝ道あり。朽木道、湖畔の道、すべて五つの道あり」

【註1】:板屋一助(1716ー1782、本名・津田元紀)は江戸時代中期の民間研究者で、小浜の材木商「板屋」の主人だったが、家業は弟に任せて上掲書をはじめ随筆や歌集などを著した。
【註2】:上記引用文中の地名は、丹羽八原通=現在の府道369号に相当し美山町知見・ハ原に至る(南丹市)、澁谷=染ヶ谷(福井県おおい郡名田庄)、弓削・山國=京北(右京区)、久田=久多(左京区)のことです。

 京と小浜を往来する若狭路は、その主要なルートのいずれもが、次のように「京七口」と言われる出入り口が起点となっています。
 1. 「大原口」を起点とする「若狭街道(朽木越え)」
 2. 「鞍馬口」を起点とする「鞍馬街道(丹波路)」
 3. 「長坂口」を起点とする「長坂越え(北丹波路)」
 そして、それら街道には抜け道・枝道も多くあったことは先に書いたとおりです。 
【註】:京七口は、かつての京と地方をつなぐ街道の出入口でした。この「七口」というのは、出入口が7ヶ所あったということではなく、多くの出入口を総称したものでした。

 なお、「京七口」は時代によりその数や場所・名称もかなり変化しており、一定していません。
 例えば、江戸時代前期の比較的近い時期に刊行された地誌書でも、記されている「京七口」には次のように異同が見られます。
 貞享元年(1684)刊『菟芸泥赴』では、大津口・宇治口・八幡口・山崎口・丹波口・北丹波口・龍牙口。
 元禄2年(1689)刊『京羽二重織留』は、東三條口・伏見口・鳥羽口・七條丹波口・長坂口・鞍馬口・大原口。
 ちなみに、江戸時代中期の宝暦4年(1754)刊『山城名跡巡行志』では以下のように記す。五條口、三條口、今出川口  一名大原口、出雲寺口  一名鞍馬口、蓮臺寺口  一名長坂口、七條口  一名丹波口、東寺口。

 それでは次回から3回にわたり、「鯖街道」についてその主要ルートだけではなく、多くの間道・脇道のなかでも主立ったものを幾つか取り上げ、『稚狭考』の記述とも照らし合わせながら見て行きます。

2017年8月18日 (金)

儚くも消えた聚楽城 2の1

1. 聚楽第の造営と破却

 天下を平定して文字通り「天下びと」となり、関白・太政大臣に任ぜられた豊臣秀吉は、天正15年(1587)平安京の大内裏跡である内野に、その地位にふさわしい政庁兼邸宅として聚楽第を造営して、大坂から移り住みました。
 そして完成翌年の4月には、この豊臣政権の京都における象徴とも言える聚楽第に、後陽成天皇の行幸が行なわれました。
 贅を尽くした荘厳で華麗な聚楽第のありさまを、『京町鑑』には「其構へ四方三千歩の石の築垣山のごとく 樓門を堅め鐵の柱銅の扉金銀を鏤め瑤閣星を錺り 御庭には水石を疊み花木を植さしめ造立し給ふ 結構譬るに物なし 城外の四方に諸侯の第宅をかまへ 樂を聚め觀樂を極め給ふによって 世人聚樂の城とも聚樂の御所とも称す」と記しています。

聚楽第跡の碑

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 また、日暮通の名称由来について『菟芸泥赴』には、「聚樂第の正門此街に當る。門の構造装飾極めて華麗にして。望見するもの日の暮るを知らずと。街名之に起る」書かれています。 つまり、日暮門があまりにも華やかで美しいため、それを眺める人々は日の暮れるのにも気がつかなかったと云うのです。

 実子に恵まれなかった秀吉は、天正19年(1591)養子とした甥の秀次(姉である日秀の子)に、関白職とともに聚楽第を譲り、自身は太閤となります。そして、秀吉自身は宇治川や巨椋池を望む指月の丘に隠居屋敷を造営します。これが初期の伏見城にあたります。
 しかし、聚楽第は完成から10年も経たない文禄4年(1595)、うたかたのように儚い結末を迎えます。
 秀吉の愛妾である淀君が実子秀頼を生んだのをきっかけに、秀次は秀吉に疎まれることとなるのです。
 そして、秀次は文禄4年(1595)6月謀反の疑いをかけられ、石田三成等の讒言もあって秀吉に高野山へ追放されます。そして、7月15日には切腹に追い込まれ、家臣5人も殉死します。
 秀次の首は8月2日に三条大橋西南の河原で晒し首にされ、その首の前で係累を根絶するために遺児(若君4人・姫君)や側室・侍女・乳母ら39人も公開処刑で斬首されました。刑場脇に掘られた大きな穴にその多くの遺骸とともに秀次の首を埋めて塚が築き、その塚の頂上には石塔を据えて「秀次悪逆塚」と刻まれた。「畜生塚」とも「せっしょう(摂政・殺生)塚」とも呼ばれたと云う。
 しかしその後、鴨川の氾濫などで塚は荒廃していたのですが、慶長16年(1611)角倉了以が高瀬川を開削しているときに墓石が発掘され、その地(木屋町通三条下ル)に秀次一族の菩提を弔うため瑞泉寺と墓を建立しました。

豊臣秀次と一族の墓(瑞泉寺)
 正面奥の六角石塔が秀次の墓とされ、その手前左右には遺児・妻妾など一族の墓がずらりと並んでいます。

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 秀次の切腹から程ない8月、秀吉は竣工後僅か8年にして聚楽第を徹底的に破却してしまいます。
 先に引いた『京町鑑』には、「關白秀次公に此御所を譲り給ひしに程なく秀次公滅亡有  殿舎四方の樓門等諸寺に分て荒廢す  其地今人家となり(略)聚樂といひ地名に呼ぶ  今 町の小名に舊名所々に殘れるのみ」と記しています。
 そして、聚楽第の建物は、その一部が築造中の伏見城に移築され、寺院へも寄進されたようで、西本願寺の飛雲閣・大徳寺の唐門はその遺構だとされます。

 

2016年6月24日 (金)

阿弖流為(アテルイ)のこと

 古代の大和朝廷から見ると、蝦夷地(東北地方)は、戦に必要な資源である馬や鉄、そして金などを産する魅力的な地域でした。朝廷の権力者は蝦夷地とその住民(蝦夷)を支配下に置くため、大和朝廷の時代からたびたび蝦夷討伐を行なってきましたが、奈良時代になると激しさを増します。
 延暦8年(789)、巣伏村(現・水沢市辺り)で征東将軍の紀古佐美の率いる朝廷軍と、阿弖流為(蝦夷の指導者で阿弖利為とも)の率いる蝦夷軍が戦い、朝廷軍が大敗するという「巣伏村の戦い」が起こりました。この戦は、朝廷の権威が傷ついたばかりでなく、蝦夷地支配の計画を根底から揺るがす重大な事件として、蝦夷征伐の機運がさらに激しさを増していきます。(『続日本紀』)

阿弖流為と母禮の顕彰碑(清水寺境内)
 清水寺の創建は宝亀9年(778)で、平安京建都の延暦13年(794)よりも前ということになります。

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 ところが、蝦夷の人々は言語や風俗が和人とは異なり、朝廷による度重なる侵略にも容易に服属しようとはせず、強く抵抗をつづけました。
 強大な朝廷軍を相手とした10年余りに及ぶ抵抗で蝦夷は疲弊します。そこで、蝦夷住民の安泰を望んだ阿弖流為と盟友の母禮(モレ)は、延暦21年(802)投降を選択して、朝廷の統治下に入ります。
 征東副使の坂上田村麻呂に伴われて、阿弖流為と母禮は都へと向かいます。
 田村麻呂は、二人(阿弖流為と母禮)の武勇と人物を惜しむとともに、支配下に収めた蝦夷地の経営には両名の協力を得る必要があるとして、胆沢へ還すように朝廷へ助命を進言したのですが聞き入れられません。
 そして、朝廷に抵抗した反乱軍の首謀者として河内國椙山(現・大阪府枚方市)で斬殺されました。(『日本紀略』)

阿弖流為と母禮の説明文
 (写真をクリックすると拡大して見られます)

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 《史書》は権力者・覇者によって書かれますから、常に正義は勝者にあって敗者は悪とされてしまいます。
 朝廷の側が版図を拡げるために蝦夷征伐の軍を派遣して侵略したのですが、侵略された側の蝦夷は朝廷に服属することを忌避して抵抗したのです。
 したがって、蝦夷の人々は朝廷に対して反乱を起こした反逆者ではなく、ましてや、都まで攻め上って行って戦ったのではないのです。
 ですから阿弖流為は、討たれるいわれの無い蝦夷の人々とその土地を守るため、侵略に抵抗して戦った英雄だったのです。
 そういう阿弖流為ですから、今までに歌舞伎・映画・テレビドラマ・アニメで、「北の英雄」として演じられ描かれてきました。近くは、明6月25日から「シネマ歌舞伎」として、市川染五郎主演の「歌舞伎NEXT  阿弖流為」が各地で上映されます。

2015年12月18日 (金)

辻子 ー櫻井辻子ー

桜井辻子

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 智恵光院通の五辻と今出川間で、五辻町と桜井町を通貫している。
 『山州名跡志』に、「智恵光院通五辻ノ南ニ在リ  昔 櫻井中務丞基佐 此ノ地ニ住ス。名水ニ因テ稱號ト為ス也。其ノ井同所人家ノ床下ニ在リト云フ惜シイ哉」と記す。
 櫻井基佐(中務丞は通称)というのは室町時代の連歌師で、名水の桜井に因んで称号としたというのです。そして、この名水の名が辻子の名称由来ともなっています。 
 また、『京羽二重織留』では、「橘次井(きちじがい)」として「西陣五辻の南さくら井の辻子にあり  傳云  金賣橘次末春が宅地なりと  井大にして水また清冷なり  源のよしつね橘次にしたがひて  あづまにくだりし時に此所より首途したまうと也」とあって、名水桜井は金賣橘次の宅地内にあったように記しています。

「源義経奥州首途之地」碑(首途八幡宮)

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 この碑が建つのは辻子の西側にある首途八幡宮(かどではちまんぐう)境内で、源義経は橘次に伴われてここから東国に首途(かどで)したという故事があり、これが社名の由来だとされる。 

2015年11月27日 (金)

突抜 ー和泉殿突抜通(醒ヶ井通)ー

 現在の醒ヶ井通は、北は六角通から南が五条通までの通りとなっています。ただし、蛸薬師通と錦小路通の間は中断している。
 しかし、かつての醒ヶ井通は五条通から南へも通じていたのですが、先の戦争の折に建物疎開で堀川通が拡張された時、花屋町通以南は堀川通に吸収されるかたちで無くなってしまいました。

小泉町の仁丹町名表示板
 看板や配線パイプの陰になっていて見難いのですが、表示は「下京區  醒ヶ井通五條上ル 小泉町」となっています。

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 醒ヶ井通という通り名の由来は、『京町鑑』には「此通五條下ル二丁目西側人家の間に名水あるゆへに號す」としていて、名水の名前である左女牛井(さめがい)に因んでいます。
 そして和泉殿突抜について、「錦小路より魚棚下ル所迄和泉殿突抜通といふは  北の行あたり藤堂和泉守殿御やしき有ゆへ也」と記し、和泉殿突抜通という別称があったとしています。

和泉殿突抜通
 白っぽくてよく見えませんが、突き当たりに堀川高校が建っており、ここが藤堂和泉守殿の屋敷跡です。

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 通りの名称由来となった左女牛井は、村田珠光・織田有樂斎などの茶人が愛用した名水で、醒ヶ井通六条上ル佐女牛井町にありました。

左女牛井跡碑

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 この名水は、先に記したように疎開のために消滅してしまいました。今ではその名残が堀川通の西側にある東急ホテル敷地の道路際に「左女牛井跡」碑として建っています。

佐女牛井町の仁丹町名表示板

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 醒ヶ井通の北の突き当たりに藤堂和泉守の屋敷があったこと、錦小路通から南の魚棚(現・六条通)を下がった西本願寺(花屋町通)までを和泉殿突抜通との別称があったことは先に記した通りです。
 この別称の由来となった藤堂和泉守屋敷は、古地図を見るとその四囲は、北は蛸薬師通・南は錦小路の間、東は空也堂・西側は堀川となっており、その屋敷跡は現在では京都市立堀川高校となっています。

空也堂

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 それはそうと、醒ヶ井通の北端を一條通としている地誌もあるのです。
 (以下については、'14.10.17の記事「通り名のいわれ  ー醒ヶ井通ー」では、全く触れていなかった事です)

 『京羽二重』の「醒井通」項に、「此すじに當る一條どをり下る町ニ町有 松の下と云  叉誓願寺通と四條坊門との間一町越後突抜町と云  叉錦小路通より南へ西本願寺まで此通錦の小路に藤堂和泉守殿屋敷有之ゆへに和泉殿つきぬけ通とも云」
 『京雀』でも「いつみどのつきぬけ通」として、「四條ばうもん通さがる町  ほり川おもてよりひがしへ半町のあひだは  藤堂和泉守殿御屋しきある故に町筋の名とせり  此筋の北は一條通行あたり也」と記します。

 (註)上記の2書にある、誓願寺通は現・六角通、四条坊門(四條ばうもん通)は現・蛸薬師通のことです。

より以前の記事一覧