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花街・遊廓

2011年12月16日 (金)

京の郭(廓)その9 ー橋本遊廓ー

 この「京の郭(廓)」シリーズは、今回をもって9回を数えることになりました。続け過ぎた感も強いので、二桁の回数になる前に今回をもって打ち切ることにします。


橋本(八幡市)


 大坂街道(現・府道13号)沿いの八幡にあり、隣はもう大阪府枚方市となる。
 僧行基が淀川対岸山崎との間に山崎橋を架けた。そのたもとにできた集落であることが地名「橋本」の由来。
 山崎橋は瀬田唐橋・宇治橋と共に日本三古橋の一つとされるが、度重なる流失や淀川水運の開発が進んで廃絶した。昭和37年(1962)までは渡し船が通っていたそうである。
 「橋本の駅」と称し宿場町として発展し、幕末には陣屋が設置されていた。江戸期以来、昭和33年(1958)まで遊郭があり、売春防止法が施行されて後は下宿・アパートに転業したが、今では空き家となった元妓楼と見受けられる建物がかなり残る、うら寂しい町並みとなっている。

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 こんな防火用水が残っていた。

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 以下は、妓楼入口や窓の上部に嵌められている飾りの透かし彫り。

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 そして、京都北部では日本海を東西に巡る北前船開運で賑わった港町宮津に、「二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空となる 丹後の宮津でピンとだした」と宮津節に唄われて、全国に広く知られ繁盛した新浜遊郭があった。
 その他、まだまだ京都の各地にあったようですがこのシリーズは擱筆します。



2011年12月 5日 (月)

京の郭(廓)その8 ー市内各所の新地 4ー

五條新地(五条橋下)

 宝暦8年、御土井跡地の町地化を申請して許可されたのが始まり。宝暦11年(1761)南京極町が北野上七軒の真盛町から茶屋株を借り受け、さらに平居町へも借り受けて営業を始めた。その後、明治以降に五条橋下遊廓は七條新地と合併して、新たに七條新地と称した。
 昭和33年、売春防止法の制定で五条楽園となる。しかし、昨年秋に二回も売春防止法違反で逮捕者が出たため、お茶屋・置屋の営業を休止しているとか。(しぶとく稼いでいるようです)

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中書島

 元禄12年、伏見奉行に就いた建部内匠頭が荒廃していた中書島を再開発。柳町遊廓を移転させ東柳町・西柳町とした。大坂との水運の便と宿場として栄えていたので、島原に次ぐ程の繁栄をみた遊廓であったという。
 他の遊廓跡と同様に、昭和33年以降は学生下宿に鞍替えしたところが多かったそうだ。
 妓楼の雰囲気を感じさせる建物(写真はご迷惑をおかけするため削除しました)


白梅辻子


 江戸元禄期以来の遊廓で、明治3年3月に禁止となるが、翌月二條新地出稼の名義で茶屋渡世が公許された。しかし、その後衰微して同7年廃止になった。
 この白梅辻子の名称由来については、かつて当ブログで「辻子 ー白梅辻子とその周辺ー」として記事にしている。

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2011年11月26日 (土)

京の郭(廓)その7 ー市内各所の新地 3ー

 京都の代表的な新地であった祇園新地・二條新地・七條新地の他にも、多くの遊所すなわち歓楽街があった。


内野新地


 宝永5年(1708)の大火で罹災した烏丸下立売周辺の住民が、聚楽第破却後の荒廃した地域に移転を命じられて、移り住み町地を形成。(スッポンの大市もこの時に六番町へ移転したらしい)
 北野社や愛宕山への参詣道にあたることもあり、寛政頃から煮売茶屋渡世をするものが多く、茶立女を置いて遊所的な雰囲気があった。寛政2年(1790)に遊女商売が公認されて島原傾城町の支配を受けることとなる。さらに、安政6年には傾城町島原の出稼地である北野上七軒の出店となる。内野の地にできたことから内野新地、別名を北新地・西陣新地とも云ったらしい。
 明治になり島原の支配から脱して、五番町遊廓となる。始めは五番町と四番町の二町であったが、のち明治45年には、一番町・四番町・五番町・三軒町・白竹町・利生町の広域を指すようになったとのこと。

 現在では、五番町遊廓当時の雰囲気を残す建物が僅かながら残っている。

五番町

 

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利生町

 

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 ところで、旧五番町遊廓近辺を徘徊した折、三番町から七番町では仁丹町名表示板を見かけました。
けれども、一番町と二番町には残っていないようでした。もし、残っているのをご存知の方があればお教え下さい。
 (秀吉が聚楽第を造営時に、大名以外の家臣の居住地として一番から七番屋敷まで7つの組屋敷ブロックを設けた。後年、その跡にできた町に一番町から七番町と名付けた。)


新三本木


 宝永5年(1708)の大火の後、公家町拡張に際してお上に取り上げられた東洞院通の出水と丸太町間の、三本木一〜三丁目がこの地に替え地として移転し成立。新三本木と呼ばれる遊里として栄えた。上之町・中之町・下之町(南之町とも)からなる。
 天保13年(1842)島原以外での遊女屋渡世が禁じられたが、新三本木にはその命令がなく幕末にかけて繁盛した。中之町にあった吉田屋は勤王派が出入りした所で、桂小五郎(木戸孝允)はここで新選組に殺されそうになった。明治3年3月に芸者渡世は禁止されるが、翌月には傾城町出稼地の名義で茶屋芸者渡世が公許される。しかし、次第に衰微した。

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頼山陽の山紫水明処(水西荘)
 頼山陽は文政5年(1822)、ここ新三本木の南之町に移り住んだ。その居宅が水西荘で、鴨川に面した離れが書斎の「山紫水明処」である。
 頼山陽といえば、「起承転結」のお手本として、次の俗謡が有名である。

起: 京都三条 糸屋の娘
承: 姉は十七 妹は十五
転: 諸国大名は弓矢で殺す
結: 糸屋の娘は目で殺す

 「起承転結」は、漢詩の絶句におけるスタイルで一行目から順に、起句・承句・転句・結句となる。 これは通常の文章技法でも留意すべきものとされるが、なかなか旨くゆかないようである。ところが、これが四コマ漫画ではピタッとはまるそうな。



2011年11月18日 (金)

京の郭(廓)その6 ー市内各所の新地 2ー

 島原(西新屋敷)は宝暦11年(1761)、洛中洛外茶屋惣年寄という特権を付与される。
 ついで、寛政2年(1790)祇園町・祇園新地(このときから、祇園町と祇園新地は区別せずに一カ所と認定されるようになった)、北野上七軒、二條新地、七條新地の合わせて四カ所が、公認の遊郭(傾城町)である島原支配下の出稼地として遊女渡世を認可されている。


二條新地


 もと聖護院村の畑地であった所を、享保19年(1734)に北野吉祥寺が所司代と町奉行に開発を出願する。そこに新先斗町と大文字町ができ、その後に新生洲町・難波町.中川町・杉本町ができて二條新地は6町となった。

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七條新地


 東西を鴨川と高瀬川に挟まれた、六条通以南上ノ口通以北の八ツ柳町・波止土濃町・早尾町・岩滝町・聖真子町の5町、そして正面通以南七条通以北の上二之宮町・下二之宮町・上三之宮町・下三之宮町・十禅師町の5町、二カ所合わせて10町を指す。
 七條新地は、妙法院門跡領を町地としたのであるが、正面以南は宝永3年(1705)に、上ノ口以北は正徳2年(1712)に、それぞれ開拓願いが出され認められた。そして、煮売茶家渡世が認められたのは享保2年(1717)のことという。

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 ほっつき歩いていると、岩滝町に「六代目 会津小鉄会」の本部があった。立派な玄関の横手にあるガレージに数人のお兄さん達が張り番していたため、怖くて写真は撮れなかった。

 

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2011年11月 5日 (土)

京の郭(廓)その5 ー市内各所の新地 1ー

 新地とは、特定の者が出願者となって町家建設の願書を提出し、認可を得て田畑や原野が開発され新しい町場となった所とされる。
 この新地では、遊客目当ての水茶屋など公認の茶屋渡世を生業とし、茶汲女や茶立女を置くようになる。しかし、なし崩し的に茶立女などと称しながらも遊女として身売りさせる遊里となってゆく。
 そして、新地はやがて、出稼地として傾城町(公認の遊郭=島原)の支配の下に入ってゆく。

祇園町

 江戸初期に、祇園社(慶応4年に八坂神社と改称)の正門(下河原通に面した門)と西門(四条通に面した門)の門前に出来た町が祇園町で、西門のある四条通の北側にある祇園町北側、南側にある祇園町南側に分かれる。
 はじめは祇園社への参詣人を相手とする茶屋・土産物屋の建ち並ぶ町並みが形成されたらしい。そして17世紀中頃から、参詣人や界隈への遊客相手の水茶屋・煮売茶屋・料理茶屋などができ、茶立女や酌取女と称する遊女が現れて、遊所としての性格をも持つようになったと云う。
 なお、祇園町の場合は自然発生的に形成されてできた町場であるため、新地と呼ばれることはなかったようだ。

清井町

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膳所裏と呼ばれた所(現在の東大路通四条上ル一筋目西入)

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祇園新地


 次いで16世紀中頃、祇園社領であった四条河原の畑地に祇園町外六町と呼ばれる祇園新地が出来たようである。外六町は大和大路通の弁財天町・常盤町・廿一軒町、そして四条通の中之町・川端町・宮川筋一丁目の計6町で、もとは四条河原の田畑だった所である。茶屋渡世が公認されたのは、寛文年間(1661〜72)という。
 つづいて、内六町と呼ばれる新地が誕生する。これは、祇園町北側の背後にあたる富永町・末吉町・清水町・元吉町・橋本町・林下町の6町である。ここは祇園社領広小路と呼ばれていた田畑に建家願いが認められ、享保17年(1732)に茶屋渡世が認められるようになったという。
 明治になって、祇園社が八坂神社と改名させられたため、祇園新地も八坂新地と変えた。

宮川筋

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末吉町

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2011年10月27日 (木)

京の郭(廓)その4 ー上七軒ー

上七軒

 室町時代に北野天満宮社殿の修造がおこなわれた際、余った用材で七軒の水茶屋を建てたのが由来といわれる。元々は七軒茶屋と称した最古の茶屋という。
 天正15年(1587)、秀吉が北野大茶会を催した時に休憩所となり、水茶屋で出された「みたらし団子」が気に入り、京都一円の茶屋株特権を得たと伝わる。(上七軒のシンボルマーク「つなぎ団子」はこの故事に由来する)
 のちの元禄期に至り、上七軒の茶屋は数十軒にふくれあがったようだ。京における公許の廊は西新屋敷(島原)だけであったが、上七軒はその由緒と格式から別格として扱われたという。
 しかし、上七軒もやがて傾城町島原の支配を受ける出稼地となった。
 上七軒遊廓は、北野天満宮社領(境内町)である真盛町・社家長屋町・鳥居前町の3町からなる。

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 提灯と芸妓組合入り口のガラスに描かれているのが、上七軒のシンボル「つなぎ団子」である。

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2011年10月20日 (木)

京の郭(廓)その3 ー西新屋敷ー

 未開発地であった洛南六條柳町の周辺が傾城町と共に発展し都市化が進むにつれ、二條柳町のときと同様、ここでも矢張り風儀上問題のある町はその存廃問題が生じることとなった。
 そこで再び、突如といったかたちで六條から西新屋敷(島原)への移転を命じられた。


西新屋敷=島原


 寛永17年(1640)、発展して賑わう六條柳町から原野に近い辺鄙な洛西朱雀野の西新屋敷(島原)へと、慌ただしく追いやられたのである。
 西新屋敷が俗に島原と称された由来は、諸説があって必ずしも明らかではないようだ。
その突然の移転騒動が、三年前の島原の乱のようだと評されたからというもの。あるいは、西新屋敷傾城町の回りには堀が巡らされ、出入り口が一カ所で外界と隔てられているのが島原城に似ている・・・、などである。

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 郭の中は、中央を東西に延びる胴筋(現・花屋町通)の北側を東から中ノ町・中堂寺町・下ノ町、胴筋の南側を東から上ノ町・太夫町・揚屋町と計6町があり、中央の胴筋から各町へはそれぞれの小門を潜って入ったという。

 次の写真、輪違屋は置屋で、太夫(遊女の最高の地位)や芸妓を抱え、揚屋へ派遣する店。現在はお茶屋業として営業している。昭和59年(1984)京都市指定有形文化財に指定された。

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 次の写真、角屋は揚屋で、現在の料亭・料理屋にあたり、置屋から太夫や芸妓を呼んで歌舞音曲の遊宴を行なった。西新屋敷島原の開設当初から続いた揚屋で、昭和27年(1952)国の重要文化財に指定された。揚屋は江戸の吉原には無く、京の島原と大坂の新町にあった。

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 傾城町の外周には幅一間半の堀がめぐらされ、堀の内側には土塀が築かれていた。出入り口は、胴筋の東端にある大門一カ所だけで、そこには番所が設けられて遊女の外出は禁じられていたそうである。後に、享保17年(1733)になって西口が設けられた。

 しかし、その島原が繁栄したのは元禄の頃までと云われ、その後は市内各地に出現した新地に押されてゆく。そうなると、島原は幕府公許の傾城町という権威に縋り、新地を支配する立場を得ようとしてゆく。



2011年10月15日 (土)

京の郭(廓)その2 ー六條柳町ー

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いを経て豊臣から徳川へと政権交代すると、徳川家康は京都支配のため、慶長8年(1603)から二条城を建設することになった。
 しかしながら、堀川二条の西側に二條城の建設が進んで完成すれば、二条通は二條城の大手筋に相当する通りということになる。
 そうなれば、その東方、京の中心部にあたる地に公許の遊郭が存在することは、教育上や風儀上からみて由々しい問題となってくる。こうしたことは、徳川政権の新たな都市政策遂行のうえから、認められないことであった。

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(慶長8年(1603)徳川家康が造営を始めた二條城は、寛永3年(1626)三代将軍家光の時に完成)

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 このような理由から、京都所司代板倉伊賀守勝重の命により、二條柳町から洛南の未開発地域への場所替え、いわゆる新屋敷への移転となった。


六條柳町=新屋敷


 慶長7年(1602)、二條柳町からいわゆる新屋敷の六條柳町へ移転する。ここは六條三筋町とも呼ばれ、北は五条通、南は六条通、東は室町通、西は新町通を範囲とした。
 六條三筋町とも呼んだのは、室町通と新町通の間に東西の三筋の道(現在の楊梅通・鍵屋町通・的場通)があり、それぞれの筋に面した町を北から順に上ノ町、中ノ町、下ノ町と呼び慣わしたことによる。(上ノ町=現・上柳町、中ノ町=現・蛭子町、下ノ町=現・銭屋町)
 その後、京の町が発展するにつれ、各地に発生して散在していた遊女屋が市中から追われて、遊里三筋町に隣接する地域に移転させられ、六條柳町は拡大していった。
 新たに、西洞院通東側の五条と六条間に太夫町(上と下)、次いで若宮通沿いにも揚屋町が生まれ、六條柳町は東西が室町から西洞院間に拡大した。こうして、六條柳町(新屋敷)は計6町の大規模な傾城町となり隆盛した。

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 上の写真、劣化退色して見辛いが、「下京區 鍵屋町通室町西入 蛭子町」と記されている。

 

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 なお、寛永8年、六條柳町遊郭林与次兵衛の抱え遊女二代目吉野太夫(西国武士の娘松田徳子)が上京の豪商である灰屋(佐野)紹益に身請けされて妻となるという、有名なエピソードがあった。
 太夫は才色兼備の最高位の遊女で、京の島原・江戸の吉原・大坂の新町だけに配された。高額の費用を要するため、公家・大名・旗本・豪商など上流階級の客を相手にした。



2011年10月 9日 (日)

京の郭(廓)その1 ー二條柳町ー

 最近、立て続けに元遊廓の島原・五条楽園・中書島をカメラ散歩しました。
 私が高校三年生の時に「売春防止法」制定で赤線が廃止され、公認で売春の行なわれていた地域は無くなりました。したがって、誠に残念ながら!?遊廓での実体験も知識もありません。
 にも拘らず、「京のくるわ」を数回にわたる記事にしてみようと思い立ちました。
 いわゆる「くるわ」の呼び方には、傾城町・遊郭・遊里・遊所・色里・色街など色々あるようです。また、遊廓には幕府官許の傾城町(島原)、その島原の支配下にある新地遊廓、そして散在する下級遊廓まで。また、遊女も最高位の太夫から場末の蹴転ばしといわれる私娼まで。いろいろあったようです。

 ところで、遊廓や遊女には、どのような存在意義や存在理由を見出せるのだろう。
 (テーマは軟らかァ〜いのに、出だしはナント硬ァ〜いものに!)
 政治、世相、人物などを批判・風刺・嘲弄する匿名文書や歌を、人目につき易い場所に貼りつける、または道路に落して置くという、落書・落首が中世から近世にかけて広く盛んに行なわれたという。これは、高校の日本史教科書にも出ていたくらいなので、よく知られています。(ex.「二條河原落書」や川柳「白川の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」など)
 ところが、そういう形で怒りや不満を発散するレベルに止まらず、民衆のエネルギーが負のエネルギーへと転化して、権力に向けて集団で直接行動(強訴)をもって訴えるというような事態になれば、公儀の権力と威勢は失墜してしまう恐れがあります。
 お上としては、何としてもこれを回避しなければならないでしょう。

 その辺りに絡めて、遊里(歓楽街)の存在理由をこじつけ的に考えてみました。
 すなわち、遊里の稼業を公許とすることで、楼主と抱え遊女が遊客に対して行なうサービス提供を通じ、別の役割をも果たさせたと考えました。
 その別の役割というのは、世相などに対する民衆の不安や怒りを慰撫し、ガス抜きするための社会的・制度的仕組みとして機能させたというものです。

 以後、京の遊郭の変遷について、書籍・辞典などを漁ってチョット調べてみたことを、数回に分けて記事にしてみます。


二條柳町

 天正17年(1589)、豊臣秀吉の認可を得て、洛中の傾城屋を一カ所に集め傾城町を開設したとされている。北は夷川通、南は押小路通、東は寺町通、西は柳馬場通を範囲とした。
 この辺り、今では京都の中心街であるが、当時は荒れ果てた原野であった。応仁の乱で京の町は広範囲に焼け野原となり、京都の市街地は上と下に分離した状態になり、一条以南、三条以北の間の地域は殆ど原野に等しい有様だったという。
 そこへ公許の遊郭を造ることにより、その周辺には商人をはじめ多くの人々が住み着き、急速に開発が進むくことになる。
 こうして、秀吉による京都大改造事業の一環として都市開発を促進させるため、政策的に傾城町が造られたようである。

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 かつての「二條柳町」に「橘町」があるが、その町名由来について「京雀」(寛文5年刊)には次のように記しています。
 昔この町に傾城屋があったが六條三筋町に移転させられた。そして、「花の立のきたれはとて  立花町と名つけしとにや  今は古道具屋町町也」というのです。