2018年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

リンク集

無料ブログはココログ

京七口・街道

2018年1月12日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の2

Ⅱ. 「大原口」から「若狭街道」を行く

 「大原口」(「今出川口」「龍牙口」「出町口」とも)は、寺町通今出川の北「出町」、いま賀茂川(鴨川)に架かる出町橋の西詰め辺りにあったようです。
 賀茂川と高野川が合流する出町から高野川左岸を北上して、八瀬・大原を経て若狭・北国につながっているのが「若狭街道(朽木越え)」です。
 この道は、大原への経路であることから「大原路」とも称された。

《大原口道標》

_01_2

 

 ちなみに、この「大原口」は、若狭だけではなく諸方面との出入り口となっていました。そのことを、『山城名跡巡行志』は次のように記しています。

「此口 正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村ニ至 又河中ヨリ北ヘ折上リ下賀茂ニ至 亦賀茂河ヲ渡リ堤ヲ南へ行路三條通ノ橋へ出ヅ  亦北ヘ川端ヲ行路新田山端ヲ經テ高野ニ至ル若州街道也  亦河ヨリ一町餘ニ北へ上ル路アリ田中村ヲ經テ一乗寺村ニ至ル是比叡山雲母路也  亦百萬遍ノ東ニ吉田路アリ岡崎ニ至  白河村ニテ左右ニ小路アリ南ハ淨土寺又近衞坂ニ至リ北ハ一乗寺ニ至ル  叉出町ノ北端ヲ河原へ出ル假橋アリ下賀茂路也 亦同所堤ヲ上ヘ行大道上鴨道也」

 それでは、「大原口」が起点となっている「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 それらの《経路》はどれも、「大原口」から高野川東岸沿いに北上、新田(現・高野)、山端、上高野、八瀬、大原小出石、途中峠(山城と近江の国境)、その先の途中越え(龍華越え・橡生越えとも)に至るまでは同じですが、その先で分岐しています。

《大原路と道標》

 道標の左手を行く道は旧道で、寂光院の傍を経て古知谷で新道と合流し、途中越えへと続く。
 右手の新道を行けば、三千院前を経て途中へと続く。

_01_3


1. 琵琶湖から九里半越えを行くルート
 このルートは『稚狭考』に言う「湖畔の道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、伊香立龍華を経て琵琶湖の和邇へ下り、湖岸の「西近江路」を北上して今津へ、今津から九里半越え(九里半街道)で、保坂、水坂峠(近江と若狭の国境)、熊川宿、上中を経て小浜に至る。
 「龍華越え」は古い歴史を持つ道で、はるか昔には京での戦に敗れた人々が都から近江・北国へと落ち延びる退路ともなっていたようです。
 京から志賀越え(山中越え・今道越えとも)で琵琶湖に出て、坂本(のちには大津)から琵琶湖西岸を若狭や敦賀など北国とをつなぐ街道が「西近江路」でした。 なお、今津と京都間は陸路の「西近江路」だけではなく、琵琶湖水運で坂本を経由する方途もあった。

2. 朽木越えのルート
 このルートは『稚狭考』の「朽木道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、花折峠、安曇川沿いに朽木谷を北上、保坂から九里半越え(九里半街道)で水坂峠(近江・若狭の国境)を経て、熊川宿、上中、小浜に至る。
 このルートは、主に若狭の海産物を京都へ運んだ街道で、前記の「1.  琵琶湖から九里半越えを行くルート」の距離を短縮したコース。鯖輸送のために最もよく利用されたことから、狭義の「鯖街道」と言えるでしょう。
 ところが、往時は大見尾根を経る山道が若狭街道の本道だったようです。この道については、次回の記事の「1.鞍馬を経由するルート」の「①  久多の東部から針畑越えを行くコース」をご覧ください。

3. 上記「朽木越えのルート」の間道 
①葛川梅ノ木から針畑越えに入るコース
 途中越えから先の《経路》は、葛川梅ノ木、安曇川に流入している針畑川を上流へ、久多川合から針畑川沿いに朽木小川へ、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来を経て、小浜遠敷に至る。
②朽木市場から木地山峠を越えるコース
 途中越えから先の《経路》は、朽木市場から麻生川沿いに上流へ、麻生、木地山を経て木地山峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。

2018年1月 5日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の1

I. 京と若狭をつなぐ道

 かつて、若狭の小浜は敦賀とともに、日本海の水運では重要港の一つであり、米や海産物などを京都へ輸送する拠点として繁栄したところでした。
 小浜では、「京は遠ても十八里」と言われ、物流、ことに魚介類の京都への流通ルートとなっていたのがいわゆる「鯖街道」でした。一方でこの「鯖街道」は、古の京都から若狭への文化伝播ルートでもあったのです。

 ところで、京都の北部山間部を抜けて若狭小浜とを結ぶルートとして、主要な街道がいくつかあります。さらに、それらの街道から分岐する脇道・間道も多数あります。一説にその数は17とも言われたようで、それらの道を総称して「若狭路」あるいは「鯖街道」と呼ばれました。

《鯖街道口道標》

_01

 

 板屋一助が、明和4年(1767)に著した『稚狭考(わかさこう)』で、鯖街道の数々について次のように記しています。

 「丹羽八原通に周山を經て鷹峰に出る道あり。其次八原へ出ずして澁谷より弓削・山國へ出て行道あり。叉遠敷より根來・久田・鞍馬へ出るもあり。此三路の中にも色々とわかるゝ道あり。朽木道、湖畔の道、すべて五つの道あり」

【註1】:板屋一助(1716ー1782、本名・津田元紀)は江戸時代中期の民間研究者で、小浜の材木商「板屋」の主人だったが、家業は弟に任せて上掲書をはじめ随筆や歌集などを著した。
【註2】:上記引用文中の地名は、丹羽八原通=現在の府道369号に相当し美山町知見・ハ原に至る(南丹市)、澁谷=染ヶ谷(福井県おおい郡名田庄)、弓削・山國=京北(右京区)、久田=久多(左京区)のことです。

 京と小浜を往来する若狭路は、その主要なルートのいずれもが、次のように「京七口」と言われる出入り口が起点となっています。
 1. 「大原口」を起点とする「若狭街道(朽木越え)」
 2. 「鞍馬口」を起点とする「鞍馬街道(丹波路)」
 3. 「長坂口」を起点とする「長坂越え(北丹波路)」
 そして、それら街道には抜け道・枝道も多くあったことは先に書いたとおりです。 
【註】:京七口は、かつての京と地方をつなぐ街道の出入口でした。この「七口」というのは、出入口が7ヶ所あったということではなく、出入口の総称したものでした。
 また、時代によりその数や場所・名称もかなり変化しており、一定していません。
 例えば、江戸時代前期の比較的近い時期に刊行された地誌書でも、記されている「京七口」には次のように異同が見られます。
 貞享元年(1684)刊『菟芸泥赴』では、大津口・宇治口・八幡口・山崎口・丹波口・北丹波口・龍牙口。
 元禄2年(1689)刊『京羽二重織留』は、東三條口・伏見口・鳥羽口・七條丹波口・長坂口・鞍馬口・大原口。
 ちなみに、江戸時代中期の宝暦4年(1754)刊『山城名跡巡行志』では以下のように記す。五條口、三條口、今出川口  一名大原口、出雲寺口  一名鞍馬口、蓮臺寺口  一名長坂口、七條口  一名丹波口、東寺口。

 それでは次回から3回にわたり、「鯖街道」についてその主要ルートだけではなく、多くの間道・脇道のなかでも主立ったものを幾つか取り上げ、『稚狭考』の記述とも照らし合わせながら見て行きます。

2014年7月11日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 3

前々回の「志賀山越」、前回の「今路越(今道越)」に続く最終回は、謂わば新道とも云える「白川越」です。


3.「白川越」白川馳道(しらかわのはせみち)・安土海道とも

そしていま一つのルートは、現・山中町集落の東はずれから北方へと進むルート、つまり、かつての「志賀山越」「今路越(今道越)」ルートではなくて、まっすぐに近江側へと下る新道です。
この道は安土・桃山時代になってから、織田信長が永禄13年(1570)頃に新設させたものです。
山中村から現・南志賀町の宇佐山(湖岸から1Km程のところ)に築いた宇佐山城を経て、琵琶湖へと通じる道でした。これは、現・県道30号線にほぼ重なるルートで、比叡平・田ノ谷峠を経て現在の大津市錦織町に出たようです。
宇佐山城が廃城となった後も、京と信長の居城である安土城との行き来には、この新道を経て湖上を船で渡ったようです。このことから「安土海道」とも呼ばれたとか。

そして、少し後の天正3年(1575)に、信長はこの新道を経て上洛するために、京都側の道普請をさせています。
この道筋は白川口から吉田村・田中村を経て、高野川と賀茂川の合流点の今出川假橋を西に渡り、出町の「今出川口」に至るものでした。
この新道について、宝暦4年(1754)刊『山城名跡巡行志 第三』では、「今出川口」の項で、「京極(現・寺町通)ノ東 今出河通ノ北一丁ニ在 其ノ所ヲ出町ト云フ 此口正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村二至ル」と記しています。

また、元禄2年(1689)刊の『京羽二重織留』巻之一では、この新道を「白川馳道(しらかわのはせみち)」とし、「今 京極今出川口より白河村に至まで 所々道を挟みて並木の松のこれり これいにしへの道なり」と記しており、当時は所々にまだ松並木が残っていたようです。


賀茂川と高野川の合流点
 かつて「今出河口假橋」が架けられたところ。
 左手の橋が鴨川に架かる現「出町橋」、右手は高野川に架かる現「河合橋」です。
 その出町橋の左手(西側)の出町桝形辺りに「今出川口(大原口とも)」が設けられていたようです。

_01_3


現在の出町
 かつて「今出川口(大原口)」があった出町(桝形)から東方を望む。
 前方に見える橋は賀茂川に架かる出町橋、見えないがその向こう側には高野川に河合橋が架かっている。

_01_7

ちなみに、前掲書の「今出河口假橋」の項には、「賀茂河高野河ヲ跨 田中村従リ之ニ掛ル板橋也」とあるので、現在の出町橋と河合橋とほぼ同じ位置に板の仮橋が架けられていたのでしょう。
その架橋費用については「橋料ハ 高野八瀬大原等 此橋往来ノ村々之ヲ出ス」となっています。そして、「今出川口」の別称「大原口」は、このように大原方面への出入り口でもあったことによるのです。


突然、「東今出川通」について
織田信長が整備させた新道「白川馳道」の、「今出川口假橋」東詰め(現・叡山電鉄「出町柳駅」前辺り)から百万遍へ出て、白川口の子安観音に至る間、これが「東今出川通」の原型となったのでしょう。(「京羽二重織留」にいう松並木はこの間にあった)
そして、近世までの今出川通東端は京極大路(現寺町通)東の鴨河原まででした。近代になって昭和6年に賀茂大橋が架橋されて後、その東側に市電が敷設されて新たな東今出川通となったのです。
なので、かつての東今出川通(「白川馳道」)のうち、河合橋東岸から叡山電鉄出町柳駅を経て百万遍交差点に至る間については、謂わば旧・東今出川通となってしまいました。


旧・東今出川通
 叡山電鉄「出町柳」駅前から東方を望む

_01_8

 旧今出川東端の百万遍交差点手前(遥か先の山には大文字の「大」が見える)

_01_9


《田中関田町の仁丹町名表示板》
 「東今出川通」表記にご注目!
 旧・東今出川通に面して設置されていました。ところが、今回の記事を書くために改めて歩いてみたところ、この表示板は姿を消していました。

Photo

以上でこのシリーズは終わりです。

2014年7月 4日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 2

 前回の「志賀山越」に続いて、今回はその支道とも云える「今路越(今道越)」です。


2.「今路越(今道越)」(いまみちごえ)

 「志賀山越(しがのやまごえ)」が廃れたあと、中世になると、これに代わって近江へ越える道は「今路越」と呼ばれる山越え道でした。
 京七口の「荒神口」は中世になると、「今道越」の入り口と云うことから「今道ノ下口」という名称も生じました。
 山中町集落を通り抜け、東のはずれを現・県道30号線に出て県道向かい側の旧道(かつての「志賀山越」)を東北に進んでゆくと、やがて道は分岐点に辿り着きます。
 この分岐を道標にしたがって左手(北)に向かう「むどうじ道(無動寺道)」へと入ってゆきます。この道が「今道越(今路越)」と称された道の一部をなしていたようです。
 つまり「今道越(今路越)」は、比叡山延暦寺東塔にある塔頭の無動寺へと向かい、そこから北志賀を経由して東坂本に出たのです。
 (なお、比叡山東塔の無動寺は、苛酷な修行で知られる「千日回峰行」の拠点となっています。)


山中町の仁丹町名表示板
 山中町集落内の旧街道沿いにある民家でみかけました。
 上部のマークは《大礼服マーク》と称するようです。人物と枠は赤色で「仁丹」が黒色というように、京都の街角で見かけるものとは異なっています。
 ところが、奈良市に設置されたものは大津市のものと色使いが逆で、人物と枠は黒色、「仁丹」が赤色になっています。
 また、大阪市の場合は大津バージョンと奈良バージョンが混在しています。


_01_6


 前回の記事にあった崇福寺が廃絶したあと、その参詣路でもあった「志賀山越」も廃れてしまいます。そのあと、貴人達が参詣したのは比叡山延暦寺だったと云われます。
 その比叡山延暦寺参詣の初期ルートは、京からの西坂(雲母坂ルート)、そして近江の坂本から登る東坂(今路越ルート)であったようです。
 この東坂が「今道越(今路越)」だったのです。
 西坂=雲母坂は、修学院の林丘寺の東側を音羽川沿いに比叡山延暦寺東塔の西谷に至る道です。なお、延暦寺東塔から近江の穴太(あのお)へと出る道は「白鳥越」または「古道越」と称されたようです。

 「今道越」は、中世(室町期)までは京と近江を結ぶ主要道路の位置にあったのですが、織田信長が新路(次回の記事をご覧ください)を拓かせて、従来の道の通行を禁じたことでその役割を終えます。


 なお、書物を見ていると平安末期・戦国期・近世にかけて、京から近江へ抜ける主要な山越えの道としては他にも、浄土寺・鹿ヶ谷・如意ヶ岳から長等山・三井寺を経て近江に通じる「如意越」、四宮(山科)から三井寺に出る「小関越」、五条橋口から小松谷・清閑寺山と阿弥陀ヶ峰の谷あいを通って山科に至る「渋谷越(汁谷越)」で東国道(東海道)に入る道、今熊野から勧修寺に出て東国道へ入る「滑石越(醍醐道)」など色んな道があったようです。


2014年6月27日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 1

 「山中越」というのは、平安時代以来、京から白川村を抜け、近江国の山中村を経て坂本に至る道でした。
 ところがこの道は時代を経るにしたがい、ルート・名称(呼称)ともに変遷しています。
 今回はそれらを簡単に見てゆきたいと思います。しかし、記事がいつもより長くなってしまい、3回に分割することにしました。(それでもなお、1回分が少し長くなったものもありますが)

1.「志賀山越(しがのやまごえ)」

 「山中越」は、古代には「志賀山越」と呼ばれました。
 ルートは、「荒神口」を発して鴨川を東岸に渡り、現・近衛通の少し北にある斜め北東へ延びる道を、今の京大会館前を経て東大路通一条へ、さらに白川村から山中村、そして崇福寺・近江滋賀里へ出る道でした。

 *「荒神口」の名は、護浄院(荒神口通河原町西入)の本尊である清三宝大荒神に因みます。
 ここは京への街道の出入り口「京七口」の一つに数えられる交通上の要地でした。そしてそれは、吉田村を経て志賀(近江)へと通じていることから、「吉田口」あるいは「志賀道口とも称されました。
 (中世になると「今道越」への出入り口と云うことで「今道ノ下口」という名称も生じます)


護浄院(通称は清荒神)

_01_2


東大路通一条交差点の道標
 「右 さかもと からさき 白川、 左 百まん扁ん、 宝永6年11月 沢村道範」と刻まれている。

_01


 前記のように、「志賀山越」の道は東大路一条から北東に進むのですが、現在は京都大学本部キャンパスの構内となっており道は寸断されている。キャンパスを北東側に抜けた所、住宅地の中を斜め北東へと延びる旧道をとると、今出川通の吉田神社裏参道前に出ます。
 そこから今出川通を斜め北に横切ったところが山越えの起点となる白川口です。


今出川通南側の道標
 吉田神社裏参道に出る手前の左手にこの道標があり、「すぐ 比ゑいさん 唐崎 坂本 嘉永2年」とあります。
 道標の右傍らには、二体の大きな阿弥陀如来座像が安置された祠があり、この石仏は鎌倉時代の作とされているようです。

_01_3


白川口
 今出川通北側にあって山越えの起点となる所で、「志賀山越」は祠の前を北東方向へ進む。

_01


北白川阿弥陀石仏(子安観音とも呼ばれる)
 白川口の祠に安置された石仏、これも鎌倉時代の作とされて高さは約2mあります。

_01_4


 ここ北白川の町から京都府道・滋賀県道30号線を登り詰めると、府県境を滋賀県側に入ったところ、すぐ右手に山中町集落への入り口があります。集落を抜ける旧道がかつての「志賀山越」です。
 山中町集落の東はずれから再び県道30号線に出ますが、そこを左手(県道の向かい側)に入って行く旧道が「志賀山越」で、平安期に所在した崇福寺(志賀寺・志賀山寺とも)を経て近江国見世(滋賀里)に出たのです。
 崇福寺は天智7年(668)天智天皇の創建になる寺で、十大官寺の一つとして貴人の参詣が多く平安初期まで栄えたとのこと、しかし度々の兵火で衰えてしまいます。
 この「志賀山越」が、謂わば山中越えの本道とも云える道で、京から崇福寺への参詣路として、また、近江への山越え道として利用されたのですが、平安時代の末期には寂れてしまったようです。


西教寺「阿弥陀如来座像」

_01_5

この阿弥陀如来座像は、山中町集落を通り抜ける山中越旧道に面して安置されている約2.5mの石仏で、鎌倉時代末期の作とされています。
この石仏は山中越え京都側入り口の「北白川阿弥陀石仏」、大津側入り口の「見世(滋賀里)の大ぼとけ」とともに、山中越えを通行する旅人の目標「一里塚」になっていたと云う。

2013年11月15日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 8

 この「三条通沿いの辻子」シリーズは今回が最終回となります。

天王辻子

Photo_16

 「天王辻子」は中之町を通貫していて、三条通から南行する粟田神社への参道を云う。
 粟田神社祭神の牛頭天王(八坂神社の祭神も牛頭天王)に因んで、この参道を「天王の辻子」と呼称していた。

鳥居に「感神院新宮」の額
(画像をクリックすると拡大します)

Photo_18

 感神院は八坂神社のことで、明治維新の神仏分離以前は祇園感神院あるいは祇園社と称した。
 この粟田神社の名前もまた明治初年の神仏分離以後の呼称であり、幕末までは感神院新宮あるいは粟田天王社と称していた。
 神社石段下には旧東海道が通っており、京七口の一つ「粟田口」がこの辺りに設けられたこともあったようで、京都から旅立つ時に安全祈願をする人々が多かった。

粟田神社の祭礼

神輿巡行

Photo

剣鉾巡行
 剣鉾は50Kg前後の重量になるそうで、6〜7mもある長い棹の上に1m程の鉾先を付け、その根元には金細工の透かし飾りと鈴が付けられている。
鉾差しは独特の歩行をすることにより、棹の金具に鈴を打ち当てて鳴らす。これは神輿の先払いで巡行路を祓い清めるそうです。

Dscn2017

 粟田神社の祭礼は旧9月15日(現10月15日)を中心におこなわれ、粟田祭の名で広く知られる。体育の日に行われる神幸祭・還幸祭では神輿のほか、各町から18本(元は17本)の鉾を出していたが、最近新しく一本が増えて19本となっています。現在では諸事情により祭礼で剣鉾差しが行われるのは5〜6本のようです。
 そのうち、東分木町守護の阿古铊鉾(あこだほこ)は神宝として重んじられ、旗に感神院新宮の五字を記す。なお、先に記したように感神院は祇園社(現八坂神社)のことですが、室町期には祇園祭が行えないときは粟田祭で祇園御霊会の替わりとしたと伝わるようです。


相槌稲荷

Photo_2

 相槌稲荷は刀匠の粟田口宗近の勧請という。
 宗近は朝廷から名剣を打つよう命ぜられた。しかし、優れた相槌が居なければ鍛えることができないため稲荷明神に祈願したところ、神の使いの狐が相槌を勤めて名刀「小狐丸」を製作し、朝廷に献上することができたと云う伝承がある。天下の五剣の一つと云われる「三日月宗近」が現存し国宝に指定されているようです。また、祇園祭の山鉾巡行で先頭を行く長刀鉾の鉾頭を飾る大長刀は宗近の作で、祇園社に奉納したものですが現在では複製品を使っている。

《完》

2013年9月20日 (金)

「京七口」と街道 ー粟田口と東海道ー

 「東海道」は古代から山城国の北部と東海・東山・北陸道を結ぶ主要道でした。
 江戸時代の五街道(東海道・中山道・日光道中・甲州道中・奥州道中)は主要幹線道路であるため、政治・軍事上の必要から幕府直轄とし、道中奉行の管轄下に置いていました。
 鴨川の三条大橋から粟田口・松坂・日ノ岡峠・四ノ宮河原・逢坂の関を越えて大津へと至る道は東海道の一部にあたり、三条街道・大津(街)道・近江路という呼称もありました。
 また、伏見から大亀谷・山科勧修寺を経て大津に至るルートもあって、これもやはり大津街道と云い、江戸時代には参勤交代の大名が京都を避けて伏見宿から大津宿へ直接出る道筋として重視されました。
 なお、京から近江への道としては他に、雲母越・山中越・渋谷越などもあった。

 さて、東海道で京の出入り口となるのが「粟田口(三条口とも)」なのですが、ここはどのような地だったのでしょう。

1. 地域名としての粟田口

 「粟田口」は元々、三条白川橋から東方、東山西麓一帯で日ノ岡手前の蹴上までを云う。
 古くは愛宕郡(おたぎぐん)13郷の一つ粟田郷であり、現在の左京区浄土寺・鹿ヶ谷・岡崎一帯を「上粟田郷」、岡崎の南の三条通から四条通以北を「下粟田郷」と称したようで、既に平安期の文献にはその名が見えるそうです。

三条白川の道標
 これは延宝六年(1678)の建立になり、京都最古の道標とされる。
 「京都為無案内旅人立之」としており、京都に不慣れな旅人の為の道案内に建立したと云う。
 「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と名所の名が刻まれている。
 施主の名前に代えて「施主 為二世安楽」と刻まれている。仏の慈悲により二世にわたって安楽を得ることを願い、功徳を積む意味で建立したのでしょう。

Photo

 粟田郷は東国から京への入り口にあたることから「粟田口」と命名されたが、この地は古来より山城北部(後に平安京が造営される地域)から東方へ抜ける、交通上の最も重要な要衝地でした。
 このような粟田口の位置は、戦略上においても重要な地点であったため、「保元物語」や「平家物語」などにこの地をめぐる攻防が記されています。
 またこの地には貴族達の別荘が多く設けられていたことが、「日本後記」「三代実録」「栄華物語」「大鏡」から知られると云います。


 正確な跡地は不明ながら、粟田口東端と日ノ岡の境界地あたりには、古く平安の中期から「粟田口刑場」の記録があり、江戸時代にも処刑や晒首がおこなわれたと云う。
 天王山(山崎)の戦いに敗れた明智光秀と斎藤利三の首・胴体が晒されたのもここで、この時にはその他の首三千余を集めて首塚がつくられたそうだ。豊臣秀吉の伴天連追放令・禁教でキリシタンの市橋庄助が磔刑に処せられたのもここであったと云う。

「粟田口」石標

Jpg

 粟田口には平安中期に大和の刀工が来住して粟田口を家号とした。鎌倉以来は多くの名工を輩出して相模の正宗と並び江戸時代にはもてはやされ、その作を「粟田口物」と云った。そして、その刀工を三条小鍛冶と称したのは、粟田口三条坊に住んだたことによる。

 また、東山一帯では粟田焼の製陶がおこなわれ、滝沢馬琴が享和2年(1802)京都を訪れた時、「京都の陶は、粟田口よろし。清水はおとれり」と旅行記『羈旅慢録』に記すそうで、当時は清水焼の窯を凌ぐ人気を保ち、宮中や幕府など高貴の人々の間で重用されたようですが、幕末には清水焼に押されてしまい、明治末頃には凋落するに至ったと云う。


2. 京七口の一つとしての粟田口

 京都には、都と外部(郊外・諸国)を結ぶ街道の出入り口が設けられ、口の付く地名が多く存在した。
 一般的には「京七口」と云われるが、京案内の文献に依れば、時代により位置・名称が変化しており、数も七つに一定していたわけではかったようです。


「弥次喜多」像
 東海道を上ってきた弥次郎兵衛と喜多八、三条大橋を渡り京に入ったところ。

Photo_3

 「粟田口」には、他に大津口・東三条口・三条橋口・三条口などの名称もありました。これは、口地名が行き先や経由地を示す場合と、口が所在する位置の地名を示す場合とにより呼称が異なったのです。
 つまり、経由地を表して「粟田口」、行き先を示して「大津口」、所在する土地の「三条口」というように呼称の違いが生じたようです。
 先に記したように、「粟田口」は京の出入り七口の中でも、要衝の地として最も重要な一つでした。


 ところで、豊臣秀吉は天正18年(1590)から翌年にかけて、大規模な京都改造をおこなっています。大きくは町割りの実施・寺院街の形成・御土居の築造でした。
 この御土居は高さ約5m、幅は基底部が約20mで上部は約5m、外側には濠を設けて全長は22.5Kmというもので、京都の市街地を包み込む大規模なものであったようです。この御土居築造の目的は諸説があるようですが、京都は平安の昔から鴨川の洪水と氾濫に悩まされていたので、鴨川の治水と防災と云うのも主要な目的の一つだったようです。

「三条口(粟田口)」跡付近

Photo_2

 この御土居に七ヶ所の出入り口が設けられたことから、「京七口」の呼び名が定着した模様。そして、その一つ「粟田口」(「三条口」など別称のあることは上記の通り)が設けられたのは、現在の「大橋町」(三条寺町東入ル)付近だとされるのですが、今ではその名残を留めるものは何も残っていません。

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 ところで、三条通(旧東海道)を鴨川を渡って東進すると、三条大橋の東橋詰から広道(現・岡崎通)にかけて十数ヶ所もの辻子が目白押しに存在します。
 次回からは、これらの辻子を巡り歩く予定でいます。

2013年7月 5日 (金)

近世の街道 ー車道・車石ー

 近世以前の主要街道は旅人や商用で多くの人々が通行するだけでなく、陸路を物資の輸送をする牛車が行き交う産業道路でもありました。
 そして、交通量の多い街道は人馬の通行のための歩道と、牛車専用の車道を分離していたようです。
物資輸送の牛車は車道(くるまみち)を通行したが、重量物を運搬するために雨や雪でぬかるんだ道や、急な坂道では大変難渋する。このため、牛車の幅に合わせて石畳で舗装され、この舗装敷石を車石(くるまいし)と称した。


三条大橋と車道
 三条大橋の西詰めを川沿いを南下する小路がある。(突き当りを西行すれば先斗町に至る)
 この小路は三条橋下流側のすぐ傍を河原に降り、橋を迂回して鴨川を渡るための車道の跡。東海道を通行する牛車の曳く車両はその重量のため橋を破損する恐れがある、このため鴨川の流れの中を渡ることになっていた。
 対岸(東岸)に上がると大橋町南端と大黒町の境界となる辺り、三条通の南に並行する道につながっていたという。


車 道
 見えている橋が三条大橋。(手前が下流側)
 ここから鴨川の流れを横切り対岸に渡った。

Photo

 通行する人々や牛車が多い街道・橋の傍など、あちこちに車道は整備されていたようで、これは近世に刊行された数々の名所図会に見てとることができます。


白川橋
 大津道(東海道)である三条通も歩道と牛車の通る道は分けられていたようで、二列に石畳が敷かれた車道は白川橋の下流側の川中を通っている。
 そして、京都盆地の粟田口(三条口)から大津に向う街道筋には他にも、日ノ岡峠手前の蹴上、山城国と近江国の境界である逢坂関越えといった急登坂の難所にも車道が敷設されていたようです。
 ところで、人・馬などが蹴上げた塵・泥または泥水やはねの事を「蹴上」と云いますが、蹴り上げ蹴り上げしながら急坂を登る牛馬のこのような様(さま)が、地名「蹴上」の由来であるそうな。


竹田街道
 江戸時代に伏見港と京都を結ぶ街道として造られた。旅人や天秤棒で荷を担ぐ商人達の行き交う歩道と車道は分けられ、牛車の通る車道は一段低いところを通っている。
 道がぬかるむと牛車の通行に難渋するため平らな石で舗装されていたようだ。

車石2点

その1(棒鼻):車輪の轍跡凹みが非常に深くクッキリと残る
   車力が居眠りしていても牛は道をそれる恐れなし

Photo_7

その2(旧陶化小学校):見辛いのですが中央のやや右が轍跡の凹みです

Photo_4


川端通
 四条橋東岸の北、常盤町から川端町へ通じる小路を土地では車道と云っていたようで、寛永の古図に伏見車道と記しているそうだ。これも牛馬の曳く車両が橋を壊す恐れがあるので、車道から鴨川の流れを渡った名残と云う。

荒神口
 荒神口も「京七口」の一つです。鴨川西岸から荒神橋を東へ渡ると、志賀越道・今道など時代により呼称が変わる山中越のはじまるところ。この荒神橋西南に牛車が河原に降りて川を渡るための小路(車道)が設けられていたそうで、以前は車の轍跡のついた敷石が残っていたと云う。

2013年4月12日 (金)

鴨川とその周辺 その6

宮川町通(宮川筋)

 川端通の東側を四条から五条に通じる通りで、一町目から八町目まである。
 はじめから茶屋町として開発された遊興の地であったが、宝暦元年(1751)からは全域が宮川町遊里となった。

Photo_32


宮川町筋の仁丹町名表示板

Photo_30

五条橋と松原橋

 五条大橋の東、東橋詰町に京七口の「五条口」(伏見街道の出入り口)があった。
 現・五条通は平安京の六条坊門小路に該当し、二筋北の松原通が平安京の五条大路に相当するという。
 また、現・五条橋が架設されて五条通が開かれたのは近世に入ってからのことである。
 したがって、平安京の五条大路(現・松原通)の鴨川に架かっていた橋が、本来の五条橋ということになり、牛若丸と弁慶が出会ったのは現・五条橋ではなく現・松原橋ということになる。

現・五条橋西詰めに建つ牛若丸と弁慶の像

Photo_26

平安京の五条大路(現・松原通)の鴨川に架かる橋

Photo_28


河原院跡碑

 平安初期に左大臣の源融(みなもとのとおる)が、鴨川のほとりに営んだ広大な邸宅「河原院(六条院)」があった。
 陸奥国塩釜の素晴らしい風景を模して庭園を造った。ここを在原業平・紀貫之などなどが訪れて、美しい庭を歌に詠んでいる。
 現在、河原町を挟んで西側の「本塩竈町」は、明治4年(1871)河原院の塩竈の故事に因んで名づけられた。

Photo_29

本塩竈町の仁丹町名表示板

Photo_4

2012年11月16日 (金)

追分・五条別れ・沓掛 ー街道の要衝ー

 今回は京都にある三つの交通地名を取り上げます。


「追 分」の道標

 道標の設置場所は、旧東海道が三条街道と伏見街道に分岐する箇所で、滋賀県大津市追分町と京都市山科区髭茶屋屋敷町の境界ともなっている。


Photo

碑文は、
東面に 「みきハ京ミち
 山科・蹴上げを経て、三条口(粟田口とも)に至る道。三条街道とも云い、東海道で東国から京へ、また、北国街道(北陸道)で北国から京へ、或いは東国から信濃や木曾など内陸部を中山道で京へと、いずれも近江の地で東海道に合流して京に入る主要道である。 
 *「京みち」は京の洛中に入る道を広くこう云った。したがって、伏見街道・竹田街道などもまた京みちと云っていた。

南面に 「ひだりハふしみみち」 
 伏見街道は宇治を通って大和へ向う街道であるがが、途中の宇治から伏見へと向う宇治街道につながっている。

北面に 「柳緑花紅」 
 柳が緑色に茂り、花は紅色に咲いている。春の美しい景色のたとえ。

西面に 「昭和廿九年三月再建」 
 原碑は琵琶湖文化館前に移設している。(但し、今は閉館しているようだ)

 「追分」とは「相分れ道」で、道の分岐点を意味している。
 そもそも、地名は人々が口にするうちに転訛しやすく、誤記や誤用も少なくない。
 「あひわかれ」は、次のように「おいわけ」へと転訛したようです。(一説)
 「a hi wa ka re」の語頭「a」が「o」に母音交替し、「ka」の母音と「re」の子音が脱落して「ke」となった。こうして「あひわけ」となり、さらに「おいわけ」へと転音したとされる。

 この「追分」地名は各地に存在し、街道が分岐する要衝や旧関所付近にあるようです。
 中山道と北国街道の分岐点にある20番目の宿場「追分宿」(現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分)は著名。民謡「信濃追分」が有名で「追分節」の発祥地でもある。


「五条別れ」の道標

 旧東海道(三条街道)から、渋谷街道を経て五条方面へ向う道の分岐点(山科区御陵中内町)に建つ。


Photo_2

碑文は、
北面に 「右ハ 三条通

東面に 「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐ満きよ水 道
*ひがしにし=東・西本願寺、六条大佛=方広寺、今ぐ満きよ水=今熊野清水

西面に 「願主  沢村道範

南面に 「宝永四丁亥年十一月吉日

 *この道標が建立された年の翌宝永5年(1709)には、油小路通姉小路下ルの民家から出火して、10,351軒の商家・民家と御所や多くの寺社を焼いた宝永の大火が発生している。
 江戸時代の京都では、宝永の大火、天明8年(1788)の団栗焼け、元治元年(1864)の「禁門の変」によるどんどん焼け、というように80年ごとに大火が発生しており、いずれも1万戸以上の町家が焼失していた。

 「××わかれ(別れ)」の呼称は西日本各地で使われる。しかし、近畿では他で見かけることが無く、京都市に独特の地名なのだそうです。
 大原の「野村別れ」「百井別れ」、上賀茂の「柊野別れ」、岩倉の「長谷別れ」、松尾の「山田別れ」などがあります。


「沓 掛」(地点案内標識)

 現・国道9号線で亀岡に抜ける老ノ坂峠の手前にあり、大枝沓掛町が現在の地名である。奈良時代の古山陰道と平安時代以後の新山陰道のいずれも、京都から山陰地方へ向うときはこの地を通って行ったようです。
 桓武天皇(平城京から長岡京・平安京に遷都した)の母は高野新笠という人ですが、この新笠の母が山城盆地西部大枝に勢力を張った土師氏(のちの大枝氏)の出身なのです。


Photo_3

 沓掛とは沓(草鞋)を樹木に掛けた所。吉田東伍(歴史地理学会の創設者)は、「沓を掛けておく店の義、すなわち駅亭。諸国にこの名が多い」と云う。
 そして、別の地名研究家は「この地名の半数例(34例中)は峠下の集落名である」とする。たしかに、この大枝の沓掛もまた老ノ坂峠の下に位置しています。

 寺院の仁王門に巨大な草鞋の架けてあるのを見かけます。そして、昔は村境や村の入口に注連縄を張り大きな草鞋をぶら下げる慣わしがあったそうです。
 「ここにはこのように大きな草鞋を履く荒神が居るぞ、だから中に入ってくるな」という意味で、疫病や悪霊など、村の平和・秩序を乱す邪悪なものが侵入するのを威嚇して防ぐためと云われ、道祖神のような役割を果たすようです。

 そして、先に記した中山道「追分宿」の隣、19番目の「沓掛宿」もまた全国的によく知られています。