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京七口・街道

2019年4月12日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その1

はじめに

 このシリーズでは、高野川流域を巡り歩いて、少しばかり往時の名残りを偲んでみることにしました。そして、市内中心部ほどには多くないのですが、残っている「仁丹町名表示板」のいくつかをお見せします。

 高野川流域の一帯が京都市左京区に編入される前は、「愛宕郡(おたぎぐん)」に属する村々でした。それらの一帯を高野川と賀茂川の合流点から、高野川の左岸(東岸)に沿って上流へと順に見ていきます。
 高野川左岸には、北ヘ順に田中・高野・山端と続きます。また、山端の対岸つまり高野川の右岸(西岸)には松ヶ崎が位置しており、その上流は川を挟むかたちで、上高野・八瀬・大原の順に北東へと続きます。


 京都市街地の北西から流れてくる賀茂川と、北東から流れてくる高野川の合流する所、そこは三角州になっていてその南端は鴨川公園となっています。
 地元ではここを《鴨川デルタ》と称していて、時候の良い頃の休日には多くの親子連れや若者グループで賑わう憩いの場となっています。
 それにしても、なぜ《高野川デルタ》ではないのだろう? やはり、昔から鴨川の方が世間によく知られた河川だったからなのでしょうか?

鴨川デルタ

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 ちなみに、賀茂川の源流は、京都市北区の北端と南丹市の境界近くにある桟敷ヶ岳付近です。そして、北山の山中から上賀茂を経て市街地へと入ってきます。
 また、《鴨川デルタ》から南では、川の名前の表記が「賀茂川」から「鴨川」に変わります。
 そして、鴨川デルタの西方一帯は《出町》と云う通称で呼ばれています。

高野川御蔭橋から北方を望む

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 一方、高野川の源流は、有名な観光地である大原の北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の北部山中です。そして高野川は、大原では「大原川」、八瀬では「八瀬川」の呼称があり、どちらも歌枕になっている。
 この高野川の東側にほぼ沿うように北上するのが、滋賀県(近江)・福井県(若狭)へと通じる若狭街道(大原街道)で、「鯖街道」という通称もあります。
 この辺りは、京都の出入口「京七口」の一つであった「大原口」でした。

「鯖街道」の道標

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【次回へ続く】


2019年3月22日 (金)

突抜 ー御寺内突抜一町目・同二町目ー

  御寺内突抜は、下松屋町通にあって現・突抜一町目(丹波口通から花屋町までの間)と、その南隣の現・突抜二町目(花屋町通から正面通までの間)を通貫していました。

御寺内突抜一町目

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御寺内突抜二町目

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 現・突抜一町目がかつての御寺内突抜一町目(丹波海道一町目)であり、現・突抜二町目はかつての御寺内突抜二町目(丹波海道二町目)でした。

丹波海道町の仁丹町名表示板

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突抜二町目の仁丹町名表示板

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 ちなみに、下松屋町通は「一貫町通」とも称していました。
 しかし、この別称は松原通から丹波口通(旧・丹波海道)までの区間に限っての呼称であって、丹波海道町以南については西本願寺寺内町であったため一貫町通とは呼ばなかったようです。

 その点について『京町鑑』の記述を見ると、
 「◯一貫町通」の項には、「△此通一貫町と名付たる事詳ならず ●此通は松原より南は丹波口下ル所迄の通にて大宮の西の通也  凡北にて松屋町通にあたるゆへこゝに附す」とする。
 また、一貫町通の「◯同五丁目 ▲丹波海道町  此町南の辻丹波海道也  則丹波口と云  但此丹波海道より南は一貫町とは呼ず  其故は是より南は西六條御寺内にて御支配の境有」としている。
 そして、一貫町五町目にあたる丹波街道町の南側を、「◯御寺内突抜一丁目 ▲丹波海道一町目 ◯同南町 ▲二町目」と記しています。

 なお、上記引用文中の「丹波口」は、いわゆる「京七口」の一つで、山陰街道の出入口となっていました。

 また、下松屋町通(通称・一貫町通)の呼称は、その北部が松屋町通にあたることから、南部を下松屋町通と称したとのことです。


2018年1月26日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の4

Ⅳ. 「長坂口」から「長坂越え」を行く

 「長坂口」(「北丹波口」「蓮台寺口」とも)は、千本通北端の鷹峯にありました。「長坂越え(北丹波路)」は、鷹峯から京見峠を経て杉坂に至る道で、丹波・若狭へ通じており古道「丹波道」にあたる。

《長坂口跡付近》 

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 現在、料亭「然林房」の東側を北上する道(府道31号)は新しい道であり、然林房の西側の千束から一ノ坂・長坂を経て堂ノ庭に出る旧道が、本来の「長坂越え」だったのです。
 鷹峯は古代末から軍事上の要衝であり、また物資の集散地でもありました。
 しかし、近代になって京都西北の双ヶ丘の西側を起点に、宇多野・高雄を経て周山に至る「周山街道」が開通します。そのために、杉坂口で長坂越えと合流してはいるのですが、かつての要衝地としての鷹峯は寂れ衰えてしまいます。 
 なお、近世までの山国庄(現・京北町のR477沿道一帯)は禁裏御料所(皇室の所有地)であったため、長坂越えはその経路にあたることから「山国路」とも称されたようです。
 ちなみに、明治28年に始まった京都の時代祭は10月22日に行なわれますが、この日は桓武天皇が平安京に奠都した日に当たると云うことです。この祭の時代行列では山国鼓笛隊が先頭を勤めています。これは明治維新の戊辰戦争の折に山国隊を組織して戦った功により参加しているとのことです。

《長坂越え》 千束付近

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《手作りの道標》

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「長坂口」から長坂越えで若狭へ向かう経路には、杉坂の先で幾つかのルートに分かれていました。
 ちなみに、『山城名跡巡行志』には、「杉坂ノ村口ニ石標有リ 右ハ山國周山道 左ハ若狭道ト」とある。

1. 雲ヶ畑を経由するルート
 このルートは『稚狭考』の「八原へ出ずして澁谷より弓削・山國に出て行道」に該当します。
 《経路》 長坂口、杉坂、持越峠、雲ヶ畑、岩屋、桟敷ヶ岳東麓、祖父谷峠、(京北)井戸、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里、田歌、五波峠、(名田庄)染ヶ谷・堂本を経て小浜へと至る。

2. 深見峠から北ヘ美山を経て名田庄まで縦断するルート
 このルートは『稚狭考』の「丹羽八原通に周山を經て鷹峰に出る道」に該当します。
 《経路》 長坂口、杉坂、周山、深見峠から北上、河内谷(ホサビ山の東麓)、美山の「中」へ、知見口から北上、知見・八原を経て、八ヶ峰知見坂(山城・若狭の国境)、(名田庄)槙谷・堂本を経て、小浜に至る。
 このルートは、前記「1.雲ヶ畑を経由するルート」に比べて距離が相当短くなるため、古くから利用されていたようです。

3. 清滝川沿いに行くルート
 《経路》 長坂口、杉坂、供御飯峠、(笠峠手前)小野、清滝川沿いに大森へ、西、茶呑峠、天童山、飯森山、(京北)井戸へ。
 そして井戸から先は、上記「1.雲ヶ畑を経由するコース」と同じ。

4. いわゆる西の鯖街道ルート
 《経路》 長坂口、千束、長坂、京見峠、杉坂、中川、小野、笠峠、細野、周山、弓削、深見峠、美山、堀越峠(山城・若狭の国境)、口坂本、名田庄、小浜へ至る。

   ー以上で本シリーズは終りですー

2018年1月19日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の3

Ⅲ. 「鞍馬口」から「鞍馬街道」を行く

 「鞍馬口」は、賀茂川に架かる出雲路橋の西詰め辺りにあったようで、「出雲路口」とも呼ばれた。 「鞍馬街道(丹波路)」は鞍馬寺・貴船神社への参詣道で、丹波・若狭へとつながる道でした。

《出雲寺鞍馬口石碑》
 鞍馬口から賀茂川の左岸(東側)へ渡り、深泥池を経て鞍馬街道は延びる。

Photo

 

 『京羽二重』は鞍馬街道の道筋を、「寺町通の北の頭町野へ出る みぞろ池 はたえだ村 市わら くらまみち也」と記しています。
 引用文中の「みぞろ池」というのは「深泥池」のことで、時代により「御菩薩池」「泥濘池」「美度呂池」「美曾呂池」などといろいろに表記されたようです。 なお、その昔には深泥池の西側付近に「若狭口」というのがあったようです。

 それでは、「鞍馬口」を起点とする「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 その《経路》はいずれも、鞍馬口、深泥池、幡枝、市原、野中、二ノ瀬、貴船口(落合)までは同じですが、その先で分岐しています。
 鞍馬川と貴船川が合流する落合(貴船口)で鞍馬街道から別れて、貴船川に沿った貴船道を行くと、貴船・丹波へと至る丹波路となります。

《鞍馬街道》
 右手の川は鞍馬川です 

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1. 鞍馬を経由するルート 
①久多の東部から針畑越えを行くコース

 このルートは『稚狭考』の「遠敷より根来・久田・鞍馬へ出る」に該当します。 『山城名跡巡行志』には、このコースを「久多越え」「小川越え」と記している。
 貴船口から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、百井、大見、尾越、八丁平、オグロ坂峠、久多川合から針畑川を上流へ、朽木小川、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。
 これは、若狭小浜と京都を結ぶ数あるルートの中では、距離的に最も短いルートとなっています。
②広河原から美山を経るコース

 落合から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、花背、大布施、広河原、佐々里峠(山城・桑田郡界)、佐々里、芦生、田歌から北上して五波峠(丹波と若狭の国境)を越え、染ヶ谷、堂本、名田庄、小浜へ至る。

2. 貴船経由で丹波路を行くルート
 落合(貴船川と鞍馬川の合流点)から先の《経路》は、貴船、芹生、灰屋、(京北)上黒田へ。
 そして、上黒田から先は、次の2ルートがある。
①上黒田から西行して井戸を経由するコース
 井戸から北上する。
 井戸から先の《経路》は、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里へ。
 佐々里からは、上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。
②上黒田から東行して大布施を経由するコース

 大布施から先の《経路》は、これも上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

3. 久多の西部から美山を経由するルート
 《経路》 久多、能見峠(久多峠)、広河原下之へ。
 広河原から先は、やはり上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

4. 上賀茂から雲ヶ畑を経由するルート
 《経路》 上賀茂、柊野、車坂、雲ヶ畑へ。
 雲ヶ畑から先は、次のような《経路》となる。
 雲ヶ畑、岩屋、桟敷ヶ岳東麓、祖父谷峠、(京北)井戸、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里、田歌、五波峠、(名田庄)染ヶ谷・堂本を経て小浜へと至る。
(これは、次回の記事中「Ⅳ.長坂口から長坂越えを行く」の「1.雲ヶ畑を経由するルート」に同じ)

2018年1月12日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の2

Ⅱ. 「大原口」から「若狭街道」を行く

 「大原口」(「今出川口」「龍牙口」「出町口」とも)は、寺町通今出川の北「出町」、いま賀茂川(鴨川)に架かる出町橋の西詰め辺りにあったようです。
 賀茂川と高野川が合流する出町から高野川左岸を北上して、八瀬・大原を経て若狭・北国につながっているのが「若狭街道(朽木越え)」です。
 この道は、大原への経路であることから「大原路」とも称された。

《大原口道標》

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 ちなみに、この「大原口」は、若狭だけではなく諸方面との出入り口となっていました。そのことを、『山城名跡巡行志』は次のように記しています。

「此口 正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村ニ至 又河中ヨリ北ヘ折上リ下賀茂ニ至 亦賀茂河ヲ渡リ堤ヲ南へ行路三條通ノ橋へ出ヅ  亦北ヘ川端ヲ行路新田山端ヲ經テ高野ニ至ル若州街道也  亦河ヨリ一町餘ニ北へ上ル路アリ田中村ヲ經テ一乗寺村ニ至ル是比叡山雲母路也  亦百萬遍ノ東ニ吉田路アリ岡崎ニ至  白河村ニテ左右ニ小路アリ南ハ淨土寺又近衞坂ニ至リ北ハ一乗寺ニ至ル  叉出町ノ北端ヲ河原へ出ル假橋アリ下賀茂路也 亦同所堤ヲ上ヘ行大道上鴨道也」

 それでは、「大原口」が起点となっている「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 それらの《経路》はどれも、「大原口」から高野川東岸沿いに北上、新田(現・高野)、山端、上高野、八瀬、大原小出石、途中峠(山城と近江の国境)、その先の途中越え(龍華越え・橡生越えとも)に至るまでは同じですが、その先で分岐しています。

《大原路と道標》

 道標の左手を行く道は旧道で、寂光院の傍を経て古知谷で新道と合流し、途中越えへと続く。
 右手の新道を行けば、三千院前を経て途中へと続く。

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1. 琵琶湖から九里半越えを行くルート
 このルートは『稚狭考』に言う「湖畔の道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、伊香立龍華を経て琵琶湖の和邇へ下り、湖岸の「西近江路」を北上して今津へ、今津から九里半越え(九里半街道)で、保坂、水坂峠(近江と若狭の国境)、熊川宿、上中を経て小浜に至る。
 「龍華越え」は古い歴史を持つ道で、はるか昔には京での戦に敗れた人々が都から近江・北国へと落ち延びる退路ともなっていたようです。
 京から志賀越え(山中越え・今道越えとも)で琵琶湖に出て、坂本(のちには大津)から琵琶湖西岸を若狭や敦賀など北国とをつなぐ街道が「西近江路」でした。 なお、今津と京都間は陸路の「西近江路」だけではなく、琵琶湖水運で坂本を経由する方途もあった。

2. 朽木越えのルート
 このルートは『稚狭考』の「朽木道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、花折峠、安曇川沿いに朽木谷を北上、保坂から九里半越え(九里半街道)で水坂峠(近江・若狭の国境)を経て、熊川宿、上中、小浜に至る。
 このルートは、主に若狭の海産物を京都へ運んだ街道で、前記の「1.  琵琶湖から九里半越えを行くルート」の距離を短縮したコース。鯖輸送のために最もよく利用されたことから、狭義の「鯖街道」と言えるでしょう。
 ところが、往時は大見尾根を経る山道が若狭街道の本道だったようです。この道については、次回の記事の「1.鞍馬を経由するルート」の「①  久多の東部から針畑越えを行くコース」をご覧ください。

3. 上記「2.朽木越えのルート」の間道 
①葛川梅ノ木から針畑越えに入るコース
 途中越えから先の《経路》は、葛川梅ノ木、安曇川に流入している針畑川を上流へ、久多川合から針畑川沿いに朽木小川へ、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来を経て、小浜遠敷に至る。
②朽木市場から木地山峠を越えるコース
 途中越えから先の《経路》は、朽木市場から麻生川沿いに上流へ、麻生、木地山を経て木地山峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。

2018年1月 5日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の1

I. 京と若狭をつなぐ道

 かつて、若狭の小浜は敦賀とともに、日本海の水運では重要港の一つであり、米や海産物などを京都へ輸送する拠点として繁栄したところでした。
 小浜では、「京は遠ても十八里」と言われ、物流、ことに魚介類の京都への流通ルートとなっていたのがいわゆる「鯖街道」でした。一方でこの「鯖街道」は、古の京都から若狭への文化伝播ルートでもあったのです。

 ところで、京都の北部山間部を抜けて若狭小浜とを結ぶルートとして、主要な街道がいくつかあります。さらに、それらの街道から分岐する脇道・間道も多数あります。一説にその数は17とも言われたようで、それらの道を総称して「若狭路」あるいは「鯖街道」と呼ばれました。

《鯖街道口道標》

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 板屋一助が、明和4年(1767)に著した『稚狭考(わかさこう)』で、鯖街道の数々について次のように記しています。

 「丹羽八原通に周山を經て鷹峰に出る道あり。其次八原へ出ずして澁谷より弓削・山國へ出て行道あり。叉遠敷より根來・久田・鞍馬へ出るもあり。此三路の中にも色々とわかるゝ道あり。朽木道、湖畔の道、すべて五つの道あり」

【註1】:板屋一助(1716ー1782、本名・津田元紀)は江戸時代中期の民間研究者で、小浜の材木商「板屋」の主人だったが、家業は弟に任せて上掲書をはじめ随筆や歌集などを著した。
【註2】:上記引用文中の地名は、丹羽八原通=現在の府道369号に相当し美山町知見・ハ原に至る(南丹市)、澁谷=染ヶ谷(福井県おおい郡名田庄)、弓削・山國=京北(右京区)、久田=久多(左京区)のことです。

 京と小浜を往来する若狭路は、その主要なルートのいずれもが、次のように「京七口」と言われる出入り口が起点となっています。
 1. 「大原口」を起点とする「若狭街道(朽木越え)」
 2. 「鞍馬口」を起点とする「鞍馬街道(丹波路)」
 3. 「長坂口」を起点とする「長坂越え(北丹波路)」
 そして、それら街道には抜け道・枝道も多くあったことは先に書いたとおりです。 
【註】:京七口は、かつての京と地方をつなぐ街道の出入口でした。この「七口」というのは、出入口が7ヶ所あったということではなく、多くの出入口を総称したものでした。

 なお、「京七口」は時代によりその数や場所・名称もかなり変化しており、一定していません。
 例えば、江戸時代前期の比較的近い時期に刊行された地誌書でも、記されている「京七口」には次のように異同が見られます。
 貞享元年(1684)刊『菟芸泥赴』では、大津口・宇治口・八幡口・山崎口・丹波口・北丹波口・龍牙口。
 元禄2年(1689)刊『京羽二重織留』は、東三條口・伏見口・鳥羽口・七條丹波口・長坂口・鞍馬口・大原口。
 ちなみに、江戸時代中期の宝暦4年(1754)刊『山城名跡巡行志』では以下のように記す。五條口、三條口、今出川口  一名大原口、出雲寺口  一名鞍馬口、蓮臺寺口  一名長坂口、七條口  一名丹波口、東寺口。

 それでは次回から3回にわたり、「鯖街道」についてその主要ルートだけではなく、多くの間道・脇道のなかでも主立ったものを幾つか取り上げ、『稚狭考』の記述とも照らし合わせながら見て行きます。

2014年7月11日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 3

前々回の「志賀山越」、前回の「今路越(今道越)」に続く最終回は、謂わば新道とも云える「白川越」です。

3.「白川越」白川馳道(しらかわのはせみち)・安土海道とも

そしていま一つのルートは、現・山中町集落の東はずれから北方へと進むルート、つまり、かつての「志賀山越」「今路越(今道越)」ルートではなくて、まっすぐに近江側へと下る新道です。
この道は安土・桃山時代になってから、織田信長が永禄13年(1570)頃に新設させたものです。
山中村から現・南志賀町の宇佐山(湖岸から1Km程のところ)に築いた宇佐山城を経て、琵琶湖へと通じる道でした。これは、現・県道30号線にほぼ重なるルートで、比叡平・田ノ谷峠を経て現在の大津市錦織町に出たようです。
宇佐山城が廃城となった後も、京と信長の居城である安土城との行き来には、この新道を経て湖上を船で渡ったようです。このことから「安土海道」とも呼ばれたとか。

そして、少し後の天正3年(1575)に、信長はこの新道を経て上洛するために、京都側の道普請をさせています。
この道筋は白川口から吉田村・田中村を経て、高野川と賀茂川の合流点の今出川假橋を西に渡り、出町の「今出川口」に至るものでした。
この新道について、宝暦4年(1754)刊『山城名跡巡行志 第三』では、「今出川口」の項で、「京極(現・寺町通)ノ東 今出河通ノ北一丁ニ在 其ノ所ヲ出町ト云フ 此口正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村二至ル」と記しています。

また、元禄2年(1689)刊の『京羽二重織留』巻之一では、この新道を「白川馳道(しらかわのはせみち)」とし、「今  京極今出川口より白河村に至まで  所々道を挟みて並木の松のこれり  これいにしへの道なり」と記しており、当時は所々にまだ松並木が残っていたようです。

賀茂川と高野川の合流点
 かつて「今出河口假橋」が架けられたところ。
 左手の橋が鴨川に架かる現「出町橋」、右手は高野川に架かる現「河合橋」です。
 その出町橋の左手(西側)の出町桝形辺りに「今出川口(大原口とも)」が設けられていたようです。

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現在の出町
 かつて「今出川口(大原口)」があった出町(桝形)から東方を望む。
 前方に見える橋は賀茂川に架かる出町橋、見えないがその向こう側には高野川に河合橋が架かっている。

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ちなみに、前掲書の「今出河口假橋」の項には、「賀茂河高野河ヲ跨 田中村従リ之ニ掛ル板橋也」とあるので、現在の出町橋と河合橋とほぼ同じ位置に板の仮橋が架けられていたのでしょう。
その架橋費用については「橋料ハ 高野八瀬大原等 此橋往来ノ村々之ヲ出ス」となっています。そして、「今出川口」の別称「大原口」は、このように大原方面への出入り口でもあったことによるのです。

突然、「東今出川通」について
織田信長が整備させた新道「白川馳道」の、「今出川口假橋」東詰め(現・叡山電鉄「出町柳駅」前辺り)から百万遍へ出て、白川口の子安観音に至る間、これが「東今出川通」の原型となったのでしょう。(「京羽二重織留」にいう松並木はこの間にあった)
そして、近世までの今出川通東端は京極大路(現寺町通)東の鴨河原まででした。近代になって昭和6年に賀茂大橋が架橋されて後、その東側に市電が敷設されて新たな東今出川通となったのです。
なので、かつての東今出川通(「白川馳道」)のうち、河合橋東岸から叡山電鉄出町柳駅を経て百万遍交差点に至る間については、謂わば旧・東今出川通となってしまいました。

旧・東今出川通
 叡山電鉄「出町柳」駅前から東方を望む

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 旧今出川東端の百万遍交差点手前(遥か先の山には大文字の「大」が見える)

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《田中関田町の仁丹町名表示板》
 「東今出川通」表記にご注目!
 旧・東今出川通に面して設置されていました。ところが、今回の記事を書くために改めて歩いてみたところ、この表示板は姿を消していました。

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以上でこのシリーズは終わりです。



2014年7月 4日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 2

 前回の「志賀山越」に続いて、今回はその支道とも云える「今路越(今道越)」です。

2.「今路越(今道越)」(いまみちごえ)

 「志賀山越(しがのやまごえ)」が廃れたあと、中世になると、これに代わって近江へ越える道は「今路越」と呼ばれる山越え道でした。
 京七口の「荒神口」は中世になると、「今道越」の入り口と云うことから「今道ノ下口」という名称も生じました。
 山中町集落を通り抜け、東のはずれを現・県道30号線に出て県道向かい側の旧道(かつての「志賀山越」)を東北に進んでゆくと、やがて道は分岐点に辿り着きます。
 この分岐を道標にしたがって左手(北)に向かう「むどうじ道(無動寺道)」へと入ってゆきます。この道が「今道越(今路越)」と称された道の一部をなしていたようです。
 つまり「今道越(今路越)」は、比叡山延暦寺東塔にある塔頭の無動寺へと向かい、そこから北志賀を経由して東坂本に出たのです。
 (なお、比叡山東塔の無動寺は、苛酷な修行で知られる「千日回峰行」の拠点となっています。)

山中町の仁丹町名表示板
 山中町集落内の旧街道沿いにある民家でみかけました。
 上部のマークは《大礼服マーク》と称するようです。人物と枠は赤色で「仁丹」が黒色というように、京都の街角で見かけるものとは異なっています。
 ところが、奈良市に設置されたものは大津市のものと色使いが逆で、人物と枠は黒色、「仁丹」が赤色になっています。
 また、大阪市の場合は大津バージョンと奈良バージョンが混在しています。

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 前回の記事にあった崇福寺が廃絶したあと、その参詣路でもあった「志賀山越」も廃れてしまいます。そのあと、貴人達が参詣したのは比叡山延暦寺だったと云われます。
 その比叡山延暦寺参詣の初期ルートは、京からの西坂(雲母坂ルート)、そして近江の坂本から登る東坂(今路越ルート)であったようです。
 この東坂が「今道越(今路越)」だったのです。
 西坂=雲母坂は、修学院の林丘寺の東側を音羽川沿いに比叡山延暦寺東塔の西谷に至る道です。なお、延暦寺東塔から近江の穴太(あのお)へと出る道は「白鳥越」または「古道越」と称されたようです。

 「今道越」は、中世(室町期)までは京と近江を結ぶ主要道路の位置にあったのですが、織田信長が新路(次回の記事をご覧ください)を拓かせて、従来の道の通行を禁じたことでその役割を終えます。

 なお、書物を見ていると平安末期・戦国期・近世にかけて、京から近江へ抜ける主要な山越えの道としては他にも、浄土寺・鹿ヶ谷・如意ヶ岳から長等山・三井寺を経て近江に通じる「如意越」、四宮(山科)から三井寺に出る「小関越」、五条橋口から小松谷・清閑寺山と阿弥陀ヶ峰の谷あいを通って山科に至る「渋谷越(汁谷越)」で東国道(東海道)に入る道、今熊野から勧修寺に出て東国道へ入る「滑石越(醍醐道)」など色んな道があったようです。

 

 

2014年6月27日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 1

 「山中越」というのは、平安時代以来、京から白川村を抜け、近江国の山中村を経て坂本に至る道でした。
 ところがこの道は時代を経るにしたがい、ルート・名称(呼称)ともに変遷しています。
 今回はそれらを簡単に見てゆきたいと思います。しかし、記事がいつもより長くなってしまい、3回に分割することにしました。(それでもなお、1回分が少し長くなったものもありますが)

 

1. 「志賀山越(しがのやまごえ)」

 「山中越」は、古代には「志賀山越」と呼ばれました。
 ルートは、「荒神口」を発して鴨川を東岸に渡り、現・近衛通の少し北にある斜め北東へ延びる道を、今の京大会館前を経て東大路通一条へ、さらに白川村から山中村、そして崇福寺・近江滋賀里へ出る道でした。

 *「荒神口」の名は、護浄院(荒神口通河原町西入)の本尊である清三宝大荒神に因みます。
 ここは京への街道の出入り口「京七口」の一つに数えられる交通上の要地でした。そしてそれは、吉田村を経て志賀(近江)へと通じていることから、「吉田口」あるいは「志賀道口とも称されました。
 (中世になると「今道越」への出入り口と云うことで「今道ノ下口」という名称も生じます)

 

護浄院(通称は清荒神)

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東大路通一条交差点の道標
 「右 さかもと  からさき  白川、 左 百まん扁ん、 宝永6年11月 沢村道範」と刻まれている。

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 前記のように、「志賀山越」の道は東大路一条から北東に進むのですが、現在は京都大学本部キャンパスの構内となっており道は寸断されている。キャンパスを北東側に抜けた所、住宅地の中を斜め北東へと延びる旧道をとると、今出川通の吉田神社裏参道前に出ます。
 そこから今出川通を斜め北に横切ったところが山越えの起点となる白川口です。

今出川通南側の道標
 吉田神社裏参道に出る手前の左手にこの道標があり、「すぐ 比ゑいさん 唐崎 坂本 嘉永2年」とあります。
 道標の右傍らには、二体の大きな阿弥陀如来座像が安置された祠があり、この石仏は鎌倉時代の作とされているようです。

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白川口
 今出川通北側にあって山越えの起点となる所で、「志賀山越」は祠の前を北東方向へ進む。

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北白川阿弥陀石仏(子安観音とも呼ばれる)
 白川口の祠に安置された石仏、これも鎌倉時代の作とされて高さは約2mあります。

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 ここ北白川の町から京都府道・滋賀県道30号線を登り詰めると、府県境を滋賀県側に入ったところ、すぐ右手に山中町集落への入り口があります。集落を抜ける旧道がかつての「志賀山越」です。
 山中町集落の東はずれから再び県道30号線に出ますが、そこを左手(県道の向かい側)に入って行く旧道が「志賀山越」で、平安期に所在した崇福寺(志賀寺・志賀山寺とも)を経て近江国見世(滋賀里)に出たのです。
 崇福寺は天智7年(668)天智天皇の創建になる寺で、十大官寺の一つとして貴人の参詣が多く平安初期まで栄えたとのこと、しかし度々の兵火で衰えてしまいます。
 この「志賀山越」が、謂わば山中越えの本道とも云える道で、京から崇福寺への参詣路として、また、近江への山越え道として利用されたのですが、平安時代の末期には寂れてしまったようです。

 

西教寺「阿弥陀如来座像」

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この阿弥陀如来座像は、山中町集落を通り抜ける山中越旧道に面して安置されている約2.5mの石仏で、鎌倉時代末期の作とされています。
この石仏は山中越え京都側入り口の「北白川阿弥陀石仏」、大津側入り口の「見世(滋賀里)の大ぼとけ」とともに、山中越えを通行する旅人の目標「一里塚」になっていたと云う。



2013年11月15日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 8

 この「三条通沿いの辻子」シリーズは今回が最終回となります。

 

天王辻子

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 「天王辻子」は中之町を通貫していて、三条通から南行する粟田神社への参道を云う。
 粟田神社祭神の牛頭天王(八坂神社の祭神も牛頭天王)に因んで、この参道を「天王の辻子」と呼称していた。

 

鳥居に「感神院新宮」の額
(画像をクリックすると拡大します)

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 感神院は八坂神社のことで、明治維新の神仏分離以前は祇園感神院あるいは祇園社と称した。
 この粟田神社の名前もまた明治初年の神仏分離以後の呼称であり、幕末までは感神院新宮あるいは粟田天王社と称していた。
 神社石段下には旧東海道が通っており、京七口の一つ「粟田口」がこの辺りに設けられたこともあったようで、京都から旅立つ時に安全祈願をする人々が多かった。

粟田神社の祭礼

神輿巡行

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剣鉾巡行
 剣鉾は50Kg前後の重量になるそうで、6〜7mもある長い棹の上に1m程の鉾先を付け、その根元には金細工の透かし飾りと鈴が付けられている。
鉾差しは独特の歩行をすることにより、棹の金具に鈴を打ち当てて鳴らす。これは神輿の先払いで巡行路を祓い清めるそうです。

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 粟田神社の祭礼は旧9月15日(現10月15日)を中心におこなわれ、粟田祭の名で広く知られる。体育の日に行われる神幸祭・還幸祭では神輿のほか、各町から18本(元は17本)の鉾を出していたが、最近新しく一本が増えて19本となっています。現在では諸事情により祭礼で剣鉾差しが行われるのは5〜6本のようです。
 そのうち、東分木町守護の阿古铊鉾(あこだほこ)は神宝として重んじられ、旗に感神院新宮の五字を記す。なお、先に記したように感神院は祇園社(現八坂神社)のことですが、室町期には祇園祭が行えないときは粟田祭で祇園御霊会の替わりとしたと伝わるようです。

 

相槌稲荷

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 相槌稲荷は刀匠の粟田口宗近の勧請という。
 宗近は朝廷から名剣を打つよう命ぜられた。しかし、優れた相槌が居なければ鍛えることができないため稲荷明神に祈願したところ、神の使いの狐が相槌を勤めて名刀「小狐丸」を製作し、朝廷に献上することができたと云う伝承がある。天下の五剣の一つと云われる「三日月宗近」が現存し国宝に指定されているようです。また、祇園祭の山鉾巡行で先頭を行く長刀鉾の鉾頭を飾る大長刀は宗近の作で、祇園社に奉納したものですが現在では複製品を使っている。

 

《完》