昔の「旅」 ー寺社参詣と物見遊山ー
現代の私達にとって「旅行」や「観光」の目的は、普段の生活から脱け出して異なる風景・景色・町並みの中に身を置いて、非日常的な経験を求めることにあると言えるでしょう。
仕事や労働の必要から、生まれそして住み着いた在所を離れて、遠方に出かける「たび(旅行)」は近世以前においてもあったでしょう。
けれども、仕事目的ではなく観光的な旅行に出ることが可能だったのは、貴族や僧侶など上流階級の人々に限られていました。
近世(江戸時代)になっても、各地に関所や口留番所(関所の小規模なもの)が設置されおり、人々の自由な移動は厳しく制限されていました。このため、一般庶民が自由に旅行するというようなことはできなかったのです。
とはいえ、庶民でも伊勢神宮の参拝や、信仰・祈願のために聖地や霊場を巡拝する「たび」については、庄屋・名主・旦那寺などの発行する往来手形(身分証明書)があれば黙認されていたようです。
そのため、各地の寺社や山岳に集団で参拝することを目的に、参拝旅費の積み立て制度として伊勢講や富士講など多くの講組織が作られました。頼母子講や無尽講などは、こうした相互扶助制度から派生したものです。
弥次喜多像
ところが、こうした「たび」は寺社参詣だけではなく、行楽もまた大きな目的となっていました。というより、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多に見られるように、むしろ社寺参詣を口実にした物見遊山の方が主たる目的だったでしょう。こうした「たび」が今言うところの「観光旅行」の始まりだったのです。
宿屋の夕刻(『拾遺都名所圖會』巻二左青龍尾 から)
(いつも通り、挿絵は画像をクリックすると拡大できます)
近世になると幕府の宗教政策によって、主要な仏教宗派の本山はそのほとんどが京都に集中します。そして、それら寺院の壮麗な伽藍や庭園は、京都観光の主要な対象となっていました。神社の社殿・境内もやはり同じです。
先に記したように、昔の人々にとってはこうした神社仏閣への参詣は、信仰と行楽を兼ねていました。
したがって、寺社の門前や周辺は多くの人々が集まる「盛り場」となり、旅籠屋をはじめ料理茶屋・水茶屋、様々な店や物売りが建ち並ぶとともに、芝居小屋では見世物の興行がおこなわれ、幕間には芝居茶屋で飲食をして寛ぎました。
阿国歌舞伎発祥地の碑
出雲阿国像
『京雀』には、樵木町通(現在の木屋町通)の四条から「東のかたをみれば四條川原いろ〻見物の芝居ありその東は祇園町北南行ながら茶やはたごやにて座しきには客の絶る時なし祇園殿西の門只一目にみゆ」と、その賑わいを記しています。
ということで、清水寺・南禅寺・上賀茂神社・下鴨神社などの著名な名刹古社も、その門前は参詣の人々で大いに賑わった。
四條河原夕涼の躰(『都名所圖會』巻二 から)
物見遊山・社寺参詣が広く行われるようになると、平安時代以来の都として憧憬される京都には地方から多くの人々が訪れるようになり、名所案内記(謂わば観光ガイドブック)が多数刊行されます。そうした京都の名所記の数は二百数十種にも及んだそうです。
ちなみに、『京都名所圖會』の凡例には次にように記しています。「(略)神社の芳境 佛閣の佳邑 山川の美観等 今時の風景をありのままに模写し 舊本花洛細見圖を増益して時々其遺漏を巡歴し 攝社艸庵たりとも一宇も洩ず 幼童の輩坐して古蹟の勝地を見る事を肝要とす」
最後に、そうした名所案内記のいくつかを挙げておきます。
『京童』明暦4年(1658)と『京童跡追』寛文7年(1667)共に中川喜雲著、これは案内記・名所記の先駆をなすものとされます。
『京雀』寛文5年(1665)浅井了意著、『京雀後追』延宝6年(1678)著者不詳、『京童』の遺漏を補うとともに実用的地誌を考慮した新しい形式。
『近畿歴覧記』延宝6年(1678)~貞享4年(1687)黒川道祐著、洛中洛外各地の紀行を集めたもの。
『菟芸泥赴』貞享元年(1684)北村季吟著、平安京内裏をはじめ洛中洛外の社寺や名所を説明。
『京羽二重』貞享2年(1685)と『京羽二重織留』元禄2年(1689)狐松子著、これらは趣味と実益を兼ねた京都案内記。
『山州名跡志』元禄15年(1702)釈白慧著、山城1国8郡386村を実地に踏査して克明に描写している。
『京城勝覧』宝永3年(1706)貝原益軒著、洛中洛外の名所旧跡を17日間で巡覧できるように日程を組んでおり、各コースとも三条大橋を起点として1日で巡れる範囲にとどめている。
『山城名跡巡行志』宝暦4年(1754)釈浄慧著、洛中の寺社旧跡を北は一条から六条まで、西の京を東から西へ書き進めて巡行の便を旨として編まれている。
『京町鑑』宝暦12年(1762)白鷺著、京町鑑の最も代表的なもので、京都の町を縦町通・横町通ごとに各町の説明を中心としており、京都の町の研究に不可欠となっている。
『都名所圖會』安永9年(1780)秋里籬島著、実地を踏査して書き描いた本文と挿絵は読者を名所旧跡に遊ぶ思いにさせる。