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カメラ散歩

2024年11月29日 (金)

ねじりマンポ


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 このトンネル(大山崎町円明寺)は、名神高速道路・京都縦貫自動車道・京滋バイパスの3自動車道が連結する、大山崎インターチェンジに程近いところにあります。
 高さは1.22mと人が腰を屈めてようやく通れる高さで、現存するねじりマンポでは最も小さいものとされる。
 トンネルの内部は、よく見ると石積み側壁の上部のアーチはレンガが斜めに捩れて積まれています。「ねじりマンポ」という特殊な構造になっているのです。そして、このトンネルは上を通るJR東海道線線路のアーチ橋ともなっているのです。
 鉄道とアーチ橋が直交せず斜めに交差する場合、上を通る鉄道線路と直角になるようように精緻な設計でレンガを斜めに積み、アーチ橋にかかる力が分散されるような構造にしているのです。


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 上のトンネル(島本町山崎)は、サントリー山崎蒸溜所のすぐそばにあります。
 このトンネルの場合、上を通るJR東海道線の線路とは直交する形になっていて、斜めに交差していません。このため、側壁のレンガは積み方が斜めに捩れた積み方(ねじりマンボ)ではなく、普通の水平の積み方でアーチ橋を造っています。


 「ねじりマンポ」は、専門用語では斜架拱(しゃかきょう)といわれ、日本国内では明治7年(1874年)開通の東海道本線・大阪〜神戸間の工事でお雇い外国人のイギリス人技師によって初めて採用されたという。したがって、今では明治・大正の土木技術の貴重な遺産と言えます。
 日本では鉄道用アーチ橋としての採用が殆どであり、琵琶湖疏水蹴上インクラインのねじりマンポは鉄道以外では希少な採用例だということです。


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 前方のレンガ構造物(インクライン)にあるトンネルがねじりマンポ。このトンネルの上にインクラインのレールが敷設されている。
 このトンネルは高さ約3m、幅約2.6mとかなり大きく、複数の人が並んで歩けるほどです。
 このねじりマンポは側壁とトンネル入り口に、独特の装飾がなされていて意匠的に珍しい。

 なお、関西で現存するレンガ造りのアーチ橋は200ヶ所あまりあって、そのうち15ヶ所がねじりマンポ(斜架拱)だとされます。

 ところで「マンポ」とは、またその語源は何か? 以下はネット情報です。
 トンネルを意味する滋賀県南部を中心とする方言で、道路や鉄道の短いトンネルや農業用地下水路トンネルを「〇〇のマンポ」と呼んでいたという。
 また、鉱山の坑道を意味するマブ(間分・間歩・間府)が語源とする説が有力だが、旧東海道の隧道(ずいどう)築造などで外国人技師が工事中に言っていた「マンホール」説というのもある。

 追記:当ブログの2011年11月11日 (金)記事『辻子 ー杓子屋辻子とその周辺ー』で、インクラインを潜る「ねじりマンポ」にについて少しだけ触れています。覗いてみてください。




2024年11月15日 (金)

名古曽の滝、大沢池、大覚寺

大覚寺大沢池

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 大覚寺は右京区嵯峨大沢町にあります。
 この寺のはじめは、平安時代の初期に嵯峨天皇の離宮(別荘)として造営された嵯峨院でした。
 平安時代、風光明媚な洛西の嵯峨野は皇族や貴族が遊猟をし、離宮や豪壮な山荘を構えて、その園地には広大な池をもつものが幾つもあったようです。
 離宮嵯峨院は現在の大覚寺境内東側の大沢池の北にあったようですが、嵯峨院の園地にあって中国の洞庭湖になぞらえて作庭されたという、今の大沢池だけが昔の姿を残しているようです。
 なお、この大沢池は、東方にある広沢池とともに観月の名所として知られていました。
 
 貞観18年(876)、嵯峨院は淳和天皇の皇后正子(嵯峨天皇の皇女)の御願により寺に改められて、大覚寺と称するようになりました。
 のちの鎌倉時代には、譲位した後嵯峨天皇・亀山天皇がこの大覚寺に入り、後宇多天皇がここで院政を行なうにおよんで大覚寺は大いに栄えて嵯峨御所とも称されたのです。
 応仁の乱とその後も続いた兵火で大覚寺は荒れ果てたのですが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らの寄進と保護で門跡寺院としての体裁を回復したということのようです。


名古曾の瀧址

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 さて、大沢池の北50メートルほどのところに、滝壺の石組みを思わせる数個の大きな石があり、そばには「名古曾の瀧址」の石碑があります。
 この嵯峨院の庭園にあった「名古曽の滝(なこそのたき)」の流れは、素掘りの遣り水が大沢池に流れ込むように設けられていたようですが、いつしかその水路には水が流れなくなり、平安も末期の頃になると滝はすっかり涸れてしまっていたようです。

 滝の名の「名古曾の瀧」は、藤原公任(966年~1041年)が流れの絶えた滝を見て詠んだ、有名な次の歌から名付けられたと言われます。
   滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
     名こそ流れて なほ聞こえけれ (百人一首 55)
(滝音が絶えてから久しくなるが、その名声は今も流れ伝わって、今もなお世に知られていることだ、といった意味だそうです)

 ついでに書けば、大納言公任(藤原公任)は平安中期の公卿で歌人。和歌の他、漢詩、管弦にも優れた才能を見せ、藤原道長に自らの才能を誇示した「三舟の才(三船の才)」の逸話は有名です。
 藤原道長が大堰川に漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟を出して、それぞれの分野の名人を乗せたとき、乗る舟を尋ねられた公任は和歌の舟を選んで、次の歌を詠み賞賛されたと言う。
  小倉山 嵐の風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき




2024年5月 3日 (金)

泉涌寺と水屋形

水屋形
 「泉涌寺」の名称は境内に湧き出た清水を由来とするが、水屋形はこの泉を覆う優雅な意匠の建物。
 屋根は入母屋造り、軒唐破風を付けた杮葺きで、正面には桟唐戸、上部には弓欄間を設えている。仏殿と同じ寛文期に再建された建造物。

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仏 殿
 寛文8年(1668)徳川幕府四代将軍家綱によって再建された本堂。本格的な唐様建築(禅宗様式)の特徴を完備しており、国の重要文化財となっている。左手奥の建物は舎利殿。

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 泉涌寺は真言宗泉涌寺派の大本山で、創建は空海とも藤原緒嗣(平安前期の公卿)ともいわれ、初めは法輪寺のちには仙遊寺を称した。
 入宋していた俊芿(しゅんじょう)が12年間の留学から帰朝して、栄西の招きにより建仁寺に住していた。建保6年(1218)俊芿を崇敬する*中原(宇都宮)信房から仙遊寺の跡地の寄進を受けて伽藍を再興した。
 (宇都宮信房=平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将で晩年は仏教に帰依)
 このとき、境内に泉が湧いたことに因んで「泉涌寺」と改称し、天台・律宗・臨済禅とともに浄・蜜の五宗を兼修(明治5年に兼学を廃した)する道場とした。また、俊芿は関東にも下向して朝野の帰依を受けた。

 そして、俊芿以後も高僧が泉涌寺の住持となり、天皇家や貴族の尊崇を受けて栄えた。
 応仁・文明の乱で俊芿の創建した伽藍は焼失したが、織田信長が再建し、豊臣・徳川の保護を受けた。仏殿は寛文9年(1669)に禅宗様(ぜんしゅうよう)で再建されて再興は完成した。この寛文期の再興時の舎利殿なども現存している。

 泉涌寺は四条天皇をはじめ多くの天皇の葬礼が行われ、四条天皇など歴代天皇・后妃の御陵が造営されたことから、皇室の菩提寺・香華院となったことから御寺(みてら)泉涌寺と称されるようになった。



2020年1月17日 (金)

昔の「旅」 ー寺社参詣と物見遊山ー

 現代の私達にとって「旅行」や「観光」の目的は、普段の生活から脱け出して異なる風景・景色・町並みの中に身を置いて、非日常的な経験を求めることにあると言えるでしょう。
 仕事や労働の必要から、生まれそして住み着いた在所を離れて、遠方に出かける「たび(旅行)」は近世以前においてもあったでしょう。
 けれども、仕事目的ではなく観光的な旅行に出ることが可能だったのは、貴族や僧侶など上流階級の人々に限られていました。

 近世(江戸時代)になっても、各地に関所や口留番所(関所の小規模なもの)が設置されおり、人々の自由な移動は厳しく制限されていました。このため、一般庶民が自由に旅行するというようなことはできなかったのです。
 とはいえ、庶民でも伊勢神宮の参拝や、信仰・祈願のために聖地や霊場を巡拝する「たび」については、庄屋・名主・旦那寺などの発行する往来手形(身分証明書)があれば黙認されていたようです。
 そのため、各地の寺社や山岳に集団で参拝することを目的に、参拝旅費の積み立て制度として伊勢講や富士講など多くの講組織が作られました。頼母子講や無尽講などは、こうした相互扶助制度から派生したものです。

弥次喜多像

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 ところが、こうした「たび」は寺社参詣だけではなく、行楽もまた大きな目的となっていました。というより、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多に見られるように、むしろ社寺参詣を口実にした物見遊山の方が主たる目的だったでしょう。こうした「たび」が今言うところの「観光旅行」の始まりだったのです。

宿屋の夕刻(『拾遺都名所圖會』巻二左青龍尾  から)
 (いつも通り、挿絵は画像をクリックすると拡大できます)

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 近世になると幕府の宗教政策によって、主要な仏教宗派の本山はそのほとんどが京都に集中します。そして、それら寺院の壮麗な伽藍や庭園は、京都観光の主要な対象となっていました。神社の社殿・境内もやはり同じです。

 先に記したように、昔の人々にとってはこうした神社仏閣への参詣は、信仰と行楽を兼ねていました。
 したがって、寺社の門前や周辺は多くの人々が集まる「盛り場」となり、旅籠屋をはじめ料理茶屋・水茶屋、様々な店や物売りが建ち並ぶとともに、芝居小屋では見世物の興行がおこなわれ、幕間には芝居茶屋で飲食をして寛ぎました。

阿国歌舞伎発祥地の碑

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出雲阿国像

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 『京雀』には、樵木町通(現在の木屋町通)の四条から「東のかたをみれば四條川原いろ〻見物の芝居ありその東は祇園町北南行ながら茶やはたごやにて座しきには客の絶る時なし祇園殿西の門只一目にみゆ」と、その賑わいを記しています。

 ということで、清水寺・南禅寺・上賀茂神社・下鴨神社などの著名な名刹古社も、その門前は参詣の人々で大いに賑わった。

四條河原夕涼の躰(『都名所圖會』巻二  から)

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 物見遊山・社寺参詣が広く行われるようになると、平安時代以来の都として憧憬される京都には地方から多くの人々が訪れるようになり、名所案内記(謂わば観光ガイドブック)が多数刊行されます。そうした京都の名所記の数は二百数十種にも及んだそうです。

 ちなみに、『京都名所圖會』の凡例には次にように記しています。「(略)神社の芳境  佛閣の佳邑  山川の美観等  今時の風景をありのままに模写し  舊本花洛細見圖を増益して時々其遺漏を巡歴し  攝社艸庵たりとも一宇も洩ず  幼童の輩坐して古蹟の勝地を見る事を肝要とす」

 最後に、そうした名所案内記のいくつかを挙げておきます。

『京童』明暦4年(1658)と『京童跡追』寛文7年(1667)共に中川喜雲著、これは案内記・名所記の先駆をなすものとされます。
『京雀』寛文5年(1665)浅井了意著、『京雀後追』延宝6年(1678)著者不詳、『京童』の遺漏を補うとともに実用的地誌を考慮した新しい形式。

『近畿歴覧記』延宝6年(1678)~貞享4年(1687)黒川道祐著、洛中洛外各地の紀行を集めたもの。
『菟芸泥赴』貞享元年(1684)北村季吟著、平安京内裏をはじめ洛中洛外の社寺や名所を説明。
『京羽二重』貞享2年(1685)と『京羽二重織留』元禄2年(1689)狐松子著、これらは趣味と実益を兼ねた京都案内記。
『山州名跡志』元禄15年(1702)釈白慧著、山城1国8郡386村を実地に踏査して克明に描写している。 
『京城勝覧』宝永3年(1706)貝原益軒著、洛中洛外の名所旧跡を17日間で巡覧できるように日程を組んでおり、各コースとも三条大橋を起点として1日で巡れる範囲にとどめている。
『山城名跡巡行志』宝暦4年(1754)釈浄慧著、洛中の寺社旧跡を北は一条から六条まで、西の京を東から西へ書き進めて巡行の便を旨として編まれている。
『京町鑑』宝暦12年(1762)白鷺著、京町鑑の最も代表的なもので、京都の町を縦町通・横町通ごとに各町の説明を中心としており、京都の町の研究に不可欠となっている。
『都名所圖會』安永9年(1780)秋里籬島著、実地を踏査して書き描いた本文と挿絵は読者を名所旧跡に遊ぶ思いにさせる。

 

2019年5月24日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その7

八瀬と大原

 八瀬は上高野の北に、大原は更にその北部に位置しています。

 八 瀬

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   (以下の図もいずれも『都名所圖会』から)

 八瀬の名称由来は、高野川はこの辺りで急な流れの瀬が多くなることによる。
 「矢背」とも表記したようで、これは大海人皇子(のちの天武天皇)は兄の天智天皇の子である大友皇子と位を争っていたとき、大友皇子の軍勢が射掛けた矢を背に受けて負傷しました。その時、矢で傷ついた背中の手当を里人がすすめた「竃風呂」でされたことによると云われる。
 
竃風呂


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 竃風呂は土饅頭のような形をしていて、狭い入口が一ヶ所ある。この中で青松葉を焚いて竃の土が熱したところで火を引き、塩水を浸したムシロを敷いた上に寝転び暖まるもの。謂わば一種の蒸し風呂です。


 大 原
 大原は小原とも書き、平安の昔から貴人の隠棲地となっていて、山里の自然の美しい眺めは多くの歌人に詠われてきました。
 「朧の清水」「世和井」「大原山」「音無の瀧」など、和歌に詠まれる名所は歌枕となっている。
 また、「炭竃の里」として和歌に多く詠われ、昔は里人の多くが薪柴を製して、それを京のまちに出て売り歩いたのが「大原女」です。

 大原川(高野川)の上流を望む
 高野川の源流は、大原の最北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の山中です。

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 寂光院
 平清盛の娘で安徳天皇の母である徳子が出家し、建礼門院として隠棲した旧跡。

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 ところで、このシリーズで見てきたように、高野川沿いの地域にも下流から上高野までは、琺瑯製の仁丹町名表示板を見ることができます。
 しかし、八瀬と大原では全く見かけることがありません。

 市内各所に設置されている仁丹町名表示板は、その設置状況が京都市域の拡大に見合うことから、昭和6年(1931)からそう遅くない時期、具体的には昭和7〜8年頃までには、既にその設置が終わっていたと考えられるのです。

 ところが、八瀬と大原が京都市左京区に編入されたのは、戦後の昭和24年(1949)のことでした。
 なので、時期的に八瀬・大原には仁丹町名表示板が設置されることは無かったのです。

 お断り:
 高野川右岸(西岸)と鴨川左岸(東岸)に挟まれた形の下鴨の西側部分、つまり下鴨本通の西側にも僅かながら仁丹町名表示板が残存しています。
 しかし、それらはいずれもが鴨川旧河道跡とその東側にあたる地域に存在しています。したがって、その一帯は高野川沿いとは言えず賀茂川沿いといった場所であるため、本シリーズからは除外しました。


2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年5月10日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その5

松ヶ崎

 松ヶ崎は下鴨の北東、高野川の西側に位置します。深泥池の東南、宝ケ池の南になる。
 昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

 松ヶ崎は南に向かって開けた景勝地で、昔からよく和歌に詠まれていた地です。
 平安時代には、朝廷のための氷を製造して貯蔵した松ヶ崎氷室が、宝ケ池の東側にあったとされます。

松ヶ崎東町の仁丹町名表示板

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 平安時代の女流歌人、小馬命婦(こまのみょうぶ、命婦=女官のこと)の家集『小馬命婦集』に、「すさきに松いと(非常に)いたう(甚だしく)たてり、見に行けばちどりみなたちぬ」と前置きを付した一首、「ひとりねを みにこそきつれ 我ならで まつがさきにも 千鳥住みけり」があるそうです。
 この歌により、西から東にかけて起伏する丘陵が岬のように高野川へ突き出た洲崎の一帯に、松林があったことが判る。そして、これが松ヶ崎という地名の由来となったことを窺わせます。

松ヶ崎中町の仁丹町名表示板

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松ヶ崎大黒天

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 正式には松崎山妙円寺と号する日蓮宗立本寺に属するお寺で、江戸初期に建立された。大黒堂に安置されている大黒天は古来福運を授ける神と信じられ、京都七福神巡りの第一番札所とされる。
 ちなみに、七福神信仰は京都が発祥の地で、室町期に始まるそうです。日本最古の七福神めぐりは「都七福神めぐり」ですが、ゑびす神(恵美須神社)・大黒天(松ヶ崎大黒天)・毘沙門天(東寺)・弁財天(六波羅蜜寺)・福禄寿神(赤山禅院)・寿老神(革堂)・布袋尊(萬福寺)の七神を巡ってお参りします。

 松ヶ崎は比叡山の西山麓にあり、宗教的には天台宗の強い土地柄でしたが、永仁2年(1924)日蓮の法孫日像がこの地で布教活動してのち、松ヶ崎一村を挙げて日蓮宗に改宗しました。
 毎年8月16日の夜には、盂蘭盆の精霊送り火が背後の山で焚かれます。
 西山(133m)の「妙」と東山(186m)の「法」、あわせて「妙法」の送り火が点火されるのですが、これは法華信仰と精霊送り火が結びついたもので、江戸時代の初期には行なわれていた行事のようです。

送り火「妙法」の「法」の火床
 「法」の火床の数は75ある。「妙」の方は画数が多いので103床だそうです。
 送り火が近づくと下草を刈って整備されるのですが、今はまだ火床がポツポツと見えるだけです。
 それでも、かすかに「法」の字の形に火床を見ることができます。

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 盂蘭盆会の送り火はこの松ヶ崎の他にも、如意ヶ嶽の「大文字」、西賀茂の「舟」、衣笠大北山の「左大文字」、奥嵯峨の「鳥居」があり、合わせて五山の送り火と言われる。


2019年5月 3日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その4

山 端

 高野川の東側にあって高野の北東隣り、上高野の南西隣りに位置する。
 八瀬・大原などの喉元にあたり、昔から若狭街道の要衝の一つでしたが、昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

「山端森本町」「山端川岸町」の仁丹町名表示板

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 『山城名跡巡行志』には、山端について「(略)高野河ノ東ノ端ヲ北ヘ上リ 新田山端 茶店多シ ヲ經テ此所ニ來」とあります。
 また、「山端 村名 松崎ノ東 高野河ノ東ニ在 松崎村出戸 大原街道也 茶店數家」と記しています。

 上記の引用文にあるように、山端は高野川挟んで東側にあるのですが、元は松ヶ崎の出戸(飛地)だったようです。
 そして山端には、大原街道(若狭街道)を往来する旅人のための茶店が多かったようです。

山 端(『拾遺都名所圖会』から)
 絵図右上の説明書きは、「山端  光武帝は麦飯を以て飢を凌ぎ、後漢の社稷を剏め給ひけり。ここも麦飯を名物とす。是もかの目出度ためしによる物ならんか。」とあります。
 (図にカーソルを置いてクリックすると画像が拡大できます)

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平八茶屋
 麦飯とろろ膳が名物です

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 そうしたかつての茶店の一つで現存するのが、天正年間の創業という平八茶屋なのでしょう。
 また、廃業してしまったのですが、鯰料理で知られた十一屋も江戸時代寛永年間の創業ということで、そうした茶店の一軒だったようです。

 「山端」の名称由来は、松ヶ崎の東山が東に向けて高野川に突き出た所、山の端に位置するところから来ているようで、「山鼻」「山嘴」とも記したようです。
 『山州名跡志』には次のようにあります。「山端 松崎ノ東北ニ在リ 民家有リ 此所松崎山ノ東ノ崎ナリ」

 

2019年4月26日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その3

高 野

 西は高野川、北部から東部にかけて一乗寺・北白川、南部は田中に接している。
 明治22年(1889)田中村に属していたが、大正7年(1918)高野として京都市左京区に編入されました。

 元々、この地は暴雨のときには高野川が溢れる荒れ野でした。近世になってから、高野川に堤と道路を設け、荒地が開拓されて「高野河原新田」(新田村)が開かれたのです。
 しかし、始めの頃は高野川の水害常習地で田が荒廃するために石高を付けることができず、年ごとに収穫量を検査する検見取(けみとり)と言う方法で年貢額が決められたということです。

「高野玉岡町」の仁丹町名表示版

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 近代の明治41年(1908)になって、高野東開町に鐘淵紡績(のちのカネボウ)の京都工場が開設・操業開始されたことで、ここは急速に都市化が進んだという。
 工場は昭和50年(1975)に閉鎖されて、跡地一帯は日本住宅公団の東大路高野第三住宅となったのですが、今に残る当時の施設(ボイラー室)が現在は集会所兼管理事務所として使われています。

元・鐘ケ淵紡績京都工場の残存施設
 集会所・管理事務所(元鐘紡のボイラー室)

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 次の2点は外壁が残されている

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2019年4月19日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その2

田 中

 田中は高野川の最下流、賀茂川との合流点東岸に位置していて、北は高野・一乗寺、東は北白川、南は吉田に接しています。
 大正7年(1918)、田中村は京都市左京区に編入されました。

「田中関田町」の仁丹町名表示板

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 田中関田町の北東部(今出川通鞠小路西入)には、かつて住友家が所有し、現在ではそれを譲り受けた京都大学が所有する広大な「清風荘庭園」があります。
 ところがこの庭園、残念なことに一般への公開はされていません。

清風荘庭園

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 觀音開き門扉の透かし彫り部分から覗いてみました。

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 重要文化財に指定された建造物と日本庭園、江戸時代には公家の徳大寺家別荘「清風館」でした。 
 明治になって住友家に譲渡されたのですが、この徳大寺家に生まれのちに西園寺家を継いだのが、明治・大正・昭和の政治家で「最後の元老」といわれた西園寺公望です。
 清風館は邸内を拡張整備して名を「清風荘」と改めて、西園寺公望の京都における別荘としたものです。
 ちなみに、明治24年(1891)5月の大津事件で、襲撃に遭って負傷したロシアの皇太子(のちのニコライ二世)が静養したのがこの清風荘だったそうです。


田中神社(田中西樋ノ口町)

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 室町時代、応仁・文明の乱の頃、田中村産土神の田中神社とその周辺は、田中郷の自衛のために「田中構(たなかがまえ)」という環濠集落が築かれた。その遺構は明治の頃まで残っていたそうです。

田中神社の孔雀神籤
 お神籤とともに折り紙で折られた孔雀が卵形ケースに入っています。

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 本物の孔雀も飼育されていました。

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