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2018年5月11日 (金)

時雨亭(しぐれのちん)

 藤原定家は「百人一首」を嵯峨小倉山の山麓にある山荘で編んだと伝わることから、「小倉百人一首」とも云われます。しかし、実は撰者・成立年ともに確認できていると云うわけではないようです。
 定家のこの山荘は小倉山荘あるいは嵯峨山荘とも呼ばれたのですが、のちには「時雨亭(しぐれのちん)」と称されるようになりました。
 ところが、実はこの「時雨亭」跡として伝わるものがあちこちにあって、小倉山の近辺だけでも厭離庵・二尊院・常寂光寺の三ヶ所にあります。

 「百人一首」は鎌倉時代の初めの頃に、藤原定家が各時代の著名な歌人百人の歌を一首ずつ選んだものです。(定家は「新古今和歌集」の撰者であり、「新勅撰和歌集」をも撰集しています)
 定家は藤原俊成の息(次男)で、京極殿あるいは京極中納言と称されました。
 この百人一首は、鎌倉幕府御家人で歌人の宇都宮頼綱(出家して蓮生)から、山荘の襖の装飾のために色紙の作成を依頼された定家が、選んだ歌をしたためたものだそうです。

《定家山荘跡の歌碑(常寂光寺)》
  小倉山みねのもみじ葉心あらば
     今ひとたびの行幸待たなむ 貞心公(藤原忠平)

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 時雨亭の古跡とされる所が、何故このようにあちこちに存在するのか?

 『都名所圖会』中の「厭離庵」に、その理由を次のように記しています。

 「京極黄門定家卿の山荘あるひは時雨亭と號る舊跡、ところ〴にあり、かの卿の詠歌により、又は少しき因になづみて後人これを造ると見えたり。
 続拾遺 いつはりのなき世なりせば神無月
         誰まことより時雨そめけん 定家
此歌を種として謡曲を作したり、時雨亭も是より出たり、実あるにあらず。」

 

 つまり、「時雨亭」を称する旧跡はあちこちにあるけれども、これは定家の読んだ歌、あるいは何らかのつながりや縁故をもとに、後世の人達が造り出したと見られるとしています。
 
 また、宝生流謡曲の「定家」、そして「時雨亭」という名称も、定家の歌「いつはりのなき世なりせば・・・」を素材としているとされるが、事実ではないとする。 
 

 なお、『都名所圖會』以外の地誌においても、時雨亭は「舊跡所々ニアリ(『山州名跡志)」、「いづれか其所さだかならず(『京羽二重織留』)」などとしています。

 次下は、時雨亭跡の記述がある諸本をいくつか拾ってみました。 

1. 厭離庵 (右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2)
 「小倉の山荘といふは、清涼寺西の門より二尊院までの道、二町ばかりの民家ある所を中院町といふ。いにしへは愛宕山の末院あり、今絶て所の名とせり 此半を北ヘ入る細道あり、竹林の後のかたに門ありて東に向ふ、これを厭離庵といふ。門の内に柳の水といふ清泉あり、草庵の跡は西の高き所と見えたり。(後略)」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』『山州名跡志』などにも記述あり。

 《小倉山荘旧址碑》

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 《厭離庵》

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2. 二尊院 (右京区嵯峨二尊院門前長神町27)

 「黄門定家卿の山荘といふ舊地は、仏殿のうしろの山腹にあり。かの卿より以前諸堂魏々たり、後世小倉山に寄りて號る物か。」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡》

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 《二尊院境内》

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3. 常寂光寺 (右京区嵯峨小倉山小倉町3)

 「定家卿の社は南の山上にあり。此所も彼卿の山荘のよし。(後略)」『都名所圖會』
 『京羽二重織留』『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡碑》

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 《常寂光寺からの展望》

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 その他にも、次のようなものがありました。
4. 相国寺塔頭普光院 (上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701)
  『京童跡追』『山州名跡志』『京羽二重織留』

5. 般舟三昧院(元・歓喜寺跡) (上京区今出川通千本東入般舟院前町151)
  『都名所圖会』『山城名跡巡志』『山州名跡志』『京羽二重織留』

6. 白毫院  『京童跡追』  雲林院の末院だったらしく、南北朝期までは存続したが応仁の乱で荒廃したとみられ、伝わる所在地も一定しない。

7. 小倉山 『京童』

8. 衣笠山東麓 『山州名跡志』

2015年2月20日 (金)

《 四ツ辻の四ツ当り 》

 伏見区大坂町(現・大阪町)に東本願寺伏見別院があります。

 徳川家康の寄進を受けた寺域には蓮池があり、両葉双開の蓮の花が生えていたことから、蓮池御坊・二葉御坊の別称が生じたと云う。
 土地の人々の間では「御堂さん」の通称で通っています。(別院の北側にある町名は「御堂前町」)

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 伏見別院は、慶応4年(1868)正月3日に戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦が勃発した時、幕府軍会津藩の先鋒隊200名はこの伏見御堂を宿所としたが、同年3月には新政府の伏見市中取締役所となった。
 平成2年(1990)に老朽化のため取り壊されて小さな本堂に立て替えられたため、往時を偲ばせるものは山門・鐘楼・大銀杏が残るだけ。なお、創建当初の山門は東面していたが、明治18年(1885)に現在のように南面・縮小したものに立て替えられたという。

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 ところで、伏見別院の門前界隈は、東西南北いずれの方向から来ても、道が突き当たりとなる複雑な形をしています。土地の古老の間では「四ツ辻の四ツ当り(よつつじのよつあたり)」と呼ばれていたと云うことです。

 下図のように、北の御堂前町から南行してくると大阪町で突き当たり(A地点)、東の魚屋町から油掛通を西行してくると大阪町と上油掛町の境界となる地点で突き当たり(B地点)、南の本材木町から上油掛町を北行してくると魚屋町からの西行路(油掛通)に突き当たり(C地点)、西方の濠川に架かる阿波橋から油掛通(古称・阿波橋通)を東行して中油掛町・上油掛町へと進んで来ると大阪町で突き当たり(D地点)となっています。(下図はクリックすると拡大します)

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 これは、軍事上防御的な理由からこうした町割りと道路が造られたもので、城下町の特徴を示しているのだと見る向きもあるようです。 
 しかし、それならば伏見城下町でなぜ大阪町の一帯だけにこのような町割りが見られるのか、その理由の説明がつかないことから、城下町の遺構だと断定するには無理があるようです。
 南西諸島や南九州では、このような丁字路・三叉路など道路の突き当たりには「石敢當(いしがんとう)」を立てて、魔物の侵入を防ぐ魔除けとしているのですが、伏見大阪町の場合はこうしたこととは全く無縁です。(「石敢當」については、以前に当ブログの記事中で取り上げたことがあります)

「中油掛町」の仁丹町名表示板

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 上・中・下の3油掛町と油掛通の名称は、下油掛町にある西岸寺の油掛地蔵に由来しています。
 昔、山崎の油商人がこの寺の門前を通りかかったとき、転んで油を流してしまった。あわてて桶を見ると油はいくらも残っていない。暫くは呆然として立ちすくんでいたが、これも運命なのだろうと思った。
 しかし、このまま帰ってしまうと災厄に遭うかもしれないと考えた油商人は、残っていた油を石仏に灌(そそ)ぐことにより、気がかりな思いを振り払って帰った。その後、この油商人は日々に栄えて大福長者になったと云う。
 それ以来、油を懸けて祈願すると叶う霊験あらたかな地蔵尊(高さ約5尺の石像)として人々に親しまれ、西岸寺の山号(油掛山)となった。

2015年1月30日 (金)

太鼓望楼

 三条京阪のバス停広場南側でやや東、若松通沿いにある三階建て建物屋上に、見かけない構造物がありました。
 旧・京都市立有済小学校の屋上に設置されていている太鼓望楼です。
 登録有形文化財に指定されているのですが、今では建物は他施設に転用されています。

旧・有済小学校の太鼓望楼

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 この“太鼓望楼”、城や寺院に設けられた“太鼓楼”とは異なり、望楼を兼ねて屋上などの高所に設けられています。
 他の小学校にもあったようですが、明治の末頃までにすっかりその姿を消してしまい、現在も残っているのはこの旧・有済小学校のものだけです。太鼓を打って時刻を報せたり、火事を報せたりしたのです。

 京都市立有済小学校は京都市東山区大和大路三条下ル大黒町にあった小学校でした。
 しかし、後に同じく市立粟田小学校と統合されて白川小学校となり、さらに近隣の小中学校(白川小学校・新道小学校・六原小学校・清水小学校・東山小学校、そして洛東中学校・弥栄中学校の7校)が統合され、現在では東山区六波羅裏門通東入る多門町に所在する小中一貫校の京都市立開晴小中学校となっています。

西本願寺の太鼓楼(重要文化財)

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 先に記したように、太鼓楼と云えば、多くは寺院や城郭に設けられています。
 城の太鼓楼は、登城・下城などの時刻を報せるために打ち鳴らしたようです。

 寺の場合は、時刻を報せるとともに、法要の合図に打ち鳴らしたのですが、京都では西本願寺(浄土宗本願寺派本山)の太鼓楼が規模も大きくて立派なものです。
 重層の楼閣建築ですが、元の太鼓楼は大火で焼失し、現在のものは寛政元年(1789)に再建されたものと云います。

 なお、新撰組は、手狭となった壬生屯所を慶応元年(1865)西本願寺へ移転し、境内に「新撰組本陣」の看板を掲げて、北東部にあった北集会所とこの太鼓楼を使用していました。

2013年4月19日 (金)

鴨川とその周辺 その7

正面通と正面橋

 これは鴨川に架かる正面橋ですが、西方の高瀬川に架かる橋も正面橋と称している。
 正面通は、方広寺大仏の前(正面)から西方に通じる通りであることから、大仏正面通と称していたが、大仏を省略して正面通となった。
 なお、宝暦12年(1762)刊の「京町鑑」では、東本願寺百間屋敷(現・渉成園=枳殻邸)から西本願寺門前までの間を、別名「御前通」としているとのこと。したがって、この御前通は正面通のうち、東本願寺と西本願寺の寺内町域内に限る通称であったことが判る。言うまでもなく、この御前通は北野天満宮から九条通に至る御前通とは全く別の通りです。
 また、西本願寺門前から東行する道を「ミドウスジ」としている古絵図もあるが、御影堂に行き当ることを由来とした通称なのでしょう。(大坂の西御堂・東御堂のある通り名を御堂筋としたのと同じ)

鴨川に架かる正面橋

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高瀬川に架かる正面橋(志よめんはし)

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塩小路橋と塩小路通

 塩小路通の名称は平安京の「塩小路」に由来する。しかし、この平安京の塩小路は現在の木津屋橋通(生酢屋橋通)に該当するようです。
 そして、現・塩小路通は平安京の八条坊門小路に該当するそうだが、どうも塩小路(木津屋橋通)と八条坊門小路(三哲通)は混同されていた模様。
 八条坊門通・三哲通と旧称したこの辺りは中世にはさびれて、寛文5年(1665)刊の『京雀』には殆ど田畑で町家なしとあって、通り沿いの町として「金替町」と「三てつの前町」が記されているそうだ。

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 今ではその名を殆ど聞くことのない「三哲通」だが、JRバスの停留所名に「三哲」(塩小路通堀川東入のオムロン前)が生き残っている。ということで、現・塩小路通の別称が三哲通なのです。
 ところで、「三哲」の由来については、三哲なる人物の屋敷があったことによると云うが、この三哲を渋川算哲(幕府天文方)とするものと、僧侶の三哲とするものがあり定かではないようです。

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地上に姿を現した疏水


 御池通以南は暗渠の中を流れてきた疏水(鴨川運河)だが、ここ塩小路橋の東詰め傍で再び地上に姿を現す。そして、最終的には宇治川に流れ込むのだが、途中の墨染発電所でもう一仕事をする。

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 以上、7回にわたった鴨川シリーズは今回をもって終わりとします。

2013年4月12日 (金)

鴨川とその周辺 その6

宮川町通(宮川筋)

 川端通の東側を四条から五条に通じる通りで、一町目から八町目まである。
 はじめから茶屋町として開発された遊興の地であったが、宝暦元年(1751)からは全域が宮川町遊里となった。

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宮川町筋の仁丹町名表示板

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五条橋と松原橋

 五条大橋の東、東橋詰町に京七口の「五条口」(伏見街道の出入り口)があった。
 現・五条通は平安京の六条坊門小路に該当し、二筋北の松原通が平安京の五条大路に相当するという。
 また、現・五条橋が架設されて五条通が開かれたのは近世に入ってからのことである。
 したがって、平安京の五条大路(現・松原通)の鴨川に架かっていた橋が、本来の五条橋ということになり、牛若丸と弁慶が出会ったのは現・五条橋ではなく現・松原橋ということになる。

現・五条橋西詰めに建つ牛若丸と弁慶の像

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平安京の五条大路(現・松原通)の鴨川に架かる橋

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河原院跡碑

 平安初期に左大臣の源融(みなもとのとおる)が、鴨川のほとりに営んだ広大な邸宅「河原院(六条院)」があった。
 陸奥国塩釜の素晴らしい風景を模して庭園を造った。ここを在原業平・紀貫之などなどが訪れて、美しい庭を歌に詠んでいる。
 現在、河原町を挟んで西側の「本塩竈町」は、明治4年(1871)河原院の塩竈の故事に因んで名づけられた。

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本塩竈町の仁丹町名表示板

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2013年4月 5日 (金)

鴨川とその周辺 その5

高山彦九郎像

 三条川端に鎮座している。江戸時代中期の尊王思想家で上州(群馬県)出身。吉田松陰など幕末の志士に影響を与えたと云う。
 この像にみられる姿勢は皇居を遥拝しているそうです。
 戦前にあった「修身」の教科書では、二宮尊徳・楠木正成などとともに取り上げられていたようです。

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出雲のおくに像

 歌舞伎の創始者として歴史に名をとどめる。しかし、出雲大社の巫女と称していたようだが、その生まれ・経歴・輝かしいデビュー以後の足跡など、詳しいことは捉えられていないと云う。
 阿国歌舞伎を始め、大きな人気を得て模倣するものが多く現れ、これがやがて各地の遊女歌舞伎に発展した。

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南 座

 江戸時代、鴨川の四条河原芝居街は、幕府が京都で認可した唯一の劇場街であった。最盛期の元禄時代には、四条の両側に五棟の常設劇場があって、それを取り囲んで芝居茶屋や遊興施設が集中していたらしい。
 江戸時代のこの付近の四条通の幅は三間に満たなかったようで、明治27年(1894)に北側を拡張して五間幅としたということです。この時に北側の劇場は廃されて、南側の一棟、現・南座のみになったそうだ。

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東華菜館

 ヴォーリズ(アメリカ人の建築家)の設計で、国の登録有形文化財。
 京都に建築設計監督事務所を設立。また、近江兄弟社創立者の一人で、メンソレータム(現・メンタム)を日本で普及させた。
 教会、学校、病院、百貨店、個人宅など、多くの建物や装飾がヴォーリズの作品として残っている。
 京都では東華菜館の他に同志社大学のアーモスト館・啓明館(図書館)新島遺品庫・宣教師館などがある。

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2013年3月29日 (金)

鴨川とその周辺 その4

女紅場

 婦女子の教育機関として設けられたものです。明治5年(1872)土手町通丸太町下ル駒之町の九条家別邸跡に設置された「新英学校女紅場」が最初で、後に府立第一高等女学校(現・鴨折高等学校)となる。新英学校は中等普通教育の英学と、裁縫その他の女子に必須の教養の二部門を教授した。
 次いで小学校区ごとに設けられて、裁縫・編み物・手芸・料理などを無料で教え、女子の就学率向上に成果を上げたと云う。
 祇園・島原・上七軒・先斗町などにも芸妓の教育機関として、遊所女紅場が設置されていたそうです。

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舍密局(せいみきょく)

 土手町通夷川上ル鉾田町にある銅駝美術工芸高校は、明治3年(1970)に設置された舍密局の跡地に建つ。セイミはオランダ語の化学(英語ではケミストリー)を意味するそうです。
 ドイツ人化学者のワグネルの指導のもと、石鹸・ビール・洋酒・ラムネ・陶磁器・ガラス・顔料などの製造、実験や講習にあたり、京都の産業近代化に大きく貢献しました。

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新生洲町

 鴨川東岸のこの一帯は聖護院村の畑地であったが、享保19年(1734)に北野吉祥寺が所司代と町奉行に開発を出願、二条新地を造成した。はじめ新先斗町と大文字町、続いて新生洲町・難波町・中川町・杉本町ができて、幕府はここに旅籠屋や茶屋を免許したため遊興地ができた。
 ここ新生洲町は、川魚料理を食べさせる料理屋の生簀が町名の起源になったと考えられる。なお、新生洲町北端の東隣にある中川町との間の小道を、「雪踏辻子」、別名「ねぶとのずし」とも称していたようだ。

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高瀬川の水源(取水口)

 高瀬川は慶長19年(1614)、角倉了以・素庵の父子により物資輸送のための運河として開削された。
 この写真は普通はあまり目にする機会はないと思われる取水口です。鴨川西岸二条通の南側、東生洲町で禊川から取り入れており、すぐそばの「樋之口町」の町名由来は、この取水口に因む。

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2013年3月23日 (土)

鴨川とその周辺 その3

荒神橋

 はじめに架橋されたのは慶応3年(1867)といわれるが、現在のものは大正3年(1914)に竣工したようです。
 この橋の西方、荒神口通河原町西入にある清荒神(護浄院)の付近が京七口の「荒神口」であったとされ、名称の由来となっている。近世以前から京への出入り口の一つであり、荒神河原を渡り吉田を経て近江の坂本へと抜ける、志賀越え(山中越え)の出入り口となっていたことから、「吉田口」「志賀道口」ともいわれた。また、今道越えと称されたこともあり、この関係で「今道の下口」ともいわれたようです。

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旧・京都織物会社

 この煉瓦造りの建物は旧・京都織物会社の社屋で、明治20年から昭和43年まで撚糸・染色・織物まででの一貫製造をおこなっていたそうです。
 明治期に新工業奨励の一つとして京都府が始めた織工場を引き継ぎ、ヨーロッパの最新技術を導入して、日本最大の近代的織物工場が設立された。
 この建物、近衛通川端東入ル吉田下阿達町(荒神橋東詰め・川端通東側)に今も健在で、京大東南アジア研究センターの図書室となっています。しかし、以前は川端通から煉瓦造り建物が見えていたのに、今では稲盛財団記念館なる殺風景な今風建物がその建築物前面に接するように建てられてしまい、残念ながら表からは全く見えない。したがって、旧京都織物建築の正面側からの写真を撮ることができません。また、裏側にも別の建物があり、引きがきかないため全景写真を撮ることはできない。(この写真は裏側から撮影した)

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夷川発電所
(関西電力)

 琵琶湖疎水(第二疏水)が鴨川東岸に至る手前に、現役で頑張る水力発電所があります。
 明治23年(1890)琵琶湖(第一)疎水が完成、翌年に日本初の事業用水力発電所として蹴上発電所が稼働していた。しかし、電力需要が増加したため明治45年(1912)に第二疏水を建設して、大正3年(1914)に夷川発電所とともに鴨川運河(疏水)下流の伏見に墨染発電所が建設された。
 これは、明治末から大正始めに京都市の都市基盤整備事業としていわゆる三大事業(第二疏水開削・上水道整備・道路拡張と市電敷設)の一貫として行なったものです。

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鴨川運河(疏水)

 疏水の水は、その一部は鴨川に流れ込んでいますが、ほとんどが「鴨川運河」となって鴨川東岸を南流しています。冷泉通から御池通までは地上を流れるのを目にできるが、その先(南)は塩小路通まで暗渠の中を流れています。
 塩小路で暗渠から出た疏水は、師団街道・本町通の傍を流れて墨染発電所に至り、最終的には伏見市中を抜けて伏見港(三栖閘門)で宇治川に流入しています。

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2013年3月15日 (金)

鴨川とその周辺 その2

糺 森(ただすのもり)

 糺森は下鴨神社(賀茂御祖神社)と河合神社の境内地の森で、賀茂川と高野川の合流点に位置しており、いまでは開発が進んで狭くなってしまっている。「糺」は平安時代からの地名で多々須・只洲とも書き、河合を「ただす」と読む場合もあったようです。森は多種の常緑・落葉広葉樹が混生しており、古代の京都盆地を覆っていた原生林の名残をとどめていると云われる。
 この森の中を流れているのが「瀬見の小川」です。

瀬見の小川

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 糺森の木々は冬枯れして林床が明るく、小川の水面には空が映っている。

 「山城国風土記」(逸文)の賀茂伝説に、凡そ次のような記述があるとか。
下鴨神社祭神の賀茂建角命(かもたけつぬのみこと)が大和の葛城山から山代(山城)の岡田の賀茂(相楽郡加茂町)に遷った。そして、さらに木津川に沿って進み、葛野の河(桂川)と賀茂の河の合流点に至り、賀茂川を見渡して「狭く小さいが、石川で澄んだ川だ」と云ったそうです。
 こうして賀茂川に「石川の瀬見の小川」との別称がついたといいます。

賀茂社神官家の出である鴨長明は、瀬見の小川を和歌に詠んでいます(『新古今和歌集』)
 石川やせみのをがわの清ければ 月も流れをたづねてぞすむ

 最後の「すむ」は勿論、「住む」と「澄む」の掛詞です。
 なお、この賀茂建角命の娘である玉依日売(たまよりひめ)が産んだ男子が上賀茂神社祭神の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)となる。
 また、この出生譚に類似した話が、賀茂社とつながりのある松尾大社にもあります。


出町と御土居

 河原町通今出川の一筋北を西行する道は「桝形通」という。これは現寺町通の東側を通っていた御土居(豊臣秀吉の都市改造で構築)の出入り口の構造が桝形になっていたことに因んでいます。


鯖街道入口の碑

 若狭(福井県)小浜と京都の出町柳を結んだ街道で、若狭で取れた海産物を徒歩により輸送した。

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松井酒造

 東一条通川端東入 エデルハイム鴨川
 創業が享保11年(1726)、「金瓢」「京千歳」などの醸造元。京都の醸造元のほとんどは伏見に所在するのだが、この蔵は旧市内と周辺に所在する数少ない蔵元の一つです。
 他は、俳優佐々木蔵之助の実家である佐々木酒造(日暮通椹木町下ル)で、明治26年(1893)の創業、「聚楽第」「古都」などの蔵元。
 もう一つ羽田酒造というのがあるが、これは比較的最近の平成17年(2005)に右京区に編入された京北町にあり、市内とはいうものの市街地からはチョット離れ過ぎています。

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2013年3月 8日 (金)

鴨川とその周辺 その1

 久々にシリーズものです。今回は鴨川沿いを見て廻ることにします。

 鴨川の東岸を南北に走る川端通の名称は、いうまでもなく川端に沿った道に由来する。現在の川端通は南は塩小路通、北は出町から高野川沿いにさらに北行し、白川通との合流点が終端となっているようです。
 しかし、今回は川端通のうち、高野川と賀茂川が合流して鴨川と名を変える辺り、糺森(ただすのもり)から南を塩小路までをうろついてみようと思います。


賀茂川と鴨川

 賀茂川(鴨川)は北区の雲ヶ畑を源流とし、途中で多くの支流を合して南下、上賀茂神社の西側を東南へ下って出町で高野川と合流しています。その後は市内を南流して、九条辺りで南西に向きを変えたあと、伏見区の下鳥羽で桂川に流入しています。
 そしてその呼称ですが、高野川との合流点までを賀茂川、それより下流を鴨川と書き分けるのが一般的な表記法のようです。賀茂川と高野川の合する河合の一帯を糺(ただす)河原というが、河合河原とも呼ばれたようで、「下鴨」の地はこの二つの川に運ばれた土砂の堆積地です。


賀茂川と高野川の合流点

 左方からの流れが賀茂川で、これに右方から高野川が合して鴨川となる。中央に見える森は糺森(ただすのもり)で、左手の橋は出町橋、右が河合橋です。

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鴨 川

 平安遷都時、京都盆地の鴨川扇状地は高野川・白川からの土砂も加わり、南は九条辺り、西は西大路付近まで達していたようです。その扇状地を流れるかつての鴨川は、西岸が現在の寺町通、東岸は現・東大路通に至る東西の幅約700mもの河原を、大雨による大洪水のたびに流路を変えて南流していたものと考えられています。
 平安時代初期の天長元年(824)に朝廷は防鴨河使という官職を設けて治水に当たらせたが、鴨川の洪水は無くならなかった。このような鴨川を、白河院は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と、自分の意のままにならないものの一つに挙げているそうです。


鴨河原

 古代の鴨川は祓い・禊の行なわれる川でもあったが、流れの幅が広く両岸には大きな河原が形成され、これが合戦の場や庶民の往来の場にもなったということです。
 史料に河原として名前の見えるものに、糺河原・荒神河原・二条河原・三条河原・四条河原・五条河原・六条河原・七条河原・八条河原などがあるそうです。
 平安末期から近世の初め頃までは処刑場や首晒しの場でもあったようです。豊臣秀吉は甥の秀次(母は秀吉の姉)に関白職を譲り、左大臣を兼ねさせて自分は太閤と称しました。しかし、秀吉に跡継ぎの秀頼が誕生したために、秀次を「謀反の罪」の名目で自害させ、彼の妻妾子39人を三条河原で処刑するという暴虐をおこなっています。


広場としての河原

 河原は「広場」へと変わってゆき、世の中や時の権力者を風刺した内容の匿名文書である落書(らくしょ)が張り出される場ともなっていた。とりわけ、建武2年(1335)8月に新政を強烈に皮肉った、有名な「二条河原の落書」が知られる。
 それは、「此比都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨、召人早馬虚騒動、生頸還俗自由出家、俄大名迷者、安堵恩賞虚軍・・・」という調子で延々と「京童ノ口ズサミ」が続いたようです。
 また、その広場は中世末から近世にかけて大きく広がり、三条・四条・五条・六条などの河原には芝居小屋・見世物小屋などが並び京都における演劇興行の中心地ともなっていったそうです。

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鴨川の治水

 先に書いたように、古代以来、鴨川は大雨のたびに洪水を引き起こしてきたが、寛文9年(1669)京都所司代の板倉内膳正重矩による大規模な鴨川の改修「寛文新堤」築造がおこなわれ、現在の今出川通と五条通の間の鴨川右岸と左岸に石垣を築いて洪水の防止を図った。この時、西岸に造成されたのが先斗町で、四条通から南の木屋町通までを西石垣(さいせき)通と呼んでいるのは、この石垣に因んでいます。
 なお、河原町通の名称は、かつて鴨川の河原であったことによる。天正19年(1591)に豊臣秀吉が築いた御土居の東側土手はこの鴨川西岸に沿う形で設けられ、堤防として治水目的もあったようです。