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カメラ散歩

2019年5月24日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その7

八瀬と大原

 八瀬は上高野の北に、大原は更にその北部に位置しています。

 八 瀬

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   (以下の図もいずれも『都名所圖会』から)

 八瀬の名称由来は、高野川はこの辺りで急な流れの瀬が多くなることによる。
 「矢背」とも表記したようで、これは大海人皇子(のちの天武天皇)は兄の天智天皇の子である大友皇子と位を争っていたとき、大友皇子の軍勢が射掛けた矢を背に受けて負傷しました。その時、矢で傷ついた背中の手当を里人がすすめた「竃風呂」でされたことによると云われる。
 
竃風呂


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 竃風呂は土饅頭のような形をしていて、狭い入口が一ヶ所ある。この中で青松葉を焚いて竃の土が熱したところで火を引き、塩水を浸したムシロを敷いた上に寝転び暖まるもの。謂わば一種の蒸し風呂です。


 大 原
 大原は小原とも書き、平安の昔から貴人の隠棲地となっていて、山里の自然の美しい眺めは多くの歌人に詠われてきました。
 「朧の清水」「世和井」「大原山」「音無の瀧」など、和歌に詠まれる名所は歌枕となっている。
 また、「炭竃の里」として和歌に多く詠われ、昔は里人の多くが薪柴を製して、それを京のまちに出て売り歩いたのが「大原女」です。

 大原川(高野川)の上流を望む
 高野川の源流は、大原の最北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の山中です。

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 寂光院
 平清盛の娘で安徳天皇の母である徳子が出家し、建礼門院として隠棲した旧跡。

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 ところで、このシリーズで見てきたように、高野川沿いの地域にも下流から上高野までは、琺瑯製の仁丹町名表示板を見ることができます。
 しかし、八瀬と大原では全く見かけることがありません。

 市内各所に設置されている仁丹町名表示板は、その設置状況が京都市域の拡大に見合うことから、昭和6年(1931)からそう遅くない時期、具体的には昭和7〜8年頃までには、既にその設置が終わっていたと考えられるのです。

 ところが、八瀬と大原が京都市左京区に編入されたのは、戦後の昭和24年(1949)のことでした。
 なので、時期的に八瀬・大原には仁丹町名表示板が設置されることは無かったのです。

 お断り:
 高野川右岸(西岸)と鴨川左岸(東岸)に挟まれた形の下鴨の西側部分、つまり下鴨本通の西側にも僅かながら仁丹町名表示板が残存しています。
 しかし、それらはいずれもが鴨川旧河道跡とその東側にあたる地域に存在しています。したがって、その一帯は高野川沿いとは言えず賀茂川沿いといった場所であるため、本シリーズからは除外しました。

2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年5月10日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その5

松ヶ崎

 松ヶ崎は下鴨の北東、高野川の西側に位置します。深泥池の東南、宝ケ池の南になる。
 昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

 松ヶ崎は南に向かって開けた景勝地で、昔からよく和歌に詠まれていた地です。
 平安時代には、朝廷のための氷を製造して貯蔵した松ヶ崎氷室が、宝ケ池の東側にあったとされます。

松ヶ崎東町の仁丹町名表示板

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 平安時代の女流歌人、小馬命婦(こまのみょうぶ、命婦=女官のこと)の家集『小馬命婦集』に、「すさきに松いと(非常に)いたう(甚だしく)たてり、見に行けばちどりみなたちぬ」と前置きを付した一首、「ひとりねを みにこそきつれ 我ならで まつがさきにも 千鳥住みけり」があるそうです。
 この歌により、西から東にかけて起伏する丘陵が岬のように高野川へ突き出た洲崎の一帯に、松林があったことが判る。そして、これが松ヶ崎という地名の由来となったことを窺わせます。

松ヶ崎中町の仁丹町名表示板

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松ヶ崎大黒天

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 正式には松崎山妙円寺と号する日蓮宗立本寺に属するお寺で、江戸初期に建立された。大黒堂に安置されている大黒天は古来福運を授ける神と信じられ、京都七福神巡りの第一番札所とされる。
 ちなみに、七福神信仰は京都が発祥の地で、室町期に始まるそうです。日本最古の七福神めぐりは「都七福神めぐり」ですが、ゑびす神(恵美須神社)・大黒天(松ヶ崎大黒天)・毘沙門天(東寺)・弁財天(六波羅蜜寺)・福禄寿神(赤山禅院)・寿老神(革堂)・布袋尊(萬福寺)の七神を巡ってお参りします。

 松ヶ崎は比叡山の西山麓にあり、宗教的には天台宗の強い土地柄でしたが、永仁2年(1924)日蓮の法孫日像がこの地で布教活動してのち、松ヶ崎一村を挙げて日蓮宗に改宗しました。
 毎年8月16日の夜には、盂蘭盆の精霊送り火が背後の山で焚かれます。
 西山(133m)の「妙」と東山(186m)の「法」、あわせて「妙法」の送り火が点火されるのですが、これは法華信仰と精霊送り火が結びついたもので、江戸時代の初期には行なわれていた行事のようです。

送り火「妙法」の「法」の火床
 「法」の火床の数は75ある。「妙」の方は画数が多いので103床だそうです。
 送り火が近づくと下草を刈って整備されるのですが、今はまだ火床がポツポツと見えるだけです。
 それでも、かすかに「法」の字の形に火床を見ることができます。

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 盂蘭盆会の送り火はこの松ヶ崎の他にも、如意ヶ嶽の「大文字」、西賀茂の「舟」、衣笠大北山の「左大文字」、奥嵯峨の「鳥居」があり、合わせて五山の送り火と言われる。



2019年5月 3日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その4

山 端

 高野川の東側にあって高野の北東隣り、上高野の南西隣りに位置する。
 八瀬・大原などの喉元にあたり、昔から若狭街道の要衝の一つでしたが、昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

「山端森本町」「山端川岸町」の仁丹町名表示板

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 『山城名跡巡行志』には、山端について「(略)高野河ノ東ノ端ヲ北ヘ上リ 新田山端 茶店多シ ヲ經テ此所ニ來」とあります。
 また、「山端 村名 松崎ノ東 高野河ノ東ニ在 松崎村出戸 大原街道也 茶店數家」と記しています。

 上記の引用文にあるように、山端は高野川挟んで東側にあるのですが、元は松ヶ崎の出戸(飛地)だったようです。
 そして山端には、大原街道(若狭街道)を往来する旅人のための茶店が多かったようです。

山 端(『拾遺都名所圖会』から)
 絵図右上の説明書きは、「山端  光武帝は麦飯を以て飢を凌ぎ、後漢の社稷を剏め給ひけり。ここも麦飯を名物とす。是もかの目出度ためしによる物ならんか。」とあります。
 (図にカーソルを置いてクリックすると画像が拡大できます)

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平八茶屋
 麦飯とろろ膳が名物です

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 そうしたかつての茶店の一つで現存するのが、天正年間の創業という平八茶屋なのでしょう。
 また、廃業してしまったのですが、鯰料理で知られた十一屋も江戸時代寛永年間の創業ということで、そうした茶店の一軒だったようです。

 「山端」の名称由来は、松ヶ崎の東山が東に向けて高野川に突き出た所、山の端に位置するところから来ているようで、「山鼻」「山嘴」とも記したようです。
 『山州名跡志』には次のようにあります。「山端 松崎ノ東北ニ在リ 民家有リ 此所松崎山ノ東ノ崎ナリ」




2019年4月26日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その3

高 野

 西は高野川、北部から東部にかけて一乗寺・北白川、南部は田中に接している。
 明治22年(1889)田中村に属していたが、大正7年(1918)高野として京都市左京区に編入されました。

 元々、この地は暴雨のときには高野川が溢れる荒れ野でした。近世になってから、高野川に堤と道路を設け、荒地が開拓されて「高野河原新田」(新田村)が開かれたのです。
 しかし、始めの頃は高野川の水害常習地で田が荒廃するために石高を付けることができず、年ごとに収穫量を検査する検見取(けみとり)と言う方法で年貢額が決められたということです。

「高野玉岡町」の仁丹町名表示版

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 近代の明治41年(1908)になって、高野東開町に鐘淵紡績(のちのカネボウ)の京都工場が開設・操業開始されたことで、ここは急速に都市化が進んだという。
 工場は昭和50年(1975)に閉鎖されて、跡地一帯は日本住宅公団の東大路高野第三住宅となったのですが、今に残る当時の施設(ボイラー室)が現在は集会所兼管理事務所として使われています。

元・鐘ケ淵紡績京都工場の残存施設
 集会所・管理事務所(元鐘紡のボイラー室)

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 次の2点は外壁が残されている

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2019年4月19日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その2

田 中

 田中は高野川の最下流、賀茂川との合流点東岸に位置していて、北は高野・一乗寺、東は北白川、南は吉田に接しています。
 大正7年(1918)、田中村は京都市左京区に編入されました。

「田中関田町」の仁丹町名表示板

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 田中関田町の北東部(今出川通鞠小路西入)には、かつて住友家が所有し、現在ではそれを譲り受けた京都大学が所有する広大な「清風荘庭園」があります。
 ところがこの庭園、残念なことに一般への公開はされていません。

清風荘庭園

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 觀音開き門扉の透かし彫り部分から覗いてみました。

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 重要文化財に指定された建造物と日本庭園、江戸時代には公家の徳大寺家別荘「清風館」でした。 
 明治になって住友家に譲渡されたのですが、この徳大寺家に生まれのちに西園寺家を継いだのが、明治・大正・昭和の政治家で「最後の元老」といわれた西園寺公望です。
 清風館は邸内を拡張整備して名を「清風荘」と改めて、西園寺公望の京都における別荘としたものです。
 ちなみに、明治24年(1891)5月の大津事件で、襲撃に遭って負傷したロシアの皇太子(のちのニコライ二世)が静養したのがこの清風荘だったそうです。


田中神社(田中西樋ノ口町)

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 室町時代、応仁・文明の乱の頃、田中村産土神の田中神社とその周辺は、田中郷の自衛のために「田中構(たなかがまえ)」という環濠集落が築かれた。その遺構は明治の頃まで残っていたそうです。

田中神社の孔雀神籤
 お神籤とともに折り紙で折られた孔雀が卵形ケースに入っています。

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 本物の孔雀も飼育されていました。

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2019年4月12日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その1

はじめに

 このシリーズでは、高野川流域を巡り歩いて、少しばかり往時の名残りを偲んでみることにしました。そして、市内中心部ほどには多くないのですが、残っている「仁丹町名表示板」のいくつかをお見せします。

 高野川流域の一帯が京都市左京区に編入される前は、「愛宕郡(おたぎぐん)」に属する村々でした。それらの一帯を高野川と賀茂川の合流点から、高野川の左岸(東岸)に沿って上流へと順に見ていきます。
 高野川左岸には、北ヘ順に田中・高野・山端と続きます。また、山端の対岸つまり高野川の右岸(西岸)には松ヶ崎が位置しており、その上流は川を挟むかたちで、上高野・八瀬・大原の順に北東へと続きます。


 京都市街地の北西から流れてくる賀茂川と、北東から流れてくる高野川の合流する所、そこは三角州になっていてその南端は鴨川公園となっています。
 地元ではここを《鴨川デルタ》と称していて、時候の良い頃の休日には多くの親子連れや若者グループで賑わう憩いの場となっています。
 それにしても、なぜ《高野川デルタ》ではないのだろう? やはり、昔から鴨川の方が世間によく知られた河川だったからなのでしょうか?

鴨川デルタ

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 ちなみに、賀茂川の源流は、京都市北区の北端と南丹市の境界近くにある桟敷ヶ岳付近です。そして、北山の山中から上賀茂を経て市街地へと入ってきます。
 また、《鴨川デルタ》から南では、川の名前の表記が「賀茂川」から「鴨川」に変わります。
 そして、鴨川デルタの西方一帯は《出町》と云う通称で呼ばれています。

高野川御蔭橋から北方を望む

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 一方、高野川の源流は、有名な観光地である大原の北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の北部山中です。そして高野川は、大原では「大原川」、八瀬では「八瀬川」の呼称があり、どちらも歌枕になっている。
 この高野川の東側にほぼ沿うように北上するのが、滋賀県(近江)・福井県(若狭)へと通じる若狭街道(大原街道)で、「鯖街道」という通称もあります。
 この辺りは、京都の出入口「京七口」の一つであった「大原口」でした。

「鯖街道」の道標

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【次回へ続く】





2018年5月11日 (金)

時雨亭(しぐれのちん)

 藤原定家は「百人一首」を嵯峨小倉山の山麓にある山荘で編んだと伝わることから、「小倉百人一首」とも云われます。しかし、実は撰者・成立年ともに確認できていると云うわけではないようです。
 定家のこの山荘は小倉山荘あるいは嵯峨山荘とも呼ばれたのですが、のちには「時雨亭(しぐれのちん)」と称されるようになりました。
 ところが、実はこの「時雨亭」跡として伝わるものがあちこちにあって、小倉山の近辺だけでも厭離庵・二尊院・常寂光寺の三ヶ所にあります。

 「百人一首」は鎌倉時代の初めの頃に、藤原定家が各時代の著名な歌人百人の歌を一首ずつ選んだものです。(定家は「新古今和歌集」の撰者であり、「新勅撰和歌集」をも撰集しています)
 定家は藤原俊成の息(次男)で、京極殿あるいは京極中納言と称されました。
 この百人一首は、鎌倉幕府御家人で歌人の宇都宮頼綱(出家して蓮生)から、山荘の襖の装飾のために色紙の作成を依頼された定家が、選んだ歌をしたためたものだそうです。

《定家山荘跡の歌碑(常寂光寺)》
  小倉山みねのもみじ葉心あらば
     今ひとたびの行幸待たなむ 貞心公(藤原忠平)

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 時雨亭の古跡とされる所が、何故このようにあちこちに存在するのか?

 『都名所圖会』中の「厭離庵」に、その理由を次のように記しています。

 「京極黄門定家卿の山荘あるひは時雨亭と號る舊跡、ところ〴にあり、かの卿の詠歌により、又は少しき因になづみて後人これを造ると見えたり。
 続拾遺 いつはりのなき世なりせば神無月
         誰まことより時雨そめけん 定家
此歌を種として謡曲を作したり、時雨亭も是より出たり、実あるにあらず。」

 

 つまり、「時雨亭」を称する旧跡はあちこちにあるけれども、これは定家の読んだ歌、あるいは何らかのつながりや縁故をもとに、後世の人達が造り出したと見られるとしています。
 
 また、宝生流謡曲の「定家」、そして「時雨亭」という名称も、定家の歌「いつはりのなき世なりせば・・・」を素材としているとされるが、事実ではないとする。 
 

 なお、『都名所圖會』以外の地誌においても、時雨亭は「舊跡所々ニアリ(『山州名跡志)」、「いづれか其所さだかならず(『京羽二重織留』)」などとしています。

 次下は、時雨亭跡の記述がある諸本をいくつか拾ってみました。 

1. 厭離庵 (右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2)
 「小倉の山荘といふは、清涼寺西の門より二尊院までの道、二町ばかりの民家ある所を中院町といふ。いにしへは愛宕山の末院あり、今絶て所の名とせり 此半を北ヘ入る細道あり、竹林の後のかたに門ありて東に向ふ、これを厭離庵といふ。門の内に柳の水といふ清泉あり、草庵の跡は西の高き所と見えたり。(後略)」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』『山州名跡志』などにも記述あり。

 《小倉山荘旧址碑》

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 《厭離庵》

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2. 二尊院 (右京区嵯峨二尊院門前長神町27)

 「黄門定家卿の山荘といふ舊地は、仏殿のうしろの山腹にあり。かの卿より以前諸堂魏々たり、後世小倉山に寄りて號る物か。」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡》

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 《二尊院境内》

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3. 常寂光寺 (右京区嵯峨小倉山小倉町3)

 「定家卿の社は南の山上にあり。此所も彼卿の山荘のよし。(後略)」『都名所圖會』
 『京羽二重織留』『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡碑》

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 《常寂光寺からの展望》

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 その他にも、次のようなものがありました。
4. 相国寺塔頭普光院 (上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701)
  『京童跡追』『山州名跡志』『京羽二重織留』

5. 般舟三昧院(元・歓喜寺跡) (上京区今出川通千本東入般舟院前町151)
  『都名所圖会』『山城名跡巡志』『山州名跡志』『京羽二重織留』

6. 白毫院  『京童跡追』  雲林院の末院だったらしく、南北朝期までは存続したが応仁の乱で荒廃したとみられ、伝わる所在地も一定しない。

7. 小倉山 『京童』

8. 衣笠山東麓 『山州名跡志』

2015年2月20日 (金)

《 四ツ辻の四ツ当り 》

 伏見区大坂町(現・大阪町)に東本願寺伏見別院があります。

 徳川家康の寄進を受けた寺域には蓮池があり、両葉双開の蓮の花が生えていたことから、蓮池御坊・二葉御坊の別称が生じたと云う。
 土地の人々の間では「御堂さん」の通称で通っています。(別院の北側にある町名は「御堂前町」)

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 伏見別院は、慶応4年(1868)正月3日に戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦が勃発した時、幕府軍会津藩の先鋒隊200名はこの伏見御堂を宿所としたが、同年3月には新政府の伏見市中取締役所となった。
 平成2年(1990)に老朽化のため取り壊されて小さな本堂に立て替えられたため、往時を偲ばせるものは山門・鐘楼・大銀杏が残るだけ。なお、創建当初の山門は東面していたが、明治18年(1885)に現在のように南面・縮小したものに立て替えられたという。

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 ところで、伏見別院の門前界隈は、東西南北いずれの方向から来ても、道が突き当たりとなる複雑な形をしています。土地の古老の間では「四ツ辻の四ツ当り(よつつじのよつあたり)」と呼ばれていたと云うことです。

 下図のように、北の御堂前町から南行してくると大阪町で突き当たり(A地点)、東の魚屋町から油掛通を西行してくると大阪町と上油掛町の境界となる地点で突き当たり(B地点)、南の本材木町から上油掛町を北行してくると魚屋町からの西行路(油掛通)に突き当たり(C地点)、西方の濠川に架かる阿波橋から油掛通(古称・阿波橋通)を東行して中油掛町・上油掛町へと進んで来ると大阪町で突き当たり(D地点)となっています。(下図はクリックすると拡大します)

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 これは、軍事上防御的な理由からこうした町割りと道路が造られたもので、城下町の特徴を示しているのだと見る向きもあるようです。 
 しかし、それならば伏見城下町でなぜ大阪町の一帯だけにこのような町割りが見られるのか、その理由の説明がつかないことから、城下町の遺構だと断定するには無理があるようです。
 南西諸島や南九州では、このような丁字路・三叉路など道路の突き当たりには「石敢當(いしがんとう)」を立てて、魔物の侵入を防ぐ魔除けとしているのですが、伏見大阪町の場合はこうしたこととは全く無縁です。(「石敢當」については、以前に当ブログの記事中で取り上げたことがあります)

「中油掛町」の仁丹町名表示板

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 上・中・下の3油掛町と油掛通の名称は、下油掛町にある西岸寺の油掛地蔵に由来しています。
 昔、山崎の油商人がこの寺の門前を通りかかったとき、転んで油を流してしまった。あわてて桶を見ると油はいくらも残っていない。暫くは呆然として立ちすくんでいたが、これも運命なのだろうと思った。
 しかし、このまま帰ってしまうと災厄に遭うかもしれないと考えた油商人は、残っていた油を石仏に灌(そそ)ぐことにより、気がかりな思いを振り払って帰った。その後、この油商人は日々に栄えて大福長者になったと云う。
 それ以来、油を懸けて祈願すると叶う霊験あらたかな地蔵尊(高さ約5尺の石像)として人々に親しまれ、西岸寺の山号(油掛山)となった。

2015年1月30日 (金)

太鼓望楼

 三条京阪のバス停広場南側でやや東、若松通沿いにある三階建て建物屋上に、見かけない構造物がありました。
 旧・京都市立有済小学校の屋上に設置されていている太鼓望楼です。
 登録有形文化財に指定されているのですが、今では建物は他施設に転用されています。

旧・有済小学校の太鼓望楼

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 この“太鼓望楼”、城や寺院に設けられた“太鼓楼”とは異なり、望楼を兼ねて屋上などの高所に設けられています。
 他の小学校にもあったようですが、明治の末頃までにすっかりその姿を消してしまい、現在も残っているのはこの旧・有済小学校のものだけです。太鼓を打って時刻を報せたり、火事を報せたりしたのです。

 京都市立有済小学校は京都市東山区大和大路三条下ル大黒町にあった小学校でした。
 しかし、後に同じく市立粟田小学校と統合されて白川小学校となり、さらに近隣の小中学校(白川小学校・新道小学校・六原小学校・清水小学校・東山小学校、そして洛東中学校・弥栄中学校の7校)が統合され、現在では東山区六波羅裏門通東入る多門町に所在する小中一貫校の京都市立開晴小中学校となっています。

西本願寺の太鼓楼(重要文化財)

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 先に記したように、太鼓楼と云えば、多くは寺院や城郭に設けられています。
 城の太鼓楼は、登城・下城などの時刻を報せるために打ち鳴らしたようです。

 寺の場合は、時刻を報せるとともに、法要の合図に打ち鳴らしたのですが、京都では西本願寺(浄土宗本願寺派本山)の太鼓楼が規模も大きくて立派なものです。
 重層の楼閣建築ですが、元の太鼓楼は大火で焼失し、現在のものは寛政元年(1789)に再建されたものと云います。

 なお、新撰組は、手狭となった壬生屯所を慶応元年(1865)西本願寺へ移転し、境内に「新撰組本陣」の看板を掲げて、北東部にあった北集会所とこの太鼓楼を使用していました。