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京都の移り変わり

2017年12月22日 (金)

「伏見城」は幾つあったの? (2の2)

2. 指月の丘(指月の森)とはどこ?

 慶長大地震で「指月城」が倒壊した後、指月の丘から木幡山(伏見山)に移り「木幡山城」として再建します。その場所は、いまの明治天皇陵のある一帯でした。

 それでは、秀吉が指月隠居屋敷・指月城を築いた「指月の丘(指月の森とも)」と言うのは、どのようなな所だったのでしょうか。

 前回の記事で記したように、指月城が築かれた指月の丘というのは、現在の桃山町泰長老の一帯にあたります。
 ところが、そこは明治末から終戦までは陸軍の京都師団工兵隊が駐屯し、以後は観月橋団地・桃山東合同宿舎などが建てられました。そのため現在では、地表に現れた遺構の残存は見ることができません。
 しかし、4度にわたる発掘調査の結果、とりわけ平成27年(2015)の調査では、石垣や北堀跡と見られる遺構、金箔瓦などの遺物が見つかっています。
 このことから、一帯の現在は団地や民家が密集していてるため、広範囲にわたる発掘調査は困難ながらも、やはりこの辺りが指月城跡であった可能性が強まったとされています。
 そうした発掘調査の結果や地形などから推定される指月城の範囲は、東は船入通から西の豊後橋通(国道24号)までの約500m、南は宇治川北岸の崖から北の立売通までの約250mと見られます。

指月の丘と指月城があったと見られるところの現在。

《指月の丘の東側・・・舟入通から見た傾斜面》
  宇治川から指月城の東側へに引き込まれた舟入(水路)の跡が現在の舟入通です。南北が約300m・東西は約90mです。

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《指月の丘の西北部・・・豊後橋通(R24)と立売通が交差する地点の南東角》
  集合住宅のある辺りから石垣が発掘された。石垣の方向から城の北西角にあたると思われるそうです。

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《指月の丘の南側・・・宇治川北岸の崖》
  現・外環状線道路沿いにある西岸寺の裏、この崖上が指月の丘(指月の森とも)にあたる。月橋院はここの少し東方にある。

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《指月の丘の北側・・・大光明寺陵参道下の立売通》
  参道から立売通に落ち込む斜面が指月の丘の北端になる。この大光明寺陵の辺りに本丸があったのか。

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 それでは、『山州名跡志』から「指月」の記述を見てみます。
「指月 地名 橋ノ北東ニ至ル二町餘ノ内ヲ云フ 此ノ地景色アリ。東南西ニ渺々タル流アリ。巽二巨椋ノ入江。東ニ伏見ノ澤アリ。爾バ便チ月ヲ愛スルニ無雙ノ景色也。故ニ此ノ名ヲナス地ニ月橋院在リ。此院ノ後ノ丘ノ上。北ノ方二町許ニ東西ニ通ル街アリ。是ヲ立賣ト號ス 秀吉公在城ノ時開ク所也。指月ハ此街ヨリ南  東西三町許ノ惣名也」としています。
【註1】:上記引用文冒頭の「橋」は「豊後橋(現・観月橋の辺り)」を指す。文祿3年指月城と対岸の支城向島城との間の宇治川に長さ140間(約250m)の豊後橋を架けた。小倉まで巨椋堤を築造して、大和街道に通じている。
【註2】:引用文中の「月橋院」は曹洞宗寺院で、現在も宇治川北岸の京都外環状線の北側道路沿いにあり、その背後(北)の崖上が所謂「指月の丘」です。
【註3】:同じく「立賣」は指月の丘の北側にあたります。現在のJR桃山駅南側の町名が「桃山町立売」、西の豊後橋通(国道24号)と東の船入通との間を東西に通っている道が「立売通」です。

 つまり、「指月の丘」とは眼下の宇治川に架かる豊後橋の北詰にあたり、東西2町余りの丘陵を云う。
 東には伏見の沢、宇治川の南には巨椋池を見晴るかす地で、古く平安時代以来、月を愛でるのに無類の場所として知られていたようです。
 水面に映る月影が四ヶ所に見えることからこの丘陵地は、旧名を「四月(しげつ)の丘」と言ったが、後に「指月(しげつ)の丘」と書くようになったそうで、地名はこうしたことを由来としていると云う。

 ちなみに、指月城の次に築かれた木幡山城があった木幡山(伏見山)については、『山城名跡巡行志』に次のように記述しています。
「木幡山 同所ノ西ニ在  古城山半ハ木幡山也  木幡山伏見山元ト一山也  東ヲ木幡山ト謂  西ヲ伏見山ト謂」 
 *「同所」とは、古城山の東方にある八科峠を指している。また、「古城山」と云う地名は現在の地図にも載っており明治天皇伏見桃山陵のある一帯です。
 木幡山城(伏見山城)が廃城となった後、木幡山と伏見山とを合わせて古城山(故城山)と称されることになったようです。

 ところで、指月の丘と木幡山(伏見山)、これら伏見の地に政権があったのは約30年間です。そのうち徳川家康が木幡山城を再建してから廃城までの期間は20年です。
 そしてこの間、初代の家康から秀忠・家光に至る三代にわたり、伏見城において征夷大将軍の宣下を受けています。
 また、家康が在城したのは江戸城よりも伏見城の方が長かったとも見られるようです。このため、264年間続いた江戸幕府(江戸時代)ですが、その最初期の徳川政権の主要拠点は京都伏見だったとも云えるようです。
 その意味で、徳川家康が開いた幕府(徳川幕府)の揺籃期は、「江戸幕府」ではなくて「伏見幕府」と云ってもよいのではと見る向きもあるようです。

2017年12月15日 (金)

「伏見城」は幾つあったの? (2の1)

 唐突ですが、「伏見城」が幾つもあったということを知りませんでした。
 伏見城といえば、現在の伏見桃山丘陵にある明治天皇陵敷地の北端部分とその北側一帯が本丸跡、そして、そこから少し北西寄りのところに天守があったことを知るだけでした。
 ところが、いわゆる「伏見城」というのはこの一つだけではなく、全部で四つ(四度)も築造されており、その位置も移り変わっていたのです。
 現在、明治天皇陵の北側一帯は伏見桃山城運動公園になっており、その傍に「伏見桃山城」の大天守と小天守が聳えています。ところが、これはイミテーションで昭和39年(1964)に建造されたコンクリート製の城なのです。

《現在の「伏見桃山城」》

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 大天守は5層6階で小天守は3層4階、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」に建設されたが、平成15年(2003)に遊園地は閉園されている。


1. 伏見城の築城から破城まで

 太閤となった豊臣秀吉が最初に伏見「指月の丘」に築いた城跡、そしてそのあと幾度か築かれ、最後に徳川幕府によって廃城された「木幡山」の城、それらの「伏見城」跡とされる一帯を見に行ってきました。

① 秀吉の「指月屋敷」=最初の伏見城
 豊臣秀吉は、天正19年(1591)甥の豊臣秀次に関白職と聚楽第を譲り、自身は太閤と称される。
 そして、翌文祿元年(1592)伏見の「指月の丘(指月の森とも)」に隠居するための「指月屋敷」を建てます。その場所は、現在の桃山町泰長老の辺り、JR「桃山」駅南側の一帯ということになります。

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 なお、これは隠居するための屋敷ですから、城と云うより邸宅として築かれたもののようです。


② 秀吉の「指月城」=2番目の伏見城
 ところが、文祿2年(1593)秀吉の側室である淀君に秀頼が生まれ、秀吉と秀次との関係が微妙なものとなり、秀次を跡継ぎとしていた考えを変えます。そして、秀次に謀反の疑いをかけて高野山に追放して自害させ、聚楽第は破却してしまいます。
 また、明の使節を迎えて講和交渉を行なうのに相応しい施設として、立派な城郭を必要としていたこともあり、文祿3年(1594)隠居屋敷として築いた「指月屋敷」を、天守や堀を備えた本格的な城郭「指月城」とすべく、大規模な整備拡張をおこないます。
 この時、宇治川を挟んだ対岸(南側)の向島に支城の「向島城」をも築き、宇治川には「豊後橋」を架橋します。

《大光明寺陵》

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 北朝の光明天皇・崇光天皇の陵ですが、船入のすぐ傍であるこの一帯に天守があったのか。

 しかし慶長元年(1596)、近畿一円に発生した巨大地震で、指月城や大名屋敷が倒壊しただけでなく、洛中の御所・寺社・民家にも甚大な被害を引き起こしました。
 このため、指月の丘の隠居屋敷と指月城が存在したのは僅か4年という短命の城でした。


③ 秀吉の「木幡山城」=3番目の伏見城
 慶長2年(1597)、秀吉は地震で城が倒壊してしまった指月の地を放棄して、そこから東北へ約1Km離れた木幡山(伏見山とも)に新たな「木幡山城」を築いて、完成すると秀頼とともに入城します。
 城の位置は、現・桃山町古城山(明治天皇陵)に本丸が、少し北西の現・桃山町大蔵に天守があったようです。

《明治天皇陵》

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この辺りに木幡山城の本丸があった模様。

 そして、城下の町づくりとともに水路および陸路の交通網整備がなされ、伏見は全国統治の拠点・政治都市となったのです。
 慶長3年(1598)秀吉はこの木幡山城で病没して、秀頼は大坂城に移り徳川家康が替わって入城します。


④ 家康の「木幡山城」=4番目の伏見城
 慶長5年(1600)、徳川家康が上杉(会津)征討に出た隙を狙った「伏見城の戦い(関ヶ原の戦いの前哨戦)」で、西軍の総大将石田三成等の猛攻によって木幡山城は落城・焼失します。
:今日の朝日新聞朝刊に、このとき焼失した城跡で赤く変色した石垣の根石と、それを覆う焼けた土が出土したという記事が載っていました)
 ところが、続く慶長6年(1601)の「関ヶ原の戦い」では、徳川家康の率いる東軍が勝利します。そして、ついに覇権を握ります。
 家康は、慶長7年(1602)焼失した木幡山城を再建し、大坂城から伏見城に帰って政務を執ります。翌慶長8年(1603)に征夷大将軍に補任されて江戸幕府を開きますが、江戸城と伏見城を行き来していました。
 翌慶長10年(1605)に将軍職を三男の秀忠に譲ります。


⑤ 幕命により木幡山城は廃城
 元和9年(1623)、秀忠の次男である家光が伏見城で将軍宣下を受けた後、破壊されました。

《廃城破壊された木幡山城の石垣の石》

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 いま私達が何となく思い浮かべる「伏見城」は、指月城(上記①②)ではなく、木幡山城(上記③④)なのです。

 ところで、初期の伏見城である指月城については記録が残っていません。そのため、『京羽二重織留』『山州名跡志』など地誌の記述は、文祿3年に「指月隠居屋敷」を城郭として拡張整備した「指月城」と、慶長2年に築城されて慶長5年に伏見城の戦いで焼失した「木幡山城」とを混同しているように思われます。
 たとえば、『山州名跡志』は次のように記しています。
「故城 伏見山ノ内御香宮ノ東ニ在リ 文祿三年秀吉公ノ造営也。奉行人佐久間河内守。瀧川豊前守。水野龜之介。石尾與兵衛等也。其後慶長五年七月晦日。石田三成ガ逆心同與力金吾秀秋。宇喜田秀家等。此城ヲ攻ル。江州永原ノ兵士敵ニ通ジテ落城ス。城ノ内ニハ鳥居彦衛門。内藤彌次衛門等討死ス。」
つまり、前段の文祿3年の件は指月城(指月の丘)の築城に関わる記述であり、後段の慶長5年の件は家康が上杉攻略に向かった隙を衝いて西軍の石田三成等が東軍鳥居元忠等が守る伏見城(木幡山城)を攻め落とした記述であって、両方の混同が見られる所です。

(次回へ続く)


2017年8月25日 (金)

儚くも消えた聚楽城 2の2

2. 聚楽第の築かれた場所と規模は?

 聚楽第の四囲・規模と構造については、記録が残っておらず確かなことは判らないため、諸説があるようです。 
 それらは、いずれも北限を一条通とする点ではほぼ共通していますが、その他はばらついています。
「南北は一條より二條迄 東は堀川 西は内野をかぎりて城地として聚楽と號し給ふ」(『京羽二重織留』)、『雍州府志』も同じ範囲を記す。
「東は大宮より西は千本迄 北は一條に限り南は春日今いふ丸太町に至る」(『京町鑑』)、『菟芸泥赴』『京都坊目誌』も同じ範囲を記している。
「一條の南、二條の北にして、東は大宮を限り、西は朱雀通今の千本通なり を堺とす」(『都名所図会』)としています。
多く残る洛中洛外図屏風からは、外堀を含めると東は大宮通、西は千本通、北は元誓願寺通、南は下立売通を範囲とする見方もあるようです。


松林寺(新出水通智恵光院西入南側)
 松林寺の境内は周辺より低い凹地なっていて、新出水通に面した寺門を入ると、かなり低いところに本堂や墓地がある。これは、聚楽第南外堀である天秤堀の跡だとされています。

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 このように、聚楽第の規模について記述に違いが見られるのは、本丸と内堀以外のどこまでを含めて考えるかで大きな違いが出るようです。つまり、外堀までとするのか、あるいは周囲に設けられた諸大名の屋敷までを含めるのかによって、その範囲は変わってきます。
 聚楽第の周囲、特に東側には諸大名や武家の屋敷が建ち並びました。『京都坊目誌』には、それらの人々の名前に由来するとして伝承される多くの町名が記されており、そうした町名は約25にも上っており、現代の地図でも目にすることができます。


如水町の仁丹町名表示板
 黒田如水(名は官兵衛孝高)の屋敷跡であることが町名の由来とされる。

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 さらに、聚楽第の園池、通用門などの城郭構造、あるいは配下の武士達の組屋敷に由来するとされる町名も約30に上ります。


亀木町の仁丹町名表示板
 聚楽第庭園の池に、木製の噴水用巨亀が設けられていたことが町名の由来とされる。

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 先に見たように、聚楽第の確かな位置と範囲は不明ですが、従来の発掘調査結果では、一条大宮の民家敷地から花崗岩の礎石、智恵光院中立売では金箔を貼った鬼瓦と軒丸瓦そして耳付き茶壺・天目茶碗、丸太町智恵光院付近で金箔軒瓦が発掘されているようです。
 しかし、聚楽第跡と見られる一帯は現在では住宅密集地となっているため、従来から大規模な発掘調査おこなうことは極めて困難だったのです。


梅雨の井
 『京町鑑』には「梅雨の井」の名称由来を、「清水町 此町東側中程人家の裏に井有 梅雨の井とよぶ 昔聚楽御城有し時太閤秀吉公御茶の水にし給ふ 井の深さ一丈餘梅雨の入より水井筒の上ヘ越して外へ流れわたる 因て清水町と云」と、井と町名の由来を記している。
 今では井桁も無くなり、打ち込まれていた手押しの汲み上げポンプは破損しています。

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 ところで、2015年10月〜翌16年1月にかけて、京都府教育委会文化財保護課と京都大学防災研究所が共同して実施した調査では、地面を叩いて発生させた地震波を検知する「表面波探査」と云う手法を、考古学調査に適用しました。
 これは、堀などの地盤の弱い所では、地震波の伝わり方が遅くなる性質を利用することにより、地下の遺構を探るというものだそうです。そして、この方法で道路沿いに44地点約5,400mにわたって探査しました。
 その結果、本丸などの外側、東・西・北の三方に5つの外堀があったとみられ、南側からは検出されなかったというのです。
 この探査結果から、聚楽第の範囲は東西が約760m・南北が約800m以上となって、従来考えられていたよりも約1.6倍に広がる見込みであることから、やはり単なる公邸にとどまるものではなく、天守や外堀を備えた城郭であったとみられるそうです。
 こうしたことから、単なる政庁を兼ねた邸宅といったものではなく、秀次が聚楽第を譲り受けたあとで、軍事拠点としての城郭構築を企図していた可能性が見て取れる結果が出たようなのです。

2017年8月18日 (金)

儚くも消えた聚楽城 2の1

1. 聚楽第の造営と破却

 天下を平定して文字通り「天下びと」となり、関白・太政大臣に任ぜられた豊臣秀吉は、天正15年(1587)平安京の大内裏跡である内野に、その地位にふさわしい政庁兼邸宅として聚楽第を造営して、大坂から移り住みました。
 そして完成翌年の4月には、この豊臣政権の京都における象徴とも言える聚楽第に、後陽成天皇の行幸が行なわれました。
 贅を尽くした荘厳で華麗な聚楽第のありさまを、『京町鑑』には「其構へ四方三千歩の石の築垣山のごとく 樓門を堅め鐵の柱銅の扉金銀を鏤め瑤閣星を錺り 御庭には水石を疊み花木を植さしめ造立し給ふ 結構譬るに物なし 城外の四方に諸侯の第宅をかまへ 樂を聚め觀樂を極め給ふによって 世人聚樂の城とも聚樂の御所とも称す」と記しています。


聚楽第跡の碑

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 また、日暮通の名称由来について『菟芸泥赴』には、「聚樂第の正門此街に當る。門の構造装飾極めて華麗にして。望見するもの日の暮るを知らずと。街名之に起る」書かれています。 つまり、日暮門があまりにも華やかで美しいため、それを眺める人々は日の暮れるのにも気がつかなかったと云うのです。

 実子に恵まれなかった秀吉は、天正19年(1591)養子とした甥の秀次(姉である日秀の子)に、関白職とともに聚楽第を譲り、自身は太閤となります。そして、秀吉自身は宇治川や巨椋池を望む指月の丘に隠居屋敷を造営します。これが初期の伏見城にあたります。
 しかし、聚楽第は完成から10年も経たない文禄4年(1595)、うたかたのように儚い結末を迎えます。
 秀吉の愛妾である淀君が実子秀頼を生んだのをきっかけに、秀次は秀吉に疎まれることとなるのです。
 そして、秀次は文禄4年(1595)6月謀反の疑いをかけられ、石田三成等の讒言もあって秀吉に高野山へ追放されます。そして、7月15日には切腹に追い込まれ、家臣5人も殉死します。
 秀次の首は8月2日に三条大橋西南の河原で晒し首にされ、その首の前で係累を根絶するために遺児(若君4人・姫君)や側室・侍女・乳母ら39人も公開処刑で斬首されました。刑場脇に掘られた大きな穴にその多くの遺骸とともに秀次の首を埋めて塚が築き、その塚の頂上には石塔を据えて「秀次悪逆塚」と刻まれた。「畜生塚」とも「せっしょう(摂政・殺生)塚」とも呼ばれたと云う。
 しかしその後、鴨川の氾濫などで塚は荒廃していたのですが、慶長16年(1611)角倉了以が高瀬川を開削しているときに墓石が発掘され、その地(木屋町通三条下ル)に秀次一族の菩提を弔うため瑞泉寺と墓を建立しました。


豊臣秀次と一族の墓(瑞泉寺)
 正面奥の六角石塔が秀次の墓とされ、その手前左右には遺児・妻妾など一族の墓がずらりと並んでいます。

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 秀次の切腹から程ない8月、秀吉は竣工後僅か8年にして聚楽第を徹底的に破却してしまいます。
 先に引いた『京町鑑』には、「關白秀次公に此御所を譲り給ひしに程なく秀次公滅亡有 殿舎四方の樓門等諸寺に分て荒廢す 其地今人家となり(略)聚樂といひ地名に呼ぶ 今 町の小名に舊名所々に殘れるのみ」と記しています。
 そして、聚楽第の建物は、その一部が築造中の伏見城に移築され、寺院へも寄進されたようで、西本願寺の飛雲閣・大徳寺の唐門はその遺構だとされます。


2016年12月30日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の2

2. 三本木町は何処へ?

 前回に見た東洞院通丸太町上ルに存在していた上三本木各町の移転について、『京都坊目誌』には次のように記しています。

 「寶永五年の大火に内裏炎上す。尋(つい)で築地の取擴けあり。東洞院より烏丸まで。北は下長者町より南は丸太町迄の町地を買収し。皇宮地に編入せらる。此時一町目より三町目の転地を命せらる。仍(かさね)て其替地たる丸太町の北。鴨川の西に移住す。今尚三本木の稱あり」と。


 東三本木通

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 西三本木通

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 そして、東洞院通についての記述では、「當時上長者町まで通ぜしが。寳永五年皇宮地に入るを以て。丸太町まで閉塞す。其間にありし町家を。河東二條に移転せしむ。今尚ほ新東洞院と云ふ。」
 さらに、「新東洞院町 新東洞院通二條下るより二王門までを云ふ。寶永五年の開発にして元東洞院丸太町以北、三本木一・二・三町目の町民を此に移す」と、鴨川の東側の二条通と仁王門通間の新東洞院通に移転させられたことを記しています。


 新東洞院通

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 このように、上三本木一町目から三町目の住民は、鴨川の西と東の2カ所に分かれて移転させられたのでした。


3. 移転して新たに開かれた町々

 ところが、移転させられたのは東洞院通から烏丸通沿いの住民だけではありませんでした。丸太町通から北側については、西は烏丸通から東は寺町通までの間の全ての民家が移転させられたのです。
 このように大規模な移転でしたから、移住先となった主な代替地だけでも次の4カ所に及びました。
 そして、人々が移住した先の町名や通り名には、旧地を偲んで次のような名称がつけられました。

① 鴨川西岸と河原町通の間で、丸太町の北側の一帯
 ここには先に書いた東洞院通丸太町以北の民家が移転しました。そして、旧地の通り名を採って、「東三本木通」「西三本木通」と名付けました。
② 鴨川東部(いわゆる河東)で、二条通と孫橋通の間
 ここには西は烏丸通、東は寺町通の間の丸太町通以北の民家が引き移りました。この鴨川東部の移転地では、通り名の全てが「新車屋町通」「新東洞院通」「新間之町通」などというように、旧地の通り名に「新」を付して「新◯◯◯通」という呼称にしました。
③ 寺町通と河原町通の間で、北は荒神口通から南は二条通に至る間
 ここへは丸太町以北の烏丸通東側にあった民家が移ります。そして、通り名は「新烏丸通」と命名されました。なお、天正期の秀吉による京都改造以来この一帯に輻輳して存在した多くの寺院は、賀茂川東部の仁王門通付近に移転させられています。
④ やはり寺町通と河原町通の間で、北は丸太町通から南は二条通までの間
 椹木町通烏丸から東の民家をここに移して、「新椹木町通」と称しました。


 それらの町の仁丹町名表示板

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   (追補 '17.1.11)
 『山州名跡志』中に、「三本木」の名称由来などの記述を見つけました。
 原文は仮名交じり文で読むのが煩わしいため、主要な点のみを現代文の体裁で要旨を記しておきます。

① 東洞院通の出水から南を上三本木町、下立売通の南を下三本木町と云った。
② 古老が云うには、平安時代にはこの辺りに監獄があり、その門外に三本の木(樗とも榎とも云われる)が植えられていた。これが地名「三本木」の名称由来となった。
③ 古くは、斬首された罪人の首は獄舎の木に懸けられた。このことから獄門と云った。

2016年12月23日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の1

1. 消滅した「上三本木町」

 現在の「三本木町」は、東洞院通の丸太町通と竹屋町通の間に位置する両側町です。

 三本木町の町並み

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 ところが、その南隣の町名は「三本木五町目」(竹屋町通と夷川通の間)となっていています。

 三本木五町目の町並み

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 「三本木五町目」が存在しているにもかかわらず、その北にあるはずの三本木一町目から四町目、そして南側の六町目以降が存在していません。
 これはどうしたことなのでしょうか? どのような事情があってのことなのか、大いに興味をひかれます。

 その辺りの事情を『京都坊目誌』の記述から見ていきます。
 同書の「三本木五町目」について説明した個所に、その答がありました。
 「東洞院通出水下る所を上三本木町と云ひ、一町目と呼ぶ。下立賣下るを二町目と呼び。椹木町下るを三町目と唱へ。丸太町下るを四町目と云ひ。當町に至り五町目となる。」としているのです。

 今では京都御所苑地となっていますが、かつての東洞院通には出水通と丸太町通の間に一町目から三町目までが存在したのです。
 そして、現在では丸太町下ルの町名は「三本木町」となっていますが、元々ここは「四町目」と称していたことが判ります。
 また、その南側(竹屋町通と夷川通の間)の現「三本木五町目」は、慶安の頃には「井筒屋町」「西井筒屋町」と称していましたが、明治2年2月に両町が合併して「五町目」という旧町名に戻したのだとしています。

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 そして、「三本木五町目」の南隣、つまり、夷川通から二条通までの現町名は「壷屋町」となっています。しかし、ここも始めは「三本木六町目」と称していたのですが、慶安期から現町名に改めたと記しています。(右の仁丹町名表示板、劣化が激しく見辛いのですが「壷屋町」のものです)

 以上に見てきたように、かつての東洞院通には北は出水通から南の二条通までの間に、「三本木一町目」から「三本木六町目」までの6町が連なって存在していたのです。
 ところが、丸太町通から北にあった一町目から三町目までの地は、宝永5年(1708)の大火のあと、京都御所が拡張されることになり、苑地に取り込まれてしまい消滅したのです。
 そして、その一帯に居住していた住民は立ち退きを余儀なくされ、代替地に移住させられました。


【註】「宝永五年の大火」とは
 宝永5年(1708)3月8日の午の刻(現在の正午12時頃)に油小路通姉小路下ル、西側二軒目の両替商伊勢屋市兵衛方から出火。強風のために東北方向また東南方向へと燃え広がり、多くの公家・武家屋敷や社寺が灰燼に帰し、御所までもが炎上した。その被害区域は東は鴨川、西は油小路通の西、南は四条、北は下鴨の河合神社辺りにまで及んだという。
 民家13,051戸、神社7、寺院74が焼失し、出火の翌9日未の刻(現在の午後2時)になって漸く鎮火したと云う大火事でした。

      《次回に続く》

2016年11月 4日 (金)

消えた大宮通 sign02  3の3

3. よみがえった大宮通

 文禄4年(1595)に聚楽第が破却されてその跡地一帯が町地化すると、大宮通と家並は復旧していきます。
 その大宮通が復活した部分(一条通と下長者町通の間)は、次のような状態でした。

 『京都坊目誌』には、「新大宮通 [一條中立賣間ナリ] 明治三十二年開通す。中立賣下長者町間を和泉町通と稱す。元と聚樂第内に屬し。清泉のありし所なり。元和元年新に之を通す」としています。
 一条通から南の下長者町通までの間、つまり糸屋町・和水町・東堀町の3町を通貫する道はもともと和泉町通と称していました。しかし、上記の引用文を見ると、糸屋町は他の2町とは少しばかり様子が異なっていたことが窺えます。
 再び『京都坊目誌』から引用しましょう。
 「糸屋町 和泉町通 [元大宮の西筋なり。明治三十二年末當町を北に開き四間道路とす。今俗に新大宮と呼べり] 中立賣上る所を云ふ。開通不詳。明治三十二年再開せり。」
 さらに、「元此地聚樂城東北の外壕たり。後ち之を埋め町地とす。文祿の文書に既に糸屋町とあり。一名を袋町と云ふ。明治三十二年迄袋地 [一方より通せず] たりしを以てなり。」としています。
 つまり、糸屋町の北端は一条通へ突き抜けていなかったのです。
 宝暦4年(1754)刊「名所手引京圖鑑綱目」(日文研所蔵)を見ると、和泉町通中立売から糸屋町を北行すると、一条通の手前で行き止まりの袋小路となっていることが見て取れます。ここを、明治32年末に北に向けて幅員7m余りの道として開き、これを新大宮通と称したと云うのです。

袋 町
 「新在家丁」の北側で、「ナシノ木丁(梨木町)」の西側にある「フクロ丁(袋町)」は北端付近で行き止まりとなっているのが判ります。
  (画像をクリックすると図が拡大します)

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 寛文5年(1665)刊の『京雀』にも、「しんさいけ町 此町の北に袋町とて只一町有」と出ています。 
 上図、フクロ町(現・糸屋町)の北端にあたる個所から南方向を望む。この辺りが行き止まりとなっていたのを開いたのです。横断歩道の所を左右(東西)に延びるのが一条通です。

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 そのあたりを、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』の記述からも見ておきましょう。
 「中立賣通」の個所に、「大宮西入 東新在家町」とあります。『京都坊目誌』によればこの「新在家町」は、元和期に町が開けて民家が建ち並ぶようになったことから新在家町と呼ぶようになったと云う。ここは、今、中立売通大宮にある新元町に該当します。
 そして、『京町鑑』は「此町北側中程上ル 袋町 此辻子行ぬけなし 同南側下ル 泉町」と続きます。この「袋町」は先に見たように、当時は行き止まりとなっていた現・糸屋町であり、「泉町」は後の和泉町で現・和水町ということになります。

新元町の仁丹町名表示板

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 なお、現在では糸屋町・和水町・東堀町(一条通から南の下長者町通まで)を通して大宮通としています。


 こうして、秀吉が聚楽第を築造したために、大宮通はその一部は中断したのですが、8年後には聚楽第が破却されたため、跡地が再び町地となって繋がったのです。
 ところが時代が降ると、今度は慶長7年(1602)に徳川家康が二条城を築造したために竹屋町通と押小路通の間が閉ざされてしまいます。

二条城二の丸御殿
 ここで大政奉還が議されました。

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 さらにその後、元祿16年(1703)には京都所司代屋敷の拡築で丸太町通と竹屋町通の間も閉塞してしまい、大宮通は再び部分的に途切れてしまって現在に至っています。

2016年10月28日 (金)

消えた大宮通 sign02  3の2

2. 聚楽第外堀に沈んだ大宮通

 今回は、聚楽第(聚楽城とも云われた)の築造による、大宮通の変貌に焦点を絞ってみます。
 聚楽第は、豊臣秀吉が天正14年(1586)に着工して翌年に完成しますが、僅か9年後の文祿4年(1595)には破却されてしまいます。
 聚楽第の規模・範囲については不明な点が多く、諸説があって定まっていないようです。

 幾つかの地誌等を見ると、北辺は一条通とすることでは概ね共通しているように見受けられます。
 そして、東辺は大宮通とするものが多いようです。(『京町鑑』『菟芸泥赴』『京都坊目誌』『都名所図会』など)
 堀川通を東辺とするもの(『京羽二重織留』『雍州府志』)もありますが、これは、その一帯には如水町・飛騨殿町・常陸町・藤五郎町などなど、秀吉に臣従した諸大名の名前に由来する町名が多数存在することから、聚楽第周辺の大名屋敷をも含めた範囲を云っているのでしょう。


如水町・常陸町の仁丹町名表示板
 如水町の名称は、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の黒田官兵衛(如水)屋敷跡であることが由来です、常陸町は木村常陸介重茲の屋敷跡です。

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 というわけで、一条大宮の辺りが聚楽第の北東角であったと見ても、一概に不当とは云えないと考えますが、どんなものでしょう。
 また、京都府教委文化財保護課と京大防災研が行なった、地震波の性質を利用した地下の遺構調査(昨2015年10月から今年1月にかけて実施)によれば、本丸と内堀の外側には大規模で複雑に折れ曲がった形をした外堀を備えていたらしい、ということが判明したのです。
 そして、その折れ曲がった外堀のうち最も東側に突き出した部分が、大宮通の一条から下長者町にかけての一帯に当たるようです。
 こうしたことが、聚楽第東側の外堀跡にあたる現在の大宮通一条から下長者町通の間、およびその東側一帯の家並みの形成に関係しているようです。

 冒頭に引用した『京都坊目誌』の記述にあるように、応仁・文明の乱以後の京都の町、ことに北部はすっかり荒廃していましたが、道路だけは通じていたようです。
 その荒廃した内野の地に聚楽第が築造されたため、大宮通のうち一条通から下長者町通までの間が、聚楽第東側の外堀に取り込まれてしまったことで、この間の部分が途切れてしまうことになったのです。

 このように、東の外堀が造られたことで大宮通が部分的に姿を消したため、その東側にある黒門通との中間にそれに替わる道路を新しく開通させました。その道が現在では、「元大宮通(旧大宮通とも)」と通称されている道だったのです。
 そして、聚楽第が破却されたあと元々の大宮通が復活したことで、両方を区別する必要からこの道を元大宮通、復活した道を元通りに大宮通と称したのでしょう。


現在の元大宮通の光景

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藤五郎町の仁丹町目表示板
 「舊大宮通」の表示です。
 「藤五郎町」は、織田信長の家来で本能寺の変の後に、豊臣秀吉に仕えた長谷川籐五郎則秀の屋敷跡です。

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2016年10月21日 (金)

消えた大宮通 sign02  3の1

 今回の記事は、少し長くなったため3回に分けてアップします。
 次回は「2. 聚楽第外堀に沈んだ大宮通」
 最終回を「3. よみがえった大宮通」とします。


1. 平安京の大宮大路
 平安京が造営されたとき、大内裏の東側に接して開かれたのが大宮大路(東大宮大路とも)でした。南北に貫通する大路で、十二丈の道幅があったと云いますから36m余りの大路だったのです。
 そして、現在の大宮通は、この大宮大路にほぼ該当するようです。
 平安時代の大宮大路(現・大宮通)は、北は一條大路(現・一条通)から南の九條大路(現・九条通)まで通じていた道でした。しかし、これが南北に延伸した時期は定かではありません。
 ちなみに、現在の大宮通は北は御薗橋通から久世橋通の一筋南に至っています。


 この大宮通について、大正4年(1915)刊『京都坊目誌』は、次のように記しています。
 「北は安居院今宮旅所前 [愛宕郡大宮村のうち} に起る。之を大宮頭と稱す。南 九條に至る。凡そ古の東大宮大路に當る。一條以北の開通年月詳ならず。其以南は延暦中開通す。文明以來荒廢せしも。道路のみは通せしが如し」、安居院というのは今の大宮通寺之内一帯、また付近の大宮通を云います。

 そして、寛文5年(1665)刊『京雀』には、「北のゆきあたりは今宮の御旅町とて西東一町あり(中略)そのわたりに大宮權現のやしろあり此故に町筋の名とす」と大宮通の名称由来を記しています。


大宮權現=久我神社

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 上記引用文中の「大宮權現」というのは、かつては大宮の森と通称された地にある現在の久我神社(北区紫竹下竹殿町47)のことで、現在は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社となっています。
 大和国葛城山を根拠地とした豪族の賀茂氏は、山代国岡田の賀茂(相楽郡加茂町)に進出、ついで木津川を北上して桂川と賀茂川の合流点に辿り着き、さらに伏見の久我から賀茂川を北上して現在地に定着しました。そして、それぞれの地で鴨神社・久何(久我)神社の名が踏襲されたようです。
 なお、現在の大宮通は、久我神社の東側を通っていますが、元々は社前(西側)を通っている道が大宮通(現・大徳寺道)だったようで、今でも地元ではこの道を旧大宮通と称しています。
 また『京雀』によれば、大宮通を洛外に出るとその先は、「御旅町の西 むらさき野大徳寺に行道なり その北は今宮紫竹大門鷹が峯にゆく(中略)そのすゑは萬壽峠より岩やの不動へまいる道あり(中略)東寺の二王門のすこし西のかたより南へゆくは 淀鳥羽の道にて大坂までも連たり(中略)叉九條通直に西にゆけば桂川より津の國山崎」へと続く街道だとしています。


東寺(教王護国寺)南大門

 大宮大路の南端にある東寺は、平安京遷都の際に西寺とともに造営された二大官寺の一つで、南区九条町(九条大宮)に所在する真言宗寺院です。 
 丈が1丈の金剛力士2像(運慶湛慶作)を安置していたので二王門とも称された。しかし、明治元年10月21日の例月法要の夜の失火で門と共に焼失。明治28年に蓮華王院(三十三間堂)の西大門である九頭竜門を移築したと云う。重要文化財。

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東寺五重塔

 国宝で高さが54.8mあり、木造の塔としては日本一だそうで京都のシンボルとなっています。

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2014年2月21日 (金)

鴨東地域の移り変わり 7の7(最終回)

[4] 近代以降の岡崎地域 3 

《博覧会等の開催と諸施設建設》

疏水べりから東方を望む

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 都市基盤整備事業の進行と共に諸博覧会などが開催されます。そして、その跡地開発では美術館などの諸施設が建造されてゆき、いま見るような文化ゾーンを形成することになりました。
 それらを順を追ってあげてみます。

明治28年(1895) 
  第4回内国勧業博覧会
  大極殿・応天門(模造)と平安神宮建設(遷都千百年記念
  祭)
  京都電気鉄道が日本初の電車営業運転を始める

応天門(平安神宮)

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明治30年(1897) 
  京都博覧会(以後毎年開催)
明治32年(1899) 
  武徳殿(大日本武徳会本部)建設

武徳殿

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明治36年(1903) 
  京都市立動物園開園(皇太子嘉仁親王成婚記念=後の大正
  天皇)
明治37年(1904) 
  岡崎公園開園(内国勧業博覧会跡地)
明治42年(1909) 
  商品陳列館(現・国立近代美術館分館)
  京都府立図書館開館(京都御苑から移転)

府立図書館エントランス上部

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大正 4年(1915) 
  大典記念京都博覧会
  勧業館(昭和9年室戸台風で倒壊、同12年再建)
大正 5年(1916) 
  岡崎公園運動場開設
大正 6年(1917) 
  岡崎公会堂建設(現・京都市美術館別館)
   (ここで全国水平社の創立大会が開催された)

水平社創立大会記念碑

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大正12年(1923) 
  東宮殿下奉祝 万国博覧会参加50周年記念博覧会
昭和 3年(1928) 
  大礼記念京都大博覧会
昭和 8年(1933) 
  大礼記念京都美術館(現京都市美術館開館)

京都市美術館

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昭和35年(1960) 
  京都会館開館(第一ホール立替と全体の再整備のため休館
  中)
昭和61年(1986) 
  京都国立近代美術館開館

本シリーズは今回にて(完)