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京都の移り変わり

2018年4月27日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 3

3. 日本で最初の小学校設立

 京都の再興と近代化では、「官」「民」挙げての努力がありましたが、前回に見た「産業振興と都市インフラ整備」は、「官」の主導によるものでした。
 今回は「民」つまり市民が大きな役割を果たして進められた、教育環境の整備=「小学校の創設による人づくり」を取り上げます。
 明治元年(1868)、江戸時代の庶民のための初等教育機関は寺子屋でしたが、これに代わる小学校を各町組に一校ずつ創設することが計画されました。
 特記すべきはその設立方法で、土地・施設などの一切を町組(住民)の負担により設置するというものでした。

 明治新政府は、明治5年(1872)7月に「太政官布告第二百十四号」により、日本で最初の学校制度を設けます。
 ところが!ナント!!京都ではそれに先駆けること3年、全国で最も早く明治2年(1869)、各町ごとに「番組小学校」を独自の方法で設立していたのです。

《太政官布告第214號》

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 太政官布告の一部を抜き書きしてみます、
「(略)自今以後一般ノ人民 華士族卒農工商及婦女子 必ス邑ニ不學ノ戸ナク 家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス  人ノ父兄タルモノ宜シク此意ヲ體認シ 其愛育ノ情ヲ厚クシ其子弟ヲシテ必ス學ニ従事セシメサルヘカラサルモノナリ(略)」としています。
 そして、そのあとに「幼い子供は男女を区別せず、小学校で学ばせなければその父兄の落ち度とするゾ!」として、「屹度(強く)申し付けるからナ」と云った感じで権柄尽くに命じています。この高圧的なところは、現代の感覚からするとむしろ可笑しさを覚えます。
 しかし、寺子屋の頃は女子は学べなかったようですから、画期的な学制といえます。

 明治元年、京都府は小学校設置にあたって、近世までの住民自治組織「町組」を改組します。
 そして、住民自治の組織である町組の再編と併せて、各町組の町会所に附設する形で1校ずつの小学校設置を決定したのです。
 翌明治2年、さらに町組の編成替えをして上京・下京ともに各33町組、計66町組としました。そして、この再編に合わせて各町組に番号を付して「番組」としたのです。
 こうして、番組ごとに上京・下京とも32校ずつ、計64校の番組小学校を一斉に建設・開校しました。
 【註】:学校数が番組の数と同じ66校ではなく2校少ない64校となったのは、番組の区域が狭小であるため上京では八番組と九番組で1校(のちの仁和校)を、下京は二十二番組と三十二番組で1校(のちの淳風校)を建設したためでした。

 こうして、全ての番組で小学校を建設・運営することとなり、そのため、番組の有力者が用地を寄付し、建設と運営のための資金は竃金あるいは醵金により、つまり住民が分担金を出し合い独立採算で学校を設置しました。
 その際、番組によっては会社組織(小学校会社)を設け、集まった資金を運用してその利益を充てましたが、資金が不足する場合には10年返済の条件で府から貸し出しを受けました。

 このとき、自分達の番組小学校として、教室等の教育施設だけではなく、住民自治に必要な町会所等の施設が併設されました。そして、総合庁舎的に京都府の出張所としての機能も持たせるよう構想されたようです。
 こうした設置の経緯から、現在に至るまで小学校と地域(住民)との結びつきには強いものがあるのです。
 各校が所蔵する資料・沿革史などによると、自治・行政機能を果たす施設が校舎の前面に配置され、教室などの施設はその背後あるいは上階に付設する形で配置されたようです。
 教育施設と同居していた地域行政・住民自治のための施設としては、番組役員の詰める役場・町総代溜・総代溜・区内事務室など、そして巡査詰所や消防の詰所、防火や時刻を知らせるのための太鼓望楼などが設けられた。

《旧有済小学校の太鼓望楼》
 太鼓を叩いて番組の住民に時刻や火事を知らせた。各校に設けられていたが明治末には姿を消し、残るのはこれだけとなり登録有形文化財に指定されている。
 昭和に入って建て替えに際して屋上に移設された。


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 なお、近年は小中学校の統廃合が進んでいますが、校舎などは歴史的価値があるため、新しい機能・役割をもって引き続き保存活用されているものが多い。
下京第三番組小学校(明倫小学校)⇒京都芸術センター
下京第十一番組小学校(開智小学校)⇒京都市学校歴史博物館
下京第十八番組小学校(菊浜小学校)⇒ひと・まち交流館京都
ほかに、第二日赤救命救急センター・こどもみらい館・教育相談総合センター・養護学校・特別養護老人ホームなども元小学校の施設が活用されている。

《京都芸術センター(元・有隣小学校)》

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《京都市学校歴史博物館(元・開致小学校)》

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【註】:ちなみに、その後、地域行政組織の単位名称は「番組」から、明治4年(1871)に「区」へ、明治12年(1879)には「組」へ、そして明治25年(1892)に「学区」へと変わりました。
 「番組」から「組」の時期までは小学校名称は番号だったのが、「学区」に変わった時にそれぞれに固有の名称が付けられました。その命名の仕方は地元の町名に合わせたり、平安京内裏の施設名や条坊名、四書五経などの漢籍から選んだ熟語と云ったように、学区ごとに自由に選んで命名しています。
 また、昭和16年4月には「小学校」が「国民学校」と改称されます。そして、この時期をもって地域が学校を運営する「学区」は終り、小学校の土地・建物といった学区財産は京都市へ移管(寄附)されました。
 しかし、「学区」がかつてのような行政上の単位でなくなっても、また、住民自治の単位であった旧番組小学校が統廃合で無くなっても、依然として現在に至るまで「元学区」が行政からの伝達単位として機能し続けています。

2018年4月20日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 2

2:産業振興とインフラ整備

① 産業振興
 東京への遷都によって京都は政治面での再興は望むべくも無いことから、危機を乗り越えるためには産業振興を拠り所として経済的な復興を目指すことになります。
 こうして、京都の再生と復興を懸けて、「京都策」と呼ばれた近代的な殖産興業政策に取り組みます。

 欧米の最新技術を導入して勧業事業に取り組むため、明治3年(1870)10月に舎密局を、明治4年(1871)には産業振興を図って勧業場を設置します。
 舎密局では、ドイツの化学者ワグネルを招聘して新技術の導入を図るだけではなく、人材育成のため科学技術の教育・研究にも取り組みました。

《ワグネル》
 
岡崎公園 府立図書館の脇にある。島津製作所の創業者島津源蔵もワグネルに教えを受けた。

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《舎密局跡

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 産業振興のための中枢組織である勧業場は、欧米の先進的な技術を導入して諸々の製造施設を設置します。このために、産業基立金として国から15万円を借り入れました。

《勧業場址碑》

 元長州藩屋敷跡で払い下げをうけて常盤ホテルとなる。(その後、京都ホテルから京都ホテルオークラに)

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 殖産興業策の実施にあたって、とりわけ大きな影響をもたらしたのが琵琶湖疎水の開削でした。
 当初の目的は、水運・灌漑・上水道・水車による動力でした。しかし、水車を動力源とする計画については、疎水を利用した水力発電に計画変更されました。
 明治18年(1885)琵琶湖疎水工事を起工、明治23年(1890)には疎水工事が完成して、翌年には蹴上水力発電所が送電を開始します。

《蹴上発電所》

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 産業振興に関して主なものをランダムに挙げて見ると、京都電燈会社の設立と火力発電所設置、京都織物会社・京都陶器会社の設立営業、京都電気鉄道が開業、京都電話交換局の設置などが挙げられます。
 
 ところで、明治初期のそうした難儀の折も折、米価が非常に暴騰して府財政が困窮したため、救貧のための備米(つみまい)50万石の下付を太政官に出願し、東京へも出向いて行って陳情しました。
 その結果、請願が認められて産業基立金として5万両を下げ渡されました。(【註1】参照)
 さらに、翌3年7月には再び5万両の追加下付金があり、このときの政府の措置は京都にとっては空前の恩恵とも云えるもので、俗に「朝廷からのお土産金」とも「天皇から京都への手切れ金」とも称されたそうです。
 ちなみに、明治2年に「両」を「円」に改めているため、二度の下げ渡し金は合計で10万円の下付金となった。(【註2】参照)
 この10万円を明治3年から同13年までは京都府で管理運用していたが、同14年に上・下京の両区役所へ移し、両京連合区会の評決により公債証書を購入しました。そして、さらに利殖方法を工夫したところ、同22年には元利合せて39万6,970円50銭の多額を数えるに至ったそうです。
 京都市は、これを明治23年(1890)に完成した第一琵琶湖疎水の工事費として支払うこととしました。そして、翌年には蹴上に水力発電所が建設され、琵琶湖疎水は京都の再生と近代化に大きく貢献したのです。

【註1】明治3年3月付太政官示達「今般格別之御詮議を以て其府下人民産業基立金として五万両被渡下候間、取計方行届候様、御沙汰候事 太政官」
【註2】昔のお金と今のお金の価値を比べるのは簡単なことではありません。人々の生業や賃金、生活様式も違い、生活に必要な用品も異なるからです。物価も賃金水準も年々変化しているので、同じ明治時代でもその前半と後半では大きな違いがあったでしょう。
 明治5年の米価を基準にして比較すると、当時の1円は現在の1万円位に相当するようですから、下付金の10万円はざっくり言って今の10億円程度に相当するのでしょうか。



② 都市インフラ整備
 明治28年(1895)4月から7月まで開催された「第四回内国勧業博覧会」は、京都復興の成果を内外に広く喧伝するイベントとなりました。
 この内国博覧会は、それまで東京で開催されていたものを京都へ誘致することに成功したもので、「平安遷都1100年記念祭」の一環として岡崎で開かれ、その入場者は最多の114万人を越えたと云う。
 そして、平安神宮が建立され、時代祭の始められたのもこの時でした。
 なお、京都電気鉄道が日本で最初の路面電車を塩小路東洞院と伏見油掛の間を営業運転した電車が、この内国博覧会開催の時に岡崎まで路線が延伸されました。

《電気鉄道発祥地碑》

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 そして、インフラ整備という点では、明治末期の明治41年(1908)から4年間をかけて、「三大事業」と称した大規模にして近代的な都市基盤づくり事業を実施して完成しています。
 一つは、第二琵琶湖疎水の開削。
 二つは、第二琵琶湖疎水を利用した上水道の整備。
 三つは、道路の拡張・延長整備と市営電気軌道敷設。
 これらを集中的に実施したことで、京都市街地の都市基盤整備は飛躍的に進みました。

2018年4月13日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 1

このシリーズの内容
 今 回:1. 明治政府の成立と東京遷都
 次 回:2. 産業振興とインフラ整備
 次々回:3. 日本で最初の小学校設立

1:明治政府の成立と東京遷都

 慶応3年(1968)10月に大政奉還、同12月に王政復古で幕府が廃止されて、倒幕派(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)による明治政府が成立します。
 そして、翌4年(1868)9月8日に「明治」と改元しました。なので、言ってみれば今年はちょうど明治150年にあたります。
 延暦13年(794)、桓武天皇が都を京都に移し平安京と称して以来、明治2年(1869)まで千百年もの長い間、京都は王城の地(首都)でした。
 けれども、江戸時代も中期以後になってくると徐々に政治の中心は江戸へ、経済の中心は大坂へと移っていき、王都としての京都はその地位が徐々に低下していきます。しかし、古くから受け継がれてきた伝統芸能をはじめ、さまざまな文化の継承や、天皇のおられる王城の地としての自信と誇りは保っていました。

《二条城二の丸御殿》
 徳川家康が将軍の宣下を受けたのも、徳川慶喜将軍が在洛中の40藩重臣を招集して大政奉還を諮問したのもここでのことでした。
 つまり、江戸幕府(徳川幕府)の始まりも、終焉を迎えたのもここだったのです。

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《京都御所  建礼門》
 御所の正門です。背後に見える大きな屋根は紫宸殿で、即位礼など重要な儀式が行なわれるときに建礼門が開扉された。

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《御常御殿》
 御池庭から見た御常御殿。天皇の住いで、儀式・対面のための場所や神器を納める部屋もあった。

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 ここで、江戸末期から明治維新にかけての、京都の変化を大雑把に見てみましょう。 

慶応2年(1866) 12月25日 孝明天皇が崩御
慶応3年(1867)正月9日 皇太子が天皇の位を受継ぐ
 同3年(1867)10月14日 徳川慶喜が大政奉還を請う
慶応4年(1868) 7月17日  江戸で政務を執り東京と 改称する
   同年 8月27日  皇太子が御所紫宸殿で即位し明治 天皇となる
   同年 9月8日 「明治」と改元され明治元年となる
明治元年(1868)10月13日 天皇が東京へ行幸
   同年 10月13日 江戸を東京と改称
   同年 12月22日 天皇が京都にひとまず還幸
明治2年(1869)2月24日 太政官を東京に移し京都に は代理者の留主官を置く
   同年 3月28日   再び天皇が東京に行幸(崩御まで東 京に居住)

 江戸幕府(徳川幕府)が崩壊して、新政府の樹立で明治維新を迎えると、初めは京都に中央政府が設けられました。
 天皇が最初の東京行幸から戻られた翌年の正月6日、京都の町人総代として各町から1人ずつを建礼門前に召され、紫宸殿を拝して天盃を賜る栄誉に浴します。

 しかし、明治2年(1869)、正式に東京遷都の勅(天皇の命令)が出されることもなく、天皇皇后が再び東京に行幸啓されて東京城(元・江戸城)に入城、三種の神器も奏された。
 そして、政府の最高機関である太政官が東京へ移設されたのをはじめ、京都にあった中央行政機関も廃止されて、事実上の東京遷都が行なわれたことで京都は衰退に追い打ちをかけられます。

 かつて、天皇の住いである「御所」の周囲は、皇族や公家達の屋敷が建ち並ぶ公家町でした。
 しかし天皇だけではなく、皇族・華族(公家)とともに有力商人たちもが東京に引き移ってしまったため、一帯はすっかり寂れ果ててしまい、さながら「狐狸の棲家」といった様子になったと云う。
 現在の御所と京都御苑は、その四囲が寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通沿いに石築地で囲まれ、都会の喧噪と隔絶した緑の豊かな空間となっています。これは、かつてあった多くの公家屋敷を取り壊してできた跡なのです。

《清水谷邸の椋》
 御所の南西角の近くで公家の清水谷家屋敷の跡です。この椋は幹周り約4mで樹齢300年程とされる。
 幹の左脇遥か後方に「禁門の変」で知られる「蛤御門(新在家御門)」が見えている。

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 幕末の元治元年(1864)7月19日、御所蛤御門付近で尊王攘夷派(長州藩)と公武合体派(会津藩・薩摩藩など)が起こした「禁門の変」では、御所蛤御門付近と長州藩屋敷(今の京都ホテルオークラ)付近から出火して、21日まで燃え続けた。
 この夥しい被災で京都市街地の大半、約800町・27,517軒の家屋が焼失したが、この大火は「どんどん焼け」とも「鉄砲焼け」とも云われた。
 そして、この大火による被災地の復興は明治維新にまで延引したため、京都にとっては近代化の事業とともに大きな課題になったようです。


 ともあれ、衰微の危機に瀕した京都は、復興と近代化をかけて起死回生の策を講じる必要に迫られます。

 次回と次々回の2回にわたって、どのような復興策を採ったのかを見たいと思います。

2017年12月22日 (金)

「伏見城」は幾つあったの? (2の2)

2. 指月の丘(指月の森)とはどこ?

 慶長大地震で「指月城」が倒壊した後、指月の丘から木幡山(伏見山)に移り「木幡山城」として再建します。その場所は、いまの明治天皇陵のある一帯でした。

 それでは、秀吉が指月隠居屋敷・指月城を築いた「指月の丘(指月の森とも)」と言うのは、どのようなな所だったのでしょうか。

 前回の記事で記したように、指月城が築かれた指月の丘というのは、現在の桃山町泰長老の一帯にあたります。
 ところが、そこは明治末から終戦までは陸軍の京都師団工兵隊が駐屯し、以後は観月橋団地・桃山東合同宿舎などが建てられました。そのため現在では、地表に現れた遺構の残存は見ることができません。
 しかし、4度にわたる発掘調査の結果、とりわけ平成27年(2015)の調査では、石垣や北堀跡と見られる遺構、金箔瓦などの遺物が見つかっています。
 このことから、一帯の現在は団地や民家が密集していてるため、広範囲にわたる発掘調査は困難ながらも、やはりこの辺りが指月城跡であった可能性が強まったとされています。
 そうした発掘調査の結果や地形などから推定される指月城の範囲は、東は船入通から西の豊後橋通(国道24号)までの約500m、南は宇治川北岸の崖から北の立売通までの約250mと見られます。

指月の丘と指月城があったと見られるところの現在。

《指月の丘の東側・・・舟入通から見た傾斜面》
  宇治川から指月城の東側へに引き込まれた舟入(水路)の跡が現在の舟入通です。南北が約300m・東西は約90mです。

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《指月の丘の西北部・・・豊後橋通(R24)と立売通が交差する地点の南東角》
  集合住宅のある辺りから石垣が発掘された。石垣の方向から城の北西角にあたると思われるそうです。

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《指月の丘の南側・・・宇治川北岸の崖》
  現・外環状線道路沿いにある西岸寺の裏、この崖上が指月の丘(指月の森とも)にあたる。月橋院はここの少し東方にある。

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《指月の丘の北側・・・大光明寺陵参道下の立売通》
  参道から立売通に落ち込む斜面が指月の丘の北端になる。この大光明寺陵の辺りに本丸があったのか。

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 それでは、『山州名跡志』から「指月」の記述を見てみます。
「指月 地名 橋ノ北東ニ至ル二町餘ノ内ヲ云フ 此ノ地景色アリ。東南西ニ渺々タル流アリ。巽二巨椋ノ入江。東ニ伏見ノ澤アリ。爾バ便チ月ヲ愛スルニ無雙ノ景色也。故ニ此ノ名ヲナス地ニ月橋院在リ。此院ノ後ノ丘ノ上。北ノ方二町許ニ東西ニ通ル街アリ。是ヲ立賣ト號ス 秀吉公在城ノ時開ク所也。指月ハ此街ヨリ南  東西三町許ノ惣名也」としています。
【註1】:上記引用文冒頭の「橋」は「豊後橋(現・観月橋の辺り)」を指す。文祿3年指月城と対岸の支城向島城との間の宇治川に長さ140間(約250m)の豊後橋を架けた。小倉まで巨椋堤を築造して、大和街道に通じている。
【註2】:引用文中の「月橋院」は曹洞宗寺院で、現在も宇治川北岸の京都外環状線の北側道路沿いにあり、その背後(北)の崖上が所謂「指月の丘」です。
【註3】:同じく「立賣」は指月の丘の北側にあたります。現在のJR桃山駅南側の町名が「桃山町立売」、西の豊後橋通(国道24号)と東の船入通との間を東西に通っている道が「立売通」です。

 つまり、「指月の丘」とは眼下の宇治川に架かる豊後橋の北詰にあたり、東西2町余りの丘陵を云う。
 東には伏見の沢、宇治川の南には巨椋池を見晴るかす地で、古く平安時代以来、月を愛でるのに無類の場所として知られていたようです。
 水面に映る月影が四ヶ所に見えることからこの丘陵地は、旧名を「四月(しげつ)の丘」と言ったが、後に「指月(しげつ)の丘」と書くようになったそうで、地名はこうしたことを由来としていると云う。

 ちなみに、指月城の次に築かれた木幡山城があった木幡山(伏見山)については、『山城名跡巡行志』に次のように記述しています。
「木幡山 同所ノ西ニ在  古城山半ハ木幡山也  木幡山伏見山元ト一山也  東ヲ木幡山ト謂  西ヲ伏見山ト謂」 
 *「同所」とは、古城山の東方にある八科峠を指している。また、「古城山」と云う地名は現在の地図にも載っており明治天皇伏見桃山陵のある一帯です。
 木幡山城(伏見山城)が廃城となった後、木幡山と伏見山とを合わせて古城山(故城山)と称されることになったようです。

 ところで、指月の丘と木幡山(伏見山)、これら伏見の地に政権があったのは約30年間です。そのうち徳川家康が木幡山城を再建してから廃城までの期間は20年です。
 そしてこの間、初代の家康から秀忠・家光に至る三代にわたり、伏見城において征夷大将軍の宣下を受けています。
 また、家康が在城したのは江戸城よりも伏見城の方が長かったとも見られるようです。このため、264年間続いた江戸幕府(江戸時代)ですが、その最初期の徳川政権の主要拠点は京都伏見だったとも云えるようです。
 その意味で、徳川家康が開いた幕府(徳川幕府)の揺籃期は、「江戸幕府」ではなくて「伏見幕府」と云ってもよいのではと見る向きもあるようです。

2017年12月15日 (金)

「伏見城」は幾つあったの? (2の1)

 唐突ですが、「伏見城」が幾つもあったということを知りませんでした。
 伏見城といえば、現在の伏見桃山丘陵にある明治天皇陵敷地の北端部分とその北側一帯が本丸跡、そして、そこから少し北西寄りのところに天守があったことを知るだけでした。
 ところが、いわゆる「伏見城」というのはこの一つだけではなく、全部で四つ(四度)も築造されており、その位置も移り変わっていたのです。
 現在、明治天皇陵の北側一帯は伏見桃山城運動公園になっており、その傍に「伏見桃山城」の大天守と小天守が聳えています。ところが、これはイミテーションで昭和39年(1964)に建造されたコンクリート製の城なのです。

《現在の「伏見桃山城」》

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 大天守は5層6階で小天守は3層4階、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」に建設されたが、平成15年(2003)に遊園地は閉園されている。

1. 伏見城の築城から破城まで

 太閤となった豊臣秀吉が最初に伏見「指月の丘」に築いた城跡、そしてそのあと幾度か築かれ、最後に徳川幕府によって廃城された「木幡山」の城、それらの「伏見城」跡とされる一帯を見に行ってきました。

① 秀吉の「指月屋敷」=最初の伏見城
 豊臣秀吉は、天正19年(1591)甥の豊臣秀次に関白職と聚楽第を譲り、自身は太閤と称される。
 そして、翌文祿元年(1592)伏見の「指月の丘(指月の森とも)」に隠居するための「指月屋敷」を建てます。その場所は、現在の桃山町泰長老の辺り、JR「桃山」駅南側の一帯ということになります。

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 なお、これは隠居するための屋敷ですから、城と云うより邸宅として築かれたもののようです。

② 秀吉の「指月城」=2番目の伏見城
 ところが、文祿2年(1593)秀吉の側室である淀君に秀頼が生まれ、秀吉と秀次との関係が微妙なものとなり、秀次を跡継ぎとしていた考えを変えます。そして、秀次に謀反の疑いをかけて高野山に追放して自害させ、聚楽第は破却してしまいます。
 また、明の使節を迎えて講和交渉を行なうのに相応しい施設として、立派な城郭を必要としていたこともあり、文祿3年(1594)隠居屋敷として築いた「指月屋敷」を、天守や堀を備えた本格的な城郭「指月城」とすべく、大規模な整備拡張をおこないます。
 この時、宇治川を挟んだ対岸(南側)の向島に支城の「向島城」をも築き、宇治川には「豊後橋」を架橋します。

《大光明寺陵》

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 北朝の光明天皇・崇光天皇の陵ですが、船入のすぐ傍であるこの一帯に天守があったのか。

 しかし慶長元年(1596)、近畿一円に発生した巨大地震で、指月城や大名屋敷が倒壊しただけでなく、洛中の御所・寺社・民家にも甚大な被害を引き起こしました。
 このため、指月の丘の隠居屋敷と指月城が存在したのは僅か4年という短命の城でした。

③ 秀吉の「木幡山城」=3番目の伏見城
 慶長2年(1597)、秀吉は地震で城が倒壊してしまった指月の地を放棄して、そこから東北へ約1Km離れた木幡山(伏見山とも)に新たな「木幡山城」を築いて、完成すると秀頼とともに入城します。
 城の位置は、現・桃山町古城山(明治天皇陵)に本丸が、少し北西の現・桃山町大蔵に天守があったようです。

《明治天皇陵》

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この辺りに木幡山城の本丸があった模様。

 そして、城下の町づくりとともに水路および陸路の交通網整備がなされ、伏見は全国統治の拠点・政治都市となったのです。
 慶長3年(1598)秀吉はこの木幡山城で病没して、秀頼は大坂城に移り徳川家康が替わって入城します。

④ 家康の「木幡山城」=4番目の伏見城
 慶長5年(1600)、徳川家康が上杉(会津)征討に出た隙を狙った「伏見城の戦い(関ヶ原の戦いの前哨戦)」で、西軍の総大将石田三成等の猛攻によって木幡山城は落城・焼失します。
:今日の朝日新聞朝刊に、このとき焼失した城跡で赤く変色した石垣の根石と、それを覆う焼けた土が出土したという記事が載っていました)
 ところが、続く慶長6年(1601)の「関ヶ原の戦い」では、徳川家康の率いる東軍が勝利します。そして、ついに覇権を握ります。
 家康は、慶長7年(1602)焼失した木幡山城を再建し、大坂城から伏見城に帰って政務を執ります。翌慶長8年(1603)に征夷大将軍に補任されて江戸幕府を開きますが、江戸城と伏見城を行き来していました。
 翌慶長10年(1605)に将軍職を三男の秀忠に譲ります。

⑤ 幕命により木幡山城は廃城
 元和9年(1623)、秀忠の次男である家光が伏見城で将軍宣下を受けた後、破壊されました。

《廃城破壊された木幡山城の石垣の石》

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 いま私達が何となく思い浮かべる「伏見城」は、指月城(上記①②)ではなく、木幡山城(上記③④)なのです。

 ところで、初期の伏見城である指月城については記録が残っていません。そのため、『京羽二重織留』『山州名跡志』など地誌の記述は、文祿3年に「指月隠居屋敷」を城郭として拡張整備した「指月城」と、慶長2年に築城されて慶長5年に伏見城の戦いで焼失した「木幡山城」とを混同しているように思われます。
 たとえば、『山州名跡志』は次のように記しています。
「故城 伏見山ノ内御香宮ノ東ニ在リ 文祿三年秀吉公ノ造営也。奉行人佐久間河内守。瀧川豊前守。水野龜之介。石尾與兵衛等也。其後慶長五年七月晦日。石田三成ガ逆心同與力金吾秀秋。宇喜田秀家等。此城ヲ攻ル。江州永原ノ兵士敵ニ通ジテ落城ス。城ノ内ニハ鳥居彦衛門。内藤彌次衛門等討死ス。」
つまり、前段の文祿3年の件は指月城(指月の丘)の築城に関わる記述であり、後段の慶長5年の件は家康が上杉攻略に向かった隙を衝いて西軍の石田三成等が東軍鳥居元忠等が守る伏見城(木幡山城)を攻め落とした記述であって、両方の混同が見られる所です。

(次回へ続く)

 

2017年8月25日 (金)

儚くも消えた聚楽城 2の2

2. 聚楽第の築かれた場所と規模は?

 聚楽第の四囲・規模と構造については、記録が残っておらず確かなことは判らないため、諸説があるようです。 
 それらは、いずれも北限を一条通とする点ではほぼ共通していますが、その他はばらついています。
  「南北は一條より二條迄 東は堀川 西は内野をかぎりて城地として聚楽と號し給ふ」(『京羽二重織留』)、『雍州府志』も同じ範囲を記す。
  「東は大宮より西は千本迄 北は一條に限り南は春日今いふ丸太町に至る」(『京町鑑』)、『菟芸泥赴』『京都坊目誌』も同じ範囲を記している。
  「一條の南、二條の北にして、東は大宮を限り、西は朱雀通今の千本通なり を堺とす」(『都名所図会』)としています。
  多く残る洛中洛外図屏風からは、外堀を含めると東は大宮通、西は千本通、北は元誓願寺通、南は下立売通を範囲とする見方もあるようです。

松林寺(新出水通智恵光院西入南側)
 松林寺の境内は周辺より低い凹地なっていて、新出水通に面した寺門を入ると、かなり低いところに本堂や墓地がある。これは、聚楽第南外堀である天秤堀の跡だとされています。

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 このように、聚楽第の規模について記述に違いが見られるのは、本丸と内堀以外のどこまでを含めて考えるかで大きな違いが出るようです。つまり、外堀までとするのか、あるいは周囲に設けられた諸大名の屋敷までを含めるのかによって、その範囲は変わってきます。
 聚楽第の周囲、特に東側には諸大名や武家の屋敷が建ち並びました。『京都坊目誌』には、それらの人々の名前に由来するとして伝承される多くの町名が記されており、そうした町名は約25にも上っており、現代の地図でも目にすることができます。

如水町の仁丹町名表示板
 黒田如水(名は官兵衛孝高)の屋敷跡であることが町名の由来とされる。

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 さらに、聚楽第の園池、通用門などの城郭構造、あるいは配下の武士達の組屋敷に由来するとされる町名も約30に上ります。

亀木町の仁丹町名表示板
 聚楽第庭園の池に、木製の噴水用巨亀が設けられていたことが町名の由来とされる。

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 先に見たように、聚楽第の確かな位置と範囲は不明ですが、従来の発掘調査結果では、一条大宮の民家敷地から花崗岩の礎石、智恵光院中立売では金箔を貼った鬼瓦と軒丸瓦そして耳付き茶壺・天目茶碗、丸太町智恵光院付近で金箔軒瓦が発掘されているようです。
 しかし、聚楽第跡と見られる一帯は現在では住宅密集地となっているため、従来から大規模な発掘調査おこなうことは極めて困難だったのです。

梅雨の井
 『京町鑑』には「梅雨の井」の名称由来を、「清水町 此町東側中程人家の裏に井有 梅雨の井とよぶ 昔聚楽御城有し時太閤秀吉公御茶の水にし給ふ 井の深さ一丈餘梅雨の入より水井筒の上ヘ越して外へ流れわたる 因て清水町と云」と、井と町名の由来を記している。
 今では井桁も無くなり、打ち込まれていた手押しの汲み上げポンプは破損しています。

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 ところで、2015年10月〜翌16年1月にかけて、京都府教育委会文化財保護課と京都大学防災研究所が共同して実施した調査では、地面を叩いて発生させた地震波を検知する「表面波探査」と云う手法を、考古学調査に適用しました。
 これは、堀などの地盤の弱い所では、地震波の伝わり方が遅くなる性質を利用することにより、地下の遺構を探るというものだそうです。そして、この方法で道路沿いに44地点約5,400mにわたって探査しました。
 その結果、本丸などの外側、東・西・北の三方に5つの外堀があったとみられ、南側からは検出されなかったというのです。
 この探査結果から、聚楽第の範囲は東西が約760m・南北が約800m以上となって、従来考えられていたよりも約1.6倍に広がる見込みであることから、やはり単なる公邸にとどまるものではなく、天守や外堀を備えた城郭であったとみられるそうです。
 こうしたことから、単なる政庁を兼ねた邸宅といったものではなく、秀次が聚楽第を譲り受けたあとで、軍事拠点としての城郭構築を企図していた可能性が見て取れる結果が出たようなのです。

2017年8月18日 (金)

儚くも消えた聚楽城 2の1

1. 聚楽第の造営と破却

 天下を平定して文字通り「天下びと」となり、関白・太政大臣に任ぜられた豊臣秀吉は、天正15年(1587)平安京の大内裏跡である内野に、その地位にふさわしい政庁兼邸宅として聚楽第を造営して、大坂から移り住みました。
 そして完成翌年の4月には、この豊臣政権の京都における象徴とも言える聚楽第に、後陽成天皇の行幸が行なわれました。
 贅を尽くした荘厳で華麗な聚楽第のありさまを、『京町鑑』には「其構へ四方三千歩の石の築垣山のごとく 樓門を堅め鐵の柱銅の扉金銀を鏤め瑤閣星を錺り 御庭には水石を疊み花木を植さしめ造立し給ふ 結構譬るに物なし 城外の四方に諸侯の第宅をかまへ 樂を聚め觀樂を極め給ふによって 世人聚樂の城とも聚樂の御所とも称す」と記しています。

聚楽第跡の碑

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 また、日暮通の名称由来について『菟芸泥赴』には、「聚樂第の正門此街に當る。門の構造装飾極めて華麗にして。望見するもの日の暮るを知らずと。街名之に起る」書かれています。 つまり、日暮門があまりにも華やかで美しいため、それを眺める人々は日の暮れるのにも気がつかなかったと云うのです。

 実子に恵まれなかった秀吉は、天正19年(1591)養子とした甥の秀次(姉である日秀の子)に、関白職とともに聚楽第を譲り、自身は太閤となります。そして、秀吉自身は宇治川や巨椋池を望む指月の丘に隠居屋敷を造営します。これが初期の伏見城にあたります。
 しかし、聚楽第は完成から10年も経たない文禄4年(1595)、うたかたのように儚い結末を迎えます。
 秀吉の愛妾である淀君が実子秀頼を生んだのをきっかけに、秀次は秀吉に疎まれることとなるのです。
 そして、秀次は文禄4年(1595)6月謀反の疑いをかけられ、石田三成等の讒言もあって秀吉に高野山へ追放されます。そして、7月15日には切腹に追い込まれ、家臣5人も殉死します。
 秀次の首は8月2日に三条大橋西南の河原で晒し首にされ、その首の前で係累を根絶するために遺児(若君4人・姫君)や側室・侍女・乳母ら39人も公開処刑で斬首されました。刑場脇に掘られた大きな穴にその多くの遺骸とともに秀次の首を埋めて塚が築き、その塚の頂上には石塔を据えて「秀次悪逆塚」と刻まれた。「畜生塚」とも「せっしょう(摂政・殺生)塚」とも呼ばれたと云う。
 しかしその後、鴨川の氾濫などで塚は荒廃していたのですが、慶長16年(1611)角倉了以が高瀬川を開削しているときに墓石が発掘され、その地(木屋町通三条下ル)に秀次一族の菩提を弔うため瑞泉寺と墓を建立しました。

豊臣秀次と一族の墓(瑞泉寺)
 正面奥の六角石塔が秀次の墓とされ、その手前左右には遺児・妻妾など一族の墓がずらりと並んでいます。

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 秀次の切腹から程ない8月、秀吉は竣工後僅か8年にして聚楽第を徹底的に破却してしまいます。
 先に引いた『京町鑑』には、「關白秀次公に此御所を譲り給ひしに程なく秀次公滅亡有  殿舎四方の樓門等諸寺に分て荒廢す  其地今人家となり(略)聚樂といひ地名に呼ぶ  今 町の小名に舊名所々に殘れるのみ」と記しています。
 そして、聚楽第の建物は、その一部が築造中の伏見城に移築され、寺院へも寄進されたようで、西本願寺の飛雲閣・大徳寺の唐門はその遺構だとされます。

 

2016年12月30日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の2

2. 三本木町は何処へ?

 前回に見た東洞院通丸太町上ルに存在していた上三本木各町の移転について、『京都坊目誌』には次のように記しています。

 「寶永五年の大火に内裏炎上す。尋(つい)で築地の取擴けあり。東洞院より烏丸まで。北は下長者町より南は丸太町迄の町地を買収し。皇宮地に編入せらる。此時一町目より三町目の転地を命せらる。仍(かさね)て其替地たる丸太町の北。鴨川の西に移住す。今尚三本木の稱あり」と。

 東三本木通

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 西三本木通

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 そして、東洞院通についての記述では、「當時上長者町まで通ぜしが。寳永五年皇宮地に入るを以て。丸太町まで閉塞す。其間にありし町家を。河東二條に移転せしむ。今尚ほ新東洞院と云ふ。」
 さらに、「新東洞院町 新東洞院通二條下るより二王門までを云ふ。寶永五年の開発にして元東洞院丸太町以北、三本木一・二・三町目の町民を此に移す」と、鴨川の東側の二条通と仁王門通間の新東洞院通に移転させられたことを記しています。

 新東洞院通

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 このように、上三本木一町目から三町目の住民は、鴨川の西と東の2カ所に分かれて移転させられたのでした。

3. 移転して新たに開かれた町々

 ところが、移転させられたのは東洞院通から烏丸通沿いの住民だけではありませんでした。丸太町通から北側については、西は烏丸通から東は寺町通までの間の全ての民家が移転させられたのです。
 このように大規模な移転でしたから、移住先となった主な代替地だけでも次の4カ所に及びました。
 そして、人々が移住した先の町名や通り名には、旧地を偲んで次のような名称がつけられました。

① 鴨川西岸と河原町通の間で、丸太町の北側の一帯
 ここには先に書いた東洞院通丸太町以北の民家が移転しました。そして、旧地の通り名を採って、「東三本木通」「西三本木通」と名付けました。
② 鴨川東部(いわゆる河東)で、二条通と孫橋通の間
 ここには西は烏丸通、東は寺町通の間の丸太町通以北の民家が引き移りました。この鴨川東部の移転地では、通り名の全てが「新車屋町通」「新東洞院通」「新間之町通」などというように、旧地の通り名に「新」を付して「新◯◯◯通」という呼称にしました。
③ 寺町通と河原町通の間で、北は荒神口通から南は二条通に至る間
 ここへは丸太町以北の烏丸通東側にあった民家が移ります。そして、通り名は「新烏丸通」と命名されました。なお、天正期の秀吉による京都改造以来この一帯に輻輳して存在した多くの寺院は、賀茂川東部の仁王門通付近に移転させられています。
④ やはり寺町通と河原町通の間で、北は丸太町通から南は二条通までの間
 椹木町通烏丸から東の民家をここに移して、「新椹木町通」と称しました。

 それらの町の仁丹町名表示板

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   (追補 '17.1.11)
 『山州名跡志』中に、「三本木」の名称由来などの記述を見つけました。
 原文は仮名交じり文で読むのが煩わしいため、主要な点のみを現代文の体裁で要旨を記しておきます。

① 東洞院通の出水から南を上三本木町、下立売通の南を下三本木町と云った。
② 古老が云うには、平安時代にはこの辺りに監獄があり、その門外に三本の木(樗とも榎とも云われる)が植えられていた。これが地名「三本木」の名称由来となった。
③ 古くは、斬首された罪人の首は獄舎の木に懸けられた。このことから獄門と云った。

2016年12月23日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の1

1. 消滅した「上三本木町」

 現在の「三本木町」は、東洞院通の丸太町通と竹屋町通の間に位置する両側町です。

 三本木町の町並み

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 ところが、その南隣の町名は「三本木五町目」(竹屋町通と夷川通の間)となっていています。

 三本木五町目の町並み

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 「三本木五町目」が存在しているにもかかわらず、その北にあるはずの三本木一町目から四町目、そして南側の六町目以降が存在していません。
 これはどうしたことなのでしょうか? どのような事情があってのことなのか、大いに興味をひかれます。

 その辺りの事情を『京都坊目誌』の記述から見ていきます。
 同書の「三本木五町目」について説明した個所に、その答がありました。
 「東洞院通出水下る所を上三本木町と云ひ、一町目と呼ぶ。下立賣下るを二町目と呼び。椹木町下るを三町目と唱へ。丸太町下るを四町目と云ひ。當町に至り五町目となる。」としているのです。

 今では京都御所苑地となっていますが、かつての東洞院通には出水通と丸太町通の間に一町目から三町目までが存在したのです。
 そして、現在では丸太町下ルの町名は「三本木町」となっていますが、元々ここは「四町目」と称していたことが判ります。
 また、その南側(竹屋町通と夷川通の間)の現「三本木五町目」は、慶安の頃には「井筒屋町」「西井筒屋町」と称していましたが、明治2年2月に両町が合併して「五町目」という旧町名に戻したのだとしています。

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 そして、「三本木五町目」の南隣、つまり、夷川通から二条通までの現町名は「壷屋町」となっています。しかし、ここも始めは「三本木六町目」と称していたのですが、慶安期から現町名に改めたと記しています。(右の仁丹町名表示板、劣化が激しく見辛いのですが「壷屋町」のものです)

 以上に見てきたように、かつての東洞院通には北は出水通から南の二条通までの間に、「三本木一町目」から「三本木六町目」までの6町が連なって存在していたのです。
 ところが、丸太町通から北にあった一町目から三町目までの地は、宝永5年(1708)の大火のあと、京都御所が拡張されることになり、苑地に取り込まれてしまい消滅したのです。
 そして、その一帯に居住していた住民は立ち退きを余儀なくされ、代替地に移住させられました。

【註】「宝永五年の大火」とは
 宝永5年(1708)3月8日の午の刻(現在の正午12時頃)に油小路通姉小路下ル、西側二軒目の両替商伊勢屋市兵衛方から出火。強風のために東北方向また東南方向へと燃え広がり、多くの公家・武家屋敷や社寺が灰燼に帰し、御所までもが炎上した。その被害区域は東は鴨川、西は油小路通の西、南は四条、北は下鴨の河合神社辺りにまで及んだという。
 民家13,051戸、神社7、寺院74が焼失し、出火の翌9日未の刻(現在の午後2時)になって漸く鎮火したと云う大火事でした。

      《次回に続く》

2016年11月 4日 (金)

消えた大宮通 sign02  3の3

3. よみがえった大宮通

 文禄4年(1595)に聚楽第が破却されてその跡地一帯が町地化すると、大宮通と家並は復旧していきます。
 その大宮通が復活した部分(一条通と下長者町通の間)は、次のような状態でした。

 『京都坊目誌』には、「新大宮通 [一條中立賣間ナリ] 明治三十二年開通す。中立賣下長者町間を和泉町通と稱す。元と聚樂第内に屬し。清泉のありし所なり。元和元年新に之を通す」としています。
 一条通から南の下長者町通までの間、つまり糸屋町・和水町・東堀町の3町を通貫する道はもともと和泉町通と称していました。しかし、上記の引用文を見ると、糸屋町は他の2町とは少しばかり様子が異なっていたことが窺えます。
 再び『京都坊目誌』から引用しましょう。
 「糸屋町 和泉町通 [元大宮の西筋なり。明治三十二年末當町を北に開き四間道路とす。今俗に新大宮と呼べり] 中立賣上る所を云ふ。開通不詳。明治三十二年再開せり。」
 さらに、「元此地聚樂城東北の外壕たり。後ち之を埋め町地とす。文祿の文書に既に糸屋町とあり。一名を袋町と云ふ。明治三十二年迄袋地 [一方より通せず] たりしを以てなり。」としています。
 つまり、糸屋町の北端は一条通へ突き抜けていなかったのです。
 宝暦4年(1754)刊「名所手引京圖鑑綱目」(日文研所蔵)を見ると、和泉町通中立売から糸屋町を北行すると、一条通の手前で行き止まりの袋小路となっていることが見て取れます。ここを、明治32年末に北に向けて幅員7m余りの道として開き、これを新大宮通と称したと云うのです。

袋 町
 「新在家丁」の北側で、「ナシノ木丁(梨木町)」の西側にある「フクロ丁(袋町)」は北端付近で行き止まりとなっているのが判ります。
  (画像をクリックすると図が拡大します)

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 寛文5年(1665)刊の『京雀』にも、「しんさいけ町 此町の北に袋町とて只一町有」と出ています。 
 上図、フクロ町(現・糸屋町)の北端にあたる個所から南方向を望む。この辺りが行き止まりとなっていたのを開いたのです。横断歩道の所を左右(東西)に延びるのが一条通です。

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 そのあたりを、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』の記述からも見ておきましょう。
 「中立賣通」の個所に、「大宮西入 東新在家町」とあります。『京都坊目誌』によればこの「新在家町」は、元和期に町が開けて民家が建ち並ぶようになったことから新在家町と呼ぶようになったと云う。ここは、今、中立売通大宮にある新元町に該当します。
 そして、『京町鑑』は「此町北側中程上ル 袋町 此辻子行ぬけなし 同南側下ル 泉町」と続きます。この「袋町」は先に見たように、当時は行き止まりとなっていた現・糸屋町であり、「泉町」は後の和泉町で現・和水町ということになります。

新元町の仁丹町名表示板

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 なお、現在では糸屋町・和水町・東堀町(一条通から南の下長者町通まで)を通して大宮通としています。


 こうして、秀吉が聚楽第を築造したために、大宮通はその一部は中断したのですが、8年後には聚楽第が破却されたため、跡地が再び町地となって繋がったのです。
 ところが時代が降ると、今度は慶長7年(1602)に徳川家康が二条城を築造したために竹屋町通と押小路通の間が閉ざされてしまいます。

二条城二の丸御殿
 ここで大政奉還が議されました。

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 さらにその後、元祿16年(1703)には京都所司代屋敷の拡築で丸太町通と竹屋町通の間も閉塞してしまい、大宮通は再び部分的に途切れてしまって現在に至っています。