2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

京都の移り変わり

2020年4月24日 (金)

戊辰戦争と新選組

 戊辰戦争(戊辰の役とも)は、戊辰の年(慶応4年)に武家政権最後の江戸幕府の時代が、明治時代となった時期に1年半にわたって戦われた内戦です。
 慶応3年(1867)10月14日に大政奉還され、同12月9日には薩摩・長州と倒幕派公家が王政復古のクーデターをおこして新政府を樹立しました。
 将軍徳川慶喜は、京都守護職を解任された松平容保(会津藩主)、同じく京都所司代松平定敬とともに二条城から大坂城に退去しました。

 翌明治元年(1868)正月3日、京都南部の鳥羽で新政府軍と旧幕府軍の間で砲撃の戦端が開かれ、鳥羽の砲声を合図のようにして伏見でも市街戦が始まった。この鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の発端となったのです。
 はじめ、両軍は一進一退で拮抗していたが、翌4日、朝廷は薩長軍を官軍と認定したため、旧幕府軍は朝敵とされたことで動揺が広がり、諸藩は次々と幕府側から離れて薩長軍側につきました。

戊辰役東軍西軍激戦之址(伏見区納所下野)

Jpg_20200424114001

戊辰戦争戦死者慰霊碑
 碑文には次のようなくだりがある。「それぞれが正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により 或る者は官軍となり 或るは幕軍となって 士道に殉じたので有ります」

Photo_20200424114701

 こうなると、それまで京都守護職のもと「会津藩預かり」で幕府の非正規の警察組織として、幕府を転覆させようとする洛中の尊王攘夷派の志士を不逞浪士として厳しく弾圧していた新選組は厄介者扱いをされることになります。それでも幕府の武士として戦う道を選び、会津藩兵とともに旧伏見奉行所に立てこもりました。

伏見奉行所跡(伏見区西奉行町)

Photo_20200424115901

 しかし、御香宮に陣を敷いた薩摩・長州の新政府軍の猛砲撃を受けます。この時の戦闘では伏見の市街地南部のかなりが焼失しています。

料亭「魚三楼」に残る弾痕(伏見区京町三町目)

Photo_20200424120201

 旧幕府軍・新選組は、新政府軍との戦いで兵力で薩摩長州軍を圧倒するものの、銃火器で劣ったため惨敗します。

 そして正月6日には、徳川慶喜は自軍を見捨てて松平容保などとともに大坂を脱出、さっさと江戸に帰って江戸城に入り新政府に対して恭順の意を表ます。

 以後、旧幕府軍・新選組は甲州勝沼の戦いで負流(新撰組解体)、江戸城を無血開城し、宇都宮の戦いで負け、幕臣の結成した彰義隊による上野の戦いで負ける。奥羽越列藩同盟を結成するも長岡・会津・仙台・庄内の各藩が敗北して瓦解する。
 そして、旧幕府軍最後の砦となったのが函館の五稜郭で、抗戦派の旧幕臣や土方歳三など新選組を引き連れた榎本武揚の軍でした。しかし、明治2年(1869)4月には新政府軍の猛攻撃の前に敗れて、1年半にわたる戊辰戦争は終決しました。
 新撰組副長の土方歳三は戦死、幕府海軍指揮官の榎本武揚は降伏。新撰組局長の近藤勇はそれより以前の下総流山の戦いで敗北、投降して斬首されている。

 幕府に仕えていた官軍の旧幕府軍は戊辰戦争に敗れて朝敵・賊軍となり、新政府軍がとって代わり官軍となりました。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われる所以です。いつの時代でも、常に正義が勝利するのではなく、道理とは関係なく強いものが勝つのであって、勝者が正義となるのです。



2020年4月10日 (金)

高瀬川

 高瀬川は鴨川西岸、二条橋すぐ下手で鴨川から別れて流れる幅6〜7mの浅い川です。南流して伏見に至り、宇治川そして淀川を経て大阪湾に流入しています。
 この川は、角倉了以・素庵の父子によって開かれた運河で、慶長16年(1611)に着工して同19年に開通しました。

「高瀬川開鑿者 角倉氏邸址」碑

Photo_20200409150001

 大正9年(1920)までの約310年間、大坂から淀川を経て、また宇治や琵琶湖から宇治川を経由して伏見京橋に着いた物資を、京都まで輸送するのに重要な役割を果たしたのが高瀬川でした。往時の川幅は今よりも約1m程度広かったそうで、伏見との間を物や人を載せた高瀬舟が上下していた。

一之船入

Photo_20200409150901
 ここから下流の四条通までの西岸に櫛のように7ヶ所の船入があったのですが、現存するのはこの一之船入だけです。

高瀬川『拾遺都名所圖会』から)
 *この絵図「高瀬川」と次の「池洲」は、図をクリックすれば拡大します。

Photo_20200409151501

生 洲『都名所圖会』から)

Photo_20200409151701
 一之船入の北に支流を作り魚を放流して販売し、また川魚料理を食べさせる料亭が軒を連ねていました。
 この一帯の町名「西生洲町」「東生洲町」は、これに由来しているのです。

「西生洲町」の仁丹町名表示板

Photo_20200410082201

 ところで話は変わりますが、かつて、高瀬川沿いの木屋町通には市電が走っていました。
 明治28年(1985)4月から7月まで、第四回内国博覧会が岡崎公園で開かれることになりました。この時、会場への足として七条停車場(現・京都駅)」から木屋町二条の間に京都市電「木屋町線」が開通したのです。東京以外の地で初めて開催された内国博覧会で、入場者数は114万人を数えたという。
 平安神宮が造営され、時代祭が始まったのもこの時でした。

 木屋町通、本名・樵木町通(こりきちょうどおり)はそれまで狭い道路だったのですが、電気軌道を敷設するために拡張したのです。
 そして、明治43年にはその軌道敷を拡張するため、高瀬川の幅3尺(約1m)を埋め立てられて、植えられていた柳の街路樹が伐採されたことで、それまでの風趣が失われたと言う。
 昭和元年(1926)以降「河原町線」が開通することで、その市電「木屋町線」も路線区間が順次廃止されて、翌年には木屋町線全線が廃止となりました。
 ちなみに、当時の路線経路は、京都駅前ー七条東洞院ー七条河原町ー木屋町五条ー四条小橋ー木屋町二条というものでした。


2019年12月27日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(3)

3. 「東山通」成立当時の地域の様子

 前回は、東山通(現・東大路通)がどのような順に整備拡張・新設されて、軌道の敷設と市電が開通したのかを見ました。
 今回は、それぞれの地域がその当時はどのような状態だったのかを、整備されていった順を追って見ていきます。

1) 三条東四丁(三条通)〜広道馬町(渋谷通)

① 三条通〜菊屋橋(白川)
 三条通の北にある孫橋通から南の古門前通までは、もともと取り立てて云う程の道はありませんでした。ここに町地を南北に貫通して道路を新設しました。
② 菊屋橋〜八坂神社石段下

《菊屋橋から見た白川》

Photo_20191205163801
 この白川に架かる菊屋橋から南は「こっぽり通」と称した幅員4m余りの細い道でしたが、これを拡幅しました。
 東山通の成立により、「こっぽり通」の呼称は自然消滅する。
③ 八坂神社石段下〜松原通
 祇園石段下から、南の安井門跡(現・安井金毘羅宮の辺り)を経て松原通まで通じていた、「くちなは(蛇)の辻子」と称する細い道を拡幅。
 東山通が成立したことで、「八軒(俗称・藪ノ下)」の呼称は自然消滅する。
④ 松原通〜広道馬町(渋谷通)

《梅林町の傾斜地》

Photo_20191205164401
 小島町・梅林町の一帯は東から西へ傾斜した地形で、明和年間の頃までは概ね菜園や葬送地でした。ここに盛り土をして、幅員5m程の道を通し「広道通」と称していました。これを拡幅して、僅か十余年前までは幽寂の地であったのが、交通上枢要の地域に変貌したと云う。
  
2) 三条東四丁(三条通)〜熊野神社前(丸太町通)

① 三条東四丁(三条通)〜冷泉通
 法皇寺北門前町一帯は道路を拡幅して、一筋西側の「西寺町通」に対応して「東寺町通」と称することとなる。
  法皇寺東門前町・寺南門前町も拡幅して、仁王門通から南は孫橋通で行き止まりとなっていたのを、南北に貫通する道路とした。
② 冷泉通〜竹屋町通

《琵琶湖疎水に架かる徳成橋》

Photo_20191205163802
 岡崎町字徳成地(現・岡崎徳成町)の畑地を南北に道を新設し、琵琶湖疎水に徳成橋を架橋する。
③ 竹屋町通〜熊野神社前(丸太町通)
 聖護院字山王(現・聖護院山王町)の田畑を南北に道路を新設した。

3) 広道馬町(渋谷通)〜妙法院前(七条通)

 渋谷通から南については広道通を拡張するとともに、妙法院前側町の大部分を占める妙法院から収公した境内の道を利用して道路を開いた。

 以上の区間については大正初期に開通していたが、以下の区間はずっと遅れて、昭和も3年に入ってからの開通でした。

4) 熊野神社前(丸太町通)〜百万遍(今出川通)
5) 妙法院前(七条通)〜東福寺(九条通)

 そして、最後に開通した次の区間は東山通ができてから約30年後、戦時中の昭和18年7月10日のことでした。
6) 百万遍(今出川通)〜高野上開町(北大路通)

  (以上の記事は主に『京都坊目誌』を参照しました) 



2019年12月20日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(2)

2. 東山通と市電「東山線」の開通

 道路の整備(拡張と新設)とともに、電気軌道の敷設と路線開通が進められました。
 まず最初は大正元年(1912)12月25日に、現・東大路通三条から五条通の南の馬町との間に市営電車を開通させて、その路線名を「東山線」としました。
 そして、翌大正2年3月にこの通り名を「東山通」と命名しました。

 ところで「東山通」は、かつては「東山線通」と呼称したことがありました。これは、市電の路線名称「東山線」を道路名称としても使用したのです。

《南門前町の仁丹》

Photo_20191202164201
 なお、旧称「東山(通)」は現在でも使用されており、「東山三条」「東山安井」など市バス停留所名や交差点表示に使われています。
《東山安井の標識》

Photo_20191202164301

 その東山通(現・東大路通)は、次のような順で道路を拡幅あるいは新設して軌道の敷設が進められ、市電東山線が開通していきました。    
1) 大正元年12月25日  
    三条東四丁(三条通)〜広道馬町(渋谷通)
2) 大正2年3月15日   
    三条東四丁(三条通)〜冷泉通
3) 大正2年4月5日   
    広道馬町(渋谷通)〜妙法院前(七条通)
4)  同  4月16日   
    熊野神社前(丸太町通)〜竹屋町通
5)  同  5月6日   
    冷泉通〜竹屋町通
6) 昭和3年1月13日   
    熊野神社前(丸太町通)〜百万遍(今出川通)
7) 昭和3年11月8日   
    妙法院前(七条通)〜東福寺(九条通)
8) 昭和18年7月10日  
    百万遍(今出川通)〜高野上開町(北大路通)

 ここで、京都における電気軌道開通の揺籃期を見ておきましょう。
《京都電気鉄道伏見線石碑》
 七條停車場前に(現・京都駅)

Photo_20191205162601

《伏見線終点(伏見油掛町)》

Photo_20191205162602
 まず、明治28年(1895)平安遷都1100年祭の年、2月1日に日本で最初の路面電車として、京都電気鉄道(略称「京電」)の伏見線が、七條停車場(東洞院塩小路)と伏見下油掛の間で営業運転を開始。4月には岡崎の第4回内国勧業博覧会々場に至る木屋町線が開通しています。
 そして、京電は順次に、営業路線を増やしていきます。
 その後、明治45年(1912)6月11日、京都市電気軌道事務所が発足して京都市営の路線が開設され、京電と京都市電が競合する時代となりますが、大正7年(1918)京都市が京電を買収し、市電の営業路線として一本化されました。

 なお、市電の路線全体としては、東は東大路通(東山通)・西は西大路通・南は九条通・北は北大路通を外周として、その内側に碁盤の目状に路線を開通させました。
 昭和33年には京都市電の営業路線は總距離が76.83Kmとなり、市民や観光客の足として最盛時の昭和38年度には乗客数が1日平均546,488人に達しました。
 しかし、全路線の乗客数は、昭和36年の2億2千万人をピークに減少の一途を辿り、昭和52年にはついに2千万人にまで落ち込みました。
 そして、自動車の普及とともに乗客数の減少で市電経営は悪化して、路線は順次に廃止へと追い込まれ、バス路線への転換が進みました。
 最後は、明治28年2月1日の京都電気鉄道による日本初の路線営業開始から85年間を経て、ついに昭和53年(1978)9月30日には京都市電の全路線が廃止となりました。

   【続く】



2019年12月13日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(1)

このシリーズは、次のような内容で3回にわたって書いてみます。
 内容:1. 東山通ができた頃の京都
    2. 東山通と市電「東山線」の開通
    3. 「東山通」成立当時の沿道の様子

蒲団着て寝たるすがたやひがし山  嵐雪  
 緩やかな起伏を見せる東山連山(東山三十六峰)を、蕉門の高弟であった服部嵐雪はこのように詠んでいます。
 『都名所圖会』は東山三十六峰を、「此橋上の半より東に向へば、洛東の勝地木の間〳〵に顕れて平安の佳景こゝに止る。」と褒め立てています。(ここに言う「此橋」とは五条橋のこと)
 この東山連山の西麓を南北に通っているのが、現・東大路通=旧称・東山通です。京都市街地を南北に通るメインストリートの一つで、生活上だけではなく、「東山三十六峰」が西に向かって緩やかに傾斜する一帯には多くの名刹・古社や名所などの観光地、また岡崎地区には多くの文化施設の建造物や庭園などが多数散在する重要な道路なのです。

1. 東山通ができた頃の京都

 京都の地位は江戸期の半ば頃から低下していたのですが、明治維新で首都が実質的には東京へ遷るとさらに衰退していきます。
 このような状況にあった京都は復興と近代化のため、インフラ整備とともに産業振興が喫緊の課題となりました。
 こうして、京都市は明治41〜45年(1908〜1912)に、「三大事業」と称して大規模にして近代的な都市基盤整備事業を実施します。
 三大事業とは、① 第二琵琶湖疎水の建設、② 疎水を利用した上水道の整備、③ 道路拡築と電気軌道敷設、の3つを言います。

 今回の記事では、今でこそ繁華な「東山通(現・東大路通)」ですが、上記三大事業の「③ 道路拡築と電気軌道敷設」との関わりで、成立当時の沿道の様子を見てみようと思います。

 『京都坊目誌』は、大正初期当時における「東山通(現東大路通)」の様子を次のように記しています。
 「東山通 北は聖護院町東丸太町に起り。南は大佛七條以南に至る。大正元年或は舊道に沿ひ擴築し。或は町地を貫通し軌道を敷設す。同年東山通と命名す。丸太町以北は吉田町を貫通し。愛宕郡田中村に到る。」
 そして、東山通と町並の整備については、次のように記しています。
 「始め二條。仁王門間を東寺町と稱す。其南を法皇寺門前と稱す。其以南白川筋菊屋橋までは町地を新に貫通す。其南コツポリ 小堀叉骨堀なと書す。正字なし。八軒等の小名あり。四條松原間は舊道を擴け。松原以南は新道を擴け。馬町以南は舊寺院境内の道路となるものを應用し。此名稱を下せしものなり。二條以北は岡崎町。聖護院町。吉田町。七條以南二町にして今熊野町あり。」

【註】上記の引用文にあって、現在では目にすることのない地名を簡単に説明しておきましょう。これらの地名・通り名は明治末期の頃までの呼び名です。道路が拡築されあるいは新設され、京都市電の開通とともに「東山通」と命名されました。これがいまの「東大路通」なのです。

1:「コツポリ(小堀叉骨掘)」
 《元・コッポリ通界隈》

Photo_20191202161801
 知恩院前の白川に架かる菊屋橋から南にかけて、祇園(八坂神社)石段下へ出る狭い道がありました。この道を「こっぽり通」あるいは「こっぽり町筋」と称していた。
 ちなみに、四条通北裏(いま祇園会館のある辺り)には、幕末まで近江の膳所藩邸があり、明治の廃藩後は膳所裏と称される道でした。

2:「八 軒」
 《元・八軒(藪ノ下)界隈》

Photo_20191202162001
 八坂神社(祇園)石段下から南側の一帯、南は神幸道(八坂神社南樓門前を経て長楽寺・東大谷廟へと続く道)までを云い、俗に「藪ノ下」とも称された。
 ちなみに、八軒から南の松原通にかけては、「蛇(くちなは)の辻子」と云われる道でした。これは、元禄期に太秦安井から移転した安井門跡(いまの安井神社の辺り)への参詣道で、蛇(くちなわ)のように細長い道だったことに因む呼称でした。

   【続く】

2019年10月18日 (金)

消えた小椋池

 以前、といっても戦前のことなのですが巨椋池(おぐらいけ)という池が存在しました。
 東西4km、南北3km、周囲が16km、面積は8㎢(800ha)もある広大な池でした。現在の京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町の3市町にかけて広がっていたのですが、当時としては京都府下の淡水湖では最大の面積をもつ池でした。

往時の巨椋池
 淡交社『写真集成・京都百年パノラマ館』所載

Oguraike
 巨椋池一帯は宇治・木津・桂の三川が合流する低湿地であることから、沿岸は水禍の絶えない土地だった。そのため、水運・漁獲といった利益が損なわれることも多かった。
 昭和6年(1931)の満州事変以降、中国での侵略戦争を拡大していった日本は、昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入します。
 そうした折、食料不足から米増産のため、昭和8年(1933)に国営事業として巨椋池の干拓工事に着工します。そして、昭和16年に完工を見て約635haの水田地帯に変貌したのです。

巨椋池干拓之碑

 昭和17年11月の建立で、篆額は農林大臣井野碩哉。
 巨椋池が干拓農地となるに至った経緯が記されている。

Photo_20191006163901
 今や干拓で姿を消した巨椋池は、古歌と地名にその名残りをとどめるだけです。
 『万葉集』に(原文)「巨椋乃  入江響奈理  射目人乃  伏見何田井爾  雁渡良之」という柿本人麻呂の歌があります。
 訓読すると、「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」となります。
  註:「とよむ」=響き渡る、「射目人」=伏見の枕詞、「田井」=田んぼ、「らし」=違いない。

巨椋神社

Photo_20191007111501

 巨椋の語源は、古代の有力氏族であった巨椋連に因む、あるいは巨椋連の祖神を祀る巨椋神社に由来するなどといった説があります。
 しかし、一方では巨椋池一帯は、京都盆地では最も低湿な土地で、宇治川・木津川・桂川が流れ込む遊水池の役割を果たす湖沼であり、池の西端近くから淀川に流出していました。このような大きく刳られて、周囲よりも低い地形であることから来ていると見る向きもあるようです。

淀 大橋 孫橋
 挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から

Photo_20191006165201
  
 京師より南の方三里にあり。顕住密勘に云く、淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとゞこほり、ぬるくとまれるなり。それをば淀といふ、河淀ともよめり。此淀川といふも、桂川、鴨川、宇治川、木津川等のをちあひて深ければ、よどみぬるくながるゝなり。云々」とあり、三川が寄り集まり川の水が澱んで滞留したことが、淀の地名由来だとしています。
 註:「顕住密勘」というのは、藤原定家等撰集になる『古今和歌集』の注釈書


 かつての巨椋池一帯の地名で、槙島・向島・上島・下島など「島」のつく地名は、巨椋池に流れ込む3川の運んだ土砂が作り出した島々の名残りなのです。

 ところで、ここまで「巨椋池」という呼称で説明してきましたが、この名称は明治以降になってからのものであって、江戸時代までは「大池」と呼ばれていたようです。
 文禄3年(1594)、豊臣秀吉は伏見城を築城するにあたって、大土木工事を実施します。
 それまでの宇治川は、宇治橋の少し下流にある彼方(現・乙方)で、大池に直接流れ落ちていましたが、大池と宇治川を分離する槙島堤を築いて、宇治川を大きく北ヘ迂回させて指月城(伏見城)の築かれた「指月の丘」の南側まで北上する新流路に付け替えました。
 註:謂わゆる伏見城というのは大きく分けて4つ(4期)ありました。1期は秀吉が聚楽第から引き移った隠居屋敷、2期が隠居屋敷を本格的な城郭として修築した「指月城」、3期は慶長の大地震で指月城が崩壊したためそこから東北の木幡山に新たに再建した木幡山城、4期が関ヶ原の戦いの前哨戦としての伏見城の戦いで焼失した木幡山城を徳川家康が再建した城。

 このとき、大池に槙島堤・小椋堤・大池堤・中内池堤など、太閤堤と総称される大規模な堤防が築かれたことで、大池・中内池・大内池・二の丸池の四つに区切られました。

指 月
 挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から

Photo_20191006170701
 「江戸町より西の地名なり。此所伏見の勝地にして、前には宇治川の流れを帯て舟のゆきゝあり、西南は巨椋池の江渺々として方一里の水面なり、月を愛するには無双の景色にて、いにしへより高貴の楼閣をいとなみ、清質の悠々たるを升、澄暉の藹々たるを降すの地なり。」と記されていて、名だたる景勝の地であったようです。
 そして、現在の伏見区桃山町泰長老を中心とする「指月の丘」の麓と向島の間を流れる宇治川に、豊後橋を架けます。
 それまで京都と奈良を結ぶ大和街道は、宇治川の東側を木幡・宇治の彼方(乙方)・宇治橋を経ていたものを、宇治川の付け替えで伏見城下・豊後橋・向島から巨椋池池中の小椋堤を経て小倉・伊勢田・広野という経路に変えました。
 また、大池の西方では大池北岸に淀堤を築いて、宇治川を向島の西から淀川につないで、伏見と大坂の間に水運を開きました。

 以下は関連記事の予告です。
 往時の巨椋池の西南の端、淀の近くに「一口」と書いて「いもあらい」と読む集落があります。これは難読地名の最たるものでしょう。
 近いうちに、この「一口」の地名由来を記事にしてみたいと考えています。

2018年4月27日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 3

3. 日本で最初の小学校設立

 京都の再興と近代化では、「官」「民」挙げての努力がありましたが、前回に見た「産業振興と都市インフラ整備」は、「官」の主導によるものでした。
 今回は「民」つまり市民が大きな役割を果たして進められた、教育環境の整備=「小学校の創設による人づくり」を取り上げます。
 明治元年(1868)、江戸時代の庶民のための初等教育機関は寺子屋でしたが、これに代わる小学校を各町組に一校ずつ創設することが計画されました。
 特記すべきはその設立方法で、土地・施設などの一切を町組(住民)の負担により設置するというものでした。

 明治新政府は、明治5年(1872)7月に「太政官布告第二百十四号」により、日本で最初の学校制度を設けます。
 ところが!ナント!!京都ではそれに先駆けること3年、全国で最も早く明治2年(1869)、各町ごとに「番組小学校」を独自の方法で設立していたのです。

《太政官布告第214號》

_01_11
 太政官布告の一部を抜き書きしてみます、
「(略)自今以後一般ノ人民 華士族卒農工商及婦女子 必ス邑ニ不學ノ戸ナク 家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス  人ノ父兄タルモノ宜シク此意ヲ體認シ 其愛育ノ情ヲ厚クシ其子弟ヲシテ必ス學ニ従事セシメサルヘカラサルモノナリ(略)」としています。
 そして、そのあとに「幼い子供は男女を区別せず、小学校で学ばせなければその父兄の落ち度とするゾ!」として、「屹度(強く)申し付けるからナ」と云った感じで権柄尽くに命じています。この高圧的なところは、現代の感覚からするとむしろ可笑しさを覚えます。
 しかし、寺子屋の頃は女子は学べなかったようですから、画期的な学制といえます。

 明治元年、京都府は小学校設置にあたって、近世までの住民自治組織「町組」を改組します。
 そして、住民自治の組織である町組の再編と併せて、各町組の町会所に附設する形で1校ずつの小学校設置を決定したのです。
 翌明治2年、さらに町組の編成替えをして上京・下京ともに各33町組、計66町組としました。そして、この再編に合わせて各町組に番号を付して「番組」としたのです。
 こうして、番組ごとに上京・下京とも32校ずつ、計64校の番組小学校を一斉に建設・開校しました。
 【註】:学校数が番組の数と同じ66校ではなく2校少ない64校となったのは、番組の区域が狭小であるため上京では八番組と九番組で1校(のちの仁和校)を、下京は二十二番組と三十二番組で1校(のちの淳風校)を建設したためでした。

 こうして、全ての番組で小学校を建設・運営することとなり、そのため、番組の有力者が用地を寄付し、建設と運営のための資金は竃金あるいは醵金により、つまり住民が分担金を出し合い独立採算で学校を設置しました。
 その際、番組によっては会社組織(小学校会社)を設け、集まった資金を運用してその利益を充てましたが、資金が不足する場合には10年返済の条件で府から貸し出しを受けました。

 このとき、自分達の番組小学校として、教室等の教育施設だけではなく、住民自治に必要な町会所等の施設が併設されました。そして、総合庁舎的に京都府の出張所としての機能も持たせるよう構想されたようです。
 こうした設置の経緯から、現在に至るまで小学校と地域(住民)との結びつきには強いものがあるのです。
 各校が所蔵する資料・沿革史などによると、自治・行政機能を果たす施設が校舎の前面に配置され、教室などの施設はその背後あるいは上階に付設する形で配置されたようです。
 教育施設と同居していた地域行政・住民自治のための施設としては、番組役員の詰める役場・町総代溜・総代溜・区内事務室など、そして巡査詰所や消防の詰所、防火や時刻を知らせるのための太鼓望楼などが設けられた。

《旧有済小学校の太鼓望楼》
 太鼓を叩いて番組の住民に時刻や火事を知らせた。各校に設けられていたが明治末には姿を消し、残るのはこれだけとなり登録有形文化財に指定されている。
 昭和に入って建て替えに際して屋上に移設された。


_01_12

 なお、近年は小中学校の統廃合が進んでいますが、校舎などは歴史的価値があるため、新しい機能・役割をもって引き続き保存活用されているものが多い。
下京第三番組小学校(明倫小学校)⇒京都芸術センター
下京第十一番組小学校(開智小学校)⇒京都市学校歴史博物館
下京第十八番組小学校(菊浜小学校)⇒ひと・まち交流館京都
ほかに、第二日赤救命救急センター・こどもみらい館・教育相談総合センター・養護学校・特別養護老人ホームなども元小学校の施設が活用されている。

《京都芸術センター(元・有隣小学校)》

_01_13
《京都市学校歴史博物館(元・開致小学校)》

_01_14

【註】:ちなみに、その後、地域行政組織の単位名称は「番組」から、明治4年(1871)に「区」へ、明治12年(1879)には「組」へ、そして明治25年(1892)に「学区」へと変わりました。
 「番組」から「組」の時期までは小学校名称は番号だったのが、「学区」に変わった時にそれぞれに固有の名称が付けられました。その命名の仕方は地元の町名に合わせたり、平安京内裏の施設名や条坊名、四書五経などの漢籍から選んだ熟語と云ったように、学区ごとに自由に選んで命名しています。
 また、昭和16年4月には「小学校」が「国民学校」と改称されます。そして、この時期をもって地域が学校を運営する「学区」は終り、小学校の土地・建物といった学区財産は京都市へ移管(寄附)されました。
 しかし、「学区」がかつてのような行政上の単位でなくなっても、また、住民自治の単位であった旧番組小学校が統廃合で無くなっても、依然として現在に至るまで「元学区」が行政からの伝達単位として機能し続けています。

2018年4月20日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 2

2:産業振興とインフラ整備

① 産業振興
 東京への遷都によって京都は政治面での再興は望むべくも無いことから、危機を乗り越えるためには産業振興を拠り所として経済的な復興を目指すことになります。
 こうして、京都の再生と復興を懸けて、「京都策」と呼ばれた近代的な殖産興業政策に取り組みます。

 欧米の最新技術を導入して勧業事業に取り組むため、明治3年(1870)10月に舎密局を、明治4年(1871)には産業振興を図って勧業場を設置します。
 舎密局では、ドイツの化学者ワグネルを招聘して新技術の導入を図るだけではなく、人材育成のため科学技術の教育・研究にも取り組みました。

《ワグネル》
 
岡崎公園 府立図書館の脇にある。島津製作所の創業者島津源蔵もワグネルに教えを受けた。

_01_6
《舎密局跡

_01_7
 産業振興のための中枢組織である勧業場は、欧米の先進的な技術を導入して諸々の製造施設を設置します。このために、産業基立金として国から15万円を借り入れました。

《勧業場址碑》

 元長州藩屋敷跡で払い下げをうけて常盤ホテルとなる。(その後、京都ホテルから京都ホテルオークラに)

_01_8
 殖産興業策の実施にあたって、とりわけ大きな影響をもたらしたのが琵琶湖疎水の開削でした。
 当初の目的は、水運・灌漑・上水道・水車による動力でした。しかし、水車を動力源とする計画については、疎水を利用した水力発電に計画変更されました。
 明治18年(1885)琵琶湖疎水工事を起工、明治23年(1890)には疎水工事が完成して、翌年には蹴上水力発電所が送電を開始します。

《蹴上発電所》

_01_9
 産業振興に関して主なものをランダムに挙げて見ると、京都電燈会社の設立と火力発電所設置、京都織物会社・京都陶器会社の設立営業、京都電気鉄道が開業、京都電話交換局の設置などが挙げられます。
 
 ところで、明治初期のそうした難儀の折も折、米価が非常に暴騰して府財政が困窮したため、救貧のための備米(つみまい)50万石の下付を太政官に出願し、東京へも出向いて行って陳情しました。
 その結果、請願が認められて産業基立金として5万両を下げ渡されました。(【註1】参照)
 さらに、翌3年7月には再び5万両の追加下付金があり、このときの政府の措置は京都にとっては空前の恩恵とも云えるもので、俗に「朝廷からのお土産金」とも「天皇から京都への手切れ金」とも称されたそうです。
 ちなみに、明治2年に「両」を「円」に改めているため、二度の下げ渡し金は合計で10万円の下付金となった。(【註2】参照)
 この10万円を明治3年から同13年までは京都府で管理運用していたが、同14年に上・下京の両区役所へ移し、両京連合区会の評決により公債証書を購入しました。そして、さらに利殖方法を工夫したところ、同22年には元利合せて39万6,970円50銭の多額を数えるに至ったそうです。
 京都市は、これを明治23年(1890)に完成した第一琵琶湖疎水の工事費として支払うこととしました。そして、翌年には蹴上に水力発電所が建設され、琵琶湖疎水は京都の再生と近代化に大きく貢献したのです。

【註1】明治3年3月付太政官示達「今般格別之御詮議を以て其府下人民産業基立金として五万両被渡下候間、取計方行届候様、御沙汰候事 太政官」
【註2】昔のお金と今のお金の価値を比べるのは簡単なことではありません。人々の生業や賃金、生活様式も違い、生活に必要な用品も異なるからです。物価も賃金水準も年々変化しているので、同じ明治時代でもその前半と後半では大きな違いがあったでしょう。
 明治5年の米価を基準にして比較すると、当時の1円は現在の1万円位に相当するようですから、下付金の10万円はざっくり言って今の10億円程度に相当するのでしょうか。



② 都市インフラ整備
 明治28年(1895)4月から7月まで開催された「第四回内国勧業博覧会」は、京都復興の成果を内外に広く喧伝するイベントとなりました。
 この内国博覧会は、それまで東京で開催されていたものを京都へ誘致することに成功したもので、「平安遷都1100年記念祭」の一環として岡崎で開かれ、その入場者は最多の114万人を越えたと云う。
 そして、平安神宮が建立され、時代祭の始められたのもこの時でした。
 なお、京都電気鉄道が日本で最初の路面電車を塩小路東洞院と伏見油掛の間を営業運転した電車が、この内国博覧会開催の時に岡崎まで路線が延伸されました。

《電気鉄道発祥地碑》

_01_10

 そして、インフラ整備という点では、明治末期の明治41年(1908)から4年間をかけて、「三大事業」と称した大規模にして近代的な都市基盤づくり事業を実施して完成しています。
 一つは、第二琵琶湖疎水の開削。
 二つは、第二琵琶湖疎水を利用した上水道の整備。
 三つは、道路の拡張・延長整備と市営電気軌道敷設。
 これらを集中的に実施したことで、京都市街地の都市基盤整備は飛躍的に進みました。

2018年4月13日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 1

このシリーズの内容
 今 回:1. 明治政府の成立と東京遷都
 次 回:2. 産業振興とインフラ整備
 次々回:3. 日本で最初の小学校設立

1:明治政府の成立と東京遷都

 慶応3年(1968)10月に大政奉還、同12月に王政復古で幕府が廃止されて、倒幕派(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)による明治政府が成立します。
 そして、翌4年(1868)9月8日に「明治」と改元しました。なので、言ってみれば今年はちょうど明治150年にあたります。
 延暦13年(794)、桓武天皇が都を京都に移し平安京と称して以来、明治2年(1869)まで千百年もの長い間、京都は王城の地(首都)でした。
 けれども、江戸時代も中期以後になってくると徐々に政治の中心は江戸へ、経済の中心は大坂へと移っていき、王都としての京都はその地位が徐々に低下していきます。しかし、古くから受け継がれてきた伝統芸能をはじめ、さまざまな文化の継承や、天皇のおられる王城の地としての自信と誇りは保っていました。

《二条城二の丸御殿》
 徳川家康が将軍の宣下を受けたのも、徳川慶喜将軍が在洛中の40藩重臣を招集して大政奉還を諮問したのもここでのことでした。
 つまり、江戸幕府(徳川幕府)の始まりも、終焉を迎えたのもここだったのです。

_01
《京都御所  建礼門》
 御所の正門です。背後に見える大きな屋根は紫宸殿で、即位礼など重要な儀式が行なわれるときに建礼門が開扉された。

_01_4
《御常御殿》
 御池庭から見た御常御殿。天皇の住いで、儀式・対面のための場所や神器を納める部屋もあった。

_01_5

 ここで、江戸末期から明治維新にかけての、京都の変化を大雑把に見てみましょう。 

慶応2年(1866) 12月25日 孝明天皇が崩御
慶応3年(1867)正月9日 皇太子が天皇の位を受継ぐ
   同3年(1867)10月14日 徳川慶喜が大政奉還を請う
慶応4年(1868) 7月17日  江戸で政務を執り東京と 改称する
   同年 8月27日  皇太子が御所紫宸殿で即位し明治 天皇となる
   同年 9月8日 「明治」と改元され明治元年となる
明治元年(1868)10月13日 天皇が東京へ行幸
   同年 10月13日 江戸を東京と改称
   同年 12月22日 天皇が京都にひとまず還幸
明治2年(1869)2月24日 太政官を東京に移し京都に は代理者の留主官を置く
   同年 3月28日   再び天皇が東京に行幸(崩御まで東 京に居住)

 江戸幕府(徳川幕府)が崩壊して、新政府の樹立で明治維新を迎えると、初めは京都に中央政府が設けられました。
 天皇が最初の東京行幸から戻られた翌年の正月6日、京都の町人総代として各町から1人ずつを建礼門前に召され、紫宸殿を拝して天盃を賜る栄誉に浴します。

 しかし、明治2年(1869)、正式に東京遷都の勅(天皇の命令)が出されることもなく、天皇皇后が再び東京に行幸啓されて東京城(元・江戸城)に入城、三種の神器も奏された。
 そして、政府の最高機関である太政官が東京へ移設されたのをはじめ、京都にあった中央行政機関も廃止されて、事実上の東京遷都が行なわれたことで京都は衰退に追い打ちをかけられます。

 かつて、天皇の住いである「御所」の周囲は、皇族や公家達の屋敷が建ち並ぶ公家町でした。
 しかし天皇だけではなく、皇族・華族(公家)とともに有力商人たちもが東京に引き移ってしまったため、一帯はすっかり寂れ果ててしまい、さながら「狐狸の棲家」といった様子になったと云う。
 現在の御所と京都御苑は、その四囲が寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通沿いに石築地で囲まれ、都会の喧噪と隔絶した緑の豊かな空間となっています。これは、かつてあった多くの公家屋敷を取り壊してできた跡なのです。

《清水谷邸の椋》
 御所の南西角の近くで公家の清水谷家屋敷の跡です。この椋は幹周り約4mで樹齢300年程とされる。
 幹の左脇遥か後方に「禁門の変」で知られる「蛤御門(新在家御門)」が見えている。

_01_3
 幕末の元治元年(1864)7月19日、御所蛤御門付近で尊王攘夷派(長州藩)と公武合体派(会津藩・薩摩藩など)が起こした「禁門の変」では、御所蛤御門付近と長州藩屋敷(今の京都ホテルオークラ)付近から出火して、21日まで燃え続けた。
 この夥しい被災で京都市街地の大半、約800町・27,517軒の家屋が焼失したが、この大火は「どんどん焼け」とも「鉄砲焼け」とも云われた。
 そして、この大火による被災地の復興は明治維新にまで延引したため、京都にとっては近代化の事業とともに大きな課題になったようです。


 ともあれ、衰微の危機に瀕した京都は、復興と近代化をかけて起死回生の策を講じる必要に迫られます。

 次回と次々回の2回にわたって、どのような復興策を採ったのかを見たいと思います。

2017年12月22日 (金)

「伏見城」は幾つあったの? (2の2)

2. 指月の丘(指月の森)とはどこ?

 慶長大地震で「指月城」が倒壊した後、指月の丘から木幡山(伏見山)に移り「木幡山城」として再建します。その場所は、いまの明治天皇陵のある一帯でした。

 それでは、秀吉が指月隠居屋敷・指月城を築いた「指月の丘(指月の森とも)」と言うのは、どのようなな所だったのでしょうか。

 前回の記事で記したように、指月城が築かれた指月の丘というのは、現在の桃山町泰長老の一帯にあたります。
 ところが、そこは明治末から終戦までは陸軍の京都師団工兵隊が駐屯し、以後は観月橋団地・桃山東合同宿舎などが建てられました。そのため現在では、地表に現れた遺構の残存は見ることができません。
 しかし、4度にわたる発掘調査の結果、とりわけ平成27年(2015)の調査では、石垣や北堀跡と見られる遺構、金箔瓦などの遺物が見つかっています。
 このことから、一帯の現在は団地や民家が密集していてるため、広範囲にわたる発掘調査は困難ながらも、やはりこの辺りが指月城跡であった可能性が強まったとされています。
 そうした発掘調査の結果や地形などから推定される指月城の範囲は、東は船入通から西の豊後橋通(国道24号)までの約500m、南は宇治川北岸の崖から北の立売通までの約250mと見られます。

指月の丘と指月城があったと見られるところの現在。

《指月の丘の東側・・・舟入通から見た傾斜面》
  宇治川から指月城の東側へに引き込まれた舟入(水路)の跡が現在の舟入通です。南北が約300m・東西は約90mです。

_01_10

《指月の丘の西北部・・・豊後橋通(R24)と立売通が交差する地点の南東角》
  集合住宅のある辺りから石垣が発掘された。石垣の方向から城の北西角にあたると思われるそうです。

_01_7

《指月の丘の南側・・・宇治川北岸の崖》
  現・外環状線道路沿いにある西岸寺の裏、この崖上が指月の丘(指月の森とも)にあたる。月橋院はここの少し東方にある。

_01_9

《指月の丘の北側・・・大光明寺陵参道下の立売通》
  参道から立売通に落ち込む斜面が指月の丘の北端になる。この大光明寺陵の辺りに本丸があったのか。

_01_11

 

 それでは、『山州名跡志』から「指月」の記述を見てみます。
「指月 地名 橋ノ北東ニ至ル二町餘ノ内ヲ云フ 此ノ地景色アリ。東南西ニ渺々タル流アリ。巽二巨椋ノ入江。東ニ伏見ノ澤アリ。爾バ便チ月ヲ愛スルニ無雙ノ景色也。故ニ此ノ名ヲナス地ニ月橋院在リ。此院ノ後ノ丘ノ上。北ノ方二町許ニ東西ニ通ル街アリ。是ヲ立賣ト號ス 秀吉公在城ノ時開ク所也。指月ハ此街ヨリ南  東西三町許ノ惣名也」としています。
【註1】:上記引用文冒頭の「橋」は「豊後橋(現・観月橋の辺り)」を指す。文祿3年指月城と対岸の支城向島城との間の宇治川に長さ140間(約250m)の豊後橋を架けた。小倉まで巨椋堤を築造して、大和街道に通じている。
【註2】:引用文中の「月橋院」は曹洞宗寺院で、現在も宇治川北岸の京都外環状線の北側道路沿いにあり、その背後(北)の崖上が所謂「指月の丘」です。
【註3】:同じく「立賣」は指月の丘の北側にあたります。現在のJR桃山駅南側の町名が「桃山町立売」、西の豊後橋通(国道24号)と東の船入通との間を東西に通っている道が「立売通」です。

 つまり、「指月の丘」とは眼下の宇治川に架かる豊後橋の北詰にあたり、東西2町余りの丘陵を云う。
 東には伏見の沢、宇治川の南には巨椋池を見晴るかす地で、古く平安時代以来、月を愛でるのに無類の場所として知られていたようです。
 水面に映る月影が四ヶ所に見えることからこの丘陵地は、旧名を「四月(しげつ)の丘」と言ったが、後に「指月(しげつ)の丘」と書くようになったそうで、地名はこうしたことを由来としていると云う。

 ちなみに、指月城の次に築かれた木幡山城があった木幡山(伏見山)については、『山城名跡巡行志』に次のように記述しています。
「木幡山 同所ノ西ニ在  古城山半ハ木幡山也  木幡山伏見山元ト一山也  東ヲ木幡山ト謂  西ヲ伏見山ト謂」 
 *「同所」とは、古城山の東方にある八科峠を指している。また、「古城山」と云う地名は現在の地図にも載っており明治天皇伏見桃山陵のある一帯です。
 木幡山城(伏見山城)が廃城となった後、木幡山と伏見山とを合わせて古城山(故城山)と称されることになったようです。

 ところで、指月の丘と木幡山(伏見山)、これら伏見の地に政権があったのは約30年間です。そのうち徳川家康が木幡山城を再建してから廃城までの期間は20年です。
 そしてこの間、初代の家康から秀忠・家光に至る三代にわたり、伏見城において征夷大将軍の宣下を受けています。
 また、家康が在城したのは江戸城よりも伏見城の方が長かったとも見られるようです。このため、264年間続いた江戸幕府(江戸時代)ですが、その最初期の徳川政権の主要拠点は京都伏見だったとも云えるようです。
 その意味で、徳川家康が開いた幕府(徳川幕府)の揺籃期は、「江戸幕府」ではなくて「伏見幕府」と云ってもよいのではと見る向きもあるようです。