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京都の移り変わり

2021年11月12日 (金)

鴨川運河(琵琶湖疏水)

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 琵琶湖疎水(第一疎水・第二疎水)は、水道用水・水力発電・農工業用水・水運に使われ、明治期京都の近代化に大きく貢献したのです。(現在では水運には使われていません)
 この疎水は、滋賀県大津市三保ヶ崎の取水点から冷泉通の鴨川夷川出合まで流れ、ついで鴨川運河を伏見堀詰町(のち伏見土橋町)の壕川に至り宇治川に合流しています。

 第一疏水は1885年(明治18年)に着工、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から北方に分岐する疏水分線とが完成している。
鴨川合流点から伏見の濠川に至る鴨川運河(疎水)は、1892年(明治25年)に着工、1894年(明治27年)に完成しています。
 第二疏水は、第一疏水で賄いきれない電力需要への対応とともに、新設する上水道のための水源として、京都市により「三大事業」の1つとして進められました。1908年(明治41年)に着工され1912年(明治45年)に完成しています。

 さて、冒頭の写真「せせらぎの道」は、前記の鴨川運河(疎水)の一部が暗渠化された跡の姿なのです。(川端通新門前下ル)
 かつては、鴨川左岸堤防上に桜並木がありそのそばを三条まで京阪電気鉄道京阪本線の電車が走っていました。
 ところが、昭和50年前後の頃でしょうか、京阪本線と交差する道路踏切での慢性的な交通渋滞への対策を迫られるようになりました。そこで、三条駅と塩小路通の間を京阪本線とともに疏水をも地下化することによって、その上に川端通が敷設されることになったのです。

塩小路で暗渠から地上に現れた鴨川運河(疏水)

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 1987(昭和62)年に京阪電鉄と疏水は地下化され、その1年後の1988(昭和63)年に川端通が開通しました。
 (その後、平成になって三条〜出町柳間の鴨川電気鉄道(地下線)を合併して京阪鴨東線となっています。



2021年8月20日 (金)

京の市場事情 2 ー近 世ー

 時代は変わり、江戸時代になると農耕で牛馬の利用が増え、また二毛作が広まるなど農業生産力が急激に向上します。そして、京の人口増加による青物蔬菜の需要増大とが相俟って、青物の立売市場が大いに発展します。
 それらの青物市場は隣接する魚市場と一体となって、京の人々の食生活を支える大規模な市場となっていきました。

 ちなみに、京の魚市場としては、次のような上・中・下の著名な3カ所の魚棚(うおのたな)がありました。

椹木町通(上の魚棚)

『京町鑑』に、椹木町通を「俗に上魚棚通 此通中頃椹木をあきなふ材木屋多くありし故名とす 又釜座邉魚商ふ家多し故魚棚と云」としている。
『京羽二重』も、「東にてさはら木町通と云 西にて魚の棚通と云」として、所在の諸商人として「新町にし 生肴  八百や」と記す。

東魚屋町(椹木町通)の町名表示板

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 往時は、椹木町通の西洞院通から堀川通までの間に魚市場があり、現在も東魚屋町・西山崎町(かつては西魚屋町が通称か)の町名が残っている。


錦小路通(中の魚棚)

『京町鑑』に、「いつの頃よりにや 魚商ふ店おほく今におゐて住居す仍而 世に中の魚棚とよぶ」として、「麸屋町西入 東魚棚町、柳馬場西入 中魚棚町、高倉西入 西魚屋町」と町名を記している。
 ここも慶長期以来の魚市場があり、魚鳥・菜果をも商った。
 現在も、富小路通と柳馬場通の間に東魚屋町、堺町通と高倉通の間に中魚屋町、その西の東洞院通までに西魚屋町があり、近辺には八百屋町・貝屋町という町名も残っています。


六条通(下の魚棚)

 寛永年間に、下魚棚通にあった魚市場が六条通に移されて盛んに売買されるようになった。
 『京町鑑』は、「此通魚屋多し 故に是を下魚棚といふ」とし、「室町東入 東魚屋町、新町西入 西魚屋町、西洞院西入 北魚屋町」の町名を挙げている。
 こうして、六条通に魚棚通という通称が生じて一般化した。しかし、明治になってからは振るわなくなり、名はあっても実は無くなってしまいました。

東魚屋町(六条通)の町名表示板

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 現在も、室町通東入に東魚屋町、室町通西入に西魚屋町の町名が、また西魚屋町の南側には八百屋町という町名も残っている。

ちなみに、六条通(下の魚棚)に関わることを。
 七条通の一筋南に下魚棚通があって、東は西洞院通から西は大宮通まで通っています。
 ここには、寛永年間に六条通へ移転するまで慶長期以来の魚市場がありました。
 しかし、下魚棚一町目から下魚棚四丁目まであった町名も、現在では「下魚棚四町目」を除いて隣接する町に合併されたために消滅しています。
 なお、この下魚棚通の魚市場に近接して青物市場もあったのですが、その名残りが今も八百屋町・西八百屋町・南八百屋町の町名として残っています。



 

2021年8月13日 (金)

京の市場事情 1 ー古代から中世ー

 平安京には、左京に東市(ひがしのいち)、右京には西市(にしのいち)の2ヶ所の官営の市が設けられていました。
 どちらも四町四方の広さで、その周囲には外町が設けられていたということです。そして、市(いち)の開催日は、1ヶ月のうち前半は東市が、そして後半は西市が開かれて、開催時間は正午に始まって日没前に解散したようです。

 下京区河原町通六条西入本塩竈町にある市比売神社、いまでは縁結び・子授け・女人厄除けなど女性の願い事にご利益があるとされるパワースポットですが、元は延暦14年(795)東西の市に市杵島比売命を勧請したもので市(いち)の守護神でした。

市比賣神社(市姫神社)

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 ところが、平安京の右京域は湿潤な土地柄から、10世紀頃には衰退してしまいます。したがって、右京に設けられていた西市もまたすっかり寂れてしまうのですが、左京の東市の方は繁栄したようです。
 しかし、東・西両市ともに平安京の南端近くに位置したため、また官営の市ということから、やがて平安京社会の実情に合わなくなって衰退してしまいました。

 その頃、官衙(平安宮の役所)に所属して手工業生産に携わていた厨町(くりやまち)の職人・工人は、律令制が衰退して朝廷の権力が弱体化するとともに、その束縛から解放されて独立した手工業者として町尻小路(新町通)の三条・六角・錦小路・四条などに居を構え、東西市に代わって新たな商業経済の中心となっていきました。

 下って、鎌倉・室町の頃になると、市中の商工業者や近在の農民たちが売り物を持ってきて、道端や軒下などで露天商いをしたようです。
 このように店棚を持たないで商いをするのが「立売(たちうり)」で、そうした商い人の集中する通りの名称として、上立売通・中立売通・下立売通の名称が生じ、今に至るまで名をとどめています。『京雀』『京町鑑』などの地誌によれば、初期は絹布巻物類の立ち売り(裁ち売り?)に始まったようで、次第に棚売り(店売り)へと発展していきます。
 これらの通りには立売に因む町名も残っていて、上立売通には上立売町・上立売東町、下立売通には東立売町がある。

 現在では通りの名称としては残っていないのですが、四条通にも麸屋町通から東洞院通の間に、立売東町・立売中之町・立売西町という町名が現存しています。四条立売と総称して、室町時代には百貨売買の重要な市場として繁盛したようですが、『都名所図會』には、「むかし大内裏の時、此所諸品を商ふ市場なり。今毎朝高倉四條の北に野草の市あり、往古の余風歟」とある。

「四條立賣」

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 また、伏見にも桃山町立売という町名が大手筋通の南、第一期の伏見城があった桃山町泰長老の北側に残っています。




2020年9月 4日 (金)

桂川・嵐山・梅津

 桂川は丹波高地の東辺、左京区広河原に発して亀岡盆地に達し、険しい保津峡の山間部を経て嵐山へと至る。そして、松尾・松室辺りから流れを東に変えて、京都盆地の西部をやや東南に屈曲しながら南流して、下鳥羽で鴨川を合わせたあと淀川に合流している。
 桂川は古くは葛野川(かどのがわ)と称されたが、桂川左岸は古くから氾濫・洪水が頻発して、6世紀の頃にこの一帯を支配した葛野の秦氏一族によって治水と用水開発がなされる。この時の大堰の完成によって大堰川と呼ばれるようになった。
 この時、治水工事で築かれた約1kmの堤防(嵐山公園から松尾橋の間)を、罧原堤(ふしはらつつみ)という。
 なお、桂川には多くの呼称があって、葛野川・大堰川・大井川・葛川などと呼ばれ、流域によって嵐山とその上流では大堰川・保津川と呼ばれ嵐山から下流は桂川と呼ばれる。

渡月橋

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 嵐山と小倉山の間を縫うように流れる大堰川は、その優れた景観により平安時代から風光を愛でて天皇の行幸や御幸があり、貴族の遊覧の場となっていた。宴遊では漢詩・和歌・管弦の三艘の船を仕立ててそれぞれに得意なものが乗った。
 洛西は、現在も嵯峨野の美しい風景や、嵐山の紅葉や保津川下りでよく知られている。


罧原堤(ふしはらつつみ)
 中洲と川の向こう側を左手(北)から右手(南)に続くのが罧原堤

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 「梅津」は桂川左岸(罧原堤)の東側に拓けた地で、元は桂川の旧流路に挟まれた中洲(自然堤防上)に位置した。
 「津」というのは「船着き場」のことで、豪商の角倉了以が狭かった保津峡を開削して、丹波と京を舟運で結ぶようになってから、嵯峨津・梅津など一帯の津が京の町に通じる外港としての機能を果たした。
 梅津は特に栄えた津であり、現在の梅津南町付近は梅津筏浜と呼ばれ、丹波で伐り出された材木を筏に組んで桂川を下って陸揚げされ、薪炭などの物資も運ばれたという。
 『都名所圖會』には、「梅津川 大井川の流なり。此所に船渡しあり、四條渡しといふ、材木を商ふ民家多し。」と記す。
 材木・薪炭商は製材業に発展し、三条街道(旧下嵯峨街道)から太秦・山ノ内を経て東に運ばれ京の町作りに使われた。


梅宮大社
 「続日本後紀」に見える古社

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 梅宮大社(右京区梅津フケノ川町)
 西梅津にあって、祭神と共に祀られるのは嵯峨天皇の皇后であった檀林皇后嘉智子。
 皇后は常々皇子の無いことを思い悩み、当社酒解神に祈願されたところ身籠ることができた。そして、梅宮社の清砂を敷いて王子(のちの仁明天皇)をお生みになったという。
 この伝承に因んで、現在も子授け・安産の神として信仰されていて、本殿東側の「またげ石」を跨ぐと子宝に恵まれると信じられている。




2020年8月 7日 (金)

平安京(3) ー右京の衰退ー

 先頃の記事(「平安京(2)ー規模と街路ー」7月24日付)では、平安京がどのような規模だったかを『延喜式』により見ました。
 その『延喜式』の「九条家本」(写本)には、附図として左京図・宮城図・内裏図・八省院図・豊楽院図・右京図が掲載されています。
 そして左京・右京の両図ともに、平安京の外形と碁盤目状の街路については、初期の計画通りに描かれているようです。

平安京復元模型図
 前回記事のものと同じですがもう一度(京都市平安京創成館)

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 ちなみに、九条家本『延喜式』(写本)に使用された用紙は、主に平安後期の文書の裏側を使っていることが研究者の検討により判っているようです。

 それら書写に使用されている用紙(紙背文書)の検討結果から、九条家本は10世紀末頃〜13世紀前半頃の間の、いくつもの書写から成り立っていると見られています。
 そして、元々の『延喜式』が編まれた当時には無かった附図「左京図」および「右京図」は、平安後期の1140年代頃(院政期)に成立したものをベースにして、何度かの加筆を経たものだろうと見られています。

 さて、平安京の町並みは唐の長安と洛陽をモデルとしていて、名称も左京を洛陽城、右京を長安城としています。
 しかし、平安時代も中頃になると著しい変貌を見せて、「右京」は甚だしく衰退する一方で、「左京」は大いに発展して繁栄したのです。

復元模型に見る西南部分の様子
 南西部分は開発されず池沼・林のままで残っている様子が判る

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復元模型に見る鴨川東部の様子
 鴨川東部の白川(岡崎)には寺院や邸宅が増えている

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 「右京」が衰退した理由は、地形的には京都盆地西南部が低地となっていて埿(うき)と呼ばれる泥深い沼・泉が多く、住居地としては適さないため開発に手間取る一方、建設された家屋や道路も荒廃してしまい、平安時代中期以降には再び耕地化してしまったからだとされています。

 そのため、「左京」の場合は街路の名称・位置ともに現在まで踏襲継続していますが、「右京」の場合は耕地化され他ことからほとんどの街路が無くなってしまったようです。

 平安京の右京はそのような自然環境だったため衰退したのですが、一方で西南部については全く建設されなかった所があったようで、それが次のような文献から窺うことができます。

①「太政官符」〈平安中期の貞観13年(871)〉
 山城国葛野郡と紀伊郡の一部にあたる平安京の西南隅の部分に、「葬送地と放牧地を定むる事」としているそうです。これは、平安京の都市計画では右京九条四坊に当たる地域(八条大路・九条大路・西京極大路・木辻大路を四囲とする一帯)を、葬送地と放牧地として指定したことを布告しているのです。
 つまり、「右京図」が描かれた頃、この一帯には大路は建設されておらず、計画通りには市街地ができていなかったことになり、このことは考古学的な調査でも確認されているようです。

② 慶野保胤『池亭記』〈平安中期の天元5年(982)に成立〉
 漢文調で書かれたものですが、概ね次のようなことが記されています。「東西二京を見ていくと、西京(右京)は人家が追々と疎らになり、ほとんど幽墟に近くなっている。人は去っても来る事がない。家屋は崩壊しても建造される事がない」 この記述から、当時の右京が市街地としては既に衰微していたことが見て取れることでよく知られています。
 ところが、考古学的な調査によれば、平安中期の右京には邸宅が点在していて、すっかり衰退していくのは平安後期になってからの事だとみられるようです。 

③ 皇円『扶桑略記』〈平安後期に成立〉
 応徳3年(1086)6月26日条に、西京(右京)にある300余町の田の稲を検非違使を遣わして刈り取り、牛馬の飼料とした旨の記録があるそうです。
 右京の全面積がおおよそ608町ですから、少なくともその半分は既に耕地となっていたと読み取れるのです。

 これらを総合的に見ると、おおよその所は次のように考えられるようです。
 平安建都後80年近くを経た頃になっても、平安京南西部隅の一帯には街路も造成されておらず、市街地は完成していなかった。
 平安建都の後、約200年近くを経た頃には右京の市街はすっかり衰亡してしまい、約300年後には約半分の土地が耕地と化していたようです。

 

2020年7月24日 (金)

平安京(2) ーその規模と街路ー

 延暦13年(794)、桓武天皇によって都は長岡京から平安京に遷された。昔、受験期に遷都の年号を「鳴くよ(794)ウグイス平安京」と、語呂合わせで覚えたのを思い出します。
 ところで、その平安京の規模はどれほどのものだったのでしょうか。それは今で言えば、おおよそ東が今の寺町通から西は妙心寺・天神川・阪急西市京極駅を繋いだ辺りまで、南北は一条通から九条通までの範囲でした。


平安京復元模型   1/1000(京都市 平安京創生館)
 中央の広い街路が朱雀大路でその手前(南端)に羅城門、奥(北端)に朱雀門が見える。そして、羅城門の東側(右手)は東寺で、西側(左手)が西寺です。
 (写真をクリックすると拡大して見ることができます)


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 10世紀前半の法令集で『延喜式』という文献があります。これは、律令のいわば施行細則集、現在の六法全書のようなもので、日本古代史研究の上で不可欠の文献とされています。

 『延喜式』の写本に「九条家本」があり、現存する諸本の中では最も古いものとされ、国宝に指定されている。
 この『延喜式』には、平安京が縦長の長方形で、大路と小路で碁盤の目状に区画されていたこと、それぞれの道路の幅なども記されています。
 全体の広さは東西が1,508丈(約4.5Km)、南北は1,751丈(約5.2Km)としています。

大極殿磧趾碑

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 平安京北部の中央には天皇の住居である内裏があり、その周囲は政治や儀式のための諸施設がある大内裏でした。
 その大内裏の南面中央部の朱雀門から南に向けて延びるのが朱雀大路で、都はこの大路により東側の「左京」と西側の「右京」とに区分されていました。
 そして、朱雀大路の南端には、平安京の玄関である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

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 『延喜式』の「京程」の項には、平安京の街路について次のように記しています。(「注記」は省略)

京 程
南北一千七百五十三丈 今勘千七百五十一丈
北際并次四大路、広各十丈
宮城南大路十七丈
次六大路各八丈
南極大路十二丈
羅城外二丈
路巾十丈
小路廿六、広各四丈
町卅八、各四十丈

東西一千五百八丈
自朱雀大路中央、至東極外畔七百五十四丈
朱雀大路半広十四丈
次一大路十丈
次一大路十二丈 
次二大路各八丈 
東極大路十丈
小路十二、各四丈
町十六、各四十丈
右京准此


 つまり、『延喜式』の「京程」に記載された東西に通る大路の名称としては「北際・宮城南・南極」の三本だけ、そして南北の大路は「朱雀・東極」の二本だけのようです。(「注記」として、後になって書き加えられたと見られるものに大宮、東洞院と西洞院がある) そして小路については名称の記載はありません。


 九条家本『延喜式』は「京程」の末尾には、附図として「左京図・内裏図・八省院図・豊楽院図・右京図」が掲載されています。
 そして、この附図の「左京図」には、東西路・南北路ともに大路と小路の名称が記載されている。しかし、「右京図」には南北路は大路・小路ともに名称が入っているが、東西路には大路名の記載はあるが小路名の記載は無い。

 このように、『延喜式』の「京程」本文と、「九条家本」に加えられている附図の間では、街路名称の有無や異同がありますが、これは何故なのでしょうか。

 大方の史家に共通した見方としては、次のようなことのようです。
 『延喜式』には、元々上記の九条家写本にある左京・右京図など附図の記載はなかった。
 九条家本『延喜式』は、のちの院政時代(1086〜1185年頃)に延喜式本文を書写したものであり、その後に書写した時に作製した図を加えたもの。つまり、成立年代が異なる延喜式本文と附図を合わせて構成したもので、所謂「取り合わせ本」であるということのようです。
 いずれにしても、九条家本『延喜式』の「左京」「右京図」は、現存する平安京図の中では最も古い時期のものだと見られています。

 ちなみに、平安京成立の当初からすべての大路に定まった名称があったということではなく、諸書に記されている街路名には異称が見られます。また、一条から九条までの数詞のつく大路名以外の街路には固定した名称はなかったようで、平安京に暮らす人々の便宜上あるいは生活上の必要から、大路小路の名称が生じたものと思われます。そして、それらの名称は長い年月を経る中で固定・定着していったということのようです。




2020年4月24日 (金)

戊辰戦争と新選組

 戊辰戦争(戊辰の役とも)は、戊辰の年(慶応4年)に武家政権最後の江戸幕府の時代が、明治時代となった時期に1年半にわたって戦われた内戦です。
 慶応3年(1867)10月14日に大政奉還され、同12月9日には薩摩・長州と倒幕派公家が王政復古のクーデターをおこして新政府を樹立しました。
 将軍徳川慶喜は、京都守護職を解任された松平容保(会津藩主)、同じく京都所司代松平定敬とともに二条城から大坂城に退去しました。

 翌明治元年(1868)正月3日、京都南部の鳥羽で新政府軍と旧幕府軍の間で砲撃の戦端が開かれ、鳥羽の砲声を合図のようにして伏見でも市街戦が始まった。この鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の発端となったのです。
 はじめ、両軍は一進一退で拮抗していたが、翌4日、朝廷は薩長軍を官軍と認定したため、旧幕府軍は朝敵とされたことで動揺が広がり、諸藩は次々と幕府側から離れて薩長軍側につきました。

戊辰役東軍西軍激戦之址(伏見区納所下野)

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戊辰戦争戦死者慰霊碑
 碑文には次のようなくだりがある。「それぞれが正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により 或る者は官軍となり 或るは幕軍となって 士道に殉じたので有ります」

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 こうなると、それまで京都守護職のもと「会津藩預かり」で幕府の非正規の警察組織として、幕府を転覆させようとする洛中の尊王攘夷派の志士を不逞浪士として厳しく弾圧していた新選組は厄介者扱いをされることになります。それでも幕府の武士として戦う道を選び、会津藩兵とともに旧伏見奉行所に立てこもりました。

伏見奉行所跡(伏見区西奉行町)

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 しかし、御香宮に陣を敷いた薩摩・長州の新政府軍の猛砲撃を受けます。この時の戦闘では伏見の市街地南部のかなりが焼失しています。

料亭「魚三楼」に残る弾痕(伏見区京町三町目)

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 旧幕府軍・新選組は、新政府軍との戦いで兵力で薩摩長州軍を圧倒するものの、銃火器で劣ったため惨敗します。

 そして正月6日には、徳川慶喜は自軍を見捨てて松平容保などとともに大坂を脱出、さっさと江戸に帰って江戸城に入り新政府に対して恭順の意を表ます。

 以後、旧幕府軍・新選組は甲州勝沼の戦いで負流(新撰組解体)、江戸城を無血開城し、宇都宮の戦いで負け、幕臣の結成した彰義隊による上野の戦いで負ける。奥羽越列藩同盟を結成するも長岡・会津・仙台・庄内の各藩が敗北して瓦解する。
 そして、旧幕府軍最後の砦となったのが函館の五稜郭で、抗戦派の旧幕臣や土方歳三など新選組を引き連れた榎本武揚の軍でした。しかし、明治2年(1869)4月には新政府軍の猛攻撃の前に敗れて、1年半にわたる戊辰戦争は終決しました。
 新撰組副長の土方歳三は戦死、幕府海軍指揮官の榎本武揚は降伏。新撰組局長の近藤勇はそれより以前の下総流山の戦いで敗北、投降して斬首されている。

 幕府に仕えていた官軍の旧幕府軍は戊辰戦争に敗れて朝敵・賊軍となり、新政府軍がとって代わり官軍となりました。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われる所以です。いつの時代でも、常に正義が勝利するのではなく、道理とは関係なく強いものが勝つのであって、勝者が正義となるのです。



2020年4月10日 (金)

高瀬川

 高瀬川は鴨川西岸、二条橋すぐ下手で鴨川から別れて流れる幅6〜7mの浅い川です。南流して伏見に至り、宇治川そして淀川を経て大阪湾に流入しています。
 この川は、角倉了以・素庵の父子によって開かれた運河で、慶長16年(1611)に着工して同19年に開通しました。

「高瀬川開鑿者 角倉氏邸址」碑

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 大正9年(1920)までの約310年間、大坂から淀川を経て、また宇治や琵琶湖から宇治川を経由して伏見京橋に着いた物資を、京都まで輸送するのに重要な役割を果たしたのが高瀬川でした。往時の川幅は今よりも約1m程度広かったそうで、伏見との間を物や人を載せた高瀬舟が上下していた。

一之船入

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 ここから下流の四条通までの西岸に櫛のように7ヶ所の船入があったのですが、現存するのはこの一之船入だけです。

高瀬川『拾遺都名所圖会』から)
 *この絵図「高瀬川」と次の「池洲」は、図をクリックすれば拡大します。

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生 洲『都名所圖会』から)

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 一之船入の北に支流を作り魚を放流して販売し、また川魚料理を食べさせる料亭が軒を連ねていました。
 この一帯の町名「西生洲町」「東生洲町」は、これに由来しているのです。

「西生洲町」の仁丹町名表示板

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 ところで話は変わりますが、かつて、高瀬川沿いの木屋町通には市電が走っていました。
 明治28年(1985)4月から7月まで、第四回内国博覧会が岡崎公園で開かれることになりました。この時、会場への足として七条停車場(現・京都駅)」から木屋町二条の間に京都市電「木屋町線」が開通したのです。東京以外の地で初めて開催された内国博覧会で、入場者数は114万人を数えたという。
 平安神宮が造営され、時代祭が始まったのもこの時でした。

 木屋町通、本名・樵木町通(こりきちょうどおり)はそれまで狭い道路だったのですが、電気軌道を敷設するために拡張したのです。
 そして、明治43年にはその軌道敷を拡張するため、高瀬川の幅3尺(約1m)を埋め立てられて、植えられていた柳の街路樹が伐採されたことで、それまでの風趣が失われたと言う。
 昭和元年(1926)以降「河原町線」が開通することで、その市電「木屋町線」も路線区間が順次廃止されて、翌年には木屋町線全線が廃止となりました。
 ちなみに、当時の路線経路は、京都駅前ー七条東洞院ー七条河原町ー木屋町五条ー四条小橋ー木屋町二条というものでした。


2019年12月27日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(3)

3. 「東山通」成立当時の地域の様子

 前回は、東山通(現・東大路通)がどのような順に整備拡張・新設されて、軌道の敷設と市電が開通したのかを見ました。
 今回は、それぞれの地域がその当時はどのような状態だったのかを、整備されていった順を追って見ていきます。

1) 三条東四丁(三条通)〜広道馬町(渋谷通)

① 三条通〜菊屋橋(白川)
 三条通の北にある孫橋通から南の古門前通までは、もともと取り立てて云う程の道はありませんでした。ここに町地を南北に貫通して道路を新設しました。
② 菊屋橋〜八坂神社石段下

《菊屋橋から見た白川》

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 この白川に架かる菊屋橋から南は「こっぽり通」と称した幅員4m余りの細い道でしたが、これを拡幅しました。
 東山通の成立により、「こっぽり通」の呼称は自然消滅する。
③ 八坂神社石段下〜松原通
 祇園石段下から、南の安井門跡(現・安井金毘羅宮の辺り)を経て松原通まで通じていた、「くちなは(蛇)の辻子」と称する細い道を拡幅。
 東山通が成立したことで、「八軒(俗称・藪ノ下)」の呼称は自然消滅する。
④ 松原通〜広道馬町(渋谷通)

《梅林町の傾斜地》

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 小島町・梅林町の一帯は東から西へ傾斜した地形で、明和年間の頃までは概ね菜園や葬送地でした。ここに盛り土をして、幅員5m程の道を通し「広道通」と称していました。これを拡幅して、僅か十余年前までは幽寂の地であったのが、交通上枢要の地域に変貌したと云う。
  
2) 三条東四丁(三条通)〜熊野神社前(丸太町通)

① 三条東四丁(三条通)〜冷泉通
 法皇寺北門前町一帯は道路を拡幅して、一筋西側の「西寺町通」に対応して「東寺町通」と称することとなる。
  法皇寺東門前町・寺南門前町も拡幅して、仁王門通から南は孫橋通で行き止まりとなっていたのを、南北に貫通する道路とした。
② 冷泉通〜竹屋町通

《琵琶湖疎水に架かる徳成橋》

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 岡崎町字徳成地(現・岡崎徳成町)の畑地を南北に道を新設し、琵琶湖疎水に徳成橋を架橋する。
③ 竹屋町通〜熊野神社前(丸太町通)
 聖護院字山王(現・聖護院山王町)の田畑を南北に道路を新設した。

3) 広道馬町(渋谷通)〜妙法院前(七条通)

 渋谷通から南については広道通を拡張するとともに、妙法院前側町の大部分を占める妙法院から収公した境内の道を利用して道路を開いた。

 以上の区間については大正初期に開通していたが、以下の区間はずっと遅れて、昭和も3年に入ってからの開通でした。

4) 熊野神社前(丸太町通)〜百万遍(今出川通)
5) 妙法院前(七条通)〜東福寺(九条通)

 そして、最後に開通した次の区間は東山通ができてから約30年後、戦時中の昭和18年7月10日のことでした。
6) 百万遍(今出川通)〜高野上開町(北大路通)

  (以上の記事は主に『京都坊目誌』を参照しました) 



2019年12月20日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(2)

2. 東山通と市電「東山線」の開通

 道路の整備(拡張と新設)とともに、電気軌道の敷設と路線開通が進められました。
 まず最初は大正元年(1912)12月25日に、現・東大路通三条から五条通の南の馬町との間に市営電車を開通させて、その路線名を「東山線」としました。
 そして、翌大正2年3月にこの通り名を「東山通」と命名しました。

 ところで「東山通」は、かつては「東山線通」と呼称したことがありました。これは、市電の路線名称「東山線」を道路名称としても使用したのです。

《南門前町の仁丹》

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 なお、旧称「東山(通)」は現在でも使用されており、「東山三条」「東山安井」など市バス停留所名や交差点表示に使われています。
《東山安井の標識》

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 その東山通(現・東大路通)は、次のような順で道路を拡幅あるいは新設して軌道の敷設が進められ、市電東山線が開通していきました。    
1) 大正元年12月25日  
    三条東四丁(三条通)〜広道馬町(渋谷通)
2) 大正2年3月15日   
    三条東四丁(三条通)〜冷泉通
3) 大正2年4月5日   
    広道馬町(渋谷通)〜妙法院前(七条通)
4)  同  4月16日   
    熊野神社前(丸太町通)〜竹屋町通
5)  同  5月6日   
    冷泉通〜竹屋町通
6) 昭和3年1月13日   
    熊野神社前(丸太町通)〜百万遍(今出川通)
7) 昭和3年11月8日   
    妙法院前(七条通)〜東福寺(九条通)
8) 昭和18年7月10日  
    百万遍(今出川通)〜高野上開町(北大路通)

 ここで、京都における電気軌道開通の揺籃期を見ておきましょう。
《京都電気鉄道伏見線石碑》
 七條停車場前に(現・京都駅)

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《伏見線終点(伏見油掛町)》

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 まず、明治28年(1895)平安遷都1100年祭の年、2月1日に日本で最初の路面電車として、京都電気鉄道(略称「京電」)の伏見線が、七條停車場(東洞院塩小路)と伏見下油掛の間で営業運転を開始。4月には岡崎の第4回内国勧業博覧会々場に至る木屋町線が開通しています。
 そして、京電は順次に、営業路線を増やしていきます。
 その後、明治45年(1912)6月11日、京都市電気軌道事務所が発足して京都市営の路線が開設され、京電と京都市電が競合する時代となりますが、大正7年(1918)京都市が京電を買収し、市電の営業路線として一本化されました。

 なお、市電の路線全体としては、東は東大路通(東山通)・西は西大路通・南は九条通・北は北大路通を外周として、その内側に碁盤の目状に路線を開通させました。
 昭和33年には京都市電の営業路線は總距離が76.83Kmとなり、市民や観光客の足として最盛時の昭和38年度には乗客数が1日平均546,488人に達しました。
 しかし、全路線の乗客数は、昭和36年の2億2千万人をピークに減少の一途を辿り、昭和52年にはついに2千万人にまで落ち込みました。
 そして、自動車の普及とともに乗客数の減少で市電経営は悪化して、路線は順次に廃止へと追い込まれ、バス路線への転換が進みました。
 最後は、明治28年2月1日の京都電気鉄道による日本初の路線営業開始から85年間を経て、ついに昭和53年(1978)9月30日には京都市電の全路線が廃止となりました。

   【続く】