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雑記

2019年8月 9日 (金)

宴の松原

「宴の松原」址碑

Photo_20190724151501  
 「宴の松原」というのは、平安京大内裏の内裏西側、武徳殿の東側、豊楽院の北側にあった広大な空閑地で、南北が約430m、東西が約250mの広さの鬱蒼とした松原であったという。
 その場所は、大内裏(平安宮)の正門である朱雀門と北端の偉鑒門をつなぐ中心線の西側、つまり内裏(御所)のちょうど西側となります。現在の上京区出水通七本松付近が、当時の「宴の松原」の中心にあたるでしょうか。
 この「宴の松原」が何を目的とした用地であったのかは明らかではありませんが、天皇の代替わりに際して内裏建て替えのための用地という説、宴(うたげ)を催すための広場という説などがあるようです。

 「宴の松原」の話は、「今ハ昔(今となっては昔のことだが)」という書き出しの部分と、「トナム語リ傳へタルトヤ(・・・と語り伝えられている)」の締め括りで有名な、平安時代後期の説話集『今昔物語集』にも、鬼・妖怪の出る不気味な場所として描かれています。
 ちなみに、この話は『三代実録』では、仁和3年(887)8月17日夜の出来事としています。

 まずその原文を、そして酒瓮斎による下手糞な現代語訳をご覧ください。

『今昔物語集』巻第二十七
「於内裏松原鬼成人形噉女語」第八
 今昔、小松ノ天皇ノ御世ニ、武徳殿ノ松原ヲ、若キ女三人打群テ、内様へ行ケリ。八月十七日ノ夜ノ事ナレバ、月キ極テ明シ。
 而ル間、松ノ木ノ本ニ、男一人出来タリ。此ノ過ル女ノ中ニ、一人ヲ引ヘテ、松ノ木ノ景ニテ、女ノ手ヲモ捕ヘテ物語シケリ。今二人ノ女ハ、「今ヤ物云畢テ来ル」ト待立テケルニ、良久ク見エズ。物云フ音モ為ザリケレバ、「何ナル事ゾ」ト怪シく思テ、二人ノ女寄テ見ルニ、女モ男モ無シ。「此レハ何クヘ行ニケルゾ」ト思テ、吉ク見レバ、只、女ノ足手離レテ有リ。二人ノ女、此レヲ見テ、驚テ走リ逃テ、衛門ノ陣ニ寄テ、陣ノ人ニ此ノ由ヲ告ケレバ、陣ノ人共、驚テ其ノ所ニ行テ見ケレバ、凡ソ骸散タル事無クシテ、只足手ノミ残タリ。其ノ時ニ、人集リ来テ、見喤シル事限無シ。「此レハ、鬼ノ人ノ形ト成テ、此ノ女ヲ噉テケル也ケリ」トゾ、人云ケル。
 然レバ、女、然様ニ人離レタラム所ニテ、知ラザラム男ノ呼バハムヲバ、広量シテ、行クマジキ也ケリ。努怖ルべキ事也トナム語リ伝ヘタルトヤ。


『今昔物語集』巻第二十七
「内裏の松原で鬼、人の形となって女を喰うこと」 第八
 今となってはもう昔のことだが、小松天皇の御代に、武徳殿の松原を若い女が三人で連れ立ち内裏の方へ歩いていた。八月十七日の夜の事ということでもあり、月は大変明るかった。
 やがて、松の木の下に一人の男が出てきた。この通り過ぎる女達の一人を呼び止めて、松の木の陰で、女の手を取って話し始めた。もう二人の女は「すぐに話し終わって戻ってくるでしょう」と待っていたけれども、戻って来る気配が無い。
 話し声も聞こえないので、「どうしたのかしら?」と怪しく思って、二人の女が近寄って見ると、女も男もいない。「これはどこに行ってしまったのかしら?」と思ってよく見ると、ただ、女の足と手だけがバラバラに残っていた。
 二人の女はこれを見て、驚き走って逃げ、警護詰所に駆け込んで、衛士にこの事を告げると、衛士達も驚いてそこへ行って見たけれど、死骸は散らばっておらずに、ただ、手足だけが残っていた。
 その時、人々が集まって来て大騒ぎとなった。
 「これは、鬼が人の形に化けてこの女を喰ったのだ」と人々は言い合った。
 だから、女はそのような人気の無い所で、知らない男から呼びかけられても、気を許してついて行ってはならない。忘れないようにしなければならない事だと語り伝えられている。


「宴の松原」の位置
  図をクリックすると拡大して見やすくなります
 (『武徳殿』「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」から転載)
Daidairiplan_butokuden_



2019年8月 2日 (金)

橋の名前の不思議

 イヤー、これでもかという連日の猛暑・酷暑にはへこたれてしまいます。
 なので、暑さ凌ぎにどうでもよいような事を気楽に考えてみました。

 以下の写真で、橋の親柱に刻字された橋の名称をご覧ください。

くわう志んはし
  荒神橋(上京区)=荒神口通の鴨川に架かる

Photo_20190731171301

志よめんはし
  正面橋(下京区)=正面通の高瀬川に架かる

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ゑちぜんはし
  越前橋(伏見区)=越前町で琵琶湖疎水放水路に架かる

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 いずれも、***ばし」ではなく、***はし」と彫られています。
 何故なのでしょうね。

 《国語学》というのには全く縁がないので、チョット調べて見ました。
 そうすると、『広辞苑』で次のような言葉と説明に行き当たりました。
 「【連濁】 二語が複合して一語をつくるときに下に来る語の初めの清音が濁音に変わること。「みかづき(三日月)」の「づき」、「じびき(地引)」の「びき」の類。」

 フムフムそうなんや! ムムッ!!それならなんで橋の名前のときは濁らんのじゃ!!!
 そこで、信憑性と云う点では疑問符がつくものの、安直に答が得られるということではすこぶる便利な方法、「ネットでググって」みました。

 そうすると、「***ばし」としないで「***はし」とするするのは、全国的と言ってよいほどに広く行なわれてきた慣行・しきたりで、それは何故なのかが判りました。

 前近代は、架橋などの土木技術、築堤や排水などの治水技術が未熟な時代でした。
 そんな時代には、橋の名前が「***ばし」と濁ると、橋を流失させる濁流、つまり、大水・洪水や氾濫といったことを連想させて縁起がよろしくない。そのため濁音を忌み嫌って清音とすることが風習となったと云うことのようです。

 さらに、橋の名前の表記の仕方でも、縁起を担いだ字の選び方をすることがあるようです。
 「くわう志ん(荒神)」「志よめん(正面)」では、「し」に「志」をあてています。
 「し」という音は「死」に通じると考えるのですね。従容として死を畏れない心の持ち方ができれば良いのですが、普通の人々であれば死を畏れることから縁起を担いだのでしょう。

 如何でしたか、軽い読み物で暑気払いになったでしょうか?



  

2019年7月 5日 (金)

鏡 石

鏡 石

 金閣寺から鷹峯千束に通じる通称鏡石道の途中、北区衣笠鏡石町の道際にある岩です。かつて、傍に立つと鏡のように映ったことから鏡石と呼ばれ、これが町名の由来と云う。
 すぐ近くには、一條・五條天皇火葬塚がある。

 『都名所圖會』は、鏡石について次のように記しています。
 「鏡石は金閣寺の北、紙屋川のうへにあり、石面水晶のごとく影を映すをもって名とせり。
  古今物名 うば玉の我黒髪やかはるらん鏡と影にふれる白雪 貫之」

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 上記挿絵中の説明文は次のようになっています。(図にカーソルを置いてクリックすると拡大します)
 「鏡石は物の影よくうつりてあきらかなる怪石なり。むかし唐土に仙人鏡といふ石あり。形廣大にして石面皎々たり。よく人の五臓をうつす。疾あるときは則其形をあらわすとぞ。これらのたぐひとやいふべき。」とあって、鏡石に婦人が自分の姿を映している様子を描いている。

 この鏡石、永年にわたり風雨に晒されたことで、現在では次の写真のように全く鏡のようではなくなっています。

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 また、『菟芸泥赴』は次のように書いています。
 「鏡岩 平野より十町ばかり北の邊の左の山際に有  石の横二間ばかり  高さ山につヾきたる所にて九尺計  裾は五尺計也  石の色くもれる鏡の面の如く平にしてむかへば影をうつす  其故の名也」


 ちなみに、鏡石はこの他にもあって、筆者は以前にこのブログで記事にした西京区の大原野にもありました。
 花の寺として知られる勝持寺の境内、「瀬和井の泉」の畔にありました。
 特にどうと言うこともない岩でしたが、写真はその説明書きです。

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2019年6月28日 (金)

祇園祭

祇園祭神輿渡御と御旅所

 夏の京都の風物詩である祇園祭は八坂神社の祭で、その規模や歴史と云った点では我が国最大の祭です。
 八坂神社は、祇園社あるいは祇園感神院と呼ばれ、祭神は牛頭天王でした。しかし、明治元年(1868)の神仏分離令により改名されたのです。その後、牛頭天王と素戔嗚尊とが習合して祀られるようになり、いわば一心同体とされる。
 現在の祭神は、主祭神が素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八王子の10座、これに配神三座と合わせて13座です。

寺町御旅所

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  祇園祭の祭事では、八坂神社を出た神輿3基は氏子町内を巡行して、四条寺町南側(御旅宮本町)の御旅所へ行き、そして八坂神社へ戻るまでの一週間は御旅所に安置されます。
 神輿渡御で御旅所に渡る7月17日を神幸祭、八坂神社に戻る7月24日を還幸祭と云います。

長刀鉾

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函谷鉾

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 神輿渡御に先だって前触れあるいは露払いとして、山鉾の巡行が行なわれ前祭・後祭と言われています。ちなみに、前祭は四条通から南の祭であることから「下(しも)の祭」、後祭は四条以北であることから「上(かみ)の祭」と呼ばれます。
 祇園祭は前祭の山鉾巡行が祭のハイライトとして人出も多く有名ですが、神事としては7月1日から31日の間ずっと続くのです。

 ところで、渡御した神輿は祇園御旅所に入られるのですが、『京町鑑』『都名所圖会』の記述を見ると、昔は四条通の北側にも御旅所があったようです。三基の神輿は、北側の社に牛頭天王(素戔嗚尊)と八王子の2座を祀り、南側の社には少将井を祀っていたということです。
 また、それよりもさらに以前には、素戔嗚尊と八王子の2座は、烏丸通五条坊門の南(今の烏丸通仏光寺下ル大政所町)の大政所と号する御旅所に祀られていました。

大政所御旅所跡

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 そして、少将井の1座は、烏丸通二条の北(今の少将井御旅町)の御旅所に祀られていたということです。

少将井御旅所跡の説明板
 京都新聞社社屋の北端壁面に設置されています。
 (写真をクリックして拡大すると幾分は読みやすくなります)

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 このように2ヶ所に分かれていた御旅所を1ヶ所に統合したのは、太閤豊臣秀吉であり天正19年(1592)のことだったそうです。

【註1】素戔嗚尊
 素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の子で日本神話に登場する
 天津神。牛頭天王は釈迦が説法をおこなった祇園精舎の守護神。
 神仏習合により両者は同体だとされる。
【註2】八王子
 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)で素戔嗚尊の八人の王子
【註3】少将井
 櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)で素戔嗚尊の妻


祇園祭の起源と怨霊の祟り

 平安時代の京都は、人が亡くなると死骸は野ざらしにされる風葬で、主な葬送地は鳥辺野(東部)・化野(西部)・蓮台野(北部)の3ヶ所がありました。
 しかし、貧しい庶民や行き倒れて死んだ人の死骸は、葬送の地に移されることなく路傍に打ち捨てられたまま、あるいは鴨川に流されることも珍しくはなかったようです。
 当時は下水道はありませんでしたから、側溝には雨水と共に生活汚水なども流されます。そして、道路は人・動物の死骸やゴミの捨て場であり、屎尿の排泄場所ともなり、現代とは違って衛生環境は劣悪でした。
 そして、当時の飲料用水は井戸水に頼っていたため、汚水・汚物で地下水は汚染の危険にさらされています。
 このような環境のもとでは、豪雨による洪水で河川が溢水して汚物が広がり散ってしまうと、疫病が発生した時にはたちまち感染が拡大流行してしまいます。

八坂神社(祇園社)

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 平安の昔、疫病の流行や天災は、政争に敗れて非業の死をとげた人の怨霊が祟りをなすものと考えられていました。そして、怨霊の祟りを鎮め宥めて災厄を避けるために御霊会が行なわれました。
 貞観5年(863)疫病が流行したとき、平安京大内裏の南東、二條大路を挟んで南側の神泉苑で朝廷が催したのが御霊会の始まりとされる。
 そして、貞観11年(869)祇園社で執り行った御霊会は、祇園御霊会また祇園会といわれましたが、これが祇園祭の起源とされています。
 祇園御霊会の祭事で、神輿渡御に先立つ山鉾の巡行をともなうようになったのは、いつ頃のことなのか定かではないようです。













2019年2月 1日 (金)

何でなんかなぁ? (2の2)

 承前
 それでは、南北が丸太町通と三条通、東西は寺町通と堀川通、これらの通りをを四囲とする範囲で、飛地のように分かれて存在する町と、それがいくつに分散しているかを挙げておきます。

竹屋町通・・・相生町(2ヶ所)、塀之内町(2ヶ所)、和久屋町(2ヶ所)、魚屋町(2ヶ所)
夷川通・・・・泉町(4ヶ所)、山中町(2ヶ所)、百足屋町(2ヶ所)、木屋町(2ヶ所)
二条通・・・・丁子屋町(2ヶ所)
姉小路通・・・姉大東町(3ヶ所)、木之下町(2ヶ所)
 といったところです。ところが、何故かこの一帯には顕著なかたちで存在するのですが、他の地域では殆ど見かけません。

 見落としがあるかも知れませんが、他の地域でこうした例が目についたのは次の町でした。
高辻通・・・・雁金町(2ヶ所)
万寿寺通
・・・堅田町(4ヶ所)


堅田町の仁丹町名表示板


Photo

 

 縦町は分断されることなく、横町は分断分散される思わしい理由が思い浮かびません。
 そこで思い切り、というよりも恐ろしく飛躍して考えてみることにしました。

 古代日本では、新しく都を構える場所を選定するにあたっては、地形、風や水の流れ、陰陽五行説など古代中国が起源の世界観を重視していました。
 平安京は北に船岡山(玄武)、東は鴨川(蒼竜)、西が木嶋大路(白虎)、南は巨椋池(朱雀)という風水の四神信仰にかない、都を設けるのに絶好の場所として選定されたのです。

 そして、中国では「天子、南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治を行うとされたことから、平安京では都の北部に大内裏(御所)が置かれました。

【註】「天子、南面す」の出典
『新訂中国古典選1』(朝日新聞社)第1巻『易』本田 済著を参照しました。
その中の『説卦傳』に、次のようにあります。
「聖人南面而聽天下。嚮明而治。」
これを読み下し文にすると、「聖人南面して天下に聴き、明に嚮(むか)いて治む。」
専門家が易しく読み解くと、「聖人が君位に就けば、南に向かって座り天下の政治を聴く。すなわち明るい方向に向かって治める。」となるそうです。


 平安京では大内裏の正門である朱雀門から南に向かって、メインストリートの朱雀大路(現・千本通)が通じていました。
 この朱雀大路は道路幅がなんと28丈(約85メートル)もあったそうです。これに次いで広いのが、朱雀門の前を東西に通っている二條大路などの17丈(約50メートル)ですから、朱雀大路はダントツの規模の道路だったようです。
 そして、朱雀大路の南端(九條大路)には、北端の朱雀門に相対して、平安京の入口・正門である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

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 このように南に向かって開いた平安京でしたから、南北の街路が東西の街路に比べて優位な立場にあり、東西の道路は位負けしたのかも知れません。

 なので、横町は縦町に分断されてしまうこととなった⤵︎。そうだ、そういうことにしておこう(これ、JR東海のCMコピー「そうだ 京都、行こう!」みたいやなー)

2019年1月25日 (金)

何でなんかなぁ? (2の1)

 どうしてそういう奇妙なことになっているのか、気になっていたのです。
 市内の中心部をうろついているとき、時々それを思い出します。けれども、納得のできる説明が思い浮かばなくて、何とももどかしかったのです。

 そんな疑問を感じたわけを簡単に記してみます。

 京都の町(ちょう)は、通り(道路)を挟んで向かい合う家々により、人々の生活単位となる町が成り立っていることが多く、両側町と呼ばれます。もちろん、通りの片側の家々だけで成り立つ町もあって、これは片側町と呼ばれます。
 中・近世を通じ、こうして京の町は形成されてきたようです。

 ところで、地図を眺めていると、南北に通る道路沿いの町(縱町)と東西に通る道路沿いの町(横町)には、奇妙で面白い違いのあることに気がつきます。

 それを、南北に通じる縦通りの新町通を例に引き、これと交差して東西に走る横通りの丸太町通と御池通の間にある町を見てみましょう。
 新町通の、丸太町通と竹屋町通の間に大炊町、竹屋町通と夷川通の間に弁財天町、夷川通と二条通の間に二条新町、二条通と押小路通の間に頭町、押小路通と御池通の間に仲之町があります。そして、それぞれの町が新町通を挟む両側町です。

大炊町の仁丹町名表示板

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 そして、これらの町はことごとく、すっきりと東西に通る道路と道路の間に位置しており、町は通りと通りの間で途切れることはありません。つまり、東西に走る各通りが町と町の境界ともなっているのです。

 これに対して、縱通りの新町通と交差して東西に走る横通りの夷川通を例にとって見てみます。
 そうすると、南北に通る新町通沿いの町のように通りが町の境界となっておらず、町の境界が極めて不規則に見えるのです。
 つまり、南北の縱通りに属する両側町は、それと交差する東西の横通りが町と町の境界となっているのに対して、横通りに属する町はそれに接する縱通りに属する町によって分断された形になっているのです。
 例えば、夷川通には泉町という町は4ヶ所に分かれて存在しています。西洞院と釜座の中程、釜座と新町の中程、新町と衣棚の中程、衣棚と室町の中程に分散して位置しています。

泉町の仁丹町名表示板

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 それでは、このように縱通り沿いにある町は一ヶ所にまとまっていて分断されることが無いにもかかわらず、なぜ、横通り沿いの町の場合はばらばらに分散させられた形となっているのでしょうか。
 これが、始めに書いたように、今に至るも答が判らずにいる疑問なのです。
 縱通りとその通り沿いの町々が、分断されずに済むという優位な位置にいられるのは、何らかの理由があってのことでしょうか。
 一方の横通り沿いの町々は、縱通りの町々とは異なり分断されることに甘んじなければならない劣位な位置にあったのでしょうか。
 縱と横の町の間にそうした優劣があったとすれば、それぞれの町の間は折り合いが悪かったでしょうね。

2019年1月 4日 (金)

謹賀新年

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 皆様、良い正月をお迎えになりましたか。
 穏やかな天気の新年となりました。酒瓮斎は今年も早速に美味しいお酒をいただいています。

 皆様にはいつも当ブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 ところで、残念ながら世間は政治も経済も先行き不透明で、波乱含みの年となりそうな感じです。

 あすよりの後のよすがはいざ知らず
    けふの一日は酔ひにけらしも  良寛

 私が古稀となった年にボケ防止のために始めたブログも、喜寿も過ぎて8年となりました。私事ながら昨年は取り込みごとがいろいろ起る中、記事の更新はなんとかこなす事ができました。
 しかし、まだもう少ししぶとく続けてみたいと思っていますので、お付き合い願います。
 

 

2018年8月24日 (金)

百鬼夜行と「あはゝの辻」

1. 妖怪スポット「あはゝの辻」
 江戸時代後期に成立したとされる、歴史物語『大鏡』から少し引用します。(いきなり何だ!と言われそうですが、固いことは言わないでください。)
 「この九條殿は、百鬼夜行にあはせたまへるは。いづれの月といふことは、えうけたまはらず、いみじう夜ふけて、内より出でたまふに、大宮より南ざまへおはしますに、あはゝのつしのほどにて・・・(以下省略)」

 そのおおよその意味は、次のような感じになるのでしょうか。

 「この九條殿が百鬼夜行に遭遇されたのです。何月のことであったかは伺っていませんが、大層夜も更てから内裏を退出されて、大宮大路から南へいらっしゃる時、あはゝの辻の辺りで、・・・」
 【註】「九條殿」は九條右大臣藤原師輔のこと、「百鬼夜行」は深夜に様々の妖怪や鬼など魑魅魍魎が、群れて練り歩くことです。

杖を持つ鬼の図
 白髭の赤鬼が白髪をなびかせて歩む(「百鬼ノ図」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

Photo
 平安時代に、百鬼夜行を取り上げた説話集は『大鏡』の他にも、いろいろあるようです。
 『今昔物語』では、藤原常行が夜も更けから愛人のもとへ行く途中、二條大路に面した大内裏の美福門の辺りで百鬼夜行に遭遇する。
 『江談抄』では、二條大路に面した大内裏の正門である朱雀門の前で、小野篁が藤原高藤に百鬼夜行を見せた。
 『康頼宝物集』『古本説話集』などは、『大鏡』から引いているそうです。
 そのほか『百鬼夜行圖』など、妖怪や鬼を描いた百鬼夜行絵巻が多数ある。


2. 「あはゝの辻」はどこに

 「あはゝの辻」の一帯は深夜になると、たくさんの妖怪など魑魅魍魎が出没群行する異界となったようです。

琵琶と琴の妖怪図
 琵琶の化物が琴の化物を引いている(「百鬼夜行絵巻」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

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 この「あはゝの辻」は、大内裏(北側)と神泉苑(南側)が向かい合う二條大路と、そのすぐ東の大宮大路が交差する地点だったようです。
 したがって、その場所は後年の慶長8年(1603)、徳川家康が造営した二條城の城内に取り込まれてしまったため、今では消滅してしまいありません。
 位置的には、二條城の二の丸庭園西端から、本丸御殿へ渡る東橋の東詰めにかけての一帯が、当時の二條大宮にあたります。

「あはゝの辻」(『中古京師内外地図全』から)
 この図では、二條大路と大宮大路が交差する地点に「アハノ辻」と記されている。
 この図は、応仁の乱以前の様子を復元すべく寛延3年(1950)に作成された。提供は国際日本文化センター。


Jpeg

 ところで、『大鏡』は平安時代末期に成立したとされます。その平安時代後期には、歴史的仮名遣いで語中や語尾のハ行音は、ワ行音に発音されるように変化します。ハ行転呼現象といわれるもので、例えば、「かは(川)」は「かわ」に、「おもはず(思はず)」は「おもわず」に転音します。
 なので、「あはゝの辻」は「あわゝの辻」と発音します。
 妖怪スポットで運悪く魑魅魍魎に遭遇した人は、当然「アワワッ!」と悲鳴をあるでしょう。「アハハッ!」では明るい笑い声になって、異界での禍々しい出来事に相応しくありませんから。(笑)


3. 妖怪のたたりを避ける方法

 百鬼夜行に出くわした人は死んでしまうと言われていたため、当時の人々は夜に出歩くことは控えたと云う。

骸骨の図
 耳のある骸骨が赤い褌姿で幣帛を持ち踊り歩いている(「百鬼ノ図」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

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 妖怪や鬼に遭遇しても、着ているものに「尊勝陀羅尼」の経文を縫い付けたり、その経文を一心に誦経することで妖怪達は退散したと云う。
 また、百鬼夜行のたたりなど害を避けるための呪文があったそうです。
 それは「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」と唱えるのだそうです。
 『袋草紙』(歌論書)や『口遊(くちずさみ)』(子供向けの教養書)などにも、同様の歌が記されていて、その意味は「難(かた)しはや、行か瀬に庫裏に、貯める酒、手酔い、足酔い、我し来にけり」とされているようです。

2018年1月 1日 (月)

あけましておめでとうございます

 皆様には良い正月をお迎えになりましたでしょうか。

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 それにしても、世間はこのところずっときな臭く、また危なっかしい様相が続いています。
 「酒は憂いの玉箒」と言い、また「酒は天の美禄」とも言うようです。
 新年を祝い良い年であることを願って、ただいま美禄をいただいているところです。

  朝もよし晝もなほよし晩もよし
    その合々にちょいちょいとよし  蜀山人

  なにもかもウソとなりたる世の中に
    マコトは酒のうまさなりけり   山頭火


 このブログは古稀になってから始めたのですが、早くも6年余りとなりました。
 始めたきっかけは、惚け防止のためでした。 動機が不純か?!
 しかしよくぞ続いたものと我ながら感心します。
 地味〜なブログですが、訪問いただく方々がそれなりに増えてきました、ありがたいことです。
 そんなことで、できればいま少しは続けたいものと思っています。(やめるのはいつでもできますから)
 今後ともお付き合いいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

2017年12月 1日 (金)

珍しい鳥居

 鳥居にも変わったものが色々とあるようです。
 稲荷信仰は平安時代以降に広まったようですが、全国に三万以上もあるという稲荷神社の元締めが伏見稲荷大社です。稲荷大社は京都の観光地としてトップの座を占めますが、朱色の鳥居がズラリと並ぶ「千本鳥居」は外国人観光客には大人気のようです。

 ところで、「京都三珍鳥居」とも呼ばれる珍しい鳥居が三つあります。

木嶋神社(通称「蚕ノ社」)の鳥居
 右京区太秦森ヶ東町
 本殿右に養蚕(こかい)神社がある。

 

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 平安京が造営される前の京都盆地北部には、賀茂氏・渡来系の秦氏・出雲氏・粟田氏・八坂氏・土師氏などの氏族が土着していました。各氏族が勢力を張った地には、氏族の名前を冠した地名や氏神社・氏寺が今に至るまで伝わっています。

 古代の太秦は秦氏の勢力地であり、養蚕・機織・染色技術で繁栄したことに因んで祀られたことから、木嶋神社は蚕ノ社と通称される。
 元糺の池(もとただすのいけ)に建っている三つ鳥居。この池は禊の行場とされる。下鴨神社にある「糺」はここから移したと云われ、ここ木島神社の場合は元糺と言われるそうです。
 この鳥居は明神鳥居を三角形に組み合わせて建てられており、その真ん中の組石の神座には御幣が立てられていて、三方から拝むことができる。 
 この鳥居は、三つ鳥居・三面鳥居・三柱鳥居などと呼ばれる。

伴氏社(北野天満宮の枝宮=末社)の鳥居
 上京区御前通今小路上ル馬喰町

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 伴氏社は菅原道真が主祭神である北野天満宮の枝宮=末社で、北野天満宮境内三の鳥居の西(左脇)に鎮座する。

 往昔、ここに北野石塔(忌明塔と俗称)があったが、これを北野天満宮境内南西部にある觀音寺(東向觀音)に移し、その址に伴氏社を祀ったと云う。
 伴氏社は、大伴氏の出である菅原道真の母を氏神として祀っている。
 鳥居柱の下の亀腹(台座部分)に、蓮花が刻まれているのが珍しい。
 また、普通の鳥居であれば、笠木と島木の下にある額束が島木を突き抜けて笠木にまで達している。
 なお、北野石塔(忌明塔)は菅原是善の墓、あるいは伴氏の墓、三好清行の墓などとも云われるようだが、ハッキリしないと云う。服喪期間の終わる忌明けは現代でも行なわれています。

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厳島神社の鳥居
 上京区京都御苑

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 厳島神社は、堺町御門を入った西側の九条池畔にある。藤原氏は古代に興り、盛衰を経て近世に至るまで続いた氏族・貴族です。その末孫にあたる関白兼実を家祖とする五摂家の一つ、旧・九条家邸の鎮守社が厳島神社で今も残っている。

 石鳥居の柱に支えられた笠木と島木が唐破風のように湾曲している。
 唐破風は神社建築・城郭建築・寺院などに見られ、建築入口屋根の装飾として付けられる。また、この装飾は神輿・山車・厨子・仏壇・墓などにも装飾として使われている。

 ところで、京都御所には次の写真のように、寝そべったような珍しい桜の木があります。
 この桜、鳥が桜の実を食べて糞とともに松の樹上に排泄したのでしょう。もともと幼木の頃には松の巨木のテッペンで花を咲かせていた寄生木(やどりぎ)です。
 松が朽ちるにしたがい、幹の空洞から根を地面まで延ばしてゆき、松が朽ちて倒れたあとも桜だけは生き延びているのです。

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