2023年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

リンク集

無料ブログはココログ

雑記

2023年9月22日 (金)

岩 神 ー禿童石(かむろいわ)ー

岩神 別の名を禿童石(かむろいわ)という。
浄福寺通上立売上ル大黒町の東側にあり、高さは人の背丈ほどもある赤っぽい大きな岩で、明治維新前までこの地にあった岩上神社の御神体です。

Photo_20230920112501

 堀川通の一筋西にある通りの名前は、二条城より北を葭屋町通、御池通から南は岩上通といいます。
 葭屋町通の名称由来は不明ですが、岩上通については面白い由緒があります。
 『京町鑑』によれば、岩上通というのは、かつて六角通下ルにあった「岩神神社」が通り名の由来となっています。ちなみに、その地は今も岩上町として町名にその名が残しています。

 この岩神神社とその霊石(御神体)は、元々は二条猪熊にあったのだが岩神町(現・岩上町)に移されたという。
 二条猪熊といえば、現在は二条城のあるところです。徳川家康が二条城を造営するにあたって、慶長7年に岩神神社は旧地を立ち退かされて岩上町へ移転させられたのです。

 さらに、霊石は中和門院(後水尾天皇の母)の屋敷にある池の畔に移されると、吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたりといった怪異現象が起きたという。子供に化けたということから禿童石(かむろいし)とも呼ばれました。
 持て余された禿童石は、寛永7年に現在地の浄福寺通上立売上ル大黒町の東側に、かつてあった蓮乗院というお寺に引き取られてきました。
 『京町鑑』には、浄福寺通寺之内下ル大黒町(別名鶴屋町とも)の東側に蓮乗院という寺があって、その寺内に「石神の社」があると記しています。
 この蓮乗院という寺は享保の大火(西陣焼け)で類焼して再建されますが、天明の大火で再び罹災して小堂を一宇残すだけとなっていたが、明治維新には廃寺となり霊石の「石神(禿童石)」と称する大石を残すのみとなったのです。

 この禿童石のいわれについて、『菟芸泥赴』の「石神」には凡そ次のように記されています。
 「禿童石といわれる岩は、元は後水尾院(後水尾天皇)のお庭にあった。ところが、この大岩が奇怪な現象を起こすという噂があったので、今出川の南の八条殿の築地の辺りに移されたがなお異様な現象は止まず、禿童(かむろ)に化けて夜に出歩くなどして人々を恐れさせたため、寛永の初めの頃にこの地へ移された。そして、世間の人々はこれを神と崇めて尊び敬うようになってからは奇怪な現象はピタリと止んで、むしろ逆に乳の出が少ない婦人が祈願すると霊験があらたかで乳が良く出るようになった。」




2023年9月 8日 (金)

喫茶店いろいろ 4 ーそのほか雑多にー

Photo_20230906153101

上の写真の店は、進々堂 京大北門前 です。
  大正2年(1913)にベーカリーショップとして創業した進々堂が、昭和5年(1930)に京都大学農学部の横でフランス風カフェとして開店しています。ある意味で正統派の喫茶店と言えるかもしれません。
 百万遍交差点の東方にあって、京都大学界隈の文教地区に相応しい外観の建物です。店内は普通の喫茶店のような小さなテーブルと椅子ではなく、書籍を何冊も広げて置ける程に大きなテーブルと長椅子がそれぞれ何脚も据えられていて、昔の図書館の閲覧机のような感じです。
 このテーブルは、漆芸・木工作家の黒田辰秋(人間国宝)がまだ無名時代に作ったものという。黒田は、のちに柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司などによる民芸運動にも関わっている。
 場所柄、主な客層は京大の学生・院生や教授などで、その点は東大正門前の「万定フルーツパーラー」とよく似ている。

 シリーズ『喫茶店いろいろ』として、いろんな形式の喫茶店を見てきました。
 最終回の今回は「そういえば、あの頃はこんな店も・・・」とかすかに記憶に残る喫茶店や、聞いたことがあるけれど足を踏み入れたことはない店も含めて取り上げました。


タンゴ喫茶
 1950年代から60年代にかけて日本でもタンゴが流行して、多くのタンゴバンドが活動していました。
 その頃、木屋町通四条上ル二筋目(現・十軒町橋通)を西木屋町から西に入ったところに、タンゴ喫茶「クンパルシータ」がありました。その後、店は閉店してしまいましたが。
 本場のアルゼンチン・タンゴに対して、ヨーロッパで作られたものをコンチネンタル・タンゴと称していました。日本でもよく知られたタンゴバンドは、
アルゼンチン・タンゴ・・・・フランシスコ・カナロ、ファン・ダリエンソ
コンチネンタル・タンゴ・・・アルフレッド・ハウゼ、マランド
日本では、早川真平とオルケスタ・ティピカ東京
オルケスタ・ティピカ東京に加入した歌手の藤沢嵐子は、1950年代日本のタンゴ・ブームの立役者の一人で、後に早川真平と結婚。
 ちなみに、菅原洋一はこの楽団からデビューしています。

歌声喫茶
 もう半世紀も前のことになるでしょうか、四条河原町西方の北側に歌声喫茶「炎」という店がありました。
 あいにく、「歌声喫茶」というものには関心がなかったため行ったことはないのですが、「炎」に用意された歌集の歌や、その時に流行している歌をリーダーが客の皆んなと一緒に歌うというもののようでした。
 その当時、学生で「炎」でアルバイトをしていたという人のサイトを見つけました。
 内田誠一郎(Bapak Uchida)さんという人のHPで、その中の『炎 学生時代の思い出』というページは、当時の世の中や歌声喫茶「炎」の様子などがわかる大変に興味深いものです。
 ちなみに、内田誠一郎さんはプロフィールによると、定年でヤマハ株式会社を退職されて後、郷里へお戻りになって作曲活動に没頭されているということです。


同伴喫茶
 記憶は定かではありませんが、遥か昔、西木屋町を龍馬通から少し下がった辺りにもあったような気がします。
 何でも、店内は狭い個室が並んでいて、その入口と内部壁面には分厚いカーテンが掛かっている。そして、個室にはロマンスシートと小さなテーブルが置かれているだけといったものだったようです。
 そんな作りと調度であるため、よくは分からないけれどもカップルがデートで利用した店なのでしょう。
 ちなみに、ロマンスシートというのはかつて映画館や喫茶店に設けられた二人掛けの座席を言った和製英語なのだそうです。なお、英語では「love seat」と言うそうです。
 ネットで検索してみると、今でも「カップルシート」や「二人個室」などと称して、二人きりで過ごせるカフェがあるようです。

 それから、これは先輩に聞いたことがあるだけで、実際がどんな店だったのかについては全く知りませんが、美人喫茶・和風喫茶といったものがあったようです。多分1960年代のことなのでしょう。




2023年8月25日 (金)

喫茶店いろいろ 3 ー名曲喫茶ー

Photo_20230822121201


 小洒落た喫茶店で、クラシックやジャズが会話や読書の邪魔をしない程度に、うるさ過ぎず低過ぎず快い音色と音量で流れている。そんな店でコーヒーが美味いとなるとこれはもう嬉しくなります。


 昔は「名曲喫茶」というのがあちこちにありました。
 ちょっとしたコンサートホールのような音響で優れた楽曲を聴かせるのですが、ルールとマナーの厳しい店が多く、クラシックだのバロック・古典派・ロマン派などと聞くだけで腰が引けてしまう人種にとっては、「名曲喫茶」というのは敷居が高く店に入るのに勇気が必要でした。

 今ではすっかり珍しくなってしまった名曲喫茶は、「私語厳禁」でひたすら音楽に向き合わなければならない堅苦しく、偏屈で暗いイメージの空間でした。もちろん、そんな厳しい音楽鑑賞のルールを定めた店ばかりではなく、オーナーの考え方次第で緩やかなルールの店もありました。
 そうした店のオーナーの多くは自身がクラシック音楽好きであり、音響システムに凝っていてオーディオ機器は真空管アンプやスピーカーのコーンを手作りしているという店も珍しくなかったのです。そして、曲調によってスピーカーを使い分けるという徹底ぶりでした。

 現在では、音源はコンパクトディスク(CD)が普通で、音楽をデジタル化して記録したディスクをCDプレーヤーでレーザー光を使って読み出し再生しています。
 しかし、1980年代の初めくらいまでは音を記録したレコード盤から、レコードプレーヤーで音の信号を取り出していました。その頃はレコードプレーヤーのターンテーブルに乗せたLPレコードが微かにパチパチと独特のノイズを発するのも、それはそれで何かチョット良いものでした。

 ところで、昔ながらの厳しいルールやマナーを今も貫いている店、名曲喫茶「柳月堂」が叡山電車出町柳駅のすぐそばにあります。
 チャージ料を支払ってリスニングルームに入室。音楽鑑賞の妨げとなるため「私語厳禁」を初めとして、物音を発生させるような行為は一切を禁じるというルールになっています。
 音楽に耳を傾けることに没頭する場所と時間であれば、耳障りで余計な雑音を発することは許されないというのも、あながち偏屈なルールだとは言えません。  
 また、静粛を保つため声を発することはできないので、曲や飲み物のリクエストはオーダー用の五線紙ノートに記入するのです。
 ミニステージのセンターにはピアノが据えられ、その両側に大きくて立派なスピーカーが設置されています。そのステージに向かってソファーの座席が設けられていて、ちょっとした小さなコンサートホールのようです。




2023年8月11日 (金)

喫茶店いろいろ 2 ージャズ喫茶ー

Photo_20230805121401
ジャズ喫茶「ろくでなし」の出入り口
 ドアーに雑然と貼られたフライヤー、ちょっと気圧されそうな雰囲気ですね。
 この店は、京都でジャズ喫茶の草分け「しゃんくれーる」が閉店する10年前に開店したそうなので、店の歴史はかれこれ40有余年になるようです。

Photo_20230805121402
 トップの写真とは打って変わりますが・・・。
 かつて、京都のジャズ喫茶の草分けとされる「しゃんくれーる」 Champ Clair という店がありました。(1956年のオープンで1990年に閉店)
 当時、巷間言われた「思案に暮れる」が店名の謂われというのは俗説とのこと。
 河原町通荒神口の北東角にあって外壁は煉瓦色のタイルを貼った建物でした。1階はBGMにクラシックのレコードを流し、2階はモダンジャズをレコード演奏していました。
 この「しゃんくれ」の跡地、今ではコインパーキングになっています。

 1960年代には、モダンジャズの大物ミュージシャンが次々と来日していました。
 彼らが京都で公演をするときは、「しゃんくれ」の女性オーナーがアテンドをしていて、舞台にも上がって花束を贈呈していました。
 その頃、京都会館第1ホール(今のロームシアター京都メインホール)でおこなわれたモダンジャズのプレーヤー達の公演をよく聴きに行ったのを思い出します。
 マイルス・デイビス(tp)、キャノンボール・アダレイ(as)、チャーリー・パーカー(as)、ソニー・ロリンズ(ts)、セロニアス・モンク(p)、ホレス・シルバー(p)、アート・ブレイキー(ds)、マックス・ローチ(ds)、モダン・ジャズ・カルテット(combo)などでした。

 また、ニューヨーク在住の日本人ジャズピアニストで作曲家、穐吉敏子(秋吉敏子)が京都公演をおこなったときも行きました。彼女は、1999年に日本人でただ一人「国際ジャズ名誉の殿堂」入りを果たし、2007年にはジャズ界では最高の栄誉とされるアメリカ国立芸術基金の「NEAジャズ・マスター賞」を受賞しています。

 ところで、モダンジャズの歴史、これはチョット手に負えないくらい大きくて難しいテーマなのですが、無手っ法ながら大まかに眺めてみたいと思います。(細かい説明は抜きです)
 モダンジャズは、スイングジャズが衰退した1940年代初め頃に生まれたビ・バップに始まって、40年代末辺りからのクールジャズ、50年代のハードバップにファンキー(ソウル)、60年代はモードジャズがモダンジャズの主流となり、70年代になるとジャズを基調としつつロックやラテン音楽、クラシックなどのとのフュージョン(融合)へと変遷しています。




2023年7月28日 (金)

喫茶店いろいろ 1 ー純喫茶ー

 かつて、若い人達の間では喫茶店のことを略して、また気取って「さてん(茶店)」という言い方がありました。昔の「ちゃみせ」「ちゃや」に相当するのでしょう。
 その喫茶店、現在はチェーンの珈琲店が幅を利かせていますが、1970年代頃までは純喫茶をはじめとして、ジャズ喫茶・名曲喫茶・タンゴ喫茶・歌声喫茶・美人喫茶・同伴喫茶・和風喫茶などなど、いろんな喫茶店がありました。そして、今ではインターネットカフェ・メード喫茶・漫画喫茶などと言うのもあるようです。
 そこで気の向くまま、また気ままにいくつかの喫茶店を取り上げてみたいと思います。
 まず、今回は純喫茶です。

Photo_20230727163701


純喫茶

 純喫茶は純粋に喫茶だけの店であって、メニューはコーヒーと紅茶・ジュースといったものが基本で、店によっては軽食・甘い物やフルーツを供しますがアルコール飲料は供しません。
 純喫茶に限りませんがコーヒー豆やその淹れ方(抽出方法)へのこだわりには一家言あるオーナーが少なくありません。

ネルハンドドリップ・・・湯を落とす時間と温度を調節できる
ペーパーフィルター・・・ネルドリップの簡易なもの
サイフォン・・・抽出の過程が見ていて楽しく、あっさりした味わいの旨みが出る
ボイリング・・・挽きたての豆を鍋で炊き出して晒しで濾すスタイルのため、短時間で旨味を引き出すので味が安定する(ホテルやレストランが大人数にサーブするのに適している)
コーヒーアーン・・・これは営業用のドリップ式抽出器具で保温もできる

 また、一般的ではないものにダッチコーヒー(水で抽出する)、ウインナーコーヒー(ホイップした生クリームを浮かせる)、アイリッシュコーヒー(ウイスキーを入れる)、ルシアンコーヒー(ココアを入れる)、ベネディクティンコーヒー(強いリキュールと交互に飲む)などもあります。

 ・・・、「コーヒー? 紅茶? ハーン!! そんな子供騙しみたいなモンを飲むくらいなら、まだビールの方がマシじゃ〜!!!」などと言う奴輩に純喫茶は向きません。そんな輩は不純な喫茶店?にでも行きなはれ。




2023年6月30日 (金)

合歓木(ネムノキ)

Dsc_0560

 合歓木はマメ科の植物なのだそうです。そういえば、「さやえんどう」の一種でシャキシャキした歯触りの「絹さや」のように、平たく薄い鞘の中に小さな豆のような種ができます。
 花の先端はピンクの細長い多くの花びらが傘のように開いて、その根本部分は筒状になっています。多くの細いピンクの花びらは刷毛のようになっていて、得も言われぬあえかで美しい花です。

象潟や雨に西施がねぶの花  芭蕉
 西施というのは、中国春秋時代の越の国の伝説上の美女だそうです。芭蕉は合歓木の美しい花を美女西施に擬えたのです。

 合歓木の葉はオジギソウに似ています。ただし、オジギソウの葉は手で触れると閉じますが、ネムノキは手で触れても閉じず日が暮れて夜なると閉じます。
 夜に葉を閉じて眠るようなところから「眠りの木」が「ネムノ木」になったと言われるようです。




2023年6月16日 (金)

アジサイ(紫陽花)

 梅雨の頃に咲く特に珍くもない花です・・・が、雨に濡れそぼつ様子はちょっと立ち止まって眺めてしまう花です。
 丸くボッテリと咲いているアジサイは改良された園芸種で、ホンアジサイと称されることもあるものです。

ホンアジサイ

Img_0291

 原種は日本産で、ガクアジサイと呼ばれているものだそうです。ガクアジサイの名は、花の周囲を装飾花が額縁のように飾っていることから、「額アジサイ」と言うほどの意味で名づけられています。
 ヨーロッパで品種改良されたアジサイは西洋アジサイと呼ばれます。

ガクアジサイ

Img_0296
 アジサイには異称が多くあって、花の色が変わることから七変化・八仙花、花びらが4枚に見えることから四葩(よひら)と書かれて俳句では季語になっているとか。また、アジサイに当てられる漢字も多くあります。
 ホンアジサイの花は、中央のものを除いては装飾花で4枚の萼(がく)が変化したものなのだそうです。
 私は長い間ホンアジサイの方がプロトタイプで、ガクアジサイが改良された園芸種だと思っていました。これと言って理由はないのですが、花の見た目から何となくそのように思っていたのです。

 ところで、アジサイの一部の品種は有毒植物であるため、園芸や切り花として利用する際には取り扱いに注意が必要とのこと。牛、山羊、人などが摂食したことによって、中毒が発生した事例が報告されているようで、症状は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て稀には死亡する場合もあるが、口に入れなければ毒の効果は無いとのことです。




2023年5月 6日 (土)

思いのまま

Img_0265
Img_0271

 前回は遅咲きで薄緑色の花を咲かせる桜、御衣黄の花をアップしました。
 今回は遅咲きの絞りの梅の花です。遅咲きとは言うものの、時期が外れ過ぎて可笑しいのですが・・・。
 写真の梅の花、撮った時期は普通の梅よりかなり遅くて3月24・31日でした。
 その名は「思いのまま(思いの儘)」、またの名を「輪違い(りんちがい)」と言われています。

 1本の木のしかも同じ枝に、紅・ピンク・白の八重の花が咲くのは「咲き分け」「源平咲き(源平仕立て)」と言い、紅白まだらの花が咲くのは「絞り」と言われるようです。
   
 梅の花の色は本来は白色なのだそうです。
 突然変異で花の色に変種が生じると、それを接ぎ木や挿し木によって増やしていくようです。接ぎ木や挿し木をした場合は、その枝に咲く花は元の木と同じ色になります。

 品種改良をするとき思うような花に咲かせられなくて、木が勝手に思いのままに色を咲き分けたのが「思いのまま」ですが、これも突然変異なのでしょう。



2023年4月21日 (金)

御衣黄(ぎょいこう)

Img_0276
 この花、御衣黄という桜の一種です。

 ソメイヨシノがとうに散ってしまった4月の中旬から下旬の頃に咲く、とびきり遅咲きの桜です。
 咲き初めは上品な感じの黄緑色の花ですが、徐々に白っぽい黄色に変わって、そのあと花の中央が赤くなります。赤くなると枯れ初めなのだそうですです。
 アサヒビール大山崎山荘美術館でこの御衣黄の花を見たのですが、庭園の手入れをしていた造園の職人さんは「私たちはこの桜を青ザクラと呼んでいます」とのことでした。そういえば、信号機の色で緑色のことを青色ということもありますね。
 御衣黄には、浅葱ザクラ、緑ザクラ、黄桜(あの ♪キーザクラ〜 ドンッ♪ の日本酒ではありません)などの別称があるようです。
 ちなみに、緑色の花が咲く桜には「鬱金(うこん)桜」というのもあります。
 どちらの桜も初めて見たのは大阪の造幣局でした。





2023年3月10日 (金)

ウ メ

Photo_20230308154101
Photo_20230308154201
 梅は中国中部の原産で、日本で野生化したとされている。
 梅にはビックリするほど多くの異称があって、好文木(こうぶんぼく)、花の兄(はなのあに)、春告草(はるつげぐさ)、匂草(においぐさ)、香散見草(かざみぐさ)風待草(かぜまちぐさ)、香栄草(かばえぐさ)、初名草(はつなぐさ)といった具合です。
 7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された『万葉集』には、ウメを詠んだものが118首もあって、サクラの約3倍もあるということです。ちなみに、一番多いのはハギなのだそうです。
 現在では花といえば桜ですが、このように奈良時代・平安時代の頃は梅だったようです。もっとも、ウメもサクラもバラ科の植物ですから遠い親戚になります。

 次の言葉は、室町時代中期の臨済宗の僧で、一休宗純禅師(一休さん)のものです。
 「花は桜木 人は武士 柱は檜 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの」
 いずれもトップと目されるものを挙げているいるのですが、一休さん、花は梅ではなく桜が一番としています。花では散り際の見事な桜が最も優れていて、人なら死に際の潔い武士でしょう、と言っています。
 脱線ついでに、一休さんの言葉をもう一つ。
 「世の中は 起きて箱して 寝て食って 後は死ぬるを 待つばかりなり」
 蓋し名言ですね (*^-^)
 *「箱(はこ)」は、ふたの付いた入れ物、また、いまのオマル(室内用に持ち運べる便器)のことで転じて糞を意味します。






より以前の記事一覧