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雑記

2020年6月19日 (金)

福助人形

1
「福助」について、『広辞苑 第四版』では次のように説明しています。
 ①幸福招来の縁起人形。背が低く頭が異常に大きい男性人形。ちょんまげに結い上下(かみしも)をつけて正座する。福の神。→叶福助(かのうふくすけ)。②福助のように頭の異常に大きい人。
「叶福助」を引くと、次のような説明がある。
 文化元年(1804)頃から江戸で流行し始めた福の神の人形。諸願を叶えるとして、茶屋・遊女屋そのた水商売の家などで祀った。甲子夜話九「ーと名づけて巨頭小軀なる土偶」

 この福助人形を商標として登録している会社があります。足袋をはじめとした繊維製品メーカーの「福助株式会社」が、明治33年7月18日に登録とともに社名を「福助」としていた。

 ところが、この「福助」というのが、発生と云うか由来がハッキリせず、次のように諸説があるのです。

① 京都の呉服商大文字屋主人の容貌
 江戸時代、京都に大文字屋という呉服屋があった。初代の村田市兵衛は、頭が大きく背が低かったので、「かぼちゃ市兵衛」とあだ名されたところから、転じて頭でっかちで背の低い人を言った。
 この話に酷似、というより同一と思われる話がある。
 京都の大文字屋という大きな呉服屋に頭の大きな小男の主人がいて、一代で大福長者になったが、町の貧民に施しをして助けたので、貧民たちが彼の像を作って報恩したのが福助人形の始めという。

② 中山道柏原宿にあるもぐさ屋の番頭
 滋賀県柏原の旧・中山道沿いに、「亀屋左京」という伊吹山の艾(もぐさ)を商う店があります。(滋賀県米原市柏原2229番地)
この店は「伊吹堂亀屋もぐさ」として、江戸時代初期の寛文元年(1661)の創業と謳っている。

《木曾海道六十九次の内  柏原》
 亀屋の店先、向かって右端に福助人形がドッカリと鎮座している。

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 歌川広重(安藤広重)が亀屋の店頭風景を版画絵に描いたもので、裃を付けて扇子を手に持ち、大きな頭に大きな耳たぶという福々しい姿の福助人形が描き込まれています。  
 そして、亀屋左京のサイトには次のような説明があります。
 「もぐさ屋の亀屋には福助という正直一途の番頭がいました。 創業以来伝えられた家訓をまもり、普段の日は裃を着け、扇子を手放さず、道行くお客さんにもぐさを勧め、どんなに少ない商いでも感謝の心を表しておべっかを言わず、真心で応え続けました。 耳たぶが異様に大きなこの人物の噂は一躍上方でも有名に。 噂を耳にした伏見の人形屋が、福を招く縁起ものとして番頭福助の姿を人形にうつし瞬くうちに福助人形は大流行。商店の店先に飾られるようになっていきます。」とあり、伏見人形になったというのですね。

③ 幸福を招来するという縁起人形の一種。
 背が低く、童顔で頭の大きい男性人形で、ちょんまげを結い、裃(かみしも)を着けて正座した形。江戸時代の享和期(1801〜04)頃に死んだ長寿の佐太郎という実在人物を模したものといわれている。佐太郎は摂津国の農家の生れで、身長約60cmぐらいの大頭の小人(こびと)であったが、見世物に出るなどして富を築き、幸運に恵まれた生涯をおくり長寿であったといわれる。
 佐太郎にあやかろうとして、〈叶福助〉という大頭の人形が売り出された。しかし、江戸ではすでに享保期(1716〜36)に、土製の福助人形が流行したという。

④ その他にも
 江戸の両国の見世物小屋に出ていた大頭で小男が、福助の名で大いに評判を呼んだ。
 江戸吉原の娼家の大文字屋の主人だった。

などという話もあるそうな。

 

2020年5月15日 (金)

仲源寺の目病み地藏

 このお寺の所在地は、東山区四条通大和大路東入 祇園町南側です。
 浄土宗の寺院で山号は寿福山、所伝では平安時代中期の治安2年(1022)に仏師定朝により建立されて、本尊の地藏菩薩も定朝の作とされる。
 また、後堀河天皇の安貞2年(1228)8月、鴨川に洪水が起きたとき防鴨河使の勢田為兼にこれを防がせた。それ以後、朝廷の勅願寺となって「仲源寺」の額を賜ったとする。
 本尊の地藏菩薩は、俗に「目疾(めやみ)の地藏」とも「雨止みの地藏」とも称される。

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 『都名所圖会』には、仲源寺と本尊について次のように記している。
 「仲源寺は四條大和大路の巽の角にあり、浄土宗にして知恩院に属す。本尊地藏菩薩は土中出現の尊像なり。一説には定朝の作なりとぞ 世の人目疾地藏と稱す。眼病平癒の祈願をすれば霊験あり。実は雨止地藏なり、往来の人驟雨の時此堂に宿りしとなり。(略)」
 本尊の「目やみの地藏」というのは、実は「雨やみの地藏」、つまり「あめやみ」が訛って「めやみ」になったのだとしています。

 それで、元々の呼称であった「雨やみの地藏」の謂れについては、『京都坊目誌』では次のように記しています。
 
 その昔、仲源寺の一帯には人家が非常に少なかったので、にわか雨に遭った旅人がこの仲源寺の堂宇に雨を避けたことから、「雨やみの地藏」と呼び慣わされるようになったと云う。

 ところで、本尊の地蔵尊がなぜ地中から掘り出されたのか。また、なぜ「目病み地藏」と称され、眼病に霊験があるのか。
 『京町鑑』は、概ね次のように記しています。
 
 本尊が定朝の作になる霊像であることから、兵乱の火災で焼けるのを避けるために土中に埋めおかれた。そして、平穏な世になってから掘り出したところ、尊像の目に土砂が入っていたため目を病んだように見えた。
 このことから「目病みの地藏」と言い習わされて、眼病の平癒を祈ると霊験あらたかなことで広く知られたと云う。
 なお、掘り出された場所は、『京童』によると「ちおんゐんのまへなる畠中よりほり出し此所にあんぢしける也」と記し、知恩院の前にある畠だとしています。


2020年1月17日 (金)

昔の「旅」 ー寺社参詣と物見遊山ー

 現代の私達にとって「旅行」や「観光」の目的は、普段の生活から脱け出して異なる風景・景色・町並みの中に身を置いて、非日常的な経験を求めることにあると言えるでしょう。
 仕事や労働の必要から、生まれそして住み着いた在所を離れて、遠方に出かける「たび(旅行)」は近世以前においてもあったでしょう。
 けれども、仕事目的ではなく観光的な旅行に出ることが可能だったのは、貴族や僧侶など上流階級の人々に限られていました。

 近世(江戸時代)になっても、各地に関所や口留番所(関所の小規模なもの)が設置されおり、人々の自由な移動は厳しく制限されていました。このため、一般庶民が自由に旅行するというようなことはできなかったのです。
 とはいえ、庶民でも伊勢神宮の参拝や、信仰・祈願のために聖地や霊場を巡拝する「たび」については、庄屋・名主・旦那寺などの発行する往来手形(身分証明書)があれば黙認されていたようです。
 そのため、各地の寺社や山岳に集団で参拝することを目的に、参拝旅費の積み立て制度として伊勢講や富士講など多くの講組織が作られました。頼母子講や無尽講などは、こうした相互扶助制度から派生したものです。

弥次喜多像

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 ところが、こうした「たび」は寺社参詣だけではなく、行楽もまた大きな目的となっていました。というより、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多に見られるように、むしろ社寺参詣を口実にした物見遊山の方が主たる目的だったでしょう。こうした「たび」が今言うところの「観光旅行」の始まりだったのです。

宿屋の夕刻(『拾遺都名所圖會』巻二左青龍尾  から)
 (いつも通り、挿絵は画像をクリックすると拡大できます)

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 近世になると幕府の宗教政策によって、主要な仏教宗派の本山はそのほとんどが京都に集中します。そして、それら寺院の壮麗な伽藍や庭園は、京都観光の主要な対象となっていました。神社の社殿・境内もやはり同じです。

 先に記したように、昔の人々にとってはこうした神社仏閣への参詣は、信仰と行楽を兼ねていました。
 したがって、寺社の門前や周辺は多くの人々が集まる「盛り場」となり、旅籠屋をはじめ料理茶屋・水茶屋、様々な店や物売りが建ち並ぶとともに、芝居小屋では見世物の興行がおこなわれ、幕間には芝居茶屋で飲食をして寛ぎました。

阿国歌舞伎発祥地の碑

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出雲阿国像

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 『京雀』には、樵木町通(現在の木屋町通)の四条から「東のかたをみれば四條川原いろ〻見物の芝居ありその東は祇園町北南行ながら茶やはたごやにて座しきには客の絶る時なし祇園殿西の門只一目にみゆ」と、その賑わいを記しています。

 ということで、清水寺・南禅寺・上賀茂神社・下鴨神社などの著名な名刹古社も、その門前は参詣の人々で大いに賑わった。

四條河原夕涼の躰(『都名所圖會』巻二  から)

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 物見遊山・社寺参詣が広く行われるようになると、平安時代以来の都として憧憬される京都には地方から多くの人々が訪れるようになり、名所案内記(謂わば観光ガイドブック)が多数刊行されます。そうした京都の名所記の数は二百数十種にも及んだそうです。

 ちなみに、『京都名所圖會』の凡例には次にように記しています。「(略)神社の芳境  佛閣の佳邑  山川の美観等  今時の風景をありのままに模写し  舊本花洛細見圖を増益して時々其遺漏を巡歴し  攝社艸庵たりとも一宇も洩ず  幼童の輩坐して古蹟の勝地を見る事を肝要とす」

 最後に、そうした名所案内記のいくつかを挙げておきます。

『京童』明暦4年(1658)と『京童跡追』寛文7年(1667)共に中川喜雲著、これは案内記・名所記の先駆をなすものとされます。
『京雀』寛文5年(1665)浅井了意著、『京雀後追』延宝6年(1678)著者不詳、『京童』の遺漏を補うとともに実用的地誌を考慮した新しい形式。

『近畿歴覧記』延宝6年(1678)~貞享4年(1687)黒川道祐著、洛中洛外各地の紀行を集めたもの。
『菟芸泥赴』貞享元年(1684)北村季吟著、平安京内裏をはじめ洛中洛外の社寺や名所を説明。
『京羽二重』貞享2年(1685)と『京羽二重織留』元禄2年(1689)狐松子著、これらは趣味と実益を兼ねた京都案内記。
『山州名跡志』元禄15年(1702)釈白慧著、山城1国8郡386村を実地に踏査して克明に描写している。 
『京城勝覧』宝永3年(1706)貝原益軒著、洛中洛外の名所旧跡を17日間で巡覧できるように日程を組んでおり、各コースとも三条大橋を起点として1日で巡れる範囲にとどめている。
『山城名跡巡行志』宝暦4年(1754)釈浄慧著、洛中の寺社旧跡を北は一条から六条まで、西の京を東から西へ書き進めて巡行の便を旨として編まれている。
『京町鑑』宝暦12年(1762)白鷺著、京町鑑の最も代表的なもので、京都の町を縦町通・横町通ごとに各町の説明を中心としており、京都の町の研究に不可欠となっている。
『都名所圖會』安永9年(1780)秋里籬島著、実地を踏査して書き描いた本文と挿絵は読者を名所旧跡に遊ぶ思いにさせる。

 

2019年9月27日 (金)

八 坂

 京都盆地東部の東山連峰、その北端にある比叡山(848m)から南端の稲荷山(233m)まで、約12Kmにわたって連なる峰々は「東山三十六峰」と称されてきた。
 この東山連峰は概ね北高南低となっていて、ほぼ中央にある清水山(242m)から南には、南端の稲荷山を除いて200mを越える峰は見られない。

東山連峰稜線の一部(阿弥陀が峰から稲荷山にかけて)

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 なだらかな起伏を見せる稜線は、服部嵐雪が「蒲団着て寝たるすがたやひがし山」と詠んだように、その優美な眺めは京都の景観美をなす要素の一つです。
[註:服部嵐雪は江戸時代前期の俳人で松尾芭蕉に俳句を学び、宝井其角・向井去来・森川許六などとともに蕉門十哲の一人とされる。]
 
 「八坂」は、古には京都盆地の東北部にあたる山城国愛宕郡(おたぎぐん)を構成した13郷の一つ八坂郷(也佐賀)で、平安京造都以前からあった地名と見られる。
 ちなみに13郷とは、蓼倉・栗野(栗栖野)・粟田(上・下)・大野・小野・錦織・八坂・鳥戸・愛宕・賀茂・出雲の各郷を言う。

八坂神社
 祇園社・祇園感神院などと呼ばれていたが、明治になって神仏分離に伴い現社名となった。

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 古代のこの一帯には高句麗系の渡来氏族とみられる八坂氏が居住したが、氏族名は地名を名乗ったもののようで、奈良時代の正倉院文書『山背國愛宕郡計帳』に「八坂馬養造」、平安時代初期の『新撰姓氏録』には「八坂造」と、その名が見られると云う。

 「八坂」の地名由来は、東山三十六峰が西方に向かって緩やかに傾斜する、坂の多い地形であることに因むようです。
 「ヤは数多いことをいう接頭語、サカは傾斜地である」(『地名が語る京都の歴史』)として、「ヤ」は数や量の「八」ではなく、「多い」「おびただしい」と云った意味であり、多くの坂のある土地を意味したとする説がある。
 また、「八坂はヤ+サカ(坂)で、ヤは弥栄(いやさか)などという場合のヤにあたり、坂にかかるいわばほめ言葉で、坂が立派なのでただ坂といわないで、ヤサカと称したものであろう。」(『京都の地名検証』)とする説もみられる。

 ところで、《八坂》地域の範囲は、参照した地誌によってその表現には違いがあるものの、いずれの書も同一の地域を指しています。
『山州名跡志』は、「其ノ方領凡ソ祇園ヨリ三年坂ニ至ル歟」
『山城名跡巡行志』は、「清水ヨリ祇園ノ邊二至ル郷名也 今法觀寺境内ヲ八坂町ト云フ」
『都名所圖会』は、「北は眞葛原南は清水坂までの惣名なり」
『京都坊目誌』は、「祇園以南清水坂以北の汎稱なり本町元法觀寺の境内なり。」

長楽寺坂

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法観寺坂から見る五重塔

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三年坂(産寧坂とも)

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 そして、《八坂》名称の由来については、上記の地誌のうち『京都坊目誌』を除いては、挙げている坂の名称は一致しています。それは、祇園坂・長楽寺坂・下河原坂・法観寺坂・霊山坂・三年坂・山井坂・清水坂の八つの坂としています。
 しかし、目を引くのは『京都坊目誌』で、「後世此地に八坂 所謂祇園坂。長樂寺坂。法觀寺坂。靈山坂。産寧坂。清水坂。山井坂。下河原坂。是ナリ あるを以て地名と爲れりと傳ふるは淺薄の甚だしきものなり。」と書いているのです。つまり、祇園坂など八つの坂のあることが八坂の地名由来だなどと言うのは、浅く薄っぺらな知識・考えであって従えないとしているのです。


2019年9月13日 (金)

京都の「上ル・下ル・東入・西入」

 京都のいわゆる旧市内では、ある場所(地点)の位置を表現するとき、あるいは進む方向を示すときは、南北道路(縱の通り)と東西道路(横の通り)が交差する地点を基準にして表現します。
 その際、北ヘ行く(移動する)のを「上ル(あがる)」、南に行くのを「下ル(さがる)」と表現します。また、東西への移動は「東入(ひがしいる)」「西入(にしいる)」と表現します。
 そして、これに町名・地番を付け加えて特定の場所を表すのが、慣例的なやりかたとして定着しています。

仁丹町名表示板

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 ここで気を付けたいのは、「東入」「西入」の場合には慣習として、送り仮名の「ル」は省略して付けません。
 しかし、「上ル」「下ル」の場合は「上(かみ)」「下(しも)」との混同を避ける必要もあり、送り仮名「ル」を入れます。ただし、「ル」であり「ガル」とはしません。

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 ちなみに、江戸時代前期の儒学者(朱子学)である貝原益軒は、『京城勝覧』[宝永3年(1706)刊]で次のように、極めて簡潔に言い表しています。
 「京都の町南北を縱とし。東西を横とす。縦町なれば北にゆくをあがるといふ。南にゆくをさがるといふ。横町なれば。何の町を東へ入。西へ入と云。すべて此四言をもつて町を尋れば。まぎれなく尋やすし。」と、大変判りやすく表現しています。
 このような慣例がスタンダードとなったのはいつの頃なのか、確かなことは判っていません。
 しかし、近世に著された地誌を見ると、すでに江戸時代初期の寛文期のものにはそのような表現を見ることができます。(例:寛文5年刊『京雀』など)

 ところで、「東入」と「西入」については特に説明がなくても判ります。しかし、北へ行くのを「上ル」、南に向かうのを「下ル」と表現するのは何故なのでしょうか。
 そうなった理由(らしいもの)として、二つばかり思い浮かびます。
 一つには、古代中国では「天子南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治をおこない、宮殿も南に向けて造営されるのが習わしで、こうしたことが影響しているようなのです。
 こうして、お上(天皇)のおわす北は上(かみ)に上ル(あがる)、それに対して南は下(しも)へ下ル(さがる)と観念されることになったのでしょうか。
 もう一つは、京都盆地の地形は北から南西に向かって傾斜しており、鴨川や桂川などの主要河川は概ね北から南へと流れています。そのため、北が上流・上(かみ)・上手(かみて)で、南は下流・下(しも)・下手(しもて)と認識されることも影響しているのではないかと思われます。

 さて、『京町鑑』などの地誌でも、南北の通りでは「上ル」と「下ル」、東西の通りでほ「東入」と「西入」という表現が普通に広く使われています。
 それでは、その使い方には法則性や基準といったものがあるのでしょうか。

 広がりのある地所、例えば町(ちょう)や広い境内地を持つ寺社などの所在位置を示す場合であれば、大雑把でおよその表現であっても、特に差し支えはありません。
 ところが、特定の狭い場所(地点)を表示する場合には、もっと的確でピンポイント的な表現をしなければ、正確さに欠けて用を足すのには不十分です。

 例えば、ある目標地が東西に通っている2つの通りの間にある場合、北側の通りに近いのか、それとも南側の通りに近いのか。その目的地が距離的には南側の通りに近いときには「下ル」ではなく、「上ル」と表記したほうが正確ということになります。

 これを具体的に例を挙げて説明しましょう。

京都市学校歴史博物館

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 写真の、京都市学校歴史博物館(元・開智小学校跡)の所在地は、「京都市下京区御幸町通仏光寺下ル橘町437番地」です。
 この表記の意味するところは、京都市学校歴史博物館は御幸町通の「仏光寺を下がったところ」にあるのであって、御幸町通の「高辻を上がったところ」ではないのです。判りやすくいえば、京都市学校歴史博物館の所在地は高辻通よりも、仏光寺通に近いことを示しているのです。
 註:ちなみに、橘町は「たちばなチョウ」と読み、「たちばなマチ」ではありません。旧市内に限って言えば、町名の場合は「◯◯チョウ」であって、「◯◯マチ」と読むのは極めて稀です。通りの名称では室町通・新町通・両替町通など、「◯◯マチ通」と読ませます。

 そういう点では、江戸前期の地誌『京羽二重』や『京羽二重織留』などでも、例えば、目的の商家や諸職がその通りのどこに位置しているのか、北側の町筋に近ければ「下ル」と記し、南側の町筋に近い場合には「上ル」というように、現実に即して的確に位置を記述・説明しています。
 これは、東西の通り沿いにある目的地の場合においても同様となります。

 以上、京都に独特な方角・方向と位置の表現について考えてみました。


 

2019年8月23日 (金)

結界石

 結界石というのは、境を示す標(目印)であり、「聖の領域」と「俗の領域」を分ける標識なのです。
 寺域や修行の場など特別な地域(結界)では、宗教上の妨げとならないよう秩序を維持する必要から、結界(聖域)と俗界(俗世)とを分けるために建てられています。

 したがって、結界石に刻まれた銘文は、聖域の秩序を維持するうえで禁止されている行為等が刻字されています。

諸肉五辛不入山林(大山崎・山崎聖天)

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不許酒肉五辛入山内(上京区三軒町・安楽寺)

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 以下は結界石に刻まれた銘文のいろいろです。

1. 結界であることを示す
  大界外相
  摂僧大界

2. 結界への持ち込みを禁じるもの
  禁酒肉五辛入門内
  諸肉五辛不入山林
  不許酒肉五辛入門内   
  不許葷酒葷酒入山門
  不許葷辛酒肉入山門
  不許葷肉入門
  不許葷酒入山門
  禁葷酒   
  山門禁葷酒
   
3. 結界に立ち入りを禁じられた者や禁止行為
  従是女人結界   
  不許藝遊客
  禁藝術賣買之輩
  

禁じれれている事柄とその理由は次のようなものです。
① 五辛(五葷とも)
 葫(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・韮(らっきょう)・蘭葱(ひる)を云う。
 みんな辛味や臭気が強いこと、また食べると精力がついて性的な欲望を生じるそうな。
② 酒・肉
 酒池肉林、紂王やないんやから贅沢きわまりない酒宴はやったらアカン、ダメダメ!。
 酒食をすると気分晴朗・気宇壮大になって、仏道修行も大いに捗ると思うんやけどな。
③ 女人(にょにん)
 女の人の艶やかな容色は出家の心をも乱して、仏道に励むうえで妨げになるらしいわ。
 紅灯緑酒はアカンね。ンッ?紅灯の巷で坊主を見かけるけど、禁じられた遊びやんか!

 

2019年8月 9日 (金)

宴の松原

「宴の松原」址碑

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 「宴の松原」というのは、平安京大内裏の内裏西側、武徳殿の東側、豊楽院の北側にあった広大な空閑地で、南北が約430m、東西が約250mの広さの鬱蒼とした松原であったという。
 その場所は、大内裏(平安宮)の正門である朱雀門と北端の偉鑒門をつなぐ中心線の西側、つまり内裏(御所)のちょうど西側となります。現在の上京区出水通七本松付近が、当時の「宴の松原」の中心にあたるでしょうか。
 この「宴の松原」が何を目的とした用地であったのかは明らかではありませんが、天皇の代替わりに際して内裏建て替えのための用地という説、宴(うたげ)を催すための広場という説などがあるようです。

 「宴の松原」の話は、「今ハ昔(今となっては昔のことだが)」という書き出しの部分と、「トナム語リ傳へタルトヤ(・・・と語り伝えられている)」の締め括りで有名な、平安時代後期の説話集『今昔物語集』にも、鬼・妖怪の出る不気味な場所として描かれています。
 ちなみに、この話は『三代実録』では、仁和3年(887)8月17日夜の出来事としています。

 まずその原文を、そして酒瓮斎による下手糞な現代語訳をご覧ください。

『今昔物語集』巻第二十七
「於内裏松原鬼成人形噉女語」第八
 今昔、小松ノ天皇ノ御世ニ、武徳殿ノ松原ヲ、若キ女三人打群テ、内様へ行ケリ。八月十七日ノ夜ノ事ナレバ、月キ極テ明シ。
 而ル間、松ノ木ノ本ニ、男一人出来タリ。此ノ過ル女ノ中ニ、一人ヲ引ヘテ、松ノ木ノ景ニテ、女ノ手ヲモ捕ヘテ物語シケリ。今二人ノ女ハ、「今ヤ物云畢テ来ル」ト待立テケルニ、良久ク見エズ。物云フ音モ為ザリケレバ、「何ナル事ゾ」ト怪シく思テ、二人ノ女寄テ見ルニ、女モ男モ無シ。「此レハ何クヘ行ニケルゾ」ト思テ、吉ク見レバ、只、女ノ足手離レテ有リ。二人ノ女、此レヲ見テ、驚テ走リ逃テ、衛門ノ陣ニ寄テ、陣ノ人ニ此ノ由ヲ告ケレバ、陣ノ人共、驚テ其ノ所ニ行テ見ケレバ、凡ソ骸散タル事無クシテ、只足手ノミ残タリ。其ノ時ニ、人集リ来テ、見喤シル事限無シ。「此レハ、鬼ノ人ノ形ト成テ、此ノ女ヲ噉テケル也ケリ」トゾ、人云ケル。
 然レバ、女、然様ニ人離レタラム所ニテ、知ラザラム男ノ呼バハムヲバ、広量シテ、行クマジキ也ケリ。努怖ルべキ事也トナム語リ伝ヘタルトヤ。


『今昔物語集』巻第二十七
「内裏の松原で鬼、人の形となって女を喰うこと」 第八
 今となってはもう昔のことだが、小松天皇の御代に、武徳殿の松原を若い女が三人で連れ立ち内裏の方へ歩いていた。八月十七日の夜の事ということでもあり、月は大変明るかった。
 やがて、松の木の下に一人の男が出てきた。この通り過ぎる女達の一人を呼び止めて、松の木の陰で、女の手を取って話し始めた。もう二人の女は「すぐに話し終わって戻ってくるでしょう」と待っていたけれども、戻って来る気配が無い。
 話し声も聞こえないので、「どうしたのかしら?」と怪しく思って、二人の女が近寄って見ると、女も男もいない。「これはどこに行ってしまったのかしら?」と思ってよく見ると、ただ、女の足と手だけがバラバラに残っていた。
 二人の女はこれを見て、驚き走って逃げ、警護詰所に駆け込んで、衛士にこの事を告げると、衛士達も驚いてそこへ行って見たけれど、死骸は散らばっておらずに、ただ、手足だけが残っていた。
 その時、人々が集まって来て大騒ぎとなった。
 「これは、鬼が人の形に化けてこの女を喰ったのだ」と人々は言い合った。
 だから、女はそのような人気の無い所で、知らない男から呼びかけられても、気を許してついて行ってはならない。忘れないようにしなければならない事だと語り伝えられている。


「宴の松原」の位置
  図をクリックすると拡大して見やすくなります
 (『武徳殿』「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」から転載)
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2019年8月 2日 (金)

橋の名前の不思議

 イヤー、これでもかという連日の猛暑・酷暑にはへこたれてしまいます。
 なので、暑さ凌ぎにどうでもよいような事を気楽に考えてみました。

 以下の写真で、橋の親柱に刻字された橋の名称をご覧ください。

くわう志んはし
  荒神橋(上京区)=荒神口通の鴨川に架かる

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志よめんはし
  正面橋(下京区)=正面通の高瀬川に架かる

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ゑちぜんはし
  越前橋(伏見区)=越前町で琵琶湖疎水放水路に架かる

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 いずれも、***ばし」ではなく、***はし」と彫られています。
 何故なのでしょうね。

 《国語学》というのには全く縁がないので、チョット調べて見ました。
 そうすると、『広辞苑』で次のような言葉と説明に行き当たりました。
 「【連濁】 二語が複合して一語をつくるときに下に来る語の初めの清音が濁音に変わること。「みかづき(三日月)」の「づき」、「じびき(地引)」の「びき」の類。」

 フムフムそうなんや! ムムッ!!それならなんで橋の名前のときは濁らんのじゃ!!!
 そこで、信憑性と云う点では疑問符がつくものの、安直に答が得られるということではすこぶる便利な方法、「ネットでググって」みました。

 そうすると、「***ばし」としないで「***はし」とするするのは、全国的と言ってよいほどに広く行なわれてきた慣行・しきたりで、それは何故なのかが判りました。

 前近代は、架橋などの土木技術、築堤や排水などの治水技術が未熟な時代でした。
 そんな時代には、橋の名前が「***ばし」と濁ると、橋を流失させる濁流、つまり、大水・洪水や氾濫といったことを連想させて縁起がよろしくない。そのため濁音を忌み嫌って清音とすることが風習となったと云うことのようです。

 さらに、橋の名前の表記の仕方でも、縁起を担いだ字の選び方をすることがあるようです。
 「くわう志ん(荒神)」「志よめん(正面)」では、「し」に「志」をあてています。
 「し」という音は「死」に通じると考えるのですね。従容として死を畏れない心の持ち方ができれば良いのですが、普通の人々であれば死を畏れることから縁起を担いだのでしょう。

 如何でしたか、軽い読み物で暑気払いになったでしょうか?

  

2019年7月 5日 (金)

鏡 石

鏡 石

 金閣寺から鷹峯千束に通じる通称鏡石道の途中、北区衣笠鏡石町の道際にある岩です。かつて、傍に立つと鏡のように映ったことから鏡石と呼ばれ、これが町名の由来と云う。
 すぐ近くには、一條・五條天皇火葬塚がある。

 『都名所圖會』は、鏡石について次のように記しています。
 「鏡石は金閣寺の北、紙屋川のうへにあり、石面水晶のごとく影を映すをもって名とせり。
  古今物名 うば玉の我黒髪やかはるらん鏡と影にふれる白雪 貫之」

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 上記挿絵中の説明文は次のようになっています。(図にカーソルを置いてクリックすると拡大します)
 「鏡石は物の影よくうつりてあきらかなる怪石なり。むかし唐土に仙人鏡といふ石あり。形廣大にして石面皎々たり。よく人の五臓をうつす。疾あるときは則其形をあらわすとぞ。これらのたぐひとやいふべき。」とあって、鏡石に婦人が自分の姿を映している様子を描いている。

 この鏡石、チャートという緻密で硬い岩石が断層活動でズレていく時、両側の岩盤が互いに擦れて磨き合い、ピカピカと光る鏡のようになったと考えられる。
 しかし、永年にわたり風雨に晒されたことで岩肌に光沢は無くなり、現在では次の写真のように全く鏡のようではなくなっています。

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 また、『菟芸泥赴』は次のように書いています。
 「鏡岩 平野より十町ばかり北の邊の左の山際に有  石の横二間ばかり  高さ山につヾきたる所にて九尺計  裾は五尺計也  石の色くもれる鏡の面の如く平にしてむかへば影をうつす  其故の名也」


 ちなみに、鏡石はこの他にもあって、筆者は以前にこのブログで記事にした西京区の大原野にもありました。
 花の寺として知られる勝持寺の境内、「瀬和井の泉」の畔にありました。
 特にどうと言うこともない岩でしたが、写真はその説明書きです。

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2019年6月28日 (金)

祇園祭

祇園祭神輿渡御と御旅所

 夏の京都の風物詩である祇園祭は八坂神社の祭で、その規模や歴史と云った点では我が国最大の祭です。
 八坂神社は、祇園社あるいは祇園感神院と呼ばれ、祭神は牛頭天王でした。しかし、明治元年(1868)の神仏分離令により改名されたのです。その後、牛頭天王と素戔嗚尊とが習合して祀られるようになり、いわば一心同体とされる。
 現在の祭神は、主祭神が素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八王子の10座、これに配神三座と合わせて13座です。

寺町御旅所

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  祇園祭の祭事では、八坂神社を出た神輿3基は氏子町内を巡行して、四条寺町南側(御旅宮本町)の御旅所へ行き、そして八坂神社へ戻るまでの一週間は御旅所に安置されます。
 神輿渡御で御旅所に渡る7月17日を神幸祭、八坂神社に戻る7月24日を還幸祭と云います。

長刀鉾

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函谷鉾

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 神輿渡御に先だって前触れあるいは露払いとして、山鉾の巡行が行なわれ前祭・後祭と言われています。ちなみに、前祭は四条通から南の祭であることから「下(しも)の祭」、後祭は四条以北であることから「上(かみ)の祭」と呼ばれます。
 祇園祭は前祭の山鉾巡行が祭のハイライトとして人出も多く有名ですが、神事としては7月1日から31日の間ずっと続くのです。

 ところで、渡御した神輿は祇園御旅所に入られるのですが、『京町鑑』『都名所圖会』の記述を見ると、昔は四条通の北側にも御旅所があったようです。三基の神輿は、北側の社に牛頭天王(素戔嗚尊)と八王子の2座を祀り、南側の社には少将井を祀っていたということです。
 また、それよりもさらに以前には、素戔嗚尊と八王子の2座は、烏丸通五条坊門の南(今の烏丸通仏光寺下ル大政所町)の大政所と号する御旅所に祀られていました。

大政所御旅所跡

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 そして、少将井の1座は、烏丸通二条の北(今の少将井御旅町)の御旅所に祀られていたということです。

少将井御旅所跡の説明板
 京都新聞社社屋の北端壁面に設置されています。
 (写真をクリックして拡大すると幾分は読みやすくなります)

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 このように2ヶ所に分かれていた御旅所を1ヶ所に統合したのは、太閤豊臣秀吉であり天正19年(1592)のことだったそうです。

【註1】素戔嗚尊
 素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の子で日本神話に登場する
 天津神。牛頭天王は釈迦が説法をおこなった祇園精舎の守護神。
 神仏習合により両者は同体だとされる。
【註2】八王子
 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)で素戔嗚尊の八人の王子
【註3】少将井
 櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)で素戔嗚尊の妻


祇園祭の起源と怨霊の祟り

 平安時代の京都は、人が亡くなると死骸は野ざらしにされる風葬で、主な葬送地は鳥辺野(東部)・化野(西部)・蓮台野(北部)の3ヶ所がありました。
 しかし、貧しい庶民や行き倒れて死んだ人の死骸は、葬送の地に移されることなく路傍に打ち捨てられたまま、あるいは鴨川に流されることも珍しくはなかったようです。
 当時は下水道はありませんでしたから、側溝には雨水と共に生活汚水なども流されます。そして、道路は人・動物の死骸やゴミの捨て場であり、屎尿の排泄場所ともなり、現代とは違って衛生環境は劣悪でした。
 そして、当時の飲料用水は井戸水に頼っていたため、汚水・汚物で地下水は汚染の危険にさらされています。
 このような環境のもとでは、豪雨による洪水で河川が溢水して汚物が広がり散ってしまうと、疫病が発生した時にはたちまち感染が拡大流行してしまいます。

八坂神社(祇園社)

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 平安の昔、疫病の流行や天災は、政争に敗れて非業の死をとげた人の怨霊が祟りをなすものと考えられていました。そして、怨霊の祟りを鎮め宥めて災厄を避けるために御霊会が行なわれました。
 貞観5年(863)疫病が流行したとき、平安京大内裏の南東、二條大路を挟んで南側の神泉苑で朝廷が催したのが御霊会の始まりとされる。
 そして、貞観11年(869)祇園社で執り行った御霊会は、祇園御霊会また祇園会といわれましたが、これが祇園祭の起源とされています。
 祇園御霊会の祭事で、神輿渡御に先立つ山鉾の巡行をともなうようになったのは、いつ頃のことなのか定かではないようです。