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雑記

2019年2月 1日 (金)

何でなんかなぁ? (2の2)

 承前
 それでは、南北が丸太町通と三条通、東西は寺町通と堀川通、これらの通りをを四囲とする範囲で、飛地のように分かれて存在する町と、それがいくつに分散しているかを挙げておきます。

竹屋町通・・・相生町(2ヶ所)、塀之内町(2ヶ所)、和久屋町(2ヶ所)、魚屋町(2ヶ所)
夷川通・・・・泉町(4ヶ所)、山中町(2ヶ所)、百足屋町(2ヶ所)、木屋町(2ヶ所)
二条通・・・・丁子屋町(2ヶ所)
姉小路通・・・姉大東町(3ヶ所)、木之下町(2ヶ所)
 といったところです。ところが、何故かこの一帯には顕著なかたちで存在するのですが、他の地域では殆ど見かけません。

 見落としがあるかも知れませんが、他の地域でこうした例が目についたのは次の町でした。
高辻通・・・・雁金町(2ヶ所)
万寿寺通
・・・堅田町(4ヶ所)


堅田町の仁丹町名表示板


Photo

 

 縦町は分断されることなく、横町は分断分散される思わしい理由が思い浮かびません。
 そこで思い切り、というよりも恐ろしく飛躍して考えてみることにしました。

 古代日本では、新しく都を構える場所を選定するにあたっては、地形、風や水の流れ、陰陽五行説など古代中国が起源の世界観を重視していました。
 平安京は北に船岡山(玄武)、東は鴨川(蒼竜)、西が木嶋大路(白虎)、南は巨椋池(朱雀)という風水の四神信仰にかない、都を設けるのに絶好の場所として選定されたのです。

 そして、中国では「天子、南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治を行うとされたことから、平安京では都の北部に大内裏(御所)が置かれました。

【註】「天子、南面す」の出典
『新訂中国古典選1』(朝日新聞社)第1巻『易』本田 済著を参照しました。
その中の『説卦傳』に、次のようにあります。
「聖人南面而聽天下。嚮明而治。」
これを読み下し文にすると、「聖人南面して天下に聴き、明に嚮(むか)いて治む。」
専門家が易しく読み解くと、「聖人が君位に就けば、南に向かって座り天下の政治を聴く。すなわち明るい方向に向かって治める。」となるそうです。


 平安京では大内裏の正門である朱雀門から南に向かって、メインストリートの朱雀大路(現・千本通)が通じていました。
 この朱雀大路は道路幅がなんと28丈(約85メートル)もあったそうです。これに次いで広いのが、朱雀門の前を東西に通っている二條大路などの17丈(約50メートル)ですから、朱雀大路はダントツの規模の道路だったようです。
 そして、朱雀大路の南端(九條大路)には、北端の朱雀門に相対して、平安京の入口・正門である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

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 このように南に向かって開いた平安京でしたから、南北の街路が東西の街路に比べて優位な立場にあり、東西の道路は位負けしたのかも知れません。

 なので、横町は縦町に分断されてしまうこととなった⤵︎。そうだ、そういうことにしておこう(これ、JR東海のCMコピー「そうだ 京都、行こう!」みたいやなー)

2019年1月25日 (金)

何でなんかなぁ? (2の1)

 どうしてそういう奇妙なことになっているのか、気になっていたのです。
 市内の中心部をうろついているとき、時々それを思い出します。けれども、納得のできる説明が思い浮かばなくて、何とももどかしかったのです。

 そんな疑問を感じたわけを簡単に記してみます。

 京都の町(ちょう)は、通り(道路)を挟んで向かい合う家々により、人々の生活単位となる町が成り立っていることが多く、両側町と呼ばれます。もちろん、通りの片側の家々だけで成り立つ町もあって、これは片側町と呼ばれます。
 中・近世を通じ、こうして京の町は形成されてきたようです。

 ところで、地図を眺めていると、南北に通る道路沿いの町(縱町)と東西に通る道路沿いの町(横町)には、奇妙で面白い違いのあることに気がつきます。

 それを、南北に通じる縦通りの新町通を例に引き、これと交差して東西に走る横通りの丸太町通と御池通の間にある町を見てみましょう。
 新町通の、丸太町通と竹屋町通の間に大炊町、竹屋町通と夷川通の間に弁財天町、夷川通と二条通の間に二条新町、二条通と押小路通の間に頭町、押小路通と御池通の間に仲之町があります。そして、それぞれの町が新町通を挟む両側町です。

大炊町の仁丹町名表示板

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 そして、これらの町はことごとく、すっきりと東西に通る道路と道路の間に位置しており、町は通りと通りの間で途切れることはありません。つまり、東西に走る各通りが町と町の境界ともなっているのです。

 これに対して、縱通りの新町通と交差して東西に走る横通りの夷川通を例にとって見てみます。
 そうすると、南北に通る新町通沿いの町のように通りが町の境界となっておらず、町の境界が極めて不規則に見えるのです。
 つまり、南北の縱通りに属する両側町は、それと交差する東西の横通りが町と町の境界となっているのに対して、横通りに属する町はそれに接する縱通りに属する町によって分断された形になっているのです。
 例えば、夷川通には泉町という町は4ヶ所に分かれて存在しています。西洞院と釜座の中程、釜座と新町の中程、新町と衣棚の中程、衣棚と室町の中程に分散して位置しています。

泉町の仁丹町名表示板

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 それでは、このように縱通り沿いにある町は一ヶ所にまとまっていて分断されることが無いにもかかわらず、なぜ、横通り沿いの町の場合はばらばらに分散させられた形となっているのでしょうか。
 これが、始めに書いたように、今に至るも答が判らずにいる疑問なのです。
 縱通りとその通り沿いの町々が、分断されずに済むという優位な位置にいられるのは、何らかの理由があってのことでしょうか。
 一方の横通り沿いの町々は、縱通りの町々とは異なり分断されることに甘んじなければならない劣位な位置にあったのでしょうか。
 縱と横の町の間にそうした優劣があったとすれば、それぞれの町の間は折り合いが悪かったでしょうね。

2019年1月 4日 (金)

謹賀新年

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 皆様、良い正月をお迎えになりましたか。
 穏やかな天気の新年となりました。酒瓮斎は今年も早速に美味しいお酒をいただいています。

 皆様にはいつも当ブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 ところで、残念ながら世間は政治も経済も先行き不透明で、波乱含みの年となりそうな感じです。

 あすよりの後のよすがはいざ知らず
    けふの一日は酔ひにけらしも  良寛

 私が古稀となった年にボケ防止のために始めたブログも、喜寿も過ぎて8年となりました。私事ながら昨年は取り込みごとがいろいろ起る中、記事の更新はなんとかこなす事ができました。
 しかし、まだもう少ししぶとく続けてみたいと思っていますので、お付き合い願います。
 

 

2018年8月24日 (金)

百鬼夜行と「あはゝの辻」

1. 妖怪スポット「あはゝの辻」
 江戸時代後期に成立したとされる、歴史物語『大鏡』から少し引用します。(いきなり何だ!と言われそうですが、固いことは言わないでください。)
 「この九條殿は、百鬼夜行にあはせたまへるは。いづれの月といふことは、えうけたまはらず、いみじう夜ふけて、内より出でたまふに、大宮より南ざまへおはしますに、あはゝのつしのほどにて・・・(以下省略)」

 そのおおよその意味は、次のような感じになるのでしょうか。

 「この九條殿が百鬼夜行に遭遇されたのです。何月のことであったかは伺っていませんが、大層夜も更てから内裏を退出されて、大宮大路から南へいらっしゃる時、あはゝの辻の辺りで、・・・」
 【註】「九條殿」は九條右大臣藤原師輔のこと、「百鬼夜行」は深夜に様々の妖怪や鬼など魑魅魍魎が、群れて練り歩くことです。

杖を持つ鬼の図
 白髭の赤鬼が白髪をなびかせて歩む(「百鬼ノ図」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

Photo
 平安時代に、百鬼夜行を取り上げた説話集は『大鏡』の他にも、いろいろあるようです。
 『今昔物語』では、藤原常行が夜も更けから愛人のもとへ行く途中、二條大路に面した大内裏の美福門の辺りで百鬼夜行に遭遇する。
 『江談抄』では、二條大路に面した大内裏の正門である朱雀門の前で、小野篁が藤原高藤に百鬼夜行を見せた。
 『康頼宝物集』『古本説話集』などは、『大鏡』から引いているそうです。
 そのほか『百鬼夜行圖』など、妖怪や鬼を描いた百鬼夜行絵巻が多数ある。


2. 「あはゝの辻」はどこに

 「あはゝの辻」の一帯は深夜になると、たくさんの妖怪など魑魅魍魎が出没群行する異界となったようです。

琵琶と琴の妖怪図
 琵琶の化物が琴の化物を引いている(「百鬼夜行絵巻」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

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 この「あはゝの辻」は、大内裏(北側)と神泉苑(南側)が向かい合う二條大路と、そのすぐ東の大宮大路が交差する地点だったようです。
 したがって、その場所は後年の慶長8年(1603)、徳川家康が造営した二條城の城内に取り込まれてしまったため、今では消滅してしまいありません。
 位置的には、二條城の二の丸庭園西端から、本丸御殿へ渡る東橋の東詰めにかけての一帯が、当時の二條大宮にあたります。

「あはゝの辻」(『中古京師内外地図全』から)
 この図では、二條大路と大宮大路が交差する地点に「アハノ辻」と記されている。
 この図は、応仁の乱以前の様子を復元すべく寛延3年(1950)に作成された。提供は国際日本文化センター。


Jpeg

 ところで、『大鏡』は平安時代末期に成立したとされます。その平安時代後期には、歴史的仮名遣いで語中や語尾のハ行音は、ワ行音に発音されるように変化します。ハ行転呼現象といわれるもので、例えば、「かは(川)」は「かわ」に、「おもはず(思はず)」は「おもわず」に転音します。
 なので、「あはゝの辻」は「あわゝの辻」と発音します。
 妖怪スポットで運悪く魑魅魍魎に遭遇した人は、当然「アワワッ!」と悲鳴をあるでしょう。「アハハッ!」では明るい笑い声になって、異界での禍々しい出来事に相応しくありませんから。(笑)


3. 妖怪のたたりを避ける方法

 百鬼夜行に出くわした人は死んでしまうと言われていたため、当時の人々は夜に出歩くことは控えたと云う。

骸骨の図
 耳のある骸骨が赤い褌姿で幣帛を持ち踊り歩いている(「百鬼ノ図」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

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 妖怪や鬼に遭遇しても、着ているものに「尊勝陀羅尼」の経文を縫い付けたり、その経文を一心に誦経することで妖怪達は退散したと云う。
 また、百鬼夜行のたたりなど害を避けるための呪文があったそうです。
 それは「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」と唱えるのだそうです。
 『袋草紙』(歌論書)や『口遊(くちずさみ)』(子供向けの教養書)などにも、同様の歌が記されていて、その意味は「難(かた)しはや、行か瀬に庫裏に、貯める酒、手酔い、足酔い、我し来にけり」とされているようです。

2018年1月 1日 (月)

あけましておめでとうございます

 皆様には良い正月をお迎えになりましたでしょうか。

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 それにしても、世間はこのところずっときな臭く、また危なっかしい様相が続いています。
 「酒は憂いの玉箒」と言い、また「酒は天の美禄」とも言うようです。
 新年を祝い良い年であることを願って、ただいま美禄をいただいているところです。

  朝もよし晝もなほよし晩もよし
    その合々にちょいちょいとよし  蜀山人

  なにもかもウソとなりたる世の中に
    マコトは酒のうまさなりけり   山頭火


 このブログは古稀になってから始めたのですが、早くも6年余りとなりました。
 始めたきっかけは、惚け防止のためでした。 動機が不純か?!
 しかしよくぞ続いたものと我ながら感心します。
 地味〜なブログですが、訪問いただく方々がそれなりに増えてきました、ありがたいことです。
 そんなことで、できればいま少しは続けたいものと思っています。(やめるのはいつでもできますから)
 今後ともお付き合いいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

2017年12月 1日 (金)

珍しい鳥居

 鳥居にも変わったものが色々とあるようです。
 稲荷信仰は平安時代以降に広まったようですが、全国に三万以上もあるという稲荷神社の元締めが伏見稲荷大社です。稲荷大社は京都の観光地としてトップの座を占めますが、朱色の鳥居がズラリと並ぶ「千本鳥居」は外国人観光客には大人気のようです。

 ところで、「京都三珍鳥居」とも呼ばれる珍しい鳥居が三つあります。

木嶋神社(通称「蚕ノ社」)の鳥居
 右京区太秦森ヶ東町
 本殿右に養蚕(こかい)神社がある。

 

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 平安京が造営される前の京都盆地北部には、賀茂氏・渡来系の秦氏・出雲氏・粟田氏・八坂氏・土師氏などの氏族が土着していました。各氏族が勢力を張った地には、氏族の名前を冠した地名や氏神社・氏寺が今に至るまで伝わっています。

 古代の太秦は秦氏の勢力地であり、養蚕・機織・染色技術で繁栄したことに因んで祀られたことから、木嶋神社は蚕ノ社と通称される。
 元糺の池(もとただすのいけ)に建っている三つ鳥居。この池は禊の行場とされる。下鴨神社にある「糺」はここから移したと云われ、ここ木島神社の場合は元糺と言われるそうです。
 この鳥居は明神鳥居を三角形に組み合わせて建てられており、その真ん中の組石の神座には御幣が立てられていて、三方から拝むことができる。 
 この鳥居は、三つ鳥居・三面鳥居・三柱鳥居などと呼ばれる。

伴氏社(北野天満宮の枝宮=末社)の鳥居
 上京区御前通今小路上ル馬喰町

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 伴氏社は菅原道真が主祭神である北野天満宮の枝宮=末社で、北野天満宮境内三の鳥居の西(左脇)に鎮座する。

 往昔、ここに北野石塔(忌明塔と俗称)があったが、これを北野天満宮境内南西部にある觀音寺(東向觀音)に移し、その址に伴氏社を祀ったと云う。
 伴氏社は、大伴氏の出である菅原道真の母を氏神として祀っている。
 鳥居柱の下の亀腹(台座部分)に、蓮花が刻まれているのが珍しい。
 また、普通の鳥居であれば、笠木と島木の下にある額束が島木を突き抜けて笠木にまで達している。
 なお、北野石塔(忌明塔)は菅原是善の墓、あるいは伴氏の墓、三好清行の墓などとも云われるようだが、ハッキリしないと云う。服喪期間の終わる忌明けは現代でも行なわれています。

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厳島神社の鳥居
 上京区京都御苑

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 厳島神社は、堺町御門を入った西側の九条池畔にある。藤原氏は古代に興り、盛衰を経て近世に至るまで続いた氏族・貴族です。その末孫にあたる関白兼実を家祖とする五摂家の一つ、旧・九条家邸の鎮守社が厳島神社で今も残っている。

 石鳥居の柱に支えられた笠木と島木が唐破風のように湾曲している。
 唐破風は神社建築・城郭建築・寺院などに見られ、建築入口屋根の装飾として付けられる。また、この装飾は神輿・山車・厨子・仏壇・墓などにも装飾として使われている。

 ところで、京都御所には次の写真のように、寝そべったような珍しい桜の木があります。
 この桜、鳥が桜の実を食べて糞とともに松の樹上に排泄したのでしょう。もともと幼木の頃には松の巨木のテッペンで花を咲かせていた寄生木(やどりぎ)です。
 松が朽ちるにしたがい、幹の空洞から根を地面まで延ばしてゆき、松が朽ちて倒れたあとも桜だけは生き延びているのです。

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2017年6月30日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 3

 前回は、和歌に詠われている同名の景物(山や清水など)を幾つか見ました。
 ところが、ほかにも祭礼の名前が似通っているだけでなく、祭礼も同じ日に行なわれるものがありました。

6. 二月上卯日を祭礼日としている
 『菟芸泥赴』に、「二月上卯日は大原祭あり競馬などもあり 西山の大原野祭も二月上卯日なり故あるにや」と記しています。
 *「上卯」というのは、卯の日が月に2回ある時は先の卯の日ということです。

 大 原
 『菟芸泥赴』の記述にもかかわらず、現在では洛北・大原に2月上卯日を祭礼日とする神社は存在しないようです。

 大原野
  《大原野神社》

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 洛西・大原野の大原野神社(西京区大原野南春日町)は現在の祭礼日は4月8日ですが、昔は菟芸泥赴に記すように2月上卯日と11月中子日に祭礼が行われていました。
 奈良の春日社(今の春日大社)は藤原氏の氏神社ですが、桓武天皇が長岡京にさらに平安京へと遷都したことで、参拝に不便となったことから小塩山山麓に勧請し、平安京を鎮護する神として祀られ、地名から大原野神社と称されました。
 したがって、祭礼日は春日神社と同じ2月上卯日でした。

 ところで、多くの地誌の記述では、両地に同名のものが存在するのには、きっと理由があるに違いないけれども、その由來や繫がりは詳らかでないとしているのです。
 少し長くなりますが、『山州名跡志』の「朧ノ清水」から引いておきます。
 「顯昭云ク。能因歌枕ニ云ク。朧清水ハ山城國大原ノ里ニアリトイヘリ。或人申侍シハ。江文ノ東ニアリ。良暹カ大原ノ山荘ノ邊ト云云  私ニ曰ク此ノ水江文明神ノ東ナリ。叉云フ西山ノ大原野ニ朧清水世和井ノ水アリ。所ノ名モ亦大原ト云フ。定メテ所以アルベシ未考。叉此所草生ノ西山南北ヲ小鹽山ト摠名スルナリ。然レトモ和歌ニ詠スルハ西山ノ小鹽ナリ。」
【註】顕昭:平安末期から鎌倉初期の歌僧、法橋に叙せられた
   能因:平安中期のひと、中古36歌仙の1人で晩年は大原に隠棲
   良暹:平安中期の歌僧、大原に隠棲した

 ということで、好奇心に駆られて調べてみたものの、結果として疑問は全く解決しませんでした。
 そこで、以下は私の想像です。(したがって、断るまでもなく責任は持てません)
 最初に見たように大原と大原野は、ともに平安時代以来の由緒ある地でした。そして、和歌に地名が詠み込まれるときは、共に「大原」と詠まれるため混乱が生じがちでした。そうした中で、互いに名所を競い合い、張り合っていたのだろうと思うのです。
 その結果、双方が相手には有るけれども、自分の所には無い名所を作り上げたのだろう、というように考えました。
 上品にして優美な趣や味わいには欠ける推測ですが・・・。さてどんなものでしょうか?

【参考にした地誌等】
京童、大原野一覧、北肉魚山行、菟芸泥赴、京羽二重、山州名跡志、京城勝覧、山城名跡巡行志、新撰京都名所圖絵、京都市の地名

2017年6月23日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 2

 前回見たように、大原と大原野は和歌に詠まれるときには、どちらも「大原」とされて同じです。
 さらに、驚いた事には山や清水の名称まで同じものがあるのです。その幾つか見てみましょう。

2. 小塩山
 *歌枕となっていて、和歌に詠まれる小塩山は大原野の方です。

 大 原
 大原川(高野川)の西側で、寂光院の背後の山。しかし、小塩山というのは特定の山ではなく、大原川の西側を南北に連なる山並みを総称したものだそうです。

 大原野
《大原野神社の参道》
 参道の西方(左方)には勝持寺、そして小塩山(大原山)と続いている。つまり、大原野神社は小塩山の東麓斜面に位置しています。

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 小塩山は、東西の二峰からなっていて、東峰が小塩山で西峰は大原山とも云われる。

    
3. 大原山
 *歌枕になっているのは大原の方です。

 大 原
《大原の大原山》
 小塩山と同じく大原山という特定の山はなく、大原川(高野川)の東側の山々の総称です。

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 大原野
 前記「小塩山」で記したように、大原野神社の背後にある2峰からなる山の西側の峰を云い、これはまた西之山とも云われるようです。

4. 世和井ノ水(セガイノミヅ)(清和井また瀬和井とも)
 *歌枕になっており、古来多くの和歌の題材となった名水は大原野の方です。しかし、各種地誌にはどちらの世和井も「由來未詳」としています。

 大 原
 「律川ノ橋ノ東右方ニ在リ和歌ニ詠ズ」また、「三千院の門前南、呂川にかかる魚山橋の東北畔にある」としている。しかし、現在では残っていないようです。

 大原野
 大原野神社境内の鯉が池の傍に、参道を挟んである。

《世和井の水》

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 *清和天皇の産湯とも大伴家持が愛飲した井水とも伝わる。
 ところが、勝持寺の不動堂の西にもありました。西行が出家するときに映して頭を剃ったと伝わる鏡石の傍です。 
  
 
5. 朧ノ清水(オボロノシミズ
 *歌枕になっている名水で、和歌に詠まれたのは大原にある方です。やはり、いずれも「由來未詳」とされます。

 大 原
 三千院から寂光院へ抜ける近道の傍らにあります。

《朧ノ清水》
 建礼門院が、朧月夜に我が身をこの清水に映されたことが名前の由来とする。
  ひとりすむ朧の清水友とては月をぞ宿す大原の里  寂然

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 大原野
 勝持寺の「大門ノ外 下馬ノ橋ノ東路傍ノ北ニ在リ」とする。しかし、今では下馬橋も朧ノ清水も存在しません。

【次回に続く】

 

2017年6月16日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 1

 近頃、妙なことに気が付きました。(と言うと大袈裟ですが)
 ブログ記事を書く時に、しばしば京都の地誌に関する書物を参考にしています。

 そうした折に目に付いたのですが、洛北の「大原」と洛西の「大原野」は、地名自体が大変よく似通っているだけでなく、和歌に詠み込まれた景物にも同名のものがあるのです。
 ちなみに、古刹の名称も似通っています。大原には「魚山大原寺勝林院(天台宗)」が、大原野には「小塩山大原院勝持寺(天台宗)」があって、ともに「大原」が付いています。
 こうした不思議な一致に引かれて、風流韻事には全く縁遠い野暮天の小生なのですが、少し調べてみた結果を記事にしてみました。

1. 大原と大原野の概略

 大原は京都の北郊(洛北)にあります。周囲を山に囲まれた大原川(高野川の上流)沿いの盆地に位置しています。昔の大原は、「炭𥧄の里」という別称もあった製炭地で、炭のほか薪・柴など燃料を都に供給することを生業とする里でした。

《大原川》

 高野川の上流域で八瀬以北を大原川と言い、この川沿いの小盆地が大原です。

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 平安朝の昔から建礼門院平徳子を初め貴顕が隠棲した地であり、鴨長明が籠居したことでも知られ、その風光は多くの歌人に詠われてきました。大原は現在も著名観光地の一つです。
 かつて「大原」は、「オハラ」と読み、古くは「小原」「小原口」と記されたこともあったようです。ただし、和歌には「大原(オホハラ)」と詠まれました。

 大原野は京都の西郊(洛西)にあります。小塩山(大原山)を背負う西高東低の広い段丘地は長閑にして素朴な風光で、古代には狩猟・遊宴の地であり、桓武天皇がたびたび狩猟をおこない皇族や貴族も宴遊しています。

《西山連峰》

 西山山系の小塩山東麓になだらかに開けた傾斜地で眠気を催すような光景です。

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 山野の風光とともに大原野神社をはじめ多くの寺院が建立されており、西行法師など多くの歌人が隠棲した。鄙びた田園であり洛北大原ほどには俗化していません。
 かつての大原野は、「オハラノ」と称されたが、「オオハラノ」の呼称も用いられていました。この大原野も、和歌では洛北と同じように「大原(オホハラ)」と詠まれました。

 このように、大原と大原野のどちらも、地名を和歌に詠むときは「大原(おおはら)」と表現されたのです。
 そうすると、同名のものが歌に詠まれているとき、洛北・洛西どちらの大原なのか混同されるるため、詞書(ことばがき)や詠み合わせる景物により識別されました。

洛北の「大原」を表す景物: 炭𥧄(ノ里)、朧ノ清水、芹生ノ里、比良、高根など 
  炭がまのたなびく煙ひとすぢに心ぼそきは大原の里  寂然
  水草ゐし朧の清水底すみて心に月のかけはうかふや  素意法師

洛西の「大原野」を表す景物: 小鹽山、清和井ノ水、冴野ノ沼、庭火、野辺ノ行幸など
  おほはらや小鹽の山の小松原はや木高かれ千代の影みむ  紀貫之
  おしほ山松風さむし大原やさえ野の沼やさえまさるらむ  中務

 そして、こんな事があってよいものか、驚いた事には山や清水までも同名のものがあるのです。
 次回では、その幾つか見てみましょう。

2017年2月10日 (金)

駄菓子屋(一文菓子屋)

 昔は、子供達が路地から路地へと駆け回る猥雑な町並みの中に、駄菓子と玩具類を狭い店頭に並べて、子供相手の商売をしている駄菓子屋(一文菓子屋とも言う)があちこちにありました。
 昭和30年代の東京下町を舞台とした映画、「ALWAYS  三町目の夕日 ‘64」にも駄菓子屋のシーンがあり、吉岡秀隆が駄菓子屋茶川商店の店主茶川竜之介を演じていました。

 駄菓子「船はしや」の店頭・店内風景

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 今では駄菓子屋を見かけることも殆ど無くなってしまい、この「船はしや」(寺町通綾小路下ル西側)以外には知りません。
 五色豆の「船はしや総本店」(寺町二条)から昭和13年(1938)から分家して開業したとのこと。

 船はしや総本店の看板

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 ところで、話は変わります。
 かつて、子供達が喜びそうな小さなオモチャを「おまけ」としてつけたキャラメルがありました。(グリコ、カバヤなど)
 おまけつきグリコは今でも販売されています。
 グリコと云えば、あのキャッチコピー「一粒300メートル」は、誰もが知っている名コピーです。
 また、キャラメルの外箱にはこのコピーとともに、「美味栄養菓子」あるいは「文化的栄養菓子」と入っていたのですが、現在では「ひとつぶ300メートル」「おいしくてつよくなる」になっています。
 ちなみに、森永キャラメルは「滋養豊富」「風味絶佳」です。

 今のグリコキャラメル

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 コピー「一粒300メートル」は、川柳結社「番傘」の主宰者であるとともに、コピーライターでもあった岸本水府(昭和40年没)という人の昭和11年(1936)の作でした。
 広告人としては、福助足袋・グリコ(現江崎グリコ)・壽屋(現サントリー)などで広告の仕事をしたようで、グリコでは広告部長を務めたそうです。

 最後に、岸本水府の川柳で私の好きなものを挙げておきましょう。
   酔っぱらい真理を一ついってのけ
   四十年かかって酒は毒と知る
   旅で見る酒という字の憎からず