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雑記

2021年9月24日 (金)

時 雨(しぐれ)

 あれ程に煩いくらいだった「蝉時雨」が、涼しげな「虫時雨」に変わって間もない今、「本物の時雨」の季節にはまだ早いのですが・・・。
 時雨は秋の終わりから春先の頃、北西季節風の吹くときに降ったりやんだりする雨のことを言います。
 時雨は、本州の日本海側や九州の西岸、京都盆地の北部近くの山間部では、1〜2時間おきに雨が降ったいやんだりを繰り返します。テレビの天気予報で気象衛星の雲画像を見ていると、黄海や東シナ海から日本海にかけて、多くの筋状の雲が写っていることがあります。この団塊状の雲が日本の上空を通過するたびに、降ったりやんだりを繰り返すのが時雨です。
 ちなみに、山陰や北陸など日本海側の地方には、晩秋から春先にかけての時期は「弁当忘れても傘忘れるな」という諺があります。
 時雨の語源は、「過ぐる」「しばしば暮れる」「しくれ=シは風の古語、クレは狂いで、風の乱れるのに伴って忽然と降る雨」など諸説あるようですが、いずれも通り過ぎる雨・通り雨の意味です。

 「しぐれ」から受けるしみじみとした味わいは、古くから和歌や俳句に詠まれてきました。
 私も、風情や味わいを感じるこの「しぐれ」という言葉が好きです。
 ところで、時雨は晩秋から春先の頃に降る通り雨のことなのですが、なぜか俳句の世界では晩秋から初冬の頃の季語とされています。

 自由律の俳人で放浪の俳人とも称された種田山頭火には、時雨を詠んだ多くの句があります。

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 私が特に好きなのは、『其中日記』(昭和7年10月21日の条)にある「おとはしぐれか」です。山頭火が厠でしゃがんでいる時、草屋根を滴る時雨の音に季節の移り変わりを感じ取っている、よく知られた句です。
 京都にもこの句碑があり、北区の鷹ケ峯から長坂越えで R162 に出る手前の地蔵院境内(杉坂道風町102)に建てられています。
 そして、山頭火の代表句の一つである、「うしろすがたのしぐれてゆくか」も好きな句です。

 一方、和歌の世界でも一雨ごとに荒涼とした冬の近づく様子、無常の思いを感じさせる「しぐれ」はよく詠われています。
 神無月降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける 『後撰和歌集』
 「降りみ降らずみ」の「み」は交互に繰り返される意の接尾語で、ここでは「降ったりやんだり」を意味しています。

 ところで、『逆引き広辞苑』で「時雨」のつく言葉をあたってみると次のように24個もありました。もっとも印を付したのは偽物の時雨で、虫の音・木の葉の落ちる音など、いろんなものが時雨に見立てられています。
 時雨、夕時雨、秋時雨、横時雨、笠時雨、*さんさ時雨、*虫時雨、片時雨、北時雨、初時雨、*袖時雨、一時雨、*袖の時雨、*空の時雨、偽りの時雨、*木の葉時雨、北山時雨、*黄身時雨、*蝉時雨、露時雨、小夜時雨、叢時雨、*霧時雨、春時雨
 日本語はなんと奥深いのでしょうね。



2021年9月17日 (金)

茅葺き屋根

茅葺き屋根の農家

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 この茅葺き屋根の農家、周辺の自然景観にすっかり同化しています。
ここは、京都府南丹市美山町北地区です。40戸ほどの茅葺き農家がある集落で、現存する茅葺き民家は入母屋造りで、千木・破風等の構造美に優れる、いわゆる「北山型」という独自の構成をもつ山村の民家としての特質を有しているということです。
 四半世紀ほど前の平成5年(1993)、この北地区は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているのですが、まさに「日本の原風景」を残すところとして、多くの人々が訪れるほどに有名な「観光地」になっています。

 農家も今では人手や資材の関係で、瓦葺き屋根に葺き替える家も多いのですが、昔の農家といえば茅葺き屋根が普通でした。茅に比べて材料としては手に入り易い稲や麦などの藁葺き屋根もあるにはあるのですが、耐久性という点では劣るので多くはありませんでした。
 その点、茅葺き屋根は耐久性に優れていて30年くらいは十分もつようです。そして、なによりも夏は涼しくて冬暖かいのため日本の気候に適した屋根と言えます。
 私が子供のころ毎年、学校が夏休みになると田舎の親戚の農家に一週間ほど遊びに行っていました。
 その当時は、まだ母屋・隠居だけでなく、牛馬小屋・堆肥小屋・風呂や便所なども茅葺き屋根だったのを思い出します。


 ところで、当然のことながら茅葺き屋根も老朽化すれば葺き替え普請が必要となります。
 日本のムラ共同体では昔から、生活の必要上から慣行として互助あるいは相互扶助が行われてきました。地方によりその名称や内容に多少の違いはあるようですが、おおよそは次のようなものだと思われます。
 道路や用水などの土木工事、家屋建築や屋根葺き替え、婚礼の手伝い、葬儀の手伝い、火災・自然災害の際の援助や見舞いなどでは、各家から労役奉仕の人手を出して行っていた。
 屋根の葺き替えにあたっても、ムラの共有財産である茅場で育てた茅の刈り取り・古くなった茅降ろし・茅の運搬・葺き上げなど、多大な労力と資材を必要としました。このため、ムラ単位で頼母子のかたちで助け合い、茅が老朽化した家から毎年順番に屋根の葺き替えをしていました。
 葺き替えは茅葺き屋根専門の職人さんが中心となって作業をするのですが、相互扶助でムラの各戸から人を出して屋根の葺き替えが行なわれてきました。

 しかし、美山町北の場合もご多分にもれず、少子高齢化が進み後継者不足が深刻化したため、自治体から補助金が支給されるようになってからは、専門業者に任せるようになったということです。
 今では美山茅葺株式会社が設立され、全国での茅葺き屋根の施工請負とともに、茅葺屋根職人の育成も行っているということです。



2021年9月10日 (金)

手習い歌

 仮名文字を書く練習のために、手本とする和歌などの歌のことを「手習い歌」といいます。

 最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の「仮名序」(延喜5年)には、仮名を習う人(こども)が最初に手本とした歌として、次の和歌二首を挙げているそうです。

 その一つ「難波津」の歌は、渡来人の王仁が仁徳天皇に奉ったと云う。
 なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな(難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花)
 もう一つ「安積山」は、葛城王(橘諸兄)が東国へ視察に行った時、その地にいた采女が、 諸兄に献上した歌と云う。
 あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに(安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに)

 いまの私達は、全部で47字の仮名文字を重複しないように一度だけ使って、整った文章のかたちにした歌「いろは歌(伊呂波歌)」、この47字の仮名文字に入っていない「ん」、または「京」の字を加えた48文字を文字習得の手本としていました。
 「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず ん」
これは弘法大師の作と云われていたのですが、今ではその死後の平安時代後期に作られたとみられているようです。

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 ところで、こように仮名文字を重複しないように使って作られた手習い歌で、「いろは歌」に先立つものとして、平安初期の「天地の詞(あめつちのことば)」「大爲爾の歌(たゐにのうた)」というのがあるそうです。

 「天地の詞」は、ア行の「え」とヤ行の「江」(注:この「江」正しくは変体仮名です)の区別を残していて平安初期の音節数を示している。この歌は身近にある言葉・単語を選んでいるため、自然と向き合って生活していた大昔の人々の考え方や自然観が見えるように感じられます。
 「あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峰)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すゑ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(生ふせよ)えの江を(榎の枝を)なれゐて(馴れ居て)」

 「大爲爾の歌」は、源為憲の『口遊(くちずさみ)』(天禄元年)に、「謂之借名文字」(これを借名〈かな〉文字と謂ふ)と但し書きを付して記しているそうです。
 「大爲爾伊天(田居に出で)奈徒武和礼遠曽(菜摘む我をぞ)支美女須土(君召すと)安佐利於比由久(求り追ひ行く)也末之呂乃(山城の)宇知恵倍留古良(うち酔へる子ら)毛波保世与(藻葉干せよ)衣不祢加計奴(え舟繋けぬ)」

 これらの歌からは、今ではすっかり風化してしまった心の記憶の風景、心象風景と言ったものを感じさせるようにも思います。



2021年7月23日 (金)

祇園祭のこと 3

 前回の記事で記しましたが、明応9年(1500)の祇園祭復興に尽力した松田頼亮の記録『祇園会山鉾事』の中の、「祇園会山ほくの次第」には応仁の乱以前の山鉾について、前祭・後祭を合わせて58基の名称と所在地が記されています。
 また、同じく「祇園会山鉾次第以鬮定之」には、応仁の乱以後に再興された山鉾36基の名称と所在地が記されています。

 どちらの記録も、山鉾の所在地を町名(地域名称)による表示ではなく、「◯◯と◯◯の間」というように通り(道路)と通り(道路)で区切られた区間=地点で表示しています。
 そのいくつかを抜書きしてみます。

「祇園会山ほくの次第」(応仁の乱の前)では
長刀ほく(現在の長刀鉾)    四条東洞院
かんこくほく(現在の函谷鉾)  四条烏丸と室町間
かつら男ほく(現在の月鉾)   四条室町と町間(「町」=現在の新町通)

「祇園会山鉾次第以鬮定之」(応仁の乱のあと)では
ナキナタホコ(現在の長刀鉾)  四条東洞院とカラス丸とノ間也
かんこくほく(現在の函谷鉾)  (*この頃は未復興、天保10年(1839)に復興)
かつら男山 (現在の月鉾)   四条町と室町ノ間也  (*乱後の復興では財政的な事情からか、「鉾」ではなく「山」として復興している) 

 このように、山鉾の所在地を町名ではなく、「◯◯と◯◯の間」というように道路と道路で区切られた区間で表示しているということは、つまり、中世のこの時期にはまだ地域の名称としての「町名」が定着していなかったのだろうと考えられます。
 近世になって徐々に町名が定着していき、おおよそ寛永期以後になると古絵図に鉾の名称を冠した町名が見られるようになります。(ex.寛永14年(1637)刊の洛中絵図など)
 もっとも、この頃の町名には別名・異名もあって、町名としては一定していなかったようです。

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 ところで、他の鉾町を見ていて、素朴な疑問が湧きました。
 同じ貞享期の刊行ですが、貞享3年刊『京大繪圖』は山鉾の所在地が町名で書かれていますが、貞享2年(1685)刊の地誌『京羽二重』では、なぜか依然として町名表示ではなく地点表示で記しているのです。
 これが、宝暦12年(1762)刊の地誌『京町鑑』になって、ようやく町名で表示されています。

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傘 鉾(元は「笠鉾」)
 『京大繪圖』では「おしろい丁(白粉屋町)」、『京羽二重』では「四條通西洞院西へ入」、『京町鑑』に至り「傘鉾町 一名◯白粉屋町とも云』と現町名になっています。
 ちなみに、傘鉾は二基あります。四条通のこの傘鉾を四条傘鉾、綾小路の善長寺町から出す傘鉾は綾傘鉾と呼ぶ。

郭巨山(元は「釜掘山」)
 『京大繪圖』では「可ハのた奈丁(革棚町)」、『京羽二重』では「四條通新町西へ入町」、『京町鑑』に至って「郭巨山町 一名◯革棚町とも云』と現町名になっています。




2021年7月16日 (金)

祇園祭のこと 2

 平安時代には、自然災害の発生や疫病が流行した時その原因は、政争に敗れて無念な死を遂げた人々が怨霊となって祟りを為すからだと考えられていました。そこで、怨霊を鎮め慰めるために御霊会(ごりょうえ)が開かれました。
 貞観5年(863)5月20日、平安宮(平安京の宮城)の南側にある神泉苑で修されたのが、御霊会の始まりとされています。
 この神泉苑、今でこそ規模が狭く小さなものになっていますが、桓武天皇が平安宮付属の苑池として造営された当時の広さは、平安京図によれば東西が大宮大路と壬生大路の間(約255m)、南北が二条大路と三條大路の間(約513m)という広大な敷地でした。

 そして、貞観11年(869)の御霊会で、66本の矛(ほこ)を建てて祀ったのが祇園会の起源だとされ、この66本の矛というは、当時の日本の国の数である66ヶ国に見立てたものと言われます。この矛が山鉾の始まりとされ、現在も神社の祭礼では行列の先頭で掲げ差し上げられる剣鉾のようなもので、悪霊を払う意味があるとされるものです。

剣 鉾(粟田祭)
 祇園祭の鉾の原型とされ、行列での鉾差しは見ものです。

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 剣鉾は棹の先に両刃の剣を着け、その下には鈴や吹き散りなど飾り物を吊るした祭具で、人が一人で担ぎ差し上げることができるものです。しかし、祇園祭の鉾の場合はいつの頃からなのか確かなことは分かっていませんが、大きなものになって車に乗せて人が引く山車へと変わり、さらに、華やかな飾り物を飾ったものになりました。
 南北朝期の公卿である三條公忠がその日記『後愚昧記』に、「高大鉾顚倒し老尼一人圧死す」と記した事件が起こっています。これが永和2年(1376)のことですから、既にこの頃には人を圧死させるほどに鉾は大型のものになっていたのです。

長刀鉾の巡行(『都名所図會』から)

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 史家によると、祇園祭で山鉾の存在が見られるのは鎌倉末期からで、一気に花開くのは南北朝・室町期のことのようです。
 ところが、応仁元年〜文明9年(1467〜77)の足かけ11年にわたる応仁・文明の乱では、京の町の大半が多くの文化財とともに壊滅的な破壊を受けました。この応仁・文明の乱は、次第に洛外へと拡大していき戦国動乱の時代の始まりとなりました。
 山鉾も戦乱で焼失したり破損したため、そののち33年もの長い間にわたって祇園会は中断されました。
 応仁の乱ののち、明応9年(1500)に祇園会の復興に尽力した幕府役人の松田頼亮が表したとされる、『祇園会山鉾事』中の記録「祇園会山鉾次第以鬮定之」には、戦乱後に再興された山鉾の名称・所在地が記されています。
 また、同じく『祇園会山鉾事』中の記録「祇園会山ほくの次第」には、応仁の乱以前の山鉾の名称・所在地が記されています。




2021年7月 9日 (金)

祇園祭のこと 1

 祇園祭は八坂神社(祇園社)の祭礼で、平安時代の御霊会が起源とされる。
 祇園祭は7月1日の切符入りに始まって、31日の八坂神社摂社疫神社の夏越祭まで、1ヶ月もの長い期間にわたって多くの祭事が行われます。
 そのハイライトはやはり、17日(前祭)と24日(後祭)の山鉾巡行と宵山であり、大勢の人々が訪れて京のまちは祭りの熱気に包まれます。

函谷鉾

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 また山鉾巡行の他にも、なかなかの見ものがあります。17日前祭の夕刻から始まる神幸祭は、祇園石段下で3基の御神輿(中御座・東御座・西御座)を頭上高く差し上げる勇壮な差し回しのあと、四条寺町の御旅所へ渡御され、24日の後祭山鉾巡行のあとの還幸祭では、御旅所から八坂神社まで神輿がもどられるのです。

 ところが、現在のところ全く治まる気配のないコロナ禍のため、昨年に続いて今年の山鉾巡行も中止されることが決まっています。
 けれども、こうした時勢にあって、巡行は中止となっても「縄がらみ」といわれる鉾建ての技術継承や懸装品保全のためには建てるべきとする保存会と、巡行を行わない以上は立てる理由がないとする保存会とで意見が割れたようです。
 結果は、前祭と後祭合わせて33基ある山鉾のうち、半数余りに当たる18基の山鉾が立てられるようです。

 ちなみに、一昨年(2019年)の祇園祭で巡行した山鉾は、前祭(さきまつり)が23基、後祭(あとまつり)には10基の計33基でした。
 なお、文政9(1826)年の巡行で大雨にあい、懸装品を汚損したことから翌年から参加しなくなり、休山となっていた鷹山が約200年振りに復元されて、明2022年から後祭の巡航に参加することになるようです。この鷹山も応仁の乱以前から巡行していた曳山で、「くじ取らず」の山だったそうです。

月 鉾

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 今年も2年続きで山鉾の巡行は中止となったのですが、先ごろ7月2日に山鉾の巡行でその順番を決める「くじ取り式」が京都市役所の市議会議場で行われました。

 古来「くじ取らず」と呼んで、くじを引かずに巡行の順番が決まっている山鉾があります。
 この「くじ取らず」の山鉾は、前祭では先頭の長刀鉾・5番目の函谷鉾・21番目の放下鉾・22番目の岩戸山・しんがりの23番目が船鉾。後祭では1番目の橋弁慶山・2番目の北観音山・6番目の南観音山・しんがり10番目大船鉾です。

 現在では「くじ取り式」と言われている「鬮改め(くじあらため)」は、定められたのが応仁の乱以後に初めて復興した時、明応9年(1500)のことでだそうです。
 『祇園会山鉾次第以鬮定之』(『祇園会山鉾事』)によると、行列の順序をめぐって町人の間で論争が起こったため、幕府役人松田頼亮の屋敷で鬮取りを行って巡行の順番を決めたのが初めとされる。
 平安時代以来の来歴をもつとされる長刀鉾が、巡行の先頭を進むのは応仁の乱以前からの慣行とされていて、現在も変わらずに引き継がれています。

     *****************

 回を改めて近いうちに、祇園祭の起源や山鉾の来歴といったものを取り上げてみたいと思っています。

 





2021年6月11日 (金)

鴨 川

 鴨川といえば京都の顔であり象徴とも言える川なのですが、その鴨川は時代によりいろいろの顔を持っていたようです。

 昔の鴨川は河床が広く、そこを網目状に流れる水量は普段は少ないのですが、大雨の時にはしばしば洪水を引き起こしたようです。『平家物語』に「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」という白河院の有名な言葉もあるように、鴨川の流れは思うままにはならないものの一つだったのです。

 古代の鴨河原は禊祓いの場とされ、また葬送の地としても利用されたようです。平安末期以後には合戦の場、処刑・梟首の場となっていました。一方、平安末期から鎌倉初期になると、鴨川を東側に越えた岡崎や六波羅が政治の中心となり発展しました。

 そして室町期以降になると鴨河原は、見せ物や遊芸が催されて群衆の集まる広場となっていきます。このような催しの広場として、五条河原・四条河原・糺河原などがありました。

 この河原というのは中洲・中島のことで、草木の茂るところや淵もあったようです。

 その鴨川は、治水のため寛文10年に「寛文新堤」が築かれると、それまで豊臣秀吉の築いた御土居から外へ、鴨川西岸までを洛中に含めるようになります。さらには鴨河原の東側にも町並ができて市街化されていきます。

現代の南座
 「まねき」に坂田藤十郎・市川團十郎・片岡仁左衛門・市川左團次などの名前が見えます。
 (下の図絵とともに写真をクリックすると拡大できます)
 元和期には四条通りを挟んで7ヶ所の芝居小屋が許可されてていて、京の一大興行地として賑わったという。

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 そこには、芝居小屋・茶屋・料理屋・旅籠などが建ち並んで遊興・歓楽の地が形成されていきました。そうして、そこが京の人々の憩い・遊興の場として評判になると、諸国からの旅人たちも足を運ぶようになりました。

四條河原夕涼之躰 (安永9年刊『都名所圖絵』より)
 河原の手前(西側)には「西石垣(さいせき)」、川向こう(東側)には右手(南側)から「宮川町」「どんぐりの辻」「東石垣(とうせき)」「芝居小屋(南座・北座など)」「蟹の辻子」「仲源寺目疾地蔵」などが、また河原には多くの人々も描かれている。

 四條河原の夕涼みは、祇園祭の期間のうち旧暦の6月7日から同18日までの間、期間限定で催される「日本一の夕涼み」といわれた盛大な恒例行事だったようです。

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次に諸本の記述から、その繁盛ぶりや深夜まで賑わう様子を引いておきましょう。

 寛文5年(1665)刊『京雀』には、樵木町通(今の木屋町通)の四条から、「中島より東のかたを見れば  四條川原いろ〻見物の芝居あり その東は祇園町北南行ながら茶やはたごやにて 座しきには客の絶る時なし 祇園殿西の門只一目にみゆ」と繁栄ぶりを記している。

 延宝5年(1677)刊『日次記事(ひなみきじ)』では、「凡そ今夜より十八日夜に至る、四条河原の水陸、寸地を漏らさず床を並べ、席を設け、而して良賎楽しむ。東西の茶店、提灯を張り、行燈を設け、あたかも白昼のごとし」

 また、芭蕉の死後5年、元禄11年(1698)に門人の風國がまとめた『泊船集』にも、「四條の川原すゞみとて 夕月夜のころより有明過る頃まで  川中に床を並べて 夜すがら酒のみものくひあそぶ をんなはおびのむすびめいかめしく をとこは羽織ながう着なして 法師老人どもに交り 桶やかじやの弟子子まで ときめきてうたひのゝしる さすがに都のけしきなるべし」と深夜まで賑わう様子を記しています。




2021年4月 9日 (金)

春の息吹 2

ユキヤナギ

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やまぶき

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錦木の新芽

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たんぽぽ

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2021年4月 2日 (金)

春の息吹 1

さくら

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シャガ

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モミジの新芽

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煌めき

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2021年3月 5日 (金)

新選組と伊東甲子太郎

 先日、所用でリーガロイヤルホテルまで出かけた時、ホテル敷地の端で新選組の不動堂村屯所跡碑を見かけました。
 この近くには、他にも新選組にゆかりのある所があるのを思い出したので、見てまわることにしました。

 壬生浪士組(のちの新選組)は、文久2年の結成当初は壬生郷士の八木家・前川家などを屯所として分宿、京都守護松平容保から不逞浪士の取り締まりと手中警備を任されます。
 すぐそばの壬生寺境内で大砲や剣術・馬術の訓練をしていたのですが、世帯が大きくななってきたので、慶応元年に屯所を西本願寺の北集会所と太鼓楼に移しました。

本願寺西の太鼓楼

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 しかし、ここでも武芸・砲術訓練をするなどひどい狼藉を働いたため、西本願寺は不動堂村の油小路通木津屋橋下ルに広大な地所を購い、そこに屯所を建てて体よく追い払われます。
 この新しい屯所はちょっとした大名屋敷のよな立派なものだったと云う。

明王院不動堂
 本尊は不動明王で、不動堂村の名前の由来とされる。
 のち不動堂町となり、昭和41年(1966)塩小路通りを境に北不動堂町・南不動堂町に分離。

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新選組不動堂村屯所跡碑

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 新選組は慶応3年幕臣に取り立てられるが、戊辰戦争で幕府軍は敗退し、その後各地を転戦するがやがて解体に至る。

 伊東甲子太郎(北辰一刀流の達人)は元治元年、藤堂平助の仲立ちで弟や門人など七名とともに新選組に入隊して参謀兼文学師範に遇されるが、勤王思想(倒幕派)の伊東と尊王攘夷(佐幕派)の新選組は思想の違いから折り合わなかった。
 このため伊東は慶応3年3月20日、御陵警備任務の拝命と薩摩藩の動向探索を名目にして、同志15名とともに新撰組を離脱。御陵衛士を結成して東山高台寺の月真院に本拠を置いて高台寺党と称され、薩摩藩の支援を受けて倒幕を説いた。
 しかし、新選組の局中法度書には「局ヲ脱スルヲ不許」の一条もあり、新選組と御陵衛士双方の間で何事もなく済むはずもなく、新選組最後の抗争事件となったのです。

 果たせるかな、御陵衛士の伊東甲子太郎は、幕臣に取り立てられた新選組により襲撃暗殺されます。
 近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された3日後、慶応3年11月18日(1867年12月13日)、口実をもうけ近藤勇の休息所(妾宅)に招かれた伊東甲太郎は接待を受けます。そして、酔わされた伊東は月真院への帰途、油小路通木津屋橋上ルの本光寺門前付近で新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺されたのです。(油小路事件)


伊東甲子太郎殉難之跡

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 伊東を酒に酔わせて暗殺に及んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警めだろうと思われます。
 伊東暗殺のあと遺体は油小路七条の路上に放置されて、御陵衛士を誘い出す囮として使われます。後に遺体の収容に来た御陵衛士たちは、待ち伏せていた新選組と戦闘となり、やはり新撰組を脱して御陵衛士に加わっていた藤堂平助ら三名が戦死しています。





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