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雑記

2020年1月17日 (金)

昔の「旅」 ー寺社参詣と物見遊山ー

 現代の私達にとって「旅行」や「観光」の目的は、普段の生活から脱け出して異なる風景・景色・町並みの中に身を置いて、非日常的な経験を求めることにあると言えるでしょう。
 仕事や労働の必要から、生まれそして住み着いた在所を離れて、遠方に出かける「たび(旅行)」は近世以前においてもあったでしょう。
 けれども、仕事目的ではなく観光的な旅行に出ることが可能だったのは、貴族や僧侶など上流階級の人々に限られていました。

 近世(江戸時代)になっても、各地に関所や口留番所(関所の小規模なもの)が設置されおり、人々の自由な移動は厳しく制限されていました。このため、一般庶民が自由に旅行するというようなことはできなかったのです。
 とはいえ、庶民でも伊勢神宮の参拝や、信仰・祈願のために聖地や霊場を巡拝する「たび」については、庄屋・名主・旦那寺などの発行する往来手形(身分証明書)があれば黙認されていたようです。
 そのため、各地の寺社や山岳に集団で参拝することを目的に、参拝旅費の積み立て制度として伊勢講や富士講など多くの講組織が作られました。頼母子講や無尽講などは、こうした相互扶助制度から派生したものです。

弥次喜多像

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 ところが、こうした「たび」は寺社参詣だけではなく、行楽もまた大きな目的となっていました。というより、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多に見られるように、むしろ社寺参詣を口実にした物見遊山の方が主たる目的だったでしょう。こうした「たび」が今言うところの「観光旅行」の始まりだったのです。

宿屋の夕刻(『拾遺都名所圖會』巻二左青龍尾  から)
 (いつも通り、挿絵は画像をクリックすると拡大できます)

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 近世になると幕府の宗教政策によって、主要な仏教宗派の本山はそのほとんどが京都に集中します。そして、それら寺院の壮麗な伽藍や庭園は、京都観光の主要な対象となっていました。神社の社殿・境内もやはり同じです。

 先に記したように、昔の人々にとってはこうした神社仏閣への参詣は、信仰と行楽を兼ねていました。
 したがって、寺社の門前や周辺は多くの人々が集まる「盛り場」となり、旅籠屋をはじめ料理茶屋・水茶屋、様々な店や物売りが建ち並ぶとともに、芝居小屋では見世物の興行がおこなわれ、幕間には芝居茶屋で飲食をして寛ぎました。

阿国歌舞伎発祥地の碑

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出雲阿国像

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 『京雀』には、樵木町通(現在の木屋町通)の四条から「東のかたをみれば四條川原いろ〻見物の芝居ありその東は祇園町北南行ながら茶やはたごやにて座しきには客の絶る時なし祇園殿西の門只一目にみゆ」と、その賑わいを記しています。

 ということで、清水寺・南禅寺・上賀茂神社・下鴨神社などの著名な名刹古社も、その門前は参詣の人々で大いに賑わった。

四條河原夕涼の躰(『都名所圖會』巻二  から)

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 物見遊山・社寺参詣が広く行われるようになると、平安時代以来の都として憧憬される京都には地方から多くの人々が訪れるようになり、名所案内記(謂わば観光ガイドブック)が多数刊行されます。そうした京都の名所記の数は二百数十種にも及んだそうです。

 ちなみに、『京都名所圖會』の凡例には次にように記しています。「(略)神社の芳境  佛閣の佳邑  山川の美観等  今時の風景をありのままに模写し  舊本花洛細見圖を増益して時々其遺漏を巡歴し  攝社艸庵たりとも一宇も洩ず  幼童の輩坐して古蹟の勝地を見る事を肝要とす」

 最後に、そうした名所案内記のいくつかを挙げておきます。

『京童』明暦4年(1658)と『京童跡追』寛文7年(1667)共に中川喜雲著、これは案内記・名所記の先駆をなすものとされます。
『京雀』寛文5年(1665)浅井了意著、『京雀後追』延宝6年(1678)著者不詳、『京童』の遺漏を補うとともに実用的地誌を考慮した新しい形式。

『近畿歴覧記』延宝6年(1678)~貞享4年(1687)黒川道祐著、洛中洛外各地の紀行を集めたもの。
『菟芸泥赴』貞享元年(1684)北村季吟著、平安京内裏をはじめ洛中洛外の社寺や名所を説明。
『京羽二重』貞享2年(1685)と『京羽二重織留』元禄2年(1689)狐松子著、これらは趣味と実益を兼ねた京都案内記。
『山州名跡志』元禄15年(1702)釈白慧著、山城1国8郡386村を実地に踏査して克明に描写している。 
『京城勝覧』宝永3年(1706)貝原益軒著、洛中洛外の名所旧跡を17日間で巡覧できるように日程を組んでおり、各コースとも三条大橋を起点として1日で巡れる範囲にとどめている。
『山城名跡巡行志』宝暦4年(1754)釈浄慧著、洛中の寺社旧跡を北は一条から六条まで、西の京を東から西へ書き進めて巡行の便を旨として編まれている。
『京町鑑』宝暦12年(1762)白鷺著、京町鑑の最も代表的なもので、京都の町を縦町通・横町通ごとに各町の説明を中心としており、京都の町の研究に不可欠となっている。
『都名所圖會』安永9年(1780)秋里籬島著、実地を踏査して書き描いた本文と挿絵は読者を名所旧跡に遊ぶ思いにさせる。

 

2019年9月27日 (金)

八 坂

 京都盆地東部の東山連峰、その北端にある比叡山(848m)から南端の稲荷山(233m)まで、約12Kmにわたって連なる峰々は「東山三十六峰」と称されてきた。
 この東山連峰は概ね北高南低となっていて、ほぼ中央にある清水山(242m)から南には、南端の稲荷山を除いて200mを越える峰は見られない。

東山連峰稜線の一部(阿弥陀が峰から稲荷山にかけて)

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 なだらかな起伏を見せる稜線は、服部嵐雪が「蒲団着て寝たるすがたやひがし山」と詠んだように、その優美な眺めは京都の景観美をなす要素の一つです。
[註:服部嵐雪は江戸時代前期の俳人で松尾芭蕉に俳句を学び、宝井其角・向井去来・森川許六などとともに蕉門十哲の一人とされる。]
 
 「八坂」は、古には京都盆地の東北部にあたる山城国愛宕郡(おたぎぐん)を構成した13郷の一つ八坂郷(也佐賀)で、平安京造都以前からあった地名と見られる。
 ちなみに13郷とは、蓼倉・栗野(栗栖野)・粟田(上・下)・大野・小野・錦織・八坂・鳥戸・愛宕・賀茂・出雲の各郷を言う。

八坂神社
 祇園社・祇園感神院などと呼ばれていたが、明治になって神仏分離に伴い現社名となった。

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 古代のこの一帯には高句麗系の渡来氏族とみられる八坂氏が居住したが、氏族名は地名を名乗ったもののようで、奈良時代の正倉院文書『山背國愛宕郡計帳』に「八坂馬養造」、平安時代初期の『新撰姓氏録』には「八坂造」と、その名が見られると云う。

 「八坂」の地名由来は、東山三十六峰が西方に向かって緩やかに傾斜する、坂の多い地形であることに因むようです。
 「ヤは数多いことをいう接頭語、サカは傾斜地である」(『地名が語る京都の歴史』)として、「ヤ」は数や量の「八」ではなく、「多い」「おびただしい」と云った意味であり、多くの坂のある土地を意味したとする説がある。
 また、「八坂はヤ+サカ(坂)で、ヤは弥栄(いやさか)などという場合のヤにあたり、坂にかかるいわばほめ言葉で、坂が立派なのでただ坂といわないで、ヤサカと称したものであろう。」(『京都の地名検証』)とする説もみられる。

 ところで、《八坂》地域の範囲は、参照した地誌によってその表現には違いがあるものの、いずれの書も同一の地域を指しています。
『山州名跡志』は、「其ノ方領凡ソ祇園ヨリ三年坂ニ至ル歟」
『山城名跡巡行志』は、「清水ヨリ祇園ノ邊二至ル郷名也 今法觀寺境内ヲ八坂町ト云フ」
『都名所圖会』は、「北は眞葛原南は清水坂までの惣名なり」
『京都坊目誌』は、「祇園以南清水坂以北の汎稱なり本町元法觀寺の境内なり。」

長楽寺坂

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法観寺坂から見る五重塔

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三年坂(産寧坂とも)

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 そして、《八坂》名称の由来については、上記の地誌のうち『京都坊目誌』を除いては、挙げている坂の名称は一致しています。それは、祇園坂・長楽寺坂・下河原坂・法観寺坂・霊山坂・三年坂・山井坂・清水坂の八つの坂としています。
 しかし、目を引くのは『京都坊目誌』で、「後世此地に八坂 所謂祇園坂。長樂寺坂。法觀寺坂。靈山坂。産寧坂。清水坂。山井坂。下河原坂。是ナリ あるを以て地名と爲れりと傳ふるは淺薄の甚だしきものなり。」と書いているのです。つまり、祇園坂など八つの坂のあることが八坂の地名由来だなどと言うのは、浅く薄っぺらな知識・考えであって従えないとしているのです。


2019年9月13日 (金)

京都の「上ル・下ル・東入・西入」

 京都のいわゆる旧市街地では、特定の場所の位置を表現するとき、あるいは進む方向を示すときには、南北道路(縱の通り)と東西道路(横の通り)の交差する地点を基準として表現します。
 北ヘ行く(移動する)のを「上ル(あがる)」、南に行くのを「下ル(さがる)」と表現します。また、東西への移動は「東入(ひがしいる)」「西入(にしいる)」と表現します。
 そして、これに町名・番地を付け加えることが、形式として慣習・慣例として定着しています。

仁丹町名表示板

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 ここで気を付けたいのは、「東入」「西入」の場合には慣習として送り仮名の「ル」は省略して付けません。
 しかし、「上ル」「下ル」の場合は「上(かみ)」「下(しも)」との混同を避ける必要があり、送り仮名「ル」を入れます。ただし、「ル」であり「ガル」とはしません。

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 ちなみに、江戸時代前期の儒学者(朱子学)である貝原益軒は、『京城勝覧』[宝永3年(1706)刊]で次のように、極めて簡潔に言い表しています。
 「京都の町南北を縱とし。東西を横とす。縦町なれば北にゆくをあがるといふ。南にゆくをさがるといふ。横町なれば。何の町を東へ入。西へ入と云。すべて此四言をもつて町を尋れば。まぎれなく尋やすし。」と、大変判りやすく表現しています。
 このような慣例がスタンダードとなったのはいつの頃なのか、確かなことは判っていません。
 しかし、近世に著された地誌類を見ると、すでに江戸時代初期の寛文期のものにはそのような表現を見ることができます。(例:寛文5年刊『京雀』など)

 ところで、「東入」と「西入」については特に説明がなくても判ります。しかし、北へ行くのを「上ル」、南に向かうのを「下ル」と表現するのは何故なのでしょうか。
 そうなった理由(らしいもの)として、二つばかり思い浮かびます。
 一つには、古代中国では「天子南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治をおこない、宮殿も南に向けて造営される習わしが影響しているようなのです。
 こうしたことから、お上(天皇)のおわす北は上(かみ)に上ル(あがる)、それに対して南は下(しも)へ下ル(さがる)と観念されることになったのでしょうか。
 もう一つは、京都盆地の地形は北から南西に向かって傾斜しており、鴨川や桂川などの主要河川は概ね北から南へと流れています。そのため、北が上流・上(かみ)・上手(かみて)で、南は下流・下(しも)・下手(しもて)と認識されることも影響しているのではないかと思われます。

 さて、『京町鑑』などの地誌書でも、南北の通りでは「上ル」と「下ル」、東西の通りでほ「東入」と「西入」という表現が普通に広く使われています。
 それでは、その使い方には法則性や基準といったものがあるのでしょうか。

 広がりのある地所、例えば町(ちょう)や広い境内地を持つ寺社などの所在位置を示す場合であれば、大雑把でおよその表現であっても、特に差し支えはありません。
 ところが、特定の狭い地点を表示する場合には、もっと的確でピンポイント的な表現をしなければ、正確さに欠けて用を足すのには不十分です。

 例えば、ある目標地が東西に通っている2つの通りの間にある場合、北側の通りに近いのか、それとも南側の通りに近いのか。その目的地が距離的には南側の通りに近いときには「下ル」ではなく、「上ル」と表記したほうが正確ということになります。

 これを具体的に例を挙げて説明しましょう。

京都市学校歴史博物館

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 写真の、京都市学校歴史博物館(元・開智小学校跡)の所在地は、京都市下京区御幸町通仏光寺下ル橘町437番地です。
 この表記の意味するところは、京都市学校歴史博物館は御幸町通の「仏光寺を下がったところ」にあるのであって、御幸町通の「高辻を上がったところ」ではないのです。判りやすくいえば、京都市学校歴史博物館は高辻通よりも、仏光寺通のほうに近いところに所在することを示しているのです。
 註:ちなみに、橘町は「たちばなチョウ」と読み、「たちばなマチ」ではありません。旧市内に限って言えば、町名の場合は「◯◯チョウ」であって、「◯◯マチ」と読むのは極めてまれです。

 そういう点では、江戸前期の地誌『京羽二重』や『京羽二重織留』などでも、例えば、目的の商家や諸職がその通りのどこに位置しているのか、北側の町筋に近ければ「下ル」と記し、南側の町筋に近い場合には「上ル」というように、現実に即して的確に位置を記述・説明しています。
 これは、東西の通り沿いにある目的地の場合においても同様となります。

 以上、京都に独特な方角・方向の表現について考えてみました。













2019年8月23日 (金)

結界石

 結界石というのは、境を示す標(目印)であり、「聖の領域」と「俗の領域」を分ける標識なのです。
 寺域や修行の場など特別な地域(結界)では、宗教上の妨げとならないよう秩序を維持する必要から、結界(聖域)と俗界(俗世)とを分けるために建てられています。

 したがって、結界石に刻まれた銘文は、聖域の秩序を維持するうえで禁止されている行為等が刻字されています。

諸肉五辛不入山林(大山崎・山崎聖天)

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不許酒肉五辛入山内(上京区三軒町・安楽寺)

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 以下は結界石に刻まれた銘文のいろいろです。

1. 結界であることを示す
  大界外相
  摂僧大界

2. 結界への持ち込みを禁じるもの
  禁酒肉五辛入門内
  諸肉五辛不入山林
  不許酒肉五辛入門内   
  不許葷酒葷酒入山門
  不許葷辛酒肉入山門
  不許葷肉入門
  不許葷酒入山門
  禁葷酒   
  山門禁葷酒
   
3. 結界に立ち入りを禁じられた者や禁止行為
  従是女人結界   
  不許藝遊客
  禁藝術賣買之輩
  

禁じれれている事柄とその理由は次のようなものです。
① 五辛(五葷とも)
 葫(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・韮(らっきょう)・蘭葱(ひる)を云う。
 みんな辛味や臭気が強いこと、また食べると精力がついて性的な欲望を生じるそうな。
② 酒・肉
 酒池肉林、紂王やないんやから贅沢きわまりない酒宴はやったらアカン、ダメダメ!。
 酒食をすると気分晴朗・気宇壮大になって、仏道修行も大いに捗ると思うんやけどな。
③ 女人(にょにん)
 女の人の艶やかな容色は出家の心をも乱して、仏道に励むうえで妨げになるらしいわ。
 紅灯緑酒はアカンね。ンッ?紅灯の巷で坊主を見かけるけど、禁じられた遊びやんか!

 

2019年8月 9日 (金)

宴の松原

「宴の松原」址碑

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 「宴の松原」というのは、平安京大内裏の内裏西側、武徳殿の東側、豊楽院の北側にあった広大な空閑地で、南北が約430m、東西が約250mの広さの鬱蒼とした松原であったという。
 その場所は、大内裏(平安宮)の正門である朱雀門と北端の偉鑒門をつなぐ中心線の西側、つまり内裏(御所)のちょうど西側となります。現在の上京区出水通七本松付近が、当時の「宴の松原」の中心にあたるでしょうか。
 この「宴の松原」が何を目的とした用地であったのかは明らかではありませんが、天皇の代替わりに際して内裏建て替えのための用地という説、宴(うたげ)を催すための広場という説などがあるようです。

 「宴の松原」の話は、「今ハ昔(今となっては昔のことだが)」という書き出しの部分と、「トナム語リ傳へタルトヤ(・・・と語り伝えられている)」の締め括りで有名な、平安時代後期の説話集『今昔物語集』にも、鬼・妖怪の出る不気味な場所として描かれています。
 ちなみに、この話は『三代実録』では、仁和3年(887)8月17日夜の出来事としています。

 まずその原文を、そして酒瓮斎による下手糞な現代語訳をご覧ください。

『今昔物語集』巻第二十七
「於内裏松原鬼成人形噉女語」第八
 今昔、小松ノ天皇ノ御世ニ、武徳殿ノ松原ヲ、若キ女三人打群テ、内様へ行ケリ。八月十七日ノ夜ノ事ナレバ、月キ極テ明シ。
 而ル間、松ノ木ノ本ニ、男一人出来タリ。此ノ過ル女ノ中ニ、一人ヲ引ヘテ、松ノ木ノ景ニテ、女ノ手ヲモ捕ヘテ物語シケリ。今二人ノ女ハ、「今ヤ物云畢テ来ル」ト待立テケルニ、良久ク見エズ。物云フ音モ為ザリケレバ、「何ナル事ゾ」ト怪シく思テ、二人ノ女寄テ見ルニ、女モ男モ無シ。「此レハ何クヘ行ニケルゾ」ト思テ、吉ク見レバ、只、女ノ足手離レテ有リ。二人ノ女、此レヲ見テ、驚テ走リ逃テ、衛門ノ陣ニ寄テ、陣ノ人ニ此ノ由ヲ告ケレバ、陣ノ人共、驚テ其ノ所ニ行テ見ケレバ、凡ソ骸散タル事無クシテ、只足手ノミ残タリ。其ノ時ニ、人集リ来テ、見喤シル事限無シ。「此レハ、鬼ノ人ノ形ト成テ、此ノ女ヲ噉テケル也ケリ」トゾ、人云ケル。
 然レバ、女、然様ニ人離レタラム所ニテ、知ラザラム男ノ呼バハムヲバ、広量シテ、行クマジキ也ケリ。努怖ルべキ事也トナム語リ伝ヘタルトヤ。


『今昔物語集』巻第二十七
「内裏の松原で鬼、人の形となって女を喰うこと」 第八
 今となってはもう昔のことだが、小松天皇の御代に、武徳殿の松原を若い女が三人で連れ立ち内裏の方へ歩いていた。八月十七日の夜の事ということでもあり、月は大変明るかった。
 やがて、松の木の下に一人の男が出てきた。この通り過ぎる女達の一人を呼び止めて、松の木の陰で、女の手を取って話し始めた。もう二人の女は「すぐに話し終わって戻ってくるでしょう」と待っていたけれども、戻って来る気配が無い。
 話し声も聞こえないので、「どうしたのかしら?」と怪しく思って、二人の女が近寄って見ると、女も男もいない。「これはどこに行ってしまったのかしら?」と思ってよく見ると、ただ、女の足と手だけがバラバラに残っていた。
 二人の女はこれを見て、驚き走って逃げ、警護詰所に駆け込んで、衛士にこの事を告げると、衛士達も驚いてそこへ行って見たけれど、死骸は散らばっておらずに、ただ、手足だけが残っていた。
 その時、人々が集まって来て大騒ぎとなった。
 「これは、鬼が人の形に化けてこの女を喰ったのだ」と人々は言い合った。
 だから、女はそのような人気の無い所で、知らない男から呼びかけられても、気を許してついて行ってはならない。忘れないようにしなければならない事だと語り伝えられている。


「宴の松原」の位置
  図をクリックすると拡大して見やすくなります
 (『武徳殿』「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」から転載)
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2019年8月 2日 (金)

橋の名前の不思議

 イヤー、これでもかという連日の猛暑・酷暑にはへこたれてしまいます。
 なので、暑さ凌ぎにどうでもよいような事を気楽に考えてみました。

 以下の写真で、橋の親柱に刻字された橋の名称をご覧ください。

くわう志んはし
  荒神橋(上京区)=荒神口通の鴨川に架かる

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志よめんはし
  正面橋(下京区)=正面通の高瀬川に架かる

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ゑちぜんはし
  越前橋(伏見区)=越前町で琵琶湖疎水放水路に架かる

Photo_20190731171801
 いずれも、***ばし」ではなく、***はし」と彫られています。
 何故なのでしょうね。

 《国語学》というのには全く縁がないので、チョット調べて見ました。
 そうすると、『広辞苑』で次のような言葉と説明に行き当たりました。
 「【連濁】 二語が複合して一語をつくるときに下に来る語の初めの清音が濁音に変わること。「みかづき(三日月)」の「づき」、「じびき(地引)」の「びき」の類。」

 フムフムそうなんや! ムムッ!!それならなんで橋の名前のときは濁らんのじゃ!!!
 そこで、信憑性と云う点では疑問符がつくものの、安直に答が得られるということではすこぶる便利な方法、「ネットでググって」みました。

 そうすると、「***ばし」としないで「***はし」とするするのは、全国的と言ってよいほどに広く行なわれてきた慣行・しきたりで、それは何故なのかが判りました。

 前近代は、架橋などの土木技術、築堤や排水などの治水技術が未熟な時代でした。
 そんな時代には、橋の名前が「***ばし」と濁ると、橋を流失させる濁流、つまり、大水・洪水や氾濫といったことを連想させて縁起がよろしくない。そのため濁音を忌み嫌って清音とすることが風習となったと云うことのようです。

 さらに、橋の名前の表記の仕方でも、縁起を担いだ字の選び方をすることがあるようです。
 「くわう志ん(荒神)」「志よめん(正面)」では、「し」に「志」をあてています。
 「し」という音は「死」に通じると考えるのですね。従容として死を畏れない心の持ち方ができれば良いのですが、普通の人々であれば死を畏れることから縁起を担いだのでしょう。

 如何でしたか、軽い読み物で暑気払いになったでしょうか?

  

2019年7月 5日 (金)

鏡 石

鏡 石

 金閣寺から鷹峯千束に通じる通称鏡石道の途中、北区衣笠鏡石町の道際にある岩です。かつて、傍に立つと鏡のように映ったことから鏡石と呼ばれ、これが町名の由来と云う。
 すぐ近くには、一條・五條天皇火葬塚がある。

 『都名所圖會』は、鏡石について次のように記しています。
 「鏡石は金閣寺の北、紙屋川のうへにあり、石面水晶のごとく影を映すをもって名とせり。
  古今物名 うば玉の我黒髪やかはるらん鏡と影にふれる白雪 貫之」

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 上記挿絵中の説明文は次のようになっています。(図にカーソルを置いてクリックすると拡大します)
 「鏡石は物の影よくうつりてあきらかなる怪石なり。むかし唐土に仙人鏡といふ石あり。形廣大にして石面皎々たり。よく人の五臓をうつす。疾あるときは則其形をあらわすとぞ。これらのたぐひとやいふべき。」とあって、鏡石に婦人が自分の姿を映している様子を描いている。

 この鏡石、永年にわたり風雨に晒されたことで、現在では次の写真のように全く鏡のようではなくなっています。

Photo_102
 また、『菟芸泥赴』は次のように書いています。
 「鏡岩 平野より十町ばかり北の邊の左の山際に有  石の横二間ばかり  高さ山につヾきたる所にて九尺計  裾は五尺計也  石の色くもれる鏡の面の如く平にしてむかへば影をうつす  其故の名也」


 ちなみに、鏡石はこの他にもあって、筆者は以前にこのブログで記事にした西京区の大原野にもありました。
 花の寺として知られる勝持寺の境内、「瀬和井の泉」の畔にありました。
 特にどうと言うこともない岩でしたが、写真はその説明書きです。

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2019年6月28日 (金)

祇園祭

祇園祭神輿渡御と御旅所

 夏の京都の風物詩である祇園祭は八坂神社の祭で、その規模や歴史と云った点では我が国最大の祭です。
 八坂神社は、祇園社あるいは祇園感神院と呼ばれ、祭神は牛頭天王でした。しかし、明治元年(1868)の神仏分離令により改名されたのです。その後、牛頭天王と素戔嗚尊とが習合して祀られるようになり、いわば一心同体とされる。
 現在の祭神は、主祭神が素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八王子の10座、これに配神三座と合わせて13座です。

寺町御旅所

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  祇園祭の祭事では、八坂神社を出た神輿3基は氏子町内を巡行して、四条寺町南側(御旅宮本町)の御旅所へ行き、そして八坂神社へ戻るまでの一週間は御旅所に安置されます。
 神輿渡御で御旅所に渡る7月17日を神幸祭、八坂神社に戻る7月24日を還幸祭と云います。

長刀鉾

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函谷鉾

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 神輿渡御に先だって前触れあるいは露払いとして、山鉾の巡行が行なわれ前祭・後祭と言われています。ちなみに、前祭は四条通から南の祭であることから「下(しも)の祭」、後祭は四条以北であることから「上(かみ)の祭」と呼ばれます。
 祇園祭は前祭の山鉾巡行が祭のハイライトとして人出も多く有名ですが、神事としては7月1日から31日の間ずっと続くのです。

 ところで、渡御した神輿は祇園御旅所に入られるのですが、『京町鑑』『都名所圖会』の記述を見ると、昔は四条通の北側にも御旅所があったようです。三基の神輿は、北側の社に牛頭天王(素戔嗚尊)と八王子の2座を祀り、南側の社には少将井を祀っていたということです。
 また、それよりもさらに以前には、素戔嗚尊と八王子の2座は、烏丸通五条坊門の南(今の烏丸通仏光寺下ル大政所町)の大政所と号する御旅所に祀られていました。

大政所御旅所跡

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 そして、少将井の1座は、烏丸通二条の北(今の少将井御旅町)の御旅所に祀られていたということです。

少将井御旅所跡の説明板
 京都新聞社社屋の北端壁面に設置されています。
 (写真をクリックして拡大すると幾分は読みやすくなります)

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 このように2ヶ所に分かれていた御旅所を1ヶ所に統合したのは、太閤豊臣秀吉であり天正19年(1592)のことだったそうです。

【註1】素戔嗚尊
 素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の子で日本神話に登場する
 天津神。牛頭天王は釈迦が説法をおこなった祇園精舎の守護神。
 神仏習合により両者は同体だとされる。
【註2】八王子
 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)で素戔嗚尊の八人の王子
【註3】少将井
 櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)で素戔嗚尊の妻


祇園祭の起源と怨霊の祟り

 平安時代の京都は、人が亡くなると死骸は野ざらしにされる風葬で、主な葬送地は鳥辺野(東部)・化野(西部)・蓮台野(北部)の3ヶ所がありました。
 しかし、貧しい庶民や行き倒れて死んだ人の死骸は、葬送の地に移されることなく路傍に打ち捨てられたまま、あるいは鴨川に流されることも珍しくはなかったようです。
 当時は下水道はありませんでしたから、側溝には雨水と共に生活汚水なども流されます。そして、道路は人・動物の死骸やゴミの捨て場であり、屎尿の排泄場所ともなり、現代とは違って衛生環境は劣悪でした。
 そして、当時の飲料用水は井戸水に頼っていたため、汚水・汚物で地下水は汚染の危険にさらされています。
 このような環境のもとでは、豪雨による洪水で河川が溢水して汚物が広がり散ってしまうと、疫病が発生した時にはたちまち感染が拡大流行してしまいます。

八坂神社(祇園社)

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 平安の昔、疫病の流行や天災は、政争に敗れて非業の死をとげた人の怨霊が祟りをなすものと考えられていました。そして、怨霊の祟りを鎮め宥めて災厄を避けるために御霊会が行なわれました。
 貞観5年(863)疫病が流行したとき、平安京大内裏の南東、二條大路を挟んで南側の神泉苑で朝廷が催したのが御霊会の始まりとされる。
 そして、貞観11年(869)祇園社で執り行った御霊会は、祇園御霊会また祇園会といわれましたが、これが祇園祭の起源とされています。
 祇園御霊会の祭事で、神輿渡御に先立つ山鉾の巡行をともなうようになったのは、いつ頃のことなのか定かではないようです。


2019年2月 1日 (金)

何でなんかなぁ? (2の2)

 承前
 それでは、南北が丸太町通と三条通、東西は寺町通と堀川通、これらの通りをを四囲とする範囲で、飛地のように分かれて存在する町と、それがいくつに分散しているかを挙げておきます。

竹屋町通・・・相生町(2ヶ所)、塀之内町(2ヶ所)、和久屋町(2ヶ所)、魚屋町(2ヶ所)
夷川通・・・・泉町(4ヶ所)、山中町(2ヶ所)、百足屋町(2ヶ所)、木屋町(2ヶ所)
二条通・・・・丁子屋町(2ヶ所)
姉小路通・・・姉大東町(3ヶ所)、木之下町(2ヶ所)
 といったところです。ところが、何故かこの一帯には顕著なかたちで存在するのですが、他の地域では殆ど見かけません。

 見落としがあるかも知れませんが、他の地域でこうした例が目についたのは次の町でした。
高辻通・・・・雁金町(2ヶ所)
万寿寺通
・・・堅田町(4ヶ所)


堅田町の仁丹町名表示板


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 縦町は分断されることなく、横町は分断分散される思わしい理由が思い浮かびません。
 そこで思い切り、というよりも恐ろしく飛躍して考えてみることにしました。

 古代日本では、新しく都を構える場所を選定するにあたっては、地形、風や水の流れ、陰陽五行説など古代中国が起源の世界観を重視していました。
 平安京は北に船岡山(玄武)、東は鴨川(蒼竜)、西が木嶋大路(白虎)、南は巨椋池(朱雀)という風水の四神信仰にかない、都を設けるのに絶好の場所として選定されたのです。

 そして、中国では「天子、南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治を行うとされたことから、平安京では都の北部に大内裏(御所)が置かれました。

【註】「天子、南面す」の出典
『新訂中国古典選1』(朝日新聞社)第1巻『易』本田 済著を参照しました。
その中の『説卦傳』に、次のようにあります。
「聖人南面而聽天下。嚮明而治。」
これを読み下し文にすると、「聖人南面して天下に聴き、明に嚮(むか)いて治む。」
専門家が易しく読み解くと、「聖人が君位に就けば、南に向かって座り天下の政治を聴く。すなわち明るい方向に向かって治める。」となるそうです。


 平安京では大内裏の正門である朱雀門から南に向かって、メインストリートの朱雀大路(現・千本通)が通じていました。
 この朱雀大路は道路幅がなんと28丈(約85メートル)もあったそうです。これに次いで広いのが、朱雀門の前を東西に通っている二條大路などの17丈(約50メートル)ですから、朱雀大路はダントツの規模の道路だったようです。
 そして、朱雀大路の南端(九條大路)には、北端の朱雀門に相対して、平安京の入口・正門である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

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 このように南に向かって開いた平安京でしたから、南北の街路が東西の街路に比べて優位な立場にあり、東西の道路は位負けしたのかも知れません。

 なので、横町は縦町に分断されてしまうこととなった⤵︎。そうだ、そういうことにしておこう(これ、JR東海のCMコピー「そうだ 京都、行こう!」みたいやなー)

2019年1月25日 (金)

何でなんかなぁ? (2の1)

 どうしてそういう奇妙なことになっているのか、気になっていたのです。
 市内の中心部をうろついているとき、時々それを思い出します。けれども、納得のできる説明が思い浮かばなくて、何とももどかしかったのです。

 そんな疑問を感じたわけを簡単に記してみます。

 京都の町(ちょう)は、通り(道路)を挟んで向かい合う家々により、人々の生活単位となる町が成り立っていることが多く、両側町と呼ばれます。もちろん、通りの片側の家々だけで成り立つ町もあって、これは片側町と呼ばれます。
 中・近世を通じ、こうして京の町は形成されてきたようです。

 ところで、地図を眺めていると、南北に通る道路沿いの町(縱町)と東西に通る道路沿いの町(横町)には、奇妙で面白い違いのあることに気がつきます。

 それを、南北に通じる縦通りの新町通を例に引き、これと交差して東西に走る横通りの丸太町通と御池通の間にある町を見てみましょう。
 新町通の、丸太町通と竹屋町通の間に大炊町、竹屋町通と夷川通の間に弁財天町、夷川通と二条通の間に二条新町、二条通と押小路通の間に頭町、押小路通と御池通の間に仲之町があります。そして、それぞれの町が新町通を挟む両側町です。

大炊町の仁丹町名表示板

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 そして、これらの町はことごとく、すっきりと東西に通る道路と道路の間に位置しており、町は通りと通りの間で途切れることはありません。つまり、東西に走る各通りが町と町の境界ともなっているのです。

 これに対して、縱通りの新町通と交差して東西に走る横通りの夷川通を例にとって見てみます。
 そうすると、南北に通る新町通沿いの町のように通りが町の境界となっておらず、町の境界が極めて不規則に見えるのです。
 つまり、南北の縱通りに属する両側町は、それと交差する東西の横通りが町と町の境界となっているのに対して、横通りに属する町はそれに接する縱通りに属する町によって分断された形になっているのです。
 例えば、夷川通には泉町という町は4ヶ所に分かれて存在しています。西洞院と釜座の中程、釜座と新町の中程、新町と衣棚の中程、衣棚と室町の中程に分散して位置しています。

泉町の仁丹町名表示板

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 それでは、このように縱通り沿いにある町は一ヶ所にまとまっていて分断されることが無いにもかかわらず、なぜ、横通り沿いの町の場合はばらばらに分散させられた形となっているのでしょうか。
 これが、始めに書いたように、今に至るも答が判らずにいる疑問なのです。
 縱通りとその通り沿いの町々が、分断されずに済むという優位な位置にいられるのは、何らかの理由があってのことでしょうか。
 一方の横通り沿いの町々は、縱通りの町々とは異なり分断されることに甘んじなければならない劣位な位置にあったのでしょうか。
 縱と横の町の間にそうした優劣があったとすれば、それぞれの町の間は折り合いが悪かったでしょうね。