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雑記

2021年12月 3日 (金)

北白川の子安観世音

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 荒神口に始まり白川越えで近江(滋賀県)に至る「志賀越道(山中越え)」が、鴨川を東に渡って東北へ進むと京都大学敷地で一時分断されるが、吉田山の北麓で今出川通を東北に横切った角地点にこの石仏はあります。
 『拾遺都名所圖絵』に、「北白川の石佛ハ希代の大像にしていづれの代乃作といふ事を志ら須。」とあり、約2メートルほどもある大きな石仏で、鎌倉時代の作とされています。
 この石仏はお地蔵さん(地蔵菩薩)ではなく、観音さん(観世音菩薩)です。

 さて、この石仏には次のような謂れがあります。
 自由に動き廻る石仏との噂があることから、太閤豊臣秀吉がこれをたいそう気に入って聚楽第に運んで据えました。
 ところが、それから夜毎に秀吉の寝所を地鳴りが襲うようになったのです。そして石仏が唸っていることに驚いて耳をすますと、「白川に帰りたい、白川に帰りたい」と言っている。それに驚いた秀吉により元の場所に戻されたという。
 この石仏、秀吉でさえも思うままにならないということで有名になり、「太閤地蔵」とも呼ばれるようになったという。
 長年にわたる風化ですっかり風姿も変わって、今ではこれはこれで柔和な感じの石仏になっています。

 なお、この子安観音は志賀越道が今出川通の北側に渡った所にあるのですが、今出川通の南西側にも二体の巨大な石仏があり、あわせて「北白川の三体仏」と称されています。




2021年11月26日 (金)

六地蔵巡り

六地蔵巡りの一所、上善寺

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 地蔵信仰は奈良時代からあったもののようで、平安時代には疫病や厄は街道から村や町に入り込むと考えられた。これらの災厄を防ぎ、旅をする人々の安全を願って地蔵を祀ったようです。
 また地蔵信仰は、悪霊や疫病が侵入するのを防ぐために、峠や街道の分かれ道(追分)、村や町の入り口の道端に祀られた塞の神(道祖神)の信仰とが習合した風習ともいわれる。

 京都では毎年8月22・23日に、京都の周辺にある街道の入口6ヵ所の地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」が行なわれています。
 この六地蔵巡りという風習は、古くは室町期からあったようなのですが、六地蔵の位置場所は時代により固定したものではなかったようで、現在のような6ヵ所の地蔵尊に固定されたのは、近世の寛文年間になってのことだそうです。

 ちなみに、『都名所圖会』には六地蔵についての伝承を次のように記す。
「六地蔵 指月の東八町ばかりにあり。此所のひがしは醍醐街道、西は伏見淀道、中に京街道あり、南は黄檗宇治に至る
地藏堂 大善寺と号す、浄土宗なり、京道の角にあり 本尊地蔵菩薩は、仁寿二年小野篁冥途に赴き、生身の地蔵尊を拝し、蘇りて後一木を以て六体の地蔵尊をきざみ、当寺に安置す。保元年中に平清盛西光法師に命じて、都の入口毎に六角の堂をいとなみ、此尊像を配して安置す、今の地蔵巡りこれよりはじまる。」とあって、初めはここ伏見の大善寺に六体の地蔵尊が安置されていたが、平安時代末期の保元年間に平清盛の命により、大善寺も含めて京への出入口である街道口の6ヶ所に分けて安置するようになり、これらの六地蔵を参拝して廻る六地蔵巡りの風習が生まれたという。

 それら六体の地蔵尊が分祀された六ヶ所の寺院と街道口は次のとおり。

伏見六地蔵(奈良街道) 大善寺  伏見区桃山町西町  
鳥羽地蔵(大坂街道)  城禅寺  南区上鳥羽岩ノ本町 
桂地蔵(山陰街道)   地蔵寺  西京区桂春日町   
常盤地蔵(周山街道)  源光寺  右京区常盤馬塚町  
鞍馬口地蔵(鞍馬街道) 上善寺  北区上善寺門前町  
山科地蔵(東海道)   徳林庵  山科区四ノ宮泉水町 




2021年11月19日 (金)

「錦秋の候」となりましたね〜

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 秋もいよいよ深まってきて、木々の葉も色づいてきました。紅葉(黄葉)のシーズンですね。

 秋になって木の葉が色づく仕組みというのは、木の葉のクロロフィルという物質が減って緑色が薄くなってくるために、他の色が目立つようになるからなんだそうです。
 モミジはアントシアニンという物質がたくさん作られて赤色になるのだそうです。そして、イチョウやブナの場合はカロテノイドという物質が目立つことで黄色になるということです。
 なァーんか、も一つどういうこかよく判りませんが・・・(汗)

 ところで、紅葉も綺麗なのですが、黄葉もまた青空に映えて大層美しいものです。

 丹後半島中央部の京丹後市大宮町の五十河、これ「いそか」と読みます。
 この一帯は、丹後半島の中でも多雪地帯ですから、廃村となってしまった所もあります。
 全国各地に小町伝説が残されていますが、この五十河にも小野小町伝承があり、小野小町が晩年を過ごしたと伝わる地に小町公園というのもあります。
 この五十河の「内山自然ブナ林」は京都の自然200選に入っています。秋のブナの林は真っ黄色になりそれはそれは見事なものでした。



2021年11月 5日 (金)

鉄輪(かなわ)の井

 堺町通松原下ル鍛冶屋町に住んでいた女が、浮気をした夫に捨てられて嫉妬に狂い、恨みを晴らすために貴船神社に丑の刻参りを続けて願をかけた。ところが、満願となる7日目を前にして、力が尽きたのか6日目に自宅そばの井戸端で息絶えた。そこで、女の恨みの宿る鉄輪と一緒に井戸の傍に祀った。それでこの井戸を「鉄輪の井」と言った。

金輪の井戸と祠

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 そして、この「鉄輪の井」の水を別れたい相手に飲ませると、縁を切ることができると云われ、「縁切り井戸」としても知られた。今ではこの井戸は水が涸れてしまっているのだが、水を持参して祈願しても効き目があるとの噂があるため、今も縁切りを願って訪れる人があるとか。
 この「鉄輪の井」のある鍛冶屋町、かつては鉄輪町と言ったことがあるようで、地誌書『京雀』は次のように記しています。
「かぢや町 又は金輪の町といふ いにしへ物ねたみふかき女あり かしらに金輪をいたヾき 賀茂の明神にまうでたりしが 鬼になりてにくき人ともとりけるが 後にがうぶくせられし その墳いまにこの町にあり」


 「丑の刻参り」について、広辞苑では次のように説明しています。
 「嫉妬深い女がねたましく思う人をのろい殺すために、丑ノ刻(今の午前2時頃)に神社に参拝すること。頭上に五徳をのせ、蝋燭をともして、手に釘と金槌とを携え、胸に鏡をつるし、のろう人を模したわら人形を神木に打ち付ける。7日目の満願の日には、その人が死ぬと信ぜられた。うしのときもうで。うしのこくまいり。うしまいり。」

 この文中にある「五徳」というのは、今ではまず見かけることが無くなりましたが、火鉢や囲炉裏の火の上に置いて、鍋や薬鑵などを掛ける3脚または4脚の輪形の道具で鉄または陶器製。上下を逆にして置くこともある。五徳のことを鉄輪(かなわ)とも言った。
 この五徳を上下逆にして頭に付け、その五徳の足に刺した蝋燭に火を灯し、火をつけた松明を口にくわえるという異様な姿で祈願したようです。
 そして、丑ノ刻(午前2時頃)に藁人形に五寸釘を打ち付けると、相手を呪い殺すことができる呪術といわれています。
(なんとも恐ろしい話ですね


 呪詛で名高い貴船神社に丑の刻参りをして、呪い取り殺すという話は他にも「宇治の橋姫」伝説などがあります。
 捨てられた女が丑の刻参りをして、相手の男とその後妻を呪い殺すという、その凄まじい恨みと嫉妬心の恐ろしさを、禍々しい鬼の姿で表現しているのが謡曲『金輪』なのですが、金輪の井の話が元になっているようです。




2021年10月28日 (木)

怖〜いお話 2 ー崇徳天皇ー

 先頃は、桓武天皇の弟である早良親王は朝廷での権力をめぐる陰謀に巻き込まれて、淡路島へ流刑となったこと。親王は抗議のために食事を摂ることを拒否して自殺に追い込まれたとも、また、食事を与えられず死に追い込まれたとも言われたこと。
 そして、その後たびたび発生した疫病の流行や天変地異は、早良親王の怨霊の祟りだと噂されたことを記事にしました。

 今回もまた、朝廷における権力闘争の末、流罪となって非業の死を遂げた崇徳天皇を取り上げました。


崇徳天皇御廟


 この御廟は、祇園町南側の祇園甲部歌舞練場裏手(通称万寿小路の西側)にあります。
 『京都坊目誌』はこの廟のことを、「崇徳帝廟 阿波内侍 尼となり 佛種と號す。長寛二年八月二十四日 崇徳上皇讃岐國志度の松山皷か岡の行宮に崩ず。佛種尼悲哀に堪えず 帝の遺髪を請い 此地に埋め廟堂を營み 聖蹟を弔ひし所」と記している。

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 平安時代の後期になると、退位した天皇が上皇となって実権を握り、引き続いて朝廷の政治を司る「院政」が敷かれました。
 崇徳帝は鳥羽天皇と藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれ、5歳で天皇に即位しました。その曽祖父にあたる白河法皇が後ろ盾となったことから、崇徳天皇は白河法皇と藤原璋子の不倫により生まれた子だとの噂が流されました。このため、崇徳天皇は父の鳥羽帝から疎まれ続けました。

 それがもとで、白河法皇の死後まだ23歳の崇徳天皇は、父の鳥羽上皇に排斥されて異母弟である近衛天皇に譲位させられました。しかし、その近衛天皇が病死すると鳥羽上皇は同じく崇徳の同母弟である後白河天皇に即位させ、崇徳は新院と呼ばれた。
 こうして、崇徳は息子に即位させて自身が上皇として院政にあたるという望みを、父である法皇となった鳥羽上皇によって潰されてしまったのです。

 これを崇徳院が不満に思わないはずはありません。というよりも激怒したことでしょう。
 鳥羽法皇が死去すると摂関家の内紛も絡んで、朝廷は崇徳院方と後白河天皇方に分かれて「保元の乱」が勃発します。その結果は後鳥羽天皇方が勝利して、崇徳院は讃岐へ配流されました。

 崇徳は出家して心を安らかに保つため、3年の間「五部大乗教」の写経を続けました。そして、経典の写経が完成すると戦死者の慰霊のために、朝廷に納めようとしました。ところが、朝廷はその経典の受け取りを拒んだことから、崇徳院はひたすら朝廷を恨み呪う日々を過ごして、46歳で病死しました。

 その頃、都では天災・大火・疫病の流行が続いて、これらは崇徳院の怨霊のなすところだとの噂が広まりました。そのため、朝廷は崇徳院に「上皇」の諡号を贈って、「保元の乱」の戦場跡である洛東白河の地(現在の聖護院)に崇徳院廟を建てて冥福を祈ったとされる。

黒川道祐『東北歴覧之記』には、「聖護院ノ門前ヲ過、此ノ森ノ東ニ堆キ所アリ、(略)、森ノ内ニ兩社アリ、(略)、今一社ハ、崇徳院ノ廟ト云へリ、古ヘ大炊御門ノ東ニ、天皇ノ廟ヲ建テ、之ヲ尊崇シタトツタワル、然ルトキハ此所ニ符号セリ」とあります。
聖護院の南に聖護院の森があって、その森の中に崇徳院の廟はあったという。



 

2021年10月22日 (金)

天明の大火(団栗焼け)

 京都は平安京以来、一千年にわたって都であったため地震・風害・洪水などの気象災害や火災など、多くの災害の記録が残されているようです。
 近世(江戸時代)の京都では、ほぼ80年ごとに大火事が発生していて、宝永の大火・天明の大火(団栗焼け・申年の大火とも)・元治の大火(どんどん焼け・鉄砲焼けとも)の三つは「京都三大大火」と呼ばれます。また、この間には、西陣焼けとも呼ばれる享保の大火も発生しています。
 今回は、天明の大火を見てみます。ただ、その被害状況は当然のことながら史料により数字が異なっていますが、この記事では『京都坊目誌』の挙げているものを記しています。

 これらの火災のうち天明の大火は、京都で発生した大火災の中でも火災規模としては、空前絶後ともいえる最大のものでした。
 天明8年(1788)1月30日、団栗辻子新道の角の民家の失火が元で、火は強風に煽られて加茂川の西へも超えて、当時の京都の市街地のほぼ全域を焼き尽くしたのです。世間ではこの火事を天明大火と称し、また出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしの たいか)とも呼ばれた。

天明大火犠牲者の供養塔

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  清浄華院(上京区寺町通広小路上ル)
 供養のための五輪塔そばの石碑には、「焼亡横死百五十人之墓」とあります。
 清浄華院のホームページによると、死者150人というのは幕府の公式見解で実際にはもっと多かったものと考えられ、清浄華院の記録『日鑑』には死者2600人という風聞が記録されているそうです。


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 円通寺(上京区東三本木通丸太町上ル)
 「為焼亡横死」(しょうぼうおうしのため)と刻まれた犠牲者を供養する石碑が建てられています。

 被害状況は史料によって異同がありますが、『京都坊目誌』は次のように記しています。
 「天明八年正月晦日河東團栗辻子火あり、暴風頻に發り火焔京中に漲る、皇居、仙院、二條城本丸、所司廳以下を延焼す。此災や東は大和大路、西は七本松、南は七條、北は安居院に至り、公卿の邸宅百三十、武家の第六十、神社三十七、寺院二百一、市町千四百二十四、民家三萬六千七百九十七戸、死者二千六百餘人の多きに至る。應仁以來の災害にして、世に天明大火と稱す。」

 『京都坊目誌』また、次のようにも記しています。
 「天明大火 寳永大火に比し、更に激甚の被害にして、應仁以來の大火とす、(略)。  天明八年正月二十九日夜、亥ノ刻艮位より狂風起り丑ノ刻に至り、強〻強烈にして寅ノ刻下刻より寅卯の風位、猛威を極め偶〻行路の人馬を倒す程也。晦日寅刻賀茂川の東、宮川町團栗辻子新道の角、兩替商某方より失火し、忽ち東石垣町、宮川町を焼き、五條橋に至る。暴風更に加はり (略)。二日卯の刻にして熄む。」




2021年10月15日 (金)

怖〜いお話 1 ー早良親王(崇道天皇)ー

崇道神社

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 早良親王は桓武天皇の実弟で、次に皇位を継ぐこととなる皇太弟の地位にありました。
 兄の桓武天皇は、東大寺をはじめとする奈良仏教寺院が政治に影響力を及ぼすのを排除するため、平城京から長岡京に都を遷すことにします。延暦3年(784)のことでした。
 ところが、長岡京造営の最中であった延暦4年(785)に、長岡京造都の責任者である藤原種継が何者かに暗殺されるという事件が起きました。

 このとき、早良親王は桓武天皇が忌避する奈良仏教界の最高の地位にあったので、桓武は親王を皇位継承者の地位から外して、自身の第一皇子である安殿(のちの平城天皇)を立太子させるとともに、早良親王に種継暗殺に連座したとの疑いをかけて廃嫡したうえ乙訓寺に幽閉しました。
 早良親王は、無実を訴えるため絶食して10日余り、淡路国に配流される途中、35歳で憤死しました。屍は淡路に送られて墓が造られました。

 ちなみに、親王の死には次のような説があるようです。
   抗議のための絶食によって死亡したとする説
   飲食物を与えず餓死させて処刑したとする説

 種継暗殺事件のあと長岡京では疫病が流行して、安殿親王の発病、桓武天皇夫人の藤原旅子・皇后の藤原乙牟漏・女御の坂上又子、桓武天皇と早良親王の生母である高野新笠など近親者が次々と病死し、桂川の洪水など災害も相次ぎました。
 これらは早良親王の怨霊の祟りであるとの噂が広がり、幾度か鎮魂のための儀式が執り行われたのですが、祟りがとける兆しは見られませんでした。
 このため、桓武天皇はまだ完成をみていなかった長岡京を捨てて、延暦13年(794)新たな都の平安京を造営します。
 そして、桓武天皇は延暦19年(800)早良親王に「崇道天皇」の追諡を贈って名誉の回復を図り、延暦24年(805)には墓を現在の八嶋陵(いまの奈良市八島町)に改葬します。
 さらに、都の北東の鬼門にあたる高野(現・左京区上高野西明寺山)に崇道神社を創建して怨霊を鎮めようとしました。社伝によると貞観年間(859年~877年)のことでした。
 藤森神社・上御霊神社・下御霊神社などにも崇道天皇を祀っていますが、いずれも相殿(あいでん)といって社殿に二柱以上の神を合祀しているのですが、この崇道神社は早良親王のみを祭神としています。




2021年10月 1日 (金)

ジャック・ダニエル氏

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 テンガロンハットをかぶり口髭を生やしたこのオジサンは、アメリカン・ウイスキー「ジャックダニエル」の創業者であるジャック・ダニエル氏(だそう)です。六角通西木屋町西入にある店頭へは夕方になるとお出ましですが、酔っぱらいのイタズラによると思われる痛々しい傷跡が全身にあります。

 ウイスキーの知識はそれほど持ち合わせていないので、簡単にザット調べてみました。
 ウイスキーは50以上の国・地域で製造されていて、アイルランド・スコットランド・アメリカ・カナダ・日本が5大ウイスキー産地と言われています。そして、ウイスキーには大きく分けると次のような種類があります。

モルトウイスキー・・・原料は大麦の麦芽だけで作られ、一つの蒸留所の原酒だけを混ぜたものがシングルモルトといわれる。
グレーンウイスキー・・・トウモロコシ、ライ麦、小麦などの穀物を原料としている。
ブレンデッドウイスキー・・・モルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドしたもの。
バーボンウイスキー・・・原料はトウモロコシを51%以上、これにライ麦・小麦・大麦などの穀物を含み、アルコール度数80度以下で蒸留して、内側を焦がしたホワイトオークの新樽で、アルコール度数62.5度以下にして熟成したもの。
 この樽は一度だけ使われたあと、アイルランドの蒸留所へ送られてスコッチウイスキーの熟成樽として再利用される。
 なお、2年以上熟成させたものは「ストレート・バーボン」、異なる樽とのブレンドを行わず少量を瓶詰めしたものは「シングル・バレル・バーボン」、さらに5〜10種類の樽をブレンドしたものは「スモール・バッチ・バーボン」と呼んで区別しているようです。


 ところで、アメリカン・ウイスキーの「ジャックダニエル」は、単なるバーボンウイスキーではないのだそうです!? ボトルに貼られたレッテルの表記には次のような違いがあります。
 ジャック・ダニエルはテネシー州で作られていて、表記は「Tennessee WHISKEY
 他のウィスキーは95%がケンタッキー州で作られ、表記は「BOURBON WHISKY

 つまり、テネシーWHISKEYのジャックダニエルは、ホワイトオークの樽で熟成させる前に、サトウカエデを焼いた木炭で濾過するという独自の工程が入っているのです。
 さらに、他のバーボンWHISKYと異なるのは、熟成用のオーク樽の内側にジャックダニエル独自の焼入れを行っている。そうした点が他のバーボンとは違って、独自性を打ち出しているのです。

 やがて冬、ブログ記事のため寒中の市中見回りに出かけるときには、(その昔、西部劇の映画で見かけたように)身体を暖めるためピューター製スキットルに入れたウイスキーを尻ポケットに入れて行くことにしましょう。



2021年9月24日 (金)

時 雨(しぐれ)

 あれ程に煩いくらいだった「蝉時雨」が、涼しげな「虫時雨」に変わって間もない今、「本物の時雨」の季節にはまだ早いのですが・・・。
 時雨は秋の終わりから春先の頃、北西季節風の吹くときに降ったりやんだりする雨のことを言います。
 時雨は、本州の日本海側や九州の西岸、京都盆地の北部近くの山間部では、1〜2時間おきに雨が降ったいやんだりを繰り返します。テレビの天気予報で気象衛星の雲画像を見ていると、黄海や東シナ海から日本海にかけて、多くの筋状の雲が写っていることがあります。この団塊状の雲が日本の上空を通過するたびに、降ったりやんだりを繰り返すのが時雨です。
 ちなみに、山陰や北陸など日本海側の地方には、晩秋から春先にかけての時期は「弁当忘れても傘忘れるな」という諺があります。
 時雨の語源は、「過ぐる」「しばしば暮れる」「しくれ=シは風の古語、クレは狂いで、風の乱れるのに伴って忽然と降る雨」など諸説あるようですが、いずれも通り過ぎる雨・通り雨の意味です。

 「しぐれ」から受けるしみじみとした味わいは、古くから和歌や俳句に詠まれてきました。
 私も、風情や味わいを感じるこの「しぐれ」という言葉が好きです。
 ところで、時雨は晩秋から春先の頃に降る通り雨のことなのですが、なぜか俳句の世界では晩秋から初冬の頃の季語とされています。

 自由律の俳人で放浪の俳人とも称された種田山頭火には、時雨を詠んだ多くの句があります。

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 私が特に好きなのは、『其中日記』(昭和7年10月21日の条)にある「おとはしぐれか」です。山頭火が厠でしゃがんでいる時、草屋根を滴る時雨の音に季節の移り変わりを感じ取っている、よく知られた句です。
 京都にもこの句碑があり、北区の鷹ケ峯から長坂越えで R162 に出る手前の地蔵院境内(杉坂道風町102)に建てられています。
 そして、山頭火の代表句の一つである、「うしろすがたのしぐれてゆくか」も好きな句です。

 一方、和歌の世界でも一雨ごとに荒涼とした冬の近づく様子、無常の思いを感じさせる「しぐれ」はよく詠われています。
 神無月降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける 『後撰和歌集』
 「降りみ降らずみ」の「み」は交互に繰り返される意の接尾語で、ここでは「降ったりやんだり」を意味しています。

 ところで、『逆引き広辞苑』で「時雨」のつく言葉をあたってみると次のように24個もありました。もっとも印を付したのは偽物の時雨で、虫の音・木の葉の落ちる音など、いろんなものが時雨に見立てられています。
 時雨、夕時雨、秋時雨、横時雨、笠時雨、*さんさ時雨、*虫時雨、片時雨、北時雨、初時雨、*袖時雨、一時雨、*袖の時雨、*空の時雨、偽りの時雨、*木の葉時雨、北山時雨、*黄身時雨、*蝉時雨、露時雨、小夜時雨、叢時雨、*霧時雨、春時雨
 日本語はなんと奥深いのでしょうね。



2021年9月17日 (金)

茅葺き屋根

茅葺き屋根の農家

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 この茅葺き屋根の農家、周辺の自然景観にすっかり同化しています。
ここは、京都府南丹市美山町北地区です。40戸ほどの茅葺き農家がある集落で、現存する茅葺き民家は入母屋造りで、千木・破風等の構造美に優れる、いわゆる「北山型」という独自の構成をもつ山村の民家としての特質を有しているということです。
 四半世紀ほど前の平成5年(1993)、この北地区は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているのですが、まさに「日本の原風景」を残すところとして、多くの人々が訪れるほどに有名な「観光地」になっています。

 農家も今では人手や資材の関係で、瓦葺き屋根に葺き替える家も多いのですが、昔の農家といえば茅葺き屋根が普通でした。茅に比べて材料としては手に入り易い稲や麦などの藁葺き屋根もあるにはあるのですが、耐久性という点では劣るので多くはありませんでした。
 その点、茅葺き屋根は耐久性に優れていて30年くらいは十分もつようです。そして、なによりも夏は涼しくて冬暖かいのため日本の気候に適した屋根と言えます。
 私が子供のころ毎年、学校が夏休みになると田舎の親戚の農家に一週間ほど遊びに行っていました。
 その当時は、まだ母屋・隠居だけでなく、牛馬小屋・堆肥小屋・風呂や便所なども茅葺き屋根だったのを思い出します。


 ところで、当然のことながら茅葺き屋根も老朽化すれば葺き替え普請が必要となります。
 日本のムラ共同体では昔から、生活の必要上から慣行として互助あるいは相互扶助が行われてきました。地方によりその名称や内容に多少の違いはあるようですが、おおよそは次のようなものだと思われます。
 道路や用水などの土木工事、家屋建築や屋根葺き替え、婚礼の手伝い、葬儀の手伝い、火災・自然災害の際の援助や見舞いなどでは、各家から労役奉仕の人手を出して行っていた。
 屋根の葺き替えにあたっても、ムラの共有財産である茅場で育てた茅の刈り取り・古くなった茅降ろし・茅の運搬・葺き上げなど、多大な労力と資材を必要としました。このため、ムラ単位で頼母子のかたちで助け合い、茅が老朽化した家から毎年順番に屋根の葺き替えをしていました。
 葺き替えは茅葺き屋根専門の職人さんが中心となって作業をするのですが、相互扶助でムラの各戸から人を出して屋根の葺き替えが行なわれてきました。

 しかし、美山町北の場合もご多分にもれず、少子高齢化が進み後継者不足が深刻化したため、自治体から補助金が支給されるようになってからは、専門業者に任せるようになったということです。
 今では美山茅葺株式会社が設立され、全国での茅葺き屋根の施工請負とともに、茅葺屋根職人の育成も行っているということです。



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