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雑記

2018年1月 1日 (月)

あけましておめでとうございます

 皆様には良い正月をお迎えになりましたでしょうか。

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 それにしても、世間はこのところずっときな臭く、また危なっかしい様相が続いています。
 「酒は憂いの玉箒」と言い、また「酒は天の美禄」とも言うようです。
 新年を祝い良い年であることを願って、ただいま美禄をいただいているところです。

  朝もよし晝もなほよし晩もよし
    その合々にちょいちょいとよし  蜀山人

  なにもかもウソとなりたる世の中に
    マコトは酒のうまさなりけり   山頭火


 このブログは古稀になってから始めたのですが、早くも6年余りとなりました。
 始めたきっかけは、惚け防止のためでした。 動機が不純か?!
 しかしよくぞ続いたものと我ながら感心します。
 地味〜なブログですが、訪問いただく方々がそれなりに増えてきました、ありがたいことです。
 そんなことで、できればいま少しは続けたいものと思っています。(やめるのはいつでもできますから)
 今後ともお付き合いいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

2017年12月 1日 (金)

珍しい鳥居

 鳥居にも変わったものが色々とあるようです。
 稲荷信仰は平安時代以降に広まったようですが、全国に三万以上もあるという稲荷神社の元締めが伏見稲荷大社です。稲荷大社は京都の観光地としてトップの座を占めますが、朱色の鳥居がズラリと並ぶ「千本鳥居」は外国人観光客には大人気のようです。

 ところで、「京都三珍鳥居」とも呼ばれる珍しい鳥居が三つあります。

木嶋神社(通称「蚕ノ社」)の鳥居

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 右京区太秦森ヶ東町
 本殿右に養蚕(こかい)神社がある。

 平安京が造営される前の京都盆地北部には、賀茂氏・渡来系の秦氏・出雲氏・粟田氏・八坂氏・土師氏などの氏族が土着していました。各氏族が勢力を張った地には、氏族の名前を冠した地名や氏神社・氏寺が今に至るまで伝わっています。
 古代の太秦は秦氏の勢力地であり、養蚕・機織・染色技術で繁栄したことに因んで祀られたことから、木嶋神社は蚕ノ社と通称される。
 元糺の池(もとただすのいけ)に建っている三つ鳥居。この池は禊の行場とされる。下鴨神社にある「糺」はここから移したと云われ、ここ木島神社の場合は元糺と言われるそうです。
 この鳥居は明神鳥居を三角形に組み合わせて建てられており、その真ん中の組石の神座には御幣が立てられていて、三方から拝むことができる。 
 この鳥居は、三つ鳥居・三面鳥居・三柱鳥居などと呼ばれる。

伴氏社(北野天満宮の枝宮=末社)の鳥居

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 上京区御前通今小路上ル馬喰町
 伴氏社は菅原道真が主祭神である北野天満宮の枝宮=末社で、北野天満宮境内三の鳥居の西(左脇)に鎮座する。
 往昔、ここに北野石塔(忌明塔と俗称)があったが、これを北野天満宮境内南西部にある觀音寺(東向觀音)に移し、その址に伴氏社を祀ったと云う。
 伴氏社は、大伴氏の出である菅原道真の母を氏神として祀っている。
 鳥居柱の下の亀腹(台座部分)に、蓮花が刻まれているのが珍しい。
 また、普通の鳥居であれば、笠木と島木の下にある額束が島木を突き抜けて笠木にまで達している。
 なお、北野石塔(忌明塔)は菅原是善の墓、あるいは伴氏の墓、三好清行の墓などとも云われるようだが、ハッキリしないと云う。服喪期間の終わる忌明けは現代でも行なわれています。

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厳島神社の鳥居

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 上京区京都御苑
 厳島神社は、堺町御門を入った西側の九条池畔にある。藤原氏は古代に興り、盛衰を経て近世に至るまで続いた氏族・貴族です。その末孫にあたる関白兼実を家祖とする五摂家の一つ、旧・九条家邸の鎮守社が厳島神社で今も残っている。
 石鳥居の柱に支えられた笠木と島木が唐破風のように湾曲している。
 唐破風は神社建築・城郭建築・寺院などに見られ、建築入口屋根の装飾として付けられる。また、この装飾は神輿・山車・厨子・仏壇・墓などにも装飾として使われている。

 ところで、京都御所には次の写真のように、寝そべったような珍しい桜の木があります。
 この桜、鳥が桜の実を食べて糞とともに松の樹上に排泄したのでしょう。もともと幼木の頃には松の巨木のテッペンで花を咲かせていた寄生木(やどりぎ)です。
 松が朽ちるにしたがい、幹の空洞から根を地面まで延ばしてゆき、松が朽ちて倒れたあとも桜だけは生き延びているのです。

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2017年6月30日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 3

 前回は、和歌に詠われている同名の景物(山や清水など)を幾つか見ました。
 ところが、ほかにも祭礼の名前が似通っているだけでなく、祭礼も同じ日に行なわれるものがありました。

6. 二月上卯日を祭礼日としている
 『菟芸泥赴』に、「二月上卯日は大原祭あり競馬などもあり 西山の大原野祭も二月上卯日なり故あるにや」と記しています。
 *「上卯」というのは、卯の日が月に2回ある時は先の卯の日ということです。

 大 原
 『菟芸泥赴』の記述にもかかわらず、現在では洛北・大原に2月上卯日を祭礼日とする神社は存在しないようです。

 大原野
  《大原野神社》

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 洛西・大原野の大原野神社(西京区大原野南春日町)は現在の祭礼日は4月8日ですが、昔は菟芸泥赴に記すように2月上卯日と11月中子日に祭礼が行われていました。
 奈良の春日社(今の春日大社)は藤原氏の氏神社ですが、桓武天皇が長岡京にさらに平安京へと遷都したことで、参拝に不便となったことから小塩山山麓に勧請し、平安京を鎮護する神として祀られ、地名から大原野神社と称されました。
 したがって、祭礼日は春日神社と同じ2月上卯日でした。


 ところで、多くの地誌の記述では、両地に同名のものが存在するのには、きっと理由があるに違いないけれども、その由來や繫がりは詳らかでないとしているのです。
 少し長くなりますが、『山州名跡志』の「朧ノ清水」から引いておきます。
 「顯昭云ク。能因歌枕ニ云ク。朧清水ハ山城國大原ノ里ニアリトイヘリ。或人申侍シハ。江文ノ東ニアリ。良暹カ大原ノ山荘ノ邊ト云云 私ニ曰ク此ノ水江文明神ノ東ナリ。叉云フ西山ノ大原野ニ朧清水世和井ノ水アリ。所ノ名モ亦大原ト云フ。定メテ所以アルベシ未考。叉此所草生ノ西山南北ヲ小鹽山ト摠名スルナリ。然レトモ和歌ニ詠スルハ西山ノ小鹽ナリ。」
【註】顕昭:平安末期から鎌倉初期の歌僧、法橋に叙せられた
   能因:平安中期のひと、中古36歌仙の1人で晩年は大原に隠棲
   良暹:平安中期の歌僧、大原に隠棲した

 ということで、好奇心に駆られて調べてみたものの、結果として疑問は全く解決しませんでした。
 そこで、以下は私の想像です。(したがって、断るまでもなく責任は持てません)
 最初に見たように大原と大原野は、ともに平安時代以来の由緒ある地でした。そして、和歌に地名が詠み込まれるときは、共に「大原」と詠まれるため混乱が生じがちでした。そうした中で、互いに名所を競い合い、張り合っていたのだろうと思うのです。
 その結果、双方が相手には有るけれども、自分の所には無い名所を作り上げたのだろう、というように考えました。
 上品にして優美な趣や味わいには欠ける推測ですが・・・。さてどんなものでしょうか?

【参考にした地誌等】
京童、大原野一覧、北肉魚山行、菟芸泥赴、京羽二重、山州名跡志、京城勝覧、山城名跡巡行志、新撰京都名所圖絵、京都市の地名

2017年6月23日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 2

 前回見たように、大原と大原野は和歌に詠まれるときには、どちらも「大原」とされて同じです。
 さらに、驚いた事には山や清水の名称まで同じものがあるのです。その幾つか見てみましょう。


2. 小塩山
 *歌枕となっていて、和歌に詠まれる小塩山は大原野の方です。

 大 原
 大原川(高野川)の西側で、寂光院の背後の山。しかし、小塩山というのは特定の山ではなく、大原川の西側を南北に連なる山並みを総称したものだそうです。

 大原野
《大原野神社の参道》
 参道の西方(左方)には勝持寺、そして小塩山(大原山)と続いている。つまり、大原野神社は小塩山の東麓斜面に位置しています。

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 小塩山は、東西の二峰からなっていて、東峰が小塩山で西峰は大原山とも云われる。

    
3. 大原山
 *歌枕になっているのは大原の方です。

 大 原
《大原の大原山》
 小塩山と同じく大原山という特定の山はなく、大原川(高野川)の東側の山々の総称です。

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 大原野
 前記「小塩山」で記したように、大原野神社の背後にある2峰からなる山の西側の峰を云い、これはまた西之山とも云われるようです。


4. 世和井ノ水(セガイノミヅ)(清和井また瀬和井とも)
 *歌枕になっており、古来多くの和歌の題材となった名水は大原野の方です。しかし、各種地誌にはどちらの世和井も「由來未詳」としています。

 大 原
 「律川ノ橋ノ東右方ニ在リ和歌ニ詠ズ」また、「三千院の門前南、呂川にかかる魚山橋の東北畔にある」としている。しかし、現在では残っていないようです。

 大原野
 大原野神社境内の鯉が池の傍に、参道を挟んである。

《世和井の水》

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 *清和天皇の産湯とも大伴家持が愛飲した井水とも伝わる。
 ところがsign02、勝持寺の不動堂の西にもありました。西行が出家するときに映して頭を剃ったと伝わる鏡石の傍です。 
  
 
5. 朧ノ清水(オボロノシミズ)
 *歌枕になっている名水で、和歌に詠まれたのは大原にある方です。やはり、いずれも「由來未詳」とされます。

 大 原
 三千院から寂光院へ抜ける近道の傍らにあります。

《朧ノ清水》
 建礼門院が、朧月夜に我が身をこの清水に映されたことが名前の由来とする。
  ひとりすむ朧の清水友とては月をぞ宿す大原の里  寂然

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 大原野
 勝持寺の「大門ノ外 下馬ノ橋ノ東路傍ノ北ニ在リ」とする。しかし、今では下馬橋も朧ノ清水も存在しません。

【次回に続く】


2017年6月16日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 1

 近頃、妙なことに気が付きました。(と言うと大袈裟ですが)
 ブログ記事を書く時に、しばしば京都の地誌に関する書物を参考にしています。

 そうした折に目に付いたのですが、洛北の「大原」と洛西の「大原野」は、地名自体が大変よく似通っているだけでなく、和歌に詠み込まれた景物にも同名のものがあるのです。
 ちなみに、古刹の名称も似通っています。大原には「魚山大原寺勝林院(天台宗)」が、大原野には「小塩山大原院勝持寺(天台宗)」があって、ともに「大原」が付いています。
 こうした不思議な一致に引かれて、風流韻事には全く縁遠い野暮天の小生なのですが、少し調べてみた結果を記事にしてみました。

1. 大原と大原野の概略

 大原は京都の北郊(洛北)にあります。周囲を山に囲まれた大原川(高野川の上流)沿いの盆地に位置しています。昔の大原は、「炭𥧄の里」という別称もあった製炭地で、炭のほか薪・柴など燃料を都に供給することを生業とする里でした。

《大原川》

 高野川の上流域で八瀬以北を大原川と言い、この川沿いの小盆地が大原です。

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 平安朝の昔から建礼門院平徳子を初め貴顕が隠棲した地であり、鴨長明が籠居したことでも知られ、その風光は多くの歌人に詠われてきました。大原は現在も著名観光地の一つです。
 かつて「大原」は、「オハラ」と読み、古くは「小原」「小原口」と記されたこともあったようです。ただし、和歌には「大原(オホハラ)」と詠まれました。


 大原野は京都の西郊(洛西)にあります。小塩山(大原山)を背負う西高東低の広い段丘地は長閑にして素朴な風光で、古代には狩猟・遊宴の地であり、桓武天皇がたびたび狩猟をおこない皇族や貴族も宴遊しています。

《西山連峰》

 西山山系の小塩山東麓になだらかに開けた傾斜地で眠気を催すような光景です。

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 山野の風光とともに大原野神社をはじめ多くの寺院が建立されており、西行法師など多くの歌人が隠棲した。鄙びた田園であり洛北大原ほどには俗化していません。
 かつての大原野は、「オハラノ」と称されたが、「オオハラノ」の呼称も用いられていました。この大原野も、和歌では洛北と同じように「大原(オホハラ)」と詠まれました。


 このように、大原と大原野のどちらも、地名を和歌に詠むときは「大原(おおはら)」と表現されたのです。
 そうすると、同名のものが歌に詠まれているとき、洛北・洛西どちらの大原なのか混同されるるため、詞書(ことばがき)や詠み合わせる景物により識別されました。

洛北の「大原」を表す景物: 炭𥧄(ノ里)、朧ノ清水、芹生ノ里、比良、高根など 
  炭がまのたなびく煙ひとすぢに心ぼそきは大原の里  寂然
  水草ゐし朧の清水底すみて心に月のかけはうかふや  素意法師

洛西の「大原野」を表す景物: 小鹽山、清和井ノ水、冴野ノ沼、庭火、野辺ノ行幸など
  おほはらや小鹽の山の小松原はや木高かれ千代の影みむ  紀貫之
  おしほ山松風さむし大原やさえ野の沼やさえまさるらむ  中務

 そして、こんな事があってよいものか、驚いた事には山や清水までも同名のものがあるのです。
 次回では、その幾つか見てみましょう。

2017年5月 5日 (金)

みすや針 (縫い針)

みすや針本舗(福井勝秀商店)
 中京区三条通河原町西入

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 貞享2年(1685)刊『京羽二重』に、「三條通 此通諸商諸職 川原町 見すや針」とあり、同書「諸職名匠」中の「針所」にも「三條川原町かど 福井伊豫」との記述があります。
 そして、現在も三条通河原町西入のみすやビルで「三條本家みすや針(福井みすや針)」として営業している。
 延宝6年(1678)刊の『京雀跡追』にも「はりや 物ぬいはり」として、「三條川原丁かと」にあったことを記しています。


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 同店のホームページとリーフレットによれば、現在地に店を構えたのは江戸初期で、はじめ「池ノ端針」の屋号で営業していたが、慶安4年(1651)宮中の御用針司となり、明暦元年(1655)後西天皇から『みすや』の屋号を賜ったと云う。
 『みすや』の謂れは、御所で作っていた針であることから、清めの意味とともに秘術である製法を漏らさぬよう、御簾(みす)の中で仕事をしていたからと云う。
    

 ところで、縫い針の歴史は原始時代にまで遡るようです。
 1965年に長野県南佐久郡北相木村で発見された栃原岩陰遺跡があります。この遺跡は約1万年前の縄文時代早期のものとされるようです。
 10体以上の縄文人の人骨が出土しているのですが、遺物には土器・石器・骨格器・動物の骨なども出ています。
 ここで発掘された骨の縫い針は、細い骨を石器で削り鋭く尖らせて、小さな穴を開けています。それら針の中には鹿角製の縫い針も見出されるということです。
 そして、骨製の釣針、縫い針の精巧さから、当時の人々の技術水準の高さが伺えるそうです。針と動物の腱を鞣して糸にしたものを使い、獣の皮を縫い合わせて衣服を作り上げたのでしょう。
 なお、ヨーロッパではさらに古く約4万年前の遺跡から、骨で作られた縫い針が見出されているようです。

2017年2月10日 (金)

駄菓子屋(一文菓子屋)

 昔は、子供達が路地から路地へと駆け回る猥雑な町並みの中に、駄菓子と玩具類を狭い店頭に並べて、子供相手の商売をしている駄菓子屋(一文菓子屋とも言う)があちこちにありました。
 昭和30年代の東京下町を舞台とした映画、「ALWAYS 三町目の夕日 ‘64」にも駄菓子屋のシーンがあり、吉岡秀隆が駄菓子屋茶川商店の店主茶川竜之介を演じていました。


 駄菓子「船はしや」の店頭・店内風景

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 今では駄菓子屋を見かけることも殆ど無くなってしまい、この「船はしや」(寺町通綾小路下ル西側)以外には知りません。
 五色豆の「船はしや総本店」(寺町二条)から昭和13年(1938)から分家して開業したとのこと。


 船はしや総本店の看板

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 ところで、話は変わります。
 かつて、子供達が喜びそうな小さなオモチャを「おまけ」としてつけたキャラメルがありました。(グリコ、カバヤなど)
 おまけつきグリコは今でも販売されています。
 グリコと云えば、あのキャッチコピー「一粒300メートル」は、誰もが知っている名コピーです。
 また、キャラメルの外箱にはこのコピーとともに、「美味栄養菓子」あるいは「文化的栄養菓子」と入っていたのですが、現在では「ひとつぶ300メートル」「おいしくてつよくなる」になっています。
 ちなみに、森永キャラメルは「滋養豊富」「風味絶佳」です。


 今のグリコキャラメル

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 コピー「一粒300メートル」は、川柳結社「番傘」の主宰者であるとともに、コピーライターでもあった岸本水府(昭和40年没)という人の昭和11年(1936)の作でした。
 広告人としては、福助足袋・グリコ(現江崎グリコ)・壽屋(現サントリー)などで広告の仕事をしたようで、グリコでは広告部長を務めたそうです。

 最後に、岸本水府の川柳で私の好きなものを挙げておきましょう。
   酔っぱらい真理を一ついってのけ
   四十年かかって酒は毒と知る
   旅で見る酒という字の憎からず

2017年1月 1日 (日)

明けましておめでとうございます

 皆様には良いお正月をお迎えになりましたでしょうか。
 私は朝からおおっぴらに呑めるお正月が大好きです。けれども、薬臭いお屠蘇は省略して御酒をいただいています。

 屠蘇の酒曲水花見月見菊
   年わすれまでのみつゞけばや  蜀山人

 
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 このところ、世相・政治ともにタガが外れてしまったかのようで、何処へ向かうのか判らない危うさを感じます。
 今年は何とか穏やかな、そして良い年になってほしいものです。

 皆様にはいつもこのブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。
 実はこのブログ、古稀に達したのを切っ掛けとして、惚け防止のために始めたものでした。(少しばかり動機が不純かも知れませんhappy01
 けれども、気付けばいつの間にやら5年余りを経て、記事の数も320本を越えました。(よくもま〜続いたものと、我ながら感心しますsign01confident
 地味なブログではありますが、まだ当分の間は閉鎖せずに続けたいと思っています。
 今後も時折覗いていただけると嬉しいです。

2016年12月30日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の2

2. 三本木町は何処へ?

 前回に見た東洞院通丸太町上ルに存在していた上三本木各町の移転について、『京都坊目誌』には次のように記しています。

 「寶永五年の大火に内裏炎上す。尋(つい)で築地の取擴けあり。東洞院より烏丸まで。北は下長者町より南は丸太町迄の町地を買収し。皇宮地に編入せらる。此時一町目より三町目の転地を命せらる。仍(かさね)て其替地たる丸太町の北。鴨川の西に移住す。今尚三本木の稱あり」と。


 東三本木通

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 西三本木通

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 そして、東洞院通についての記述では、「當時上長者町まで通ぜしが。寳永五年皇宮地に入るを以て。丸太町まで閉塞す。其間にありし町家を。河東二條に移転せしむ。今尚ほ新東洞院と云ふ。」
 さらに、「新東洞院町 新東洞院通二條下るより二王門までを云ふ。寶永五年の開発にして元東洞院丸太町以北、三本木一・二・三町目の町民を此に移す」と、鴨川の東側の二条通と仁王門通間の新東洞院通に移転させられたことを記しています。


 新東洞院通

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 このように、上三本木一町目から三町目の住民は、鴨川の西と東の2カ所に分かれて移転させられたのでした。


3. 移転して新たに開かれた町々

 ところが、移転させられたのは東洞院通から烏丸通沿いの住民だけではありませんでした。丸太町通から北側については、西は烏丸通から東は寺町通までの間の全ての民家が移転させられたのです。
 このように大規模な移転でしたから、移住先となった主な代替地だけでも次の4カ所に及びました。
 そして、人々が移住した先の町名や通り名には、旧地を偲んで次のような名称がつけられました。

① 鴨川西岸と河原町通の間で、丸太町の北側の一帯
 ここには先に書いた東洞院通丸太町以北の民家が移転しました。そして、旧地の通り名を採って、「東三本木通」「西三本木通」と名付けました。
② 鴨川東部(いわゆる河東)で、二条通と孫橋通の間
 ここには西は烏丸通、東は寺町通の間の丸太町通以北の民家が引き移りました。この鴨川東部の移転地では、通り名の全てが「新車屋町通」「新東洞院通」「新間之町通」などというように、旧地の通り名に「新」を付して「新◯◯◯通」という呼称にしました。
③ 寺町通と河原町通の間で、北は荒神口通から南は二条通に至る間
 ここへは丸太町以北の烏丸通東側にあった民家が移ります。そして、通り名は「新烏丸通」と命名されました。なお、天正期の秀吉による京都改造以来この一帯に輻輳して存在した多くの寺院は、賀茂川東部の仁王門通付近に移転させられています。
④ やはり寺町通と河原町通の間で、北は丸太町通から南は二条通までの間
 椹木町通烏丸から東の民家をここに移して、「新椹木町通」と称しました。


 それらの町の仁丹町名表示板

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   (追補 '17.1.11)
 『山州名跡志』中に、「三本木」の名称由来などの記述を見つけました。
 原文は仮名交じり文で読むのが煩わしいため、主要な点のみを現代文の体裁で要旨を記しておきます。

① 東洞院通の出水から南を上三本木町、下立売通の南を下三本木町と云った。
② 古老が云うには、平安時代にはこの辺りに監獄があり、その門外に三本の木(樗とも榎とも云われる)が植えられていた。これが地名「三本木」の名称由来となった。
③ 古くは、斬首された罪人の首は獄舎の木に懸けられた。このことから獄門と云った。

2016年12月23日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の1

1. 消滅した「上三本木町」

 現在の「三本木町」は、東洞院通の丸太町通と竹屋町通の間に位置する両側町です。

 三本木町の町並み

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 ところが、その南隣の町名は「三本木五町目」(竹屋町通と夷川通の間)となっていています。

 三本木五町目の町並み

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 「三本木五町目」が存在しているにもかかわらず、その北にあるはずの三本木一町目から四町目、そして南側の六町目以降が存在していません。
 これはどうしたことなのでしょうか? どのような事情があってのことなのか、大いに興味をひかれます。

 その辺りの事情を『京都坊目誌』の記述から見ていきます。
 同書の「三本木五町目」について説明した個所に、その答がありました。
 「東洞院通出水下る所を上三本木町と云ひ、一町目と呼ぶ。下立賣下るを二町目と呼び。椹木町下るを三町目と唱へ。丸太町下るを四町目と云ひ。當町に至り五町目となる。」としているのです。

 今では京都御所苑地となっていますが、かつての東洞院通には出水通と丸太町通の間に一町目から三町目までが存在したのです。
 そして、現在では丸太町下ルの町名は「三本木町」となっていますが、元々ここは「四町目」と称していたことが判ります。
 また、その南側(竹屋町通と夷川通の間)の現「三本木五町目」は、慶安の頃には「井筒屋町」「西井筒屋町」と称していましたが、明治2年2月に両町が合併して「五町目」という旧町名に戻したのだとしています。

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 そして、「三本木五町目」の南隣、つまり、夷川通から二条通までの現町名は「壷屋町」となっています。しかし、ここも始めは「三本木六町目」と称していたのですが、慶安期から現町名に改めたと記しています。(右の仁丹町名表示板、劣化が激しく見辛いのですが「壷屋町」のものです)

 以上に見てきたように、かつての東洞院通には北は出水通から南の二条通までの間に、「三本木一町目」から「三本木六町目」までの6町が連なって存在していたのです。
 ところが、丸太町通から北にあった一町目から三町目までの地は、宝永5年(1708)の大火のあと、京都御所が拡張されることになり、苑地に取り込まれてしまい消滅したのです。
 そして、その一帯に居住していた住民は立ち退きを余儀なくされ、代替地に移住させられました。


【註】「宝永五年の大火」とは
 宝永5年(1708)3月8日の午の刻(現在の正午12時頃)に油小路通姉小路下ル、西側二軒目の両替商伊勢屋市兵衛方から出火。強風のために東北方向また東南方向へと燃え広がり、多くの公家・武家屋敷や社寺が灰燼に帰し、御所までもが炎上した。その被害区域は東は鴨川、西は油小路通の西、南は四条、北は下鴨の河合神社辺りにまで及んだという。
 民家13,051戸、神社7、寺院74が焼失し、出火の翌9日未の刻(現在の午後2時)になって漸く鎮火したと云う大火事でした。

      《次回に続く》