京都駅ビルのガラス壁に映る京都タワー
このタワーは、JR京都駅の正面(烏丸口側)を出ると否が応でも目に入ってしまいます。
昭和39年(1964)、東海道新幹線開通・(前回の)東京オリンピック開催の年に開業しています。
京都市内の町家の瓦葺き屋根を波に見立てて、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたものだそうです。また、仏教諸宗派の本山が集中する京都らしく、蝋燭(ろうそく)をイメージしたものとも言われました。
しかし、恰好のランドマークとなっているタワーですが、建設の当時には何かとあげつらわれる存在でした。手前などは俗悪とは言いませんけれども、どう見ても優雅とは言いかねるこのタワーは、いまだにシックリと馴染めません。
そんなことで正面から向き合うのも何となく気恥ずかしいものですから、冒頭の写真は京都タワーに背を向けて、対面にある京都駅ビルの巨大なスモークガラス壁面に映ったタワーを撮したものです。
さて、京都は長い歴史を持つ都市として町の景観を重視しています。
このため、建築物については原則的に31mという高さ制限を設けています。もっとも現在では地域により、特例許可として例外が認められるようになってきています。
ところが、この京都タワーはなぜか131mの高さがあります。これは、建築基準の制限一杯である31mのビルの上に、100mのタワーが設置されれたということのようです。つまり、タワー部分は建築物ではなく電波塔であるため、高さ制限の規制外の扱いとされたのです。
この市章は明治24年(1951)10月に「京」を図案化して制定された。その後に制定された紋章は、この市章の周りに御所車を配したもの。
明治24年(1891)6月、京都市は左京区粟田口鳥居町1番地に、第1期蹴上発電所を完成して送電開始。
昭和26年(1951)5月、電気事業再編により関西電力(株)に移管される。
相国寺の正式な名称は萬年山相國承天禅寺で、臨済宗相国寺派の総本山。
足利幕府三代将軍の足利義満により創建された。
「破風(はふ)」は、屋根の妻に施された装飾で、寺社建築や城郭建築にみられる。
破風には、入母屋破風・比翼入母屋破風・切妻破風・千鳥破風・比翼千鳥破風・唐破風などと、多くのデザインがあるようです。
本隆寺の築墻(ついじ)
築地塀に軒丸瓦(巴瓦)や平瓦などを埋め込んでいて、意匠が面白いと思いました。
本隆寺は本妙法華宗の寺院です。(智恵光院通五辻上ル紋屋町)
長享2年僧日眞が六角西洞院に草創、その後四条大宮に移転。
天文5年(1536)7月27日、京都の法華宗21ヶ寺が比叡山延暦寺の僧兵に焼かれた折、本隆寺も焼滅して同年11月に現在地に移ってきました。
この本隆寺には、不焼寺(やけずのてら)という異名があります。これは、享保15年(1730)の西陣焼けや、天明8年(1788)の大火でも本堂が焼け残ったためで、本堂に安置された鬼子母神による奇瑞と云われたそうです。
なお、元はこの地に佐々木氏の類族杉若若狭守の邸宅がありました。このため、紋屋町の西側の町は杉若町と称しています。
JR京都駅ビルの天井
平成9年(1997)の駅舎建て替えにあたっては、巨大なため高さ制限の緩和を必要とし、デザインも斬新すぎて古都京都のイメージを大きく損なうとして反対論も強く、賛否両論があってその論争はそれは賑やかでした。結果は高さは60mに押さえることで落着したようです。
しかし、空中経路や屋上広場からの眺めは、京都の景色が一望できてなかなかのものです。
ところで、景観論争と云えば、京都駅前(塩小路通を挟んで北側)の京都タワービルも巨大なローソクを連想するもので、今ではすっかり景色に融け込んでいますが初めの頃は評判が悪かったのを覚えています。
ここも京都の市街地を一望できるのが売りでしょうか。