「伏見城」は幾つあったの? (2の2)
2. 指月の丘(指月の森)とはどこ?
慶長大地震で「指月城」が倒壊した後、指月の丘から木幡山(伏見山)に移り「木幡山城」として再建します。その場所は、いまの明治天皇陵のある一帯でした。
それでは、秀吉が指月隠居屋敷・指月城を築いた「指月の丘(指月の森とも)」と言うのは、どのようなな所だったのでしょうか。
前回の記事で記したように、指月城が築かれた指月の丘というのは、現在の桃山町泰長老の一帯にあたります。
ところが、そこは明治末から終戦までは陸軍の京都師団工兵隊が駐屯し、以後は観月橋団地・桃山東合同宿舎などが建てられました。そのため現在では、地表に現れた遺構の残存は見ることができません。
しかし、4度にわたる発掘調査の結果、とりわけ平成27年(2015)の調査では、石垣や北堀跡と見られる遺構、金箔瓦などの遺物が見つかっています。
このことから、一帯の現在は団地や民家が密集していてるため、広範囲にわたる発掘調査は困難ながらも、やはりこの辺りが指月城跡であった可能性が強まったとされています。
そうした発掘調査の結果や地形などから推定される指月城の範囲は、東は船入通から西の豊後橋通(国道24号)までの約500m、南は宇治川北岸の崖から北の立売通までの約250mと見られます。
指月の丘と指月城があったと見られるところの現在。
《指月の丘の東側・・・舟入通から見た傾斜面》
宇治川から指月城の東側へに引き込まれた舟入(水路)の跡が現在の舟入通です。南北が約300m・東西は約90mです。
《指月の丘の西北部・・・豊後橋通(R24)と立売通が交差する地点の南東角》
集合住宅のある辺りから石垣が発掘された。石垣の方向から城の北西角にあたると思われるそうです。
《指月の丘の南側・・・宇治川北岸の崖》
現・外環状線道路沿いにある西岸寺の裏、この崖上が指月の丘(指月の森とも)にあたる。月橋院はここの少し東方にある。
《指月の丘の北側・・・大光明寺陵参道下の立売通》
参道から立売通に落ち込む斜面が指月の丘の北端になる。この大光明寺陵の辺りに本丸があったのか。
それでは、『山州名跡志』から「指月」の記述を見てみます。
「指月 地名 橋ノ北東ニ至ル二町餘ノ内ヲ云フ 此ノ地景色アリ。東南西ニ渺々タル流アリ。巽二巨椋ノ入江。東ニ伏見ノ澤アリ。爾バ便チ月ヲ愛スルニ無雙ノ景色也。故ニ此ノ名ヲナス地ニ月橋院在リ。此院ノ後ノ丘ノ上。北ノ方二町許ニ東西ニ通ル街アリ。是ヲ立賣ト號ス 秀吉公在城ノ時開ク所也。指月ハ此街ヨリ南 東西三町許ノ惣名也」としています。
【註1】:上記引用文冒頭の「橋」は「豊後橋(現・観月橋の辺り)」を指す。文祿3年指月城と対岸の支城向島城との間の宇治川に長さ140間(約250m)の豊後橋を架けた。小倉まで巨椋堤を築造して、大和街道に通じている。
【註2】:引用文中の「月橋院」は曹洞宗寺院で、現在も宇治川北岸の京都外環状線の北側道路沿いにあり、その背後(北)の崖上が所謂「指月の丘」です。
【註3】:同じく「立賣」は指月の丘の北側にあたります。現在のJR桃山駅南側の町名が「桃山町立売」、西の豊後橋通(国道24号)と東の船入通との間を東西に通っている道が「立売通」です。
つまり、「指月の丘」とは眼下の宇治川に架かる豊後橋の北詰にあたり、東西2町余りの丘陵を云う。
東には伏見の沢、宇治川の南には巨椋池を見晴るかす地で、古く平安時代以来、月を愛でるのに無類の場所として知られていたようです。
水面に映る月影が四ヶ所に見えることからこの丘陵地は、旧名を「四月(しげつ)の丘」と言ったが、後に「指月(しげつ)の丘」と書くようになったそうで、地名はこうしたことを由来としていると云う。
ちなみに、指月城の次に築かれた木幡山城があった木幡山(伏見山)については、『山城名跡巡行志』に次のように記述しています。
「木幡山 同所ノ西ニ在 古城山半ハ木幡山也 木幡山伏見山元ト一山也 東ヲ木幡山ト謂 西ヲ伏見山ト謂」
*「同所」とは、古城山の東方にある八科峠を指している。また、「古城山」と云う地名は現在の地図にも載っており明治天皇伏見桃山陵のある一帯です。
木幡山城(伏見山城)が廃城となった後、木幡山と伏見山とを合わせて古城山(故城山)と称されることになったようです。
ところで、指月の丘と木幡山(伏見山)、これら伏見の地に政権があったのは約30年間です。そのうち徳川家康が木幡山城を再建してから廃城までの期間は20年です。
そしてこの間、初代の家康から秀忠・家光に至る三代にわたり、伏見城において征夷大将軍の宣下を受けています。
また、家康が在城したのは江戸城よりも伏見城の方が長かったとも見られるようです。このため、264年間続いた江戸幕府(江戸時代)ですが、その最初期の徳川政権の主要拠点は京都伏見だったとも云えるようです。
その意味で、徳川家康が開いた幕府(徳川幕府)の揺籃期は、「江戸幕府」ではなくて「伏見幕府」と云ってもよいのではと見る向きもあるようです。
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