白雲の練貫座 ー京都機業の盛衰ー
西陣織は高級絹織物で有名ですが、西陣織工業組合のサイトには次のようにあります。
『西陣織とは、「多品種少量生産が特徴の京都(西陣)で生産される先染(さきぞめ)の紋織物」の総称です。昭和51年2月26日付で国の伝統的工芸品に指定されました。 西陣の織屋は、平安朝以降連綿と積み重ねられてきた高い技術の錬磨に加えて、優れたデザイン創作のための創造力や表現力への努力を重ねています。』
平安京が造営される前、5〜6世紀の頃の山城盆地には賀茂氏など土着の豪族と、渡来系の氏族である秦氏が住みついていて、秦氏は農耕・養蚕・絹織物の技術や土木技術をもっていました。
飛鳥時代の大宝元年(701)に大宝律令が制定・施行されて、律令制のもと朝廷の役人や貴族のための綾,錦など高級織物は、「織部司」が独占的に生産していました。
下って平安京に都が移ってのちも織部司が置かれ、織部町に織り手を集住させて、官営の工房で織物作りと衣服の生産・調製を行なっていました。
有職故実書『拾芥抄』によると、織部町は大宮と猪隈(猪熊)の間に、土御門大路(現・上長者町通)を挟んで北側と南側の二町に位置していた。そして、北側の織部町の東隣にも猪隈(猪熊)と堀川の間にもう1つの織部町が描かれています。
しかし、平安時代も中期になると律令制が崩壊して、織部司の官営織物工房はその維持が困難になります。
鎌倉時代になると織り手たちは織部町の東隣の大舎人(猪熊の上長者・下長者間)に集住し、大舎人座を組織して織物作りは役所から独立した民営の機業へと変わっていきました。
ところが、室町時代の応仁元年(1467)、守護大名の山名宗全と細川勝元がそれぞれ諸大名を引き入れ西軍と東軍に分かれて、京都を主な戦場とした応仁の乱が始まります。
この時、山名氏の邸を中心として西軍が陣を張った一帯がのちに「西陣」の地名起源となったのです。
織り手たちは戦乱を避けて京都近郊や堺などに疎開しますが、11年間にも及んだ戦乱が収まると京都に戻って機業を再開します。
かつての白雲村(元新在家町の仁丹町名表示板)
西軍本陣跡の大宮一帯(西陣)に集住して組織された大舎人座に対して、東軍本陣跡の白雲村(新町通今出川上ル)に集住して組織されたのが練貫座でした。この練貫座の織った羽二重が純白であったことから白雲の名称が生まれ、その白雲の地は新しくできた集落であるために「新在家」と称したのです。白雲村は現在の元新在家町(新町通今出川上ル)を中心に、おおよそ南北二町東西一町ほどの一帯にあたるようです。
そして、この練貫座と大舎人座が京都における主要な機業組織として、技術や市場の主導権をめぐって対立しながら発展してゆきました。
ところが、やがて古くからの伝統を持つ西陣の大舎人座が足利幕府から特権と保護を得る一方、練貫座の白雲村は人家が込み合い水質も絹織物生産に適さなくなって多くが西陣へと移動・吸収されていきました。そして、別の一団は天正16年(1588)に今の京都御苑の南西部に共同して移り住み、そこを新たに「新在家」と称したことで元々の新在家(新町通今出川上ル)の方は「元新在家」と称されるようになりました。
しかし・・・、やがて練貫座は衰えて行き文献史料からも姿を消していくこととなったのです。
なお、「宝永の大火」と呼ばれる宝永5年(1708)の大火災の後に、御所と公家町の拡張整備を理由として、御所の南西部および椹木町通から南側のすべての町屋の住民とともに、新在家の人々も住み慣れた地を追われて、二条河東・内野・公家町東側の鴨河原・鴨川の西河原へと移住させられました。
ちなみに、御所南西部にあった新在家の位置は、概ね今の新在家御門(蛤御門)の南東一帯にあたり、西は烏丸通、北は今の中長者町通を東方に延長した線、東は間之町通を北方に延長した線、南は元・新在家南町通(護王神社の南側の通り)を東方に延長した線、これらの通りを四囲とする範囲だったようです。
その場所を分かりやすく言うと、現在の烏丸通の東側で北は新在家御門(蛤御門)から南は護王神社の東向かい側の間、東西は皇宮警察本部とその東側の桃林・梅林から白雲神社の前あたりの一帯に相当するようです。
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