帷子ノ辻
帷子ノ辻は太秦の西の端にあたる、その西方の下嵯峨の一帯は古くは大堰川に面した農村で、平安京と嵯峨嵐山・小倉山を結ぶ下嵯峨街道(三條街道)が中央部を東西に通っていて、人馬の往来が頻繁な地だったということです。
現在の帷子ノ辻は、嵐電の「嵐山本線」と「北野線」がここで分岐しています。
帷子ノ辻の道路標識
三条通と大映通り商店街との交差点
『都名所圖會』には、「帷子辻」を「材木町の東にあり 上嵯峨 下嵯峨 太秦 常盤 廣澤 愛宕等の別れ道なり 帷子辻といふは 檀林皇后の骸骨 さが野に捨しとき 帷子の落散りしところ也」と記しています。
「帷子ノ辻」の地名由来は、檀林皇后(嵯峨天皇の皇后橘嘉智子)が亡くなって、嵯峨深谷山へ向かう葬送の車がこの辺りに差し掛かった時、棺を覆った衣の帷子が風に吹かれて飛び散った所だと言われるのに由来するとされる。風で帷子が飛んでしまうというのは、当時は薄葬令の規定があったために葬列が簡素なものだったからでしょうか。
また、帷子ノ辻は下嵯峨街道(現・三条通)にあって、東北へは常盤へ、西北には上嵯峨・愛宕へと通じる街道の分岐点になっているのですが、南に向かう道が無く、北側への片ビラだけに分岐していることに由来する地名だとも言われます。
ところで、この記事の初めに『都名所圖會』から引用した文の冒頭部分の「材木町」ですが、下嵯峨街道に「材木町」があったというのが、すぐには理解できませんでした。
それで『都名所圖會』の「帷子ノ辻」の少し前の方の記述を見ると、「車折社は下嵯峨材木町にあり」としていることから、ようやくこの材木町がある場所に納得できました。ちなみに、現在も三条通(下嵯峨街道)沿いには材木店や製材所がかなりあります。
丹波で生産されて京へ運ばれる材木や薪炭はかつては主に陸路で運ばれ、山陰道の老ノ坂から京中へ、また中川・高雄を経て宇多野に出る周山街道で、あるいは杉坂から京見峠を経て鷹峯へ抜ける長坂越で輸送されていました。しかし、陸路だけではなく古くから大堰川(葛野川・大井川・葛川などとも呼ばれた)を利用した、筏流しによる材木輸送も行われていました。
この大堰川は所々を巨岩に阻まれて狭い流れのところが多い川でしたが、後の江戸時代初期慶長11年(1606)にこれを大がかりに開鑿して、丹波と京の西部を結ぶ経済の動脈として舟運を可能にしたのは、嵯峨に住む豪商の角倉了以ですが、現在、嵯峨天竜寺角倉町として町名にその名を留めています。
こうして大量の農産物や薪炭、とりわけ材木など諸物資の集散地として、下嵯峨・梅津・桂などの津に陸揚げされて京へ輸送されるようになりました。そして、主要な集散地の下嵯峨と京に向かう三条街道に材木商の町=材木町が形成されました。
ちなみに、後の日露戦争当時の記録によれば、その当時の下嵯峨の職業構成は「材木商1割、薪炭商2割、材木小揚げ業2割、車夫1割、杣業1割、木挽き業2割、農業1割」とあって、農業以外の材木関連の職業で9割を占めていたそうです。
大映通り商店街入り口の看板標示
映画撮影機を模したモニュメント的な装飾が、かつてこの地が日本の映画産業発祥地で日本のハリウッドと言われたことを彷彿させる。この商店街の南方の松竹撮影所(太秦御所ノ内町)を隔てて「蛇塚古墳」(太秦面影町)があります。
蛇塚古墳
嵯峨野・太秦には1400年ほど昔の6世紀に、いま嵯峨野古墳群と総称される数多くの古墳が築造され、その数は分かっているだけでも約180基に達するという。この太秦でも前方後円墳を中心とした太秦支群と称される古墳群があり、写真の蛇塚古墳は全長約75mの前方後円墳の墳丘だったが、日本の映画産業の中心としていくつもの映画制作会社が設けられたとき、一帯が開発で削られて平らにされたときにこの巨大な横穴式石室が露出したが、今も残された玄室部分の周囲にはすっかり住宅が密集して建っている。
追記:太秦多薮町の仁丹町名表示板と大映京都撮影所
現在、太秦には東映京都撮影所と松竹京都撮影所だけが残っています。しかし、かつては大映京都撮影所が太秦多薮町にありましたが、昭和61年に倒産閉鎖しました。