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道標・史跡などの石碑

2024年11月15日 (金)

名古曽の滝、大沢池、大覚寺

大覚寺大沢池

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 大覚寺は右京区嵯峨大沢町にあります。
 この寺のはじめは、平安時代の初期に嵯峨天皇の離宮(別荘)として造営された嵯峨院でした。
 平安時代、風光明媚な洛西の嵯峨野は皇族や貴族が遊猟をし、離宮や豪壮な山荘を構えて、その園地には広大な池をもつものが幾つもあったようです。
 離宮嵯峨院は現在の大覚寺境内東側の大沢池の北にあったようですが、嵯峨院の園地にあって中国の洞庭湖になぞらえて作庭されたという、今の大沢池だけが昔の姿を残しているようです。
 なお、この大沢池は、東方にある広沢池とともに観月の名所として知られていました。
 
 貞観18年(876)、嵯峨院は淳和天皇の皇后正子(嵯峨天皇の皇女)の御願により寺に改められて、大覚寺と称するようになりました。
 のちの鎌倉時代には、譲位した後嵯峨天皇・亀山天皇がこの大覚寺に入り、後宇多天皇がここで院政を行なうにおよんで大覚寺は大いに栄えて嵯峨御所とも称されたのです。
 応仁の乱とその後も続いた兵火で大覚寺は荒れ果てたのですが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らの寄進と保護で門跡寺院としての体裁を回復したということのようです。


名古曾の瀧址

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 さて、大沢池の北50メートルほどのところに、滝壺の石組みを思わせる数個の大きな石があり、そばには「名古曾の瀧址」の石碑があります。
 この嵯峨院の庭園にあった「名古曽の滝(なこそのたき)」の流れは、素掘りの遣り水が大沢池に流れ込むように設けられていたようですが、いつしかその水路には水が流れなくなり、平安も末期の頃になると滝はすっかり涸れてしまっていたようです。

 滝の名の「名古曾の瀧」は、藤原公任(966年~1041年)が流れの絶えた滝を見て詠んだ、有名な次の歌から名付けられたと言われます。
   滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
     名こそ流れて なほ聞こえけれ (百人一首 55)
(滝音が絶えてから久しくなるが、その名声は今も流れ伝わって、今もなお世に知られていることだ、といった意味だそうです)

 ついでに書けば、大納言公任(藤原公任)は平安中期の公卿で歌人。和歌の他、漢詩、管弦にも優れた才能を見せ、藤原道長に自らの才能を誇示した「三舟の才(三船の才)」の逸話は有名です。
 藤原道長が大堰川に漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟を出して、それぞれの分野の名人を乗せたとき、乗る舟を尋ねられた公任は和歌の舟を選んで、次の歌を詠み賞賛されたと言う。
  小倉山 嵐の風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき




2024年8月24日 (土)

京都大学と尊攘堂

尊攘堂

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 京都大学には、重要文化財(建造物)に指定されている施設が1施設、そして登録有形文化財(建造物)として登録されている施設が11あります。
 その登録有形文化財の一つが尊攘堂なのです。
 しかし、どういった繋がりがあって、幕末の尊皇攘夷運動と関わりのある施設が京都大学に設置されたのか。そして、それは佐幕関係施設ではなく尊皇関連施設だったのはなぜなのか、ちょっと不審に思っていました。

 京都帝国大学は、明治30年(1897)に西日本における最高学府として創設されました。そして、その6年後の明治36年(1903)に、くだんの尊攘堂は京都帝大構内に建てられました。
 後年、沢柳事件(大正2年)・滝川事件(昭和8年)など、大学が政治上の干渉や制約を受けることなく、学問の自由と大学自治の擁護を目指した画期的な事件が起こっていて、京都大学といえば自由主義的な学風で知られます。


 ところで、少しばかりバイアスのかかった見方かもしれませんが、私は京都の民衆は江戸の民衆ほどには将軍家に対して親近感を抱いてはおらず、むしろ攘夷を行えない将軍と幕府を軽蔑していただろうと思っているのです。そして、千年来の都であった京都の民衆は御所(朝廷)に対して恩恵を感じ,尊皇攘夷派へも好意を寄せていたと思います。
  
 尊攘堂の傍らに設けられた説明板によれば、尊攘堂は吉田松陰の門人で尊攘派として活躍した、幕末・明治期の政治家である品川弥二郎が、恩師の遺志を汲んで明治20年(1887)に高倉通錦小路に創設したもので、江戸時代末における尊王攘夷運動で功のあった人々を記念したことに由来するとのこと。
 現在、京大構内にある尊攘堂は、京都で大学を興したいという吉田松蔭の願いに基づいて、品川の死後にその収蔵品とともに京都帝国大学に寄贈されることになったと記しています。
 こうした経緯で、尊攘堂は京大に寄贈された松蔭の遺墨・遺品をはじめ、松下村塾に集った高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允・山縣有朋など勤王の志士の遺墨や遺品などを収めるため、明治36年(1903)に京大構内に建てられたものです。

 現在、品川弥二郎からの寄贈資料は維新特別資料として、京都大学附属図書館に収蔵保管されており、尊攘堂には大学構内で発掘された埋蔵文化財の保存展示のために使われているということです。
 ちなみに、尊攘堂のつくりは、外装は化粧した煉瓦造りの平屋建て、寄棟屋根の擬洋風建築と呼ばれる建物で、破風付きの窓・小屋根・切妻のポーチなど洋風の要素を配している。
 普段、内部は公開されていませんが、扁平なアーチをもつ一段高い小室が奥に控える左右対称平面で、中央広間の天井をめぐる漆喰装飾と照明の唐草装飾とがあいまって、華やかな印象を醸し出しているものだということです。




2024年7月12日 (金)

皇女和宮の降嫁

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 写真は、《皇女和宮生誕の地(橋本家跡)》の碑と、その左側は《橋本家跡(和宮養家)》の説明駒札です。駒札には次のように、皇女和宮の波瀾に富んだ生涯を極めて簡単に記述しています。

 「1846(弘化3)年、孝明天皇の妹和宮親子内親王誕生の地といわれています。和宮は、橋本実久の娘典侍の経子を母として生まれ、十四年間この橋本家で養育されました。公武合体政策を進めるため、当初の有栖川宮熾仁親王との婚約は破棄され、十四代将軍徳川家茂へ嫁ぐことになりました。明治維新後、和宮は徳川慶喜の助命にも尽力しました。1877(明治10)年、療養先の箱根で没し、増上寺の徳川家茂の墓に並んで葬せられました。」


 そこで、テレビドラマにもなった和宮の数奇な生涯について調べてみました。
 和宮は第120代仁孝天皇の第八皇女であり、5歳の時に兄の第121代孝明天皇の命により、歌道・書道を家学とする皇族有栖川宮家の長男である熾仁親王(当時17歳)と婚約しました。こうして、和宮は学問を有栖川宮家で学んだのです。熾仁の父・幟仁親王から習字の手ほどきを受け、熾仁親王からは和歌を学びました。

 ところが、熾仁親王と和宮の結婚を翌年に控えた万延元年(1860年)、途轍もない時代の荒波が彼女の身に降りかかることになるのです。それは、和宮が14歳の時のことでした。
 時は幕末の動乱期で、嘉永6年(1853)にペリーの黒船艦隊が来航して開国を迫られました。その時、徳川幕府の大老・井伊直弼は天皇の勅許を得ることなく、日本にとって不利となる日米修好通商条約を締結してしまったのです。

 このため、天皇の権威の絶対化と開国に反対する尊王攘夷運動が広がり、幕府と対立します。
 和宮の兄である孝明天皇は、尊皇攘夷のリーダーシップをとる水戸藩に対して、「尊皇攘夷の実現をめざして幕府を助け、諸藩と協調して努力せよ」との勅書を出しました。(戊午の密勅)
 しかし、井伊直弼は水戸藩が朝廷と組んで幕府に反逆しようとしているとの疑いをかけ、反幕的な言動のあった者たちを大弾圧したのです。(安政の大獄)
 こうした中、大老の井伊直弼は万延元年(1860)3月に攘夷派によって暗殺されてしまうのです。(桜田門外の変)
 このため、幕府は天皇家と将軍家の間で姻戚関係を作る以外に道はなし、つまり「公武合体」の政治路線に至ります。和宮はその切り札として政略結婚を強いられた悲劇のヒロインとなったのです。

 しかし、和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約を盾に抵抗、幕府との板挟みになった孝明天皇の懊悩、降嫁にあたって和宮が求めた条件、天皇が求めた条件など、すったもんだの末に和宮は江戸えの下向を承諾するという経緯を辿ります。
 しかし、和宮の江戸入城の後も和宮付き女官や上臈などの御所組と、天璋院をはじめ大奥の女中たち武家組の間で軋轢が生じ、徳川家茂との婚姻後も波瀾万丈の生涯を送ることとなります。
ただ、救われるのは将軍家茂との仲は睦まじかったようです。
 明治10年(1877) 9月2日、病気療養先の箱根塔ノ沢で薨去しますが、紆余曲折を経る波瀾万丈の生涯ながら、まだ31歳という若さでした。



2024年6月14日 (金)

帷子ノ辻

 帷子ノ辻は太秦の西の端にあたる、その西方の下嵯峨の一帯は古くは大堰川に面した農村で、平安京と嵯峨嵐山・小倉山を結ぶ下嵯峨街道(三條街道)が中央部を東西に通っていて、人馬の往来が頻繁な地だったということです。
 現在の帷子ノ辻は、嵐電の「嵐山本線」と「北野線」がここで分岐しています。

帷子ノ辻の道路標識
 三条通と大映通り商店街との交差点

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 『都名所圖會』には、「帷子辻」を「材木町の東にあり 上嵯峨 下嵯峨 太秦 常盤 廣澤 愛宕等の別れ道なり 帷子辻といふは 檀林皇后の骸骨 さが野に捨しとき 帷子の落散りしところ也」と記しています。
 「帷子ノ辻」の地名由来は、檀林皇后(嵯峨天皇の皇后橘嘉智子)が亡くなって、嵯峨深谷山へ向かう葬送の車がこの辺りに差し掛かった時、棺を覆った衣の帷子が風に吹かれて飛び散った所だと言われるのに由来するとされる。風で帷子が飛んでしまうというのは、当時は薄葬令の規定があったために葬列が簡素なものだったからでしょうか。
 また、帷子ノ辻は下嵯峨街道(現・三条通)にあって、東北へは常盤へ、西北には上嵯峨・愛宕へと通じる街道の分岐点になっているのですが、南に向かう道が無く、北側への片ビラだけに分岐していることに由来する地名だとも言われます。

 ところで、この記事の初めに『都名所圖會』から引用した文の冒頭部分の「材木町」ですが、下嵯峨街道に「材木町」があったというのが、すぐには理解できませんでした。
 それで『都名所圖會』の「帷子ノ辻」の少し前の方の記述を見ると、「車折社は下嵯峨材木町にあり」としていることから、ようやくこの材木町がある場所に納得できました。ちなみに、現在も三条通(下嵯峨街道)沿いには材木店や製材所がかなりあります。

 丹波で生産されて京へ運ばれる材木や薪炭はかつては主に陸路で運ばれ、山陰道の老ノ坂から京中へ、また中川・高雄を経て宇多野に出る周山街道で、あるいは杉坂から京見峠を経て鷹峯へ抜ける長坂越で輸送されていました。しかし、陸路だけではなく古くから大堰川(葛野川・大井川・葛川などとも呼ばれた)を利用した、筏流しによる材木輸送も行われていました。
 この大堰川は所々を巨岩に阻まれて狭い流れのところが多い川でしたが、後の江戸時代初期慶長11年(1606)にこれを大がかりに開鑿して、丹波と京の西部を結ぶ経済の動脈として舟運を可能にしたのは、嵯峨に住む豪商の角倉了以ですが、現在、嵯峨天竜寺角倉町として町名にその名を留めています。
 こうして大量の農産物や薪炭、とりわけ材木など諸物資の集散地として、下嵯峨・梅津・桂などの津に陸揚げされて京へ輸送されるようになりました。そして、主要な集散地の下嵯峨と京に向かう三条街道に材木商の町=材木町が形成されました。
 ちなみに、後の日露戦争当時の記録によれば、その当時の下嵯峨の職業構成は「材木商1割、薪炭商2割、材木小揚げ業2割、車夫1割、杣業1割、木挽き業2割、農業1割」とあって、農業以外の材木関連の職業で9割を占めていたそうです。

大映通り商店街入り口の看板標示

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 映画撮影機を模したモニュメント的な装飾が、かつてこの地が日本の映画産業発祥地で日本のハリウッドと言われたことを彷彿させる。この商店街の南方の松竹撮影所(太秦御所ノ内町)を隔てて「蛇塚古墳」(太秦面影町)があります。

蛇塚古墳

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 嵯峨野・太秦には1400年ほど昔の6世紀に、いま嵯峨野古墳群と総称される数多くの古墳が築造され、その数は分かっているだけでも約180基に達するという。この太秦でも前方後円墳を中心とした太秦支群と称される古墳群があり、写真の蛇塚古墳は全長約75mの前方後円墳の墳丘だったが、日本の映画産業の中心としていくつもの映画制作会社が設けられたとき、一帯が開発で削られて平らにされたときにこの巨大な横穴式石室が露出したが、今も残された玄室部分の周囲にはすっかり住宅が密集して建っている。

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追記:太秦多薮町の仁丹町名表示板と大映京都撮影所
 現在、太秦には東映京都撮影所と松竹京都撮影所だけが残っています。しかし、かつては大映京都撮影所が太秦多薮町にありましたが、昭和61年に倒産閉鎖しました。


2024年1月26日 (金)

北野廃寺と古代の嵯峨野

北野廃寺跡の碑

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 『日本書紀』などの文献史料によると、5世紀後半の頃から葛野(現在の嵯峨野一帯)で生活していた人々として、朝鮮半島南部から渡来した氏族の一つである葛野秦氏が挙げられます。
 嵯峨野には嵯峨野古墳群と総称される多くの古墳群があり、嵯峨野独特の景観を形作っています。その中で、6世紀の初めから末までに築かれたと見られている太秦支群といわれる古墳群で、前方後円墳の5基(段ノ山・天塚・清水山・片平大塚・蛇塚)、これらはその所在地からいって秦氏の墳墓とみられています。
 秦氏は豊かな経済力と、土木(治水灌漑や田畑造成)・農耕・養蚕・機織などで優れた技術を持っていました。秦氏は、大堰川に「葛野大堰」と呼ばれる堰をつくり、平安京以前には未開拓地であった嵯峨野の地域で灌漑施設を造り農業をひろめました。

 ちなみに、秦氏の氏の名は「ハダ」(今では「ハタ」)といい、秦氏の族長の称号が「ウツマサ」(今では「ウズマサ」)で、「太秦」という字をあてています。この「太秦(うずまさ)」が地名の由来となっています。

 そして、秦氏は7世紀前半の飛鳥時代になると、人々の信仰の場である神社や寺も多く建立しています。全盛期の秦氏を代表する族長は秦河勝という人でした。その秦氏が関わった著名な寺の一つに、京都市右京区太秦蜂岡町に所在する広隆寺があります。
 『日本書紀』の推古11年(603)のくだりに、秦河勝は仕えていた聖徳太子から尊い仏像一体を授けられて、これを安置するために「蜂岡寺」を造ったとあります。
 この蜂岡寺が現在の広隆寺の前身となる寺院だとするのが有力な考え方のようです。
 ちなみに、国宝第一号に指定された広隆寺の木造弥勒半跏思惟像は飛鳥時代のもので特に有名です。この仏像の写真は教科書をはじめよく目にします。

 ところが、承和3年(836)の『広隆寺縁起』によると、この蜂岡寺が建てられたのは今の広隆寺がある太秦蜂岡町(当時の「五條荒蒔里」)ではなく、平野神社から北野白梅町にかけての辺り(当時の「九條河原里」と「九條荒見社里」)だったとしていて、この九條の寺領が狭かったために現在の広隆寺所在地に移転したと記録しているようです。

 昭和11年(1936 年)、この平野神社から北野白梅町にかけての一帯で行われた電車の敷設工事にともなって大量に出土した古瓦などの遺物が、飛鳥時代の寺院のものであったことから、ここに京都市内では最古となる寺院群が存在したことが明らかとなりました。
 そして、この発掘調査で「鵤室」「秦立」と墨書された土器が出土していることや文献史料の記述から、ここに存在した寺院は聖徳太子と繋がりのある秦氏が創建に関わったと考えられるそうです。
 この寺院跡遺跡では寺院の名称が明らかとならなかったため、発見された場所の地名から「北野廃寺」と命名されました。

 この北野廃寺は、『日本書紀』に書かれた「葛野秦寺(かどのはたでら)」に相当するのではないかとも考えられています。
 さらに、「野寺」と墨書された平安時代の土師器が出土していることから、『日本後紀』に記載のある「野寺」ではないかとも考えられています。「野寺」は『諸寺略記』によれば「常住寺」とも呼ばれていることから、南都の七大寺に並ぶ寺格を有していたことが分かるそうです。



2023年10月20日 (金)

淀・淀城そして淀川

 京都の北郊から嵐山を経て流れる桂川、三重と奈良を主な水源とする木津川、そして琵琶湖を水源とする宇治川、これら三つの川の合流点であり、またかつて存在した山城盆地中央の南部を占めた広大な巨椋池の下流である「淀」が淀川の起点でした。(現在では三川の合流する京都府と大阪府の境界付近が淀川の起点となっています)
 もっとも、この巨椋池は太平洋戦争の前に食糧増産のため干拓されて水田地帯に変わってしまいましたが、それまでは周囲が約16㎞で面積は8平方㎞もある京都府下の淡水湖では最大の面積でした。

与杼神社の石標
 元の鎮座地は桂川右岸(西岸)の西淀ともいわれた水垂でしたが、明治の淀川改修のため現在地の淀城址に移されました。
 「淀」は古い文献では「與杼」「與等」「與渡」とも記されましたが、平安期以降になって「淀」の文字が使われるようになったようです。

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 平安時代から中世までの巨椋池は、淀川の水量調節機能をも果たす遊水池でした。そして、その西端には淀津が、東岸には宇治津や岡屋津などが設けられていて、近江・大和・丹波・摂津・河内の諸国に通じる水上交通の要所となっていました。
 淀津は諸国からの貢納物がこの「淀」に陸揚げされて、陸路を京の都へ運搬される外港だったのです。陸揚げされた貨物を納めておく倉庫のあったところが「納所(のうそ)」で、これが地名の由来となっています。

 このように、「淀」の地は水運の要所でしたが、一方、山城盆地および摂津・河内平野を抑えるうえで軍事的な要衝地でもあったのです。京都の護りを固めるためにも、また京都を目指して攻め上るうえでもこの地は重要な根拠地とされたのです。

 ところが、近世初めの文禄3年(1598)に豊臣秀吉が伏見山(木幡山)に伏見城を築造したとき、宇治川の流路を巨椋池の東側から北側へと迂回させて、巨椋池西端にあたる納所の西方で桂川と合流するように改修しました。つまり、納所は宇治川と桂川が合流する三角州に位置することになり、そのやや下流で木津川が合流していたのです。
 往時は桂川・宇治川・木津川が合流する一帯の低湿地(現在の桂川右岸で水垂・大下津の一帯は西淀ともいわれた)を「淀」と呼んでいたのです。
 ちなみに、この「淀」の地名由来には二説あるようです。一つは3本の川が寄り合う土地で「よりと(寄処・寄門)」からきているとする説、もう一つがそこを流れる川水が淀んでいる土地とする説です。


淀城本丸付近の石垣

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二つの淀城

 いま、伏見区淀本町に残る城址、これは近世に築城された淀城(新淀城)の跡なのです。しかし、それ以前に中世以来の淀城(旧淀城)が宇治川の北側の納所にあったのです。
 この納所の淀城は天正15年(1587)豊臣秀吉が修築して、側室(幼名は茶々)を住まわせ「淀の者」「淀の女房」と呼ばれ、のちに「淀君」とも呼ばれたことで地名の「淀」は有名になりました。
 この淀城で淀君が鶴松を産んで間もなく共に大阪城に移り、文禄3年(1594)には伏見城が建設されたため、淀城の機能は伏見城に移されました。
 こうして、納所の旧淀城は廃されて、伏見城も関ヶ原の戦いのあと徳川家康によって破却されてしまいます。
 今では旧淀城の城址は全く残っていないため、城の規模・構造・位置いずれも明らかではないのですが、「納所」にあったのは確実だとみられます。
 なぜなら、納所に残る地名の「北城堀」と「南城堀」は旧淀城の堀跡であることを示すと考えられ、「薬師堂」は淀城鎮護のため創建された堂宇の跡と伝承されています。

 それではいま、淀本町に城址の残る新淀城はいつ誰によって築城されたのか。
 豊臣が滅亡して徳川幕府が伏見城を廃城したあと、二代将軍秀忠は京都守護のために松平定綱に入部と新淀城の築城を命じました。こうして、松平定綱は納所の南側を流れる宇治川対岸の淀島に新淀城を築造しましたが、天守など多くの建物は伏見城や二条城から移築して新淀城を完成させたのです。



2023年6月 2日 (金)

高 瀬 川

 高瀬川沿いの木屋町通では、三条から四条辺りにかけての一帯が京都でも主だった繁華街の一つになっている。透き通ったきれいな水が浅瀬を流れていて、京都らしい雰囲気をたたえた観光スポットになっています。
 『京都坊目誌』には、「文化文政以来鴨川に沿ひて酒楼旗亭を設け、遊宴娯楽の場と為る」とありますが、現在もなお京都で有数の飲食店街です。
 高瀬川は、鴨川の二条大橋西畔から水を取り入れて南流、南区東九条で鴨川を東岸に渡って再び南下、伏見の市街地西部を流れて宇治川に合流しています。
 そして、その宇治川は京都府と大阪府の境界辺りで桂川・木津川と合流し、淀川となって大阪湾に流入しています。

 高瀬川は方広寺大仏再建の資材を運搬するため、角倉了以・素庵親子が開鑿したものではじめは伏見から五条まで通じたが、のちに私費で二条まで延長したのです。慶長16年(1611)に竣工したともいわれますが、諸説があって明らかではないようです。
 支配者が豊臣から徳川に替わって政治の中心が伏見城から二条城に移ると、大坂から伏見に運ばれて陸上げされた物資を京の中心まで運ぶ手段は、竹田街道・鳥羽街道の陸路以外にはありませんでした。そこで、物資を舟運輸送するために開削された運河が高瀬川なのです。
 最盛時には248隻の舟が就航したといわれています。この舟運は大正9年(1920)まで使われていました。

物資を輸送する高瀬舟
 5・6隻を繋いで一組とした舟の列を、15〜16人の曳き子が「ホーイ、ホーイ」と掛け声をかけながら、柳の下の岸づたいに綱で引いてのぼったという。(画像が小さくて見づらいですが、絵をクリックすると拡大できます)

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 角倉家は高瀬川の支配と物資輸送を独占して、大坂・伏見の物資は高瀬川を経て京の中心地に輸送されました。使われた舟は舷側が高く、浅い水深に合わせて船底が平らな喫水の浅い高瀬舟で、高瀬川の名前の由来とされる。

史跡 高瀬川一之舟入碑
 背後に見える復元された高瀬舟の左手奥に、「一之舟入」があるが今では金属の柵で川と隔てられている。
 舟入は高瀬川の右岸から西に向けて、奥行き約85m・幅約10mの堀割になっていたが、今ではその周辺にまで人家が立ったため狭まっている。

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 かつて、高瀬川の川筋には物資の積み下ろしや、舟の方向転換のために9ヶ所の舟入が設けられていたようです。しかし、今では史跡に指定された「一之舟入」を除いては、全て埋め立てられてしまい無くなっています。

 おしまいに高瀬川沿いの道、木屋町通について
 高瀬舟で輸送された物資の主なものは、住民の日常生活に必要な材木・薪炭をはじめ米・塩などで、高瀬川沿岸にはそれらを商う商家や倉庫が軒を並べ、商人や職人たちが同業者町を作っていました。その名残として、樵木町・材木町などとともに船頭町・車屋町など多くの町名として残っています。
 このように川沿いの道には材木屋や薪炭・薪屋が多かったことから樵木町(こりきちょう)と称されたが、いまでは通称にしたがって木屋町通となっている。
 この木屋町通は高瀬川沿いに町並みができていったもので、初めは極めて狭い道のきわに店舗・倉庫があったが、後の明治28年ここに電気鉄道を通すことになり、これらが撤廃されて拡幅のうえ道路としました。さらに、明治43年には軌道敷き拡幅のため高瀬川畔にあった柳などの風致木を伐採して、1mほどを埋め立て今のような規模の道になったようです。





2023年2月10日 (金)

大変珍しい灯籠

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 前回、記事にしたと釈迦三尊石仏と同じく、善道寺にあります。
 善道寺型灯籠は中国風山門内の右手にあって、江戸時代の作とされる。
 火袋の周囲には、茶碗、炭斗(すみとり)、火鉢、火著、茶釜、柄杓、五徳が刻まれている珍しい灯籠で、善導寺型灯籠と称されています。茶人が珍重し、摸して愛玩する者が多かったという灯籠です。
「善導寺型燈籠」と称される灯籠の本科(原品)であり写しではありません。宝珠・笠・中台などは全体的に膨らみと厚みがある。
 ところが、残念なことには現在ではその浮き彫りの彫刻は甚だしく風化してしまっているため、はっきりとは見ることが出来ません。



2023年1月27日 (金)

善導寺の三尊石仏

 善道寺は木屋町通の北端にあたる東生洲町、二条通に南面してあります。
 宇治の黄檗山大本山萬福寺や、伏見の石峰寺(伊藤若冲ゆかりのお寺)・鞍馬口の閑臥庵、長崎の崇福寺など黄檗宗寺院の楼門は竜宮造(竜宮門)になっています。
 ところが、この善道寺は浄土宗知恩院派の寺院なのですが、その山門は珍しく中国風です。

善導寺の山門

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 本堂に向かって左手の前庭一隅に「三尊石仏」はあります。高さは1m足らずの自然石(砂岩)で、扁平にした前面に三尊を半肉彫にした立体感のある石仏です。
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 三尊のうち中央の大きい一尊は釈迦如来立像で、インドから中国に伝え、中国から日本に伝わってきた、いわゆる三国伝来の釈迦像として信仰されてきた嵯峨清凉寺本尊の釈迦如来立像(国宝)を模している。
 釈迦如来像は右手を上げ、左手を下げた与願印(施願印・施与印とも)で、衣文(えもん)は流れるように美しい襞の流水文衣文(りゅうすいぶんえもん)となっている。

 右の脇侍、普通は普賢菩薩像ですがこの石仏は弥勒菩薩像と思われ、中央の釈迦如来立像と同じような姿勢をとっている。このように脇侍として弥勒仏を配するのは珍しい例だという。
 左の脇侍は五髻(ごきつ)文殊菩薩像で、頭は五つの円いマゲを結び、右手に宝剣、左手には梵篋(経典の入った小箱)を持っている。

 石仏の右端部分には、鎌倉時代中期にあたる「弘安元年」(1278年)の刻銘があり、半肉彫に彫られた石仏は厚肉彫とはまた違った趣があって、全体に稚気のある可憐な像で、絵画的な華麗さを出すのに成功していると評される。




2022年12月30日 (金)

誓願寺の六地蔵石幢

 新京極通六角に、誓願寺という浄土宗西山深草派総本山の寺院があります。
 清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことから、女人往生の寺として名高い。
また、このお寺は芸道上達のお寺としても広く信仰を集めています。  
 
 今年の夏、この誓願寺へ山脇東洋(江戸時代中期の医学者)の墓を訪ねて行きました。
 この時、誓願寺墓地の入り口を入ってすぐ近く、覆屋の中に傷んで破損した石塔があるのに気がつきました。説明書きによると「六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)」と称されるものです。
 石幢というのは鎌倉時代の頃から造られていたようで、単制石幢と重制石幢の2種類があるそうで、誓願寺のものは重制石幢です。
 重制石幢は通常、宝珠・笠・塔身(龕部)・中台・竿・基礎の六つの部分からなっていて、一見したところは石灯籠風の石塔で、笠の下の龕部(がんぶ)に六地蔵を彫ったものが多いようです。

 この誓願寺の六地蔵石幢は、、誓願寺墓地では最古の石仏だそうで、高さが約136センチで、石材を六角形に加工した六面体の石塔です。
 その六角形の幢身の各面には、浅く光背が彫られ、蓮華(れんげ)座に立った、像高約36センチの地蔵菩薩立像が肉厚に浮き彫りされています。地蔵菩薩は六角形のそれぞれの面に刻まれてているのですが、そのうち1体は欠損しています。

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 ところが、惜しいことにはこの石幢は完全な形ではなく、幢身(どうしん)部分だけが残されていて、龕部の上部にあったとみられる笠や宝珠は失われてしまってありません。
 この幢身頂部には龕穴(がんけつ)が開いており、ここには経典が納められていたようで、その上に笠石を載せて閉じられていたと考えられます。

〈 幢身の左上部が欠損している 〉
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 錫杖(しゃくじょう)を持った地蔵菩薩の下部には、次のように願文が刻まれています。
「一結衆并無縁六親/右意趣者為/眷属乃至法界平等利益故也/永享11年11月24日敬白」とあることから、室町時代の初期にあたる永享11年(1439)に造られたことがわかります。




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