名古曽の滝、大沢池、大覚寺
大覚寺大沢池
大覚寺は右京区嵯峨大沢町にあります。
この寺のはじめは、平安時代の初期に嵯峨天皇の離宮(別荘)として造営された嵯峨院でした。
平安時代、風光明媚な洛西の嵯峨野は皇族や貴族が遊猟をし、離宮や豪壮な山荘を構えて、その園地には広大な池をもつものが幾つもあったようです。
離宮嵯峨院は現在の大覚寺境内東側の大沢池の北にあったようですが、嵯峨院の園地にあって中国の洞庭湖になぞらえて作庭されたという、今の大沢池だけが昔の姿を残しているようです。
なお、この大沢池は、東方にある広沢池とともに観月の名所として知られていました。
貞観18年(876)、嵯峨院は淳和天皇の皇后正子(嵯峨天皇の皇女)の御願により寺に改められて、大覚寺と称するようになりました。
のちの鎌倉時代には、譲位した後嵯峨天皇・亀山天皇がこの大覚寺に入り、後宇多天皇がここで院政を行なうにおよんで大覚寺は大いに栄えて嵯峨御所とも称されたのです。
応仁の乱とその後も続いた兵火で大覚寺は荒れ果てたのですが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らの寄進と保護で門跡寺院としての体裁を回復したということのようです。
名古曾の瀧址
さて、大沢池の北50メートルほどのところに、滝壺の石組みを思わせる数個の大きな石があり、そばには「名古曾の瀧址」の石碑があります。
この嵯峨院の庭園にあった「名古曽の滝(なこそのたき)」の流れは、素掘りの遣り水が大沢池に流れ込むように設けられていたようですが、いつしかその水路には水が流れなくなり、平安も末期の頃になると滝はすっかり涸れてしまっていたようです。
滝の名の「名古曾の瀧」は、藤原公任(966年~1041年)が流れの絶えた滝を見て詠んだ、有名な次の歌から名付けられたと言われます。
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ (百人一首 55)
(滝音が絶えてから久しくなるが、その名声は今も流れ伝わって、今もなお世に知られていることだ、といった意味だそうです)
ついでに書けば、大納言公任(藤原公任)は平安中期の公卿で歌人。和歌の他、漢詩、管弦にも優れた才能を見せ、藤原道長に自らの才能を誇示した「三舟の才(三船の才)」の逸話は有名です。
藤原道長が大堰川に漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟を出して、それぞれの分野の名人を乗せたとき、乗る舟を尋ねられた公任は和歌の舟を選んで、次の歌を詠み賞賛されたと言う。
小倉山 嵐の風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき