島原遊郭

大宮通花屋町にある京都市バス停留所名は「島原口」です。廃された京都市電の停留所名も「島原口」でした。
「島原」は京都5花街の中では最古の花街ですが、島原への道筋の入り口に当たることから「島原口」と呼称したのです。
江戸時代の島原は、江戸の「吉原」とともに幕府公認の遊郭でした。
ちなみに、「島原」という地名はなく通称であって、正式には「西新屋敷」と言います。
元遊郭の「島原」を『京都坊目誌』で調べると、概ね次のようにありました。
「島原」が成立する前の遊里は「六条柳町(新屋敷)」でしたが、その周辺には徐々に人家が密集して商工業発達の障害となってきました。
そのため、寛永10年(1633)7月に所司代板倉宗重の命により、市街地の外である朱雀野に代替地を与えられて移転したのです。その移転先を元の「新屋敷」に対して、西の新屋敷ということで「西新屋敷」と称したのです。
その敷地は13,459坪5分(約44,500㎡)、屋敷地は40,000㎡ の広さだったということです。
ちょうどその頃、寛永14〜15年(1637〜38)に島原の乱が起きました。九州の島原と天草で起こった益田四郎時貞(天草四郎)を首領とする百姓一揆で、2万数千人が原城址に籠城して幕府軍と戦ったのです。
キリシタン教徒を中心とした天草四郎の籠城軍は、防御施設の城郭(防御施設)と要塞を築いて堀も設けました。朱雀野にできた遊郭「西新屋敷」は、その構造が島原の天草軍城塁を思わせたことから、人々は「島原」と呼ぶようになったということです。
さて、『京都坊目誌』の中で、ちょっと面白いと思ったことを抜粋しておきます。
「島原には古来変則の名称あり、入口を出口と称し、南を上之町と云ひ。北を下之町と呼ぶの類なり。塵芥所を塵塚と云ふ 今は免さず (中略) 入口に柳樹を植え之を出口ノ柳と云、往時柳馬場にありし遺風なりと。青楼 元支那の名称 登ると云ふ意より揚屋と称す、娼妓 小方業 を忘八クツワと呼ぶ、娼妓の居室を局ツボネと云ふ、娼妓の用語動作皆他に異る 今は普通一般と異ならず。」
と言う事で、遊郭の慣習として上下を逆さにしたことから、西新屋敷(俗称「島原」)へは東から正門(入口ではなく出口と云った)を入って、中央 道筋ドウスジと云うを西へ行って、一筋目を北に入る町を中之町、南へ入る町を上之町、東から二筋目を上がる町を中堂寺町、南に下がる町を太夫町、三筋目を下がる町を揚屋町、上がる町を下之町と称したのです。
そして、これら5つの町を総称して「島原」と言ったのです。
さて、置屋から芸妓や太夫を呼んで、宴席でもてなす料亭を揚屋といいます。
島原では遊女で芸妓の最高位は太夫であり、客の遊び相手をするだけでなく、和歌・香道を能くするもの、和歌・文章に妙なるもの、絵画を能くし禅に通じ詠歌も多いもの、茶道・漢籍に精通したものなど、あらゆる教養を身につけて才色兼備の名声を轟かせた名妓を多く輩出したということです。








































