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御土居

2021年5月14日 (金)

御土居

 御土居というのは豊臣秀吉が京都の周囲に築いた惣構(そうがまえ)です。惣構というのは城郭と城下の周囲を堀や土塁で囲いこんこんだ防御施設です。
 その規模は周囲が、東は賀茂川の西岸、北は鷹峯、西は紙屋川、南が九条というもので総延長が約23Kmで、京都の市街地をすっかり囲んでしまう大堤になります。堀の幅は広い所で18m、土塁は高い所で6m、その幅は広い所で20mに及ぶというものでした。
 この御土居築造の目的は、鴨川の洪水から京都を守る治ための治水(築堤)と、外敵への防御のためという2つの説があるようです。しかし、構造から見ると防災のための施設としての意味合いの方が強いように思われます。
 そして、土塁の内側を洛中、外側を洛外と称するようになったのはこの時に始まるようです。

御土居の遺構(北区鷹峯旧土居町)
  御土居の頂部

Photo_20210409163901
 安土桃山時代の公卿で関白左大臣の近衞信尹(このえのぶただ)という人が御土居について、日記『古今聴観』(後に『三藐院記(さんみゃくいんき)』として知られる)に次のように記録しているそうです。
 「天正十九年壬正月ヨリ、洛外ニホリヲホラセラル、竹ヲウヘラルル事モ一時也、二月ニ過半成就ナリ、十ノ口アルト也、此事何タル興行ソト云二、悪徒出走ノ時ハヤ鐘ヲツカセ、ソレヲ相図二十門ヲタテテ、其内ヲ被捲為ト也」

 築造を始めたのが天正19年(1591)の正月、堀を掘って護岸のため竹を植え、10カ所の出入口を設けるという壮大な大土木工事の大方を、僅か2ヶ月程で完成したというのです。猛烈な突貫工事をやったのですね。
 悪党や反逆者が出たときには早鐘を打たせ、それを合図に10の門を閉じてそれに備えるためだというのです。
 御土居に設けた10カ所の出入口というのは、所謂「京の七口」で大原口・鞍馬口・長坂口・粟田口など、洛外との出入口を指しているようです。
 ちなみに、「京の七口」は早くに鎌倉時代の末頃から設けられていたらしいのですが、その数は時代によってまちまちであって、実際には七つを越えていたようですから、多くある出入口の「総称」と言ったようなものだったようです。




2013年9月20日 (金)

「京七口」と街道 ー粟田口と東海道ー

 「東海道」は古代から山城国の北部と東海・東山・北陸道を結ぶ主要道でした。
 江戸時代の五街道(東海道・中山道・日光道中・甲州道中・奥州道中)は主要幹線道路であるため、政治・軍事上の必要から幕府直轄とし、道中奉行の管轄下に置いていました。
 鴨川の三条大橋から粟田口・松坂・日ノ岡峠・四ノ宮河原・逢坂の関を越えて大津へと至る道は東海道の一部にあたり、三条街道・大津(街)道・近江路という呼称もありました。
 また、伏見から大亀谷・山科勧修寺を経て大津に至るルートもあって、これもやはり大津街道と云い、江戸時代には参勤交代の大名が京都を避けて伏見宿から大津宿へ直接出る道筋として重視されました。
 なお、京から近江への道としては他に、雲母越・山中越・渋谷越などもあった。

 さて、東海道で京の出入り口となるのが「粟田口(三条口とも)」なのですが、ここはどのような地だったのでしょう。

1. 地域名としての粟田口

 「粟田口」は元々、三条白川橋から東方、東山西麓一帯で日ノ岡手前の蹴上までを云う。
 古くは愛宕郡(おたぎぐん)13郷の一つ粟田郷であり、現在の左京区浄土寺・鹿ヶ谷・岡崎一帯を「上粟田郷」、岡崎の南の三条通から四条通以北を「下粟田郷」と称したようで、既に平安期の文献にはその名が見えるそうです。

三条白川の道標
 これは延宝六年(1678)の建立になり、京都最古の道標とされる。
 「京都為無案内旅人立之」としており、京都に不慣れな旅人の為の道案内に建立したと云う。
 「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と名所の名が刻まれている。
 施主の名前に代えて「施主 為二世安楽」と刻まれている。仏の慈悲により二世にわたって安楽を得ることを願い、功徳を積む意味で建立したのでしょう。

Photo

 粟田郷は東国から京への入り口にあたることから「粟田口」と命名されたが、この地は古来より山城北部(後に平安京が造営される地域)から東方へ抜ける、交通上の最も重要な要衝地でした。
 このような粟田口の位置は、戦略上においても重要な地点であったため、「保元物語」や「平家物語」などにこの地をめぐる攻防が記されています。
 またこの地には貴族達の別荘が多く設けられていたことが、「日本後記」「三代実録」「栄華物語」「大鏡」から知られると云います。

 正確な跡地は不明ながら、粟田口東端と日ノ岡の境界地あたりには、古く平安の中期から「粟田口刑場」の記録があり、江戸時代にも処刑や晒首がおこなわれたと云う。
 天王山(山崎)の戦いに敗れた明智光秀と斎藤利三の首・胴体が晒されたのもここで、この時にはその他の首三千余を集めて首塚がつくられたそうだ。豊臣秀吉の伴天連追放令・禁教でキリシタンの市橋庄助が磔刑に処せられたのもここであったと云う。

「粟田口」石標

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 粟田口には平安中期に大和の刀工が来住して粟田口を家号とした。鎌倉以来は多くの名工を輩出して相模の正宗と並び江戸時代にはもてはやされ、その作を「粟田口物」と云った。そして、その刀工を三条小鍛冶と称したのは、粟田口三条坊に住んだたことによる。

 また、東山一帯では粟田焼の製陶がおこなわれ、滝沢馬琴が享和2年(1802)京都を訪れた時、「京都の陶は、粟田口よろし。清水はおとれり」と旅行記『羈旅慢録』に記すそうで、当時は清水焼の窯を凌ぐ人気を保ち、宮中や幕府など高貴の人々の間で重用されたようですが、幕末には清水焼に押されてしまい、明治末頃には凋落するに至ったと云う。

 

2. 京七口の一つとしての粟田口

 京都には、都と外部(郊外・諸国)を結ぶ街道の出入り口が設けられ、口の付く地名が多く存在した。
 一般的には「京七口」と云われるが、京案内の文献に依れば、時代により位置・名称が変化しており、数も七つに一定していたわけではかったようです。

「弥次喜多」像
 東海道を上ってきた弥次郎兵衛と喜多八、三条大橋を渡り京に入ったところ。

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 「粟田口」には、他に大津口・東三条口・三条橋口・三条口などの名称もありました。これは、口地名が行き先や経由地を示す場合と、口が所在する位置の地名を示す場合とにより呼称が異なったのです。
 つまり、経由地を表して「粟田口」、行き先を示して「大津口」、所在する土地の「三条口」というように呼称の違いが生じたようです。
 先に記したように、「粟田口」は京の出入り七口の中でも、要衝の地として最も重要な一つでした。

 ところで、豊臣秀吉は天正18年(1590)から翌年にかけて、大規模な京都改造をおこなっています。大きくは町割りの実施・寺院街の形成・御土居の築造でした。
 この御土居は高さ約5m、幅は基底部が約20mで上部は約5m、外側には濠を設けて全長は22.5Kmというもので、京都の市街地を包み込む大規模なものであったようです。この御土居築造の目的は諸説があるようですが、京都は平安の昔から鴨川の洪水と氾濫に悩まされていたので、鴨川の治水と防災と云うのも主要な目的の一つだったようです。

「三条口(粟田口)」跡付近

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 この御土居に七ヶ所の出入り口が設けられたことから、「京七口」の呼び名が定着した模様。そして、その一つ「粟田口」(「三条口」など別称のあることは上記の通り)が設けられたのは、現在の「大橋町」(三条寺町東入ル)付近だとされるのですが、今ではその名残を留めるものは何も残っていません。

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 ところで、三条通(旧東海道)を鴨川を渡って東進すると、三条大橋の東橋詰から広道(現・岡崎通)にかけて十数ヶ所もの辻子が目白押しに存在します。
 次回からは、これらの辻子を巡り歩く予定でいます。



2012年8月17日 (金)

「京七口」と街道 ー長坂越えー

長坂口と長坂越え
 京都の出入り口『京七口』の一つ「長坂口」は、鷹ケ峯から千束・京見峠を経て杉坂に至る丹波街道長坂越え(丹波街道とも)の出入り口である。遅くとも鎌倉時代の末期には設けられていたことが文献で確認できるらしく、戦国期には丹波・若狭と山城を結ぶ重要ルートであり、近世に入る頃まで重要視されたようである。
 然林房横の細い道が長坂越えの登り口となる。

 鷹ケ峯は狩猟場であった栗栖野の西北にあたり、毎年鷹がやって来て雛を生んだのでその山を鷹ケ峯と称したという伝承がある。

長坂口辺りから鷹ケ峯北方を望む

 

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 なお、長坂口を鷹ケ峯ではなく、後の蓮台野村辺り(東は船岡山西麓から西は上品蓮台寺の辺り、北は仏教大学南は鞍馬口通辺り)としたものもあるようだ。

上品蓮台寺(紫野十二坊町)

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 ところで、この長坂口は、後に豊臣秀吉が築造した御土居(京都の市街地を囲い込む全長約23Kmの大堤)の西北隅にあたる。

史跡・御土居跡(鷹ケ峯旧土居町)

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芸術村 
 鷹ケ峯光悦町の古図には、京口に通じる南北路と丁字形に交わる東西路があり、その家並には本阿弥光悦をはじめ養子・弟・宗家の次男・三男といった本阿弥一族、蒔絵師、筆屋、紙屋、尾形光琳の祖父宗柏、茶屋四郎次郎といった当代一流の芸術家や豪商の屋敷が見えるという。いわば芸術村とも言える様相を呈していたようだ。
 また、長坂口は若狭・丹波方面からの諸物資集散地および宿場として賑わった。
 しかし、長坂越えと雲ヶ畑越えのいずれの丹波道も、明治37年に高雄・梅ヶ畑経由の周山街道(現・R162)の開通によって木材等の物資集散地としての賑わいは衰微した。

清蔵口
 なお、近世に入って長坂口が廃止された後、やはり京七口の一つ「清蔵口」が設けられた。これは西賀茂から雲ヶ畑を経て丹波に出る街道出入り口であるが、現在の新町通鞍馬口付近の清蔵口町一帯をいう。
 清蔵は西蔵から出た言葉であるとし、古御蔵の西倉があったことから西倉口、これが誤称されて西蔵口また清蔵口と説明する文献があるようだ。また他に、清蔵と云う富者があり、その名を地名としたとするものもあるそうだ。

清蔵口町の仁丹町名表示板

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 R162杉坂口までの長坂越えは山道のためコース全体としては道が細く、車の離合困難な箇所がかなりあってストレスとなり、快適なドライブはできません。
 しかし、長坂越えの杉坂側終端近くの地蔵院境内には種田山頭火の句碑「音はしぐれか」があり和む。
 ひっそりとした山中に山号「桃源山」の標石、長閑な気分になります。
 句碑の写真は省略します(興味を持たれる方は当ブログ中の「種田山頭火 ー京都にある句碑4ー」をご覧下さい)

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2012年3月15日 (木)

「京七口」と街道 ー竹田街道ー

 竹田街道は、京都から竹田を経て伏見に至る街道。
 文禄年間に豊臣秀吉による伏見城築城後に開かれ、伏見街道と共に京都と伏見を結ぶ最も重要な幹線道路となる。

 

写真=京都駅ビル東側付近
 通り(東洞院通)の突き当りを御土居が東西に走っており、正面の低い建物の辺りに竹田口があったようだ。(JR京都駅0番線のプラットホームは御土居外側の堀跡にあたるらしい)

 

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 竹田街道の道筋は二つあり、一つは京都から東洞院通を南下する道で、東洞院が洛中から洛外になる東塩小路辺りを竹田口と呼んでいた。
 竹田口を南下して鴨川を勧進橋で渡り、竹田の東部を通って伏見に至る道筋を東竹田街道といっていた。
 もう一つは、油小路通を南下して鴨川を竹田橋で渡り、竹田の南から東竹田街道に合流(現在の国道24号が竹田街道からそれて東南方向にカーブする「伏見加賀屋敷町」交差点辺り)する道筋があり、これは西竹田街道と呼ばれた。

 

写真=棒鼻車石

 

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 一般的には、東洞院を南下する東竹田街道のことを竹田街道と呼んだ。
 東竹田街道は人道に沿って荷駄用の牛車の通行に便利なよう、車石が舗装道路のように敷設されていた。この東伏見街道は荷車や馬車が頻繁に往来する一方、西竹田街道は衰退していったようだ。
 なお、往時の竹田街道(旧道)の竹田久保町〜七瀬川町は東高瀬川沿いを通っていたそうだ。

 

写真=下神泉苑町(仁丹町名表示板)

 

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写真=西朱雀町(仁丹町名表示板)
 下神泉苑町、西朱雀町などは京都から移り住んだ人々が、旧地の町名を開拓した町の呼称としたのである。

 

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写真=東大黒町(仁丹町名表示板)

 

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写真=京 橋
 江戸時代には、ここ宇治川派流〜濠川〜伏見港〜宇治川〜淀川へとつながり、この京橋船着場と大坂天満の八軒屋船着場は、京都・大坂を三十石舟で結ぶ淀川舟運の要衝となっていた。(埋め立てで川幅がすっかり狭くなってしまっているが、当時はもっと広かったそうだ)
 参勤交代の大名行列や伊勢神宮参拝にゆくなどの一般の旅人で、淀川水運を利用する人々はこの京橋に上陸し、陸路で山科を経て東上した。京橋北詰に脇本陣があったらしい。

 

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写真=寺田屋
 京橋の東の畔にある寺田屋は三条小橋の池田屋と共に、維新史跡としてよく知られる。寺田屋事件や坂本龍馬が幕府の手に襲われるなどで有名。

 

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2012年3月 1日 (木)

「京七口」と街道

「口」の付く地名

 京都市内の地図を眺めていると、「口」の付く地名をよく見かけます。
 それら「○○口」で表される地名は、いくつかのタイプに区分けできるように思われます。
 1つ目:ごく狭い一画を表しているもの。例えば、上京区の「西之口町」は平安初期にあった「左近の馬場の西の入口」にあたる。中京区「樋之口町」は鴨川から高瀬川に水を取り入れる水門のある場所。
 2つ目:集落などある程度広い地域への出入口を表したもの。例えば、西京区「千代原口」は近世の千代原村(現在の桂巽町・桂坤町・桂乾町・桂艮町・千代原町にあたる)への入口の地名。また、下京区「島原口」は近世以来の公許遊廓であった通称島原(西新屋敷の各町)への入口を表す地名。
 3つ目:いわゆる「京七口」で、三条口・竹田口・丹波口など主要街道の出入口です。この口地名はその街道の起点となる地名だけではなく、経由地名や到達地名を冠している場合が珍しくない。

 そこで、上記三つ目の「京七口」とそこを起点とする街道を、記事にしてみるのも楽しいかなと思い立ちました。(まとまり次第、何回かにわたって記事にしてみたいと考えています)

 

 「京七口」はやはり、元々は京都の周囲にある主要各街道の七ヶ所に出入口が設けられていたのでしょう。
 しかし、出入口の数、名称や場所が時代により変化したため、数としての七には余り意味が無くなり、京都の出入口を表す「総称」に変わっていったようです。

 

「荒神口」の地名表示

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護浄院(通称清荒神)
 上京区荒神口通新烏丸東入 荒神町
 寺町通の東側を御土居が南北に延びていた。この護浄院辺りにあった開口部が荒神口であり、山中越えで近江へ通じる街道の起点となっていた。
 清荒神が「荒神町」の由来となっている。

 

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御土居と「京七口」

 「京七口」という表現が一般的に使用されるようになったのは、近世に入り豊臣秀吉が天正19年(1591)京都大改造の土木工事の一環として、京都の周囲に22.5Km にわたる御土居を築造して、そこに設けた出入口の九ヶ所(とみられる?)が始めらしい。
 (御土居の内と外で京都の洛中と洛外が明確に区別されることになった。しかし、そもそも御土居構築の目的については諸説があり、確たるものは無いようです)
 明治に入ると民有地となりとり潰して畑などに転用され、大正期には住宅開発で殆どの部分が破壊された。その後、辛うじて残った部分を保護するため、8ヶ所が国の史跡に指定された。(昭和40年に1ヶ所が追加指定される)

御土居跡
 上京区馬喰町(北野天満宮境内の西端)
 左方は急傾斜となっており、その底部は紙屋川(天神川)で堀を兼ねていた。

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 ところで、近世以降の文献に代表的「京七口」として見られるのは、次のものだそうである。( )内は別称です。
三条口(三条橋口・粟田口・大津口)→ 江戸への東海道(三条街道)、途中で中山道に分岐
伏見口(五条口・五条橋口・宇治口)→ 伏見街道、伏見を経て大和・大坂へ
竹田口 → 竹田を経て伏見への街道(大和・大坂につながる)
東寺口(山崎口)→ 山崎・高槻・西宮を経て西に向う西国街道
鳥羽口(東寺口・八幡口)→ 鳥羽・淀・八幡を経て大坂へ行く鳥羽街道
丹波口(七条口)→ 亀岡を経て丹波へ行く山陰街道
長坂口(清蔵口)→ 京見峠・杉坂に至る長坂越え、周山街道につながり若狭への道
荒神口(今道の下口・今出川口)→ 山中越えで西近江への街道 
大原口(龍牙口)→ 大原・朽木を経て若狭に至る若狭街道 
鞍馬口 → 鞍馬を経て丹波に至る鞍馬街道

 しかし、京七口の呼び方が一般的になる前、すなわち、中世にも既にいくつかの口地名が文献に見られるそうです。
平安時代の中期の文献には、
粟田口が、『栄華物語』卷七、長保3年(1001)9月の「石山詣で」に。
九条口が、『為房卿日記』寛治6年(1092)2月6日の条に。
室町時代の文献には、
鞍馬口、長坂口が、山科家古文書『山科家礼記』延徳3年(1491)6月30日の条に。
大原口、粟田口が、同じく山科家文書の『言継卿記』永禄10年(1567)10月2日の条に。
丹波口が、『東寺執行日記』嘉吉元年(1441)9月5日の条に。