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カメラ散歩

2025年10月31日 (金)

京都慶應義塾跡

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 かつて、僅かの期間でしたが京都に慶應義塾の分校がありました。
 京都府庁(上京区下立売通新町西入ル薮ノ内町)の正門を入ってすぐ左手の茂みに、横書きで大きく「独立自尊」の4文字が刻まれた記念碑があります
                                    
 現在の京都府庁の敷地は、幕末に江戸幕府が設けた京都守護職の屋敷跡にあたります。文久2年(1862)に尊攘派を威圧するとともに、京都の治安維持のため江戸幕府が設けたもので、会津藩主の松平容保を任命しました。しかし、慶応3年(1867)王制復古で廃止となっています。


 碑の前面の「独立自尊」の下には小さく「明治七年」とあり、さらにその下には「京都慶應義塾跡」と刻まれています。ちなみに、「独立自尊」の4文字は福澤諭吉の筆蹟とのこと。
 碑裏面の碑文は次のように刻まれています。

慶應義塾長  林毅陸 撰文并題
此所ハ明治七年京都慶應義塾ノ在リタル故跡ナリ 当時ノ京都府知事槙村正直ノ希望ニ依リ福沢諭吉先生之ヲ設立シ 其高弟荘田平五郎専ラ経営ノ任ニ当リ 他ノ講師等ト共ニ英学ヲ教授シタリ 其存続ハ約一年間ニ止マリシモ 文化発達ノ歴史上之ヲ湮滅ニ帰セシムルニ忍ビズ 乃チ碑ヲ建テテ其地点ヲ表示スルモノナリ
昭和七年十一月廿七日
京都慶應倶楽部建之

なお、碑の側面にはペン先を交叉させた慶応義塾の校章レリーフが刻まれています。

 福澤諭吉は、京都府知事槇村正直の要望で、明治7年(1874)2月からおよそ1年間、京都に慶応義塾の分校を設立しました。
 開設時に作成された『京都慶應義塾之記』によると、「京都慶應義塾ハ東京三田二丁目慶應義塾ノ教員出張ノ學校ニシテ京都下立賣ノ仮中學校内ニ之ヲ設ク、(略) 此分校ハ講堂ノミニテ眠食ノ部屋ナシトイヘドモ追々生徒ノ都合ニヨリ塾舎モ設クベシ」とあり、場所は旧京都守護職邸跡にある京都中学校教場の一角を間借りして、英書・洋算・訳書の三類が設けられました。

 しかし、京都慶應義塾は各地に設けられた慶應義塾と同様に、経費や手間、教員確保などの面で問題が生じ、加えて京都中学校との確執もあったようで、十分に学生を集めることができず、開設した年の7月頃には早くも存廃を検討しているようです。結局約1年で廃校に至り、入学者の記録類は残っていない。


[京都守護職跡地の推移]
慶應3年(1867)12月、京都守護職、京都所司代・町奉行の職を廃止
慶應4年(1868)2月、旧守護職屋敷跡地に京都府庁を開庁
 同年 6月26日、二条城に府庁舎を移す
 同年 7月1日、旧守護職屋敷跡地(府庁跡地)に京都中学校を開校
 同年 9月8日、明治と改元
明治3年(1870)12月、日本最初の中学校として、京都府中学が所司代屋敷跡(上京区猪熊通丸太町下ル)に開校。
明治6年(1873)2月、京都府中学が京都守護職屋敷跡(上京区下立売新町)に移転。
明治7年(1874)2月、京都府中学の一画に京都慶應義塾を設立。



2025年8月15日 (金)

三条通の西洋建築巡り その6

1928ビル(旧・大阪毎日新聞社京都支局)

1928
 三条通御幸町東入弁慶石町56

 昭和3年(1928)の建築。建築家武田五一氏の設計により毎日新聞社(当時の大阪毎日新聞社京都支局)の社屋として建築された。
 新聞社が移転した後、平成10年(1998)に改修工事が施されたそうです。しかし、ビルの内外装ともに往時の状態で残されている部分が多く、ファサード(建物の正面)に水平に連なる庇やアール・デコ風の直線的デザインが特徴的な建物です。
 社章をモチーフにした独特の形状をしているバルコニーや、玄関の左右にあるランプの意匠はアールデコ風の特徴が見られる鉄筋コンクリート構造3階建。京都市の有形文化財に登録されています。
 一階と地下にはカフェなどの店舗が入っていて、若者の人気を集めている。
 ちなみに、現在の毎日新聞社京都支局は、上京区河原町通丸太町上る西入錦砂町285にあります。



2025年6月21日 (土)

富士ラビット

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 大正14年頃の建造か。
 鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建,建築面積119㎡
 京都府京都市下京区七条通新町西入夷之町721
 国の登録有形文化財に登録されています。

 京都で自動車販売の草分けといわれる日光社の社屋として建てた3階建の商業ビル。
 社名の日光を象ったといわれる塔屋の意匠や古典的な柱のオーナメント、1階正面の自動車の描かれたステンドグラスなど様々な要素が混じり合った建物として知られている。

 創業者は粂田幸次郎氏、京都のタクシー会社であるヤサカグループの創業者でもあったそうです。
 レトロな字体で歴史を感じる看板ですが、「富士ラビット」と言うのは、当時の富士産業(現SUBARU)が昭和21年(1946)から同43年(1968)まで製造販売していたスクーターの名前です。

 現在、この建物のは1階は牛丼のなか卯が営業しています。




2025年6月 6日 (金)

三条通の西洋建築巡り その5

京都ダマシンカンパニー(元・家邊徳時計店)

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 三条通富小路東入中之町27

 明治23年(1890)の建築。2階建の建造物だが、木造建築の外側に煉瓦を張った造りで、正面の三連アーチが印象的です。国の登録有形文化財に登録されています。

現在は婦人洋服店として使われている。 民間の洋風建築としては最も古い洋館だそうで周辺でもひときわ目を引く建物です。

 




2025年5月17日 (土)

三条通の西洋建築巡り その4

SACRA(旧・不動貯金銀行三条支店)

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 三条通富小路西入中之町20
 大正5年(1916)の建築。木骨煉瓦造で銅板葺地、地上3階地下1階建。
 全体に古典的で装飾豊かな洋風の意匠を持ち,一階の軒回りや二階のエプロン部分の円形装飾等になど、細部に幾何学的な形態を用いてまとめる点に、なんでも19世紀末に起こった芸術運動(ゼツェッション)の影響が見られ、時代の特徴がよくあらわれているとのこと。国の登録有形文化財に登録されています。
 現在は、テナントビルとして使われています。

 ちなみに「不動貯金銀行」というのは、実業家の牧野元次郎によって1900年に設立された貯蓄銀行で、のちに「協和銀行」、「りそな銀行」となりました。



2025年5月 2日 (金)

三条通の西洋建築巡り その3

TSUGU京都三条(元・日本生命京都三条ビル)

Tsugu
 三条通柳馬場西入に所在。
 大正3年(1914)に建てられた煉瓦造りの二階建てで銅板葺。登録有形文化財。
 昭和58年(1983)に大規模に改修されて、今は銅板葺き尖塔屋根の塔屋部分と柳馬場通に面した外壁のみが保存されている。細かい装飾を省いた直線的なデザイン、シンプルな石張りの外観が特徴、レンガの上から石を貼っています。
 設計は辰野金吾と片岡安の辰野片岡建築事務所で,外壁を石張りにする外観に,その作風がよくあらわれているとのこと。
 なお、昭和58年の改修で、建物の一部を鉄筋コンクリート造・地上6階建に建替え、現在はホテル「TSUGU 京都三条」となっている。

 

 

2025年4月20日 (日)

三条通の西洋建築巡り その2

京都文化博物館別館(元・日本銀行京都支店)

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 三条通高倉西入に所在。
 明治39年(1906)の建築で、「日本近代建築の父」といわれる辰野金吾の設計。設計の頑丈さから「辰野堅固」の渾名で呼ばれたという。
 壁面の凸凹のリズムや細部の装飾、赤煉瓦の壁に花崗岩の白いライン、「辰野式」と呼ばれる重厚にして華麗な外観には見惚れさせられて、三条通のシンボルとも言える洋風建築です。

 Wikipediaによれば、辰野が得意とした赤煉瓦に白い石を帯状にめぐらせるデザインは、ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、辰野式建築(たつのしき けんちく)として知られる。明治から大正にかけて多くの建築家がこれを模倣した。

 辰野の設計による建築は他にも、東京停車場(現・東京駅丸の内駅舎)や日本銀行本店などの名建築が残っていますすが、京都でも日本生命京都支店(現・日本生命京都三条ビル)、第一銀行京都支店(現・みずほ銀行=レプリカ)、旧北國銀行京都支店(元銀行建築の内装をリフォームして現在は「DEAN & DELUCA 京都」が営業している)があります。




2025年4月 4日 (金)

三条通の西洋建築巡り その1

 日本の開国とともに西洋建築が導入され、京都でも近代になって三条通に相次いで洋風建築が建設されて、京都で建築の文明開花をリードしました。そして、今も赤煉瓦の洋風建築と伝統的な町家づくりの老舗が併存していて、独特な景観を見せています。
 それら洋風建築のいくつかを、シリーズとして記事にしてみたいと思います。

中京郵便局

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   三条通東洞院東入に所在。
 明治35年(1902)、逓信省技師の吉井茂則と三橋四郎の設計により、京都郵便電信局として建てられたものです。
 これが現在の中京郵便局です。
 昭和51年(1976)にファサード保存という外壁をそのまま残した、内部だけを新築するいわゆる「壁面保存」の代表例だという。
 外観の赤いレンガと白の隅石の対比が美しい。窓や出入口の上部に取り付けた三角形の装飾(ペディメント)を載せた窓が並ぶ端正な外観は、ルネサンス期のイタリアで富裕な市民により、都市の街路にな面して建てられた邸館(パラッツォ)を彷彿させる。



2025年2月21日 (金)

カメラ散歩

茶道薮内家

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 下京区西洞院通正面下ル鍛冶屋町430
 薮内家は現在14代を数え、400年余りの歴史を持つ茶道流派の一つです。
 流祖の薮内劍仲紹智は、千利休と古田織部との親交が深く、利休からは茶室「雲脚」を、織部から贈られた茶室「燕庵」は重要文化財に指定されている。
 薮内家は、当初は現在地ではなく下長者町新町の辺りにあった。それが現在の地に移ったのは、寛永17年(1640)2月のことで2代月心軒の代のことだという。


革島医院

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 中京区麸屋町通六角下ル坂井町468-1
 住宅兼医院なのだが建物全体が蔦で覆われていて、この一帯における恰好のランドマークとなっている。
 平成11年(1999)11月に京都市の歴史的意匠建造物に指定され、平成17年(2005)1月に国の登録有形文化財に指定されている。



2025年1月24日 (金)

弥次さん喜多さん

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 この像は三条大橋西畔に立つ。彫刻家小山由寿氏(平成24年没)の制作で、平成6年に建立されています。

 十辺舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」、その主人公の弥次郎兵衛と喜多八で、「弥次喜多」の通称で知られています。
 二人は駿州府中(静岡)の出身ながら、自称江戸っ子のコンビが滑稽な失敗や騒動を繰り返しながら、自由気ままな旅をする物語です。
 旅は東海道を上りお伊勢参りに出かけ、さらに京・大坂をへて四国の金毘羅・松尾寺、中国の宮島に参詣、引き返して近江の草津から中仙道・木曾路を東へ善光寺を参詣して、草津温泉に行ってから江戸に帰ります。
 ちなみに、大坂へ行く前に京の三条大橋に近い宿屋に泊まったとき、ハシゴを買わされるという愉快な話もでてきます。
 元々は、「陰間」だった喜多さんと、彼の馴染み客だった弥次さんとが江戸に居られなくなって旅に出たのです。陰間というのは、江戸時代に茶屋などで宴席に侍して、客を相手に男色を売った男娼のことです。

 戦国時代、生死のかかった戦場に身を置く武将たちは、出陣にあたって女性を伴うのは忌むべき事として禁じられていたため、戦地で寵愛する「お小姓」といわれる年少の兵を抱えていました。
 当時、男色は武将の嗜みであって、織田信長・武田信玄・上杉謙信・伊達政宗などもお気に入りの少年兵を戦場に伴い情交していたという。そうしたことは、異常性愛といったものではなく武将の間では広く一般的な風習だったようです。

 江戸時代になると、男色は庶民の間にも広まって、色道を究めるには女色だけでなく男色も嗜むべしとして、粋人や文化人らによって「趣味人のたしなみ」とされたそうな。
 平賀源内(江戸中期の博物学者・戯作者)も男色家で知られ、男色の手引き書『江戸男色細見 菊の園』『男色評判記 男色品定』を書き、源内のペンネーム「風来山人」は男色の隠語になるほどだったという。

 突然、話は変わります。とは言っても、弥次喜多が陰間(喜多さん)とその馴染み客(弥次さん)という、男色の間柄であったことと関係しているのです。
 博物学者・生物学者・民俗学者で「知の巨人」と称された南方熊楠が、民俗学者・男色史家の岩田純一に当てた書簡で、「およそ男色と一概にいうものの、浄と不浄とあり」として、「年長の者が少年を頼まれて身命をかけて世話をやくぐらいのことは、武道(古代ギリシャでは文道においても)の盛んなりし世には、夫妻同臥同様尋常普遍のことと思う。これを浄の男道と申すなり。それを凡俗の人は別と致し、いやしくも読書して理義を解せるの人が一概にことごとく悪事横行と罵り、不潔とか横行とか非倫とかいうは、一半を解して他半を解せざるものというべし」と書いています。
 しかしそれはそれとして、愚生など「凡俗」の人間は、男色などと聞くと思わず尻込みしてしまいます。やっぱりホモは気色悪いのでヘテロの方が好みに合いますね❗(笑)




 

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