京都慶應義塾跡
かつて、僅かの期間でしたが京都に慶應義塾の分校がありました。
京都府庁(上京区下立売通新町西入ル薮ノ内町)の正門を入ってすぐ左手の茂みに、横書きで大きく「独立自尊」の4文字が刻まれた記念碑があります
現在の京都府庁の敷地は、幕末に江戸幕府が設けた京都守護職の屋敷跡にあたります。文久2年(1862)に尊攘派を威圧するとともに、京都の治安維持のため江戸幕府が設けたもので、会津藩主の松平容保を任命しました。しかし、慶応3年(1867)王制復古で廃止となっています。
碑の前面の「独立自尊」の下には小さく「明治七年」とあり、さらにその下には「京都慶應義塾跡」と刻まれています。ちなみに、「独立自尊」の4文字は福澤諭吉の筆蹟とのこと。
碑裏面の碑文は次のように刻まれています。
慶應義塾長 林毅陸 撰文并題
此所ハ明治七年京都慶應義塾ノ在リタル故跡ナリ 当時ノ京都府知事槙村正直ノ希望ニ依リ福沢諭吉先生之ヲ設立シ 其高弟荘田平五郎専ラ経営ノ任ニ当リ 他ノ講師等ト共ニ英学ヲ教授シタリ 其存続ハ約一年間ニ止マリシモ 文化発達ノ歴史上之ヲ湮滅ニ帰セシムルニ忍ビズ 乃チ碑ヲ建テテ其地点ヲ表示スルモノナリ
昭和七年十一月廿七日
京都慶應倶楽部建之
なお、碑の側面にはペン先を交叉させた慶応義塾の校章レリーフが刻まれています。
福澤諭吉は、京都府知事槇村正直の要望で、明治7年(1874)2月からおよそ1年間、京都に慶応義塾の分校を設立しました。
開設時に作成された『京都慶應義塾之記』によると、「京都慶應義塾ハ東京三田二丁目慶應義塾ノ教員出張ノ學校ニシテ京都下立賣ノ仮中學校内ニ之ヲ設ク、(略) 此分校ハ講堂ノミニテ眠食ノ部屋ナシトイヘドモ追々生徒ノ都合ニヨリ塾舎モ設クベシ」とあり、場所は旧京都守護職邸跡にある京都中学校教場の一角を間借りして、英書・洋算・訳書の三類が設けられました。
しかし、京都慶應義塾は各地に設けられた慶應義塾と同様に、経費や手間、教員確保などの面で問題が生じ、加えて京都中学校との確執もあったようで、十分に学生を集めることができず、開設した年の7月頃には早くも存廃を検討しているようです。結局約1年で廃校に至り、入学者の記録類は残っていない。
[京都守護職跡地の推移]
慶應3年(1867)12月、京都守護職、京都所司代・町奉行の職を廃止
慶應4年(1868)2月、旧守護職屋敷跡地に京都府庁を開庁
同年 6月26日、二条城に府庁舎を移す
同年 7月1日、旧守護職屋敷跡地(府庁跡地)に京都中学校を開校
同年 9月8日、明治と改元
明治3年(1870)12月、日本最初の中学校として、京都府中学が所司代屋敷跡(上京区猪熊通丸太町下ル)に開校。
明治6年(1873)2月、京都府中学が京都守護職屋敷跡(上京区下立売新町)に移転。
明治7年(1874)2月、京都府中学の一画に京都慶應義塾を設立。












