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京都の移り変わり

2024年2月23日 (金)

新大宮(和泉町通)について

2024024
     「大成京細見絵図:洛中洛外町々小名」
        図絵をクリック(タップ)すると拡大します

 かなり以前のことですが、このブログに『消えた大宮通』という記事を3回(2016.10.21〜11.4)にわたってアップしました。
 通りの名称に僅かな違いがあるだけの、「元大宮通(旧大宮通とも)」および「大宮通(新大宮とも)という、2本の「大宮通」が近くを平行して存在するのは何故なのか、以前の記事とダブル部分もありますが新しくわかったこともあるので再び取り上げてみました。

 現在の大宮通は、北区西賀茂鎧ノ木町(はりのきちょう)から伏見区竹田青池町で油小路通と合流する地点まで通っています。
 しかし、平安京の「大宮通」は都が造営された延暦13年(794)に開通したもので、その幅員は 12 丈(約24m)もある大路で、一條大路から九條大路まで通る道路でした。ところが、中世には戦乱のために荒廃してしまいました。

 さて時代は下り、関白豊臣秀吉は天平14年(1586)に、平安京大内裏の跡地である内野の北西隅に聚楽第を築造しました。その規模は、南北は出水通から一条通までの約700m、東西が大宮通から浄福寺通までの約400mに及ぶもので、その周囲には諸国の大名の屋敷が立ち並ぶというものでした。現在も多くの町名に秀吉麾下の武将の名前を止めています。
 しかし、秀吉はその聚楽第をわずか9年後の文禄4年(1595)に破却してしまいました。そのあと慶長年中にはその跡地は宅地化されてしまったため、現在で「梅雨の井」「堀跡」など僅かの遺構が残るだけです。
 平成27年(2015)10月から翌年の1月にかけて京都府教委文化財保護課と京大防災研究所が行なった、地震波の性質を利用した地下の遺構調査によると、聚楽第本丸と内堀の外側には大規模で複雑に折れ曲がった形をした外堀を備えていたらしい、ということが判明したのです。

 聚楽第を破却したあとその折れ曲がった外堀のうち、最も東側に突き出した部分を埋め立てて町地としました。元和元年そこに造られた道路で、中立売通から下長者町通の間(和水町と東堀町の一帯)を「和泉町通」と称しました。「和泉町通」の名前の由来は、聚楽第が破却されるまではその園池の清流がそこを経て外堀へ流れていたことによる。

《以下は、冒頭の図版写真と合わせて見てください》
 和泉町通の北部にある糸屋町には、幕末まで一條殿屋敷(地図によっては池田滿次郎屋敷=岡山池田藩の私邸とする)があったために、北の一条通手前で行き止まりとなる袋小路であったことから「袋町(フクロ丁)」という別名がありました。
 『京都坊目誌』によれば、この袋小路となっていた糸屋町を、明治32年末に北へ開いて一条通に通じる4間幅の道路としました。
 このため、それまで一条通と南方の下長者町通との間(糸屋町・和水町・東堀町の一帯)を通して、和泉町通は大宮通の一部となったことで俗に「新大宮通」とも称したのです。

 現代の地図を見ると、「大宮通」の一条と下長者との間(糸屋町・和水町・東堀町がある)の東方には、黒門通の西側に「元大宮通」という通りがあります。これは聚楽第の外堀ができたために、その間の「大宮通」が少し東方に移されていたのですが、「新大宮通」ができたことで「元大宮通(旧大宮通とも)と呼称が変わったのです。

*** 追記 ***
 《大宮通》や《大宮》については、その名前の起源について惹かれることもあるので、別の機会に改めて記事にしてみようかと思っています。




2024年1月26日 (金)

北野廃寺と古代の嵯峨野

北野廃寺跡の碑

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 『日本書紀』などの文献史料によると、5世紀後半の頃から葛野(現在の嵯峨野一帯)で生活していた人々として、朝鮮半島南部から渡来した氏族の一つである葛野秦氏が挙げられます。
 嵯峨野には嵯峨野古墳群と総称される多くの古墳群があり、嵯峨野独特の景観を形作っています。その中で、6世紀の初めから末までに築かれたと見られている太秦支群といわれる古墳群で、前方後円墳の5基(段ノ山・天塚・清水山・片平大塚・蛇塚)、これらはその所在地からいって秦氏の墳墓とみられています。
 秦氏は豊かな経済力と、土木(治水灌漑や田畑造成)・農耕・養蚕・機織などで優れた技術を持っていました。秦氏は、大堰川に「葛野大堰」と呼ばれる堰をつくり、平安京以前には未開拓地であった嵯峨野の地域で灌漑施設を造り農業をひろめました。

 ちなみに、秦氏の氏の名は「ハダ」(今では「ハタ」)といい、秦氏の族長の称号が「ウツマサ」(今では「ウズマサ」)で、「太秦」という字をあてています。この「太秦(うずまさ)」が地名の由来となっています。

 そして、秦氏は7世紀前半の飛鳥時代になると、人々の信仰の場である神社や寺も多く建立しています。全盛期の秦氏を代表する族長は秦河勝という人でした。その秦氏が関わった著名な寺の一つに、京都市右京区太秦蜂岡町に所在する広隆寺があります。
 『日本書紀』の推古11年(603)のくだりに、秦河勝は仕えていた聖徳太子から尊い仏像一体を授けられて、これを安置するために「蜂岡寺」を造ったとあります。
 この蜂岡寺が現在の広隆寺の前身となる寺院だとするのが有力な考え方のようです。
 ちなみに、国宝第一号に指定された広隆寺の木造弥勒半跏思惟像は飛鳥時代のもので特に有名です。この仏像の写真は教科書をはじめよく目にします。

 ところが、承和3年(836)の『広隆寺縁起』によると、この蜂岡寺が建てられたのは今の広隆寺がある太秦蜂岡町(当時の「五條荒蒔里」)ではなく、平野神社から北野白梅町にかけての辺り(当時の「九條河原里」と「九條荒見社里」)だったとしていて、この九條の寺領が狭かったために現在の広隆寺所在地に移転したと記録しているようです。

 昭和11年(1936 年)、この平野神社から北野白梅町にかけての一帯で行われた電車の敷設工事にともなって大量に出土した古瓦などの遺物が、飛鳥時代の寺院のものであったことから、ここに京都市内では最古となる寺院群が存在したことが明らかとなりました。
 そして、この発掘調査で「鵤室」「秦立」と墨書された土器が出土していることや文献史料の記述から、ここに存在した寺院は聖徳太子と繋がりのある秦氏が創建に関わったと考えられるそうです。
 この寺院跡遺跡では寺院の名称が明らかとならなかったため、発見された場所の地名から「北野廃寺」と命名されました。

 この北野廃寺は、『日本書紀』に書かれた「葛野秦寺(かどのはたでら)」に相当するのではないかとも考えられています。
 さらに、「野寺」と墨書された平安時代の土師器が出土していることから、『日本後紀』に記載のある「野寺」ではないかとも考えられています。「野寺」は『諸寺略記』によれば「常住寺」とも呼ばれていることから、南都の七大寺に並ぶ寺格を有していたことが分かるそうです。



2023年7月14日 (金)

町(まち)から町(ちょう)へ ー地域構造の変化ー

 現在、京都の旧市内(旧市街地)にある「町(ちょう)」には、道路の片側の家並みだけを単位とする「片側町(かたがわちょう)」の数は極めて少なく、圧倒的に多くの町は1つの道路を挟んだ両側の家並みで構成する「両側町(りょうがわちょう)」です。
 この「両側町」は、室町時代の末期に道路を隔てて向かい合う二つの片側町が合併することで成立したのです。

西側町の仁丹町名表示板
 この「西側町」は数少ない片側町の1つで、元は「西洞院一丁目西側町」と称したが、のちに略して西側町となった。西洞院通を挟んで東側には「東側町」があるが、この両町が合併して両側町とならなかったのは、どのような事情があったのか。ちなみに、寛永期には「西洞院一丁目」とあり、のちに東西二町に分離している。
 この両町の北側には金屋町・八百屋町など、また南側には西洞院町・鍛冶屋町などは、いずれも西洞院通を挟む両側町なのです。
Photo_20230713135801

室町後期の史料に見られる「両側町」の例:
 『上杉本 洛中洛外図屏風』は数ある洛中洛外図の中でも最も優れているとされるもので、京の洛中(市内)と洛外(郊外)の四季、そこに生活する人々の風俗を豪華にそして細かく描いています。
 この洛中洛外図について、国宝上杉家文書『歴代年譜 謙信公』に、「天正二年春三月下旬 織田信長ヨリ使節到来ス 濃彩ノ屏風二雙贈ラル(以下略)」とあり、天正2年(1574)に織田信長から上杉謙信にこの屏風が贈られたことを記録している。この洛中洛外図は、壺型印や画風から描いたのは狩野永徳とされる。
 これは初期洛中洛外図屏風と呼ばれるタイプのもので、上杉家文書の記録にあるように描かれているのは室町時代末期の光景ということになります。

第三扇と第四扇の一部分
 注目すべきは描かれている町並みが両側町であることです。例えば、右隻の第三・四扇には、手前から「油小路とをり・西洞院とをり・町とをり(現・新町通)・室町とをり・烏丸とをり」が描かれていて、その家並みの様子からこの頃には既に両側町が形成されていたことが判ります。ただし、各通りともに家並みの西側はほとんどが金雲で隠されて描写を省略しています。(図が小さくて見辛いですが、PCであれば画像をクリックすると拡大します)
 なお、今では暗渠や埋め立てで消滅していますが、西洞院川と室町川も描かれています。

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 個人のトラブルによる町同士の紛争や、武家と町民の武力紛争による治安の乱れの頻発は、町人の身体・資産の安全を脅かすことになります。そのため、自衛や自治についての関心が高まり、道を隔て向かい合う片側町同士が共同して対応するとともに、さらには町屋の生業保障や資金融資など経済活動を共同して進めるうえでも、両側町の形成は当然の成り行きだったのです。
 そして、いくつかの両側町が集まって結成された自治組織は町組(ちょうぐみ)といわれ、それらの町組が結合して上京・下京の惣町(そうちょう)を形成したのですが、その頃の上京と下京の境界は二条通でした。

   ********************

 以上、道路を隔てた片側町同士が合併することで両側町へと変化したのは、室町時代の末期の頃だそうです。
 それでは最後に、それ以前の町(まち)から町(ちょう)への変遷を簡単に見ておきたいと思います。

 古代平安京の条坊制の都市区画は、碁盤目状の街路(大路)の4本によって東西南北の四方を区画された正方形の街区が「坊」で、1つの坊は東西・南北それぞれ3本ずつの街路(小路)により16の「町(まち)」に細分されていました。そして、1つの町は一辺が40丈(約120m)の正方形でした。
 大内裏(宮城)周辺の三条大路の北部には官衙(官庁)や諸司厨町(宿舎)などの町々が集中して存在し、ここは官営による手工業生産や平安京造営に携わる人々の居住区でした。そこから南部にかけては、貴族から庶民まで各層の邸宅や宅地となっていましたが、身分によってその敷地面積は多様でした。
 貴族の邸宅の広さは1町〜数町でしたが、一般庶民の場合は1町の32分の1(15m×30m)の区画、面積約135坪(約450㎡)が与えられました。これは、40丈(約120m)四方の「町(まち)」を縦(南北)4列に区分し、その各列をさらに8分割した区画の1つが一庶民の居住地で、「四行八門制(しぎょうはちもんせい)」と呼ばれる敷地割になっていました。このような区割りであったため、各区画は東西二面のいずれか一方だけに開口部がある「二面町(にめんまち)」でした。

 平安時代も末期の12世紀後半になると「町(まち)」の構造に変化が生じ、町を取り巻く4本の道路それぞれに向かって町屋の口が向く「四面町(しめんまち)」となります。

 13世紀末の鎌倉時代末期になると、四面町は道路に面したそれぞれの一面が一丁として独立して、4つの丁から成る「四丁町(しちょうまち)」、つまり4つの「片側町(かたがわちょう)」が成立します。そしてこれが両側町となる前の形で、都市の基本単位である「町(ちょう)」となったのです。




2023年6月 2日 (金)

高 瀬 川

 高瀬川沿いの木屋町通では、三条から四条辺りにかけての一帯が京都でも主だった繁華街の一つになっている。透き通ったきれいな水が浅瀬を流れていて、京都らしい雰囲気をたたえた観光スポットになっています。
 『京都坊目誌』には、「文化文政以来鴨川に沿ひて酒楼旗亭を設け、遊宴娯楽の場と為る」とありますが、現在もなお京都で有数の飲食店街です。
 高瀬川は、鴨川の二条大橋西畔から水を取り入れて南流、南区東九条で鴨川を東岸に渡って再び南下、伏見の市街地西部を流れて宇治川に合流しています。
 そして、その宇治川は京都府と大阪府の境界辺りで桂川・木津川と合流し、淀川となって大阪湾に流入しています。

 高瀬川は方広寺大仏再建の資材を運搬するため、角倉了以・素庵親子が開鑿したものではじめは伏見から五条まで通じたが、のちに私費で二条まで延長したのです。慶長16年(1611)に竣工したともいわれますが、諸説があって明らかではないようです。
 支配者が豊臣から徳川に替わって政治の中心が伏見城から二条城に移ると、大坂から伏見に運ばれて陸上げされた物資を京の中心まで運ぶ手段は、竹田街道・鳥羽街道の陸路以外にはありませんでした。そこで、物資を舟運輸送するために開削された運河が高瀬川なのです。
 最盛時には248隻の舟が就航したといわれています。この舟運は大正9年(1920)まで使われていました。

物資を輸送する高瀬舟
 5・6隻を繋いで一組とした舟の列を、15〜16人の曳き子が「ホーイ、ホーイ」と掛け声をかけながら、柳の下の岸づたいに綱で引いてのぼったという。(画像が小さくて見づらいですが、絵をクリックすると拡大できます)

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 角倉家は高瀬川の支配と物資輸送を独占して、大坂・伏見の物資は高瀬川を経て京の中心地に輸送されました。使われた舟は舷側が高く、浅い水深に合わせて船底が平らな喫水の浅い高瀬舟で、高瀬川の名前の由来とされる。

史跡 高瀬川一之舟入碑
 背後に見える復元された高瀬舟の左手奥に、「一之舟入」があるが今では金属の柵で川と隔てられている。
 舟入は高瀬川の右岸から西に向けて、奥行き約85m・幅約10mの堀割になっていたが、今ではその周辺にまで人家が立ったため狭まっている。

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 かつて、高瀬川の川筋には物資の積み下ろしや、舟の方向転換のために9ヶ所の舟入が設けられていたようです。しかし、今では史跡に指定された「一之舟入」を除いては、全て埋め立てられてしまい無くなっています。

 おしまいに高瀬川沿いの道、木屋町通について
 高瀬舟で輸送された物資の主なものは、住民の日常生活に必要な材木・薪炭をはじめ米・塩などで、高瀬川沿岸にはそれらを商う商家や倉庫が軒を並べ、商人や職人たちが同業者町を作っていました。その名残として、樵木町・材木町などとともに船頭町・車屋町など多くの町名として残っています。
 このように川沿いの道には材木屋や薪炭・薪屋が多かったことから樵木町(こりきちょう)と称されたが、いまでは通称にしたがって木屋町通となっている。
 この木屋町通は高瀬川沿いに町並みができていったもので、初めは極めて狭い道のきわに店舗・倉庫があったが、後の明治28年ここに電気鉄道を通すことになり、これらが撤廃されて拡幅のうえ道路としました。さらに、明治43年には軌道敷き拡幅のため高瀬川畔にあった柳などの風致木を伐採して、1mほどを埋め立て今のような規模の道になったようです。





2023年4月 7日 (金)

宝永大火と京都の整備改造

 江戸時代の京都では、三大大火といわれた大火災が、ほぼ80年ごとに発生していました。
宝永の大火 宝永5年 (1708)3月 8日
天明の大火 天明8年 (1788)1月30日
元治の大火 元治元年(1864)7月19日
 このうち、「天明の大火」についてはかつて(2021.10.22『天明の大火(団栗焼け)』)で
記事にしたことがありました。今回は「宝永の大火」についてです。
 これら京都三大大火の他にも大小多くの火災が発生しています。これは、近世までの住環境は家屋が密集しているうえ、板葺きや茅葺など容易に燃える構造の家屋が多かったことにもよります。

 宝永5年3月8日、京都中心部の広範囲を焼失して、翌9日にようやく治まるという大火災が発生しました。
 『京都坊目誌』にはこの宝永の大火について、「午の刻今の正午十二時也油小路姉小路下る、西側二軒目、両替商伊勢屋市兵衛方より出火し、悪風忽ち吹て或は東北に、或は東南に焚け広がり、延て宮城を炎上し、公卿の第宅、武家の邸舎、神祠仏宇灰燼に帰し、火飛て下賀茂河合社を焚き延て村民の家八十七戸焼く。」とあります。
 消失した区域は、「京町数三百六十四町、一万三千五十一戸、神社七、寺院七十四、其他被害挙て数ふへからず。」
 被害区域は、「東は賀茂川、西は油小路西入、南は四條上る。北は油小路椹木町より東北に進む、寺町頭に至り九日未刻今の午後二時に止む。」という大規模な火災でした。

 現在の京都御苑は、東は寺町通・西は烏丸通・北は今出川通・南は丸太町通に囲まれていて、整然とした長方形の形になっています。
 宝永の大火の前、御所と公家屋敷の集中する公家町の範囲は狭いものでした。現在の京都御苑の南の部分、丸太町通から北の椹木町通までの間と、烏丸通から東の東洞院通までの間は町地だったのです。
 大火の後、復興にあたっては公家町の拡張のためにこれら町屋地域は立ち退きを命じられて、人々が住み慣れた町は破壊されてしまいます。

頂妙寺
「仁王門通」の名称由来は、山門の奥に見える仁王門に安置されている二天に因むというのだが・・・?

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 移転を命じられた町屋の多くは鴨川東部の、仁王門通を挟んだ二条通と三条通の間、頂妙寺周辺に移転させられました。その時、もと住んでいた土地に思いを馳せて、移転先の居住地で通り名や町名を名付けるにあたって、旧地の名称に「新」を付けて新車屋町通・新東洞院通・新間之町通・新丸太町通・新麩屋町通・新富小路通・新柳馬場通・新堺町通・新高倉通などと命名しています。
 また、西寺町通りは寺町通の荒神口から二条の間にあった多くの寺院が、移転してきたのです。

 二条河東へ移転を命じられた町屋とともに、高倉通椹木町の北にあった頂妙寺も仁王門通川端東入大菊町に移転させられています。
 ところで、世間では「仁王門通」という名称は頂妙寺の持国天・多聞天の二像を安置する仁王門にちなむとしていますが、これ実は誤りなのだそうです。頂妙寺の公式HPにもそのようには記されていません。
 『京都坊目誌』によると、元来、仁王門通という名称は頂妙寺がこの地に移転してくる前からあった通り名であり、むかし平安時代に現・岡崎法勝寺町(市立動物園のあたり)に造営された六勝寺の一つ、法勝寺(白河天皇の御願寺)の仁王門に由来していて、「法勝寺仁王門通」を意味するのだそうです。

 なお、公家町の拡張と新しい町屋建設のため、御所南部の町屋が移転を命じられて移住して行った先は鴨東の二条河東以外にも、内野(西陣や聚楽第跡)の一番町から七番町の一帯、御所・公家町東方の鴨河原の西三本木・東三本木などがありました。



2023年3月24日 (金)

白川(白河)⇒ 岡崎

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 琵琶湖疏水が流れる岡崎公園の一帯は約14万平方メートルの広さがあり、そこには多くの文化施設が集中していて京都の文化ゾーンとなっています。
 この「岡崎」という地名は、神楽岡(吉田山)や粟原岡(黒谷山)が、南の平地に向かって岬のように突き出した地形となっていることからきた名称です。
 鴨川の東側で三条通の北となる「岡崎」は白川の下流に位置しています。滋賀県との境界にあたる比叡山と如意ヶ嶽の間を水源とする白川は花崗岩地帯を流れて北白川に至り、浄土寺・鹿ヶ谷・南禅寺・岡崎を経て鴨川に合流します。
 「岡崎」の旧称である「白河(白川)」は白川流域にあることに由来しているが、この白河の地は平安京洛外の景勝地で、平安時代前期の頃から貴族が別業(別荘)を構えたり、遊山に出かけたりしました。
 中世になると、応仁の乱などで寂れ荒廃して岡崎村の耕地となっていたのですが、江戸時代になると風光を愛でる文人墨客が多く移り住んで居を構えました。

 白河に設けられた別業の中でも、古くから藤原家代々の別業であった「白河院」は有名でした。
 承保2年(1075)に左大臣藤原師実がこの白河院を白河天皇に献上して、天皇はここにかつてなかったような壮大な寺院の法勝寺を建立しました。金堂をはじめ多くの堂塔が建立されましたが、なかでも高さが約82メートルの途轍もなく壮大な八角九重塔が聳えるさまは、さぞ人々を驚かせたことでしょう。
 その後、代々の天皇が「勝」の字がつく五つの御願寺、尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺を建立して、法勝寺と合わせて「六勝寺」と称されました。
 琵琶湖疏水沿いの散策路は「六勝寺のこみち」と名付けられていて、桜や柳の緑陰をそぞろ歩きが楽しめます。
 六勝寺の寺院名は、岡崎法勝寺町・岡崎最勝寺町・岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町といった町名となって今に伝わっていますが、尊勝寺と延勝寺については残っていません。

 六勝寺が造営されたことで、大寺院の堂宇が聳えて並び立つ白河の地は一変しました。
 さらに白河天皇は皇位を堀河天皇に譲り、自身は上皇となって院政(政治)を開始し、院政を行う白河御所が造営されます。この白河上皇の白河御所(白河南殿)や白河北殿が、御願寺の法勝寺の西側の造営されます。そこで始まった院政が長かったゆえに院政時代とも言われる時代となりました。
 さて、ここからがこの記事の本題(のつもり)なのです。冒頭の仁丹町名表示板「岡崎南御所町」と共にご覧ください。
 法勝寺跡にあたる京都市立動物園の西側に位置している、岡崎南御所町とその北隣の岡崎北御所町という町名は、白河南殿と白河北殿の名残を留めているものと考えても、あながち見当はずれとは言えないと思うのですがどんなものでしょう。

 こうして、「京=ミヤコ」(平安京)の東の境界である鴨川を越えて、洛外であった「白河」の地が政治の中心地になると、「京」と「白河」の両方を含めた地名(固有名詞)として「京都」という言葉が使われるようになりました。
 ちなみに、その後も院御所は、後鳥羽上皇の時代に押小路殿と岡崎殿が造営されています。
 【注】押小路殿は、鴨川東の押小路末南で、左京区頭町・正往寺町・福本町の一帯にあった。岡崎殿は、法勝寺の北東にあったとされるので、冷泉通の北になるようです。




2023年2月24日 (金)

京都の顔 ー鴨川の移り変わりー

 京都と言えば思い浮かぶのは何でしょう。情景では、祇園や先斗町などの花街や寺社の堂宇でしょうか。また、食べ物では京料理・京野菜・京菓子・京漬物など、他に幾つも数え上げることはできるようです。
 そして、鴨川とその両岸の自然景観、これもその一つに挙げることができるでしょう。

鴨川(荒神橋付近)

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 この鴨川、桟敷ヶ岳付近を源流として南流、下鴨神社の南で高野川が合流しますが、通常はここまでを「賀茂川」と表記し、そこから下流を「鴨川」と表記します。その鴨川は市街地を南下し、下鳥羽に至って桂川に合流。そして桂川は京都府と大阪府の境界付近で、宇治川・木津川と共に一つになって淀川となり大阪湾に流れ込んでいます。

 さて、京都市街の中心を流れる鴨川は、京都の顔あるいはシンボルに見立てられることがありますが、それはいつ頃からのことで、また何故なのでしょう。
 鴨川とその両岸の景観は、時代とともにどう変化してきたのかを考えてみたいと思います。

 平安京は、その東側の境界を鴨川としていました。
 大昔の鴨川は治水対策を講じていないため、大雨のために洪水が発生したときには、上流から押し流された大量の岩石や砂礫が堆積して、河川敷は広かったと思われます。
 そして、流路は細かい網の目のようで、水の流れは一定していなかったでしょう。
 古来、頻繁に発生する鴨川の洪水による危険から逃れられなかったので、平安時代に院政を始めた白河上皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師」だけは自分の思う通りにはならないと言ったそうですが、治水というのは権力者にとって世を治めるうえで重要な政治課題でした。

 ところで、平安京は右京の南部が湿地であったことから「人家がだんだんと疎らになって幽墟に近い。人は去ることがあっても来ることがない。家屋は崩壊することがあっても建造されることがない。」といったありさまだったことを、慶滋保胤が天元5年(982)に著した『池亭記』に記しているそうです。
 そんな土地だったため、貞観13年(871)の太政官符では、この右京の西南隅付近を葬送並びに放牧地に指定することを定めたそうです。
 このように右京が衰退した反面、左京は発展・繁栄していくことになります。人々の居住域が平安京の北限であった一條通から北方ヘと拡大し、政治の中心も鴨川を東側に越えて白川(岡崎)へと移っていきました。
 平安期の鴨川の河原は死体の捨て場所や葬送の地に使われ、のちの時代には戦場や処刑場となっています。そして、さらに時代が下ると見世物の興行や遊興の場所として使用されました。

 応仁・文明の乱をはじめ長い戦乱で京都の町は荒廃していましたが、そんな京都の再生の一貫として、豊臣秀吉は京の町の外周に御土居を築造しました。その目的は、軍事目的や鴨川の洪水対策、美観などがいわれています。
 御土居の東外側は鴨川の河原でその左岸(東岸)から東は、田畠や寺院が散在するところでした。
 この御土居の築造によって、京都は「洛中」と「洛外」の地域区分が明確になりました。しかし、江戸時代になると洛中と洛外の間の往来が頻繁となって、御土居は交通の障害になり京七口と共に壊されるようになります。それとともに、御土居のすぐ東外側の鴨河原には新しい町並みが形成されていき、これが後の河原町通となりました。

 江戸幕府は寛文9年(1669)に京都所司代の板倉重矩を責任者として、頻発する鴨川の洪水から京の町を守るため、上賀茂から五条までの両岸に新しく堤を築造しました。(寛文の新堤といわれる)

西石垣(通)の町並
 この町並みの右手(東側)が鴨川の流れです
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 特に、三条と五条の間の川端には堅固な石垣の堤を設けました。いま、四条から下流の西岸が西石垣(さいせき)と言われるのはその名残りです。そして、その西岸の新河原町(先斗町通)・木屋町通や、北方にある土手町通・中町通・東三本木通・西三本木通などは、新堤の築造以後に新しくできた町並みです。
 東岸でも、東石垣(とうせき)が現在の宮川町筋となり、四条と三条の間には縄手通の町並みができ、川端通も寛文の新堤が通りになったということです。

 一方、祇園社(のちの八坂神社)門前には古くから祇園町の町並みが発達していたのですが、鴨川の新堤築造の後には両岸に新たな町並みが発展します。鴨川東側の芝居小屋(南座・北座)の周辺には祇園町外六町と呼ばれる祇園新地が誕生し、ついで内六町が誕生しました。
 こうして開かれた両岸の町並みには、遊郭・茶屋・料理屋などができ遊興の地として発達し、鴨河原は人々の納涼場所となったのです。

 このように寛文の新堤が築かれて鴨川の治水が成ると、両岸の市街地化が急速に進みました。そして、鴨川を中心とした景観が大きく変わるなかで、鴨川は京都の顔あるいはシンボルと言われるようになっていったのです。








2022年3月18日 (金)

鴨川運河を稲荷から藤森まで歩く

 先頃、快晴で暖かい絶好の散歩日和でしたから伏見まで出かけ、のんびりと琵琶湖疏水(鴨川運河)の畔を稲荷から藤森まで散歩してきました。
 疏水べりの遊歩道を行きつ戻りつ、西側の師団街道や東側の伏見街道にも足を伸ばしました。疏水べりの桜は開花にはまだ早いものの、額が少し汗ばむほどの陽気の中をソレなりに快適な時間を過ごしてきました。

 鴨川運河には大小多くの橋が架けられています。伏見稲荷近くの「横縄橋」から歩き始めて、下流の藤森神社近くにある「藤森ノ橋」までの僅か約2kmの区間に、何と15もの橋が架けられていました。その多くは親柱と共に小ぢんまりした人道橋でした。

 それら橋の橋脚の上部には四角の枠の中に星形マークが付けられています。(四角の枠だけのものもありました)
 そして、これら星形マークのほとんどが六芒星なのです。

横縄橋の六芒星
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 この星マークは、京都市建設局のHP『京の橋しるべ』によると「京都市水利事務所徽章」で、疏水路発電事業の管理等を行っていた水利事務所や電気局の水利徽章(きしょう)として用いられていたということです。

 ところが、多くの橋のうちただ一つ師団橋だけは、旧・大日本帝国陸軍のシンボルマークである五芒星(☆)が付けられています。

師団橋の五芒星
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 深草(旧紀伊郡深草村)には、この師団橋の☆マークだけではなく、現在も旧大日本帝国陸軍の名残を留めるものが多くあります。

京都聖母学院本部(第十六師団司令部)
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 京都聖母女学院本館は、陸軍第十六師団司令部として建設されたものでした。
 龍谷大学や京都府警察学校は、かつて第十六師団の練兵場のあったところ。
 京都教育大学は、同じく歩兵連隊が置かれていたところ。
 国立病院機構京都医療センターは、陸軍衛戍病院の後身です。

師団街道と第二軍道の交差点標識
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 京都市街地と十六師団司令部を結ぶ道路として師団街道、伏見街道(本町通)沿いの陸軍諸施設と師団街道を結ぶために造られた第一軍道・第二軍道・第三軍道があります。

 そして、こんな面白いのもありました! 銭湯です。
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 さて、今回の散歩をスタートした時点に話を戻します。
 稲荷の疏水端に着くと何とマー、疎水の川底にはチョロチョロとみすぼらしいく細い流れがあるだけ。あの豊かで勢いのある水流はありまへんがな、せっかく来たのに何でやねん。
 ガッカリしながらも、しゃーないなァと気を取り直し、水の流れていない疎水の畔を下流へ歩き始めましたがな。へー。
 帰宅してネットで調べると、京都市上下水道局のHPに『琵琶湖疏水(第1疏水)の停水について』というお知らせページがありました。
 「琵琶湖疏水(第1疏水)の流下能力を回復するため,毎年冬期に停水し,疏水路内の土砂の浚渫(しゅんせつ)及び清掃作業を行っています。
 また,今年度は第1疏水の機能維持のため,必要な補修工事を行うこととしており,下記のとおり停水を実施します。」
 停水期間は、今年の1月5日〜3月15日までの間だという。
 ガーン残念!ナンジャこれは!!あと一週間もしたら豊かな水流に戻ってたんかい!!!



2021年11月12日 (金)

鴨川運河(琵琶湖疏水)

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 琵琶湖疎水(第一疎水・第二疎水)は、水道用水・水力発電・農工業用水・水運に使われ、明治期京都の近代化に大きく貢献したのです。(現在では水運には使われていません)
 この疎水は、滋賀県大津市三保ヶ崎の取水点から冷泉通の鴨川夷川出合まで流れ、ついで鴨川運河を伏見堀詰町(のち伏見土橋町)の壕川に至り宇治川に合流しています。

 第一疏水は1885年(明治18年)に着工、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から北方に分岐する疏水分線とが完成している。
鴨川合流点から伏見の濠川に至る鴨川運河(疎水)は、1892年(明治25年)に着工、1894年(明治27年)に完成しています。
 第二疏水は、第一疏水で賄いきれない電力需要への対応とともに、新設する上水道のための水源として、京都市により「三大事業」の1つとして進められました。1908年(明治41年)に着工され1912年(明治45年)に完成しています。

 さて、冒頭の写真「せせらぎの道」は、前記の鴨川運河(疎水)の一部が暗渠化された跡の姿なのです。(川端通新門前下ル)
 かつては、鴨川左岸堤防上に桜並木がありそのそばを三条まで京阪電気鉄道京阪本線の電車が走っていました。
 ところが、昭和50年前後の頃でしょうか、京阪本線と交差する道路踏切での慢性的な交通渋滞への対策を迫られるようになりました。そこで、三条駅と塩小路通の間を京阪本線とともに疏水をも地下化することによって、その上に川端通が敷設されることになったのです。

塩小路で暗渠から地上に現れた鴨川運河(疏水)

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 1987(昭和62)年に京阪電鉄と疏水は地下化され、その1年後の1988(昭和63)年に川端通が開通しました。
 (その後、平成になって三条〜出町柳間の鴨川電気鉄道(地下線)を合併して京阪鴨東線となっています。



2021年8月20日 (金)

京の市場事情 2 ー近 世ー

 時代は変わり、江戸時代になると農耕で牛馬の利用が増え、また二毛作が広まるなど農業生産力が急激に向上します。そして、京の人口増加による青物蔬菜の需要増大とが相俟って、青物の立売市場が大いに発展します。
 それらの青物市場は隣接する魚市場と一体となって、京の人々の食生活を支える大規模な市場となっていきました。

 ちなみに、京の魚市場としては、次のような上・中・下の著名な3カ所の魚棚(うおのたな)がありました。

椹木町通(上の魚棚)

『京町鑑』に、椹木町通を「俗に上魚棚通 此通中頃椹木をあきなふ材木屋多くありし故名とす 又釜座邉魚商ふ家多し故魚棚と云」としている。
『京羽二重』も、「東にてさはら木町通と云 西にて魚の棚通と云」として、所在の諸商人として「新町にし 生肴  八百や」と記す。

東魚屋町(椹木町通)の町名表示板

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 往時は、椹木町通の西洞院通から堀川通までの間に魚市場があり、現在も東魚屋町・西山崎町(かつては西魚屋町が通称か)の町名が残っている。


錦小路通(中の魚棚)

『京町鑑』に、「いつの頃よりにや 魚商ふ店おほく今におゐて住居す仍而 世に中の魚棚とよぶ」として、「麸屋町西入 東魚棚町、柳馬場西入 中魚棚町、高倉西入 西魚屋町」と町名を記している。
 ここも慶長期以来の魚市場があり、魚鳥・菜果をも商った。
 現在も、富小路通と柳馬場通の間に東魚屋町、堺町通と高倉通の間に中魚屋町、その西の東洞院通までに西魚屋町があり、近辺には八百屋町・貝屋町という町名も残っています。


六条通(下の魚棚)

 寛永年間に、下魚棚通にあった魚市場が六条通に移されて盛んに売買されるようになった。
 『京町鑑』は、「此通魚屋多し 故に是を下魚棚といふ」とし、「室町東入 東魚屋町、新町西入 西魚屋町、西洞院西入 北魚屋町」の町名を挙げている。
 こうして、六条通に魚棚通という通称が生じて一般化した。しかし、明治になってからは振るわなくなり、名はあっても実は無くなってしまいました。

東魚屋町(六条通)の町名表示板

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 現在も、室町通東入に東魚屋町、室町通西入に西魚屋町の町名が、また西魚屋町の南側には八百屋町という町名も残っている。

ちなみに、六条通(下の魚棚)に関わることを。
 七条通の一筋南に下魚棚通があって、東は西洞院通から西は大宮通まで通っています。
 ここには、寛永年間に六条通へ移転するまで慶長期以来の魚市場がありました。
 しかし、下魚棚一町目から下魚棚四丁目まであった町名も、現在では「下魚棚四町目」を除いて隣接する町に合併されたために消滅しています。
 なお、この下魚棚通の魚市場に近接して青物市場もあったのですが、その名残りが今も八百屋町・西八百屋町・南八百屋町の町名として残っています。