2025年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28  
無料ブログはココログ

雑記

2025年1月10日 (金)

新年のご挨拶を申し上げます

P1010051_01


 新たしき年の初めの初春の
   今日降る雪のいやしけ吉事 大伴家持


 今日は、全国的にこの冬で最も寒くなったようです。今朝方は、我が家の辺りでも雪がちらついていました。

 それはそうと、本来なら今日が今年初めて記事をアップする日なのです。
 例年の正月三が日であれば、朝・昼・晩ともに正月酒で陶然としながらご機嫌で過ごしていました。
 ところが昨年の末このかた、私の身辺では何かと取り込みごとがあったため、ブログ更新の準備に手をつける余裕がありませんでした。
 というわけで、今日はとりあえずお断りの文を記すだけにして、事情が好転してくれば、頃合いを見計らってブログ記事の更新を再開したいと思っています。
 ただ、場合により不定期の更新となるやも知れませんが、ご了承いただきますようお願い申し上げます。




2024年11月 1日 (金)

天下分け目の合戦

Photo_20241031140001
 「天下分け目の戦い天王山」と「天下分け目の戦い関ヶ原」、どちらも広く知られた合戦ですが、「天下分け目の戦い」とは勝敗を決する重大な戦いのことを言い表しています。

天王山の戦い(山崎の戦いとも)
 天王山は淀川を挟んで八幡の男山と相対し、山城国(京都府)南西部の出入り口にあたる交通・軍事上の要衝地で、古くからしばしば争奪の地となって、その名はよく知られています。
 天正10年(1582)、羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀がを破った山﨑の戦いでも、この天王山の争奪が注目されました。

関ヶ原の戦い
 慶長5年(1600)、美濃国(岐阜県)の関ヶ原で徳川家康を主将とする東軍が、石田三成を主将とする西軍を打ち破った合戦です。全国の諸大名が東西両軍のいずれかに属して戦った結果、家康が豊臣秀吉の後継者として確定し、征夷大将軍となったことから「天下分け目の戦い」と言われた。

「本能寺の変」
 天正10年(1582)、織田信長が家臣である明智光秀の謀反によって、京都の本能寺で殺害されるという事件がありました。いわゆる「本能寺の変」です。
 この本能寺の変で織田政権は瓦解したのですが、光秀もまた6月13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れて命を落としました。この事件は、秀吉が台頭して豊臣政権を構え築く契機となって、戦国乱世の時代は終焉に向かいました。
 ところで、『敵は本能寺にあり』と言うことわざがあります。
 明智光秀が、備中の毛利輝元を攻めると称して出陣し、織田信長を本能寺に攻めた故事に由来しており、「本当の目的は別のところにある」ことを意味します。
 ここでエーッと驚くことを一つ。真の目的を隠して、他に目的があるように見せかけ行動するやり方を、驚くなかれ「敵本主義」と言うそうです。「敵は本能寺にあり」からの造語だそうで、広辞苑に載っているのです。

ことわざ『洞ヶ峠を決め込む』
 このことわざは、安土桃山時代の大名である筒井順慶に由来し、『順慶を決め込む』とも言われます。その意味は、事の成り行きや形勢を見定めて、いつでも有利な方につくことができるように様子を窺うこと。つまり『二股膏薬』と同じで、どちらへでも付く定見・節操の無い事をいいます。
 さて、その順慶は天正4年(1576)織田信長から大和一国の支配を任され、郡山に築城します。順慶は明智光秀配下の武将だったのですが、「天王山の戦い(山崎の戦い)」で明智光秀が京都の八幡と大阪の枚方との境界にあるこの洞ヶ峠(ほらがとうげ)に来て、順慶に参陣を促したにもかかわらず郡山城に籠って動きませんでした。
 ところが後世、洞ヶ峠まで軍を進めていた順慶は形勢の良い方につくべく勝敗の行方を窺いみていたとされ、「順慶の洞ヶ峠」と嘲り罵られることとなりました。




2024年10月18日 (金)

伏見の酒

大倉酒造(月桂冠)の酒蔵

Photo_20241017151401

 京都府の伏見(ふしみ)は、兵庫県の灘(なだ)および広島県の西条(さいじょう)と並んで、日本の「三大酒どころ」として昔から多くの質の良いお酒が造られる地域の一つとして有名です。

 京都の伏見が酒どころになった理由のひとつには、その昔「伏水(ふしみ・ふしみず)」と称されたほどに、良質で豊富な地下水に恵まれた土地であったことが挙げられます。
 伏見で酒造業が盛んになったきっかけは、豊臣秀吉が文禄3年(1594年)に伏見城(指月城)を築いて、大規模な城下町を開くと同時に、宇治川などの改修も行い、内陸の河川港である伏見港を造ったことにあるでしょう。
 伏見のお酒の味わいの決め手となっているのは、伏見の地下水(御香水)はミネラルやカリウム、カルシウムなどがバランス良く含まれた中硬水であることです。灘の宮水より軟水であることから、伏見の酒は発酵時間が比較的長く、酸味が少なめであり、滑らかな口当たりの淡麗な味わいであることに特徴があります。
 そのため、灘の日本酒がやや酸味の強い辛口の味わいで「男酒」とも呼ばれるのに対して、伏見の酒は「女酒」と呼ばれています。

可杯(べくさかずき)

Photo_20241017151701

お酒の楽しみ方いろいろ
 「一盞を傾ける」「一献差し上げたい」という言い方があります。
 酒を注いで呑むには杯を用いますが、人々はその時々に相手や席に応じて色々な杯で酒を楽しみました。
 ですから、杯の大きさもいろいろあります。
 普通の大きさの「三度入り」、三度入りより二回り大きい「五度入り」、より大形の「七度入り」の杯があったようです。
 また、「十分杯」というのもあって、これは程よい量の酒を注げばこぼれないのですが、度を越すと全部こぼれてしまう仕掛けの杯です。
 そして、これは遊びの飲み方と言えますが、「可飲み(べくのみ)」というのがあります。これは「可杯(べくさかずき)」で酒を飲むことで、飲み干すまで杯を下に置かずに飲むことです。
 この「可杯」というのは、底に穴が空いているいる杯で、指で穴をふさいで酒を受ける。そして「可杯」には杯の底が尖っていて、下に置くと倒れるものもあります。つまり、どちらも酒を飲み干してしまわないと下に置くことができない杯です。
 これらの杯を「可杯」と呼ぶ理由は、その昔の書簡文(手紙文)では「可」の字は必ず文の上に置いて、下から戻って読まれ、下には置かれないからです。なので、「可杯を下に置くためには呑み干してしまうべきだ❗」ということでしょうか⁉







2024年9月 6日 (金)

珍しいマンホールの蓋 その2

 先ごろ、京都大学吉田キャンパスにある施設を見に行ったついでに、構内を少しぶらついてきました。
 そうすると、面白いものを見つけました。

Photo_20240903151301

蓋の中央に「大学」の刻印がある
 京都市の下水道局が京都大学用として特別に作った蓋なのか? まさかそんなことは出来んじゃろー?。
 かと言って、京都大学が自前でマンホールの蓋を誂えたのか? まさかそんなことに国費を使えんじゃろ〜。
 よう分からん!!!


 さて、次は

Photo_20240903151501

「大阪府」と刻印された蓋
 元々は大阪府の下水道マンホール用として作られたものが、どういうわけで京大構内に存在するのだろう?
 大阪府から買ったのか? そうだとしても何で大阪のものを購入したの?
 まさか盗んだものではなかろうに。

ところが、しかし! 京都下水道局では、かつて使用済みのマンホールの蓋を売却しているのです。
平成5年(2023)9月11日、京都下水道局HPに次のような公告を出していました。

 京都市下水道使用済みマンホール蓋の売却について
 京都市上下水道局では、保有資産の有効活用を図るとともに、下水道への関心を持っていただくために、この度、初めて、役目を終えた鉄製マンホール蓋の購入希望者を以下のとおり募集しますので、お知らせします。
※ マンホール蓋は、1枚約90㎏と大変重いものです。運搬・設置は大人複数人で、十分注意して行ってください。

なお、売却するマンホール蓋の状態などについては、次のように注記しています。
 蓋の直径は約66㎝、重さは約80~90㎏です。
 蓋は実際に使用した後、不要となった下水道マンホール蓋です。簡単な清掃はしておりますが、サビなどの付着物やキズが多数あります。



2024年6月28日 (金)

岩倉の大雲寺と精神医療

 大雲寺(左京区岩倉上蔵町)は、10世紀頃の創建とされる天台宗寺門派(三井寺)の古刹でしたが、現在は天台系の単立寺院です。
 天台宗内部の山門派(延暦寺)との対立や、戦国時代には織田信長の焼き討ちに遭うなど、幾度も被災して往時の威容は見る影もなくなり境内は荒廃していたようです。
 応仁の乱を避けてこの岩倉に移ってきていた同じく天台宗の実相院の支援を受けて、17世紀初めの頃に大雲寺を再興する。

「北岩倉大雲寺」(『都名所圖會』から)
  (画像をクリックすると拡大できます)
Photo_20240625142701
 江戸時代中頃、安永期の大雲寺が描かれていて、紫雲山を背景にした豪壮な堂舎が偲ばれます。
 図の左端下部に「不動瀑(不動の滝)」、そのそばに「智弁水(霊水の井戸)」が、また本堂前の石段下には何棟もの「こもりや(籠屋)」が見える。
 現在では、かつての大雲寺の旧境内に病院と老健施設が建っていて、その間を通り抜けて奥へ進むと不動の滝と智弁水(霊水)の井戸が残っているが、それ以外に往時を偲べるものは何も無い。
 寺のHPを見ると、昭和60年(1985)に人災により寛永18年(1641)建立の本堂は焼失し、寺宝・秘仏の全てが散逸したとする。現在では旧境内地に篤志家の寄進による仮本堂が存在するだけ。

 大雲寺秘仏の本尊十一面観音(行基作)は、首から上の病(脳病・眼病など)の平癒にご利益があるとされ、平安時代から朝野に知られていました。そのため、精神疾患の病人に霊験があるとして多くの参詣者・参籠者を集めました。
 寺の記録では、境内の不動の滝には次のような伝承があり、精神病者の治療に効くと言われたとします。
 「後三条天皇の第三皇女佳子内親王は、妙齢二十九歳のとき、挙動常ならず、髪を乱し、衣を裂き、帷に隠れ、物言わず、言えば譫語し、心全く喪わせらる。神仏に平癒を祈願し給いけるに、一夜霊告あり。これに依り、直ちに皇女を岩倉大雲寺に籠らしめ、境内にある不増不滅の霊泉を日毎に飽用せしめ給いしに、いくばくもなく疾患癒え、聡明元に復し給う。」
 江戸時代中期以降になると、患者は大雲寺の籠り屋(籠り堂)に参籠したり、付近の茶屋や農家に止宿して観音堂参詣や智弁水(閼伽井・霊水)の服用と、不動の滝で滝浴びをして灌水療法を行った。

 こうした歴史を持つ岩倉の土地に、明治17年(1884)に岩倉癲狂院(精神病院)が、また旧茶屋により保養所が開設されたことで、岩倉は精神医療で広く知られるようになり、主に西日本各地から患者が集まるようになりました。
 明治25年(1892)に岩倉精神病院と改称、明治38年(1905)には岩倉病院に改称。昭和20年(1945)陸軍に接収されて癲狂院以来の精神医療の歴史を閉じました。
 (現在では、往時の茶屋(保養所)を淵源とする病院が複数できています。)

 それで思い出したのですが、かつての岩倉病院には広く各地から患者が集まり、そうした人達の中には知名人の縁者もいました。
 「知の巨人」と称された人の一人に、古今東西の文献を渉猟して、時代を縦断し領域を横断する厖大な「知」の世界を築いた、南方熊楠(1867〜1941)という在野の学者がいました。その熊楠の長男の熊弥もこの岩倉病院に入院していたのです。
 脱線したついでですが、南方熊楠の東京修学時代、東京大学予備門における成績表(明治十八年九月)には、私たちがよく知っている次のような名前も見えます。
 塩原金之助〈夏目漱石〉(東京)、中川小十郎(京都)、山田武太郎〈山田美妙〉(東京)、正岡常規〈正岡子規〉(愛媛)など。

 話を熊楠の息・熊弥の岩倉病院入院に戻します。『南方熊楠大事典』(勉誠出版)の「第六部 年譜」によると、入院をめぐる経緯は次のようでした。

大正14年(1925)
 3月13日 熊弥が高知高等学校受験のため、田辺を発つ。15日に高知で発病の知らせを受け、16日に佐竹友吉と金崎卯吉が高知に向かう。19日に佐竹、金崎に付き添われて熊弥が帰宅する。「精神十分たしかならず」。
 4月11日 熊弥が和歌浦病院に入院する。
 5月1日 熊弥を退院させ、自宅に戻して療養させる。以後、家族及び佐竹一家が熊弥の看病にかかりきりとなる。
昭和2年(1927)
 5月22日 錯乱した熊弥が熊楠の標本、手紙、その他書類などを引き裂く。
昭和3年(1928)
 5月12日 熊弥を京都の岩倉病院に入院させる。
昭和6年(1931)
 1月 旧知の中村古峡に書簡で熊弥の診察を依頼したところ、その書簡に基づいて下した診断では「早発性痴呆症」、現在でいうところの統合失調症とのことであった。
 *中村古峡は、日本精神医学会の創設者で神経性諸疾患の患者の治療にあたる精神科医、その機関紙『変態心理』(現在では「異常心理」という)の編集者、夏目漱石門下の作家でもあった。
昭和12年(1937)
 2月〜3月 野口利太郎の世話で、海南市藤白に熊弥の静養のための住居を確保する。3月29日に熊弥は岩倉病院を退院して海南市に移る。岩倉病院で看護人であった山本栄吉に看護を頼み、地元の画家青木梅岳が後見する。



2024年5月17日 (金)

京都の水

 京都人が京都の水の素晴らしさを讚える俗言に、次のようなものがあります。
 「鴨川の水で顔を洗うと色が白く綺麗になる」
 「鴨川の水を産湯に使うと美人になる」

錦の水(錦天満宮)

_02

 京都市域の北端から流れる川の多くは南に流れ、賀茂川・高野川に合流して京都盆地に入る、そして、この二つの河川は合流して鴨川となり市中を南に流れています。
 このため、京都盆地の東北部から中央部にかけては、鴨川水系の砂礫が堆積して覆われた扇状地となっており、その範囲は南は九条、西は西大路に達しているという。
 この扇状地の砂礫層は厚く、その表層部を流れる水は伏流して地下水となる。
 地下水は、一般に自然の濾過により水質は良く、水温も一定しているので、古くから飲料水を初めとする用水として井戸を掘り使ってきました。

 古くから京都の人々の生活や文化を支え、都市として発展してきた理由の一つに、広い河川流域の伏流水が豊富な地下水の供給源となった点が挙げられます。
 この豊かな地下水は飲料水だけではなくさまざまな用途に使われてきました。そして京都の地下水は、京都の文化や伝統産業と密接に結びついています。例えば、茶道の三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)では茶の湯に井戸で汲み上げた水が使われ、京友禅の染色工程でも地下水は欠かせません。また、京豆腐や湯葉、京料理、酒造といった食文化、さらには伝統的な祭事においても地下水が深く関わってきたのです。
 京都には古くから、京の三名水、都七名水、洛陽七名水など名水と称されたものが多くあり、市中の多くの町屋でも井戸を備えていました。しかし、今ではその殆どが姿を消してしまいました。

名水「亀の井」(松尾大社)
「日本第一酒造神」と仰がれ、境内に霊亀ノ滝、亀ノ井の名水がある。この水を酒に混ぜると腐らないとも言われ醸造関係者の信仰を集めている。

Photo_20240515161001

 時代は降って明治23年(1890)、第一琵琶湖疏水の完成により水力発電所が稼働して、電灯を灯し、機械を動かす動力に利用されるとともに、日本で最初に路面電車が開通し、舟運、灌漑、防火、庭園用水など多くの目的に利用されました。
 しかし、明治20年代の後半になると第一疏水の流量だけでは増大する電力需要を満たせなくなるだけでなく、地下水に依存していた市民の飲料水が質・量ともに大きな問題となってきました。
 そこで、京都市は都市基盤整備事業として三大事業(第二琵琶湖疏水の建設・上水道の整備・道路拡築及び電気軌道敷設)を集中して実施し短期間で完成しました。第二疏水はその三大事業の中核として明治41年(1908)に着工し、明治45年(1912)に完成しました。
 この水資源を上水道として利用するため、第二疏水と同時に日本初の「急速濾過方式」を採用した蹴上浄水場が完成しました。そして、完成の翌月には、蹴上浄水場から水道水の供給を始めました。
 現在でも琵琶湖疏水は、水道用水、発電用水、灌漑用水、工業用水を供給するなど、都市活動を支える重要な都市基盤施設として、多目的かつ効率的な水利用がされています。ちなみに、その中で水道用水が占める割合は発電に次いで高く,市民の貴重な水道水源となっています。

 それはそうと、京都の水利用に関わることながら、少し話は変わります。
 近・現代になって地下水を水源とする京都の井戸の水位が低下し、あるいは水枯れするという事態が出来しました。
 現在の阪急電鉄京都本線は昭和38年(1963)に、それまでの終点「大宮」から「京都河原町」まで延伸して京都線は全通しました。この大宮〜四条河原町の間の四条通地下工事の影響で、京都盆地の北から南へ流れる地下水脈が断ち切られ、四条通を挟んで北側数町と南側の広範囲で水位を低下させ多くの井戸が涸れてしまいました。
 現在では外国人観光客にも大人気の「錦市場」ですが、ここ錦小路には東魚屋町・中魚屋町・西魚屋町があります。その町名由来は、「魚鳥及び菜果を販ぐ市場にして甚だ盛なり」と『京都坊目誌』にあり、天正期以来、大いに繁栄した市場ですが、これは良質で豊富な地下水が湧いたからなのです。

 さらに、昭和56年(1981)に地下鉄「烏丸線」が、平成9年(1997)には同「東西線」が開通したのですが、その工事によって一帯の地下水脈の水位低下と涸渇に追い打ちをかけるように、すっかり涸れてしまうことになったのです。
 『京町鑑』に「▲手水水町 此町東側中程に祇園会手水井有 毎年六月七日より十四日迄此井をひらく 水至て清冷也 常には柵をゆひ汲ことあたはず 是いにしへの祇園御旅所の跡也」とあります。祇園会の神事で使われたこの「至って凄烈」な井水もまた、地下鉄工事による一帯の地下水脈変化ですっかり涸れてしまい、今では榊と御幣を付けた注連縄が張られた石の井桁が残るのみです。
 * ちなみに、水資源や自然環境への懸念から、静岡県知事が工事ストップをかけていたリニア中央新幹線、これは品川と名古屋間の8割以上をトンネルが占めるそうで、やはり工事の影響で井戸の水涸れが相次ぎ、田んぼの水張りができない恐れもあるという。このため工事の遅れから2027年開業を断念したと言うニュースがあったばかりです。

 なお、京都の地下水や井戸、京都盆地の巨大な自然の地下ダムなどについて、当ブログの過去記事(2020年10月30日)「京都盆地の地下水』がありますので、ご覧いただければ幸いです。




2024年3月22日 (金)

看板いろいろ その43

クラフトビール ー西陣麦酒ー

Photo_20240320143301

 旅行で行った土地のお土産として、クラフトビールを贈ったり頂いたりすることは珍しくありません。
 クラフトビールというのは、小規模の醸造所で製造するビールです。
 かつての酒税法では、ビールの製造は年間に2,000キロリットル以上を製造しなければならなかったのです。そのため、アサヒビール、キリンビール、サントリービール、サッポロビール、オリオンビールといった大手ビール会社だけが製造していました。
 ところが、平成 6年(1994)の酒税法改正で規制が緩和されて、ビールの製造免許をとるのに必要な最低製造量がそれまでの年間2,000KLから清酒と同じ60KLに引き下げられました。 この酒税法改正によって、大手メーカーにしか許されていなかったビールの製造が、各地の中小醸造所でも可能になり、日本全国で個性豊かなビールが誕生することになったのです。
 こうして、その土地の水・原料・製法の違いから、様々な風味のビールと出会うことができるようになったのです。
 このように、美味しくて特徴を出したクラフトビールが飲めるようになり、料理雑誌でも取り上げられるようになったのは2010年台になってのことだそうで、大手ビール会社も2010年代半ば頃になるとクラフトビールの製造を始めたのです。

 さて、西陣麦酒です。
 西陣麦酒はクラフトビールの醸造所で、上京区大宮通今出川下る薬師町234 に所在します。
 プロジェクト「西陣麦酒計画」のもと、自閉症の人たちとともに西陣麦酒を醸造・販売しています。
 西陣麦酒京町家タップルームを設けていて、西陣麦酒の出来立て生ビールを楽しむことができるようになっています。

 ちなみに、京都市には他にもいくつかの小規模ビール醸造所があります。
  京都醸造  南区西九条高畠町25-1
  家守堂(やもりどう)  伏見区中油掛町108
  京都町家麦酒醸造所  中京区堺町通二条上ル亀屋町173
 他にも、
  スプリングバレーブルワリー京都  中京区富小路通錦小路上る高宮町587-2
  黄 桜  伏見区塩屋町223番地(クラフトビールでなく地ビールを自称している)



2024年2月 9日 (金)

疫神社(蘇民将来社)

Photo_20240206152301

 疫神社は祇園祭で有名な八坂神社の境内摂社の一つで、西楼門の東(本殿の西側)にあります。蘇民将来を祀っていて、疫病を祓う神として崇められています。
 素戔嗚尊(スサノオノミコト)が南海に旅行をされたとき、日が暮れたので道のほとりで一夜の宿を求められた。そうすると蘇民将来(ソミンショウライ)と巨旦将来(コタンショウライ)という兄弟がいて、裕福であった弟の巨旦将来はこの願いを拒絶したが、貧しい兄の蘇民将来は快く尊を迎え入れ粟飯を供してもてなした。
 その後8年を過ぎて素戔嗚尊が8人の御子とともにまた蘇民の家に行き着いたとき、前に一夜の宿を借りた恩に報いようと蘇民に茅の輪を作るように仰られた。そして、近いうちに悪疫が流行るだろうが、その時は蘇民将来の子孫也と言って茅の輪を掛けるとこの災難を逃れることができるだろうと仰った。
 果たして悪疫が流行したとき、尊から忘れられない恨みに思われていた巨旦将来の一家は全滅したが、片や尊を喜ばせた蘇民将来の一家はその恩義を受けて無事であったという。

 疫神社の例祭は1月19日で、7月31日には夏越祭が行われるが社前の鳥居に茅の輪が掛けられ、これを潜るものは悪疫から免れるといい、参詣者には粟餅が授与される。
 疫神社の本社である八坂神社は近代以前は祇園感神院また祇園社と称しましたが、明治維新の神仏分離で今の社名となりました。祭神は素戔嗚尊で、分離令以前の祭神牛頭天王とは同体とされているようです。




2024年1月12日 (金)

珍しいマンホールの蓋 その1

 私たちが道路上で見かけるマンホール蓋のほとんどは、下水を流すために地中を掘った管渠の蓋ですが、ときには電線・電話線・水道管・ガス管などを収めた共同溝に保守点検のための入り口の蓋があり、また消火栓の蓋も見かけます。
 下水溝のマンホール蓋は、自治体ごとに趣向を凝らしたデザインのものが増えてきているので、町歩きで面白いものを探し当てて眺めたり写真を撮ったりするのも楽しいものです。なかには自治体の発行するマンホールカードや蓋の実物を集めているマニアックな人もいてマンホーラーとも呼ばれているようです。

 この記事の本筋からは脱線しますが、・・・

Photo_20240110142801

 かつて山口県湯田温泉(詩人中原中也の生地)の山頭火通りで上のようなマンホール蓋に遭遇しました。
 俳人の種田山頭火が湯田温泉(山口市)の千人風呂に入浴した折に詠んだ俳句で、「其中日記」の昭和9年5月26日のくだりに、「千人風呂」という前書きとともに次の三句を記しています。

 ま昼ひろくて私ひとりにあふれる湯
 ぞんぶんに湧いてあふれる湯をぞんぶんに
 ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯
  (父親に連れられた男児と女児が温泉につかっている図でしょうか)


「私」の刻印がある蓋

Photo_20240110143501

 さて、この記事の本筋に話を戻します。
 このレア?なマンホールの蓋は、下京区若宮通松原上ル薮下町の側溝にありました。(微妙な違いはあるものの、仏光寺通新町西入、綾小路通富小路東入でも目撃)
 マンホール蓋は道端の下水側溝に敷設された公的なものですが、この蓋の場合は「私」とあって、いかにも私的なものといった雰囲気が濃厚ですね。

 そこでネットで、「京都市ホームページ」から「京都市上下水道局」のサイトへと辿るとページ番号116479に次のような記載がありました。
 
Q5 下水道使用料は,どのようにして決められていますか?
A5 下水道使用料は,水道使用量を汚水排出量とみなして計算し,お支払いいただいています。
 ただし,水道水以外の水を公共下水道に流される場合は,排出量に応じた下水道使用料をお支払いいただいています。

 ・・・とありました。つまり、写真のマンホール蓋の「水」は、使用した水道水以外の水を下水側溝に排水していることを表しているようで、次の規定が記載されていました。

『水道水以外の水(地下水等)を使用されているお客さまへ』
 以下の場合は,京都市公共下水道事業条例第10条の定めにより、届出をしていただき、排出量に応じた下水道使用料をお支払いいただく必要があります。
※下水道使用料の支払いを免れようとした場合等には、過料が科せられることがあります。
 
・井戸をご使用されているお客さまで、井戸水を公共下水道に流される場合(手動式の井戸を除く)
・マンション、ビル等の建設工事により湧水が発生し、この湧水を公共下水道に流される場合
・マンション、ビル等を建設後、地下の湧水槽に溜まった湧水を公共下水道に流される場合
・雨水、山の湧き水、河川の水等、水道水以外の水を、利用目的で貯留し、トイレ等に利用することで公共下水道に流される場合



2023年12月 1日 (金)

看板いろいろ その42

井六商店 
 下京区不明門通七条下ル
 茶葉販売
 看板の文字は明治時代から大正時代にかけて活躍した書家の小川寉斎によるとのこと。
 創業は文政元年(1818)とか

Photo_20231128115501

 ところで、ちょっと脱線・・・「お茶」絡みの話ですから、丸っ切り脱線というわけではありません。
 前回(23'11.17)の記事『もみじ(紅葉・黄葉)』を書くため広辞苑を眺めていると、次のような面白い記述に目が止まりました。

 もみじ【紅葉・黄葉】という語の意味についての説明の中に、次のような記述がありました。
 『茶を濃く味よく立てること。「紅葉(こうよう)」を「濃う好う」にかけたしゃれ。

 その出典として『醒睡笑』を上げて「お茶を ー にたてよ。… ただこうようにといふ事なり」を引いています。
お茶を、紅葉にいれる ⇨ 濃う好ういれる ⇨ 濃く味よくいれる、と洒落て言っているのですね。
 ちなみに、『醒睡笑』がどのような書物で、その著者がどんな人かを『日本大百科全書(ニッポニカ)』に当たってみました。

 「噺本(笑話本)。浄土宗の説教僧であった安楽庵策伝が、京都所司代板倉重宗の懇請によって編集したもの。1623年(元和9)に完成し、28年(寛永5)3月17日に重宗に進呈した。写本で伝わるもの(広本)には1000余の話を収め、それぞれ42項に分けられている。
 内容は、策伝が見聞した各地の逸話、僧界の内情、戦国武将の行状、民間説話、風俗や書物から得た説話を材料にした笑話が主であるが、経典の解釈や教訓・啓蒙的な咄も多い。
 咄の末尾に落ちをつける「落し噺」の型をもつものがほとんどであり、策伝自身がこれらを説教の高座で実演したために安楽庵策伝は後世「落語の祖」とたたえられた。
 この書は、説教僧としての策伝が、説教話材のメモを集成したものである。したがって、噺本(笑話本)ではあるが、説教本(仏書)の性格を持っている。」



より以前の記事一覧